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2012年10月に作成された記事

2012年10月31日 (水)

小説「永遠の0(ゼロ)」を読む

百田(ひゃくた)尚樹氏が小説家としてデビューした著作「永遠の0」を読みました。世界チャンピオンになったファイティング原田さんの活躍を取り上げたノンフィクション「RING」に魅せられた私は期待を持ってこの小説(2006年8月28日太田出版発行、445頁のハードカバー)を手に取りました。

青空と白い雲が描かれている表紙(ジャケット)を開いた見返(みかえ)しには、「生きて妻のもとへ帰る」の見出しに続いて、『日本軍敗色濃厚ななか、生への執着を臆面(おくめん)もなく口にし、仲間から「卑怯者」とさげすまれたゼロ戦パイロットがいた・・・。』と書かれています。どんな戦記物かと思いながらページを捲(めく)りました。

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短いプロローグに続いて登場したのは司法試験浪人の佐伯健太郎とその姉でジャーナリスト志望の慶子である。神風特攻隊として戦死した祖父宮部久蔵のことを調べる仕事を姉から依頼された健太郎が、厚生労働省や旧海軍の戦友会に問い合わせて、宮部久蔵の軍歴や戦時中の彼を知る旧海軍関係者を探すところから物語が始まった。

小さな出版社を4年前に辞めてフリーライターをしている慶子は大手新聞社の終戦60周年プロジェクトのスタッフに選ばれたことで、その予行演習に自分たちの祖父(祖母の最初の夫)を調査することを思いついたのである。二人は身内の誰からも戦死した祖父のことを聞いたことがないため、急に祖父のことが知りたくなったのだ。終戦後60年近くが経過していたが幸運にも9人の生存者がいることを知って、それらの人々から宮部のことを直接聞くために各地を旅することを決意する。

健太郎と慶子および証言者以外の登場人物は、母の佐伯清子、義理の祖父で弁護士の大石健一郎、祖母(故人)の大石松乃、新聞記者の高山隆司、祖父の事務所に勤務していたことがある藤木秀一のわずか5名である。

                         ☆

最初に訪れた埼玉県の郊外に住む元海軍少尉長谷川梅男は二人に対して、「奴は海軍航空隊一の臆病者(おくびょうもの)だった」と口汚く罵(ののし)ったあと、奉公先を飛び出して海軍に入り航空兵を志願した自分の体験を詳しく語った。戦闘機乗りに選ばれた長谷川は南方のラバウルで零戦(零式艦上戦闘機)のパイロットである宮部の存在を知るが、いつも無傷で帰還し、パラシュートの点検を真剣に行う宮部は「お命大事」で、「生きて帰りたい」が宮部の口癖だったとの噂(うわさ)を聞いたという。そして長谷川が米軍のグラマンに撃たれて左腕を失ったことと戦後の苦労話(恨み節)を聞いた二人はショックを受ける。

2012_05170104 二人目は四国・松山の元海軍中尉伊藤寛次である。「臆病者のパイロットだったと聞いた」という健太郎に、「たしかに宮部は勇敢(ゆうかん)なパイロットではなかったと思います。しかし優秀なパイロットでした」と答えた。そして真珠湾からミッドウェイまで同じ戦場で空母「赤城」の搭乗員であった宮部との関係と戦況を詳しく語り、予科練出身の伊藤は零戦の素晴らしさとそれを操縦したことを誇らしく思っているという。宮部については、空母への着艦が見事で一目を置かれたが、下の階級に対しても丁寧(ていねい)な言葉で話すため、仲間から軽んじられていたという。

2012_05170106 三人目は都内の病院に入院中の元海軍飛行兵曹長井崎源次郎。15歳の時に海軍に入り、航空兵に応募、茨城・矢田部で飛行練習生を終え、台南空を経て配属されたラバウルで後から来た宮部と会ったという。そして編隊飛行をする時の宮部はしょっちゅうキョロキョロと辺(あた)りを窺(うかが)っていたが、雲の中から突然現れた敵の戦闘機が井崎の背後へついた瞬間に宮部機がその敵機を撃ち落とした。しかし、その後も宮部の慎重な態度は変わらず、2度目に救われた時には「敵を墜(お)とすより、敵に墜とされない方がずっと大事だ。一度でも墜とされれば、それでもう終わりだ」と言われたという。深夜にこっそり鍛錬(たんれん)する宮部と一緒に体を鍛(きた)えはじめた井崎の問いに答える代わりに、宮部は家族の写真を見せて、「娘に会うためには何としても死ねない」と呟(つぶや)いたというエピソードを語る。

2012_05170108 四人目は和歌山に住む元海軍整備曹長の永井清孝。ラバウルで零戦の発動機整備兵をしていた時に宮部に出会った人物で、航空兵志望であったともいう。宮部は臆病者みたいな言い方をされていたが、宮部機が撃たれて帰って来たことはほとんどなかったことといつも弾が残っていたことから、永井は噂がそれほど外れていないのではないかと思っていたという。そして、やたらと飛行機の整備に口を出す宮部をうっとうしいと思うことがあったが、「永井さんが整備してくれるなら安心です」と言われてなぜかすごく嬉(うれ)しかったとも語る。宮部が囲碁で専門棋士(プロ)並みの実力を持っていたことも明かした。

2012_05170114 五人目の元海軍中尉谷川正夫は岡山の老人ホームに居た。宮部と中国・上海の航空隊で出会った時には、宮部が非常に勇敢な怖れを知らない戦闘機乗りで、操縦の技術では天才肌の持ち主であったと証言する。真珠湾・ミッドウェイ・ガダルカナルなどでの戦闘状況と比島(フィリピン)で宮部に再会したことを説明。サイパン奪回(だっかい)作戦で見た米軍の近接信管(小型レーダー信管)付き砲弾で日本軍の爆撃機がいとも簡単に撃墜され、甚大(じんだい)な被害を蒙(こうむ)り、二人とも内地に戻ったことを語る。ルソン島の基地に配置されて、特攻(とっこう)を半(なか)ば強制的に志願させられたが、宮部だけは拒否したことも明かす。そして自身は岩国で教官をしている時に終戦を迎えたという。

六人目は千葉県成田の元海軍少尉岡部昌男。県会議員を四期も務めた人だ。「宮部さんは素晴らしい教官でした」と証言を始めた。筑波の練習航空隊に教官として来た宮部に飛行科予備学生(大学出の士官)として会ったという。昭和20年初めになると特攻隊員の養成を目的として大量に採用され、2・3年はかかる訓練が1年足らずで行われた経緯を説明。言葉遣(づか)いの丁寧さとは別に、合格点をくれない教官として有名だったという。そして「皆さんには死んでほしくありません」と宮部に言われたことを明かす。岡部は桜花(人間爆弾)の乗員として出撃命令が出る前に終戦を迎えたと語った。

82 七人目の武田貴則(元海軍中尉)は一部上場企業の社長まで務めた男で、白金のホテルにわざわざ部屋を取ってくれたのである。慶子に好意を持つ新聞記者高山隆司が無理やり同行を求めて、「神風特攻隊は911のテロリストと同じである」という考え方を披露したことで武田の激怒を買う。武田は「新聞が戦前は国民を戦争へと煽(あお)り、戦後は国民の愛国心を捨てさせるような論陣を張った。特攻隊員たちの遺書の行間を読み取れない男をジャーナリストとは呼べない」と高山に向かって言う。高山が去ったあと、武田は特攻作戦を指揮した軍幹部の盲信を多くの事例を挙げて糾弾(きゅうだん)する。宮部については「すばらしい教官だった」と岡部と同様の証言をした上、「零戦こそ、宮部教官のもう一つの姿なのではないか」ともいう。

84 八人目の元海軍上等飛行兵曹景山介山は「奴は死ぬ運命だった」という。彼は中野に住む元やくざで、「俺は奴を憎んでいた」と明かす。宮部が特攻出撃する時の直掩機(ちょくえんき、味方の援護用飛行機)として飛んだと続ける。「宮部は女房とガキの写真を後生大事に持っていた。何より我慢がならなかったのは、奴が抜群の腕を持った戦闘機乗りという噂だ」として、迎撃戦からの帰路に宮部機の後方を襲い模擬空中戦に持ち込んだが宮部には歯が立たず、悔しさの余りに照準器内に入った宮部機を機銃掃射(きじゅうそうしゃ)するが一発も当らなかったという。宮部は自機を巧みに横滑りさせていたのだ。しかし特攻に出撃する宮部に同行した時には、絶対援護(えんご)して守ろうとなぜか思うのだが、自機のエンジン不調で宮部機に付いて行けない。そして一週間後に戦争が終わったと語る。

83 九人目は鹿児島市の元海軍一等兵曹大西保彦、鹿児島の鹿屋基地で通信員をしていた人物だ。他の部隊との通信連絡や、攻撃隊との交信のほか、昭和20年の春からは特攻機隊から敵空母への突入戦果の確認電信を受けることが大きな仕事になったという。これは特攻隊員がこの世に残した最後のメッセージだ。搭乗員になりたくて予科練の試験を受けたが不合格になった大西が「直掩機も特攻隊みたいなものですね」と聞くと、宮部は「全然違います。私たちは九死に一生ということがありますが、特攻隊員たちは十死零生なのです」と答えたという。そして出撃の朝、宮部少尉は奇妙なことに自分の最新式52型零戦と部下の旧式21型零戦を強引に交換させたことを大西は健太郎と慶子に告げる。

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[読後感] 戦時中、宮部久蔵の周辺にいた9人の証言(この記事ではトピックスのみ記述)によって宮部久蔵という人物が様々な視点から明らかにされました。この手法自体は小説において目新しいことではありませんが、健太郎と慶子の意見を最小限に抑えたことで、この小説はドキュメンタリーのようになり、さらに新聞記者高山の紋切り型の考え方と証言者たちの誠意ある(あるいは本音が出た)証言を対比させることで、著者が言いたいことを浮き上がらせました。プロローグとエピローグでは近接信管付砲弾の連射と機銃掃射を掻い潜(かいくぐ)って米空母に迫る悪魔が操縦するような零戦(おそらく宮部機)を目撃した米海軍兵士に現在形で語らせたことも心憎い演出でした。

最終の第12章「真相」で私には予想も出来なかったこと(実はそうだったのかと納得できること)が明らかになります。いつもネタバレを書いてしまう私ですが、今回はその重さを考えると明かすことは出来ません。第11章までは綿密な調査に基づいて記述された各戦場での戦闘経過と宮部久蔵の行動を平静に(軍部の暴挙に義憤を感じながら)読み進んだ私は、年齢を重ねたためかもしれませんが、第12章では、静かに流れ込む水を満々と蓄えたダムが水門を開けられて勢いよく放水するように、思わず目頭(めがしら)が熱くなってしまいました。

私事です。大正8年生まれの宮部久蔵は私の父より4歳年少ですがほぼ同世代と言っても良いでしょう。父は高等小学校(現在の中学校)しか出ておらず、陸軍の兵卒として北支(中国北部)の通信隊に居たことだけを私に話してくれましたが、戦地での苦労話を一切聞かせることもなくこの世を去りました。一方、大正9年生まれで宮部と一歳違いの叔父は師範学校卒であり、下士官として海軍の駆逐艦(くちくかん)に乗った経験を自費出版の本にまとめて私にもプレゼントしてくれました。その本にはガダルカナルなど南方戦線の状況が詳しく書かれており、本書と重なることがたくさんありました。

この世代は生きていれば90歳代(父は97歳)ですから、大半の方々は父や叔父と同様に亡くなっていることでしょう。私にとって太平洋戦争は歴史の1ページとしての存在でしたが、本書によって自分が生まれる前年まで続いた太平洋戦争が改めて身近なものに感じられました。アメリカに指摘されるまでもなく、最近は戦前の軍部や新聞社のように過激(強硬)な意見を誰はばかるともなく公言する人々が目立つようになり、しかも少なからぬ人々が喝采(かっさい)を送る風潮(ふうちょう)を私は懸念しています。

尚、掲載した写真は清水海軍航空隊の跡地に造られた三保飛行場(最初の4枚)とニュージーランドのオークランド戦争記念博物館に展示される22型零戦と遺品(次の3枚)です。52型零戦はワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されていますが、その写真はPCのトラブルで消失したため、残念ながらわが家に残っていません。

