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2012年10月15日 (月)

百田尚樹著「RING」を読む

村上春樹氏の作品群を本ブログの記事で何度も紹介してきましたが、ノーベル文学賞の候補としてこの数年に亘(わた)って期待され、Q84によりさらに世界的な人気が高まった今回こそは可能性が高いと思われた村上春樹氏が選ばれなかったことはファンとして残念です。しかしノーベル文学賞は小説の人気投票ではありませんし、中国人作家・莫言(ばくげん)氏の受賞は中国文学における同氏の独特な存在が評価されたのでしょう。一部には2年前の平和賞で同じ中国の民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏が選ばれた時と同様に選定委員会が政治的な意図を持っているとみる意見もあるようですが・・。しかし科学技術の分野と異なり、平和賞と文学賞はある程度政治性を帯びる分野ですから止むを得ません。莫言とは変わった名前だと思いましたが、これは、「言うなかれ」を意味するペンネームでした。村上氏には来年以降もチャンスがありますから気長に待ちたいと思います。

 

 

 

 

 

ノーベル賞とは何の関係ありませんが、最近国内で人気が急上昇している百田尚樹(ひゃくたなおき)氏の著作を最近になって読んでいます。スポーツ小説の「ボックス!」(2008年6月)が2010年に映画化されたことに続いてデビュー作で100万部を突破した「永遠の0(ゼロ)」(2006年8月)も映画化されることが決まったそうです。最新作の「海賊と呼ばれた男」(2012年7月)も書籍不況が深刻化する出版界で驚異的な部数を売り上げているようです。例によって、作者のデビュー作から読み始めたいところですが、その前に選んだのはノンフィクションの「RING」(リング)。このユニークなタイトルから想像されるのはプロレスですが、実際はプロボクシングがテーマのようです。

 

 

 

 

 

 

 

2009年5月号から2010年1月まで月間『文庫』に連載された「拳闘伝説」を改題して2010年5月に発行されたハードカバー本です。ボクサーの上半身背後を赤色だけを使い力強いタッチで描いた表紙絵が印象的です。内容は日本人として始めて世界フライ級チャンピオンになった白井義男さんとその世界王座を8年後に取り返したファイティング原田さんを軸に多数のプロボクサーが登場します。筆者が指摘するのは、実力もさることながら、巡り合わせという運命とボクサーを支える関係者が世界チャンピオンの誕生に大きな影響を与えたということです。以下はネタバレになっていますから、その旨をご承知置き下さい。

 

 

 

 

 

 

 

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早速、表紙を開くと1962年(昭和37年)の世界が展開。登場した小学校1年生の私は著者自身であろう。白黒テレビで父と父の友人がボクシングの試合を見ながら怒鳴り声を上げて興奮しているシーンを小説の様に紹介する。それは世界フライ級チャンピオンのポーン・キングピッチ(タイ国の貴公子と呼ばれた)とファイティング原田(原田政彦)のタイトルマッチで、ファイティング原田がパンチのラッシュでチャンピオンをノックアウトする。敗戦して間もない1952年(昭和27年)に白井義男が獲得した世界一の座を取り戻すことは多くの日本人ファンの悲願だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

白井義男の説明が続く。ボクシングに興味を持った白井はわずか2週間の練習でデビュー、連戦連勝を飾ったが、戦況が思わしくなくなった日本ではボクシングが禁止される。軍隊生活で坐骨神経痛を患(わずら)った白井はボクシングを再会するが、泣かず飛ばずの並のボクサーになってしまう。その白井の才能を見抜いたのは進駐軍将校のアルビン・ロバー・カーン博士であった。彼自身はボクシングの経験はなかったが、専門とする運動生理学の観点から筋肉の動きを研究するうちにボクシングファンになったのだ。そして彼は白井の専属コーチになって本場アメリカのボクシングを基本から教えた。その成果が出て白井は翌年に日本フライ級チャンピオンとなる。カーン博士は白井に一階級上のバンタム級王座に挑戦させて、みごと相手を倒してこの級のチャンピオンにもなる。大富豪の息子であるカーン博士は勝利を祝福して白井に家を建ててプレゼントした。

