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2013年4月に作成された記事

2013年4月27日 (土)

横須賀へのドライブ旅 ヴェルニー公園

好天に誘われて久しぶりの横須賀へドライブに出掛けました。10日余り前の4月15日(月曜日)に走り慣(な)れた横浜横須賀道路を快調に南下しました。最寄りの出口は横須賀ICですが1つ手前の逗子(ずし)ICを出て、国道16号(横須賀街道)に入りました。田浦隧道(ずいどう)、逸見(いつみ)隧道、横須賀隧道など5つのトンネルを抜けて横須賀の市街地に入りました。ショッパーズプラザ横須賀の屋内パーキング場に駐車。
 
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最初に向ったのは到着した直後の午前10時に開館するこのショッピングセンターではなく、隣接するヴェルニー公園です。臨海公園が2001年(平成3年)にフランス式庭園としてリニューアルオープンしたこの公園は幕府の勘定奉行小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)が幕末に横須賀製鉄所を建設する時に指導を仰(あお)いだフランス人造船技師ヴェルニーにちなんで造られたそうです。この横須賀製鉄所は後に横須賀造船所(海軍工廠)と名称を変えて数々の軍艦を建造しましたが、昭和20年(1945年)以降は米海軍の基地となりました。

ヴェルニー公園へ向う途中、右手に見えた船は「YOKOSUKA軍港めぐり」の遊覧船のようです。アイフォーン5でチェックすると朝のクルーズは11時出発ですから、ゆっくり園内を散策できそうです。海側にはボードウォークが一直線に伸びています。幾何学的にレイアウトされた庭園の花壇にはよく管理された約2000株のバラが植えられていて、早咲きのバラが開花し始めていましたので、名前とともにバラの写真を掲載します。ちなみに、バラの見頃は5月から6月に掛けてでしょう。
 
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天の川(あまのがわ) 1956年日本産
 
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紅(くれない) 2003年日本産
 
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ロサ・キネンシス 1759年中国原産
 
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マリアカラス 1965年フランス産
 
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プリンセスアイコ 2002年日本産
 
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プリンセスミチコ 1966年英国産
 
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バラ属ではありませんが同じバラ科のヒメシャリンバイ(姫車輪梅)
 
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スウィートダイアナ 2000年米国産
 
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ディア ドロップ 1988年英国産
 
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ラセビリアーナ 1978年フランス産
 
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二つの胸像が並んでいます。
左:フランソワ・レオンズ・ヴェルニー(1837年~1908年)

右:小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ、1827年~1868年)

「ヴェルニーは観音埼灯台の建建など造船以外にも広く活躍して1876年に帰国した」と説明されています。
 
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噴水で鳩が2羽、行水をしていました。
 
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旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所「逸見波止場衛門」は高さが約4m、屋根は銅板葺(ぶ)きドーム型、本体は八角形の鉄筋コンクリート造り(外壁はタイル張り)です。建築年代は明治末期から大正初期と推定されると説明されています。
 
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フランス式花壇ではバラの手入れ作業が行われていました。
 
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洋風東屋(あずまや)
 
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公園の東端に戻ると「海軍の碑」の横に戦艦の碑がいくつも並んでいました。
 
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そのひとつが日本海軍を代表する戦艦(せんかん)であった軍艦(ぐんかん)長門の碑です。ちなみに、戦艦とは強大な艦砲を持つ軍艦、つまり主力艦を指します。
 
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右端に立つ正岡子規(まさおかしき)の句碑には「横須賀や 只帆檣(ただはんしょう)の 冬木立(ふゆこだち)」と刻(きざ)まれています。帆檣(はんしょう)とは帆柱(ほばしら)のことで、冬木立はそれが林立する様の比喩(ひゆ)でしょう。
 
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明日から次のドライブ旅に出掛けるため、記事の続きは帰宅後に投稿を再開します。(続く)

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2013年4月24日 (水)

