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2012年1月に作成された記事

2012年1月28日 (土)

アイフォーン雑感

先ずは旧聞から始めます。昨年12月1日の日経ビジネス誌にアップル社のアイフォーンとアイパッドがNTTドコモからも発売されるとの推測記事が掲載されました。アイフォーンはソフトバンクとauKDDI)の2社から発売されていますが、今年にはそれが3社へと拡大するかもしれないと言うのです。大手携帯電話会社がすべて同じ製品で競争することは隠れアップル・ファンとして嬉(うれ)しいことです。NTTドコモは合意した事実はないと直ちにその報道内容を否定しましたが、情報管理が徹底するアップル社のこれまでの対応をみると、NTTドコモのコメントを額面通りに受け取ることは出来ません。

もし同じ端末を3社が提供するようになると、これまでの携帯電話市場とは異なる景色が見えてくるのではないかと思います。従来の携帯電話(フィーチャーフォン)では端末よりも各社が提供するプラットフォームサービスが競争の主な差別化要因(主戦場)でした。しかしスマートフォンでは携帯電話会社以外が提供するサービスが増えますから、携帯電話会社が提供するサービスによる利用者の囲い込みは難しくなるでしょう。

そして主な競争要因は料金体系(安さ)と回線の使いやすさに移ると思われます。料金は分かり易い差別化要因ですが、都会における回線の利用しやすさ(つながりやすさ・データ速度・安定性)は携帯電話会社が喧伝(けんでん)するほどの差を実感することはありません。その違いがはっきりするのは都市部や主要道路から離れて山間部に入った時です。携帯電話会社によってはまったく通信出来ないことがしばしばあります。

山道ドライブや山奥の温泉を訪ねることが好きな私にとっては決定的な違いですから、現在はソフトバンクのアイフォーンとNTTドコモのフィーチャーフォンを併用しているのです。もしNTTドコモでアイフォーンを利用できるようになれば、今のように2台使いする理由はなくなります。

また最大通信速度も通信方式の違いで3社に違いがあります。アイフォーン(iPhone 4S)ではソフトバンク(HSDPA方式)が下り最大14.4MbpsauCDMA EV-DO Rev. A方式)は同3.1Mbpsと理論値に大差があります。細かいことですがKDDIのアイフォーンを利用すると通話とデータサービスが同時に利用できないという制約があります。

新しい通信方式による高速化も進展しています。NTTドコモは昨年12月から下りの最大速度が37.5MbpsLTEXiサービス、近い将来100Mbps)を都市部から順次展開して、他の2社も追従する計画があるようです。そしてauWiMAX(下り最大40Mbps)を、ソフトバンクも2つの電波を受信するDC-HSDPA方式を採用したULTRA SPEED(同42Mbps)も登場させています。当分は高速化競争が続きそうですし、実環境での速度(スループット)は最大速度(理論値)を大きく下回ることが多いので、数字だけを鵜呑(うの)みにするのは危険です。

アイフォーンとNTTに関連する話題をもう一件紹介します。NTT東西(FLETS光)とソフトバンク(アイフォーン)の提携話が幻に終わったことです。伸び悩むFLETS光サービス(スポットサービスを含む)をアイフォーン人気で回線需要が増大するソフトバンクが利用(補完関係を活用)して新規顧客を獲得しようとする販売促進計画でしたが、ソフトバンクがNTT東西を光回線の貸出方法を巡って訴えたことで、頓挫(とんざ)した模様であると報じられました。上記の両サービスを利用する私には束(つか)の間の朗報(ろうほう)に終わったようです。
 
                        ☆
 

2012_01220032 さて本題です。アイフォーンの勢いは衰(おとる)えるどころか、昨年秋にアイフォーン4Sが発売されたことで、米国では多勢であるはずのアンドロイドOSに迫っているようです。米国の市場調査会社Nielsenが1月18日に発表した米国スマートフォン市場の調査結果によると、2011年10月にはアンドロイドが61.6%、アイフォーンが25.1%、ブラックベリーが7.7%でしたが、アイフォーン4Sが発売された11月からシェアが大きく変動し始めて、12月には各々が46.9%、44.5%、4.5%となり、アイフォーン(iOS)がアンドロイドに肉薄(にくはく)したのです。

2012_01220036これはアイフォーン4Sの人気が高いことを示しています。とは言っても、2011年末時点における全スマートフォンにおけるiOSのシェアは30%、対するアンドロイドのシェアは46.3%とまだ大きな差があり、2012年のシェア争いが注目されます。そしてご多分に漏れずわが家のアイフォーンもこれまでの3GSから今月中旬に4Sへ変わりました。

2012_01220044ラーメンが大好きな私は「白戸軒ラーメン」や「おとうさんラーメン箸」がもらえるというCMに惹(ひ)かれたのです。3年前アイフォーン3Gを購入した時には「しゃべるお父さん犬」のストラップをもらいました。これまで黒色の筐体(GSは裏側が白色)でしたから、今回は白色の筐体(きょうたい)を選びました。

2012_01220055 アイフォーン3Gを購入した家電量販店に出向くと幸運にも在庫がありました。店員が取り出して見せてくれたアイフォーン4Sの白バージョンは期待以上の質感があります。それを眺(なが)めながら、店員から細かい説明を上の空で聞いているうちに、ラーメンと箸(はし)のことはすっかり失念してしまいました。今回の機種変更のポイントはFONWiFiモデムが無償で付いてくることでした。以前からFONのサービスに興味を持っていましたが、無償である理由は携帯電話事業者(この場合はソフトバンク)のインターネットトラフィック急増対策の一環です。

2012_01220049 具体的にはWiFiホットスポットやフェムトセル(宅内小型基地局)を経由してスマートフォンのトラフィックを固定回線に迂回させることで携帯電話網を流れるのトラフィック量を抑制しようとするものです。それを承知の上でFONを利用することにしたのは、3G回線契約が無くなったアイフォーン3GSWiFi経由でインターネットに接続するためです。

2012_01220040 WiFiに加えて、これまで使用することを控(ひか)えていたスカイプ(Skype)のアプリを2台のアイフォーンに設定したことで相互に通話できるようになりました。しかし使い勝手は余り良くないようです。使い方に慣れていないためかもしれませんが・・。追追(おいおい)使い方を確認したいと思います。

2012_01220037 これも私の拘(こだわ)りですが、ディスプレイ部用保護フィルムにはELECOM製の指紋防止フィルム(ノングレア、防眩機能付き)を選びました。手触りも滑(なめ)らかです。これまでの3Gと3GSには光沢のある保護フィルムを貼り付けたため、指紋が付きやすいことと、グレア(光の反射による眩しさ)や映り込みが生じる欠点がありました。

2012_01220046 後日談ですが、黒色のアイフォーン4を使うチビスケ君とチビエちゃんのお母さんはアイフォーン4S(白色)の最上部にもうひとつ穴があることを発見しました。調べてみると、これは近接センサー用の穴(アイフォーン4にもある)で、白色の筐体では黒く塗られているために目立ったのです。アイフォーン4では白モデルの発売が遅れたのは塗装の質感を改善するためだとも言われました。何ら根拠は有りませんが、この穴の存在も少しは関係していたのかも知れません。

そしてちょっと気になったことは、アイフォーン4Sで環境光センサーが近接センサーと分離されて左部(近接センサーの中心から4.99mm)に移されたことです。しかし白モデルでも近接センサーのようにその存在を確認できません。アップルがケースメーカー向けに提供した「ケースデザインと開発のためのリソース」カバーは最低2mm離すことが推奨されています。今回貼り付けた半透明の保護フィルム(アイフォーン4/S用)でもこの環境光センサー部に掛かると何か悪影響があるのでしょうか。