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2012年10月29日 (月)

茨城のドライブ旅(最終回) 常陸国一宮鹿島神宮

県道8号を塔ケ崎交差点まで戻って県道2号を南下しました。行方(なめがた)市に入った小舟津(こぶたつ)十字路で国道354号へ左折し、北浦を横断する鹿行(ろっこう)大橋(2012年4月26日開通、Yahoo!の地図には旧鹿行橋が表示)を渡ります。ちなみに鹿行は鹿島郡と行方郡の総称です。
 
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南北に細長い北浦(きたうら)の様子が見て取れます。遠方に見えるのは北浦大橋で、すぐ下に写るのは昨年3月11日の東日本大震災で橋梁が落下した旧鹿行大橋でしょう。北浦は最も大きい西浦とともに霞ケ浦を構成する湖の一つで、面積約36km²・海抜高度0m・最大水深7mです。ちなみに、浦とは入り江のことで、海岸や湖の一部が陸地に入り込んでいる地形を指します。
 
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対岸鉾田市の札(ふだ)交差点を右折して県道18号を北浦の東岸沿いに南下すると、3kmほどで鹿嶋(かしま、山偏が正式)市に入ります。北浦大橋の袂(たもと)を通過、国道51号と鹿島線の鹿島神宮駅脇を抜け、案内標識に従って鹿島高校北交差点を左折すると前方に鬱蒼(うっそう)とした森が見えて来ました。鹿島神宮です。手前の有料駐車場(料金500円)に車を停めました。
 
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昨年3月11日の東日本大震災により石造りの大鳥居が倒壊したため、その場所を示す若木が2本植えられています。2年後には境内の杉を使って木製鹿島鳥居型の大鳥居が同じ大きさで建立される予定であることが説明されていました。ちなみに、この大鳥居は二の鳥居で、一の鳥居は北浦湖畔(豊津小学校とJAしおさい鹿嶋の間)にあるようです。
 
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境内の案内図
 
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楼門は寛永11年(1634年)に水戸初代藩主徳川頼房(よりふさ)公が造営されたそうです。間口を3間として中央1間を出入り口とする三間一戸の2階建で、1階の両脇間には随神像が安置されています。
 
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鹿島神宮は伊勢神宮と香取神宮(千葉県香取市)のとともに神宮を名称に使用する三社の一社で、香取神宮とともに古代朝廷が東国を治めるにあたって蝦夷(えぞ)に対する前線基地(東北の守護神)として重要視されました。ちなみに、祭神の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、香取神宮祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)とともに天孫降臨(てんそんこうりん)に先立って国土を平定したとされる武神です。

右手の拝殿(本殿)では準備作業が行われていますので、後で参拝することにしました。その向かい側にある国宝の直刀が所蔵される宝物館は午後4時を少し回っていたため閉館していました。
 
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奥宮へ至る奥参道が夕陽に照らされています。
 
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塚原卜伝(ぼくでん)は鹿島神宮神官の息子として生まれた戦国時代の剣豪でした。
 
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その先の鹿園には神の使いとして親しまれる30数頭の日本鹿が飼われていました。説明板には『鹿島神宮では鹿が使いとされており、藤原氏による春日大社の創建に際して白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて奈良まで行ったとされる』ことと、『現在飼われている鹿は奈良の神鹿の系統を受けている』ことが書かれています。
 
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慶長10年(1605年)に徳川家康公が造営した本殿は、二代将軍秀忠公が現在の本殿を造営した際にこの場所に移されて、奥宮と呼ばれるようになったそうです。
 
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御手洗池(みたらしいけ)は神職や参拝者が心身を清める潔斎(けっさい)の池で、どんな干(かん)ばつにも絶(た)えることがない霊泉であったことと、大昔はここが表参道の起点だったと説明されています。
 
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剣を持って大鯰(おおなまず)を抑える武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の石像です。昔から大地震が多かったこの地域では地震を起す地中の大鯰を要石(かなめいし)で動けなくした「地震押さえの伝説」が伝えられるそうです。
 
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そして、その要石は地表に出ている部分は小さいのですが、地下の部分が非常に大きくて、決して抜くことができないと言われているそうです。5年近く前に参拝した香取神社にも要石があるそうですが、迂闊(うかつ)にも気付きませんでした。
 
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奥参道を拝殿まで戻ると、鹿島雅楽会と巫女(みこ)さんによる奉納演奏「雅楽の夕べ」の準備が整ったところでしたが、1時間半後の午後6時に始まるそうですから、残念ですが諦(あきら)めました。
 
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大鳥居の方面を見ると日没間近の木漏れ日(夕陽、せきよう)で参道が茜色(あかねいろ)に染まっていました。
 
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日没までには潮来ICに入りたいと思いながら国道51号(鹿島バイパス)の新神宮橋で北浦を渡りました。右隣の橋はJR鹿島線の橋梁(きょうりょう)です。
 
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首都高速の湾岸線と都心環状線では夕方の渋滞に巻き込まれましたが、今回のドライブは総走行距離約390km、平均燃費25.3km/ℓでした。

<同行者のコメント> 鹿島神宮は始めてです。大きな杉の木が密集する境内は夕方になると急に暗くなってしまいましたが、伊勢神宮と雰囲気が似ていると思いました。そして鹿島にはサッカーチームの鹿島アントラーズがあることを知っていますよ。旦那さまによるとアントラーとは鹿の角のことだそうです。□

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2012年10月28日 (日)

茨城のドライブ旅 ほっとパーク鉾田「自遊館」

「ひたち海浜公園」の駐車場を出て左折、さらに県道247号で海岸沿いの市道へ右折して阿字ヶ浦(あじがうら)を左手に見ながら南下しました。
 
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阿字ヶ浦海水浴場の付近で県道6号に入り、磯崎漁港を通過すると、磯崎町の岩場に出ました。
 
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この当りから平磯町にかけて続く中生代白亜紀層(ちゅうせいだいはくあきそう)は県指定天然記念物だそうです。
 
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県道108号は湊公園から見た海門橋で那珂川を渡ります。
 
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県道173号にそれて大洗海岸を通過します。大洗公園で何かの催しものがあるようで、交通整理が行われていました。大洗ゴルフ場の先で県道173号は県道2号に吸収されたあと、大洗マリンタワー(高さ60m)を左手に見ながら進むと渋滞が始まりました。駐車する車が路肩を占拠しています。大洗リゾートアウトレット大洗わくわく科学館などがあるからでしょう。

マリンタワー南交差点を右折して渋滞を回避して国道51号に入りました。左手に見えた丸い茅葺(かやぶき)屋根の建物「参仁館」(さんじんかん)はペンションでした。
 
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大洗町から鉾田(ほこた)市に入ると国道51号は海岸線から少し内陸寄りのコースに変わりました。ミニストップの先にあるY字路を右手の県道2号に入ります。中根交差点で環状線のような県道2号のバイパスにそれて鉾田の市街地を迂回(うかい)し、塔ケ先交差点を右折して県道8号を西進。そして700mほど先で案内標識に従って左の路地へと直進しました。   
 

到着したのは田園地帯に造られた公共施設(鉾田市営)の「ほっとパーク鉾田」です。広い敷地の中央にある本館「自遊館」前のロータリー付近には駐車スペースが限られているため、少し離れた場所に駐車しました。
 
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自遊館の脇には大きな人工池の修景池があります。ちなみに修景(しゅうけい)とは雄大な景色を意味する言葉です。その奥には屋外遊具・バーベキュー施設・ウォーキングコース(散策路)などがある多目的広場とパークゴルフ場が広がっていました。
 
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自遊館の外観はいかにも公共施設の雰囲気があります。
 
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券売機でチケットを購入してチェックインしました。料金は全館利用が900円と妥当な金額ですが、温泉のみを利用する場合の料金800円はやや割高感があります。ただし、65歳以上の高齢者は半額。円形のロビーを入り口と反対側へ進むとガラス窓越しに温水プールが見えました。時間があればこちらも利用したところです。2階にはトレーニングジム・リラックスルーム・レストランもあるようです。
 
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男湯の入口はこれ以上簡略化できないデザインになっていました。
 
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脱衣場も同様に明るい雰囲気があります。
 
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浴室は内湯・サウナ・露天風呂で構成されていますが、広いガラス窓と明かり取りの吹き抜けがあって手狭感を感じさせません。この温泉施設の魅力は茨城県南部では数少ない天然温泉であることと、鉾田温泉と鉾田当麻の郷(たぎまのさと)温泉と呼ばれる2つの源泉を楽しめることです。

黒い色をした前者(ナトリウム塩化物炭酸水素塩泉)は全身部分欲と露天風呂に、無色透明(臭いも少ない)の後者(ナトリウム塩化物強塩泉)は寝湯に使われています。露天風呂はコーラのように濃い黒色(東京湾沿いの黒湯のようなヌルヌル感はない)をしていますが、全身部分浴の湯の色は茶褐色ですから濾過(ろか)して再利用しているのかも知れません。そして湯の量は352ℓ/分と潤沢(じゅんたく)です。

内湯は全身部分浴(浅めの浴槽)・ジャグジー・寝湯・サウナ・水風呂が上手く配置されています。次いで移った露天風呂(岩風呂)は目隠しの塀があるため開放感はありませんが、椅子が置かれた場所には大きめのガラス窓がありますから、人工池と周辺の景色を楽しむことが出来ました。詳細は施設のhpを参照してください。

同行者は入浴後に土産物を熱心に探しています。
 
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その時、大きな荷物がホールに運び込まれました。何だろうと思えば地元産の野菜類でした。大きなダイコンが一本110円、トマトが一袋120円、その他にパプリカ、レンコン、ブドウなどが並べられました。その途端、このタイミングを待っていたように地元の人たちの人だかりができました。同行者は大きなダイコンに目を丸くして、「安い!」と一本抱え上げました。右端の買い物籠(かご)と較べると大きさが分かると思います。
 
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今回の温泉施設は平凡でしたが、予期しない野菜の特売に出会った同行者は大満足のようです。(続く)

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2012年10月26日 (金)

茨城のドライブ旅 ひたち海浜公園(後編)

香りの谷に入ります。
 
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様々なハーブが楽しめるようです。
 
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「キャンディーミント(シソ科)はハーブキャンディや料理に使われるのよ」と同行者が薀蓄(うんちく)を傾けます。
 
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カレープラント(キク科)を見つけた同行者は「カーレーの匂(にお)いがする」とはしゃいでいます。促(うなが)されて嗅(か)ぐと香辛料(こうしんりょう)のような匂いでした。
 
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「ルバーブ(タデ科)の赤い茎はジャムなどを作るために使われる」と講義が続きます。『蓼(たで)食う虫も好きずき』に関係があるかと調べると、こちらは同じタデ科でもイヌタデ属のヤナギタデでした。ちなみにルバーブはダイオウ属。
 
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シソ科アキギリ属のアメジストセージ(メキシカンブッシュセージなどの別名あり)コスモスやヒガンバナ(曼珠沙華)とともに秋を感じさせる草花です。
 
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同属のゴールデンセージとロシアンセージの可憐(かれん)な花が咲いています。昭和記念公園駒沢オリンピック公園でセージの仲間を見たことを思い出しました。
 
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サルビア・アズレア(セージ)は、通常 赤い花を咲かせるサルビア(シソ科アキギリ属の総称)の仲間ですが、アズレアの名が付けられたように空色の花に特徴があります。
 
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同じシソ科のローズマリー(木立ち性)は千葉・勝浦の宿泊施設でも見掛けました。
 
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ハニーサックル(スイカヅラ科)のアーチです。私はスイカズラから徳島県三好市にある祖谷の蔓橋(いやのかづらばし)を連想しました。調べてみるとハニーサックルの別名(和名)はニオイニンドウで、スイカヅラ(吸い葛)は花を口にくわえて蜜を吸うことに因(よ)るそうです。そして『冬を耐え忍ぶ』ことから忍冬(にんどう)とも呼ばれるそうです。ちなみにサックル(suckle)は『呑む』を意味する英語。
 
