2003年に米国で発売されてベストセラーとなったマイケル・ルイスのノンフィクション本”Money Ball”(副題;The Art of Winning An Unfair Game、不公平なゲームに勝利する技術)の日本語訳『マネー・ボール』(副題;奇跡のチームをつくった男、2004年講談社刊)を遅蒔(おそま)きながら読みました。
テキサス・レンジャーズで大活躍するダルビッシュ有投手(5月27日現在、ハーラーダービーのトップとなる7勝目を挙げた)や5月29日に大リーグ(タンパベイ・レイズ)へ昇格して立て続けに2本のホームランを放った松井秀喜選手に触発されただけではありません。実は同居者が毎年やっているボランティア活動の事前準備を手伝う(パシリ役)ため、私も連休明けから3週間ほど自宅に足止めされていたからです。
本書は米メジャーリーグの貧乏球団であったオークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGM(ゼネラルマネージャー)が独自の手法を用いて強豪チームを作り上げていく様子を描いた実話に基づくノンフィクションで、昨年には映画化もされています。ちなみに、原書の副題にある”Art”は芸術や美術ではなく、洗練された技術と言う意味です。そして、”Unfair”(不公平)は米国憲法が保障する権利を侵害することであるとしてアメリカ人が一番嫌う言葉です。
題名の『マネー・ボール』は2000年頃には大リーグ球団の財力に大きな格差が出来てしまったことで、良い選手はお金をたくさん持つ球団に引き抜かれる事態が頻発して、『野球はスポーツではなく金銭ゲームになった』と球団オーナー達が嘆くようになった状況を象徴する言葉でした。2002年には年俸総額がトップのニューヨーク・ヤンキースの3分の1の年俸総額(大リーグでほぼ最下位)で、アスレチックスが大リーグで最高の勝率を上げるまでを描いています。
アメリカの大リーグに詳しくない方のためにアスレチックス球団とこの本の主人公ビリー・ビーンについて簡単に説明しましょう。アメリカンリーグ西地区に所属するこのプロ野球チームはワールドシリーズ制覇9回を誇るリーグ屈指の名門球団でした。地区優勝は2006年まで累計14回ありますが、リーグ優勝は1990年が最後で、ワールドシリーズ優勝から1989年以降は遠ざかっています。オーナーが潤沢な資金を投じたことでアスレチックスは1991年の総年俸は全球団で1番高く、1988年から1990年まで3年連続でワールドシリーズに進出しています。
しかしそのオーナーが1995年に亡くなったことで球団は売却されて、新しいオーナーは運営費を大幅に削減することを決めたのです。ビリー・ビーンがアスレチックスのゼネラルマネージャーのサンディ・アンダーソンの補佐役としてフロントに入ったのはこの直前の1993年で、大リーガーとしての将来を嘱望されたこともあるビリーはここでフロントとして大きな転身を遂(と)げるのです。
1997年にはゼネラルマネージャーに就任、ビル・ジェイムズが考えた画期的な野球理論をベースに、補佐役(ハーバード大学出身の研究開発部長)のポール・デポデスタのデータを活用して許された予算内で勝利数を最大化する手法を練り上げて、2001年から2002年にかけてのドラフト会議やトレードで実践して大きな成果を上げる状況が詳細に説明されます。
ちなみに、オーランド・アスレチックスが属するアメリカンリーグ西地区にはテキサス・レンジャーズ(ダルビッシュ有投手・上原浩治投手・建山義紀投手)、シアトル・マリナーズ(イチロウ外野手・岩隈久志投手・川崎宗則内野手)、ロサンゼンス・エンゼルス(高橋尚成投手)も所属しています。またアスレチックスを見習うために東北楽天ゴールデンイーグルズが2009年に業務提携しており、2012年にはアスレチックスはシアトル・マリナーズとの開幕試合を日本で行っています。
前置きが長くなりましたので、さっそくこの本の内容を紹介します。
