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2013年3月に作成された記事

2013年3月30日 (土)

iPhone5用Lightning-USBケーブルの考察(続編)

近くの家電量販店へ出掛けたついでにLogitecLightning-USBケーブル(1m長)を購入しました。アップルの公認品(Made for iPod iPhone iPadの表示がある)は純正品(1m長)と同価格(1880円)で割高感がありますが、純正品にはない黒色の製品があり、わが家のPCと機構的な相性が悪い純正品の問題を解決することが購入の目的です。つまりUSBコネクターの形状が従来型であることを期待したのです。しかし量販店の店頭に並んでいた製品は透明なプラスチック・パッケージに入っていますが、USBコネクター(裏側)の穴の深さを確認することができませんから、『一か八(ばち)か』(運を天に任せる)の決断になりました。
 
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見た目以上にしっかりしたパッケージを開ける手間がもどかしく感じられました。
 
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やっと取り出したケーブルに付属するUSBコネクターの裏側を見ると、期待した通りに従来型(白い部分に窪みがない)でした。
 
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純正品(左側の白色)と並べて見比べると一目瞭然(いちもくりょうぜん)。抜き差しする時に持つ部分も一回り大きくなっていて、しっかりホールドすることが出来ます。
 
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ノートブックPCUSBコネクターで早速(さっそく)挿抜(そうばつ)テストを何度もして見ましたが、通常のUSBコネクターと同様の感触で、まったく不安感はありません。前回の記事に書いた6番目の解決法で一カ月後の一件落着となりました。しかし、窪(くぼ)みが付けられた理由は不明のままですから嬉(うれ)しさも半分だけで・・・。

余りにもあっけない結末になったことで、ブログ記事のスペースがたっぷり残ってしまいました。そこで、近くの公園で満開であった桜が散り始めたタイミングに、わが家のベランダにおける『小さな春』を紹介します。

小さな苗(なえ)から育てたエンドウ(豌豆)がたわわに実りました。
 
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八重咲チューリップのアンジェリケ
 
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純白のフリンジ咲チューリップ
 
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明日の3月31日は花散らしの雨が降りそうですから、今年最後のお花見チャンスとして、桜の名所に花筏(はないかだ)を見に出掛けるつもりです。

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2013年3月26日 (火)

桜・橋・温泉を巡る城南ドライブ 蒲田の黒湯温泉

駐車場を出て東京ゲートブリッジを逆方向へ走りました。今回もスケジュール通りに進捗しています。若洲ゴルフリンクス(7番ホール)からの流れ玉(ボール)用防護ネット・トンネルを通過して東京ゲートブリッジのアプローチ橋区間へ向いました。
 
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東京ゲートブリッジは逆方向に走行してもまったく同じに見えます。
 
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東京ゲートブリッジを渡り終える頃に前方に渋滞が発生しているのが見えました。中防昇降施設から中央防波堤外側馬立地を見た時には渋滞は確認できません出したから、つい先ほど事故でも発生したのかもしれません。しかし、中央防波堤外側埋立地の東京港臨海道路は西端の交差点(青海やお台場へ向う第二航路海底トンネル方面)まで逃れる術(すべ)はありません。ここは、じっと我慢(がまん)するしかありません。
 
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若洲公園の駐車場から東京港臨海公園に入ってから約1時間15分が経過して、やっとその交差点が近づきました。距離は4kmほどですから平均時速は3.2km/hと歩く速さよりもずっと遅いペースです。前方には何と、『トンネル通行止め』の表示板を載せたトラックが停まっていて、車線が1車線に規制されていました。臨海副都心(青海エリア)を経由するしかなさそうです。
 
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コンテナが堆(うずたか)く積まれたエリアをノロノロ運転で通過します。
 
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いよいよ右折地点ですが、『工事中につき右折禁止』と朱書きされた立て看板とともに、側道を経由してお台場へ行くように表示されています。左側にも『お台場方面直進』の立て看板が。そして対面通行になっていました。
 
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直ぐ先で側道(お台場方面)と直進するルート(城南島方面)が分かれました。城南島へ行けるようです。私の頭が混乱しましたが、ここは直進すべきだと判断しました。当然ですが、トンネルの中も対面通行になっています。路面に大きく表示された矢印が目に入りましたが、ハンドルを握り締めて、あくまでも直進します。
 
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速度の出し過ぎに注意しながら、やっと臨海トンネルを抜けました。約6km走行するために1時間30分も掛かってしまった勘定(かんじょう)です。ゆっくり歩く速度にまで少し改善!
 
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海南島から城南大橋を渡った大田市場前交差点で信号待ちしている間に、大田市場の入口前に立つ『天と地を結ぶ』と表示されたモニュメントが目に入りました。私には結び目というよりも太いロープに何かがからまったように見えます。現在公開されている米国映画『ジャックと天空の巨人』(「ジャックと豆の木」をベースにした冒険映画)を連想しました。
 
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環状七号線(都道318号)に入り、大森東交差点を左折して第一京浜(国道15号)を南下、蒲田(かまた)方面へ向いました。京急蒲田駅手前の東蒲田二丁目交差点を右折してJR蒲田駅東口方面へと進み、蒲田五丁目交差点付のコインパーキングに駐車。蒲田五丁目交差点を渡ったケンタッキーフライドチキン脇の路地を入りましたが、お目当ての「さしみや五坪」は閉まっています。「鯛ラーメン」と「海鮮丼」が安く食べられると聞いて訪れたのですが・・。実は日曜日の他に祝日も定休日でした。

そこで再び交差点の向かい側にある「餃子の王将」に入ることにしました。名前は良く知っているチェーン店ですが、今まで利用したことが無かったのです。
 
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同行者の希望で「揚(あ)げそば」(固焼きそば、577円)と餃子(ぎょうざ、231円)を注文、2人でシェアすることに。
 
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いずれも期待通りの美味しさでした。撮影する前に、少し摘(つま)んでしまいましたから、配膳(はいぜん)された時より量が減っています。
 
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呑川(のみかわ)沿いの路地を歩いて最初の橋を渡ると正面に茶色いマンション「コンフォールコート」が有りました。屋上に「ゆ」の看板があります。「ゆ~シティ蒲田」の2階入口へ向おうとすると、同行者が「ここに来たことがあるわ!」と言うのです。見覚えがあるのは事前に写真を見たからだと思った矢先でした。アイフォーンで確認すると、4年前の記事で紹介した黒湯温泉でした。
 
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これは困ったと他の黒湯を探すことにしました。これまで蒲田エリアでは「ゆ~シティ蒲田の他にも、蒲田温泉・ヌーランドサガミ湯久松温泉(池上)・六郷温泉を訪れて、当ブログで紹介しています。残る候補としては記憶を頼りに調べて、「はすぬま温泉」(美肌の湯)と「池上温泉」(黒湯)を候補に選びました。いずれも西蒲田にある銭湯ですから、JRの線路を渡る(あるいは潜る)必要があります。最初に向った「池上温泉」は午後3時からの営業でした。それではと向った「はすぬま温泉」も午後3時からでした。1時間も待つのは躊躇(ためら)われますので、「ゆ~ランド蒲田」へ戻ることにしました。
 
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元来た道を引き返して「ゆ~ランド蒲田」近くのコインパーキングに駐車しました。「ゆ~ランド蒲田」にも10台ほど停められる駐車場がありますが、すでに満車状態だったのです。記憶がすっかり戻った私は浴室がある2階へ上がりました。綺麗な内装ですが銭湯ですから利用料は大人が450円、前回と変わらず券売機で購入するシステムです。ちなみに営業時間は午前11時から深夜0時(定休日は毎週火曜日)。
 
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4年前と内部は全く同じでしたから、その記事を参照してください。黒湯の泉質はナトリウム-炭酸水素塩冷鉱泉(低張性アルカリ性冷鉱泉)の規定泉(源泉温度17.9度、PH8.25)は地下120メートルより毎分120.4ℓも汲み上げられて加熱されており、素肌をつるつるにして全身をポカポカと長くあたため維持する効果があるそうです。黒湯は循環利用されているにも拘(かかわ)らず透明度が3cmほどと濃いのは前回と同じでした。
 
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黒湯に満足した私たちは蒲田をあとにすることにしました。その途中で、あやめ橋を右折した仲之橋から呑川(のみかわ)河畔の桜が見えました。呑川の先に見えるのは昨年10月に全面リニューアルが完了した3階構造(1階:改札階、2階:上りホーム、3階:下りホーム)の京急蒲田駅です。
   
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路肩に車を一時停車して川面に向って枝が伸びる桜を撮影しました。
 
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好事魔多(こうじまおお)し』と『万事塞翁(ばんじさいおう)が馬』の故事(こじ)が身に沁(し)みたドライブ旅でした。

<同行者のコメント> ずいぶん長い記事になりましたね。あれこれ調べていた割にはよく知っているはずの蒲田で苦労したのはどうしてでしょう。最初から「餃子の王将」と「ゆ~シティ蒲田」でも良かったと思います。(終)

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2013年3月25日 (月)

桜・橋・温泉を巡る城南ドライブ 東京ゲートブリッジ(後編)

午前10時ちょうどに係員によって入口のガラス製ドアが開けられました。当然、最初のエレベーターに乗りました。
 
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東京ゲートブリッジへの連絡口で他の乗客につられてエレベーターを降りてしまいました。一つ上階(9階)にある展望テラスへは階段を利用して上がりました。ちなみに、この階段は1階へも続いています。
 
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展望テラスからは若洲海浜公園にある若洲ゴルフリンクスの先に東京ディズニーリゾートも見えますが、ガラスが汚れていて見にくいのです。
 
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左手を見ると東京スカイツリーが春霞(はるがすみ)に霞(かす)んでいて期待はずれでした。
 
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8階へ下りて東京ゲートブリッジの歩道へ向かいました。歩道は陸側(北側)だけに設置されています。
 
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中防(ちゅうぼう)昇降口まで1,600mの距離があると表示されています。ちなみに、中防は中央防波堤の略。
 
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橋の欄干(らんかん)からカメラを外に出して東京ゲートブリッジと2つの防波堤を撮影したことで立体感のある写真が撮(と)れました。
 
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なだらかなスロープになっている歩道を歩いて橋の本体部に近づきます。下部にトラス構造のない手前の区間では大型車両が通過すると揺(ゆ)れが感じられました。
 
