「忍者・合戦・幕末史に学ぶ」の副題に惹(ひ)かれて掲題の中公新書(2012年10月発行)を手に取りました。著者の磯田道史(みちふみ)氏は2010年に映画化された「武士の家計簿」(2003年発行、新潮新書)で知られる歴史学者(前茨城大学准教授・現静岡文化芸術大学准教授)です。
まえがきで著者は『歴史は愉(たの)しいものである。小説や漫画は歴史人物の生きざまに親しむための格好(かっこう)の入り口だが、それらは誰かがすでに書いて活字になった本をもとに想像をふくらませて歴史を書いているので、本物の歴史とは違う』と指摘します。
5つの章からなる本書は先に紹介した「とは知らなんだ」と同様に、エッセイ集の形式(52編)で構成され、読み易い文章が続きますので、その中から特に興味深い項目を抜き出して紹介するつもりでしたが、前回以上に長文となったことをご了承願います。時間の無い方は適宜(てきぎ)飛ばし読みをされても、この本の構成からみて、歴史の面白(おもしろ)さが十分お分かりになると思います。
第1章 忍者の実像を探る
忍者の履歴書
記録に残るべきではない忍者の現実を筆者が古文書で探すところから本文がはじまる。江戸時代の侍帳(藩士名簿)を調べ、岡山藩池田家の侍帳に記載されていた忍者の実名と人数の推移から、大阪冬の陣に61名であったものが幕末には10名になっていたことから、天下泰平(たいへい)のなか忍者は忍ばなくなったと分析する。
同家忍者のほとんどは伊賀の出で、天正伊賀の乱(筆者注;信長の伊賀攻め)などで浪人し、忍びの技で諸大名に雇われたことと、忍者は銃に強く関ヶ原や大阪の陣で狙撃兵として用いられたこと明らかにする。忍者の俸禄(ほうろく)は玄米30石(こく)、今なら年収900万円と悪くなかった。しかし時代が下がると、忍の仕事はただの番人になり、参勤交代時の藩主の身辺警護・火の用心・宗門帳(戸籍)の非常持ち出し係になったという。
秘伝書に残された忍術
上記を読売新聞に紹介した著者は忍者の末裔(まつえい)であるという滋賀県甲賀(こうか)市在住者から連絡を受けたことを明かす。伊賀忍術(いがにんじゅつ)については忍術書が公開されているが、甲賀については知られていないので、著者は古文書を調べると、忍法道具・忍び込む技・戦場で川や堀の深さを測る「瀬踏み」などの詳細が明らかになったという。
赤穂浪士と忍者
忍者が活躍した事例として著者は赤穂(あこう)事件を挙げる。隣の藩である岡山藩には大石内蔵助(くらのすけ)の親戚が多いため、赤穂藩へ忍者を潜入させて大石たちの出方をさぐり、入手した様々な情報から岡山藩首脳は「大石たちは籠城(ろうじょう)する気なし」と判断できたという。
第2章 歴史と出会う
「武士の家計簿」のその後
加賀藩士の猪山家がつけた家計簿をみつけ、幕末から明治の武士家族の生き方を著者が描い本を森田芳光(よしみつ)監督が映画化しているが、その猪山家の鎧兜(よろいかぶと)が見つかったエピソードを紹介。
ちょんまげの意味
戦国時代の武士は兜(かぶと)をかぶったとき蒸(む)れないためにちょんまげを結ったとされるが、間接的に主君への奉仕を意味していたため、ちょんまげを拒否あるいはちょんまげを藁(わら)で結った武士は閉門(自宅軟禁)の処罰を受けた事例を紹介する。戦国期は頭髪などは野卑(やひ)なもので比較的自由だったが、寛永の頃(1630年頃)には武士の世界が管理社会に変貌(へんぼう)していったようだという。
司馬さんに会えたらという反実仮想(はんじつかそう)
2011年3月11日以降、ふつうの人々の偉(えら)さを目(ま)の当たりにしたが、その一方で「ていたらく」というほかない権威者の堕(お)ちた姿もみた。あの事故が起きたとき、現場にいた核の参謀(さんぼう)たちは福島市まで退避、東京の「大本営(だいほんえい)」(筆者注;旧日本帝国陸海軍の統帥機関に例えた電力会社の本社)に40人もいていて助言を与えるはずの権威者たちは「地震で交通手段がない」と一人も緊急会議に来なかった。
また電力会社の社長は平日、夫人と奈良旅行を楽しんでおり、呼び戻されると、血圧が高くなって入院した。命がけで踏みとどまったのは、現場のひとびとであった。ところが、現場や地元には肝心(かんじん)なことは何も知らされない。悪いニュースは、ずっとあとになって「大本営」から発表されたと著者はいう。
著者が怒りを覚えるのは、電力会社の幹部や権威者にではなく、「立派な現場・駄目な指揮・とんでもない兵站(へいたん)」であり、「想定は外、情報は内」という、あいも変わらぬ、この国の姿であるという。これこそが司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんが生涯(しょうがい)かけて、筆の力で、日本人に更改(こうかい)をせまったものではなかったか。昭和のあの戦争の失敗の時から、われわれは何も変わっていないと著者は強く憤(いきどお)る。そして日本人は現状を追認するものではなく改善すべきものだと肝(きも)に銘(めい)じねばなるまいと指摘する。
