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2012年10月31日 (水)

小説「永遠の0(ゼロ)」を読む

百田(ひゃくた)尚樹氏が小説家としてデビューした著作「永遠の0」を読みました。世界チャンピオンになったファイティング原田さんの活躍を取り上げたノンフィクション「RING」に魅せられた私は期待を持ってこの小説(2006年8月28日太田出版発行、445頁のハードカバー)を手に取りました。

青空と白い雲が描かれている表紙(ジャケット)を開いた見返(みかえ)しには、「生きて妻のもとへ帰る」の見出しに続いて、『日本軍敗色濃厚ななか、生への執着を臆面(おくめん)もなく口にし、仲間から「卑怯者」とさげすまれたゼロ戦パイロットがいた・・・。』と書かれています。どんな戦記物かと思いながらページを捲(めく)りました。

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短いプロローグに続いて登場したのは司法試験浪人の佐伯健太郎とその姉でジャーナリスト志望の慶子である。神風特攻隊として戦死した祖父宮部久蔵のことを調べる仕事を姉から依頼された健太郎が、厚生労働省や旧海軍の戦友会に問い合わせて、宮部久蔵の軍歴や戦時中の彼を知る旧海軍関係者を探すところから物語が始まった。

小さな出版社を4年前に辞めてフリーライターをしている慶子は大手新聞社の終戦60周年プロジェクトのスタッフに選ばれたことで、その予行演習に自分たちの祖父(祖母の最初の夫)を調査することを思いついたのである。二人は身内の誰からも戦死した祖父のことを聞いたことがないため、急に祖父のことが知りたくなったのだ。終戦後60年近くが経過していたが幸運にも9人の生存者がいることを知って、それらの人々から宮部のことを直接聞くために各地を旅することを決意する。

健太郎と慶子および証言者以外の登場人物は、母の佐伯清子、義理の祖父で弁護士の大石健一郎、祖母(故人)の大石松乃、新聞記者の高山隆司、祖父の事務所に勤務していたことがある藤木秀一のわずか5名である。

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最初に訪れた埼玉県の郊外に住む元海軍少尉長谷川梅男は二人に対して、「奴は海軍航空隊一の臆病者(おくびょうもの)だった」と口汚く罵(ののし)ったあと、奉公先を飛び出して海軍に入り航空兵を志願した自分の体験を詳しく語った。戦闘機乗りに選ばれた長谷川は南方のラバウルで零戦(零式艦上戦闘機)のパイロットである宮部の存在を知るが、いつも無傷で帰還し、パラシュートの点検を真剣に行う宮部は「お命大事」で、「生きて帰りたい」が宮部の口癖だったとの噂(うわさ)を聞いたという。そして長谷川が米軍のグラマンに撃たれて左腕を失ったことと戦後の苦労話(恨み節)を聞いた二人はショックを受ける。

2012_05170104 二人目は四国・松山の元海軍中尉伊藤寛次である。「臆病者のパイロットだったと聞いた」という健太郎に、「たしかに宮部は勇敢(ゆうかん)なパイロットではなかったと思います。しかし優秀なパイロットでした」と答えた。そして真珠湾からミッドウェイまで同じ戦場で空母「赤城」の搭乗員であった宮部との関係と戦況を詳しく語り、予科練出身の伊藤は零戦の素晴らしさとそれを操縦したことを誇らしく思っているという。宮部については、空母への着艦が見事で一目を置かれたが、下の階級に対しても丁寧(ていねい)な言葉で話すため、仲間から軽んじられていたという。

2012_05170106 三人目は都内の病院に入院中の元海軍飛行兵曹長井崎源次郎。15歳の時に海軍に入り、航空兵に応募、茨城・矢田部で飛行練習生を終え、台南空を経て配属されたラバウルで後から来た宮部と会ったという。そして編隊飛行をする時の宮部はしょっちゅうキョロキョロと辺(あた)りを窺(うかが)っていたが、雲の中から突然現れた敵の戦闘機が井崎の背後へついた瞬間に宮部機がその敵機を撃ち落とした。しかし、その後も宮部の慎重な態度は変わらず、2度目に救われた時には「敵を墜(お)とすより、敵に墜とされない方がずっと大事だ。一度でも墜とされれば、それでもう終わりだ」と言われたという。深夜にこっそり鍛錬(たんれん)する宮部と一緒に体を鍛(きた)えはじめた井崎の問いに答える代わりに、宮部は家族の写真を見せて、「娘に会うためには何としても死ねない」と呟(つぶや)いたというエピソードを語る。