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上部にトラス構造がある場所には簡単な休憩所があり、ガラス窓越しに景色を楽しめる工夫がされていました。東京タワーも霞(かす)んでいて見つけるのが困難なほどです。ここで先頭を切っていた親子連れなど先を歩く人たちが引き返したことで前方に人影がなくなりました。
 
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上下ともトラス構造がない中央部は車で走るとあっと言うまでしたが徒歩ではかなり長い区間に感じられます。この区間も揺(ゆ)れるのではないかと思いましたが心配はまったく無用でした。
 
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東京ゲートブリッジの概要が説明されています。『江東区若洲と中央防波堤外側埋立地をの間(4.6km)を結ぶ橋梁(きょうりょう)区間が2,618mの橋である。特徴的なフォルムは羽田空港に近いため建造する高さ(海上87.8m)に制限があり、航路を跨(またぐ)ぐため安全な船舶航行のための桁下高さ(54.6m)が必要である』などです。地図を見れば東京湾岸道路(国道357号)の迂回路(うかいろ)の機能を果たしていることも明らかです。
 
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西側のトラス構造区間に入ります。
 
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白い灯台を間近で激写!? 灯台を見下ろすことは滅多(めった)にないことです。
 
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下り坂になると中央防波堤外側埋立地の全景が見えるようになりました。
 
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海の森公園も俯瞰(ふかん)できます。東京臨海風力発電所の発電施設(愛称:東京風ぐるま)が2機設置されていました。
 
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中央防波堤外側埋立地にある中防昇降施設が近づきました。
 
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中防昇降施設に到着しましたが、この施設はまだ利用できません。
 
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東京ゲートブリッジでは太陽光発電が利用されているとフェンスに取り付けられた看板に説明されていますので、眼下を覗(のぞ)くとたしかに太陽光パネルがいくつも設置されていました。ヘアピンカーブの道路は前編で触れたUターン用です。
 
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同じ歩道を若洲昇降施設まで引き返すことにしました。帰路に強い同行者は先に歩き始めています。橋桁(はしげた)に並ぶ四角い箱は夜間照明設備のようです。
 
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急に増えた歩行者たちと擦(す)れ違いながら若洲昇降施設に戻りました。
 
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復路では監視カメラ・照明灯(欄干上と車道側)・施錠(せじょう)された作業用入口など様々な設備を撮影しましたが、記事スペースの関係で省略します。(続く)

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2013年3月24日 (日)

桜・橋・温泉を巡る城南ドライブ 東京ゲートブリッジ(前編)

環状七号線(都道318号)を東へ走りました。平和島を過ぎて、首都高速1号羽田線と同じく湾岸線の下を抜けると右手に東京港野鳥公園が見えて来ました。立体交差を下へ降りれば野鳥公園の入り口ですが、今回は直進して野鳥公園東交差点を右折して城南島方面へ向かいます。

ここも東京港臨海道路へと直進して臨海トンネルに入りました。城南島と中央防波堤を結ぶ海底トンネルです。この中央防波堤は両側(外側と内側)が都内で発生するゴミで埋められて広大な土地が誕生しつつありますが、2年前の記事でも紹介したように、その帰属をめぐって大田区と江東区が争っていることでも知られます。
 
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海底トンネルを抜け、内側埋め立て地を経て江東区青海へ向かう第二航路海底トンネルへの分岐点を過ぎると一直線の東京港臨海道路が続きました。
 
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雲が薄れて広がった青空を背景にした巨大な橋が見えてきました。今回の目的である昨年2月12日に開通した東京ゲートブリッジです。側道に入るとどこへ行くのでしょうか。地図で確認すると橋を渡らずにUターンすることが出来るようです。
 
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陸上にあるアプローチ橋を上ると東京ゲートブリッジの手前に展望搭「中防昇降施設」が見えます。側壁に遮(さえぎ)られて写っていませんが、左手の中央防波堤内側埋立地で『海の森公園』の緑化工事が行われていることが確認できます。2016年(平成28年)には一部が開園される予定とのことで、その開園が待たれます。
 
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水色に彩(いどろ)られたトラス構造(三角形を複数並べた骨組み構造)の区間が近づきました。今走っている区間には道路の下に長さが200mほどのトラス構造が設置されているはずです。
 
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この橋は中央部がトラス構造のない橋桁(はしげた)だけになっているため、短時間ですが視界を遮(さえぎ)る構造物が無く、その解放感は感動的なものでした。
 
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それに較べてトラス構造区間ではかなりの圧迫感があることが分かります。
 
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若洲側の展望搭「若洲昇降施設」付近から正面に葛西臨海公園の大観覧車、その右手に東京ディズニーリゾートを見ることができます。
 
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若洲公園の有料駐車場(1回500円)に入って奥のエリアに車を停めました。すぐ先に見える東京ゲートブリッジの展望塔「若洲昇降施設」へ向います。前回は外観を眺めただけでしたが、今回はもちろんエレベーターを利用して展望塔に上ります。ちなみに、利用できる時間帯は10:00~17:00(夏季は10:00~20:00)
 
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展望搭がオープンするまで40分ほどありますから、2年前に若洲公園を訪れた時に完成間近の様子を見た東京ゲートブリッジの遠景を観察することにしました。長い防波堤は無料の海釣り施設として解放されています。
 
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防波堤の突端には赤い灯台があり、向こう側の防波堤には白い灯台があります。これら2つの灯台は東京ゲートブリッジが出来るまでは、東京港第三航路(東京東航路)の『ゲート灯台』と呼ぶべき存在だったのでしょう。
 
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白い灯台の右後方に島のようなものが見えます。これが都内で生じたゴミと建設発生土を処理(埋め立てに利用)する中央防波堤内側埋立地で、東半分では『海の森公園』が建設されていて完成すると東京都区部では最大の公園になるそうです。詳細な説明は関連のhpを参照してください。私は内側埋立地の右端にある橋脚(きょうきゃく)のようなものが気になりその航空写真を仔細(しさい)に観察すると、この埋立地にあるゴミ処理施設関連の埠頭(ふとう)だと思われます。
 
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ズームを20倍にして『海の森公園』の中央部を撮影しました。
 
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轟音(ごうおん)が聞こえる方向を見ると旅客機が高度を上げるところでした。羽田空港を離陸した直後でしょう。東京ゲートブリッジと臨港トンネルの先にある城南島でもっと低高度で飛ぶ旅客機を眺めたことを思い出しました。
 
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同行者が右手の対岸に大好きな観覧車を見つけて、「あの観覧車はどこの?」と訊(き)きます。待ってましたと、「お台場にあるパレットタウン。その隣はフジテレビの本社だ」と教えます。本当は乗ったことがない(つまり乗りたい)と言いたいのかもしれませんが深追いは禁物(きんもつ)です。
 
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東京ゲートブリッジの下まで移動すると折れ曲がった橋桁(はしげた)の先で上下のトラス構造が少し重なるように配置されている様子が確認できます。このような構造になった理由は前回訪れた時の記事で説明しています。
 
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さらに南へ移動すると円弧のようにカーブする東京ゲートブリッジが見られます。左手は中央防波堤外側埋立地です。
 
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中央防波堤外側埋立地の全景も念のために・・。
 
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サイクリングコースの脇を人気のない15号地(若洲)信号所南棟の脇まで歩きながら心置きなく撮影しました。信号所には”F"(フリー)の文字が表示されていますから、この東京東航路の場合は長さ150m未満の船が出入り自由です。
 
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橋の下まで引き返すと橋脚の下部に何やら気になるものを見つけました。じっくり観察しましたが何の表示もありません。
 
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ひょっとしてはと思い帰宅後に確認すると、やはり東京ゲートブリッジにはBRIMOS(橋梁モニタリングシステム)が設置されていることが分かりました。以前、ビッグデータ・セミナーで聞いたNTTデータのBRIMOSは橋に掛かる圧力や振動を長期間にわたって集中観測して、経時変化から異常を早期に発見するシステムです。橋の中央部には特殊な光ファイバー(FBG)を使った振動加速度センサーも設置されているそうです。私が気付いたこの設備もセンサーのひとつかもしれません。注意深く観察すれば橋のあちこちに設置されている様々なセンサーを見つけられるでしょう。つい専門的な関心事を書いてしまいました。

もうすぐ午前10時になりますから展望搭の入口へ向うことにします。(続く)

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2013年3月23日 (土)

桜・橋・温泉を巡る城南ドライブ 洗足池公園の桜(後編)

「池のみち」から対岸のボート乗り場を望みました。
 
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こちらにも整列するユリカモメがいます。向こう岸は先ほど渡ってきた八ツ橋です。
 
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弁天橋を渡って洗足池弁財天(べんざいてん)にお参りしました。
 
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弁財天の近くに洗足池の水源である湧水(ゆうすい)が残っていると聞き、弁天島内をくまなく調べましたが、老朽化(ろうきゅうか)したエバラ水中モータポンプ(排水用)が残っているだけでした。
 
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「池のみち」側を見ると金網に覆(おお)われた方形の施設があります。ここが湧水?
 
