二つの高松城を巡る 讃岐高松城址(後編)
水門の案内看板には『高松城は、北が海、三方に濠をめぐらし海水を引き入れた日本三大水城の一つとして名高く、完全に海水を濠に取り入れた城は高松城だけである』と説明されています。日本三大物語の記事では書き漏らしましたが、日本三大水城とは高松城に加えて、今治城(愛媛県)と中津城(大分県)のようです。
これも奇妙なオブジェです。クリスマスツリーあるいは交通整理のために使われるコーンを巨大にしたようにも見えます。
頂部を拡大すると大きなバインダークリップで留められた「TAMAMOn」(高松城のマスコットキャラクター?)と「TAMAMO」(向かい合う2人の顔?)のパネルがあるだけで、このオブジェが何を意味するのかは不明です。頂部以外は無数の松ぼっくり(松かさ)を使って作られています。
内苑御庭(ないえんおにわ)脇に出ました。左奥は重要文化財の月見櫓(つきみやぐら、着見櫓とも表記)と水手御門です。案内看板に『玉藻とは柿本人麿(かきのもとひとまろ)が詠んだ「玉藻よし」』という讃岐国の枕詞(まくらことば)をとったこの辺りの地名である』と説明されています。
藩主の住居であり政庁でもあった披雲閣(ひうんかく)を横から見ました。アプローチの飛び石が意外に質素です。
と思いましたが、こちらが玄関でした。重要文化財に指定されていますが、これは明治初期に建て直されたもので、江戸時代には倍の規模があったそうです。
桜御門跡を抜けて桜の馬場と旭門へ向います。写真撮影用の三脚かと思って桜御門跡を振り返りましたが測量用の機材のようです。
中掘を眺(なが)めました。
艮櫓(うしとらやぐら)は、『元々は北東(丑寅)に築かれた本瓦葺(ほんがわらぶき)・入母屋造りの三重・三階の隅櫓(すみやぐら)で昭和25年(1950年)に重要文化財に指定され、昭和40年頃に旧太鼓(たいこ)櫓跡に移築・復元された』と説明されています。
ここが枡形(まずがた)のある旭門(あさひもん)で、その奥に中掘に架(か)かる旭橋が見えます。
引き返して桜の馬場へ出ました。
天守台越しにサンポートのシンボルタワー(茶色い建物)が望めます。四国で一番高い建物(30階、151.3m)だそうです。ちなみに右側の白い建物はJRホテルクレメント高松でしょう。
この内堀と右手の中掘を繋(つな)ぐと思われる小さな通水口があります。
内堀沿いに少し戻ると石垣の積み直し工事が終了した天守台の様子と先ほど反対側から見た鞘橋を見ることができました。それにしても復元イメージ図はちょっと・・。
「まつぼっくり収集ぼっくす」を発見! 来園者が松ぼっくりを集めて「松ぼっくりツリー」を天守閣と同じ高さ(約26.6m)にしようという壮大なプロジェクトであったことがやっと分かりました。
「天守閣復元祈願」のお土産は「鯛願城就(たいがんじょうじゅ)ステッカー」など多彩です!
西入口を出た右手にある「石あかりロード」は面白い演出です。高松市東部の牟礼町(むれちょう)で採取される庵治(あじ)石の置き行灯(あんどん)を並べたものでした。牟礼町といえば四国霊場の第85番八栗寺がある場所です。
讃岐国の高松城は黒田官兵衛(孝高)が縄張りしたとも伝えられる水城ですが、外堀はもちろんのこと中掘の大半と内掘も少し埋め立てられて、往時の規模は想像するしかありません。
ちなみに、讃岐高松藩の第2代藩主松平頼常(まつだいらよりつね)は水戸光圀(みつくに)の長男です。その背景は、三男でありながら兄頼重(よりしげ)を差し置いて第2代水戸藩主になった光圀が兄頼重に配慮し、その次男綱條(つなえだ)を自らの嗣子(しし、家督を継ぐための養子)として、第3代水戸藩主にしたことにあります。ちなみに先に嗣子とした頼重の長男綱方(つなかた)は水戸徳川家の家督(かとく)を相続する前に没(ぼっ)しています。テレビドラマ「水戸黄門」では光圀が高松を訪れて頼常に対面するシーンがありましたが、史実としてはありえないことでしょう。
ここで備中国と讃岐国にあった2つの高松城を巡る旅は終わりです。水に縁のある両城を一気に巡(めぐ)ったため慌(あわただ)しい旅でしたが、1年半前から温(あたた)めていたこの奇抜(きばつ)な計画を実行できたことで心が十分満たされました。残った時間を使って高松市内をもう少し散策します。(エピローグへ続く)
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