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2012年4月 3日 (火)

東北ドライブ旅2012春 下北半島(前編)

2012_03240210 浅虫観光ホテルを出て国道4号線(土屋バイパス)を北上すると左手に裸島が見えて来ました。名前通りに草木がほとんど生えていない岩だけのユニークな形をした島なのです。海のモニュメントバレーと言えるかも知れません。 
 

2012_03240223 国道は青い森鉄道に沿って大きく右へカーブして山間部へ入って平内町の小湊へ向かい、再び陸奥湾沿いの道で野辺地(のへじ)町へ入り、県道243号にそれて最初の目的地を目指します。しかし予期しなかった「戊辰戦争史跡」の案内表示板を見掛けて急遽(きゅうきょ)立ち寄ることにしました。 

戊辰(ぼしん)戦争と青森の地がすぐには結びつきません。左手の路地に入るとすぐ右手の公園のような場所に「県史跡野辺地戦争 戦死者の墓所 専用駐車場」の標札が立っていますが、積雪のため路肩に車を停めました。例によって同行者には駐車係として居残ってもらいます。

2012_03240218 雪をかき分けて進むと「野辺地戦争戦況図」がありました。『明治元年(1868年)9月22日夜半、小湊に集結していた津軽軍180人は3隊に分かれて野辺地を夜襲し、笹館から大橋付近まで軍を配置した南部藩と川を挟んで銃撃戦になった』と説明されています。
 

2012_03240219 『しかし遊軍が夜間の山中で道に迷ったため、戦いに参加出来ず、津軽軍は多くの戦死者を出して敗走した。墓石は戦いの翌年に弘前藩(ひろさきはん)によって建てられたもので、戦死した津軽軍の兵士(40名以上)のうち27名の名が刻(きざ)まれている』と続きます。
 

現在の青森県は明治元年当時南部藩(正式名称は盛岡藩)から別れた八戸潘などと津軽藩(弘前など旧津軽郡)の領地であり、官軍側の津軽藩が奥羽越列藩同盟側の八戸藩と盛岡藩の領内に攻め寄せたのが野辺地戦争と呼ばれたことを今回始めて知りました。会津藩と庄内藩のことは会津若松城を訪れた時の記事で紹介しています。

余談ですが、戊辰戦争は良く知られる鳥羽・伏見の戦いから江戸開城までの段階と、東北戦争および箱館戦争の3つに分けることができ、明治新政府がいずれの戦争にも勝利して終結しました。10年ほど前に北海道を旅行した時に箱館戦争(五稜郭の戦いとも呼ばれる)で蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした旧幕府軍の徳川家海軍副総裁榎本武揚や新選組の土方歳三たちが立て籠もった函館の五稜郭(ごりょうかく)を訪れています。ちなみに箱館の地名は明治時代になって函館に変更されました。

2012_03240212 野辺地港近くの漁業協同組合前に雪に覆(おお)われた「浜町の常夜灯」が見えます。30cmほど積もった雪の中を常夜灯まで歩きました。『1827年(文政10年)に野辺地の廻船問屋・野村治三郎によって建てられた。関西の商人・橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきたものである』ことが説明されています。

2012_03240215『江戸時代、大坂と蝦夷地を結ぶ日本海航路(北前船)は、物資輸送の大動脈であった。野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であった』と続きます。現存する日本最古とも言われる常夜灯から県道の方向を撮影しました。 
 

2012_03240216 雪原に私が往復した足跡が残りました。
 
 
 
 
 

2012_03240217 県道の脇に「遠見番所跡」の標識が立っています。『外国船を発見・監視するために南部藩によって設置された施設』でした。 
 
 
 

2012_03240224 国道279号(はまなすライン)に入って北上すると恐山(おそれざん)周辺の冠雪(かんせつ)した朝比奈岳(あさひなだけ、標高874m)・大尽山(だいじんやま、標高828m)・釜臥山(標高878m)などが望めました。鉄塔のようなものが並んでいます。風力発電の施設かもしれません。 