下図はその情報に添付された「iPhone 4S」の近接センサー(PROXIMITY SENSOR)と環境光センサー(ALS SENSOR)付近の寸法図です。
 
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2012年1月24日 (火)

本郷散策 本郷通り界隈の歴史

次の日も本郷三丁目駅を出て本郷通り(国道17号)を歩きました。千代田区神田錦町と北区滝野川を結ぶ本郷通りは本郷を通ることで付けられた名前で、江戸時代は日光街道(現在の国道4号)の脇街道でした。現在は東京大学農学部前の本郷弥生町交差点で中山道(国道17号)と別れて都道455号となり、滝野川へと向かっています。弥生町2丁目にある「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑を訪れたことがあります。

駅から本郷通に出た場所に「文の京(ふみのみやこ)文京区観光案内図」が立っていました。文の京とは文教の府を意味する言葉のようで、1947年(昭和22年)に本郷区と小石川区が合併して文京区が出来た時に命名の背景になったそうです。その案内図の左下に「樋口一葉案内図」を見つけました。
 
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本郷通りと春日通りが交差する本郷三丁目交差点です。春日通りの名は勝竜寺(しょうりゅうじ)城址小石川の記事に書いたように春日局(かすがのつぼね)に由来します。
 
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「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」の看板には樋口一葉の作品「ゆく雲」に登場する御梵刹(おんてら)が法信寺(ほうしんじ)、濡れ仏が本堂横に安置されている観音様(観世音菩薩)であり、境内のすぐ東隣には一葉の家があったと説明されています。
 
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『旧本郷の町名案内には本郷が古く湯島の一部(湯島郷の本郷)であったが湯島を省略して本郷と呼ばれた』と説明されています。ちなみに本郷は郷(律令制度における地方政治の最下位の単位)の中心地(あるいは役所が存在した場所)で、本郷の地名は全国に数十箇所も存在するようです。
 
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東大正門前付近から本郷弥生交差点方面を望みました。道路標識(案内標識)がある当たりがその交差点でしょう。
 
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良寛禅師の言葉「天上大風」を見つけました。横にある説明を読むと、昭和6年から昭和20年までの15年間に戦没した約2500人(明らかになったのは約1700人)の東京大学同窓生を追悼する石碑でした。平成12年に東京大学医学部卒業生有志が正門前(横断歩道の反対側)に立てた石碑です。
 
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ちなみに「天上大風」は子供たちから凧(たこ)に文字を書いて欲しいとせがまれた良寛禅師が書いた言葉で、『タコが空高く揚がれとの気持ちを表わす』『下は風がないが天上は大風だから注意が必要』あるいは『天空に仏様の慈悲心が満ちている』の意とも言われますが、その意味は定かではないようです。私は今の世の中とこの言葉を重ね合わせました。

国際シンポジウム(2日目)に参加した後、本郷三丁目駅に向かって歩くと、東京大学の屏(へい)の一部に海鼠壁(なまこかべ)が残っていることを見つけました。
 
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本郷三丁目交差点近くまで戻った所で「本郷薬師」を見掛けました。提灯(ちょうちん)が賑(にぎ)やかです。
 
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説明看板には寛文10年(1670年)に建立されて、この薬師様に祈願すると当時流行していた病気が治(なお)ったと伝えられ、それ以来人々に深く信仰されているそうです。現在のお堂は昭和53年に新築されたものでした。
 
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右奥に見えた「十一面観世音菩薩」の案内に導かられて右手の路地に入りました。
 
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この十一面観世音菩薩は、先ほどの本郷薬師とともに、この地にあった真光寺境内に置かれていたそうです。ちなみに真光寺は戦災で焼けたため、この2つを残して、世田谷区給田(きゅうでん)に移転したと説明されていました。
 
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本郷薬師のさらに奥に神社のようなものが見えましたのでそちらへ歩いてみました。見送稲荷大明神と書かれた幟(のぼり)が並んでいます。近くにあった「見送り坂」「見返り坂」(罪人を江戸から追放する場所)と関係がありそうです。
 
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鳥居を潜って境内に入るとそこは桜木神社でした。「合格さくら咲く櫻木天神」の文字が文京区の神社らしいのですが、北野天満宮から江戸城内に勧請(かんじょう)されて、湯島の旧桜の馬場(現在の東京医科歯科大学付近)を経て、現在の地(真光寺跡地)に遷座(せんざ)されたことによるのでしょう。ちなみに菅原道真(すがわらみちざね)を祀(まつ)る神社です。
 
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境内で飼われている白い鳥は烏骨鶏(うこっけい)のようです。
 
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本郷三丁目交差点の角にあるビルのシャッターに「かねやす」の大きな文字が描かれています。昨日もシャッターが閉じていましたが・・。
 
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江戸時代の享保年間(1716-1736年)に兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)という口中医(現在の歯科医)が乳香散という歯磨き粉を売り出して評判を呼んだ店です。その立派な土蔵を江戸とその郊外の境目と大岡越前守忠相(ただすけ)が決めたことと、店名が平仮名書きである由来が大岡裁きによるものであると説明されていました。
 
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丸ノ内線本郷三丁目駅は地下鉄の駅としては明るい雰囲気が印象的です。
 
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ここが2日に亘(わた)る本郷散策の終点になりました。(終)

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2012年1月23日 (月)

本郷散策 激安牛丼と東京大学

先週の月曜日に所用で文京区本郷へ出掛けました。地下鉄丸ノ内線を本郷三丁目駅で下車して向かった先は本郷通り沿いにある牛丼の松屋(本郷三丁目店)です。午後からの用件に備えてのこと(腹が減っては戦が出来ぬ)ですが、この日(16日)まで「牛めし」の期日限定サービスが行われていたことが最大の理由です。ついでに言えば、私の好きな牛鍋丼(つゆだく)を提供する吉野家や牛丼店最大手のすき家の店舗がこの界隈(かいわい)には何故(なぜ)か無いこともありました。
 
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通常は320円の「牛めし」(並)が何と240円と80円引き、280円の「牛めし」(小盛)に至ってはなんと「200円ぽっきり」なのです。並サイズを食べるとお腹が一杯になり過ぎて午後に差し支えそうですから迷わず後者を選び券売機でチケットを買いました。「牛めし」に味噌汁が無料で付くのは松屋だけのサービスです。さっそく食べてみると甘辛(あまから)い吉野家の牛丼とは違いますが、豪州産牛肉の量がやや多めであることとあっさりした味付けは好印象で、味噌汁も期待以上の美味しさでした。
 
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本郷三丁目交差点を渡って右側の歩道を約300m北上すると赤門が見えて来ました。加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍徳川家斉(いえなり)の息女溶姫(やすひめ、ようひめ)のために建てられた朱塗りの御守殿門(国の重要文化財)であると説明されています。御守殿(ごしゅでん)とは三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘および住まいの敬称のようです。ちなみに斉泰は正二位でした。
 
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赤門を入った本郷キャンパスは、左手が教育学部で、右手が経済学研究科、そして正面は医学部本館です。
 
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左手に折れて史料編纂所(へんさんじょ)と福武ホールの間を進むと奥に法学部の建物が見えます。
 
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史料編纂所の建物に沿って右折すると総合図書館の前に出ました。近々改修工事が行われて蔵書を安全に収容・保存するために大型の地下書庫が作られるそうです。
 