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洗足公園の北端にある桜山へ向います。少年野球チームが急な坂道を利用してダッシュの練習をしていました。
 
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小高い桜山は日当りが良さそうで期待しましたが、残念ながらまだ2分咲き程度で、桜の根を養生(ようじょう)するために木の周りにロープが巡らしてあります。森山直太朗さんのヒット曲「さくら」を口ずさみながら満開の様子を想像しました。
 
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一本だけあるコブシの大木は花が豪華に咲いています。モクレン科の花木であるコブシからほのかな香が漂ってくることで、「北国の春」の歌詞が思い浮かびました。
 
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「池のみち」に戻ると小川を発見。洗足池に流れ込む川はないと聞いていましたから、不思議に思って辿(たど)ってみることにしました。
 
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清水窪湧水路(しみずくぼゆうすいろ)は桜山と子供広場(グラウンド)の間を北へ伸びています。
 
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200mほど先で地下のパイプになってしまいました。
 
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マンホールから漏れる水音を頼りになだらかな坂道を北上しましたが、十字路の先は閑静(かんせい)な住宅地があるだけですので、諦(あきら)めて引き返すことに。
 
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洗足池へ戻る途中にヒューム管と思われる水の出口を観察しました。心残りでしたから後で調べると、大田区北千束(旧清水窪)にある清水弁財天が水源地でした。弁財天と聞いた私はてっきり洗足池にある弁財天だと早とちりしたのです。
 
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「池のみち」に戻ってコサギを見つけました。
 
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右手の小高い場所にある銅像「名馬池月」は源頼朝(みなとものよりとも)に縁(ゆかり)の駿馬(しゅんめ、しゅんば)だそうです。台座に詳しい説明がありました。
 
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行儀(ぎょうぎ)の良いユリカモメたちをもう一枚
 
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先ほど遠くから見た池月橋が近づきました。
 
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池月橋の近くにある千束八幡神社にも参拝
 
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池月橋を渡ります。ミニ錦帯橋(きんたいきょう)の風情(ふぜい)です。
 
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橋の上から見た千束八幡神社の朱塗りの鳥居と桃の花です。インド由来の神とされる稲荷(いなり)や弁財天でもないのに朱塗りの鳥居とは奇妙ですが、仏教との結びつきが強い宇佐神宮(宇佐八幡宮)を勧請(かんじょう、分霊を迎えること)して千束郷の総鎮守(そうちんじゅ)としたからでしょう。
 
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ボート乗り場の近くで中原街道改修記念碑を見かけました。大正十二年四月の日付があります。中原街道は新治市民の森の記事で紹介したように江戸時代に平塚にあった中原御殿と江戸・虎ノ門を結ぶ街道ですが、大正年間に起伏(きふく)を平坦にして道幅を広げる工事を地元民が行ったことを記念する石碑でした。
 
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洗足池公園を訪れた2日後の昨日、東京の桜が満開になったと報じられましたから、昨日と今日はこの公園も花見客で混み合っていることでしょう。混雑を避ける性癖(せいへき)がある私には3日前に訪れたことは正しい判断でした。(続く)

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2013年3月22日 (金)

桜・橋・温泉を巡る城南ドライブ 洗足池公園の桜(前編)

春分の日の早朝、環八通り(都道311号)を東に走りました。東急東横線の上を通過した奥沢4丁目のY字路を左手にそれて、閑静な住宅地を抜けた石川台交差点で中原街道(都道2号)へと左折すれば、ほどなく洗足池です。近くのコインパーキングに駐車して大田区立洗足池公園(国指定名勝)へ向いました。早朝ですから中原街道沿いのレストラン兼ボート乗り場はまだひっそりとしています。
 
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洗足池は武蔵野台地の末端の湧水(ゆうすい)を堰(せ)き止めた池で、昔は千束郷の大池(近くに小池がある)と呼ばれて灌漑(かんがい)用水としても利用されていたようです。また、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど江戸近郊における景勝地として知られていました。昔は千束(せんぞく)の大池と呼ばれたものが洗足池に変わった日蓮(にちれん)にまつわる伝承が残されています。ちなみに、日蓮が亡くなった日蓮宗大本山池上本門寺は洗足池から南へ2km余りの距離です。

池の東側の路地に入って区立洗足池図書館を過ぎたところにあるお寺のような佇(たたず)まいの御松庵に「日蓮上人袈裟掛けの松」の説明があるのを見かけて立ち寄ることにしました。『日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治(とうじ)に向う途中、洗足池の畔(ほとり)で休憩し傍(かたわ)らの松に袈裟(けさ)をかけて池の水で足を洗ったことで、千束池は洗足池とも称されるようになった。現在の松は三代目であると伝えられる』と説明されています。
 
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門を入って左手に進むと池の畔に近い場所に「袈裟掛けの松」がありました。
 
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曲がりくねった路地から洗足池公園に入って池を一周するコース「池のみち」を歩くことにしました。桜広場の桜はまだ3分咲きといったところで、やや期待外れです。今年最初の夏日が3月中旬に記録されたことで、開花予想が二転三転した結果、週末には満開になるとの最新情報に急(せ)かされて出掛けたドライブですが・・。桜の木の上部が切り取られているのが気になりました。『桜切る馬鹿』のはずですが、「治療剪定(ちりょうせんてい)」は樹勢回復を目的とするとの説明に納得しました。
 
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開花が進んでいる桜を撮影
 
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右手の東端の奥まった場所にこの地を愛した勝海舟夫妻の奥津城(おつき、神道式の墓)がありました。大田区の文化財に指定されています。
 
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右側が海舟の墓で、左側が正妻・民子の墓です。『洗足池とその周辺の風光を愛し、遺言(ゆいごん)に従ってこの地に埋葬された』ことが説明されています。下調べでは勝海舟が官軍の西郷隆盛が陣を張る池上本門寺へ向う途中に立ち寄った洗足池が気に入ったことを知りました。夫人が別の場所に埋葬して欲しいと望んだことで青山墓地に葬(ほうむ)られましたが、昭和になって現在の場所に移されたそうです。
 
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余談です。夫妻の墓が並んでいる例として当ブログは天武天皇徳富蘆花(とくとみろか)・細川忠興を紹介していますが、調べると直江兼続(上杉家家老)・松平信綱(知恵伊豆と呼ばれた大老)・武市半平太(たけちはんぺいた、土佐勤皇党)なども同様でした。

墓前にユキヤナギが綺麗(きれい)に咲いていました。バラ科シモツケ族の植物ですから桜や梅(バラ科サクラ族)と近い仲間です。雪が積もったように咲く小白花と葉の形が柳に似ていることが名前の由来だそうです。
 
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その隣には勝海舟が建てた西郷隆盛留魂祠(りゅうこんし)がありました。
 
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西郷隆盛(南洲)の留魂碑(りゅうこんひ)には隆盛の漢詩が刻まれています。
 
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サクラの古木は大きな枝が切られて痛々しいのですが、細い若枝に花を咲かせていました。
 
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以前は釣堀があったという場所は木道が整備された水生植物園になっています。晩春にはあやめ(菖蒲)やかきつばた(杜若)がみられるのでしょう。
 
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左手に伸びる八ツ橋を渡り始めると同行者が「パンダがいる!」と叫(さけ)びました。
 
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たしかにパンダのような白と黒に塗り分けられた鳥が池を泳いでいます。
 
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黄色い目が鋭いこの鳥はキンクロハジロ(カモ科)であることを知りました。
 
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一直線に並んだ杭(くい)にユリカモメが行儀(ぎょうぎ)良く留(とま)っています。動こうとする鳥がいませんから席取りをしているようです。その先には三連の太鼓橋である池月橋が見えます。
 
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仲良しの鳥が2羽並んでいます。左がユリカモメで右がカルガモでしょう。いずれも雛鳥(ひなどり)のようです。
 
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同行者は錦鯉(にしきごい)のなかに華(はな)やかな金色の鯉も見つけました。
 
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八ツ橋の先では自然な環境で生育する水草が観察できます。浮葉植物のアサザ・ヒシ・ヒツジグサなどでしょう。その他にも、蒲(がま)、ミソハギ、ヨシ(イネ科)などの水生植物もあるようです。蛍(ほたる)がいると手前の看板に説明されていました。
 
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前方に見えるのは弁天島です。
 
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(続く)

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2013年3月21日 (木)

名古屋の古墳群探訪 熱田神宮とその周辺の古墳(後編)

「あつたウォーキングコース」に従って歩きます。
 
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周濠(しゅうごう)の角と思われる場所に出ました。
 
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前方を見るとノコギリの歯のように折れ曲がった濠の形状は前方後円墳の輪郭(りんかく)のようです。
 
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右手に伸びる濠は一直線ですから前方部側でしょう。
 
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前方部の縁(ふち)はかなりの高さがあります。
 
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反対側の角に出ました。先ほど見たものと線対称の折れ曲がりが確認できます。
 
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しかし中央部から後円部にかけての周濠は突起部のないなだらかなカーブを描いています。
 
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熱田神宮公園の入口にある案内図には断夫山古墳の形状が描かれています。左右が微妙に非対称なのは五色塚古墳のように片側だけ方形マウンドが残ったのかもしれません。この公園に熱田神宮の名が付くのは戦前までこの地域を熱田神宮が所有していたことによるようです。
 
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断夫山(だんぶやま、だんぶさん)古墳(国の史跡)の後円部の前にある説明板には『東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、後円部の直径80m、前方部の高さ16。2m、後円部の高さ13mを誇る。前方部と後円部の間にあるくびれ部には「造りだし」と呼ばれる小丘部が西側にある。後円部は三段築成であったと思われ、1段目に須恵質と土師質の円筒埴輪をめぐらしていた。この古墳は6世紀初め、尾張南部に勢力を持った尾張氏の首長の墓と考えられている』と書かれています。
 
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一説には日本武尊の妃(きさき)である宮簀媛(みやずひめ)の墓と伝えられるようです。変わった古墳名「断夫山」の由来は、夫が亡くなったあと永く夫の冥福(めいふく)を祈ったと伝えられることであり、再婚しない(夫を断つ)山を意味するそうです。ちなみに、前方後円墳の形は大和王朝が伝えた墳形です。

古墳内へ入る道がありますので迷わず向かいました。
 
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後円部を上る道はいつのまにか獣道(けものみち)に
 
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後円部から中央部(くびれ部)へはなだらかな下り坂
 
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前方部に出ました。
 
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振り返るとくびれ部の様子を見て取ることができました。
 
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なんとか後円部にある出口へたどり着くことができました。公園を出て神宮前駅へ戻るためにアイフォーン5でルートを確認すると距離は568.2mと表示されました。
 
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国道19号の歩道を熱田神宮へ向って歩きます。
 
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横断歩道橋から見下ろした国道19号はいかにも名古屋らしく広々としています。
 
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反対側(金山駅方面)の様子です。金山(かなやま)は興味深い地名と思って調べると、駅近くにある金山神社(主神は金山彦命)がその由来でした。ちなみに金山は、私の好きなお金の山ではなく、鉱山を意味するようです。
 
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名古屋市下水道局のイメージマーク「アメンボ君」が描かれたマンホールと自転車専用レーン(歩道の右半分)
 
