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2013年3月19日 (火)

名古屋の古墳群探訪 熱田神宮とその周辺の古墳(前編)

金山駅で名鉄(名古屋鉄道)に乗り換えて神宮前駅で下車しました。JR東海道本線の熱田駅でも良いのですが次の目的地である熱田神宮の東門に近い神宮前駅を選びました。散策マップの現在地が神宮前駅で、上部(南方向)には宮の渡し跡も表示されています。
 
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以下は事前に調べた情報です。講釈は無用だと思われる方は飛ばしてください。

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『名古屋台地は精進川(現在の新堀川)によって瑞穂(みずほ)台地と熱田(あつた)台地にわけられているが、この台地における古墳の造営は5世紀中頃に東部の瑞穂台地から始まる。直径82mの巨大な円墳である八幡山古墳(国史跡、鶴舞公園の東)、五中山古墳を中心にした高田古墳群、さらに南の瑞穂古墳群(瑞穂公園内に2号墳)へと続く。6世紀にはいると西側の熱田台地に古墳造営ラッシュが訪れる。名古屋スポーツセンターの位置にあった大須二子山古墳をはじめとする大須(おおす)古墳群、断夫山(だんぶさん)古墳、白鳥(しらとり)古墳さらには7世紀に入って高蔵古墳群(熱田の北)などが造営されるが、古墳造営の動向も7世紀後半からは沈静化し、かわって元興寺(中区)や古観音廃寺(昭和区)などの寺院建立が活発になる』(愛知県教育委員会HPより)

鶴舞公園の記事で八幡山古墳は御器所台地にあると説明しましたが、確認すると瑞穂台地は御器所台地の南部を指す別名でした。上記した名古屋台地の他に、名古屋市の北東に位置する守山区上志段味(かみしだみ)一帯は東海地方有数の白鳥古墳群など古墳が多数集中する地域で、それらを総称して「志段味古墳群」と呼んでいるそうです。庄内川の対岸は鶴舞公園の記事で触れた春日井市の高蔵寺町。

名古屋市とその周辺地域に古墳が多数築成されたことが私には意外でした。尾張(愛知県西部地域)といえば織田信長や豊臣秀吉などの戦国武将を生み育てた地域として知られますが・・。調べると、尾張(おわり)の地名は今から1500年以上も前、この地域を治(おさ)めていた豪族の尾張氏に由来し、尾張は古い時代に「尾治」と表記されており、開墾(かいこん)・治水(ちすい)の意味を持つ「墾」と「治」(2字とも「はり」と読む)」が使われていたそうです。そして、ここを治める尾張氏は伊勢湾やその北の木曽川・庄内川流域の広大な濃尾平野を支配する大豪族だったようです。ここまで学習すれば尾張にも古墳が多数あることは不思議ではなくなりました。

また、尾張は近畿大和政権の隣接地域で、山の道(東山道)と海の道(東海道)を通じて密接な関係を持ちつつも、尾張とその東にある三河は独自の文化を形成していったようです。そこで大和政権と尾張の深い係わりを思いつくままに列挙します。

記紀(古事記と日本書紀)に登場する日本武尊(やまとたける)は第12代景行(けいこう)天皇の皇子で、父の命により東国を平定する遠征(紀元100年頃とされる)の途中に尾張で宮簀媛(みやずひめ)と出会って婚約する。東国平定後に尾張を再び訪れ宮簀媛と結婚した武尊は、伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)に荒神(こうじん)がいると聞いて征伐(せいばつ)に出掛けるが傷つき、大和への帰路で命を落としてしまう。草薙剣(くさなぎのつるぎ)を預かっていた宮簀媛は草薙剣を祀(まつ)って夫の冥福(めいふく)を祈ったとされるが、正式には天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれる草薙剣は熱田神宮の神体となって尾張氏の遠祖として仰がれる宮簀媛命(みやずひめのみこと)や建稲種命(たけいなだねのみこと)とともに祀られている。

第26代継体(けいたい)天皇(紀元450?-531年)は北陸(あるいは湖北)から北河内を経て大和入りするまでの正妃(せいひ)として尾張連草香(おわりのくさか)の娘である目子媛(めのこひめ)を迎えており、その2人の皇子(おうじ)は安閑(あんかん)天皇・宣化(せんか)天皇として即位している。