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この噴水とそれを挟(はさ)むように立つ2本の楠木(くすのき)も影響を受けるかもしれません。
 
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左手の法学部の建物に沿って進むと安田講堂の右手に出ました。午後1時から始まる国際シンポジウム「情報爆発を越えて」の開始時間には何とか間に合いました。
 
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安田講堂の正式名称は東京大学大講堂で、この通称は寄付者の安田善次郎(安田財閥創始者)に感謝して付けられたそうです。1925年(大正14年)に竣工した赤レンガ造りで、1968年(昭和43年)-1969年の東大紛争では全共闘(ぜんきょうとう)が占拠して、機動隊との間で投石・火炎瓶(かえんびん)や放水などを使った攻防がテレビ中継されたことを思い出します。荒廃した安田講堂は長らく未使用のまま放置されていましたが改修工事が行われて1990年頃には現在の形になったそうです。

大講堂の内部は半円形のドームになっています。
 
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帆立貝のような意匠の天井から下がる大きなシャンデリアが印象的です。
 
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休憩時間に三四郎池へ歩いて見ました。加賀藩の江戸屋敷内に作られたこの園地は育徳園と命名され、池は「心」の形をしていることから「育徳園心字池」と名付けられましたが、夏目漱石の小説「三四郎」が有名になってからは「三四郎池」と呼ばれるようになったことが説明されていました。
 
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どんより曇った冬の日には三四郎池も寒々としています。
 
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法文2号館内にある通路は法文1号館から工学部のエリアへ抜けられるようです。
 
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これは正面から見た安田講堂です。しばしシンポジウムに戻りました。
 
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予定していた講演を聴き終えて安田講堂を出ると正門方向が見通せました。
 
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ふと目に止まったマンホールには「東京帝国大学」と表示されています。真ん中の「電」は電気(あるいは電気通信)施設用でしょうか?
 
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「暗」の表示もありました。暗渠(あんきょ)を意味すると思われます。
 
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「帝大下水」は意味が明快です。
 
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そのまま正門を出て帰宅しました。
 
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東京大学に関する余談です。つい最近、東京大学の入学時期を春から秋に変更することが検討されていると報道されました。その他の旧帝国大学や私学の早慶など計11大学との意見交換を始めるとの情報も続きました。社会システム全体との整合性や春の風物詩が失われるなどの否定的な意見もあるようですが、硬直化した日本社会(日本人)が昔のように物事を柔軟に考える一助となると思います。

明日は本郷通り界隈(かいわい))を紹介します。(続く)

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2012年1月17日 (火)

多摩市を探訪する おふろの王様多摩百草店

塚原古墳群から都道20号(野猿街道)へ戻って、西方へ約500m走った中和田交差点を右折し、Y字路を左手に進んで帝京大学正門前を通過、坂を下りきった場所(中和田交差点から約700m)に「おふろの王様多摩百草店」がありました。ちなみに、野猿街道の名は同街道上にある八王子市の野猿峠(標高160m)に由来するそうです。

小振りの建物に似つかわしくないほど大きな駐車場(地上および地下)があるのは立地条件によるものでしょう。バス路線では京王バスの「帝京大学構内」行きが多摩センター駅・高幡不動駅・聖蹟桜ヶ丘駅からかなりの本数が終日出ているようです。
 
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エントランスはスーパー銭湯に共通する平凡なものですが、入口と出口が分かれているのはセントラルスポーツが経営するTHE SPA成城西新井)と同じです。
 
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平日料金は700円(土日・休は850円)。hpに記載されていませんがJAF会員は100円引き(4月1日以降は会員と同じ50円引きになる予定)の600円でした。
 
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ちょうど昼食に良い時間でしたので、まず食事処「王寿庵」へ向かいました。予想したよりも広いスペース(180席)は完全分煙制になっているのが嬉(うれ)しいです。
 
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十割そばが売りのようですが、オニギリを食べながら古墳巡りをした私はボリュームの少なそうな「もちもちうどんの釜玉」(450円)、同行者は「蒸鶏とベーコンの冷製イタリアンパスタ」(600円)を注文しました。先に配膳されたうどんは想像した以上のボリュームがあり、同行者にお裾分(すそわ)けして食べ切りました。やや腰が弱いのですが、もちもち感があって、出汁(だし)・生玉子との相性(あいしょう)も良いものでした。
 
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次いでパスタが登場しました。大きな器に大量のパスタと鶏肉・野菜サラダが盛られているのを見た同行者は「別にサラダを頼まなくて良かった」と言いながら食べ始めました。「美味しいから食べてみたら」とその器を私の前に差し出します。薄い味付けは私好みで、確かに美味しいので、ついつい食べ進んでしまいました。同行者の作戦にまんまと嵌(はま)ったようです。
 
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昼食後は2階の大浴場へ向かいました。
 
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脱衣場はレイアウトがゆったりとしていてロッカーも大きめで手狭感はありません。
 
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内湯は広くありませんが上手くレイアウトされているので脱衣場と同様に手狭さは感じません。左からリラクゼーションバスとジェットバス、白湯の大浴槽、水風呂、キングスサウナ(高温)の順で並んでいます。左手前にある「湯ったり腰掛」(イスに湯が流れ落ちる)は私好みではありませんでした。

露天風呂エリアには岩風呂(高濃度炭酸泉の人工温泉)、岩壺湯(岩風呂の表現が相応しい)、石風呂絹の湯、寝ころび湯、湯座敷、漢方塩蒸風呂(かんぽうしおむしぶろ)、そして休憩用の寝ころび処が並んでいます。利用者はほとんど大人で私語する人もなく、やや温めの湯を静かに楽しみました。

寝ころび湯は10cmほど湯が張られた浴槽で、もうひとつの湯座敷は内湯の「湯ったり腰掛」を平らにしたところに湯がゆっくり流れる仕組みになっています。両方とも良いのですが、あえて言えば後者が私好みでした。雲ひとつない青空を眺(なが)めながら、冷たい風が胸と腹を冷やす一方、背中と臀部(でんぶ)は湯が暖めてくれる感触がよいのです。「よくぞ男に生まれけり」と心の中で呟(つぶや)いて、午前中に巡(めぐ)った古墳群を思い出しながら古代人のことを夢想しました。多摩市には自然湧出(ゆうしゅつ)温泉はありませんから、古代人は川で沐浴(もくよく)をしたのだろうか・・・と。

お風呂の写真は紹介できませんので、多摩百草店のhpを参照してください。

今回は近場へのドライブ旅でしたから、多摩丘陵をのんびり楽しみ、まだ明るいうちに帰宅することが出来ました。

<同行者のコメント> 天然温泉ではないことを聞いていましたから、もっぱら人工温泉の岩風呂に入っていました。お風呂のあとに飲んだ黒酢とコーヒー牛乳がとてもおいしかったです。

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2012年1月16日 (月)

多摩市を探訪する 和田古墳群

桜ヶ丘公園の飛び地である「ゆうひの丘」沿いに細々と伸びる記念館通りを抜けて都道41号に入り、行幸橋(みゆきばし)を渡って都道18号(府中町田線、鎌倉街道)を南下、小田急多摩センター駅入口交差点を左折しました。次の目的地は多摩中央公園内にあるパルテノン多摩(正式名称:多摩市立複合文化施設)です。
 
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多摩中央公園の有料駐車場に車を停めて向かったのはパルテノン多摩2階にある歴史ミュージアム。ここに多摩市内で発見された稲荷塚古墳(いなりづかこふん)および塚原古墳群のパネルによる紹介の他に稲荷塚古墳の石室の復元模型や切り取った石室の床の一部および塚原古墳群からの出土品などが展示されていると聞いたのです。
 