百田尚樹著「風の中のマリア」を読む

2009年3月3日に講談社から発行された本書(約250頁)は先に読んだ「錨を上げよ」(約1200頁)に比べるとコンパクトな長編小説(中編小説)です。題名が似ている人気アニメ「風の谷のナウシカ」のような主人公を思い浮かべながら、森の中をうねって流れる川が描かれたハードカバー本の表紙を捲(めく)りました。見返しには森の地図がモノトーンで簡潔に表示されています。

本文に入ると主人公のマリアは人間ではなくオオスズメバチのワーカー(働き蜂)であることが最初のシーンで説明されました。ちなみに、オオスズメバチ(ヴェスパ・マンダリニア)は日本に生息するハチ類の中で最も強力な毒を持つ上に攻撃性が非常に高く、最強の戦闘能力、つまり巨大な顎(あご)・堅(かた)い牙(きば)・何度でも刺すことができる鋭い針を備(そな)えた蜂です。蜂が主人公と言えば、40年前にヒットしたメルヘンTVアニメ『昆虫物語 みなしごハッチ』(通称;ミツバチハッチ)を連想されるかも知れませんが、百田尚樹さんの小説ですから蜂の世界が極めてリアルに描かれていました。

第一部 帝国の娘

疾風(しっぷう)のマリア

物語は狩に出たマリアが、アシナガバチ(足長蜂)を捕獲(ほかく)して、その肉を巣で待つ幼虫のために持ち帰るシーンから始まる。成虫になったオオスズメバチは肉などの固形物を食べられなくなり、樹液や花蜜(かみつ)が食物の代わりとなるが、最高の栄養源は幼虫が出す唾液(だえき)なのだ。巣の構造もマリアによって詳しく紹介される。

再び狩に出かけたマリアはイナゴを見つけ、大格闘の末にイナゴを仕留めて大きな肉団子に丸めると、それをくわえて舞い上がった。今日二匹目の獲物だ。

生まれながらの戦士

狩に出て4日目のマリアはその日も多くの虫を狩った。アシナガバチ、イナゴ、コガネムシ、アオドウガネが計5頭と大収穫である。6回目の狩りに出かけたマリアはカマドウマ(バッタの一種)を捕獲して肉団子にしたが、強い風と雨を避けるために入ったハンノキの洞(ほら)でミドリシジミ(小さなチョウ)のオスと出会う。自分のような小さなチョウは襲われないことを知っている彼は美しい翅(羽根)をマリアに見せながら「ぼくたちが恋をするのは子孫を残すためです」という。そして、洞の中で嬉(うれ)しそうに飛んだ彼は運の悪いことにクモの巣にひっかかってゴミグモに体液を吸われてしまう。

夜が明けると風雨が止んでいたのでその洞から巣に戻ったマリアは未帰還者が26頭もいることを知る。しかし、羽化(うか)した成虫が28頭もいて帝国は維持されていくのだともアリアは思った。その日も狩に出たマリアは午後に入って狩りのペースが落ちた。体力を消耗したマリアは栄養を摂るため自分たちの帝国が占拠している樹液場がある雑木林に入る。体力を会回復したマリアは丘陵地に入ってアシダカグモを見つけ、小さなベッコウバチが先に狙っていたが、マリアはまんまとそれを横取りする。巣に戻ったマリアに2日前に羽化したクララから「私たちはどうして子供が産めないの」と聞かれた。働き蜂はすべてメスだが一生オスと交尾することはないし、卵を産むこともない。

初めての飛翔(ひしょう)

マリアは羽化した翌日に会った「偉大なる母」アストリッドの言葉に深く感動して終世の忠誠を心の中で誓ったことを回想する。そして飛行訓練が始まった。その日から6日が経って遠い記憶になりつつあった。オオスズメバチのワーカーは最初の1週間で約3分の1が死に、2週間で約半分が姿を消す。3週間生き延びるのは1割もいない。最長に生きても30日余りだ。