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ラベンダーグロッソ(シソ科の多年草)はイングリッシュラベンダーとスパイクラベンダーとの交配によって生まれた品種で、香りがとても良いそうです。写真に写るのはシルバーリーフが美しいその若苗(わかなえ)です。ちなみにローマ時代にはラベンダー油が入浴用香水に使われたことからラベンダー(洗うの意味)と名付けられたようで、またグロッソはラベンダーを作り上げたフランス人の名前でした。
 
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駐輪場に停めた私の自転車と同行者のレンタサイクルを一緒に撮影しました。
 
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さっそうとゴールへ向う同行者
 
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「林間ジェットコースター」と「林間ドライブくん」を指差すと同行者は「乗らないわ。あれは子供用でしょ!」の返事が・・。
 
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「ぴょんぴょん橋」の上に大きなトピアリが見えました。熊かコアラのようです。後で確認するとマスコットうさぎの「海(かい)くん」でした。実は熊と思った部分は両耳で、その右側に横顔があります。ちなみに、もう一人のマスコットうさぎは花(はな)ちゃん。
 
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逆光でしたがパターゴルフガーデン越しに大観覧車を撮影
 

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中央サイクルセンターに並ぶ人の列はかなり短くなっていました。参考情報ですが、サイクリングコースは全長約10km、料金は3時間まで300円です。
 
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混雑が一段落した中央ゲートを出て、次の目的地に向います。
 
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(続く)

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2012年10月25日 (木)

茨城のドライブ旅 ひたち海浜公園(中編)

「みはらしの丘」から駐輪場に戻ってサイクリングを再開するとシーサイドトレインと行き交(か)いました。約35分で園内を一周できるとともに、園内10カ所の停留所で乗り降り自由(1日乗り放題)なのだそうです。
 
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振り返ってみた「みはらしの丘」と「はまかぜ橋」です。
 
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「はまかぜサークル」は「草原エリア」の反対側(北東)にありました。「草原エリア」に生えているのはススキかと思いましたが南米のパンパス(草原)に生息するパンパスグラス(イネ科)の群生でした。
 
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「海浜口・風のゲート」を通過した時に同行者から電話連絡が入りました。やっと自転車が借りることが出来たとのこと。人園してから1時間以上が経過しています。
 
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同行者と合流して2周目に入ると、「水のステージ」では昔懐(むかしなつ)かしいビッグバンドがジャズの名曲を演奏しています。池の反対側へ歩いて向いたい衝動(しょうどう)に駆(か)られましたが、同行者の反応を予想して自重(じちょう)しました。
 
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「みはらしの丘」の混雑は先ほどより酷(ひど)くなったようです。トンボが左上に写っていることをこの記事を書く段になって気付きました。
 
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今度は低い第1頂上(標高38m)へ向いました。コスモスが230万本もあるとは驚きですが、私は数えた方法に興味があります。
 
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下の広場から立ち上る煙が見えました。午前11時半近くになっていますから昼食の場所を探すことにして、「みはらしの丘」を下りると、その煙は「五浦ハムのハム焼き」の店が出しているものでした。そこには長い行列が・・・。
 
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私は「うまいもん山海」に並んで「しらす飯」(500円)と「ミニけんちん汁」(200円)を選びました。けんちん汁はかなり濃い目の味であり、しらす飯も青菜が多すぎてしらすの風味が感じられません。風林堂の豚炙(あぶ)り弁当かカルビ弁当、あるいは来鳳のチャーシューメンにすべきだったのかもしれません。
 
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インド料理に目がない同行者は曼荼羅(まんだら)でインド風唐揚げ(350円)とコキアをイメージしたソフトクリーム(300円)を買い求めました。唐揚げはインド風だけにスパイスが強めです。同行者は「コキアというからどんな味かと思ったら、ただのイチゴ味じゃない!」とブーイングをしています。
 
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「海浜口・風のゲート」に別のシーサイドトレインが到着。
 
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少し先にある砂丘ガーデンに立ち寄りました。
 
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砂の散策路を歩きます。
 
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ハイネズは低木性の海浜植物で、這(は)うように生育するネズ(ヒノキ科ビャクシン属)であることから名付けられたと説明されていました。雌株(めかぶ)にできる実はジン(酒)を作るために使われるそうです。
 
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砂丘ガーデンから茨城港常陸那珂港区を見ていると、またぞろ映画『アラビアのローレンス』の感動シーンを思い出しました。
 
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サイクリングコースの上に架かる香り橋に上がってみました。先客が蓋(ふた)を開けて中を覗(のぞ)き込んでいます。
 
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ナゾナゾでした。
 
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中に答えが入っています。
 
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(続く)

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2012年10月24日 (水)

茨城のドライブ旅 ひたち海浜公園(前編)

午前9時を過ぎた頃、目的地である「ひたち海浜公園」へ向かいました。旧日本軍の水戸飛行場(戦後は米軍の水戸射爆場)の跡地に造られた国営公園(1991年開園)で、広大な面積と四季の花々に人気があるようです。7つのエリアに分けられた公園内の移動手段はシャトルバスとシーサイドトレインですが、レンタサイクルも魅力です。そして自分の自転車を持ち込むことが出来ますから、自宅を出発する前に折りたたみ自転車を車に積み込んであります。

中央ゲートから入園することにして南駐車場へ向いました。開園時間の9時30分に少し時間がありますから安心したのも束の間、何ということか入場待ちの車が表道路まで続いていたのです。10分ほど待たされて駐車料金500円を支払った後、係員の誘導に従ってパーキングロットに入りました。中央ゲートに近い場所はすでに車で埋まっています。車から降ろした折りたたみ自転車を押して向った中央ゲートで混雑する理由が分かりました。この日は秋の都市緑化月間で入園料金が無料だったのです。
 
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中央ゲートを入った「プレジャーガーデンエリア」は大観覧車・SEAゴーランド(回転木馬)・林間ジェットコースターなどがそろった遊園地そのもの。同行者の好きなジェットコースターは後にして、中央サイクルセンターへ急ぎましたが、すでに長い待ち行列が出来ていました。タンデム(2人乗り)が少し残っているだけですから、列に並ぶ同行者を残して私だけが出発することに。
 
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すぐ横にある中央フラワーガーデンには色とりどりのコスモスが咲き乱れています。写真はカーペットイエローとチョコレートコスモスです。
 
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こちらはクリムゾンキャンパスとセンセーション
 
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サイクリングコースはすべてのエリアを周回しているようですから、順路に従ってまず西口エリアへ向いました。
 
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前方に見えるスロープはBMXコースでした。BMXとは20インチ径のホイール(私の自転車も同サイズ)を持つ競技用自転車のこと。
 
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久しぶりにブログへ登場した私の自転車。ハンドルに掛けられたワイヤー錠(じょう)はサイクリングの必需品です。
 
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右手には草原エリア(約8haの芝生広場)
 
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最初のサークルは「まつかぜサークル」で、名前の通り松林の中にあります。順路に従って左手の「スイセンサークル」へ向いましたが、右手へ進むと草原エリアを一周することもできます。
 
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県道57号を横断する「まつかぜ橋」を渡りました。駐輪場があちこちに設置されていますから、自転車を降りて周辺を散策することもできます。丘の上で紅紫色に咲くのはリュウキュウハギ(琉球萩)のようです。
 
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西口エリアのシンボルである「水のステージ」では準備作業が行われています。
 
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反対側には大きな噴水が涼しげです。
 
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左手一帯がスイセンガーデンのようですが、今はスイセンの季節ではありませんから、西口サイクルセンターで折り返しました。最北部の「樹林エリア」ではサイクリングコースが真っ直ぐ伸びています。木立の中で黄色い花を咲かせるセイタカアワダチソウ(背高泡立草)は北アメリカ原産の外来種でススキなどの在来種と競合するそうです。
 
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右手の「みはらしの丘」に赤く色付いたコキアが見えましたので、「みはらしエリア」の駐輪場に自転車を停めました。コスモスとコキアが美しいコントラストになった「みはらしの丘」には夏の富士山のようにジグザグ道を登る人の列が続いています。
 
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私もその後に続きました。駐輪場の方向を振り返ると「まつかぜ橋」と同様に県道57号を横断する「はまかぜ橋」が見えます。
 
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隣の低い丘まで続くコキアの群生は3.6万株もあって壮観です。春には「ネモフィラ」が「みはらしの丘」を青空のようなブルーで覆(おお)いつくすそうですから、埼玉県にある秩父羊山公園(サクラソウの名所)と似た景色になるのでしょう。
 
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中国から渡来したこの植物(一年草)は箒木(ほうきぎ)あるいは箒草(ほうきぐさ)と呼ばれます。先端部が茶色くなっているものが見受けられますから、この休日が最後の見頃かもしれません。ちなみに、夏場は緑色をしているそうです。

「みはらしの丘」(第2頂上、標高44m)から見た茨城港常陸那珂(ひたちなか)港区と鹿島灘(かしまなだ)方面です。
 
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この「みはらしの丘」(第2頂上)が頂上かと思いましたが、富士山で言えば8合目付近(あるいは宝永山)でした。
 
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これは「みはらしの鐘」ですが・・。私は鳴らさないで通過しました。
 
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「みはらしの丘」(第3頂上、標高58m)からは大観覧車が遥(はる)か遠くに見えることで、この公園の広さが良く分かります。
 
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周辺の航空写真には、TOHOシネマズひたちなか(左下)、茨城港常陸那珂港区(右上)、コマツの茨城工場(みはらしの丘の左上)、東京電力の常陸那珂火力発電所(中央上)、などが表示されています。
 
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名前の表示はありませんが、左上の林間にある施設が日本原子力発電(電力会社9社と電源開発が設立した会社)の東海発電所です。1966年に営業運転を開始した日本初の商業用原子力発電所でしたが1998年に運転を終了し、これまた日本初となる原子力発電施設の解体作業が行われているそうです。ちなみに現在は原子炉周辺施設が解体対象で、原子炉本体の解体作業は2014年に着手されるようです。(続く)

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2012年10月22日 (月)

茨城のドライブ旅 ひたちなか市の史跡探訪

次回のドライブ先に久しぶりの千葉県(房総半島)を考えていましたが、ちばアクアラインマラソンのため東京湾アクアラインが昨日(10月21日)の午前8時から午後2時まで通行止めになると知ったことで、急遽(きゅうきょ)目的地を茨城(いばらき)県に変更しました。昨年12月、福島県いわき市へドライブした時に通過して以来です。

2年半前に平将門縁の地を尋(たず)ねて茨城県南部をドライブ、9年半前には袋田の滝から勿来の関までをドライブしていますから、今回はまだ訪れたことのない(メインルートの常磐自動車道から離れた)ひたちなか市に決めました。これまでスケジュールの都合で立ち寄れなかった場所です。ひたちなか市は県庁所在地の水戸市から北東へ約5kmの勝田に市役所がありますが、今回の目的地はひたちなか市の海より(東部)地域です。

わが家から高速道路なら約150km(直線距離では約120km)と近い場所ですから、遠出する時の「七つ立ち」ではなく、昨日は「明け六ッ」(午前6時)に自宅を出発して首都高速道路に入るとちょうど朝日が昇ったところでした。右手方向から朝日を受けながら休日の首都高を順調に走って池尻ジャンクションで地下トンネル(中央環状線)へ。こちらも空いていますからマイペースで走行できます。小菅JCTで6号三郷線にそれ、三郷JCTで常磐道に入りました。この先も友部(ともべ)JCTまでは前回のいわき市行きとまったく同じルートです。

今回は友部(ともべ)JCTを右にそれて北関東自動車道へ入りました。北関東自動車道は北関東3県(群馬・栃木・茨城)を結ぶNEXCO東日本の高速道路で、平成23年3月19日に全盛開通したことで関越自動車道(高崎JCT)・東北自動車道(岩舟JCT・栃木都賀JCT)・常磐自動車道(友部JCT)の3つが相互につながれました。水戸南JCTから先は同じNEXCO東日本の東水戸道路(一般国道自動車専用道路、最高速度60km/h)となって「ひたち海浜公園IC」まで続いています。

当初の予定では「ひたち海浜公園IC」まで一気に走る予定でしたが、一つ手前の「ひたちなかIC」に差し掛かったのが午前8時30分と予定よりも30分早いので、このICで下りて道草を食うことにしました。細かい話ですが、このICで下りれば東水戸道路の通行料金(100円)を支払わなくても良いのです。国道245号に出て南下しました。約2.5km先を左折して県道6号へそれて、3つ目の信号を右折し、さらに栄町1丁目交差点を左折して路地に入ると右手の公園に案内看板が見えました。