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多摩市と多摩ニュータウンの歴史(変遷)を分かり易く説明する歴史ミュージアムでは期待した通りの展示内容でしたが館内は写真撮影が出来ません。帰りがけに「撮影については係員へ」と表示されたパネルを見つけて、早速(さっそく)受付の女性にその意味を訊(たず)ねると、「目的は?」「どの展示ですか?」と聞かれました。「古墳の写真を個人のブログに掲載したい」と説明すると何処(どこ)かへ電話で問い合わせてくれて、かなり時間が掛かりましたが、歴史ミュージアムの所蔵品以外は撮影しないとの条件付きで撮影許可が下りました。撮影した5枚の写真を以下に掲載します。

稲荷塚古墳石室の復元模型
 
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和田・百草古墳群と稲荷塚古墳の説明
 
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稲荷塚古墳石室の説明
 
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塚原古墳群の発掘調査時の写真
 
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稲荷塚古墳を目指して多摩市百草へ向かいました。百草(もぐさ)と言えば日野市の百草園が有名ですが、多摩市にも同じ地名があったのです。都道158号を少し戻って、愛宕交番前を左折、多摩和田郵便局の角を都営和田団地に沿って左折、恋路原(こうじっぱら)通りに入れば、目的地はすぐ近くです。稲荷塚古墳は多摩川支流である大栗川(おおくりがわ)右岸の丘陵部にある「和田古墳群」のひとつで、現在は恋路稲荷(こうじいなり)神社となっているそうです。
 
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本題から少し脱線します。後で調べたことですが「恋路」の名称に纏(まつ)わるロマンチックな伝説がありました。鎌倉時代にいた遊女の恋路がある武士と恋仲になりますが、結ばれることはなく、近くの池で入水自殺をしたことを地元の人が哀(あわ)れに思い「恋路」の名を地名などに残したのだそうです。
 
神社に入る路地で水道工事が行われていて、その入口で通行止めになっていました。手前の路地に迂回(うかい)しましたが、反対側も同様に通行止めの立看板が立っています。それではと、神社の北側の道へとさらに迂回、狭い道で駐車スペースが限られるため、同行者を車に残して歩くことにしました。幸いなことに、こちら側にも神社への入り口があり、北隣は公園になっていました。
 
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「都史跡 稲荷塚古墳」の石柱が北を向いて立っていますから、こちらの草が生えた道が参道だったのかもしれません。
 
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『東日本では数少ない八角墳で、築造時期は7世紀前半(古墳時代後期)と推測される。全長は38メートルで周囲には幅2メートルの周溝がある。墳丘の全長は34メートルで2段構造になっている。朝鮮半島の影響を受けた高度な古墳とみられます。そして石室は平成10年頃に埋め戻して保存された』と説明されています。
 
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通行止めになっていた路地側から見た稲荷塚古墳(恋路稲荷神社)です。
 
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煉瓦(れんが)タイルで覆われた部分の地下に石室がある様子がタイルの色で表示されていました。
 
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臼井塚古墳は稲荷塚古墳(恋路稲荷神社)の西方約50m(臼井家の宅地内)にあるとのことですが、墳丘は残っておらず横穴式石室の下部が地下に埋まっているだけのようで、南側の路地からはなにも確認できません。
 
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築造時期は稲荷塚古墳と同じ7世紀前半で、石室は稲荷塚古墳よりも小さいものの、構造は同じなのだそうです。(右後方に見える木立が恋路稲荷神社)
 
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古墳とは関係ありませんが石仏を見つけました。
 
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恋路原通りにも石仏を祀(まつ)ったお堂がありました。信心深い地域なのでしょう。
 
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次に向かったのは庚申塚古墳です。恋路原通りから後原(うしろっぱら)通りに入って300mほど北進した右手の白い鉄フェンスで囲まれた場所(アイメゾン和田の隣り)でした。
 
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墳丘(ふんきゅう)と思われる場所に地蔵堂と古墳名が書かれた木柱がありました。
 
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これは地蔵堂の裏手から見た様子で、円墳(えんぷん)らしいことが分かります。  
 
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3番目に向かった塚原古墳群(つかっぱらこふんぐん)は都道20号(野猿街道)に一旦(いったん)出て、Uターンするように南の路地へ入った東寺方にあるようです。送電線の鉄塔を目印に探しましたが、真新しい住宅が立ち並んでいて、それらしきものは確認できませんので、駐車場脇に車を停めて歩いて探すことにしました。
 
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塚原古墳群はすっかり住宅地になってしまったのかと諦(あきら)めかけた時に、立派な御宅の庭に築山を見つけました。古墳らしい形をしていますから、これが塚原古墳群で唯一残る1号墳のようです。
 
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古墳時代後期(6世紀中頃から7世紀中頃)の古墳群で、横穴式石室による円墳と推測されるそうです。現在までに確認されている古墳は10基あったそうですが、そのうち現存する墳丘はこれだけのようです。
 
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<同行者のコメント> 狭い路地では私が駐車係として大活躍しました。(続く)

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2012年1月15日 (日)

多摩市を探訪する 桜ヶ丘公園

多摩市にある都立桜ヶ丘公園を訪れました。川崎街道(都道41号)の蓮光寺(れんこうじ)坂上交差点を左折して、都道137号の変則的な聖蹟(せいせき)記念館交差点を直進して狭い道に入り、案内標識に従って「明治天皇御野立所跡の碑」の先にある駐車場(午前9:00~、無料)に車を停めました。
 
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駐車場脇に展望スペースのような場所があります。日野市・立川市・国立市、後方には御岳山(みたけさん、標高929m)や大岳山(おおたけさん、標高1266m、立木の右後方の尖がった頂)、そして雲取山(標高2017m、大岳山の右遠く)など、奥多摩の山並みが快晴の青空に光る様子が望めました。
 
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車止めを過ぎて遊歩道「記念館の道」を歩くと公園内に何故か民家が建っています。
 
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右手に明治天皇御製碑が立っています。歌碑に刻(きざ)まれた文字は朝日に照らされて読みにくいのですが、左手の説明看板には「春深き山の林にきこゆなり今日を待ちけむ鶯の声」と説明されていました。明治天皇がこの連光寺や多摩川を4度も訪れたことで「聖蹟桜ヶ丘」と呼ばれるようになりました。
 
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日陰で霜柱を見つけました。緩(ゆる)やかに曲がりながら伸びる尾根道の両側には葉を落とした桜の大木(古木)とモミジ(カエデ)が続きます。春と秋にはさぞ美しい景色が展開されるのでしょう。
 
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黄土色をした丸い建物(近代式鉄筋コンクリート造り)は旧聖蹟記念館です。開館時間の午前10時にはまだ30分ほどありますから園内をさらに散策することにしました。
 
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右手へ下る道は「あざみの道」で、左手には「おもいでの道」が緩(ゆる)やかに下って行きます。
 
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その先で急に開けた場所は「丘の上広場」でした。左手には東屋(あずまや)と桜の大木が並んでいます。
 
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左右に細長く伸びる広場を右手に進んだ明治天皇歌碑の近くでは落葉した潅木(かんぼく)の間から富士山が透(す)けて見えます。(写真中央の白い部分)
 
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もっと視界の良い場所(富士山のビューポイント)を求めて南側の「おもいでの道」へと下りてみました。
 
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駐車場方面へ少し戻って「山の越」方面との分かれ道から下の舗道へ下りました。
 