第3章 先人に驚く
江戸時代における先人たちの知恵と考え方を多数紹介する内容はいずれも興味深いが、長くなりすぎるので印象に残った事項のタイトルだけを列挙すると、「殿様のお世話マニュアル」「江戸の食品安全基準」「江戸時代の倹約効果」「日本人の習性は江戸時代に」「手塚治虫と幕末西洋医」「トラカ列島宝島の薩英戦争」「龍馬暗殺時の政局メモ」「この国の経理の歴史」「福沢諭吉と学者の気概」である。
第4章 震災の歴史に学ぶ
地震の揺れ時間
東日本大震災では揺(ゆ)れが200秒以上の長さで続いたとされるが、地震計と時間の長さを精密に測定する時計がなかった時代に発生した元禄地震について、著者は神職や公家の日記を分析して最低でも45秒、3分近く揺れたと推定する。
浜名湖口付近にあった新居宿(あらいしゅく)は元禄16年の元禄(げんろく)関東大震災で壊滅(かいめつ)したこと、新居関所は元禄12年の津波と宝永(ほうえい)津波で移転したことが通説であるという。私が訪れた3年半前にも現地で同様の説明を読んだ記憶があります。著者は新幹線と東海道本線が低い場所を通っているので、東海・東南海・南海の連動地震がおきて巨大な津波に襲われる危険性を指摘する。
津波と新幹線
津波の規模は明応(めいおう)・宝永(ほうえい)・安政(あんせい)に発生した地震の順に大きかったという著者は、1498年と一番古い明応地震については文献資料がほとんどなく、宝永地震でも少なく、被害状況を詳細に把握(はあく)できるのは記録の多い安政地震だけであると指摘する。浜町市内にある神社の棟札(むなふだ、建設年月日を記した札)を調査した著者は500年前の明応津波が再来すると、砂丘と新幹線を越えて、浜松市の中心市街地まで達すると考える。
そして著者は旧国鉄総裁の仁杉巌(にすぎいわお)氏の証言(2012年2月2日付産経新聞)を引用して、『国鉄は新幹線のルートを決める時に津波のことを全く考えなかった。大津波をくると新幹線は浜名湖付近と焼津付近の2か所でやられる。迂回(うかい)ルートを造って対策した方が良い』ことを紹介する。
さらに物理学者で随筆家であった寺田寅彦(とらひこ)氏は著作『津波と人間』で昭和8年3月3日に起きた昭和三陸大津波について、『しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にしないというのが一つの事実であり、これが人間界の自然法則であるように見える』と述べていることも紹介し、この時代よりは人間界が進歩していていると信じたいと切(せつ)に願う。
第5章 戦国の声を聞く
石川五右衛門の禁書を読む
著者は石川五右衛門が実在したことをイエズス会宣教師の記録などで再確認したうえで、五右衛門の伝統的な権力への反抗は民衆の心を確実につかんだと説明。五右衛門の芝居は大人気で人間の平等を宣言する『絵本太閤記』は大いに売れ、発禁になったという。
石川五右衛門が獲ろうとしたもの
五右衛門が獲(と)ろうとしたものは千鳥の香炉でも秀吉の生命でもなかった。彼が獲ろうとしたのは三種の神器であり、帝王に化けて自らの欲望を満たすことであったと古文書が書き残していることを著者は紹介する。
国宝犬山城の見方
戦国の古色を残していることで犬山城(いぬやまじょう)が好きだという著者はその魅力を他の城と比較しながら詳しく解説。この城主であった徳川家最年少の武将である成瀬正成(なるせまさなり)について秀吉の人心をつかむ術の確かさを紹介する。
小田原城主、大久保忠隣
幕府老中で小田原城主であった大久保忠隣(ただちか)の項で家康の人を見抜く能力に筆者は言及する。
家康と直江兼続
主君の上杉景勝(かげかつ)を動かして関ヶ原の合戦を引き起こした張本人である直江兼続(なおえかねつぐ)が家康に殺されなかった秘密を著者は解明。家康は領土と命さえ保障すれば大名は自分に臣従(しんじゅう、家来が主君につき従うこと)すると看破(かんぱ)して、直江にそのまま伝えて助命(戦後処理のモデルケースに)したというのである。
関ヶ原見物作法
東京駅発(下り)と新大阪駅発(上り)の新幹線に乗り、徳川家康と石田三成になったつもりで沿線に見える縁(ゆかり)の地とともに関ヶ原での諸将の布陣(ふじん)状況を分かり易く解説したあと、著者は三成の陣所(じんしょ)を見ながら「小早川(こばやかわ)はひきょう」と一声叫(ひとこえさけ)んで本書を締(し)めくくった。
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