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第1章「才能という名の呪い」は有り余る才能に恵まれたビリー・ビーンが高校を卒業する時にニューヨーク・メッツに誘われて大学進学とどちらを選ぶかを迷いながらも契約する経緯を説明。第2章「メジャーリーガーはどこにいる」は20年後の2002年夏に移って、アスレチックス球団のゼネラルマネージャーとなったビリー・ビーンがドラフト会議を直前に、前年の失敗を反省して、選手の選考方針をスカウト全員を前に徹底する様子が具体的に描写される。
第3章の「悟り」は時間が戻って、ビリーがメッツに大きな期待を持たれて入団する場面とその後の状況が描かれる。野球に打ってつけの身体だが、感情の起伏が激しい性格は野球向きでなかったため、成績を挙げられず、メジャーリーガーになるどころかミネソタ・ツインズへトレードされる。そこでビリーはメジャーと3Aを行ったり来たりしながら、デトロイト・タイガースへ、最後はオークランド・アスレチックスへと渡り歩いた。そして自ら望んでスカウトに転進する。
第4章「フィールド・オブ・ナンセンス」では野球に新しい考えを持ち込んだビル・ジェイムズが紹介される。そのポイントと思われるのは次の2つ。『守備力の評価はエラー数を比較して、エラーが少ないほど優秀とされるが、野球におけるエラーと言う概念が審判の主観に基づいて判断を下す参考意見の記録である。(中略)エラーをするのは何か的確なことをした場合に限られるのでエラー数は意味をなさない』『バント・盗塁・ヒットエンドランなどの戦略はいずれも自滅行為に近く、恥をかくのを避けたいという全て共通の意図を持っている』
第5章「ジェレミー・ブラウン狂想曲」ではビリー・ビーンのドラフト会議における駆け引きの巧みさを詳しく解説して、20名の指名候補リストから3名獲得すれば上出来なところを13人も獲得する成果を紹介する。他球団が欠点があるとして見送った選手の中から見込みがあるものを選んで指名したのである。
第6章「不公平に打ち勝つ科学」でビリーの戦略が詳しく解説される。『打率より出塁率(アウトにならない確率)が何より大事。野球チームの成功にもっとも寄与する機能はどんな形であれ出塁することだ』『得点期待値の考えで打撃や捕球がどんな意義をもつかは場面に応じて客観的に決まる』『新しいコンピュータシステムを使えば、他のどんな方法よりも正しく選手の真価をつかめる』『チームの勝利にとっては守備力よりも攻撃力がはるかに重大であるというかねてからの信念がコンピュータによって裏打ちされた』など多岐(たき)に亘(わた)る。
第7章「ジオンビーの穴」は出塁率が高く、球界で1・2を争う攻撃力を持つジオンビー一塁手が抜けたあとの補充方法を解説。出塁率にだけに着目して3人の選手を安い金額で獲得したのである。第8章「ゴロさばき機械(マシン)」は捕手一筋のハッテバーグを一塁手として入団させるために行った他球団との駆け引きと、内野守備コーチが6週間で彼を先発一塁手として仕立て挙げる様子が描かれる。
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第9章「トレードのからくり」ではトレード期間が終了する7月30日の前日まで選手を獲得するためにビリーが競合チームのゼネラルマネージャー相手に使った手練手管(てれんてくだ)とその成果を解説。第10章「サブマリナー誕生」ではサイドスローから下手投げ(サブマリナー)に転向したブラッドフォードの成長を解説。他球団からは見向きもされなかった投手だ。シカゴ在住の野球データの面白さの虜(とりこ)になった弁護士ボロス・マクラッケンの仮設も紹介した。『ホームラン以外のフェア打球は、ヒットになろうとなるまいと、投手には無関係で、実はただの運である』とする記事を読んだアスレチックスのフロントは新しい投手評価法を確立するべきだと考える。