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公園西中央口へ続く「谷戸の谷」に続く広い道に出ると期待した通りに富士山が西方の正面に見えました。高台よりもこの「谷戸の谷」のように窪地(くぼち)から富士山の全景を見通せるのは不思議ですが時々経験することです。昔、よく利用した多摩川河川敷にある川崎リバーサイドゴルフ場の一番ティーから多摩川の堤防越しに富士山が見えたことを思い出します。
 
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多摩市立蓮光寺公園への分かれ道で振り返ると、さらに視界が広がって富士山がよく見えました。
 
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この公園を訪れた目的は、この「谷戸の谷」とその南側にある「谷戸の丘」を歩いて、今わずかに残る多摩丘陵の雑木林(原風景)を楽しむことです。人影がほとんどない「谷戸の谷」ではずっと小鳥の鳴き声が聞こえます。
 
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「谷戸の丘」には「キツツキの森」の説明がありました。
 
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再び駐車場と「ももじ平」を経由して旧聖蹟記念館へ戻りました。
 
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入り口は裏手(北側)にあるようです。六角形をした五賢堂が目に入りました。何の説明もありませんでしたので後で調べると、明治維新に貢献のあった5人の偉人(維新に活躍した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、三条実美)の胸像が置かれているようです。
 
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旧多摩聖蹟記念館(無料)の開館時間を待って入館しました。南欧風の豪華な建物は昭和5年に元宮内大臣の田中光顕(みつあき)氏が寄付を募(つの)って建設したそうです。日本人建築家関根要太郎氏と蔵田周忠(ちかただ)氏の設計でした。
 
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同行者は建物のデザインと周囲の見晴らしが随分気に入ったようで、「こんな家に住みたいわ」と突拍子(とっぴょうし)もないないことを言います。さらに、建築家の説明文に「セセッション(ゼツェシオン)」(ウィーンの分離派)の言葉と好きな「クリムト」の名前を見つけた同行者は「キッスだわ!」と大燥(おおはしゃ)ぎしています。

館内には明治天皇の騎馬像(渡辺長男作)を中心に、幕末の志士で明治維新に貢献した坂本龍馬や初代総理大臣の伊藤博文などの書画が多数展示されています。坂本龍馬が増正四位であったことを始めて知りました。一番奥には多摩市周辺の豊かな植物の写真等が展示されていました。(館内は撮影禁止)

冷えた身体を少しでも温めようと、私はレモンティーを、同行者はブレンドコーヒーを喫茶エリアで注文しました。身も心も温まると、訪れて良かったと思うとともに、この記念館の方位が気になりました。真北ではなく、どうも北北西を向いているようなのです。

<同行者のコメント> 寒い日に人の少ない場所へ出かけるのはうちの旦那さまの常ですから別に驚きませんが、それほど遠くない場所にこんな素敵な公園があることをこれまで知りませんでした。宮殿のようなこの建物は大好きです。でも冬はちょっと寒くて住むのは大変かもしれませんね。桜が咲くころにまた来たいです。(続く)

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2012年1月10日 (火)

経営者・平清盛の失敗

今年もNHKの大河ドラマが1月8日にスタートしました。今回は「平清盛」が主人公です。1972年の大河ドラマにも取上げられた人物ですが、ドラマ性がより強調されるようで、同番組のhpには清盛が白河法王のご落胤(らくいん)としての設定になっていました。大河ドラマをほとんど観(み)ない私は、初回放送の前半における白河法王役と舞子役の演技に惹(ひ)かれたものの、やはり今年も観ることが無さそうだと感じました。

同じ日の午後9時30分から平泉の金色堂を取材した番組「NHKスペシャル 世界遺産 平泉 金色堂の謎を追う」が放送されました。こちらは見逃すわけには行きません。5年半前に平泉を訪れた時には「春の藤原祭り」の期間中で、「義経の東下り行列」が行われていたため、残念なことに金色堂は中尊寺参道の人ごみから遠望しただけでした。

今回は金色堂を保護するガラス越しではなく、高画質のテレビカメラが金色堂の内部を直接撮影し、黄金に輝く仏像を取り巻く金箔(きんぱく)と夜光貝を精密に細工した螺鈿(らでん)や象牙の装飾がリアルに映し出されました。そして藤原清衡(きよひら)がいかにして金色堂を建立することが出来たのかが歴史的に詳しく解説されたことを大変興味深く聞きました。「勿来(なこそ)の関」の記事で簡単に触れましたが、源氏の棟梁(とうりょう)であった源義家(上記ドラマに登場した源為義の祖父)と為義の孫である源頼朝が藤原氏三代の興亡に直接関わったことに因縁めいたものを感じました。

本題に入る前に平清盛についても少し説明しましょう。以前の記事「平将門縁の地 坂東」や「悪人列伝 平将門」で紹介したように、将門を討った平貞盛(将門の従兄弟)の四男平維衡(これひら)より始まる平氏一族の一つ(伊勢平氏、平家とも呼ばれる)の棟梁(とうりょう)であった正四位上刑部卿(ぎょうぶしょう)平忠盛の嫡男(ちゃくなん)として12歳で従五位下左兵衛佐(さひょうえのすけ)に叙任(じょにん)されました。宮門の守備を行う組織の次官(正六位下相当)で、しかも従五位下として貴族(最下位ですが)の位(くらい)に叙(じょ)せられたのです。

通常は父親より三位ほど下の位から始めるのが普通であった(伴大納言を参照)ことを考えると極めて厚遇(こうぐう)されています。生母が祇園女御(ぎおんのにょうご、白河法王の寵妃)の妹という説があり、母の死後は祇園女御の猶子(ゆうし、姓を変えない養子)になったと伝えられることが関係しているのかもしれません。後に安芸守(あきのかみ)に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大(ぼうだい)な利益をあげて西国での勢力を拡大し、父の死後に平氏一門の棟梁(とうりょう)となります。
 
                         ☆
   
前置きはこれくらいにして本題に入ります。1ヶ月ほど前に講談社から出版された「経営者・平清盛の失敗」とユニークなタイトルの本を読みました。「会計士が書いた歴史と経済の教科書」の副題があるこの本は、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」が2005年にミリオンセラーとなった公認会計士で税理士の山田真哉(しんや)氏の最新作です。前作を読んで目から鱗(うろこ)が落ちる思いでしたから、最新作にも期待して、松の内が終わった今週の始めに読み始めました。

カバーのそでに書かれたキャッチ・コピーには、「貿易で巨万の富を得た」と言う通説のカラクリ、日本の古代貨幣はどうして廃(すた)れてしまったのか、外国銭の「宋銭(そうせん)」はなぜ当時の日本で普及した?、清盛の死後わずか4年で平家が滅亡した理由は、平家を滅ぼしたのは源氏ではない……誰だ?、の5つの経済歴史ミステリーを解き明かすとあります。ページを捲(めく)ると、まえがきには平清盛に最も近い歴史上の人物として坂本龍馬の名を筆者が挙(あ)げたことに、おやおやと思いながら本文へと読み進みました。

第一章 日宋貿易の真相

江戸時代と同様に貿易が制限されて、しかも貿易のリスクを宋(現在の中国)商人が負っていた平安時代末期において、平家が貿易で成功した理由は日本側の受け入れ組織を独占すること(独占販売体制)であり、同様に貿易で巨万の富を得た足利義満(金閣寺を造って中国・明との独占貿易権を得た)や薩摩藩(琉球王国を占領・支配した)も同じ理由によると筆者は指摘する。つまり軍事力や権力で自由な競争を排除することだったという。しかも朝廷による独占体制がその資金繰りの悪化で滞(とどこお)ったため、密貿易が発生する。