2012_05170108 四人目は和歌山に住む元海軍整備曹長の永井清孝。ラバウルで零戦の発動機整備兵をしていた時に宮部に出会った人物で、航空兵志望であったともいう。宮部は臆病者みたいな言い方をされていたが、宮部機が撃たれて帰って来たことはほとんどなかったことといつも弾が残っていたことから、永井は噂がそれほど外れていないのではないかと思っていたという。そして、やたらと飛行機の整備に口を出す宮部をうっとうしいと思うことがあったが、「永井さんが整備してくれるなら安心です」と言われてなぜかすごく嬉(うれ)しかったとも語る。宮部が囲碁で専門棋士(プロ)並みの実力を持っていたことも明かした。

2012_05170114 五人目の元海軍中尉谷川正夫は岡山の老人ホームに居た。宮部と中国・上海の航空隊で出会った時には、宮部が非常に勇敢な怖れを知らない戦闘機乗りで、操縦の技術では天才肌の持ち主であったと証言する。真珠湾・ミッドウェイ・ガダルカナルなどでの戦闘状況と比島(フィリピン)で宮部に再会したことを説明。サイパン奪回(だっかい)作戦で見た米軍の近接信管(小型レーダー信管)付き砲弾で日本軍の爆撃機がいとも簡単に撃墜され、甚大(じんだい)な被害を蒙(こうむ)り、二人とも内地に戻ったことを語る。ルソン島の基地に配置されて、特攻(とっこう)を半(なか)ば強制的に志願させられたが、宮部だけは拒否したことも明かす。そして自身は岩国で教官をしている時に終戦を迎えたという。

六人目は千葉県成田の元海軍少尉岡部昌男。県会議員を四期も務めた人だ。「宮部さんは素晴らしい教官でした」と証言を始めた。筑波の練習航空隊に教官として来た宮部に飛行科予備学生(大学出の士官)として会ったという。昭和20年初めになると特攻隊員の養成を目的として大量に採用され、2・3年はかかる訓練が1年足らずで行われた経緯を説明。言葉遣(づか)いの丁寧さとは別に、合格点をくれない教官として有名だったという。そして「皆さんには死んでほしくありません」と宮部に言われたことを明かす。岡部は桜花(人間爆弾)の乗員として出撃命令が出る前に終戦を迎えたと語った。

82 七人目の武田貴則(元海軍中尉)は一部上場企業の社長まで務めた男で、白金のホテルにわざわざ部屋を取ってくれたのである。慶子に好意を持つ新聞記者高山隆司が無理やり同行を求めて、「神風特攻隊は911のテロリストと同じである」という考え方を披露したことで武田の激怒を買う。武田は「新聞が戦前は国民を戦争へと煽(あお)り、戦後は国民の愛国心を捨てさせるような論陣を張った。特攻隊員たちの遺書の行間を読み取れない男をジャーナリストとは呼べない」と高山に向かって言う。高山が去ったあと、武田は特攻作戦を指揮した軍幹部の盲信を多くの事例を挙げて糾弾(きゅうだん)する。宮部については「すばらしい教官だった」と岡部と同様の証言をした上、「零戦こそ、宮部教官のもう一つの姿なのではないか」ともいう。

84 八人目の元海軍上等飛行兵曹景山介山は「奴は死ぬ運命だった」という。彼は中野に住む元やくざで、「俺は奴を憎んでいた」と明かす。宮部が特攻出撃する時の直掩機(ちょくえんき、味方の援護用飛行機)として飛んだと続ける。「宮部は女房とガキの写真を後生大事に持っていた。何より我慢がならなかったのは、奴が抜群の腕を持った戦闘機乗りという噂だ」として、迎撃戦からの帰路に宮部機の後方を襲い模擬空中戦に持ち込んだが宮部には歯が立たず、悔しさの余りに照準器内に入った宮部機を機銃掃射(きじゅうそうしゃ)するが一発も当らなかったという。宮部は自機を巧みに横滑りさせていたのだ。しかし特攻に出撃する宮部に同行した時には、絶対援護(えんご)して守ろうとなぜか思うのだが、自機のエンジン不調で宮部機に付いて行けない。そして一週間後に戦争が終わったと語る。

83 九人目は鹿児島市の元海軍一等兵曹大西保彦、鹿児島の鹿屋基地で通信員をしていた人物だ。他の部隊との通信連絡や、攻撃隊との交信のほか、昭和20年の春からは特攻機隊から敵空母への突入戦果の確認電信を受けることが大きな仕事になったという。これは特攻隊員がこの世に残した最後のメッセージだ。搭乗員になりたくて予科練の試験を受けたが不合格になった大西が「直掩機も特攻隊みたいなものですね」と聞くと、宮部は「全然違います。私たちは九死に一生ということがありますが、特攻隊員たちは十死零生なのです」と答えたという。そして出撃の朝、宮部少尉は奇妙なことに自分の最新式52型零戦と部下の旧式21型零戦を強引に交換させたことを大西は健太郎と慶子に告げる。