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熱田神宮に沿って歩くと神宮前商店街に出ました。
 
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このマンホールに描かれた橋は? 後で調べると、名古屋市上水道100周年記念の蓋(ふた)でした。上部に「100」の数字と堀川にかかる納屋橋(なやばし)がデザインされており、モノクロとカラーの2バージョンがあるようです。ちなみに、納屋橋は名古屋を代表するメインストリートである広小路(ひろこうじ)通りの橋で、100年近く前の1921年(大正10年)に改築された橋を1981年(昭和56年)に架けかえられましたが、特徴であるアーチと欄干(らんかん)の部分はそのまま使われているそうです。ちなみに、広小路は森進一さんのヒット曲「盛り場ブルース」の4番に登場するように納屋橋周辺の盛り場(繁華街)のことも指します。
 
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午後4時になる少し前に神宮前駅に到着。1時間半の熱田散策でした。
 
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今回は事前に調査した情報が役立って充実した遺跡巡りができました。そして、これまでの名古屋のイメージが古代まで広がったことは大きな成果です。この後に予定される会食までまだ時間はたっぷりありますが、余裕を持って神宮前駅からその場所へ向うことにします。(終)

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2013年3月19日 (火)

名古屋の古墳群探訪 熱田神宮とその周辺の古墳(前編)

金山駅で名鉄(名古屋鉄道)に乗り換えて神宮前駅で下車しました。JR東海道本線の熱田駅でも良いのですが次の目的地である熱田神宮の東門に近い神宮前駅を選びました。散策マップの現在地が神宮前駅で、上部(南方向)には宮の渡し跡も表示されています。
 
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以下は事前に調べた情報です。講釈は無用だと思われる方は飛ばしてください。

                         ☆

『名古屋台地は精進川(現在の新堀川)によって瑞穂(みずほ)台地と熱田(あつた)台地にわけられているが、この台地における古墳の造営は5世紀中頃に東部の瑞穂台地から始まる。直径82mの巨大な円墳である八幡山古墳(国史跡、鶴舞公園の東)、五中山古墳を中心にした高田古墳群、さらに南の瑞穂古墳群(瑞穂公園内に2号墳)へと続く。6世紀にはいると西側の熱田台地に古墳造営ラッシュが訪れる。名古屋スポーツセンターの位置にあった大須二子山古墳をはじめとする大須(おおす)古墳群、断夫山(だんぶさん)古墳、白鳥(しらとり)古墳さらには7世紀に入って高蔵古墳群(熱田の北)などが造営されるが、古墳造営の動向も7世紀後半からは沈静化し、かわって元興寺(中区)や古観音廃寺(昭和区)などの寺院建立が活発になる』(愛知県教育委員会HPより)

鶴舞公園の記事で八幡山古墳は御器所台地にあると説明しましたが、確認すると瑞穂台地は御器所台地の南部を指す別名でした。上記した名古屋台地の他に、名古屋市の北東に位置する守山区上志段味(かみしだみ)一帯は東海地方有数の白鳥古墳群など古墳が多数集中する地域で、それらを総称して「志段味古墳群」と呼んでいるそうです。庄内川の対岸は鶴舞公園の記事で触れた春日井市の高蔵寺町。

名古屋市とその周辺地域に古墳が多数築成されたことが私には意外でした。尾張(愛知県西部地域)といえば織田信長や豊臣秀吉などの戦国武将を生み育てた地域として知られますが・・。調べると、尾張(おわり)の地名は今から1500年以上も前、この地域を治(おさ)めていた豪族の尾張氏に由来し、尾張は古い時代に「尾治」と表記されており、開墾(かいこん)・治水(ちすい)の意味を持つ「墾」と「治」(2字とも「はり」と読む)」が使われていたそうです。そして、ここを治める尾張氏は伊勢湾やその北の木曽川・庄内川流域の広大な濃尾平野を支配する大豪族だったようです。ここまで学習すれば尾張にも古墳が多数あることは不思議ではなくなりました。

また、尾張は近畿大和政権の隣接地域で、山の道(東山道)と海の道(東海道)を通じて密接な関係を持ちつつも、尾張とその東にある三河は独自の文化を形成していったようです。そこで大和政権と尾張の深い係わりを思いつくままに列挙します。

記紀(古事記と日本書紀)に登場する日本武尊(やまとたける)は第12代景行(けいこう)天皇の皇子で、父の命により東国を平定する遠征(紀元100年頃とされる)の途中に尾張で宮簀媛(みやずひめ)と出会って婚約する。東国平定後に尾張を再び訪れ宮簀媛と結婚した武尊は、伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)に荒神(こうじん)がいると聞いて征伐(せいばつ)に出掛けるが傷つき、大和への帰路で命を落としてしまう。草薙剣(くさなぎのつるぎ)を預かっていた宮簀媛は草薙剣を祀(まつ)って夫の冥福(めいふく)を祈ったとされるが、正式には天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれる草薙剣は熱田神宮の神体となって尾張氏の遠祖として仰がれる宮簀媛命(みやずひめのみこと)や建稲種命(たけいなだねのみこと)とともに祀られている。

第26代継体(けいたい)天皇(紀元450?-531年)は北陸(あるいは湖北)から北河内を経て大和入りするまでの正妃(せいひ)として尾張連草香(おわりのくさか)の娘である目子媛(めのこひめ)を迎えており、その2人の皇子(おうじ)は安閑(あんかん)天皇・宣化(せんか)天皇として即位している。

壬申(じんしん)の乱では、出家して吉野に下っていた大海人皇子(おおあまのおおじ、後の天武天皇)が甥(おい)の大友皇子(天智天皇の長男)の軍に攻め立てられて吉野から美濃(岐阜県南部地域)へ逃れ、そこで尾張氏の支援のもと東国の軍勢を集めて反攻に転じて勝利しましたが、大海人皇子の乳母(うば)は尾張郡海部郷(あまごう)出身、首長である大海(おおあま)氏の娘であったとも伝えられます。

                         ☆

東門から熱田神宮に入ると、紅梅(こうばい)とシキザクラが咲いていました。
 
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宮庁(きゅうちょう、社務所)前を通過して、前回(3年半前)訪れた時には完成間近だった神楽殿(かぐらでん)へ向いました。手前に見える土塀(どべい)は前回も紹介した信長塀。
 
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2009年9月に竣工(しゅんこう)した神楽殿には神紋(社紋)である五七桐笹が飾られています。
 
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「ならずの梅」は一度も花を付けたことがない梅として有名
 
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熱田大神(あつたのおおかみ)が祀(まつ)られる本宮(ほんぐう)の拝所である外玉垣御門(とのたまがきごもん)前で参拝
 
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今年5月8日に創期1900年(草薙の剣を祀って1900年目)を迎えることを知りました。これは上述したように日本武尊が伊勢国能煩野(のぼの、現在の三重県亀山市)で紀元113年(注釈;あの卑弥呼の時代より1世紀以上前の年代)に亡くなったとされることによるのでしょう。
 
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参道を歩きました。前回参拝した時、「あつた蓬莱軒(ほうらいけん)神宮店」で「ひつまぶし」を食べてから、潜った正門(南門)の鳥居です。
 
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参道を少し戻って左手(西)の小路に入ると意外なものを見つけました。眼鏡之碑はどう見ても土偶(どぐう)ですが、その由来を読むと、勾玉(まがたま)を製作する玉造部(たまつくりべ)の祖神(そしん)である玉祖命(たまのおやのみこと)を崇拝(すうはい)する名古屋眼鏡商業協同組合が青森県で出土した縄文時代の眼鏡をつけた土偶(遮光器土偶)を再現、顕彰(けんしょう)して昭和52年に建立したものでした。私は長野県茅野市で見た土偶の「仮面の女神」を思い出しました。
 
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二十五丁橋は板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、名古屋では最古の石橋といわれるそうです。
 
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西門を出ました。
 
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道路脇に断夫山(だんぶやま)古墳と白鳥(しらとり)御陵(別名:白鳥古墳)の案内標識を見つけました。
 
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名古屋地下鉄神宮西駅のある交差点を渡ります。今回はアイフォーン5が道案内してくれますから、歩き回って探す必要はありません。
 
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白鳥山法持寺に到着しました。アイフォーン5の地図によると白鳥(しらとり)古墳はこの境内にあるようです。
 
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門を入ると左正面の弘法堂奥に小高い場所が見えますから、そこへ向かう道を探しましたが、金網のフェンスに阻(はば)まれて進めません。ちなみに、この寺は弘法大師(空海)が熱田神宮に参詣(さんけい)した時(約1150年前)に創建したそうです。3年半前の記事では熱田神宮の御神木である弘法大師御手植えの大楠(推定樹齢1000年以上)を紹介しています。
 
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寺の境内にあると思ったのは私の早とちりのようですから、白鳥公園を経由して裏手へ回り込むことにしました。白鳥古墳の北側に出ました。ビンゴです!
 
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低い柵に近寄ると古墳の後円部と思われる場所が見えました。
 
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西側まで回り込むとこちらが正面でした。案内板には『この古墳は6世紀初めごろの築造と推定され、全長約74mの前方後円墳であるが、前方部と後円部の東部分が削り取られて原形が損なわれている。古くからこの古墳は、日本武尊の御陵(ごりょう)との説があり、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び来て、降り立った地であることから白鳥御陵と名付けられたといわれる』と説明されています。
 
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(続く)

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2013年3月17日 (日)

磯田道史著「歴史の愉しみ方」を読む

「忍者・合戦・幕末史に学ぶ」の副題に惹(ひ)かれて掲題の中公新書(2012年10月発行)を手に取りました。著者の磯田道史(みちふみ)氏は2010年に映画化された「武士の家計簿」(2003年発行、新潮新書)で知られる歴史学者(前茨城大学准教授・現静岡文化芸術大学准教授)です。

まえがきで著者は『歴史は愉(たの)しいものである。小説や漫画は歴史人物の生きざまに親しむための格好(かっこう)の入り口だが、それらは誰かがすでに書いて活字になった本をもとに想像をふくらませて歴史を書いているので、本物の歴史とは違う』と指摘します。

5つの章からなる本書は先に紹介した「とは知らなんだ」と同様に、エッセイ集の形式(52編)で構成され、読み易い文章が続きますので、その中から特に興味深い項目を抜き出して紹介するつもりでしたが、前回以上に長文となったことをご了承願います。時間の無い方は適宜(てきぎ)飛ばし読みをされても、この本の構成からみて、歴史の面白(おもしろ)さが十分お分かりになると思います。