競争の激しい密貿易で清盛の父忠盛(ただもり)が成功したのは「希少性」だが、それを高く売るのでは儲(もう)けは限られるから、権力者に貢ぐ(贈与する)ことで、当時一番稼げる役職であった国司(地方各国の長官)に任命されたことによる。つまり、海老(貿易)で鯛(たい)を釣る作戦(人事権を持つ人に取り入ることで大富豪となる)を成功させたのである。

そして清盛は父忠盛からその富を引き継いで、二代目としてこの貿易形態とともに平家を大きく飛躍させたのである。筆者は清盛が政治・武勇で当時トップクラスの能力を発揮した人物であり、こと経済・貿易に関しては、千年に一人といってもよいほどの、傑出した能力の持ち主であったと指摘する。ライバルであった寺社の活動を制限し、瀬戸内海の港湾施設と大宰府の外港(博多)を私費で築いて瀬戸内航路を開発したのである。

和船よりも大型の宋船を畿内に安全に乗り入れられるようにして、貿易実務を宋から日本に移すことを考えたのである。この構想力が経営者として卓越していると筆者は言う。しかし、この構想(貿易革命)が日の目を見ることもなく、平家は滅亡してしまうのである。

第二章 「宋銭」普及の謎

筆者は宋銭が日本で普及した理由として考えられるいくつかの理由を各々吟味(ぎんみ)した上で、当時の末法(まっぽう)思想の高まりを背景とする寺社勢力による経筒(きょうづつ)の需要に着目する。銅資源が枯渇(こかつ)した日本では宋銭が経筒を作るために格好の素材だったというのだ。そして宋銭を貨幣として使うことで商業の発展に役立てよう(実質的な通貨発行権を得て一族を繁栄させよう)とも考えたのが平清盛であったと指摘し、加えて贋金(にせがね)のリスクを減らせると考えたと推測する。

第三章 平家滅亡の真犯人と清盛の失敗

時の権力者・後白河法皇の皇子であった以仁王(もちひとおう)が自らを飛び越してまだ1歳にしかならない甥(おい)が安徳天皇(清盛の娘徳子の子)として即位したことに納得できず、院政を敷いていた後白河法皇を幽閉し、高倉天皇を退位させた(クーデターを起こした)平家を打倒する令旨(りょうじ、皇族による命令書)を出すが、この謀反(むほん)に気付いた平家が反撃に出て、以仁王と挙兵した源頼政(よりまさ)が討ち死にする。しかし、これが起爆剤となって各地で平家打倒の気運が高まったことに危機感を覚えた平家の追討方針に覚悟を決めた源頼朝が挙兵する。

筆者はこの対立の背景として宋銭が普及したことによる格差社会(貴族・寺社や武士などの荘園領主の困窮)を挙げる。つまり宋銭を持つ平家(重商主義)とその他勢力(重農主義)の対立構造が生まれたのであって、源氏と平氏の2者による単純な権力闘争(源平合戦)ではなく、もっと多くの勢力による「治承・寿永の内乱」だというのである。

平家にとって運命の分かれ目となったのは1179年の「銭の病」だと筆者は指摘する。この奇妙な病名が銭貨出挙(現代でいうローンや消費者金融に近い)による多重債務問題(通貨不足によるデフレによる貧富格差の拡大)と考えるのが最も自然で筋が通っているというのである。朝廷を二分した論争も清盛とその娘婿(むすめむこ)である高倉天皇の宋銭流通派が勝利して、反対派の貴族たちとの対立は彼らが後白河法皇を中心にまとまったことで泥沼の権力闘争となり、前述のクーデターにつながったという

富士川の戦いに源頼朝軍に敗れた平家は態勢を立て直して関東へ向けて総攻撃に出ようとした矢先の1181年に平清盛が病死、その4年後に平家は滅亡する。筆者は平家がデフレとハイパーインフレに倒された(自壊したも同然)だったという。つまり銭の恐ろしさは、あるとき突然人のコントロールを超えてしまうところにあり、それは現代でも繰り返し経験することであると筆者は指摘する。歴史に「もし」はないと断って、筆者は「清盛が貿易で富を得ることに専念していたなら…平家は滅亡することはなかっただろう」ともいう。

解決策は宋銭の供給を増やすことであるが、外国貨幣であったため、清盛は適切に対処できなかったと分析、季節風を利用する宋船は年に一回しか往復できなかったことを理由に挙げる。しかし気候の寒冷化による大飢饉(だいききん)が起こったため、デフレから一転してハイパーインフレが発生して「銭の病」はあっさりと終息したのである。これにより、平家は一気に資産を失うだけでなく、進めてきた大規模事業の資金難地獄が待っていたのである。清盛の最大の失敗は「宋銭」という魅惑の果実に手を出したことであると筆者は指摘する。

第四章 経営者・平清盛

第一章から第三章までが貿易と宋銭の話になってしまったと断(ことわ)りを入れた筆者は本書のポイントとして経営者としての清盛を語る。第一節「強みを伸ばして活かしきる経営」では伊勢平氏の強みが当時伊勢国で産出された水銀(漢方薬や顔料になる赤色硫化水銀)が金や硫黄(いおう)に匹敵(ひってき)する日宋貿易の重要な輸出品目となったと指摘する。そして古代からの幹線道路であった東海道が通過しており、室町時代に日本の十大港「三津七湊(さんしんしちそう)」のひとつである安濃津(あのつ、津市の名前に残る)も平氏が押さえていたことを挙げる。

第二節 「経営のセンスが問われる地盤の決断」では、清盛が保元の乱に勝利して軍事貴族の頂点に立ったとき、まっ先に地盤として選んだ地が大宰府(だざいふ)のある筑前国であったことを指摘する。彼の目的は日本随一の国際港・博多湊を支配下に置くことであったと説く。

第三節「将来のリスクでライバルを峻別(しゅんべつ)」では、将来のリスクが低い奥州藤原氏と連携して金を得て、リスクが高いと考えた薩摩平氏の阿多氏(宋の貿易港・寧波に近い貿易港を持つ)を倒して硫黄を手に入れたことを例示する。

第四節「前例にとらわれない発想で危機に立ち向かう」では、飢餓(きが)の影響で急に起こったインフレにより資金難に陥った清盛が取った打開策は福原(神戸市)への首都移転で、これは究極の復興事業(平家の資金難も解決)の位置づけであった。しかし、これは身内である高倉天皇や自らの後継者宗盛(むねもり)らに理解されず、遷都(せんと)から約170日後には京に戻ることになって失敗に終わり、平家の政治的信用は皮肉にも失墜(しっつい)する。

 
                          ☆
   
平易な文章(約220頁)を一気に読み終えました。私には格別目新しい清盛論ではありませんが、経済(経営)の視点から平家の興亡を分かり易く論じた良書だと思います。筆者が指摘するように、重商主義を目指しながら、「重銭主義」(私の造語)とも言える段階で生涯を終えたことが原因となり、平家が呆気(あっけ)なく滅亡してしまったことを清盛は何と思ったことでしょうか。

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2012年1月 5日 (木)

正月三が日

前夜のジルベスターコンサートを観終えた午前1時に就寝したため遅めの起床になりましたが、元旦の通例として8時頃に和服姿でお雑煮(ぞうに)を食べました。結婚する時に両親から贈られた着物(長着と羽織)を着ることと、出身地のお雑煮を食べることに、私は拘(こだわ)りを持っています。そのお雑煮は角餅(かくもち、切った餅)を正月菜(小松菜の一種)と煮て蒲鉾(かまぼこ)と削り節(花鰹)をトッピングしただけのシンプルな赤味噌仕立てです。
 
