エッセイ集『とは知らなんだ』を読む
面白いタイトルに惹(ひ)かれました。「知らなんだ」の「なんだ」は西日本で使われる古い言葉(今は死語?)で「なかった」を意味します。つまり、この本のタイトルを標準語に改めると「とは知らなかった」になります。著者は日本の方言あるいは歴史に造詣(ぞうけい)の深い人だろうと思いましたが、意外にも明治大学教授鹿島茂氏はフランス文学が専門でフランスあるいはパリについて多くの著作を出版している学者でした。
さっそく近くの本屋さんを梯子(はしご)して探しましたが見つかりません。出版されて2週間後の2月下旬に店内の検索機で調べると「取り寄せが必要」と表示されました。ひょっとしたら図書館の蔵書になっているかとネットで検索しましたが、まだ登録されていません。こうなれば「欲しい時のアマゾン頼み」でAmazon.co.jpにアクセスすると在庫があり、数日後には自宅へ送られて来ました。
『とは知らなんだ』(幻戯書房、2400円+税)は日本語のタイトルに加えて親指と人差し指で輪(飾りメガネ)を作った若い女性のイラストに”C’est vrai?”の文字が描かれています。フランス語で「そうかな?」を意味するようです。本の黒い帯(おび)には「ひざポンの思想、鹿島流考えるレッスン」「訳せないものを無理に訳すと、訳語はかならず誤解を生む。だが、どうやら、文化というものはこの種の誤解の連鎖からも生まれてくるものらしい」の帯文があります。
私が期待した下世話な内容ではなさそうだと思いながら表紙をめくると目次に3つの章に分けられた36のエッセイが並んでいました。第Ⅰ章は「ひげ」「金鯱(しゃちほこ)」「西インド」「クルトンとスープ」「モアイ像」「ロシア式紅茶」「持参金」など多彩です。続く第Ⅱ章には「ピンク色」「青」「コキュ」「恋愛格差社会」「愛」「ロリ顔に巨乳」「Y染色体」「同性愛息子」「蚤(のみ)の夫婦」「ビデ」など色っぽいテーマが並びます。
最後の第Ⅲ章は「就職のパイプライン・システム」「部分対象的善悪二元論」「純粋男系」「謝ってはいけない」「子供がコンビニで買うもの」「英語の発音」「石油枯渇後の日本」「日本式住居表示の謎」などやや理屈っぽいテーマは私好みの内容かもしれません。この章から読むか、最初の章にするか迷いましたが、やはり著者が並べた順に一つひとつじっくり読むことにしました。
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最初の「ひげは自然か文明か」ではひげが場所によって3つの呼び名(髭・鬚・髯)があることから始めて、頭髪やひげを剃(そ)った古代エジプト人、その支配に反発したヘブライ民族はひげを剃らなかったこと、さらにギリシャ人がひげ文明の象徴になり、ローマではひげを剃るのが普通であったことを一気に説明します。そして東ローマ帝国では再びひげ文化が生まれ、それ以降、ひげ有り文化(ロマン派的)とひげ無し文化(懐古的)がヨーロッパで交替して登場し、ひげが文化や文明の系譜につながるとの見方の楽しさを述べました。
続く「金鯱とルネッサンス」では日本、なかでも名古屋城の天守閣にあるシャチホコとヨーロッパでよく見かける「ドーファン像」(ドルフィン)との類似性に注目した著者が、キリスト教宣教師を介してドーファンがシャチホコになったのではないかとの仮設を立てて検証しました。しかし時代考証から中国起源説(シビがシャチ化したもの)とインド起源説(神話に登場するマカラ)を見出した上で、マラカが中国でのシャチ化に影響を与えたとする考えに著者は賛同します。しかし次の「イルカと名古屋城」ではキリスト教宣教師の陰謀説をあらためて持ち出しました。(内容は省略)
この調子で様々なテーマのエッセイが続きました。そして第Ⅱ章ではフランス文化や恋愛論に疎(うと)い私にとっては難解な話のオンパレードになりましたが、それはそれで「目から鱗(うろこ)が落ちる」のです。
期待した第Ⅲ章は「就職・・」「善悪二元論」「謝ってはいけない(廣田弘毅を引用)」「コンビニ・・」「英語の発音」が特に面白いと思いました。すべてを紹介するには紙面が足りませんので、2つだけ紹介しましょう。
「就職・・」では1990年のバブル崩壊までは日本固有の社会システム(長い時間をかけて希望と現実を擦(す)り合わせて「あきらめ」へと至るシステム)が教育と職業選択だけでなく結婚まで円滑に機能していたが、バブル崩壊後はこのシステムがダウンサイジングし始めて、企業のパイプライン・システムが崩壊したと指摘しました。しかし、団塊世代である親はまだパイプラインの中にいることで、子供の教育パイプライン・システムを連鎖崩壊(れんさほうかい)させなかったため、新しい人材が不良在庫(フリーター・ニート・オーバードクター)として溜(た)まってしまったと解説。さらに結婚システムにおいても同様のことが観察され、負け犬が大量発生したと分析します。