秋の深まりとともにワーカーの数が急速に増えて巣作りのスピードが加速し、女王の産卵のペースも上がった。ある日マリアは巣盤で出会った女王アストリッドから、食糧が足りないのはマリアたちの働きが足りないからだと厳しく叱責(しっせき)された。狩に出たマリアが灌木(かんぼく)で翅を休めているとクロヤマアリが「あたしたちアリもあんたたちスズメバチも巣全体で一つの生き物なんだよ。女王バチは卵巣で、ワーカーは手足だ」と声を掛けてきた。

オニヤンマとの激闘でエネルギーを消耗したマリアはクヌギの樹液を求めて雑木林に入ると仲間でない一頭のオオスズメバチがいた。相手は戦う意思を見せず、「樹液がほしいのだったら飲めばいい」とマリアに言う。相手は「ぼくはルーネの息子、ヴェーヴァルトだ。自分の母は偉大な母が亡くなって女王バチになった元ワーカーだ。しかしオスバチと交尾していないから誕生するのはすべてオスバチで、偉大な母が産む新しい女王バチと交尾する。ワーカーの卵巣は偉大なる母が出すフェロモンによって発達しないように抑制されている」と説明すろ。

女王の物語

巣ではこれまでより大きめの育房室が作られ始めた。新しい女王が誕生する準備だ。そしてマリアは偉大なる母のアストリッドから帝国の物語を聞く。アストリッドはワーカーたちとの戦いに生き延びたオスのフリートムントとの交尾したことと、大きな山を三つと大きな川を二つ越えて新しい帝国を創り始めたこと、巣を造る穴をめぐって同じヴェスパ・マンダリアの女王バチ3頭と争ったこと、その穴に作った育房室に卵を産んだこと、巣作りと次々に誕生した娘たちの餌(えさ)を狩るために苦労したことなど。そしてその帝国はいよいよ最後の時を迎えようとしていることをアストリッドは告げた。

第二部 帝国の栄光

襲撃

虫たちは森や野から急速に姿を消しつつあった。今や帝国はピークを迎え、ワーカーは300頭に迫ろうとしていた。ベテランの部類になったマリアにしても寒くなって虫たちが減ったため狩の成果は日毎に落ちて行く。マリアは西の灌木(かんぼく)の丘で草の茎にとまっている一組のオンブバッタを噛み殺す。そのメスは恨(うら)みのこもった目で睨(にら)み付けながら「戦いしかしらない冷酷なメス。一生、恋も知らないで、死んでいく哀れなメス」と言ってこと切れた。

偉大なる母アストリッドはワーカーたちへこれまで以上に大量のエサを集めることを命じた。育房室にいる妹たちに大量のエサを与えることによって女王に育てるためだ。マリアの姉であるドロテアは「今後は狩を集団でやる」とマリアに向って言った。翌朝、マリアは夜明けとともに東の草原を抜け、東の尾根の頂を越えて養蜂場に到着。ミツバチの抵抗を難なく排除したマリアが巣の入り口にエサ場フェロモンを塗りつけると仲間が次々と応援に駆け付けた。

襲撃から2時間が経つとミツバチの反撃はほとんどなくなった。わずか10頭のオオスズメバチが3万を超えるミツバチを虐殺(ぎゃくさつ)したのだ。巣の奥にマリアが進むと大勢のワーカーに囲まれた女王バチがいた。「恥を知りなさい!この悪辣(あくらつ)な略奪者たち!」という女王バチの胴体を遅れて来たドロテアが真っ二つに引き裂いた。