第11章「人をあやつる糸」では20連勝という歴史的な記録が掛かった試合を実況中継風に解説する。11-0でアスレチックスが大量リードして記録更新は確実と思われた試合がいつのまにか11-11と同点に追い付かれた9回裏にハッテバーグの打球は快音とともにはるか右中間へ一直線に飛んでいく。球はフェンスを越えてスタンドの上段に突き刺さった。
第12章「ひらめきを乗せた船」ではビリー・ビーンに転機が訪れます。2002年のプレイオフではビリーのやり方が通用しないと外部者はもちろん、レギュラーシーズンをそのやり方で戦ったアスレッチックスの選手も疑問を持っていた。その結果はアスレチックスが2勝3敗で敗退した。得点はレギュラーシーズンを少し上回ったものの、失点が多かったのが敗因で、大博打(だいばくち)あるいは運が試合を大きく左右するのはポストシーズンがレギュラーシーズンと異なる点なのです。球団オーナーが自分の価値を十分評価していないこともビリーは不満に思う。
このような状況ではあったが、トロント・ブルージェイズの新しいオーナーとなったロジャーズ・コミュにケーションズ社(筆者注;カナダの大手通信会社)は全球団の中で最も赤字が多いことに不満を覚えて、球団を独立採算にすることにした。これを実現するために新しいゼネラルマネージャーを採用することにして、いろいろ探した結果、ビリー・ビーンが率いるアスレチックスを見習うことにする。
長期契約を結んでいるビリー本人を引き抜くのは難しいので、ポールに当るが断られたため、選手管理部長のJ.P.リッチアーディと契約する。J.Pはポールに相当する人物が必要であるとのビリーの助言に従ってキース・ローという28歳のハーバード卒業生を雇う。野球経験は無いが興味深い文章を野球サイトに寄稿していた人物である。そして古株スカウト25人を解雇した上でチームメンバーの改革に取り組んだ。
ブルージェイズの大胆な梃入(てこい)れを見て、一部の他球団も安くて強いチームを作れることに気付き始めた。ボストン・レッドソックスもその一つで、ビル・ジェイムズを球団運営担当の上級コンサルタントとして雇い入れた。そしてゼネラルマネージャーにビリー・ビーンと全球団のゼネラルマネージャーとしては最も高額の報酬で合意する。後任はポール・デボスタ。後は契約するだけの段階になってビリーはボストン・レッドソックスからの申し出を断ってアスレチックスに残ることを決めた。自分の真価を世間に知ってもらいたいという望みが適(かな)ってしまったからである。そしてその傍らにはこれまでと同様にポールが居た。
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エピローグではビリーが見込んで獲得したデブのジェレミー・ブラウンとドラフト1位のニック・スウィッシャーがルーキーチームから1Aへ昇格、そこで大活躍したジェレミーは2002年のドラフト指名選手のなかでただ一人2003年にメジャーチームの春季キャンプに参加する。そして10月の試合では本塁打を放ったにも係わらず全力疾走して転倒、それまでのように体格ではなく、一生懸命さに好感を持った同僚選手たちに笑われるシーンで幕を閉じる。
解説文でスポーツジャーナリストの二宮清純氏が引用するように、著者のマイケル・ルイスは『プロ野球をやる人々の王国と、プロ野球について考える人の共和国の対立』と看破(かんぱ)し、ビリー・ビーンは幸いなことにメジャーリーガーとしての成功体験がなかったこと、球界を支配していた迷信(めいしん)を駆逐(くちく)して科学する(何よりも出塁率を重視する)方法を確立した。ビリー・ビーンが戦っているのはマネーでもなければヤンキースでもない。教典と化した『過去の知性』である。しかし最先端のセオリーもいつかは『過去の知性』と化すと二宮氏は指摘する。
名前も知らない数多くのアメリカ大リーグ選手が登場するこの本は日本人には馴染み難(にく)さを感じさせますが、既成概念に囚(とら)われず、客観的なデータを重視した選手評価とチーム作りの考えを通して、読者に他分野にも共通する考え方を示唆する良質な本でした。
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