市指定建造物である山上門(さんじょうもん)は水戸藩江戸上屋敷(現在の東京都文京区小石川町)の正門右側に特別設けられた勅使奉迎用の門(形式は薬医門)で昭和11年に現在地へ移築されたと説明されています。
 
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立ち寄った目的はこの門ではなく、その奥にある史跡(しせき)です。
 
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公園内の折れ曲がった石段を上り切った場所に煙突のようなものが見えました。
 
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手前の石柱には茨城県指定史跡「那珂湊反射炉跡」と刻まれています。ちなみに右奥の建物は隣接する那珂湊高校の校舎です。
 
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反射炉(はんしゃろ)とは鉄を精錬(せいれん)する施設ですが、燃焼室で発生した熱線や高温ガスを反射させて別室に集める構造であることからこの名があります。つまり、幕末に異国船が近くの海に出没するようになったため、水戸藩藩主徳川斉昭(なりあき)により安政4年(1857年)に作られた水戸藩営大砲鋳造所の跡地なのです。
 
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『オランダの技術により大型金属溶解炉(高さ約15m)が2基建設されて20数門の大砲が鋳造されましたが、幕末に藩内が対立して争った元治甲子(げんじかっし)の乱で破壊され、昭和12年にほぼ原形通りに復元された』ことが説明されていました。ちなみに伊豆の国市にも同様の施設(韮山反射炉)があります。
 
 
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こちらは反射炉に約4万枚使われた白色耐熱煉瓦(はくしょくたいねつれんが)を焼いた登り窯(のぼりがま)の復元模型です。
 
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登り窯は陶磁器を焼くことに使われる大陸伝来の窯の一種で、 第一燃焼室の燃焼ガスを対流させて各室でも利用する仕組みがあり、大量かつ均一な焼き物を作ること目的に適した窯です。
 
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反対側を振り返ると那賀(なか)川と国道245号の赤く塗られた湊(みなと)大橋を望むことができます。手前の四角い屋根は公園内にある無縁堂です。
 
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次いで向ったのは500mほど東にある湊公園です。天満宮脇の坂道を上った場所に広い緑地が広がりました。
 
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水戸藩第2代藩主徳川光圀(みつくに)公の命により元禄11年(1698年)に建てられた水戸藩別邸の「賓閣跡(いひんかくあと)」(市指定史跡)です。現在は当時の建物は残っておらず、高台の園内には散歩道が整備されています。
 
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市指定天然記念物の「湊御殿の松」(みなとごてんのまつ)は徳川光圀公が須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せ植えた枝ぶりの見事な黒松で、現在12株が残っているそうです。手前にある大きな石は賓閣の庭石だったのでしょう。
 
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反対側からも見てみました。いずれも立派な黒松です。
 
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この橋は那賀川に架かる海門橋(かいもんばし)です。
 
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海の方向に目を転じると「アクアワールド大洗水族館」(右後方の建物)が那賀川越しに見えました。
 
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湊八景史跡「日和山秋月」(ひよりやまのあきのつき)の石柱に期待して高みに登ってみましたが、周辺地域が建てこんでいるため、絶景とは言い難(がた)い風景が眼下に広がったことは残念です。尚、「八景」については八景島シーパラダイスの記事で説明しています。
 
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(続く)

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2012年10月20日 (土)

幼稚園の大運動会

9月下旬の週末にチビスケくんの幼稚園で運動会が開催されました。今年4月に年少として入園したチビスケくんにとっては入園式以来の大きな行事です。その両親にとっても始めての経験で、わが家にも声がかかりましたので、喜んで参観することにしました。

チビスケくんは自宅に近い幼稚園ではなく、わが家に近い幼稚園に幼稚園バスで通園(登園)しています。実はチビスケくんのお父さんとその兄弟たちも通ったマンモス幼稚園(園児は現在500人以上)なので、勝手は良く分かっていますから、まごつくことはないはずです。それに運動会が開かれる場所も昔と同じです。

しかし参観する家族が昔より熱心になったためか、会場の門が開く時間は運動会の開始時刻である午前9時の1時間前(午前8時)に設定されていると聞かされました。帰りが遅いお父さんに代わって私が席取の列に並ぶことにしました。早起きが得意な私は朝の3時過ぎには起き出して、あれこれ暇を潰(つぶ)しながら空が白むのを待ちました。そして5時になった頃、わが家に近い会場へ歩いて向いました。

先頭近くに並べるだろうと思いながら会場付近に到着した私は30人ほどの人たちがすでに並んでいるのを見て驚きました。ラーメンや親子丼などを食べるために止むを得ず並んだことはありますが、アップルの新製品を買うために並んだりするのが嫌いな私の考えは少し甘かったようです。来年は午前3時、遅くとも午前4時までには到着することを密(ひそ)かに誓いました。

アイフォーン(ラジコ)でラジオ放送を聞きながらキャンプ用の小型パイプ椅子(いす)に腰掛けて3時間ほど待つと、午前9時の10分ほど前に門が開けられました。これでやっと会場に入れると思いましたが、通路を抜けた会場への入口に並んで待つように指示されるとともに、20数人ずつのグループに分けられました。そして午前9時になると会場内に入ることが許可されました。私は第2グループのほぼ先頭ですから、チビスケくんのお父さんから頼まれていた場所(残念ながら前から2列目)にシートを敷いて席を確保することが出来ました。

苦労話はここまでにして、いよいよ本題です。午前9時少し前にはチビスケくんの身内が全員集合してチビスケくんの活躍を見守りました。

ここに掲載する写真は私が撮影したものではなく、チビスケくんのお父さんとお母さんが撮影した写真を借用しました。と言うのは、迂闊(うかつ)なことに私はデジカメからパソコンに取り込む前に誤って(勘違いで)すべての写真を消去してしまったのです。詳細は省略しますが、いくつもの勘違いと思い込みが重なったのです。判断を掌(つかさど)る大脳皮質の老化が進行し始めたのかもしれません。

P9292591チビスケくんがいよいよ登場。最初の競技は駆けっこ(徒競争)です。入場門からトラックへ向う時に俯(うつむ)き加減なのは緊張しているからなのでしょう。ちなみに写真はいずれも私のスタイルに合わせて加工してあります。 
 
   

P9292596第1組としてスタートラインについても後ろの友達を振り返っています。他の子はもう「気をつけ」の姿勢をしていますよ! 
 
 
 

P9292603 スタートの合図(スターターピストルの音)に慣れない年少さんたちは先生に急(せ)かされてやっと走り始めました。チビスケくんはなかなかのペースで快調にゴールへ向って走っています。 
 
 

P9292606 そして先頭グループでゴールイン! 身内の欲目でひょっとしたら1位、あるいは悪くても2位に見えました。今の幼稚園の運動会では皆同じ色のメダルをもらうようです。
 
 
 

P9292663 次はボンボン(ポンポンとも呼ぶ)を持ってディズニーのテーマで踊るようです。ディズニーの音楽「ミッキーマウス・クラブ・マーチ」が流れました。
 
 
 

P9292695 あれっ! チビスケくんは周囲を見回すだけで、手足が止まっています。
 
 
 
 

P9292699 チビエちゃんが堪(たま)らず場外から声援を送っています。妹の応援にチビスケくんの表情が緩(ゆる)みました。もう大丈夫でしょう!
 
 
 

P9292714 次の曲「アンダー・ザ・シー」(リトル・マーメイド)が始まるとちょっとだけ手を動かし始めますが・・。しかし、エンストした自動車のように動かなくなったチビスケくんたちを先生が激励(げきれい)しています。私は小学生の頃(60年近く前)に珠算塾の進級試験でなぜか割り算の仕方を度忘れして泣きそうになったことを思い出しました。 

P9292730 演技が終了したチビスケくんは暑さのためかスティッチの被(かぶ)り物を外してしまいました。
 
 
 
 

P9292735 チビスケくんが駆(か)けっこで貰った金色のメダル
 
 
 
 
 

P9292738 待ちに待った昼休みです。暑い日差しを避けて屋内に場所を確保。チビスケくんのお母さんとおばあちゃんが手作りしたご馳走が並びました。写真に写っているのはお母さんの力作。おばあちゃんはお赤飯・紅茶豚(紅茶で茹でた豚肉)・柿の葉の押し寿司(サーモンと鯛)などを用意されました。ちなみにドラ焼きはチビエちゃん用。

P9292749 午後の競技は親子競争。アンパンンマンの列車を使います。写真に写るのはチビスケくんではありません。
 
 
 
 

P9292756 6組による競争は延々と続き、どのチームがリードしているのか分からなくなってしまいました。終了してみれば、チビスケくんのチームは2等に入ってチームの全員が大喜びをしています。 
 
 

P9292765 チビスケくんはお父さんと一緒に笑顔で凱旋(がいせん)して来ました。
 
 
 
 

P9292785 最後の演技は手旗を使った旗体操のようです。
 
 
 
 
 

P9292793 今度は最前列で見事に踊って(失礼、体操をして)います。エライ! 
 
 
 
 

P9292802 運動会が終了すると友達たちとはしゃぎ回っています。
 
 
 
 
 

[エピローグ] 運動会があった9月下旬から3週間ほどが経過してからこの記事を投稿したのは、チビスケくんのお母さんが続けているブログに運動会の記事が投稿されるのを待っていたからです。わが子の始めての運動会であるため、いつもより長文の記事(私のブログのよう)で、しかも3回にわたる連載になりました。運動会の写真を全部消去してしまった私には待つことしか選択肢がなかったのです。ですから決して「後出しジャンケン」を狙った訳ではないのです。念のため!

<同居者のコメント> チビスケくんの運動会の写真をすべて消してしまった旦那様はかなり落ち込んでいましたが、転んでもただでは起きない旦那様はちゃっかり写真を手に入れたようです。私は豪華なお弁当を楽しませていただきました。ご馳走様、とても美味しかったです。

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2012年10月15日 (月)

百田尚樹著「RING」を読む

村上春樹氏の作品群を本ブログの記事で何度も紹介してきましたが、ノーベル文学賞の候補としてこの数年に亘(わた)って期待され、Q84によりさらに世界的な人気が高まった今回こそは可能性が高いと思われた村上春樹氏が選ばれなかったことはファンとして残念です。しかしノーベル文学賞は小説の人気投票ではありませんし、中国人作家・莫言(ばくげん)氏の受賞は中国文学における同氏の独特な存在が評価されたのでしょう。一部には2年前の平和賞で同じ中国の民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏が選ばれた時と同様に選定委員会が政治的な意図を持っているとみる意見もあるようですが・・。しかし科学技術の分野と異なり、平和賞と文学賞はある程度政治性を帯びる分野ですから止むを得ません。莫言とは変わった名前だと思いましたが、これは、「言うなかれ」を意味するペンネームでした。村上氏には来年以降もチャンスがありますから気長に待ちたいと思います。

 

 

 

 

 

ノーベル賞とは何の関係ありませんが、最近国内で人気が急上昇している百田尚樹(ひゃくたなおき)氏の著作を最近になって読んでいます。スポーツ小説の「ボックス!」(2008年6月)が2010年に映画化されたことに続いてデビュー作で100万部を突破した「永遠の0(ゼロ)」(2006年8月)も映画化されることが決まったそうです。最新作の「海賊と呼ばれた男」(2012年7月)も書籍不況が深刻化する出版界で驚異的な部数を売り上げているようです。例によって、作者のデビュー作から読み始めたいところですが、その前に選んだのはノンフィクションの「RING」(リング)。このユニークなタイトルから想像されるのはプロレスですが、実際はプロボクシングがテーマのようです。

 

 

 

 

 

 

 

2009年5月号から2010年1月まで月間『文庫』に連載された「拳闘伝説」を改題して2010年5月に発行されたハードカバー本です。ボクサーの上半身背後を赤色だけを使い力強いタッチで描いた表紙絵が印象的です。内容は日本人として始めて世界フライ級チャンピオンになった白井義男さんとその世界王座を8年後に取り返したファイティング原田さんを軸に多数のプロボクサーが登場します。筆者が指摘するのは、実力もさることながら、巡り合わせという運命とボクサーを支える関係者が世界チャンピオンの誕生に大きな影響を与えたということです。以下はネタバレになっていますから、その旨をご承知置き下さい。