見えない敵

翌日、同じ養蜂場へ行くと巣箱はすべてなくなっていた。人間たちがどこかに持ち去ったのだ。マリアは姉のドロテアと共に北の森のケヤキの洞(ほら)に巣作りするミツバチの巣を目指して飛んだ。巣にいる小さなニホンミツバチの集団は抵抗しなかったが、ミツバチの塊(かたまり、蜂球)は巨大な泥のように不気味に動いて、それに向かったドロテアを包み込む。「翅を振るわせて体温を上げると蜂球(ほうきゅう)の中は摂氏48度にもなって熱死させるのだ」とカメムシが教える。この時期、アストリッドの戦士たちはその他にも多方面作戦を展開して、野山を蹂躙(じゅうりん)していた。

そんなある日、ワーカーの繭(まゆ)の4つに異変が起こった。エゾカギバラバチという寄生虫がイモムシの肉団子を経由して幼虫の体内に浸入したのだ。ワーカーたちの活躍により、アストリッドの帝国の新しい女王バチとなる幼虫たちはどんどん大きくなっていった。クロスズメバチの巣から大量の幼虫とサナギを略取して巣に帰還したマリアは戦いの報告をするためにアストリッドの前に出ると、女王は「あなたは帝国のために本当によく働きました。あなたは私の誇りです。いえ帝国の誇りです」とはじめて労(ねぎら)いの言葉を掛けた。

宿命

ワーカーの死亡数は以前よりはるかに増えていたが、ワーカーの幼虫がそれを上回って羽化したことで、帝国は最大規模の大きさを迎えていた。マリアは妹のロッテから幼虫のなかにオスがかなり混じっていることを知らされる。アストリッドが偉大なる父フリートムントのゲノムを受け継がないオスを生んでいることを意味した。そしてロッテが小さな声で「やるべきことはただ一つ、偉大なる母を殺すこと」と囁(ささや)いて、若い妹たちを引き連れて女王バチのいる巣盤に向かった。マリアもその後を追う。ワーカーの群れは数十頭にふくれあがっていた。

アストリッドはロッテたちを見ても驚かなかった。「あなたがたが何をしにきたのか、わかっています。さあ、あなたたちの務めをはたしなさい!」と言うと、女王の世話係をしているクリスティーンが真っ先にアストリッドに飛びついた。そして他のワーカーたちが続いた・・。「フリームント」とかすかな声で呟(つぶや)いてアストリッドは死んだ。今ここにアストリッドの帝国の女王は消えた。マリアはこの帝国がどうなるのかと思ったが、まだなすことが残っていると思い直した。それは巣の中にいる幼虫たちを未来に向けてはばたく女王バチとオスバチとして送り出すことだ。

死闘

女王バチの存在がなくなった後も、帝国は無政府状態にはならなかった。マリアたちはそれまでと同様に各自のなすべき仕事をこなしていたからだ。しかし一部で変化が訪れていた。若いワーカーの幾頭かが卵巣を発達させ、産卵に向けて体を変化させていたことだ。アストリッドが死んだ2日後にフローラなどが女王フェロモンを出し始めて疑似女王になったことをマリアはロッテから聞く。フローラたちが産むオスには父のゲノムが入った子が半分いるのだ。

新しい育房室で育つ500頭の妹や弟たちはどんどん大きくなって、エサが足りなくなったため、マリアはもう一度、東の尾根を越えて1000頭を超える小型のキイロスズメバチ(ヴェスパ・シミリマ)を遠征(えんせい)できる約100頭で(ねら)狙うことにした。夜明けとともに巣を飛び立ったマリアたちとキイロスズメバチとの一進一退の戦いが続く間に、自らの中に衝動が湧き起るのを感じたマリアは殺戮(さつりく)目的の攻撃へと豹変(ひょうへん)していた。しかし日没が近づいたため一旦撤退。

翌朝、大幅に減少した勢力で出撃したマリアたちが前日と同様の激戦を始めると、昼前には向かってくるキイロスズメバチの数がめっきり減って戦線は巣の周辺のみになった。マリアたちは巣穴を守る戦士たちを次々と噛み殺して巣の中に侵入。女王バチが娘たちの助命を嘆願するも聞き入れられず息絶えた。一方、マリアたちも帝国の8割近い戦力が失われ、マリア自身も自分の命が長くないことを悟(さと)る。