第1章 忍者の実像を探る

忍者の履歴書

記録に残るべきではない忍者の現実を筆者が古文書で探すところから本文がはじまる。江戸時代の侍帳(藩士名簿)を調べ、岡山藩池田家の侍帳に記載されていた忍者の実名と人数の推移から、大阪冬の陣に61名であったものが幕末には10名になっていたことから、天下泰平(たいへい)のなか忍者は忍ばなくなったと分析する。

同家忍者のほとんどは伊賀の出で、天正伊賀の乱(筆者注;信長の伊賀攻め)などで浪人し、忍びの技で諸大名に雇われたことと、忍者は銃に強く関ヶ原や大阪の陣で狙撃兵として用いられたこと明らかにする。忍者の俸禄(ほうろく)は玄米30石(こく)、今なら年収900万円と悪くなかった。しかし時代が下がると、忍の仕事はただの番人になり、参勤交代時の藩主の身辺警護・火の用心・宗門帳(戸籍)の非常持ち出し係になったという。

秘伝書に残された忍術

上記を読売新聞に紹介した著者は忍者の末裔(まつえい)であるという滋賀県甲賀(こうか)市在住者から連絡を受けたことを明かす。伊賀忍術(いがにんじゅつ)については忍術書が公開されているが、甲賀については知られていないので、著者は古文書を調べると、忍法道具・忍び込む技・戦場で川や堀の深さを測る「瀬踏み」などの詳細が明らかになったという。

赤穂浪士と忍者

忍者が活躍した事例として著者は赤穂(あこう)事件を挙げる。隣の藩である岡山藩には大石内蔵助(くらのすけ)の親戚が多いため、赤穂藩へ忍者を潜入させて大石たちの出方をさぐり、入手した様々な情報から岡山藩首脳は「大石たちは籠城(ろうじょう)する気なし」と判断できたという。

第2章 歴史と出会う

「武士の家計簿」のその後

加賀藩士の猪山家がつけた家計簿をみつけ、幕末から明治の武士家族の生き方を著者が描い本を森田芳光(よしみつ)監督が映画化しているが、その猪山家の鎧兜(よろいかぶと)が見つかったエピソードを紹介。

ちょんまげの意味

戦国時代の武士は兜(かぶと)をかぶったとき蒸(む)れないためにちょんまげを結ったとされるが、間接的に主君への奉仕を意味していたため、ちょんまげを拒否あるいはちょんまげを藁(わら)で結った武士は閉門(自宅軟禁)の処罰を受けた事例を紹介する。戦国期は頭髪などは野卑(やひ)なもので比較的自由だったが、寛永の頃(1630年頃)には武士の世界が管理社会に変貌(へんぼう)していったようだという。

司馬さんに会えたらという反実仮想(はんじつかそう)

2011年3月11日以降、ふつうの人々の偉(えら)さを目(ま)の当たりにしたが、その一方で「ていたらく」というほかない権威者の堕(お)ちた姿もみた。あの事故が起きたとき、現場にいた核の参謀(さんぼう)たちは福島市まで退避、東京の「大本営(だいほんえい)」(筆者注;旧日本帝国陸海軍の統帥機関に例えた電力会社の本社)に40人もいていて助言を与えるはずの権威者たちは「地震で交通手段がない」と一人も緊急会議に来なかった。

また電力会社の社長は平日、夫人と奈良旅行を楽しんでおり、呼び戻されると、血圧が高くなって入院した。命がけで踏みとどまったのは、現場のひとびとであった。ところが、現場や地元には肝心(かんじん)なことは何も知らされない。悪いニュースは、ずっとあとになって「大本営」から発表されたと著者はいう。

著者が怒りを覚えるのは、電力会社の幹部や権威者にではなく、「立派な現場・駄目な指揮・とんでもない兵站(へいたん)」であり、「想定は外、情報は内」という、あいも変わらぬ、この国の姿であるという。これこそが司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんが生涯(しょうがい)かけて、筆の力で、日本人に更改(こうかい)をせまったものではなかったか。昭和のあの戦争の失敗の時から、われわれは何も変わっていないと著者は強く憤(いきどお)る。そして日本人は現状を追認するものではなく改善すべきものだと肝(きも)に銘(めい)じねばなるまいと指摘する。

第3章 先人に驚く

江戸時代における先人たちの知恵と考え方を多数紹介する内容はいずれも興味深いが、長くなりすぎるので印象に残った事項のタイトルだけを列挙すると、「殿様のお世話マニュアル」「江戸の食品安全基準」「江戸時代の倹約効果」「日本人の習性は江戸時代に」「手塚治虫と幕末西洋医」「トラカ列島宝島の薩英戦争」「龍馬暗殺時の政局メモ」「この国の経理の歴史」「福沢諭吉と学者の気概」である。

第4章 震災の歴史に学ぶ

地震の揺れ時間

東日本大震災では揺(ゆ)れが200秒以上の長さで続いたとされるが、地震計と時間の長さを精密に測定する時計がなかった時代に発生した元禄地震について、著者は神職や公家の日記を分析して最低でも45秒、3分近く揺れたと推定する。

浜名湖口付近にあった新居宿(あらいしゅく)は元禄16年の元禄(げんろく)関東大震災で壊滅(かいめつ)したこと、新居関所は元禄12年の津波と宝永(ほうえい)津波で移転したことが通説であるという。私が訪れた3年半前にも現地で同様の説明を読んだ記憶があります。著者は新幹線と東海道本線が低い場所を通っているので、東海・東南海・南海の連動地震がおきて巨大な津波に襲われる危険性を指摘する。

津波と新幹線

津波の規模は明応(めいおう)・宝永(ほうえい)・安政(あんせい)に発生した地震の順に大きかったという著者は、1498年と一番古い明応地震については文献資料がほとんどなく、宝永地震でも少なく、被害状況を詳細に把握(はあく)できるのは記録の多い安政地震だけであると指摘する。浜町市内にある神社の棟札(むなふだ、建設年月日を記した札)を調査した著者は500年前の明応津波が再来すると、砂丘と新幹線を越えて、浜松市の中心市街地まで達すると考える。

そして著者は旧国鉄総裁の仁杉巌(にすぎいわお)氏の証言(2012年2月2日付産経新聞)を引用して、『国鉄は新幹線のルートを決める時に津波のことを全く考えなかった。大津波をくると新幹線は浜名湖付近と焼津付近の2か所でやられる。迂回(うかい)ルートを造って対策した方が良い』ことを紹介する。

さらに物理学者で随筆家であった寺田寅彦(とらひこ)氏は著作『津波と人間』で昭和8年3月3日に起きた昭和三陸大津波について、『しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にしないというのが一つの事実であり、これが人間界の自然法則であるように見える』と述べていることも紹介し、この時代よりは人間界が進歩していていると信じたいと切(せつ)に願う。

第5章 戦国の声を聞く

石川五右衛門の禁書を読む

著者は石川五右衛門が実在したことをイエズス会宣教師の記録などで再確認したうえで、五右衛門の伝統的な権力への反抗は民衆の心を確実につかんだと説明。五右衛門の芝居は大人気で人間の平等を宣言する『絵本太閤記』は大いに売れ、発禁になったという。

石川五右衛門が獲ろうとしたもの

五右衛門が獲(と)ろうとしたものは千鳥の香炉でも秀吉の生命でもなかった。彼が獲ろうとしたのは三種の神器であり、帝王に化けて自らの欲望を満たすことであったと古文書が書き残していることを著者は紹介する。

国宝犬山城の見方

戦国の古色を残していることで犬山城(いぬやまじょう)が好きだという著者はその魅力を他の城と比較しながら詳しく解説。この城主であった徳川家最年少の武将である成瀬正成(なるせまさなり)について秀吉の人心をつかむ術の確かさを紹介する。

小田原城主、大久保忠隣

幕府老中で小田原城主であった大久保忠隣(ただちか)の項で家康の人を見抜く能力に筆者は言及する。

家康と直江兼続

主君の上杉景勝(かげかつ)を動かして関ヶ原の合戦を引き起こした張本人である直江兼続(なおえかねつぐ)が家康に殺されなかった秘密を著者は解明。家康は領土と命さえ保障すれば大名は自分に臣従(しんじゅう、家来が主君につき従うこと)すると看破(かんぱ)して、直江にそのまま伝えて助命(戦後処理のモデルケースに)したというのである。

関ヶ原見物作法

東京駅発(下り)と新大阪駅発(上り)の新幹線に乗り、徳川家康と石田三成になったつもりで沿線に見える縁(ゆかり)の地とともに関ヶ原での諸将の布陣(ふじん)状況を分かり易く解説したあと、著者は三成の陣所(じんしょ)を見ながら「小早川(こばやかわ)はひきょう」と一声叫(ひとこえさけ)んで本書を締(し)めくくった。

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2013年3月13日 (水)

名古屋の古墳群探訪 鶴舞公園とその周辺の古墳(後編)

鶴舞(つるま)公園の一番奥(東端)にある竜ヶ池(たつがいけ)とそこに浮かぶ浮見堂(うきみどう)は静かな佇(たたず)まいです。3月下旬になれば染井吉野が華(はな)やかに彩(いろど)るのでしょう。
 
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「あじさいの散歩道」を横切って石碑脇から小路に入りました。鶴舞公園の南東角を切り取ったような鶴舞小学校に沿って続きます。
 
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椿(つばき)が咲く小路の先に最初の目的地があるようです。
 
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市道の向こう側に史跡「八幡山古墳(はちまんやまこふん)」の石碑が見えます。『御器所(ごきそ)台地に築かれた東海地方で最大(全国でも有数)の円墳。直径82m、高さ10m、濠(ほり)の幅は平均して約10m、周堤が市道と支店残っている。築造年代は5世紀中頃と推定される。この北方にある名古屋工業大学構内一本松古墳(前方後円墳)があり、吹上ホールのあたりにかけて築かれた一群の古墳の中心の古墳と考えられる』と説明されています。ちなみに御器所の地名は熱田神宮が祭礼に使う土器を制作していた場所であることが由来とされるようです。
 
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「八幡山古墳」の航空写真と周辺の地図
 
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周濠(しゅうごう)の様子
 
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立ち木が密集していますが、今は落葉しているため、円墳の形状が確認できます。
 
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桜の古木で縁取(ふちど)られた円形の周濠が続きます。
 
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当たり前のことですが、円墳はどの方角から見ても同じ形をしています。
 