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ちなみに、関西風は丸餅と白味噌に特徴があり、大根や里芋などが入りますが、関東風は焼いた角餅に薄口醤油仕立ての汁に、小松菜・椎茸(しいたけ)や鶏肉などが加えられることが多いようです。これだけの情報があれば私の出身地がほぼお分かりになったと思います。

これは後になって聞いたことですがチビスケくんとチビエちゃんの一家はお汁粉(しるこ)を食べたそうです。元旦にはお汁粉とは意外な取り合わせですが、調べてみると出雲地方の一部では小豆(あずき)のお雑煮を食べるそうですから、二人のお母さんにその謂(いわ)れを聞いてみたいと思います。

わが家でもう一つ元旦恒例と言えば「ニューイヤー駅伝」です。毎年、群馬県で開催される実業団の駅伝日本一を決める大会は7区間100キロを37チームで争いますが、空(から)っ風の強さが勝敗の行方に大きく影響すると言われています。今回の前評判では、前年に優勝したトヨタ自動車、日清食品グループ、旭化成が3強で、コニカミノルタも注目されるチームです。

今年は1区と2区が1位と好スタートを切った日清食品グループが、一旦3区で3位に後退しましたが、その後は4区と5区で盛り返し、6区と7区は1位をキープして2年ぶり2度目の優勝を果たしました。ちなみに2位は出遅れを挽回して3区と4区で首位に立ったコニカミノルタ、3位はコニカミノルタと同様に1区と2区の出遅れを3区で4位まで挽回した旭化成でした。今回は風の影響が少なく下馬評通りの順当な結果になったと思います。

ニューイヤー駅伝の放送中にチビスケくんとチビエちゃん一家が年始の挨拶に来てくれましたので、昼食は大人数で元旦に形だけ箸(はし)をつけたお節(せち)料理を楽しみました。
 
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同居者が今年選んだ煮物が多い昔風のお節は見かけよりも薄味で全員に好評でした。
 
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手前のプレートとその左手にある大きめのお椀(わん)はチビスケくんとチビエちゃんの特別メニューです。
 
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元日の夜(午後7時)はNHKEテレ)で衛星生中継されるウィン・フィルの「ニューイヤーコンサート2012」です。中條誠子アナウンサーが日本のスタジオで番組の進行係を務めます。N響首席オーボエ奏者の茂木大輔氏が楽しみ方を解説、3名のスペシャルゲストたちが話題を拡げました。

今年の指揮者は2006年に続いて2回目の登場となるラトビア(旧ソ連領)出身のマリス・ヤンソン氏(68歳)。15分後(現地時間の午前11時15分)に始まった第1部はシュトライス一家の知名度が高くない曲を中心に「祖国行進曲」(ラデツキー行進曲の主題を引用)、ワルツ「市庁舎舞踏会のダンス」(美しく青きドナウの主題を引用)、ポルカ「あれか、これか」、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」(久しぶりにウィーン少年合唱団が登場)、ワルツ「ウィーンの市民」(シュトラウス兄弟のライバルであったツィーラーの作曲)、「アルビオン・ポルカ」(アルビオンはイギリスの古称)、ポルカ「騎手」(拍子木のお化けのような打楽器が登場)が続きました。地味な曲がいずれも生き生きとして感じられます。

2部は恒例のバレー・シーンが登場しますが、ウィーン国立バレー団の芸術監督であるマニュエル・ルグリ氏がサプライズを予告したことは楽しみです。「悪霊の踊り」(ヘルメスベルガー作曲)で始まり、17曲(アンコールの3曲を含む)が連続して演奏されました。そのうちで、ワルツ「人生を楽しめ」、ポルカ「燃える恋」(グスタフ・クリムトの接吻を登場させる演出)、ワルツ「美しく青きドナウ」(若い男女が訪れた宮殿内で踊る幻想を見る演出)の3曲に合わせてバレー・シーンがクリムトの絵が所蔵されるベルヴェテーレ宮殿から中継されました。宮殿の雰囲気に合わせたのか、シックともいえるバレー衣装を纏(まと)ったバレリーナの踊りは優雅そのもので、ウィン・フィルの演奏と見事に調和しています。 

ニューイヤーコンサートでよく取り上げられる曲に加えて、チャイコフスキーのバレー音楽「眠れぬ森の美女」、シュトラウス兄弟の「ピッチカート・ポルカ」やヨハン・シュトラウスの「ペルシャ行進曲」などロシアに関係する選曲はこの指揮者ならです。新年のあいさつに続くアンコールは「チック・タック・ポルカ」と定番である「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」で聴衆を魅了したニューイヤーコンサートが終わりました。バレー・シーンが少ないこと(実際は例年と変わらないのですが)を同居者は残念がっています。私はヤンソン氏の選曲と外連味(けれんみ)のない指揮に好感を持ちました。

 

                          ☆
 
2日の朝はもちろん箱根駅伝の中継をTBSテレビで観ました。一区は前年久しぶりに優勝して復活した早稲田大学が1位で通過、次いで日本体育大学・駒沢大学・東洋大学・城西大学と概(おおむ)ね順当な順位で始まりました。2区の権太坂(ごんたざか)で2位グループに追い付いた東洋大学が先行する早稲田大学も捉(とら)えて首位で3区走者へ襷(たすき)を渡すと、その後は終始首位を守り、5区ではさらに差を拡げて4年連続の往路優勝を飾りました。2位以降は早稲田大学、明治大学、駒沢大学、城西大学の順です。2区以降に順位を落とした日本体育大学と4区で一気に順位を上げた明治大学が入れ替わっただけで波乱の少ない結果になりました

かし最後に思わぬドラマが待っていました。小田原中継所で19番目に襷を渡した東京農業大学は5区のランナーが失速したのです。事前から体調不良だったそうですが、メンバー変更の登録時間を過ぎていたためにそのまま出場したようです。湯本から上り坂に入って変調をきたしたことは映像からも明らかでした。大平台(おおひらだい)の急坂から芦之湯(あしのゆ)の先にある最高地点が前方に控(ひか)えているのです。それでも驚異的な頑張(がんば)りで先行者に10数分の遅れで芦之湯を通過、20分以上の差を付けられながらも元箱根に差し掛かりました。ところが、あと1kmほどを残すところで何と放送が終了してしまいました。

その後が気になった私は急いでTBSラジオに切り換えて、その走者がゴール出来たことを知り、やっと安堵(あんど)しました。もう5分もあれば最終走者がゴールするシーンを放送できたのですから、ゴールするまで延長するか、せめて2画面構成の小画面を使って駅伝の生中継を継続できなかったものなのでしょうか

似たり寄ったりのバラエティー番組や7時間にもおよぶ恒例の「忠臣蔵」(テレビ東京)を観る気は起きませんから、テレビ鑑賞はしばらく休止しました。テレビと言えば、大晦日の直前になってわが家のテレビがついに薄型に変身しました。まだ健在だったブラウン管式テレビとは私の気紛(きまぐ)れで突然の別れです。

その夜は午後9時からNHKスペシャル「最高峰エレベスト」を観ました。NHKならではのドキュメンタリー番組(1時間15分)はアナログ放送とは比較にならない美しい映像がたっぷり楽しめました。