壬申(じんしん)の乱では、出家して吉野に下っていた大海人皇子(おおあまのおおじ、後の天武天皇)が甥(おい)の大友皇子(天智天皇の長男)の軍に攻め立てられて吉野から美濃(岐阜県南部地域)へ逃れ、そこで尾張氏の支援のもと東国の軍勢を集めて反攻に転じて勝利しましたが、大海人皇子の乳母(うば)は尾張郡海部郷(あまごう)出身、首長である大海(おおあま)氏の娘であったとも伝えられます。

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東門から熱田神宮に入ると、紅梅(こうばい)とシキザクラが咲いていました。
 
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宮庁(きゅうちょう、社務所)前を通過して、前回(3年半前)訪れた時には完成間近だった神楽殿(かぐらでん)へ向いました。手前に見える土塀(どべい)は前回も紹介した信長塀。
 
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2009年9月に竣工(しゅんこう)した神楽殿には神紋(社紋)である五七桐笹が飾られています。
 
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「ならずの梅」は一度も花を付けたことがない梅として有名
 
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熱田大神(あつたのおおかみ)が祀(まつ)られる本宮(ほんぐう)の拝所である外玉垣御門(とのたまがきごもん)前で参拝
 
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今年5月8日に創期1900年(草薙の剣を祀って1900年目)を迎えることを知りました。これは上述したように日本武尊が伊勢国能煩野(のぼの、現在の三重県亀山市)で紀元113年(注釈;あの卑弥呼の時代より1世紀以上前の年代)に亡くなったとされることによるのでしょう。
 
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参道を歩きました。前回参拝した時、「あつた蓬莱軒(ほうらいけん)神宮店」で「ひつまぶし」を食べてから、潜った正門(南門)の鳥居です。
 
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参道を少し戻って左手(西)の小路に入ると意外なものを見つけました。眼鏡之碑はどう見ても土偶(どぐう)ですが、その由来を読むと、勾玉(まがたま)を製作する玉造部(たまつくりべ)の祖神(そしん)である玉祖命(たまのおやのみこと)を崇拝(すうはい)する名古屋眼鏡商業協同組合が青森県で出土した縄文時代の眼鏡をつけた土偶(遮光器土偶)を再現、顕彰(けんしょう)して昭和52年に建立したものでした。私は長野県茅野市で見た土偶の「仮面の女神」を思い出しました。
 
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二十五丁橋は板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、名古屋では最古の石橋といわれるそうです。
 
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西門を出ました。
 
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道路脇に断夫山(だんぶやま)古墳と白鳥(しらとり)御陵(別名:白鳥古墳)の案内標識を見つけました。
 
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名古屋地下鉄神宮西駅のある交差点を渡ります。今回はアイフォーン5が道案内してくれますから、歩き回って探す必要はありません。
 
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白鳥山法持寺に到着しました。アイフォーン5の地図によると白鳥(しらとり)古墳はこの境内にあるようです。
 
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門を入ると左正面の弘法堂奥に小高い場所が見えますから、そこへ向かう道を探しましたが、金網のフェンスに阻(はば)まれて進めません。ちなみに、この寺は弘法大師(空海)が熱田神宮に参詣(さんけい)した時(約1150年前)に創建したそうです。3年半前の記事では熱田神宮の御神木である弘法大師御手植えの大楠(推定樹齢1000年以上)を紹介しています。
 
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寺の境内にあると思ったのは私の早とちりのようですから、白鳥公園を経由して裏手へ回り込むことにしました。白鳥古墳の北側に出ました。ビンゴです!
 
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低い柵に近寄ると古墳の後円部と思われる場所が見えました。
 
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西側まで回り込むとこちらが正面でした。案内板には『この古墳は6世紀初めごろの築造と推定され、全長約74mの前方後円墳であるが、前方部と後円部の東部分が削り取られて原形が損なわれている。古くからこの古墳は、日本武尊の御陵(ごりょう)との説があり、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び来て、降り立った地であることから白鳥御陵と名付けられたといわれる』と説明されています。
 
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(続く)

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