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[読後感] 戦時中、宮部久蔵の周辺にいた9人の証言(この記事ではトピックスのみ記述)によって宮部久蔵という人物が様々な視点から明らかにされました。この手法自体は小説において目新しいことではありませんが、健太郎と慶子の意見を最小限に抑えたことで、この小説はドキュメンタリーのようになり、さらに新聞記者高山の紋切り型の考え方と証言者たちの誠意ある(あるいは本音が出た)証言を対比させることで、著者が言いたいことを浮き上がらせました。プロローグとエピローグでは近接信管付砲弾の連射と機銃掃射を掻い潜(かいくぐ)って米空母に迫る悪魔が操縦するような零戦(おそらく宮部機)を目撃した米海軍兵士に現在形で語らせたことも心憎い演出でした。

最終の第12章「真相」で私には予想も出来なかったこと(実はそうだったのかと納得できること)が明らかになります。いつもネタバレを書いてしまう私ですが、今回はその重さを考えると明かすことは出来ません。第11章までは綿密な調査に基づいて記述された各戦場での戦闘経過と宮部久蔵の行動を平静に(軍部の暴挙に義憤を感じながら)読み進んだ私は、年齢を重ねたためかもしれませんが、第12章では、静かに流れ込む水を満々と蓄えたダムが水門を開けられて勢いよく放水するように、思わず目頭(めがしら)が熱くなってしまいました。

私事です。大正8年生まれの宮部久蔵は私の父より4歳年少ですがほぼ同世代と言っても良いでしょう。父は高等小学校(現在の中学校)しか出ておらず、陸軍の兵卒として北支(中国北部)の通信隊に居たことだけを私に話してくれましたが、戦地での苦労話を一切聞かせることもなくこの世を去りました。一方、大正9年生まれで宮部と一歳違いの叔父は師範学校卒であり、下士官として海軍の駆逐艦(くちくかん)に乗った経験を自費出版の本にまとめて私にもプレゼントしてくれました。その本にはガダルカナルなど南方戦線の状況が詳しく書かれており、本書と重なることがたくさんありました。

この世代は生きていれば90歳代(父は97歳)ですから、大半の方々は父や叔父と同様に亡くなっていることでしょう。私にとって太平洋戦争は歴史の1ページとしての存在でしたが、本書によって自分が生まれる前年まで続いた太平洋戦争が改めて身近なものに感じられました。アメリカに指摘されるまでもなく、最近は戦前の軍部や新聞社のように過激(強硬)な意見を誰はばかるともなく公言する人々が目立つようになり、しかも少なからぬ人々が喝采(かっさい)を送る風潮(ふうちょう)を私は懸念しています。

尚、掲載した写真は清水海軍航空隊の跡地に造られた三保飛行場(最初の4枚)とニュージーランドのオークランド戦争記念博物館に展示される22型零戦と遺品(次の3枚)です。52型零戦はワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されていますが、その写真はPCのトラブルで消失したため、残念ながらわが家に残っていません。

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コメント

私も先日 読み終えました そして大変感動した一人です
ここまであの戦争を深く掘り下げ、なお 右にも左にも寄らずに読者に問いかけた本は希少であろうと思います
この物語は、あくまでフィクションのはずですが、それを全く感じさせません
まるで宮部久蔵さんが実在したかのような錯覚さえ覚えてしまいます

実は以前、吉田満著「戦艦大和の最後」を読んだことがあり、涙が止まらないほど感動したものですが
それに勝るとも劣らないほどの感動を受けました

「戦艦大和の最後」と共通している部分を挙げれば
誰も特攻なんかで死にたくは無かったのだと言う事
お国のため 天皇陛下のため などと本気で考えている人間など いなかったと言う事
家族のため 愛する者のために死ぬのだと、無理に自分に言い聞かせ、自分を納得させたのだという事実です

でも、本当は、愛する者の為には、生きなければならなかったのです
死にたくないなどとは思っていても 言えなかったのです
その部分を宮部久蔵さんに演じさせたのでしょうね
まさに名作だと思います。

投稿: しんのすけ | 2012年12月11日 (火) 18時24分

私も読みました。

特攻隊には興味があったので、いろいろな本を読みましたが、この本がいちばん当事者や当時の雰囲気を伝えているように思います。

上のストーリー解説の横の写真がぴったりですごいですね。この本のよさを伝えてくれる。素晴らしいです。

投稿: 本のソムリエ | 2012年11月23日 (金) 17時54分

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