 

 

 

 

 

 

 

                            ☆

 

 

 

 

 

 

 

早速、表紙を開くと1962年(昭和37年)の世界が展開。登場した小学校1年生の私は著者自身であろう。白黒テレビで父と父の友人がボクシングの試合を見ながら怒鳴り声を上げて興奮しているシーンを小説の様に紹介する。それは世界フライ級チャンピオンのポーン・キングピッチ(タイ国の貴公子と呼ばれた)とファイティング原田(原田政彦)のタイトルマッチで、ファイティング原田がパンチのラッシュでチャンピオンをノックアウトする。敗戦して間もない1952年(昭和27年)に白井義男が獲得した世界一の座を取り戻すことは多くの日本人ファンの悲願だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

白井義男の説明が続く。ボクシングに興味を持った白井はわずか2週間の練習でデビュー、連戦連勝を飾ったが、戦況が思わしくなくなった日本ではボクシングが禁止される。軍隊生活で坐骨神経痛を患(わずら)った白井はボクシングを再会するが、泣かず飛ばずの並のボクサーになってしまう。その白井の才能を見抜いたのは進駐軍将校のアルビン・ロバー・カーン博士であった。彼自身はボクシングの経験はなかったが、専門とする運動生理学の観点から筋肉の動きを研究するうちにボクシングファンになったのだ。そして彼は白井の専属コーチになって本場アメリカのボクシングを基本から教えた。その成果が出て白井は翌年に日本フライ級チャンピオンとなる。カーン博士は白井に一階級上のバンタム級王座に挑戦させて、みごと相手を倒してこの級のチャンピオンにもなる。大富豪の息子であるカーン博士は勝利を祝福して白井に家を建ててプレゼントした。

 

 

 

 

 

 

 

白井は大いに感謝するが、カーン博士の次の目標は世界チャンピオンであった。当時の世界フライ級チャンピオンのプロモーターをしていた日系2世のサム一ノ瀬を口説いてノンタイトル戦を承知させる。2度行った試合は1勝1敗であり、自信を深めたカーン博士は一ノ瀬を説得して世界タイトル戦を日本で実現させた。一ノ瀬はチャンピオンのファイトマネーを自分で用意し、この試合の興行権を手に入れた。そして移民先のハワイで苦労した両親の母国に錦(にしき)を飾ると共に、年齢的に限界を迎えたチャンピオンに白井が勝てば、それ以降の白井の試合についての興行権も手に入れたのである。白井は2年半にわたって世界タイトルを保持したが、五度目でのタイトルマッチで様々な不幸が重なって判定負けを喫してしまう。リターンマッチ時に31歳になっていた白井はKO負けをして二度とリングに戻ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

                            ☆

 

 

 

 

 

 

 

やっとファイティング原田が登場する。植木職人の4番目の子供として東京に生まれた原田は父が仕事中に怪我をして働けなくなったことで、家計を助けるため精米店でアルバイトをしながらボクシングジム(笹崎ジム)に通い始めた。中学を卒業した原田は高校へ進学せず、そのまま精米店で働きながらボクシングの練習を続ける。ボクシングを始めて2年経った頃、原田はプロテストに合格してデビューし、その3箇月後には笹崎会長の勧めで合宿生としてボクシングに専念し、新人王戦で優勝して新人王になる。さらに猛練習を厭わない原田はデビューから22連勝を達成。

 

 

 

 

 

 

 

白井義男を破ったあと6年の長きにわたってフライ級の王座に君臨(9度防衛)したアルゼンチンのパスカル・ペレス(ドミニカに亡命中)を打ち破ったのはタイ国のポーン・キングピッチ(正しくはギンペッド)であった。タイの実業家に才能を見出されたポーンは、タイ式ボクシング(ムエタイ)ではなく、最初からボクシングを練習させられた。22歳で東洋チャンピオンになり、その3年後にペレスを判定で破り、タイ国史上初の世界チャンピオンになった。半年後のリターンマッチでもTKO勝ちする。この頃に原田がプロデビューしている。

 

 

 

 

 

 

 

ポーンへ最初に挑戦したのは関光徳(後に階級を転向して東洋フェザー級チャンピオン)と野口恭(きょう)であったが、老獪(ろうかい)なポーンに2人とも破れてしまう。次いで2年前に世界戦でペレスに敗れた世界フライ級1位の矢尾板(やおいた)が挑戦権を得るが、突然引退を表明する。東洋タイトルを見事防衛したばかりであったため様々な憶測が流れた。47年後に著者は会長との確執が引退の理由であったことを矢尾板本人から聞く。2人の関係は白井とカーン博士のそれとは違う一方的な上下関係であったと著者は指摘する。そして挑戦者の代役に日本フライ級のランキングで矢尾板に次ぐ2位のファイティング原田(19歳)が選ばれた。原田なら与(くみ)し易(やす)いとポーン側が考えて同意したのであろうと著者はみる。さらに矢尾板の人となりと業界が矢尾板に辛(つら)く当たるなかでもマスコミを中心に彼を支援する人たちがいたことに言及する。

 

 

 

 

 

 

 

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通常の倍という法外な世界戦のファイトマネーをポーン側から要求されるなど屈辱的(くつじょくてき)とも言える条件をファイティング原田側の笹崎会長はすべて飲んで実現した挑戦である。そして1962年(昭和37年)にポーンが来日して東京蔵前国技館で世界フライ級タイトルマッチのゴングが鳴った。小柄でがっしりした原田とは対照的に、王者のポーンは痩(や)せ型で背が高く、リーチのある左ジャブを突き、強い右ストレートで相手を仕留めるというオーソドックスなボクシングである。内側に入らないと勝負にならない原田はゴングと同時にポーンのパンチをはずして飛び込んだ。

 

 

 

 

 

当時の世界タイトル戦は15ラウンドであり、セオリーを無視した原田のラッシュ攻撃に戸惑(とまど)ったポーンはたじたじとなり、最初のラウンドを落とした。その後のラウンドでも原田の勢いは続く。次第にポーンは焦(あせ)りの色を浮かべだした。リーチの短い原田がポーンよりも先にジャブを当てる。原田の踏み込みが速いのだが、引き足も速く、ポーンのパンチは空を切った。その直後に原田は再び踏み込んで、ジャブあるいは右ストレートを打ち込む。日本チャンピオンの矢尾板やバンタム級世界7位のエスパルサ(メキシコ)のテクニックに翻弄(ほんろう)されたことを教訓に、前後のフットワークを取り入れる大改造を行っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

原田はこうして序盤に完全にペースを握ったが、ジャブを封じられたポーンは中盤から右アッパーをさかんに繰り出し始めた。しかし原田の前進を止めることができなかった。8ラウンドにポーンは左まぶたの上を切り、鮮血を流した。そして10ラウンドに奇妙なことが起った。何と、ゴングが鳴ってもポーンがコーナーから出ないのだ。レフリーに命じられたポーンはゆっくりとコーナーから出て戦いが始まるがこのラウンドも落とした。11ラウンドの終半に原田の右クロスが当たったポーンはかろうじてダウンを免(まぬが)れたが、止むことを知らない原田の連打にたまらず、ポーンはコーナーの一番下のロープが交差したところにしゃがみこむように腰をおろした。レフリーのカウントが10まで数えられたのは11ラウンドの2分59秒で、原田のKO勝が決まった。白井義男がタイトルを失って8年目で日本人2人目の世界チャンピオンが誕生した劇的な瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

3ヵ月後の1963年(昭和38年)にタイのバンコクで行われたリターンマッチでは、原田が優勢であったにも拘(かかわ)らず、アウェイ(相手国)での地元判定により原田は敗れた。日本人悲願の世界タイトル奪回(だっかい)はわずか3ヶ月の短い夢と終ってしまった。そしてバンタム級に変更することを以前から考えていた原田はバンタム級で大活躍をするのである。その前に著者は世界1位の海老原がその年の9月に東京と体育館で1ラウンド2分7秒にポーンをノックアウトで倒したが、バンコクで行われたリターンマッチで地元判定により判定負けで敗れたことに触れる。

 

 

 

 

 

 

 

原田が「黄金のバンタム」と呼ばれた史上最強のエデル・ジョフレ(ブラジル)から1965年(昭和40年)5月にバンタム級世界タイトルを判定勝ちで奪取(だっしゅ)したことから始まるバンタム級での4度の防衛(フライ級の白井義男と同じ)とフェザー級世界タイトルへの挑戦、そして大阪万博が開催される直前の1970年(昭和45年)1月に26歳9ヶ月で引退するエピソードは長くなるので省略するが、ボクシング漫画「あしたのジョー」に登場する人物とファイティング原田を取巻く実在の人物の類似性を挙げて読者を魅了(みりょう)する著者のセンスは見事である。

 

 

 

 

 

 

 

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私が高校に入学した頃から社会人になるまでの8年間におけるファイティング原田さんの活躍を平易な文章で活き活きと描(えが)いたノンフィクションは著者の丹念な調査に基づく緻密(ちみつ)な記述が私好みのスタイルで、休むことなく全310ページを一気に読み切りました。東京オリンピックを挟(はさ)んだこの頃は「もはや戦後ではない」あるいは「高度経済成長期」(池田内閣による所得倍増計画)と言われ、日本人がより良い明日に期待して愚直(ぐちょく)に努力していた時代です。その時代にスーパースターとして登場したファイティング原田さんの活躍とその人となりを詳しく紹介する秀作は読後に心地良い余韻(よいん)が残りました。

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2012年10月10日 (水)

電波搭についての三題

私の趣味の一つであるアマチュア無線に関係が深いテーマを今回は取り上げます。アンテナを巡(めぐ)る時代的変遷に焦点を当てたため、専門的な(オタクっぽい)内容を多く含んでいますので、興味の無い方は細かい説明を読み飛ばしてください。

                            ☆

昨日の小さなニュースで知りました。青森県三沢市の米軍施設内(姉沼通信所)にある象の檻(ぞうのおり)が近々取り壊されることが決まったそうです。この奇妙な名前は巨大な円形ケージ型アンテナの通称で、全方向から電波を受信するため円形状になっていることからこの呼び名があります。国内におけるアメリカ軍の象の檻はこの三沢市内と沖縄県読谷村(よみたんそん)の2箇所にありましたが、5年前に読谷村の米軍基地が日本に返還された際に撤去され、この施設だけになっていました。

2012_03240130 このことを予期したわけではありませんが、今年3月青森県へドライブ旅をした時に立ち寄って(正確には近づいて)全景を見ました。柿沼対岸の雪が積もった基地内に聳(そび)える巨大なアンテナ(直径450m、高さ36m)は迫力があります。実は米軍の象の檻はU-2偵察機とともに米ソ冷戦時代を象徴するものでした。このアンテナは短波帯の広い帯域における電波を受信でき、鋭い指向性と高い感度を持っていますが、電波が飛んで来る方向も正確に把握出来るそうです。ですから複数の受信所を組み合わせれば電波の送信場所を特定することが出来るのです。しかし冷戦が終結して、通信の主役が短波無線から衛星通信や光ケーブルに変化すると相対的に重要度が低下していました。(2012年3月21日撮影)

2012_03240134 円形に配置された多数の垂直ダイポールアンテナ(2本の導線を上下に配置)のアレイ(配列)で構成されるこの象の檻の原形は第2次世界大戦中のドイツで開発されましたが、終戦後にV2ロケットと同様、米国とソ連がドイツ人技術者を自国へ連れ帰ってその開発を継続させたそうです。東西陣営が対立する欧州各国に設置された象の檻は1962年に沖縄に設置された後、三沢基地にも建設されました。その構成を簡単に説明すると、垂直ダイポールアンテナを円周上に50本ほど並べて、その各々からの受信電波を電気回路で分析・合成した上で受信機に接続されているようです。(同上)

ダイポールアンテナのように受信感度の低いアンテナでも無数に並べれば(束ねれば)感度が上がる原理を利用するアレイアンテナ(位相差給電アンテナ)の一種なのです。一つひとつのアンテナで受信した電波の位相差を検出すれば電波が到来する方向が分かり、電気回路で上手く位相を調整して合成すれば受信電波の強度を強めることも出来ます。