 

 

 

 

 

 

 

白井は大いに感謝するが、カーン博士の次の目標は世界チャンピオンであった。当時の世界フライ級チャンピオンのプロモーターをしていた日系2世のサム一ノ瀬を口説いてノンタイトル戦を承知させる。2度行った試合は1勝1敗であり、自信を深めたカーン博士は一ノ瀬を説得して世界タイトル戦を日本で実現させた。一ノ瀬はチャンピオンのファイトマネーを自分で用意し、この試合の興行権を手に入れた。そして移民先のハワイで苦労した両親の母国に錦(にしき)を飾ると共に、年齢的に限界を迎えたチャンピオンに白井が勝てば、それ以降の白井の試合についての興行権も手に入れたのである。白井は2年半にわたって世界タイトルを保持したが、五度目でのタイトルマッチで様々な不幸が重なって判定負けを喫してしまう。リターンマッチ時に31歳になっていた白井はKO負けをして二度とリングに戻ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

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やっとファイティング原田が登場する。植木職人の4番目の子供として東京に生まれた原田は父が仕事中に怪我をして働けなくなったことで、家計を助けるため精米店でアルバイトをしながらボクシングジム(笹崎ジム)に通い始めた。中学を卒業した原田は高校へ進学せず、そのまま精米店で働きながらボクシングの練習を続ける。ボクシングを始めて2年経った頃、原田はプロテストに合格してデビューし、その3箇月後には笹崎会長の勧めで合宿生としてボクシングに専念し、新人王戦で優勝して新人王になる。さらに猛練習を厭わない原田はデビューから22連勝を達成。

 

 

 

 

 

 

 

白井義男を破ったあと6年の長きにわたってフライ級の王座に君臨(9度防衛)したアルゼンチンのパスカル・ペレス(ドミニカに亡命中)を打ち破ったのはタイ国のポーン・キングピッチ(正しくはギンペッド)であった。タイの実業家に才能を見出されたポーンは、タイ式ボクシング(ムエタイ)ではなく、最初からボクシングを練習させられた。22歳で東洋チャンピオンになり、その3年後にペレスを判定で破り、タイ国史上初の世界チャンピオンになった。半年後のリターンマッチでもTKO勝ちする。この頃に原田がプロデビューしている。

 

 

 

 

 

 

 

ポーンへ最初に挑戦したのは関光徳(後に階級を転向して東洋フェザー級チャンピオン)と野口恭(きょう)であったが、老獪(ろうかい)なポーンに2人とも破れてしまう。次いで2年前に世界戦でペレスに敗れた世界フライ級1位の矢尾板(やおいた)が挑戦権を得るが、突然引退を表明する。東洋タイトルを見事防衛したばかりであったため様々な憶測が流れた。47年後に著者は会長との確執が引退の理由であったことを矢尾板本人から聞く。2人の関係は白井とカーン博士のそれとは違う一方的な上下関係であったと著者は指摘する。そして挑戦者の代役に日本フライ級のランキングで矢尾板に次ぐ2位のファイティング原田(19歳)が選ばれた。原田なら与(くみ)し易(やす)いとポーン側が考えて同意したのであろうと著者はみる。さらに矢尾板の人となりと業界が矢尾板に辛(つら)く当たるなかでもマスコミを中心に彼を支援する人たちがいたことに言及する。

 

 

 

 

 

 

 

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通常の倍という法外な世界戦のファイトマネーをポーン側から要求されるなど屈辱的(くつじょくてき)とも言える条件をファイティング原田側の笹崎会長はすべて飲んで実現した挑戦である。そして1962年(昭和37年)にポーンが来日して東京蔵前国技館で世界フライ級タイトルマッチのゴングが鳴った。小柄でがっしりした原田とは対照的に、王者のポーンは痩(や)せ型で背が高く、リーチのある左ジャブを突き、強い右ストレートで相手を仕留めるというオーソドックスなボクシングである。内側に入らないと勝負にならない原田はゴングと同時にポーンのパンチをはずして飛び込んだ。