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市道の歩道を200mほど北へ歩くと名古屋工業大学の正門前に出ました。この日は土曜日ですから構内に立ち入ることが出来るかどうか分かりませんが、何ごとにも臆(おく)することのない私は左手にある守衛所へ向いました。
 
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「古墳を見せてもらいたい」と申し出ると、守衛さんは「どうぞ、どうぞ」と拍子抜(ひょうしぬ)けするほどの気楽さで許可してくれました。記帳など無粋(ぶすい)なことを求められなかったのは私の人相風体(にんそうふうてい)によるのだろうと思いながら構内へ入ると、国立大学とは思えないポップな色使いの校舎が正面に聳(そび)えています。手前の円形歩道橋はニュートンリング(光の干渉縞)と呼ばれるそうです。今は大学入試(物理)に出題される問題のようですが、私の高校時代の教科書には・・。
 
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教えられた通りにクランク型のコースを辿(たど)りました。自転車が多いキャンパスです。行き当たった所にある案内図で左手奥に古墳があることをしっかり確認。
 
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白い椅子が何脚も置かれた公園のような場所に古墳がありました。『一本松(いっぽんまつ)古墳は標高15mの台地上に営まれた古墳で、5世紀後半に三段築成され、全長70-80m、南西に前方部を置く前方後円墳であったともいわれているが、現在では直径34m、高さ8mの円墳状である。周囲を整備した際に多数出土した円筒埴輪(えんとうはにわ)は同大付属図書館と名古屋市博物館に保管されている』と正面の看板に説明されています。
 
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左手に回り込むと古墳の上部に石垣のようなものが確認できました。これが三段築成の名残でしょうか。
 
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反対側まで移動すると円墳状とはいってもかなり歪(いびつ)な形をしています。
 
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一周する少し手前に石段がありました。上れるようです。
 
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迷わずその石段を登ると頂上が近付きました。
 
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期待とは裏腹に頂上部は何もない場所でした。後で知りましたが、この古墳に登った学生は単位を落とすとの迷信があるそうです。この古墳が少しも荒れていないのはそれが理由なのかもしれません。知恵者が流した都市伝説なのでしょう。
 
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階段脇にある石柱に『一本松・・・』と刻(きざ)まれているようですが、表面がかなり風化しているため読めません。石柱の裏側には『昭和十三年三月』とあるようです。大学構内も見て回りたくなりましたが、挙動不審(きょどうふしん)を咎(とが)められるといけませんから、元来た道をそのまま引き返し、守衛さんにお礼を言って正門を出ました。
 
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名工大前交差点を渡った北東の入口から鶴舞公園へ戻りました。入口に近い場所にある「秋の池」の畔(ほとり)にはハゼノキやモミジなどが多く、秋には紅葉が美しいそうです。
 
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鶴舞公園は「さくら名所100選」の地でした。
 
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当ブログは「さくら名所100選」から、会津若松市鶴ヶ城公園・栃木市太平山県立自然公園・前橋市赤城南面千本桜・埼玉県長瀞(ながとろ)上野恩賜公園井の頭恩賜公園・横浜市三ツ池公園小諸城址懐古園・伊東市桜の里・京都市嵐山・同醍醐寺笠置山自然公園・大阪市造幣局大阪城公園奈良公園を紹介しています。
 
楽器の音に誘われて公会堂に立ち寄ると小学校バンド演奏会が開催されていました。記念撮影をする風景を無断で撮影させてもらいました。半世紀前に中学校で音楽部(器楽部)の部長をしていた時のことを懐(なつ)かしく思い出します。
 
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茶臼山(ちゃうすやま)古墳があったという近くの吹上ホール(吹上公園)へも足を伸ばしたいところですが、現在は古墳の面影(おもかげ)がまったく無いそうですから、次の目的地へ移動することにしました。
 

余談です。吹上(ふきあげ)とは変わった地名だと思い調べると、古代には伊勢湾がこの近くまで迫っていて、海風で砂がこの辺りまで吹き上げられたことが由来だとする説があるようです。(熱田編に続く)

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2013年3月12日 (火)

名古屋の古墳群探訪 鶴舞公園とその周辺の古墳(前編)

時間が1箇月ほど遡(さかのぼ)りますが、2月9日に午前中の新幹線に乗車しました。名古屋への一泊旅行ですから新東名をドライブしたいところですが、一人旅であり、2日目は夕方まで予定が入っていますから新幹線を選んだのです。初日は夜の会食だけで自由時間はたっぷりありますから、以前から暖めていた計画を実行に移すには絶好の機会です。
 

新東名は内陸部を通過していますから沿道の景色をあまり楽しむことは出来ませんが、新幹線は車窓から移り行く景色、なかでも富士山を眺(なが)めることが最大の楽しみです。少し雲はありますが期待できそうです。新丹那(しんたんな)トンネルを抜けると富士山の頂が周辺に漂う雲上に出ているのが見え、三島駅を通過した頃から雲が少し薄くなってきたようですが、新幹線は富士山から遠ざかって・・。
 
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正午の時報が鳴った直後の12時3分にのぞみ324号は名古屋駅に到着しました。新幹線下りホームにあるお馴染みの住吉には長い行列が出来ていました。
 
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今回は珍メニューともいえる「みそきしめん」(600円)を注文しました。見た目には味噌煮込みうどんにそっくりです。食べて見るときしめんと味噌煮込みうどんを足して二で割ったような味と食感があり、期待外れとまでは行きませんが、やはり珍メニューでした。次回はカレーきしめんに挑戦しようかと思っていましたが・・。
 
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今回の新幹線旅で期待していたものがもうひとつあります。名古屋駅を通過する車両をチェックしていてついに見つけました。それは2007年にデビューしたN700系の最新バージョンであるN700A。2月にデビューしたばかりです。
 
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その特徴はブレーキ距離を1-2割短縮(時速270km/h)、ペースを守る(定速走行)機能の向上、電力回生ブレーキなどにより電力消費量を19%削減(初期0系の時速220km/h比では49%減)、空気バネを利用して車体を1度傾斜させることによる走行時間の短縮(東京-大阪間で5分)、車両と車両の連結部を覆う「全周ホロ」による空気抵抗の低減、その他にも遮音機能の向上や防犯カメラの設置など多くの改善が盛り込まれています。
 

JR中央本線の上りホーム(7番線)へ移動して高蔵寺(こうぞうじ)行き電車に乗りました。高蔵寺町(春日井市)は名古屋市の北東にある1960年代に開発された日本における初期のニュータウンです。
 
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7‐8分で金山(かなやま)駅を経由して鶴舞(つるまい)駅に到着
 
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駅前(昭和区側)に広大な鶴舞(つるま)公園が広がっていました。明治42年(1909年)に沼地を埋め立てて造られ名古屋で最初の公園として開園し、今も名古屋を代表する公園のひとつです。駅と公園では読み方が異なることを昨年の記事で触れています。
 
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花の案内図を活用するには1ヶ月以上も早すぎたようです。
 
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公園の中央部へ向かって歩くと巨大な噴水搭があります。案内板には、『明治43年(1910年)に鶴舞公園で関西府県連合共進会が開催された時に造られ、昭和61年(1986年)に市の文化財に指定された』ことが説明されていました。
 
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テラスでは子供たちが楽しそうにお弁当を食べていました。遠方に見えるのは名古屋大学(名大)病院です。
 
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左手には歴史を感じさせる名古屋市公会堂(1930年建設)
 
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噴水の先には広いバラ園があります。バラが咲き乱れる光景を生田緑地(旧向ヶ丘遊園)や神代植物公園などのバラ園と重ね合わせて想像しました。
 
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何気なく振り返って公会堂の先(マンションの奥)にパラボラアンテナが多数設置された高い鉄塔があることに気付きました。たぶんNTTの施設だろうと思いながらアイフォン5でその場所を確認すると中電(中部電力)千代田ビルのようです。ネットで確認すると、このビルに入る中央給電指令所の通信用施設で、鉄塔は地上高が165mもあるそうです。
 
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さらに進むと奏楽堂(そうがくどう、音楽ホール)がありました。噴水搭と同時期に造られた2本の列柱が8組取り巻いたステージに銅板葺きのドームのあるイタリアルネッサンス調の建物で、屋根飾りのハープや階段手すりの白鳥など細部にアールヌーボーのデザインが施されています。昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊しましたが、平成9年(1997年)に築造当時の様式に復元されたそうです。
 
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少し離れた場所に客席らしきものがあります。ローマ時代の円形劇場を簡略化したイメージです。
 
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奏楽堂の手摺(てすり)は五線譜があしらわれています。写真では見難(みずら)いのですが、「君が代」のメロディであることが分かりました。
 
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階段を上がったところにある板敷きの円形ステージは有料で借りられるようです。
 
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奏楽堂の先にある胡蝶ヶ池(こちょうがいけ)に架かる鈴菜橋(すずなばし)を渡りました。『共進会が開催された時には回遊式日本庭園の入口となっていた橋。戦後は進駐軍によって接収されて取り壊されたが、接収が解除された昭和30年(1955年)に鉄筋コンクリート橋として復元された』と説明されています。
 
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鈴菜橋から胡蝶ヶ池の南側部分を撮影しました。中ノ島(左手)と春日亭(中央)が写っています。
 
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胡蝶ヶ池の北側部分に見つけた白鷺(しらさぎ)を撮影しました。
 
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巨大な楠木(くすのき、樹高20m・推定樹齢150年)と復元された回遊式日本庭園
 
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菖蒲池(しょうぶいけ)に架かる八ッ橋です。5月下旬に菖蒲の花期(かき)を迎えます。プチ薀蓄(うんちく)をひとつ。八つ橋とは伊勢物語(主人公は在原業平がモデル)の第九段「東下り」に登場する三河国の八橋(複雑な川の流れに合わせて8つの橋が渡されていた)が由来で、京菓子の八ツ橋(八橋検校に由来)のことではありません。ですから、この橋は三つ橋と呼ぶべきですが・・。冗談(じょうだん)です!
 