余談です。わが家では1987年に発売された松下電工(現パナソノック電工)製の薄型平面アンテナ(液晶テレビを斜め上に傾けた形状)をアナログ衛星放送を受信するために使用していました。このすっきりした外観のアンテナは平面上に小型のスロットアンテナ(電子レンジに使われているものと同様)を多数並べたものでした。DXアンテナ・八木アンテナ(現日立国際電気)・マクセルなどからも室内用平面アンテナが発売されましたが、衛星放送がデジタル化された現在はパラボラアンテナより感度(利得)が低いため市場から姿を消してしました。

                           ☆

巨大アンテナの象の檻について書くうちに別の物にも思い至(いた)りました。40年以上前のことですが、東海道本線の刈谷(かりや)駅付近と東北本線の小山駅付近で車中から大きなアンテナを何度も眺(なが)めました。前者は愛知県刈谷市にあった依佐美(よさみ)送信所です。1929年(昭和4年)に完成したこの施設は主に長波電波の送信用に使われました。

長波用のアンテナは高さ250mの鉄塔8基(2列編成)と長さ1.8kmのアンテナ線で構成された巨大な逆L形フラットトップアンテナ(アマチュア無線の短波用アンテナであるHB9CVはこれを改良したもの)だったそうです。ちなみに高周波発電機で発生された電波の周波数は17.4kHzでした。

戦後は米軍に接収されましたが1994年(平成6年)に日本へ返還された時にアンテナ鉄塔や建物は解体されてしまいました。その跡地に造られたフローラルガーデン内にある依佐美送信所記念館には送信設備と鉄塔の一部が保存されているそうです。同記念館のhpにはさらに詳しい説明と当時の写真が掲載されていますので、興味のある方は参照して下さい。

後者は1931年(昭和6年)に業務を開始した日本無線通信会社(後のKDD、現KDDI)の小山送信所(短波専用)で、現在はKDDI小山テクニカルセンターKDDIのネットワークセンターと国際通信資料館)になっています。見学するには予約が必要のようですが、同館のhpは見つかりませんし、KDDIのhpにもこの資料館の展示品に関するニュース以外は何も説明されていないようです。

あれこれ調べてみるとその概要が分かりました。戦前からの長い歴史がある小山送信所の最盛期には20KW16台・10KW1台・5KW5台・1KW15台の計37台の送信機があったそうです。短波通信の需要が減るなか唯一(ゆいいつ)残っていた遠洋船舶電話JBOの送信に使われた垂直型の対数周期(ログベリオディック)アンテナは2003年3月にそのサービスがインマルサット(衛星電話)へ移行した際に撤去されてしまいました。

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2012_04170009 最後は東京タワーです。今年4月に東京スカイツリーが完成して、来年1月には地デジなどの放送がすべて東京タワーから東京スカイツリーへ移転する予定です。電波搭としての役割を終える東京タワーを取り壊す案も一時検討されたそうですが、観光施設として今も絶大な人気があることと地デジと一部FM局の送信設備が予備送信用として使用されることになり、その存続が決まった経緯があるようです。(写真は2012年4月17日撮影)

2012_04170011 昨年の東日本大震災で折れ曲がった頂上部のスーパーターンスタイルアンテナは昨年7月に地アナ放送が終了して不要となり、今年4月から取り外し作業が行われています。アンテナを取り外した後は同じ長さのシンプルなポール(航空障害灯と避雷針の機能がある)が設置されて、東京タワーの高さは従来と同じ地上高333mが維持されます。ターンスタイルアンテナの原理は2組の水平ダイポールを直交させて(90度ずらして)、給電する電波の位相も90度ずらすことで無指向の特性を得るものです。スーパーターンスタイルアンテナはそれを何段もスタックする(積み重ねる)ことで水平方向により高い利得(鋭いビーム特性)を実現するものです。(同上)

2012_02100004 その下部に設置されている地デジ用アンテナは高い利得が得られる双ループアンテナを3組収納したボックスをタワーの周囲に30枚x5段x2組(黄赤と白)取り付けて無指向性を実現しています。赤っぽい部分はNHKの総合と教育(Eテレ)・日本テレビ・放送大学、白い部分はテレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビが使っています。黄赤と白に塗り分けられているのは航空法の昼間障害標識の規定によるもので、アンテナの特性とは関係ありません。ちなみに、東京スカイツリーは昼間障害標識の一種である高光度航空障害灯を設置しているため色の規定は免除されています。(写真は2012年2月10日撮影)

そのすぐ下に少し間隔を空けて設置された白いボックス群は東京MX用のアンテナ(アナ・デジ共用)。同局は他局に先駆けて10月1日から東京スカイツリーで送信を開始しており、来年4月には東京タワーから送信設備を撤去するそうです。

特別展望台の上下に多数設置されたパラボラアンテナは主に遠隔地にある送信所向けの中継回線用だと思われます。このように東京タワーは様々な形式の超短波(地アナ・FM)と極超短波(地デジ・中継回線)用アンテナを一緒に見られる貴重なショーケースなのです。

1959年(昭和34年)から半世紀以上も続いた地アナ放送送信所としての役目が終了して地アナ放送用のアンテナが近々撤去されつことは残念ですが、東京タワーが一層優美な姿に変身することを待ち望んでいます。

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2012年10月 5日 (金)

白雪姫と鏡の女王

町田市のグランベリーモールへ出掛けました。国道246号を下って町田市に入り、東名入口交差点の手前で側道にそれて国道16号へと右折し、さらに左手のニトリ脇を入ればグランベリーモールの広大な敷地脇に出ます。案内標識に従ってオアシススクエアC立体駐車場に入りました。このグランベリーモールは4年半前に大山街道巡りをした時に立ち寄った「鶴間の一里塚」から100m足らずと至近です。

2000年にオープンした約100店舗で構成されるこのアウトレットモールは映画館とフードコートも併設されています。車でアクセスするには上述したように国道246号が便利で、駐車場は約1000台と大規模。そして電車を利用する場合は、東急・田園都市線南町田駅の南口を出ると直接(徒歩0分)グランベリーモールに入ることができます。ただし、複数の建物を結ぶ通路は解放空間になっていますから雨の日はちょっと不便かもしれません。

2012_1003ceatec0159 オアシススクエア4階の駐車場から向かったのはその2‐3階にあるシネマコンプレックス「109シネマズグランベリーモール」(スクリーン数は10面)で、9月14日から上映されている「白雪姫と鏡の女王」(字幕版)がお目当ての映画です。公開当初に予想された混雑をやり過ごしてこのタイミングを選びました。
 
2年前に観て面白いと思った「バイオハザードⅣ アフターライフ」の続編である「バイオハザードⅤ リトリビューション」が同時上映されているので少し迷いましたが、衣装を担当した石岡瑛子(えいこ)さんの遺作となったこの映画は外せません。
 

入場料はシニアが1000円、同行者もレディースデイ割引(水曜日)で同じく1000円。大人の通常料金1800円に比べてかなりお徳用です。そして駐車料金が3時間まで無料(109シネマズ利用者の2時間無料サービスを含む)であることも嬉(うれ)しいことです。

2012_1003ceatec01542階にある109シネマズの受付を通り過ぎて「良・席・予・約」の端末(写真左端)に向いました。ネット経由で予約すれば、受付に並ぶ必要がありませんし、好きな席を選ぶことも出来るのです。
 
 
 

2012_1003ceatec0161同行者はConcesion Stand(映画館の売店を意味する米語)でハーゲンダッツのアイスクリームに続いてポップコーンとドリンクも買い込んでいます。気が付いた時にはアイスクリームが半分以下に減っていました。
 
 

2012_1003ceatec0162

入場を待つ間に同行者は3D映画「シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語」が11月に公開されると知って、そのパンフレット(棚の上段左端)をバッグに押し込んでいました。2年半前に同グループによる公演「ZED(ゼッド)」を東京ディズニーリゾートで観賞したことを覚えているようです。 

この映画は「ナルニア国物語」のアンドリュー・アダムソンが監督を、「アバター」のジェームズ・キャメロンが製作を担当しているようですから期待できます。私は以前の記事で紹介した「のぼうの城」も気になります。

2012_1003ceatec0166 上映10分前になると入館の案内があり、「白雪姫と鏡の女王」が上映されるシアター4へ向いました。通路の角にあるパネルのキャッチコピー「毒リンゴには、もう騙(だま)されない。ハッピーエンドはどちらの手に」が期待を盛り上げます。
 

2012_1003ceatec0168 シアター4の入口にあるポスターを見ると女王が主役のようです。その手に載(の)る白雪姫はなぜかサーベル(洋剣)を構えています。「おとぎの国でバトルが始まる」とは物騒(ぶっそう)です。 
 
 

2012_1003ceatec0175_2 館内が暗くなるとアナウンス と上映予告が延々と続きました。10月下旬に開催される第25回東京国際映画祭で上映される映画の紹介には「シルクドソレイユ3D彼方からの物語」、そして4年振りにクリント・イーストウッドがスクリーン復帰した「人生の特等席」などが続きました。
 

2012_1003ceatec0180 北野武監督の「アウトレイジ ビヨンド」に登場するやくざの台詞(せりふ)を捩(もじ)った注意事項がいくつも流されました。「大声を出さない」「拳銃を持ち込まない」「立たない」などが館内の笑いを誘いました。以下はネタバレになっていますから、結末を知りたくない方は2つ目の☆印までを読み飛ばして下さい。 

                         ☆

上映が始まると、主役だと自称する女王(ジュリア・ロバーツ)が登場して物語の背景を人形劇で説明。この導入部がおとぎ話のストーリー展開に期待を持たせました。最初のシーンは城内の大広間で繰り広げられる人間を使ったチェスゲーム。山形県天童市の人間将棋と同じ趣向(しゅこう)です。そこへ城内の自室に軟禁されていた白雪姫が登場。それを咎(とが)める女王に白雪姫は「18歳の誕生日を迎えたのでパーティに出席しても良いと思った」と答える。

場面が森の中に変わって、馬に乗った王子がお供の者を連れて通りかかると、そこへ黒装束(くろしょうぞく)の何者かが集団で襲(おそ)い掛かる。巨人に見えたのは足の長い(竹馬に乗った)小人の7人組。

父王が森で行方不明になってからは女王の横暴で王国内の住民が困っていることを下女から聞いた白雪姫は城を出て近くの村に入る。一方、女王は自室の隠れ部屋にある大きな鏡に呼びかけて、その中にある別の世界へ入ると、そこには鏡に写ったもうひとりの自分がいる。

白雪姫は森の中で身包(みぐる)み剥(はが)れた上に逆さ吊(づ)りにされていた王子とお供の者を助ける。白雪姫と別れた王子は城に女王を訪ねる。豊かな国の王子だと知った女王は一計を案じて大舞踏会を開催すると言い出す。イエスマンの家来がもう残っているお金はないと言うと、「パンこそ肉だ」と妙な理屈付けで税金をさらに取り立てろと家来に命じる。村にいた白雪姫はその家来が村民に増税を言い渡すのを聞く。

大舞踏会に備えてより美しくなろうとする女王が恐ろしいエステを受けるシーンが延々と続く。大舞踏会にはスワンに仮想した白雪姫とシルクハットに兎の耳を付けた王子がいる。再会した二人は惹(ひ)かれあって踊り続ける。それに気付いた女王は家来に白雪姫を自室に連れてこさせて、「敗北を認めることだ」と言い放つ。しかし、白雪姫がそれを認めないので、白雪姫を森で殺して怪獣の生贄(いけにえ)にするよう家来に命じる。

昨夜の美しい女性は誰かと尋(たず)ねる王子に向って女王はその白雪姫が昨夜森で死んだと告げる。落胆した王子を自室に招いた女王は惚(ほ)れ薬を王子に飲ませる。王様を誘惑する時にすべて使ってしまっていた女王が魔法で手に入れたのは子犬用の薬であったため、王子は女王に惚れはしたが、副作用による異常行動として犬の仕草(しぐさ)をするようになる。