旅立ち

幼虫たちが毎日与えられる大量の食糧で急成長する一方で帝国は戦力面で弱体化していた。寒さが近づくと新女王バチよりも早く新しいオスバチたちが羽化して巣立ちの時を迎えた。これは近親婚を避けるためだ。マリア自身も羽化して30日を越えた。北の森に狩りに出掛けたマリアはセイヨウミツバチにハチミツを奪われて飢え死にしたニホンミツバチの死体を見る。ドロテアを熱殺した小さな戦士たちの死骸(しがい)の山の中にマリアは自分たちの運命を見たような気がした。

しかし、マリアは希望があると思った。帝国を旅立っていったオスバチと、これから旅立とうとする新しい女王バチは、未来を担っているのだ。そして新しい女王バチが次々と羽化して200頭を超え、やがて秋の深まる晴れた朝、第1陣の巣立ちの時を迎えた。朝の冷たい朝霧の中、頭上ではすでに多くのオスバチたちが飛来していた。弱いオスを妹たちに触れさせないことが最後の仕事であり、生涯の最後の戦いだと思ったマリアは空から「妹たちが欲しければ、私を倒しなさい!私はアストリッドの娘、疾風(しっぷう)のマリアよ」と叫(さけ)んだ。

何頭かのオスを倒したあとマリアは新女王バチを追う2頭のオスを見た。まず一頭を噛み殺すが、もう一頭は激しく抵抗してマリアの触角を噛み切る。そのオスから母の名前を聞いたマリアは追いかけることを止めた。ヴェーヴァルトと同じゲノムを持っているかもしれないと思ったからだ。新女王バチは傷だらけのオスバチを胸に抱き、やがて交尾が終わるとそのオスバチは死ぬ。新女王バチは「さよなら、マリア姉さん」と言ってはるか北の空に向けて飛び去った。マリアはわずかに残った力で翅を振るわせて空中に舞い上がった。そしてヴェーヴァルトとお互いの触角を触れ合わせた瞬間に体が震えたのは神様が与えてくれた恋の喜びだったのかもしれないと思い、さらに高く飛ぼうとした時に突然、光が消えて自分の体がゆっくり落下しているのが分かった。

そしてエピローグで後日談(ごじつだん)が簡単に紹介される。

[読後感] スズメバチの生態を忠実にドラマ化した戦士マリアの生涯(しょうがい)は、「みなしごハッチ」とはまったく異次元のものであり、戦闘シーンの描写に衝撃(しょうげき)を受ける読者もあるかも知れません。しかし、最終節の「旅立ち」と「エピローグ」では、それまでに詳説(しょうせつ)された「種の保存」の合理的な知恵(DNA情報)だけではなく、世代を跨(また)いだ生命の大きな流れとして捉(とら)えたこと、さらにはマリアが出会った瞬間に恋したヴェーヴァルトとマリア自身のDNAが間接的にではあっても次の世代に受け継がれたことを百田氏が暗示したことで、穏(おだ)やかな感動が私の心の中を吹き抜けたように感じられました。

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2013年4月19日 (金)

麻布散策 六本木から狸穴へ(後編)

飯倉片町交差点の角から2軒目の建物(1階)にある「麻布台やぶそば」は「神田やぶそば系」を謳(うた)う蕎麦屋ですが、食通の池波正太郎氏が好きだったという創業130年の老舗(しにせ)「神田やぶそば」が漏電による火事で大きな被害が出たとニュースが報じたのは2カ月前のことです。
 
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丸紅のマンション工事現場の脇に急な坂がありますので南方向へ降りてみました。この辺りの麻布狸穴町は南傾面を生かした住宅地として再開発されています。
 