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『英語の発音』をテーマした「エッツ・アーウァィッ」は、日本における英語教育で「r・l・t・th・f・v」など日本語にはない子音の発音を教えているにも拘(かか)わらず、日本人がネイティブの英米人に通じる発音が出来ないだけでなく、相手の発音も聞き取れない理由を解説します。フランス文学者らしくアメリカン・イングリッシュはフランス語のようにリエゾン(発音しない語末の子音を次語の語頭の母音につなげて発音すること)とアンシェヌマン(発音する語末の子音を同様に次の語の語頭につなげて発音すること)に似た連音現象を伴(とも)なう言葉と化していることを指摘。
”Can I have your phone number?”は「キャナェ・ハヴョー・フォウン・ナンブゥー」となり、”You want to come with us?”は「ユー・ワナ・カム・ウェダス」と発音されることと、語末の「t音」や「d音」はほとんど発音されない傾向にあることも挙げました。さらに、これらの子音に続いて母音で始まる単語が来ると連音化して「l(エル)音」として発音されることを、“What about・・?”は「ワラバゥッ」、“What do you like?”は「ワルユー・レェク」の例で示します。”water”が「ワラー」、”not at all”も「ノラローゥ」となるのです。また母音の後ろに来る語末の”l音”や”ll音”は半母音化して「ゥ」となることを示し、著者はこれは幼児返りした退化言語であると解釈します。
例示はまだまだ続きます。そして最後にタイトルの「エッツ・アーウァィッ」が”It’s all right”であることを明かし、この発音の規則を教えておいてくれればいいものをと思うと著者は言います。私もまったく同感です。昔、英会話の先生が”twenty“が「トゥエニィ」であり、”sorry”が「サーウィ」と発音することを教えてくれたことを思い出します。現代の日本人は文字(表記)に捉(とら)われて、しかもローマ字式の発音をすることが最大の問題のようです。最近論議を呼んでいる早期英語教育も英語力のレベルアップになるかも知れませんが、先ずは明治時代の日本人のように原音に忠実である(例えカタカナ表記であっても)ことを重視すれば英会話の能力を大きく向上出来ることでしょう。
そして35番目と36番目のエッセイ「日本の住居表示」は『とは知らなんだ』の最後を飾るのが相応(ふさわ)しい内容で、私にもこんなエッセイが一つでも書けたらと身の程知らずの考えを抱(いだ)かせる優(すぐ)れたエッセイ集でした。速読を旨(むね)とする私ですが、この本を読み終わるまでに2ヶ月以上も掛かってしまいました。
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『知らなんだ』繋(つな)がりで上記の本には無かった歌についての余談(よだん)を書きます。最近私が注目している「レーモンド松屋」というシンガーソングライターがそのテーマです。
百貨店あるいは牛丼屋のような苗字(みょうじ)に、レーモンドと昔の歌手のようなカタカナの名が付いていることがユニークです。昨年のテレビ番組で偶然聴いた「安芸灘(あきなだ)の風」(2010年)は『きっと来る』のリフレインを多用する歌詞が耳に残り、この歌手の地元である愛媛(えひめ)県西条(さいじょう)市にあるJR予讃(よさん)線壬生川(にゅうがわ)駅を舞台にしたとされ、曲のコード進行が心地(ここち)よい「雨のミッドナイトステーション」(2011年)にも強く惹(ひ)かれました。YouTubeにアップされたこれら2曲はいずれもテレビ東京系で毎週日曜日の早朝に放送される歌番組「洋子の演歌一直線」に出演した時の録画のようです。
前者はイントロが戦前にアンドリュー・シスターズがドイツ語を交えて歌ってヒットしたジャズのスタンダード・ナンバー(名曲)”Bei Mir Bist Du Shoen”(素敵なあなた)のメロディーライン(サビの部分)を連想させるリズム演歌風で、後者は昔のムード歌謡曲のようですが、いずれも歌唱力の素晴らしさが印象に残ります。調べてみると何と59歳になった一昨年に「安芸灘の風」で日本有線大賞新人賞と有線問い合せ賞を、そして昨年も「雨の・・・」で同大賞のロングリクエスト賞を受賞していました。三味線の弱音器を題名にした「しのび駒」(2011年)と霊地四国らしい「森羅万象(しんらばんしょう)」(2012年)も魅力ある歌だと思います。
そして高校時代から40年以上も音楽活動を続けて、インディーズ(自主制作)を経てついに還暦(かんれき)直前にメジャーデビューを果たしたことも知りました。現在は「安芸灘の風」と同様に愛媛県の今治(いまばり)市を歌った「来島海峡(くるしまかいきょう)」(2012年)がヒットし、今年4月には五木ひろしさんに「夜明けのブルース」を提供しています。ちなみに、安芸灘は瀬戸内海西部の愛媛県北西部と対岸の広島県南西部にある海域で、来島海峡はその海域に含まれます。レーモンド松屋さんが団塊(だんかい)世代の星として活躍されることを祈りたいと思います。
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