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(続く)

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2013年3月 7日 (木)

赤坂見附と一ツ木通りを散策

赤プリの現況を見た後、その周辺を散策することにしました。スタート地点は赤プリの南東角にある赤坂見附(赤坂御門)跡です。当時の石垣が一部だけ残っていました。
 
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赤坂御門は江戸城の外郭門のひとつで、敵の侵入を見つけるための施設であることから「見附」と呼ばれました。2つの門が直角に組み合わされた枡形(ますがた)門の形式だったそうです。
 
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すぐ横には江戸城外堀の一部であった弁慶掘があり、江戸時代には赤坂御門からクランク形に折れ曲がった道(左手の石垣沿い)で弁天橋(明治22年に架橋)付近に出て紀尾井坂方面へ向ったようです。また赤坂御門を反対方向へ出ると大山街道(現在の国道246号)の重要な地点でもあったことなどが説明されていました。
 
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青山通り(国道246号)に沿って歩きました。赤坂見附交差点を過ぎると上り坂になり、振り返ると赤プリが真後ろに見えました。
 
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100mほど歩いて一ツ木通りとの角に出ました。6年近く前に訪れた場所です。
 
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一ツ木通りに入ると街路灯にドーム型監視カメラが設置されていることに気付きました。
 
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傘(かさ)の下にある黒い球形の物体が監視カメラです。カメラの存在を感じさせず、しかもカメラ・レンズが向く方向が分かり難い(死角が分かり難い)特徴があって良く設置されています。余談ですが、柱には「一ツ木通り8」と表示されています。8番目の街路灯?あるいは8番目の監視カメラ? その上にあるマークは? 赤の字をモチーフにしているようにも見えますが・・。
 
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そして赤坂不動尊(真言宗智山派威徳寺)の参道脇に幸楽苑(こうらくえん)が出店していることに驚きました。これも何かの縁だと店内に入ることに。このチェーン店の最安メニューである中華麺(290円、税込み304円)は私の好物の一つです。
 
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幸楽苑の前にある街路灯の柱は、日本の原風景を象徴するクヌギの原木で覆(おお)われていて、まるで巨大なキノコのように見えます。街路樹をモチーフとしたようですが、何故か少数派なのです。最下部は鉄製パイプが剥(む)き出しになっているのは雨水の跳ね返りによる腐食を避けるためのようです。
 
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左手の横道を100mほど行けば東京メトロ赤坂見附駅で、突き当たりのビルは外堀通りに面した東急プラザ赤坂です。
 
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その先にはこんな路地もあります。
 
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振り返ると、一ツ木通りはうねりながら北から南の方向へ伸びていることが分かります。クヌギの原木で覆われていない街路灯のデザインの方が面白い。後方に見えるアーチ状のオブジェは意味が・・。そしてずっと遠くになった白いビルは青山通りの向かい側に建つAKASAKA K-TOWER(地上30階)です。
 
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アパヴィラホテル赤坂の前の街路灯にも監視カメラが設置されています。街路灯が歩道側へ少し傾いていることに気付きました。
 
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浄土寺のお地蔵さんは2体ともレインコートを着ています。笠地蔵ならぬ現代版の蓑(みの、雨合羽)地蔵と呼ぶべきでしょう。
 
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右手の公園のような場所に黄色い巨大な鳥を見つけました。
 
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何だろうと思いながら入って見ると、2羽の巨鳥(モズ?)のオブジェ脇に自転車が多数放置されています。赤坂サカスの敷地側に出た場所にある案内板を見て分かりました。実は赤坂サカスの駐輪場でした。
 
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自転車を立て掛ける仕組みがシンプルです。
 
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こちらにもクヌギの木で覆(おお)われた街路灯があります。良い着想ですが、見れば見るほど微妙な印象です。一言で言えばチグハグ(つまりバランスが悪い)!
 
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赤坂五丁目3番に出ました。交差点角に赤坂Bizタワー(右)とコンプリートワークストウキョウ(左)が聳(そび)えています。
 
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左手の先は山王下交差点で、その奥に日枝神社の特徴ある鳥居が見え、その右手には一際高い山王パークタワーが少し写っています。
 
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一本北側の道に入って赤坂見附方面へ戻りました。この通りにも監視カメラが付けられたデザインの異なる街路灯が並んでいます。遠くにホテルニューオータニのガーデンコートが少し見えます。
 
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急に思い立った短時間の散策に十分満足。赤坂見附駅から東京メトロ銀座線を利用して帰宅しました。

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2013年3月 6日 (水)

赤プリが消えてゆく!

所用があって千代田区紀尾井町のホテル・ニューオータニへ出掛けました。東京メトロ永田町駅で下車して地上へ出ると目の前に変わり果てた「赤プリ」(グランドプリンスホテル赤坂、旧名赤坂プリンスホテル)がありました。あの伸びやかな高層ビルが寸詰(すんづ)まりの平凡なビルになっていたのです。一昨年の記事でこのホテルが2011年3月31日をもってクローズしたことに触れています。[写真は青山通り(国道246号)沿いの衆議院議長公邸前にある横断歩道橋から撮影]
 
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坂を下った赤坂見附交差点付近からも撮影しました。下部が工事用のネットで覆(おお)われてはいますが解体工事が行われているようには見えません。それでも現状の階数を数えると20階ほどになっており、解体工事が始まる前には地上40階の建物でしたから、ちょうど半分の高さに縮んだことになります。
 
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場所を移動してホテル・ニューオータニ前から見ると確かに赤プリは工事現場になっていました。ちなみに、後方に見えるクラシカルな建物は旧館です。
 
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解体工事には粉塵(ふんじん)や部材の飛散、および騒音と振動を最小限に抑えることができる新工法「テコレップシステム」が採用されているそうです。既存の屋根をそのまま利用して閉鎖空間(写真で目立つ出窓のように飛び出した場所)を造り、油圧ジャッキを操作して建物を上部から1フロアずつ低くする工法で解体されているのです。また、既存屋根躯体(くたい)の下部にスライド式天井クレーンを配置し、荷降ろしの際に材料の自由落下エネルギーを利用した「荷下ろし発電」を行い、クレーンの動力のみならず照明・散水・仮設機械の動力等に利用しているエコロジー(エネルギー低減)が図られているそうです。ちなみに、昨年6月に始まった解体工事は今年5月頃に終了するようです。[写真は2008年7月1日に撮影した赤プリの雄姿]
 
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ホテル・ニューオータニのガーデンタワー5階から見た赤プリです。小雨に煙る赤プリ(新館)の左手には先ほど見た白い旧館もはっきり見えます。
 
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天気が回復した翌日、再びホテル・ニューオータニへ出掛けた折りに、弁慶掘に架かる弁慶橋から赤プリの全景を撮影しました。ちなみに、弁慶掘と弁慶橋の名はあの「武蔵坊弁慶」とは無関係で、江戸城を普請(ふしん)した大工頭領(だいくとうりょう)の弁慶小左衛門にちなんで名付けられたようです。
 
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トラックが出入りしている様子も確認できました。
 
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赤プリの旧館(旧李王家邸)付近にも足を伸ばしました。こちらも工事用の白いフェンスで囲まれていています。
 
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フェンスに遮(さえぎ)られて内部の様子は見えませんが、旧館についての解説がありました。紀尾井町と平河町の境界に伸びるこの道路の名前がプリンス通りであることをはじめて知りました。
 
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旧館の古い写真でしょう。
 
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工事用出入り口からは旧館の上半分を見ることができます。旧館の左手に重なって見えるのは、ホテルニューオータニのガーデンタワー、同じくガーデンコート、そして赤プリの新館です。
 
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工事用フェンスの隙間(すきま)から撮影した旧館の全景です。東京都有形文化財に指定されているこの建物は、後年になって増築された部分を撤去して、昭和5年(1930年)に建てられた当時の姿に戻して保存されるそうです。
 
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次回この地を訪れる頃には赤プリがすっかり消滅して、地上36階(高さ180m)の複合ビル(ホテル、オフィス、商業施設)と地上26階建(高さ120m)のタワーマンションで構成されるツインタワーの建設が始まっているかもしれません。

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2013年3月 4日 (月)

エピローグ 琴電乗車体験と栗林公園再訪(後編)

2013_01280244 右前方にあるのは前回立ち寄った商工奨励館(しょうこうしょうれいかん)、旧藩主御殿の跡地に明治時代に建てられた建物です。
 
 
 

2013_01280259 その前に樹齢約110年の巨大なヒマラヤスギ(高さ約22m)がありました。 
 
 
 
 

2013_01280258 築山(つきやま)越しに借景(しゃっけい)となっている紫雲山(しうんざん、別名稲荷山)を撮影
 
 
 
 

2013_01280260 紫雲山に向って歩きました。前方を歩くグループには黄色いジャンパーを着たボランティガイドさんが同行しています。東門のガイド詰所で申し出れば園内を無料で案内してくれるそうです。
 
 

2013_01280268 前回訪問した時の記事で紹介した鶴亀松(別名百石松)や北湖(ほっこ)に浮かぶ島々、そして夫婦松(めおとまつ)を眺(なが)めながら、北湖に沿って歩きました。ちなみに、2つの島が有る北湖は意外なことに栗林公園の南庭(なんてい)にあります。
 

2013_01280269 歩いてきた遊歩道を振り返りました。
 
 
 
 
 

2013_01280270 南湖(なんこ)につながる水路脇に和船の乗場がありました。後で調べると、南湖の3つの島を30分で巡(めぐ)ることが出来る昨年から始まったサービスです。ちなみに大人料金は600円。 
 
 

2013_01280272 真新しい和船(6人乗り)が係留(けいりゅう)してありました。元々は園内の作業に使われる船だったようです。遠くに見える橋は南湖の入口に架かる迎春橋(げいしゅんばし)でしょう。 
 
 

2013_01280273 北湖に沿った石段を上ります。前回は先を急いだために撮影し忘れましたので、あえて撮影しました。大きな石があるところが栗林公園一のビューポイントです。 
 
 
 

2013_01280274 前回と同様に芙蓉峰(ふようほう)から見た北湖です。向こう岸に朱色の梅林橋(別名赤橋)が見えます。ちなみに芙蓉とは富士山の別名。
 
 
 

2013_01280276 北湖に延びる臥龍松(がりょうまつ、がりゅうまつ)をズームアップ。臥龍とは臥(ふ)してうずくまっている龍のことで、通常はそのような形をした梅を臥龍梅(がりょうばい、がりゅうばい)と呼びますが、まれには松にも使われることがある表現です。 
 

2013_01280278 足元に気をつけながら石段を降ります。
 
 
 