2012_03240226 JR大湊線の踏切を渡る手前(横浜町との境界付近)で風力発電の風車が並んでいるのが見えました。陸奥湾と太平洋の間に細長く伸びる下北半島は素人目にも風力発電に適していそうです。調べてみると、野辺地町・横浜町・六ヶ所村・東通(ひがしどおり)村・むつ市など下北半島の多くの市町村に風力発電施設がありました。

2012_03240230 横浜町では除雪した直線的な道路が続きます。中央線を示す標識があるのはやはり雪国ならではでしょう。
 
 
 
 

2012_03240232 ジェットコースターのようなアップダウンもありました。
 
 
 
 
 

むつ市の市街地に入ってむつバイパスを経由し、標識に従って県道6号に入ります。隣の東通(ひがしどおり)町のカーブが多い道を走るとやがて海岸が近づいて直線的な道路に変わりました。岩屋集落付近で海岸線に出ました。津軽海峡のようです。

2012_03240236 三菱マテリアルの巨大な工場を通り過ぎると尻屋岬港が見えました。次の目的地はもう直ぐです。山を回り込むようにカーブするとゲートが見えました。尻屋崎(しりやざき)への入口ですが3月末まで通行できません。しかも尻屋埼灯台までは3.7kmもありますから遠望することは出来ないのです。 

2012_03240237 尻屋埼灯台と寒立馬(かんだちめ)を見るために遥々(はるばる)ここまで走ってきたのに残念です。看板の説明を読むと寒立馬は下北半島に生息した小振りの野生馬「野放し馬」で、岩手県の南部馬を祖先とし、明治に入って外来種と交配により改良されたことが説明されています。「アタカ」と言う場所に越冬放牧場があるとも書かれています。

2012_03240241 県道6号をさらに走ってその終点にある尻屋集落に入ると放牧場の案内があり、それに従って路地を抜けると広い道が続き、右手に放牧場がありました。
 
 
 

2012_03240242 柵(さく)が廻(めぐ)らされていて内部に入ることはできませんが、幸運なことに数十メートルの距離に20-30頭の寒立馬がいくつかの群れをなして雪が溶けて顔を出した牧草を食(は)んでいます。
 
 

2012_03240240 はるばる来た甲斐(かい)がありました。雪を背景にした寒立馬をぜひ見たかったのです。こちらにも寒立馬の由来が詳しく説明されていました。
 
 
 

2012_03240243 道は尻屋埼灯台の方へ続いていますので200mほど走ると先ほどと同じようなゲートがあります。車を停めて歩行者用ゲートを抜けて雪がほぼ溶けた道をしばらく歩いてみました。 
 
 

2012_03240244 はるか彼方の海岸に何かが見えます。尻屋埼灯台かも知れないと一瞬思いましたが、よく見ると鉄塔のようで糠(ぬか)喜びでした。この地点から見えるのは尻屋崎の手前にある藤石崎(ふじしざき)です。写真の右端に写る岩島は岸島のようです。
   

尻屋埼灯台は明治時代初頭(1876年、明治9年)に東北地方で始めての灯台として設置されました。レンガ造りの灯台としては日本一の高さのようです。尻屋埼灯台の写真はこちらで見ることができます。ちなみに尻屋埼灯台からの景色が第二管区海上保安本部のライブカメラで見られます。

2012_03240250 引き返す途中、同行者は「下北かるた」の看板を見つけました。下北半島の各地に同じような看板があることが地図で表示されています。
 
 
 

2012_03240251 尻屋集落へ戻る道です。前方に桑畑山(標高400m)が迫って見え、海岸に近いのに山奥に入ったような景色です。こうした場所をゆっくり走るのもドライブの醍醐味(だいごみ)なのです。 
 
 

2012_03240252 尻屋岬港から津軽海峡と下北半島の山々です。野辺地町から見る景色とはまた違った雰囲気がありました。(続く)

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