 

 

 

 

 

当時の世界タイトル戦は15ラウンドであり、セオリーを無視した原田のラッシュ攻撃に戸惑(とまど)ったポーンはたじたじとなり、最初のラウンドを落とした。その後のラウンドでも原田の勢いは続く。次第にポーンは焦(あせ)りの色を浮かべだした。リーチの短い原田がポーンよりも先にジャブを当てる。原田の踏み込みが速いのだが、引き足も速く、ポーンのパンチは空を切った。その直後に原田は再び踏み込んで、ジャブあるいは右ストレートを打ち込む。日本チャンピオンの矢尾板やバンタム級世界7位のエスパルサ(メキシコ)のテクニックに翻弄(ほんろう)されたことを教訓に、前後のフットワークを取り入れる大改造を行っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

原田はこうして序盤に完全にペースを握ったが、ジャブを封じられたポーンは中盤から右アッパーをさかんに繰り出し始めた。しかし原田の前進を止めることができなかった。8ラウンドにポーンは左まぶたの上を切り、鮮血を流した。そして10ラウンドに奇妙なことが起った。何と、ゴングが鳴ってもポーンがコーナーから出ないのだ。レフリーに命じられたポーンはゆっくりとコーナーから出て戦いが始まるがこのラウンドも落とした。11ラウンドの終半に原田の右クロスが当たったポーンはかろうじてダウンを免(まぬが)れたが、止むことを知らない原田の連打にたまらず、ポーンはコーナーの一番下のロープが交差したところにしゃがみこむように腰をおろした。レフリーのカウントが10まで数えられたのは11ラウンドの2分59秒で、原田のKO勝が決まった。白井義男がタイトルを失って8年目で日本人2人目の世界チャンピオンが誕生した劇的な瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

3ヵ月後の1963年(昭和38年)にタイのバンコクで行われたリターンマッチでは、原田が優勢であったにも拘(かかわ)らず、アウェイ(相手国)での地元判定により原田は敗れた。日本人悲願の世界タイトル奪回(だっかい)はわずか3ヶ月の短い夢と終ってしまった。そしてバンタム級に変更することを以前から考えていた原田はバンタム級で大活躍をするのである。その前に著者は世界1位の海老原がその年の9月に東京と体育館で1ラウンド2分7秒にポーンをノックアウトで倒したが、バンコクで行われたリターンマッチで地元判定により判定負けで敗れたことに触れる。

 

 

 

 

 

 

 

原田が「黄金のバンタム」と呼ばれた史上最強のエデル・ジョフレ(ブラジル)から1965年(昭和40年)5月にバンタム級世界タイトルを判定勝ちで奪取(だっしゅ)したことから始まるバンタム級での4度の防衛(フライ級の白井義男と同じ)とフェザー級世界タイトルへの挑戦、そして大阪万博が開催される直前の1970年(昭和45年)1月に26歳9ヶ月で引退するエピソードは長くなるので省略するが、ボクシング漫画「あしたのジョー」に登場する人物とファイティング原田を取巻く実在の人物の類似性を挙げて読者を魅了(みりょう)する著者のセンスは見事である。

 

 

 

 

 

 

 

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私が高校に入学した頃から社会人になるまでの8年間におけるファイティング原田さんの活躍を平易な文章で活き活きと描(えが)いたノンフィクションは著者の丹念な調査に基づく緻密(ちみつ)な記述が私好みのスタイルで、休むことなく全310ページを一気に読み切りました。東京オリンピックを挟(はさ)んだこの頃は「もはや戦後ではない」あるいは「高度経済成長期」(池田内閣による所得倍増計画)と言われ、日本人がより良い明日に期待して愚直(ぐちょく)に努力していた時代です。その時代にスーパースターとして登場したファイティング原田さんの活躍とその人となりを詳しく紹介する秀作は読後に心地良い余韻(よいん)が残りました。

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