 
 

2013_01280279 茶店「花園亭」で一息入れました。
 
 
 
 
 

2013_01280280 東口の駐車場は工事中のようです。
 
 
 
 
 

2013_01280281 松の枝振りが見事でしたので、
 
 
 
 
 

2013_01280283 思わずクローズアップして撮影
 
 
 
 
 

2013_01280284 東門まで戻って左手(北庭)にある鴨場(かもば)に立ち寄りました。平成5年(1993年)に復元された施設で、鴨猟の手順が大覗(おおのぞ)きと呼ばれる小屋で行う餌付(えづ)けから捕獲作業までが解説されています。
 
 

2013_01280287 2つの窓のようなものは小覗(このぞ)で、鴨引き掘の様子を覗(のぞ)く小さな穴が開けられています。
 
 
 
 

2013_01280286 右手に移動すると溝のようなものが見えました。これが鴨引き掘(鴨を誘い込む掘)で、幅・長さとも日本一の規模があるそうです。おおよその規模が分かります。木立の先に鴨が飛来する群鴨池があります。 
 
 

2013_01280288 左手から鴨引き堀の様子が確認できました。餌付(えづ)けされた囮(おとり)の鴨を鴨引き掘りに誘導して、その後についてくる鴨の群れを誘い込み、叉手網(さであみ)を持った人が堀の両側にある堤防(小土手)に控えて、驚いた鴨が飛び立つ瞬間に網に取り込んで鴨を捕獲するのです。叉手網を交換することで次から次へと・・・。 

2013_01280291 栗林公園の周囲はこのような掘(水路)で囲まれています。これは藩政時代に池の水が灌漑(かんがい)用水に使われていたことに関係しているのかも知れません。その他に栗林公園は前回の訪問時に立ち寄った薬園(薬草を栽培する畑)としての役割もあったようです。
 

終日強風が吹き続けたため瀬戸大橋を渡るマリンライナーの運休を心配しましたが、幸いなことに何ごともなく宿泊地の大阪へ戻ることができました。(終)

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2013年3月 3日 (日)

エピローグ 琴電乗車体験と栗林公園再訪(前編)

2013_01280227 案内標識に従って琴電(正式名称:高松琴平電気鉄道)の高松築港駅まで歩きました。琴電は戦時中に琴平電鉄・高松電気軌道・讃岐電鉄が合併して出来た経緯から、琴平線・長尾線・志度線の3路線があります。
 
 
 
2013_01280230琴平線は名称が示すように讃岐金刀比羅宮(さぬきことひらぐう)がある琴電琴平駅(琴平町)まで、長尾線は四国札所の87番長尾寺近い長尾駅まで、そして志度線同じく86番志度寺ある琴電志度駅までを高松築港駅から2つ目の瓦町(かわらまち)駅を分岐点として放射状に結んでいます。
 

2013_01280232

いずれも懐かしく思い出される訪問先ですが、昨年3月に高松市を訪れた時の記事に書いたように志度湾周辺は村上春樹氏の人気長編小説「海辺のカフカ」の舞台になったと想像される場所です。甲村記念図書館は存在しないことは承知で主人公の田村カフカが高松築港駅から乗車した志度線に乗って見たくなりましたが、今回はその時間がなさそうです。そこで琴平線で3駅目の栗林(りつりん)公園駅まで乗車することにしました。  2013_01280233   

高松城の内堀沿いに走る琴平線の電車から艮櫓(うしとらやぐら)の美しい姿を眺(なが)めることができました。 
 
 
 

2013_01280237 2両編成の電車内で面白い「讃岐弁講座」を見つけましたので紹介します。「さぬき弁のマナー講座①」は『まがっりょる!!』(邪魔になっていますよ) 
 
 
 

2013_01280235 「さぬき弁のマナー講座②」は『ちょっとこましのべとって!!』(少しの間、しまっておいてください)
 
 
 
 

2013_01280234 「さぬき弁のマナー講座③」は『ぶっりょる!!』(漏れていますよ)
 
 
 
 

2013_01280236 「さぬき弁のマナー講座④」は『まくれるで!!』(転びますよ)と、いずれも超高難度でした。 
 
 
 
 

2013_01280239 10分足(た)らずで栗林公園駅に到着しました。構内の踏み切りを渡って改札口に向います。
 
 
 
 

2013_01280241 栗林公園駅を出て左(つまり西)方向へ400mほど歩くと中央通り(国道11号)の向こう側に栗林公園の東門が見えました。
 
 
 

2013_01280290 地下道で国道を横断して常盤橋(ときわばし)を渡ります。元々は高松城の大手門から外堀を渡る橋でしたが、明治末期にその一部がこの栗林公園に移設されたものだそうです。ちなみに、当時の常盤橋は金毘羅宮(こんぴらぐう)を参詣するための高松街道(現在は消滅)の起点だったそうです。 

2013_01280243 左手の窓口で入園料400円を支払いました。案内図で確認すると前回は右上の北門から入って1時間40分のコースを歩きましたが、今回は東門から南庭(なんてい)を30分余りで巡るコースを選びました。
 
 

2013_01280245 入ってすぐ右手に見かけた讃岐民芸館(1号館、入館無料)に立ち寄りました。前回は奥にある建物(2号館)内の展示を見ています。 
 
 
 

2013_01280257 冬季企画展「願いを込めた鬼瓦 時代の顔」が開催されていました。
 
 
 
 

2013_01280246 この鬼瓦(おにがわら)は角が大きくて口を開いて面相が厳しい雄鬼です。他方、口を閉じていて角が無いか小さく面相が優しいものが雌(めす)鬼とのこと。
 
 
 

2013_01280249 判断基準が分かりましたから一杯並んでいる鬼瓦の雄雌を識別することは容易になりました。
 
 
 
 

2013_01280250 飛鳥時代に中国から導入された頃には鴟尾(しび)と呼ばれましたが、近世に入ると海獣の形に似た鯱(しゃち)に変わったことが説明されています。これについてはエッセイ集「とは知らなんだ」の記事で詳しく説明しています。
 
 

2013_01280251 ついでに瓦の歴史的名称を記念撮影
 
 
 
 
 

2013_01280252 こちらは蓮華文(れんげもん、蓮華の花を文様化したもの)の鬼瓦です。 
 
 
 
 

2013_01280254 香川の家具も展示されています。20世紀を代表する世界的家具デザイナー、ジョージ・ナカシマ氏(1905-1990年)と、伝統を引き継ぎながら新しい時代の形を生み出す家具職人とが手を結び、世界が注目する家具を香川から発信していることと、ナカシマ氏は流政之氏の紹介で高松を訪れたことが説明されていました。

2013_01280253 写真はカバサクラ材を用いて製作されたコノイド(円錐曲線の意)チェア(1959年頃のデザイン)と天板・脚部ともにイングリッシュオーク材ミングレン(民具連)Ⅳダイニングテーブルです。その他にも、天板が無垢(むく)のイングリッシュオーク材で脚部がブラックウォールナット材のエンドテーブル(サイドテーブルのこと)と低い座面と幅が広くゆったりとしたシートが特徴であるラウンジチェアが展示されていました。ちなみに、牟礼町にあるジョージ・ナカシマ記念館には同氏の作品が多数展示されているようです。(続く)

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2013年3月 2日 (土)

やっぱり、エネループ(eneloop)が・・・

2013_03020067 一昨日(2月28日)、充電式ニッケル水素電池の「エネループeneloop)」が4月26日付けでパナソニック・ブランドに生まれ変わると同社から発表されました。1昨年の4月にパナソニックの完全子会社となった三洋電機からそのまま発売されていたエネループ製品とその商品名が存続するのであれば、私の懸念は杞憂(きゆう)に終わったようだと思いながら関連のホームページを読みました。

2013_03020068 シンボルカラーの白色(スタンダードモデル)・黒色(ハイエンドモデル)・水色(お手軽モデル)はそのままですが、無粋(ぶすい)にもPanasonicの社名が大きな文字で表示されていて、eneloopの名称はよく見ないと分からないほど小さな文字で表記されているのです。これでは愛好者が多い(シェアが6割以上)eneloopのブランド価値が否定されたのも同然でしょう。

ブランド戦略が長年にわたって混乱した実績のあるパナソニックらしいと言えばそれまでですが、エネループ・ファンである私には納得できない同社のブランド戦略です。パナソニックが三洋電機を買収した時からエネループの名が消えることを心配していた私には、パナソニックが従来の方針通りにエネループの名称を曲がりなりにも残したことは嬉(うれ)しいことですが、次のステップ(エネループ名の消滅)に対する懸念は一向に弱まることはありません。

2013_03020066 新しいデザインにはときめきが感じられなく、とても受け入れがたいものです。たとえパナソニックの従来製品であるエボルタ(EVOLTA)が容量アップされ、かつエネループが繰り返し使用回数をアップされ、そしてパナソニックが両製品をデュアルブランドで併売すると聞いても、それはメーカー側の論理(都合)であって、私の心に響くことはまったくないのです。そこで、私がとっさに取った行動はもちろんエネループの買い溜(だ)め、言い換えれば「大人買い」です。これから数年間に必要と思われる量のエネループを確保するために近くの家電量販店へ出かけましたが、何と売り切れ(品切れ)でした。ちなみに、店頭にあるエネループは充電器とのセット商品だけでした。

2013_03020070価格ドットコムのサイトで調べると、パナソニック(三洋電機)が製造する製品を現行バージョンから新バージョンへ切り替えたようで、ネット通販でも家電量販店と同様にエネループ(電池のみ)は入手困難であることが分かりました。在庫を少し抱える通販ショップを少数見つけましたが、へそ曲りな私はどうせネットで買うならばと、今年1月に限定発売されたばかりのエネループのディズニー110周年限定モデル/ラブラブディズニーモデル(単3形8本セット、1860円+配送料・手数料100円)の方をAmazon.comに注文しました。

これで当面は大丈夫ですが、私は4月からパナソニック・ブランドになるエネループのデザインが現行のデザインに戻ることを切に願っています。もし、期待に反して新しいデザインが長く続くようであれば、ニッケル水素蓄電池ではマイナーな存在のサイクルエナジー(ソニー製)に切り替えることを考えるかもしれません。25年来のアップル・ファンである私にはブランドイメージ(ブランドではない)が大事なのです。

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