二つの高松城を巡る 備中高松城址(前編)
新大阪から山陽新幹線に乗りました。新幹線を利用した理由は日帰りの一人旅だからです。同行者は大阪でのんびりしたいとのことで止むを得ません。私にとって今回の関西旅行における最も興味のある場所を駆け足で巡る電車のひとり旅は半世紀近く前の学生時代に戻ったようです。
JR岡山駅で吉備(きび)線に乗り換えました。吉備線は岡山駅と総社(そうじゃ)駅を結ぶJR西日本の鉄道です。ちょうど総社行きのジーゼル車がプラットフォームで待っていました。
ドアの脇にある開閉用ボタンは珍しい機能です。とは言っても昔は手でドアを開け閉めしたものですが・・。午前8時を回ったばかりの車内が通学途中の高校生たちでいっぱいなのは沿線に高校が2つあるからでしょう。
ジーゼル車らしくエンジンが唸(うな)りを上げて発車しました。最初の備前三門駅を過ぎると町並みが途切れて田園風景が広がりました。備前一宮駅や吉備津駅など歴史を感じさせる名前の駅と山陽自動車道の下を過ぎると岡山駅から約20分で備中高松駅に到着。最初の目的地である備中高松城のほかに日本三大稲荷の一つと言われる最上稲荷(さいじょういなり)総本山の案内も見られます。
しかし駅前広場には「まほろばの里 備中高松」として大きな観光案内看板があり、この地を治めたとされる皇族の吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀(まつ)る吉備神社なども説明してあります。ちなみに、この地域は吉備国の中心地であった場所で、総社には吉備国が備前国・備中国・備後国・美作国に分かれた際には備中(びっちゅう)国の国府が置かれました。案内看板は吉備線に合わせたためか、南北が逆になっていて間誤付(まごつ)きました。
この地図を頭の中で180度回転させて私は歩き始めました。もちろんアイフォーン5の地図ナビを念のためにクリックして、最初のチェックポイント(目印)である「城跡道踏切」を渡ります。
真っ直ぐ伸びる農道に気になる名前の橋がありました。「舟橋(ふなはし)」とは羽柴(豊臣)秀吉との開戦直前に掘られた外濠(そとぼり)に舟を並べて造られた橋(長さ約64m)のことで、敵が攻めてきた時には舟を撤去できる仕組みだったことが説明されています。今は幅が数mの農業用水路に架かるコンクリート橋になっていて、横に水門らしきものが見えます。
その用水路を左手に追うと公園のようなものが見えました。この一帯が高松城の南側にあったという深沼の跡かもしれません。100mほど先の左手に駐車場がありましたから、その先が高松城址(じょうし)公園のようです。朝日に長く伸びた私のシルエットが写り込んでしまいました。
城址公園を訪ねる前に植え込みに「清水宗治公自刃跡」の案内表示に従ってみることにしました。
途中、「ごうやぶ遺跡」の名前に惹(ひ)かれて畦道(あぜみち)を歩きました。小さな遺跡だと思いながら畦道を引き返すと、『城主清水宗治の後を追って家臣たちが自死した場所といわれる』との解説を読んで理解できました。
直ぐ先にある妙玄寺の墓地に一際立派な墓石がありました。『清水宗治公自刃之址』の石柱で確認できます。ここは三の丸跡の外れに当たる場所だったようです。
駐車場に戻って「国指定史跡備中高松城跡 附水攻築堤跡」の案内看板を読みました。織田信長の命で羽柴(豊臣)秀吉が毛利氏の領土を攻めた『中国役(えき)の主戦場になった高松城』の位置付けと沼沢を天然の外堀として利用した石垣のない土城であったことが詳しく説明されています。3万の軍勢(宇喜田勢約1万を含む)でこの地域を攻めた秀吉は攻めあぐねた高松城の周囲に長さ約2.6kmの堤防を12日間で築き、梅雨で増水した足守川の水を引き入れて水攻めを行ったこととその後の顛末(てんまつ)が解説されています。
当ブログでは中国役の前哨戦(ぜんしょうせん)となった播磨(はりま)国の三木城攻めを『三木城址を訪ねる』で、そして毛利方が毛利輝元(もうりてるもと)を大将とする約4万の大軍を足守川のすぐ南まで派遣しながら忠臣清水宗治を見殺しにしたことなど高松城水攻めの顛末を『播磨灘物語を読む』で紹介しています。
駐車場から高松城址公園に入ったところに円形をしたモニュメントのようなものを見つけました。秀吉による高松城水攻めを周囲の山に陣取った秀吉軍(宇喜田忠家や加藤清正などの兵)に取り囲まれた高松城を空から見下ろす演出がなされた水攻め図案内板です。今風には”Google Earth”(またはGoogle Map”)と言えるでしょう。水攻めに遭った高松城が白っぽく色付けされています。もちろん秀吉は特等席(高松城の東方にある石井山の頂上)で見物したことは言うまでもありません。
二の丸跡に造られたなまこ壁が美しい資料館が開館する午前10時まで残念なことにまだ1時間以上もあります。
岡山県の書家・大原桂南氏が詠(よ)んだ『高松城懐古』の詩碑がありました。『身を殺し衆を救う又誰か儔(つれだ、連れ立)つ』で始まる漢詩(七言絶句)は清水宗治公のことを偲(しの)んで詠(よ)まれたものです。
コンクリート製の橋を渡って本丸跡へ向います。城址公園が整備された時にこの池が造成されると自然に蓮(はす)が生えてきたことで「宗治蓮」と呼ばれるようになったことが書かれていました。千葉県検見川市の2000年以上前の落合遺跡から出土した古代蓮の種が開花した大賀蓮(おおがはす)の例がありますから1582年(430年前)に水没した場所にあった蓮が再生したとしても不思議ではないでしょう。
本丸跡にある清水宗治公の辞世(じせい)の歌碑には、『浮世をば今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔(こけ)に残して』と刻(きざ)まれていました。
本丸跡の奥にある橋を渡ります。この写真にも私のシルエットがしっかり登場。
(続く)
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 郡上八幡と長良川(1): 八幡城(2008.09.26)
- 湧水探訪(後編)- 天然温泉むさし野「湯らく」(2006.10.15)
- 足柄街道を走る(最終回) 御殿場市温泉会館(2013.10.18)
- 足柄街道を走る 足柄関所跡と足柄城址(後編)(2013.10.17)
- 足柄街道を走る 足柄関所跡と足柄城址(前編)(2013.10.16)
コメント