森の小人たちが女王の金(村民から徴収した税金)を奪ったと女王に聞かされた王子は森に出掛けて行く。そこで小人たちに助けられた白雪姫と再会するが、薬がまだ効いていたため、二人はサーベルで戦うことになる。小人たちに手ほどきを受けたばかりで腕前が劣る白雪姫は劣勢であったが、最後には知略で王子に勝利する。女王の魔法(秘薬の効果)を解こうと小人たちはいろいろ試みるが上手く行かない。そして白雪姫は王子にキスをすれば・・と思いつく。(これは原作と正反対の展開である)

魔法の呪縛(じゅばく)から開放された王子は白雪姫とタッグを組んで、白雪姫を殺しに来た女王と戦うことを決心する。女王が繰り出した秘密兵器は羽の生えた竜のような怪獣である。圧倒的なパワーを持ち無敵と思われたその怪獣の胸に見覚えのあるネックレスを見つけた白雪姫が父王からもらった短剣でそこを突くと怪獣は光に包まれて消滅してしまう。そして森で死んだはずの父王が生き返ったのだ。白雪姫は久しぶりに父王と再会する。

ラストシーンは復帰した王の前で白雪姫と王子が結婚する。クローズアップ撮影された白雪姫の象牙(ぞうげ)のような白い肌とブルーネットの(黒い)髪の毛は原作の白雪姫を良く再現している。黒く太い眉(まゆ)も古き良き時代を象徴(しょうちょう)しているようだ。女王役のジュリア・ロバーツはまさに適役で、影の主役を見事に演じきっていました。

追放されたはずの元女王(魔法を使い過ぎたため一挙に年老いた)が結婚式の場に現れて、お祝いにと真っ赤な毒リンゴ差し出すと、白雪姫はその毒りんごをナイフでカットして元女王に渡しながら、「敗北を認めることね」と告げたことはシニカルになり過ぎたと思います。

最後のクレジットの前に映し出されたシーンはインド映画のラストシーンそのままでした。主役が歌い踊る周りに煌(きら)びやかな衣装をまとった人々が群舞するのです。私は「座頭市」(北野武監督)のラストシーン(下駄履きタップダンス)を思い出しました。このシーンはたしかに楽しいのですが、それまでの流れとはまったく異質で、蛇足だったように思います。同行者も同意見で、「グリコのおまけみたい」と言います。

クレジットでは石岡瑛子さんへの謝辞が映し出されました。映画の全編を通じて使われた多くの衣装の豪華さと美しさは期待通り。それに加えて、舞台演劇のような場面展開の分かり易さとコミック風な台詞(せりふ)回しが絶妙であったことも印象に残りました。ちなみに、字幕の翻訳は第一人者の戸田奈津子さんです。

                         ☆

2012_1003ceatec0189 上映が終った時には12時を40分ほど回っていますから、1階のフードコロシアムへ急ぎました。
 
 
 
 

2012_1003ceatec0186 いずれのメニューも500円(ワンコイン)であることがフードコロシアムの売りであるようです。
 
 
 
 

2012_1003ceatec0199 私は東京風ラーメン(醤油)を、同行者はピッツァ(マルゲリータ)とドリンクバー(200円)を注文しました。一人ひとりに大きな札が渡されました。スーパー温泉で渡される腕輪のように料金を精算するためのID(アイディ)カードのようです。 
 

2012_1003ceatec0194 東京風ラーメンの極細ストレート麺は港北ニュータウンのくじら軒の麺によく似ています。味もあっさりしていて味噌ではなく醤油にしたことが正解だったようです。
 
 
 

2012_1003ceatec0195 店内の大釜(おおがま)で焼かれたピッツァ・マルゲリータもチーズがたっぷりで美味しいのですが、甘酸っぱいトマト味がもう少しある方が私の好みです。
 
 
 

2012_1003ceatec0201 帰り掛けにその立派な大釜を撮影しました。
 
 
 
 
 

朝方、時間に余裕を持たせてグランベリーモールへ到着しましたから、駐車場を出る時には3時間20分ほどが経過していました。しかし、映画を観たことで無料サービス時間が延長されて駐車料金は200円(30分相当)で済みました。ちなみに昼食や買い物を合計して2000円を超えると、さらに2時間の無料サービスが加わって都合(つごう)5時間までが無料になるようです。

<同行者のコメント> 以前から来たかった場所です。ずっと前にすぐ近くを通り過ぎたことはよく覚えていますよ。それはそうとして、美しい衣装を見るだけでも楽しくなる映画でした。旦那さまがストーリーを細かく覚えているのには感心しますが、そんな見方をしていて疲れないのかしら?

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2012年10月 4日 (木)

CEATECが大変貌

日本最大のITとエレクトロニクスの展示会であるCEATEC Japan 2012が幕張メッセで開催されましたので、早速 初日の10月2日に出掛けました。

先日の記事でも触れたように9月21日に発売されたiPhone 5が驚異的に売上を伸ばしています。そして、10月中旬には小型版のiPad(仮称iPad mini)が発表されることが確実視されるなか、今週発表された世界のブランド価値ランキングでアップルは2位に躍進(一位はコカコーラ)したことが報じられました。

2012_1003ceatec0005 日本では経営戦略を立て直し中のソニーがオリンパスとの提携(合弁会社の設立を含む)発表し、そしてソフトバンクがイー・モバイルの買収を電撃的に発表して業界に驚きを与えました。写真は基調講演をするソニー副会長の中鉢良治氏です。 
 

このように大きな変動が起きているITとエレクトロニクス業界の祭典CEATECにおける展示内容は昨年に較べて大きく変化していました。先ず、長年に亘(わた)って主役の座をキープしてきたテレビが脇役となったことです。その理由は関連のブログで説明していますから、ここでは触れません。

代わって登場したのは自動車(EV)・住宅(スマートハウス)・都市インフラ(スマートシティ)などITとエレクトロニクスの応用分野です。今回のCEATECのテーマは「スマート・イノベーション」です。スマートは英語で「賢い」を、イノベーションは「技術革新」を意味します。つまり今大人気のスマートフォンは賢い電話機なのです。

私が子供の頃には日本語の「スマート」は痩せている(細身である)ことを表す言葉でした。英語のslender(スレンダー)あるいはslim(スリム)に相当する意味で使っていたのですが、最近は正されつつあるようです。「スマート」で思い出しました。アメリカの古い連続テレビドラマの「それ行けスマート」(原題:Get Smart)が日本でも1960年代の後半に放送されていました。間抜けなスパイがなぜか強敵をやっつけてしまうというナンセンス・ドラマで、主人公マックスウェル・スマートの秘密兵器は靴型の携帯電話。普段は革靴として履(は)いていて、いざと言う時には脱いでダイヤルを回せば電話が掛けられる優れもの(ハイテク製品)だったことを今も覚えています。

2012_1003ceatec0013 閑話休題(かんわきゅうだい)。海外からの出展は日中と日韓関係が領土問題で悪化しているため中国と韓国からはほとんどなく、台湾企業が多数ブースを出している立ちます。私が注目したのは中国最大の通信機器ベンダー「華為技術」(ハーウェイ・テクノロジーズ)が初参加したことです。中国企業のしたたかな戦略を感じます。

2012_1003ceatec0027 それでは展示会場を1時間半ほど駆け足で見て回って注目した展示品を順不同で紹介します。最初はお馴染みの村田製作所のブースではセグウェイに似た外観の製品を展示していました。自転車に乗れるロボットのセイサクくんとセイコちゃんの開発で培(つちか)った電動歩行アシストカーでした。

2012_1003ceatec0033 京セラはスマートフォンの音を聞き取り易くするスマートソニックレシーバーをデモンストレーション。技術的には地味ですが、この実用的な機能は既に販売中のスマートフォンに搭載されているそうです。
 
 

2012_1003ceatec0043 TDKは電気自動車の充電システムを紹介しています。最近普及し始めたプラグ充電の他に、車に非接触で充電できる「駐車充電」と「走行中充電」です。写真は玩具の自動車を使った説明用のデモ。難しく言えば電車のパンタグラフの代わりに電磁誘導のコイルを使うものです。スマートフォン向けには既に実用化されています。

2012_1003ceatec0048 こちらは毎回紹介しているアメリカのTE(タイコ・エレクトロニクス)社です。これまで同社はリニアーモーターカーやヘリコプターなど楽しい乗り物を動展示して来ましたが、今回は宇宙船の船外活動をシミュレーションします。
 
 

2012_1003ceatec0057 空気で吹き上げられた発泡スチロール製と思われる軽い物体を宇宙船のクレーンでキャッチする時間を競うゲームです。3方向のカメラで取られた映像を見ながらクレーンを操作する大変さを分かり易く表現しています。最後は上手く所定の場所に設置されました。
 

2012_1003ceatec0075 NTTドコモのブースでは新技術の紹介に加えて「しゃべってロボ」をデモしていました。ロボットが会話しながら顧客の好みなどを認識して最適なサービスやコンテンツを勧めることが出来るようです。
 
 

2012_1003ceatec0078 中国の華為はAndroidスマートフォンのAscendLTEに対応する携帯を広い展示スペースを使って紹介しています。同社はネットワーク機器のグローバル企業で、最近はLTEにも力を入れており、日本では主要携帯電話会社のすべてに携帯電話端末を納入しています。
   

2012_1003ceatec0105 富士通ブースはスーパーコンピュータ京などが展示されていましたが、私が注目したのは自動車用の全周囲立体モニターシステムです。4台のカメラを使って360度の視界を作り出す技術でした。写真では分かり難いのですが、運転席の左側にその画面が映し出されています。
 

2012_1003ceatec0109 ソニーは84インチと巨大な4K対応(フルハイビジョンの4倍の画素数)のテレビをブース前面で華やかに紹介していました。同じ頃に4K対応テレビを発表した東芝も同様でしたが、両社ともブース内は様々なスマート機器を展示していました。ちなみに、NHKのブースでも4K対応テレビを動展示しています。 

2012_1003ceatec0112 パナソニックはスマート家電を大々的にPR。あらゆる家電製品がスマートフォンを使ってモニターしたり、コントロールすることも出来るようです。ただし、携帯回線を使ってエアコンの電源をオンにする機能は古い法律に抵触するとして急遽取りやめたそうです。(本体あるいは専用リモコンのみが可)。ただし、電源の切断はOKとのこと。

2012_1003ceatec0115 トヨタ自動車はコンセプトモデル「Smart INSECT」を前面に押し出していました。そして、発表されたばかりの新型電気自動車「eQ」と家(スマートホーム)を繋(つな)ぐ技術を紹介しています。写真はモデルさんを使ってカメラマンが撮影する風景。
 

2012_1003ceatec0125 最後に立ち寄ったのは日産の電気自動車「リーフ」を使ったテストドライブ。フロントとリアの両サイドに付けられた4台のカメラで白線を認識し、スマートフォンの指示に従って無人のまま駐車スペースへ向って、さらに駐車する動作をデモンストレーションするそうです。テストドライブがちょうど始まるところでした。 

2012_1003ceatec0135 と思ったのですが、リハーサルあるいは事前の打ち合わせなのか、何度も前進と後退を繰り返します。そして運転手の女性が少し前進した車の運転席から降りるとやっと無人で走り始めました。写真は白線で一時停止した瞬間で、ブレーキランプがちゃんと点灯しています。 
 

2012_1003ceatec0137 後退して駐車スペースへ向います。トヨタのプリウスにはインテリジェントパークアシスト(メーカーオプション)が既にありますし、BMWやフォルクスワーゲンなどの自動車メーカーも開発中ですから、近いうちにより完成度の高い自動駐車機能を利用できることは確かでしょう。無人運転が日本の法律で認められることの方が難関!?