3日も箱根駅伝の復路中継を観ながら過ごしました。区間を追う毎に東洋大学のリードは広がって総合優勝に向かっての独走状態です。その中にあって前日最下位の東京農業大学の健闘が目立ちました。ずっと5-7位をキープ、9区と10区では少し順位を落として復路12位で大手町にゴールしたことは称(たた)えられます。その他にも、神奈川大学の走者が襷(たすき)を渡す寸前に2度も転倒しながら、襷を次走者につないだのは感動的でした。実業団駅伝のスピードには敵(かな)わないものの、ドラマ性を感じる箱根駅伝の魅力と東洋大学チームの結束力が強く印象に残った2日間でした。

いつも通りにテレビ三昧(ざんまい)の正月3が日となったため、その夜はテレビ疲れで早々と就寝することになりました。
 
<同居者のコメント> 今年もお節料理が気に入ってもらえて良かったです。来年は関西地方のお節にしようかなどと今からお節選びを楽しみにしています。

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2012年1月 4日 (水)

年末の家族模様

今年はわが家にとって波乱に満ちた一年で、家族に様々なことがありましたが、多くの方々の見守りのお陰様で何とか年末を迎えることが出来ました。このまま無事に正月を迎えるため今年も通常通りに年末のルーチン(行事)を守ることにして、大晦日(おおみそか)の2日前に川崎大師へお礼参りに出かけました。嬉(うれ)しいことに今回も家族全員が参加してくれて総員11名と大人数での参拝です。大晦日に飾られる玉飾りはまだ山門の注連縄(しめなわ)にありません。
 
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見よう見まねで覚えたオチビちゃんとコチビちゃんは線香をあげています。
 
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そして子供みくじを読んで喜んでいるようです。
 
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お護摩祈願(ごまきがん)を申し込んだ午後1時までにはまだ1時間ちょっとありますから、これも例年通りには山門前の蕎麦膳「はやま」で昼食にすることにしました。
 
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私はいつもの「鴨南ばんそば」、同行者は「ざるそば」、オチビちゃんとコチビちゃんは「天せいろそば」、そのお母さんは「カレー南ばんそば」、そしてチビスケくんとそのお父さんは「ちからうどん」、その他の大人も同様のメニューを選びました。まだ1歳の誕生日を2週間前に迎えたばかりのチビエちゃんはお母さんが注文したメニューにはない「肉南ばんうどん」を少し分けてもらうことに。
 
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この店では客からの注文をメモ用紙に手書きして受ける昔ながらの(アナログ的な)スタイルは不変でした。

本堂でのお護摩の間、信心深い一家の子供たちはお腹が一杯で満足したのか神妙にしています。ちなみにお護摩とは仏の智慧(ちえ)の火を以(もっ)て煩悩(ぼんのう、苦の根元)を焼きつくすことを表します。大きな太鼓の音にチビエちゃんがびっくりするのではないかと心配でしたが杞憂(きゆう)でした。家族の皆で新しい御札をいただいたことで来年も心強く生きて行く気持ちも併(あわ)せていただけたことに感謝しました。

参道では干支(えと)の置物を高橋太一商店で例年通りに購入しました。(写真は自宅にて撮影)
 
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子供たちは駐車場の先にある大師公園の遊具が気になって一目散に駆けて行きました。大勢の子供たちと一緒になって楽しそうに遊んでいますから、親たちの声も中々届かないようです。
 
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大阪から川崎大師へ駆け付けてくれたオチビちゃんとコチビちゃんのお父さんを含む全員がわが家へ移動して夕食を一緒に楽しみました。

チビスケくん一家が年末の挨拶に再訪してくれた大晦日の夜は民放の懐メロ番組「年忘れにっぽんの歌」とNHKテレビの紅白歌合戦、そしてNHKEテレ)の「年の瀬クラシック」をザッピング(頻繁なチャンネル切り替え)することに終始しました。畠山みどりさんの昔と変わらない華やかな衣装と菅原洋一さんの艶(つや)やかな歌声(忘れな草をあなたに)に同居者と感心していると番組が終了。もう一度紅白歌合戦に戻ってレディ・ガガさんのビデオ出演、長淵剛さんや福山雅治さんなどの歌をぼんやり聴いているうちに居眠りをしてしまい、石川さゆりさんの歌声に気付けば午後11時半になっていました。

余談です。紅白歌合戦(後半)の平均視聴率が41.6%(前半は35.2%)と、それまで今年の最高視聴率であった「家政婦のミタ」(最終回)の40.0%をわずかに上回って面目を保ったようです。

テレビ東京では「ジルベスターコンサート」がすでに始まっていました。改装が終わったばかりのBunkamura(文化村)のオーチャードホールが会場です。司会役もこれまでの大江麻理子アナウンサー(テレビ東京)から森本智子さん(同)とミュージカル歌手の井上芳雄に変わりました。その他の出演者は幸田浩子さん(ソプラノ)と三浦文彰(ヴァイオリン)さん。ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」から第4楽章(冒頭)に続いてバッハ作曲「G線上のアリア」が演奏されていました。

創立100年を迎えた東京フィルハーモニー交響楽団を今回指揮するのは日本に生まれてアメリカで育った金聖響(きむせいきょう)氏。名前から想像して音楽家になることを親から期待されたのかと思いましたが、母親と叔父から一字ずつ貰った名前だそうで、音楽大学ではなく親の勧めでボストン大学の哲学科を卒業した経歴の持ち主でした。その後、ニューイングランド音楽院にて指揮の修士課程に進み、ヴィーン国立音楽大学に留学したことで指揮者への道を目指したそうです。

今年のカウントダウン曲はラヴェルが作曲したバレエ音楽の「ボレロ」です。15分近くも単調なリズムが続く曲でカウントダウンをどう盛り上げるのかに興味がありました。そして演奏そのものは期待通りに盛り上がりましたが、曲は5秒近く早めに終わってしまいました。例年は1秒前後に収まるのですが、司会を務める井上さんの突っ込みを笑って受け流すのはやはり関西人だからでしょうか。

新しい年を迎えた「2012年に希望をのせて・・・」は、井上芳雄さんと幸田浩子さん(ともに東京芸術大学声学科卒)がバーンスタイン作曲のミュージカル「ウエストサイドストーリー」から「トゥナイト」と「マリア」を歌いました。井上さんは国内で人気があるミュージカル歌手として、そして幸田さんは欧州を中心に活躍するオペラ歌手として、期待した通りに個性ある歌が楽しめました。デュエットでは井上さんが先輩の幸田さんに格負けしたようで調和にやや欠けたことは惜しまれます。

次いで登場した2009年のハノーファー国際ヴァイオリン・コンクールで優勝した三浦文彰(ふみあき)さんはまだ10代とは思えない卓越した技巧でサンサーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」を演奏しました。

そして幸田浩子さんがグノー作曲の歌劇「ロミオとジュリエット」から「私は夢に生きたい」を美しいコロラトゥーラ(装飾を施した歌い方)を交えて見事に歌い切りました。ちなみにウエストサイドストーリーはこのロミオとジュリエットに着想を得て作られたブロードウェイ・ミュージカル(レナード・バーンスタイン作曲)です。

番組のフィナーレはシベリウス作曲の交響詩「フィンランディア」でした。フィンランドが帝政ロシアの圧制から独立するため国民に愛国心を喚起する目的で作曲されたこの曲が日本の復興(希望)に重ね合わせて選曲されたことを指揮者が語って演奏されました。そしてアンコールはヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」で1時間15分の番組が終了しました。
 
<同行者のコメント> 今年も家族全員が年末に集まることが出来たことを川崎大師で感謝しました。お正月にも大きな地震が起きてびっくり。でも被害がなかったようで良かったです。

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