2012_1003ceatec0140 駐車動作が完了したところで会話するシーンを撮影しています。目を凝(こ)らしてよく見ると、少し斜めに停まっているようです。ゴルフなら飛球方向のズレを5度(出来れば3度)以下に抑えるのが目標ですが、このテストドライブでは車体と白線が微妙な角度を生じているようです。最後に大人気ないコメントをしてしまいました。 

午後4時を過ぎましたので見学を切り上げて京葉線海浜幕張駅に向いました。

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2012年10月 3日 (水)

雨の新東名

幼稚園の参観とダンス教室の見学を終えた私たちは帰宅することにしました。小学校と幼稚園へ出掛けるオチビちゃんとコチビちゃんを見送ってからと思ったのですが、何時に出ても同じだと思い、二人が帰宅してから出発することにしました。

8月下旬に関西を訪れた時は、暗くなった午後7時頃に西宮市を出発して帰宅時間が午前様になってしまいましたから、二人との名残は付きませんがまだ明るい午後5時頃には二人の家を出発。新名神高速道路から東名阪自動車道に合流すると車の量が増えましたがさしたる渋滞も無く通過して、伊勢湾岸道路と東名高速道路も順調に走って新東名高速道路に入りました。

すっかり暗くなった午後7時半近くに浜松SAで夕食を兼ねた休憩を取ることにしました。夕食の時間を少し過ぎているためフードコートは空(す)いていましたから、私は名古屋コーチンの「鶏三和」へと直行しました。前回は長い行列が出来ていたために諦(あきら)めた店です。
 
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注文したのはもちろんのこと、「名古屋コーチンの親子丼」(880円)でした。呼び出しベルを渡されて待つこと数分で呼び出し音がけたたましく鳴りました。スープと梅干が付いています。フワトロの玉子と歯ごたえのある名古屋コーチンが期待通りでした。味見した同行者も、「東京のあの店よりもずっと美味しいわね」と軽口をたたきます。
 
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同行者が言う東京の店とは親子丼で有名な人形町の老舗店のことで、もう3年半も前の良くなかった印象をまだ覚えているのです。女性の記憶力は恐るべし!

その同行者が「中華の鉄人」で注文したのは「鶏肉ザーサイ麺(塩味)」(780円)で、見たままにさっぱりした味だったようです。
 
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同行者がショップで土産物を買っている間に、前回と同様にYAMAHAMUSIC SPOT HAMAMATSUに入ってみました。始まったプログラムの出演者は矢野顕子(あきこ)さんで、特徴のある歌声が流れます。
 
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聞き入っているとモノマネの清水ミチコさんも登場してデュエット(正しくはユニゾン)に変わりました。
 
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丘を越えて」は矢野顕子さんが戦前のヒット曲を1976年にカバーしたものです。
 
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午後8時半過ぎに浜松SAを出発して新東名を順調に走っていると新清水ICから富士川トンネルに差し掛かった辺りで急に強い雨が降り始めました。まだ遠くにある台風が前線を刺激して発生した突発性の豪雨だと思われます。ワイパーが利(き)かないほどの土砂降りになりましたので、20km余り先の駿河湾沼津SAに緊急避難しました。傘をさしながら撮影したため手振れが生じてしまいました。
 
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照明灯に雨の軌跡が照らし出されて、その強さが写真でも分かるほどです。
 
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路面に雨粒が強く衝突する様子も確認できます。
 
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人影が疎(まば)らな駿河湾沼津SAで30分ほど雨宿りしたあと、雨足が弱まったタイミングを計って本線に出ました。午後10時を過ぎて急に目立ち始めた大型トラックに注意しながら雨が止(や)んだ東名高速道路の下り坂を一気に駆け下りて、ほぼ予定通りの時間に帰宅できました。□

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2012年10月 2日 (火)

南河内の棚田探訪(後編)

尾根伝いに続く農道はどこまで続くのか分かりません。消毒作業の準備をしていた年配のご夫婦に「車で棚田まで行けるかどうか」を尋ねると、「軽トラックなら行けるが・・。中学校の横から棚田が見える」との返答をもらいました。路肩に注意しながら進むと棚田と呼べそうな田圃(たんぼ)が現れました。
 
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右側には農業用水を流す側溝があり、左側は柔らかい路肩になっていますから、大抵の山道に動揺しない私ですが運転に神経を集中しました。しかし、カーナビの表示ではこの農道は先で途切れているようです。ディスプレイに写り込みを生じたことはご容赦(ようしゃ)下さい。
 
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さらに走ると左手の視界が広がって棚田が見えました。
 
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大和葛城山方向を望みました。手前の道路は府道705号で、白い建物は千早赤坂村の保健センターのようです。
 
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前方に千早赤坂村立中学校らしい建物が見えると右手に大規模な棚田が広がりました。下赤坂の棚田は1999年に日本の棚田百選に選ばれました。少し下がった場所に簡単な展望テラスが整備されています。
 
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こちらは展望テラスから見た棚田です。遠方に見える照明塔は千早赤坂村の村民運動場かもしれません。
 
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一段高い場所に赤坂城跡の石碑が立っていました。正しい名前は下赤坂城跡です。国の史跡に指定された名称が赤坂城であることからこうなったのでしょう。ちなみに上赤坂城跡は楠公生誕地にあった地図に示されていたように、楠公生誕地の南方2.5kmにあるようです。
 
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遥か彼方(はるかかなた)に富田林市の大平和祈念塔の全景を見ることができます。その右後方に薄っすら見えるのは阿倍野で建設中の超高層ビル「あべのハルカス」(地上60階、地上高約300m)のようです。
 
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中学校を過ぎると自動車学校の練習コースのような農道に変わりました。右側に水路、左側はコンクリートで造成された切り立った崖なのです。いずれの側も脱輪すると致命傷につながりますから、50年近く前に運転免許の実地試験を受けた時のように緊張しながら運転しました。

何とか無事に府道705号へ出て、千早(ちはや)川沿いの上り坂を快調に走って金剛山ロープウェイの千早駅近くの駐車場に到着しました。予定した時刻を大幅に過ぎていますからロープウェイに乗るのは諦(あきら)めました。雲が出てきたこともその決断に加勢しました。
 
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引き返す途中に楠木正成の詰め城(根城、本城)であった千早(ちはや)城跡への入口付近を撮影しました。
 
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千早城の本丸まで片道60分と説明されています。石段が500段以上あるそうですから片道30分程度と思われますが、この所用時間は余裕を見たものでしょう。しかし、山登りをしている時間はありませんから、ここも通過することにしました。
 
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午後1時を回った遅い昼食に山家(やまが)料理「まつまさ」を選びました。私は夏季限定の「天婦羅付のざるそば」(900円)を、同行者は「お豆腐御膳風の彩(いろ)」(1500円)を注文。
 
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ざるそばは氷で冷やされていて汗をかいた後にぴったりです。これ以降の写真はiPhone 4Sで撮影しました。
 
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お豆腐御膳はひろうす(ガンモドキのこと)、やっこ(豆腐)、味噌田楽、湯葉(ゆば)こんにゃく、黒豆御飯、お吸い物、香の物、コーヒーなどと多彩な内容で同行者はそれまでのドライブで溜(た)まった不満が少しだけ解消されたようです。
 
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向かいの「山の豆腐」で同行者は「京風仕立てのひろうす」(350円)や「絹豆腐」(350円)などをお土産に買いました。残念ながら湯葉は無かったようです。
 
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同行者は大好きなソフトクリームも買うことを忘れません。
 
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腹ごしらえをした後はテーマパークのワールド牧場へ向いました。朝、道を間違えて佐備神山交差点から向った白木地区にありました。来春のリニューアル・オープンに向けて工事中のため、牧場は週末だけの営業(平日は休園)であるだけでなく、お目当ての「天然温泉一乃湯」は休業中(宿泊者が多い時だけは利用できる)ことを現地の事務所で聞いてがっかり!
 
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今回はぶっつけ本番であったために失敗の連続でしたが、最後はとうとう最悪の結果に終りました。帰宅後に同牧場のhpで確認すると、9月15日から通常営業(定休日は火曜日)を再開していました。温泉についての説明はありませんので、従来通り休業中かもしれません。

本題には関係ありませんが、帰路の門真JCT付近でユニークな外観の建物を見つけて急いで撮影しました。
 
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この三井アウトレットパーク大阪鶴見は大阪鶴見花き地方卸売市場(大阪鶴見フラワーセンター)とアウトレットモールのブロッサムアウトレットからなる複合施設でした。タワーを取り囲むような建物は月下美人の花をモチーフとしているそうで、タワーから吊り下げられた屋根を持ち上げる(開閉する)ことが出来る構造になっています。

<同行者のコメント> 今回も大変な山道ドライブになりました。棚田に入る道はとても乗用車向けには造られておらず、地元の農家が軽トラで通るためのものですよ。それに期待した温泉も空振りでした。でも豆腐料理はとても美味しかったです。

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2012年10月 1日 (月)

南河内の棚田探訪(前編)

大阪での滞在を延長して生まれた時間を利用して近畿自動車道を南下しました。阪神高速13号東大阪線と交差する東大阪JCTを通過して、西名阪自動車道と別れる松原JCTを過ぎると阪和自動車道に変わりました。その次の美原北JCTに併設されている美原ICを出て富田林(とんだばやし)市を目指しました。
 
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近つ飛鳥博物館で開催された「継体大王の時代」展を見に行った時に利用した太子ICの4つ手前です。上の写真の左前方に写るタワーのようなものが気になりました。
 
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阪和自動車道の下に伸びる府道36号で下黒山交差点まで走り、国道309号に入りました。前方の丘の上に先ほど見たタワーが前方に確認できます。
 
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気になり始めると我慢できなくなり、少し行過ぎた新家(しんけ)交差点を左折して国道170号(外環状線)に入ると、左手に見えるタワーが一段と大きくなりました。その異様な外観はガウディがデザインしたスペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリアとトルコのカッパドキアを足して2で割ったような雰囲気があります。
 
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交差点を左折して住宅地に入りましたが、どう走っても行き止まりです。カーナビも無駄な抵抗だと言っているようです。写真は住宅地入口で見かけた古い郵便ポスト
 
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国道170号に戻ってビューポイントを探しました。
 
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私は未練がましく府道202号で反対側(西側)に向ってタワーへの入口を探しましたが見つけられませんでした。後で調べると、私は東・南・西側を探し回ったのですが、北側に入口があったようです。高さが180mもあるこのタワーはPL教団の大平和祈念塔(だいへいわきねんとう)で、低層部だけが一般の人(参拝者)に開放されているそうです。ちなみにPL教団とは高校野球で有名なPL学園高等学校(学校法人PL学園)の経営母体である宗教団体です。
 

やっと我に返った私はこの塔に隣接するゴルフ場の入り口を探すべきだったと後悔しながら、30分以上の時間ロスを取り戻すために目的地を目指して先を急ぎました。前方の山は奈良県境にある大和葛城山(かつらぎさん、標高959m)でしょう。
 
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佐備神山(さびこうやま)交差点をカーナビの指示に従って左折します。
 
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そして南河内郡河南町(かなんちょう)に入って東方向へ走りましたが、これはカーナビのミスではなく、私の設定間違いが原因であったことが後で判明。さらに30分近くも時間をロスしてしまいました。近つ飛鳥博物館がある「近つ飛鳥風土記の丘」にほど近い白木地区まで走ってしまったのです。
 
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佐備神山交差点近くまで戻って南下した森屋交差点には「郷土資料館」と「道の駅ちはやあかさか」の名前が案内標識に出ています。
 
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その先の案内標識に従って農道に入ると「左 楠公(なんこう)生誕地」の道標を見つけて行く先候補がますます散漫になり始めました。
 
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やっと「道の駅ちはやあかさか」に到着
 
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道端には「楠公産湯井 北に一丁」の道標も
 
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裏手の楠公生誕地には立派な石碑が立っていました。楠公とは言うまでもなく楠木正成(くすのきまさしげ)公のことです。「建武の新政」(私は「建武の中興」と習いました)で足利尊氏(あしかがたかうじ)とともに貢献した武士ですが、後に湊川(みなとがわ)の戦いで九州から攻め上って来た足利尊氏に敗れて戦死しました。
 
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先日の西国街道巡りの途中に箕面(みのお)市で正成が湊川に向う途中に水を飲んだとされる楠水龍王に立ち寄っています。
 
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隣りの郷土資料館との間にある散策コースの案内図
 
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今回は大阪府の観光案内で知った南河内郡千早赤坂村の棚田を訪れることを急遽(きゅうきょ)思い立ち、事前の下調べをまったくしないで出発したため、行き当たりばったりの寄り道旅になってしまいました。

いよいよ目的地へ向かうことにして、案内図に従って森屋交差点と千早(東条)川の北にある脇道(農道)に入ると、「赤坂城軍事(あかさかのしろいくさのこと)楠木兵法(くすのきへいほう) その壱(いち)」の説明看板がありました。楠木正成にとって鎌倉幕府軍との初戦となった「赤坂の戦い」を指すようです。
 
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(続く)

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