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三菱地所のマンション建設現場沿いに歩くと植木坂と表示されていました。左手に分かれる道は鼠坂(ねずみざか)で狸穴(まみあな)公園へ続いているようです。島崎藤村旧居跡には単身者向けマンションが建設中で石碑などを確認できません。
 
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Atlantic Collection(アトランティック・コレクション)は海外のスポーツカーだけを扱うアトランティックカーズ社(アストンマーチンの正規代理店)のショールームです。ちなみに、アストンマーチンは映画「007シリーズ」の「ゴールドフィンガー」以降、何度も登場した英国が誇るスポーツカーです。
 
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米沢牛専門料理店「雅山(がざん)」は政治家などが利用する高級店です。
 
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外苑東通りの北側にある外務省飯倉公館は海外の首脳・外相との会談や各種会議およびレセプションなどで利用される1971年に完成した施設で、40年前とまったく変わっていないようです。隣接する同じく外務省の外交資料館(白い建物)も昔のまま。
 
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そのまた隣には時代を感じさせる日本郵政グループ飯倉ビル(元郵政本省庁舎)で、麻布郵便局などが入っています。以前の住所は外務省飯倉公館と同様に飯倉町(現在は麻布台)でしたが、外苑東通りを挟んだソ連大使館(現在のロシア連邦大使館)の住所である狸穴(まみあな)が郵政省を指す言葉にもなっていました。
 
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麻布郵便局の向かい側に南へ伸びる狸穴坂(まみあなざか)には『マミとはメスのタヌキ・ムササビ・アナグマの類で、昔その穴が坂下にあったという』と説明されています。東麻布方面へ伸びているようです。ちなみに右側の建物はナミビア共和国大使館。
 
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外苑東通りに戻ると東京タワーが一段と近く見えます。右手に続く白い塀はロシア連邦大使館です。
 
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正門付近には多数の警官が警備しているため内部を窺(うかが)い知ることは出来ませんが、塀(へい)越しに見える建物には大きな変化は見られないようです。こちらは使用されていない(閉鎖された)通用門。飯倉片町交差点の警察車両もこの大使館を警備していたのです。これは40年前から少しも代わらない光景です。
 
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飯倉交差点が近くなると外苑東通りは下り坂になりました。麻布の低地が近づいたようです。ここにも機動隊の青い大型車両が・・。ちなみに麻布(あざぶ)の地名は麻生(あそう)が転じた、あるいはアイヌ語に由来するなどの諸説があって定かではないようです。
 
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桜田通り(国道1号)は三田方面へ緩(ゆる)やかに下って行きます。
 
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飯倉交差点の反対側からユニークな形状をしたNOA(ノア)ビルを眺(なが)めました。1974年に建設されて約40年が経過し、下部のレンガに古代遺跡のような趣(おもむき)が出てきました。このビルが建てられた直後、その異様さに圧倒されたことをよく覚えています。現在、14階にフィージー大使館が入っているようです。
 
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桜田通り(国道1号)の虎ノ門方面も同様に緩やかな下り坂
 
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麻布郵便局の手前まで戻って路地に入りました。昔、東京メトロ日比谷線神谷町駅へ向う時に利用したルートです。雁木坂(がんぎざか)の上に出ました。『階段になった坂を一般に雁木坂と呼ぶ』と説明されています。
 
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階段を下りると突然巨大な建物が出現しました。私がこの道を歩いて職場に通っていた1975年(38年前)に建設された宗教団体「霊友会」の釈迦殿(しゃかでん)です。ちなみに、霊友会は法華(ほっけ)教(大乗仏教の一派)の教えに従う新興宗教団体。
 
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西久保八幡神社に貝塚あるとの案内を見て立ち寄りました。
 
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『西久保八幡貝塚」(縄文時代後期、東京都文化財)は麻布台地の先端にある西久保八幡神社の社殿の裏手斜面に貝塚が形成されている』と説明されていますが、残念ながら裏手には立ち入れないようですから諦(あき)めました。1時間弱の懐かしい散策のあと、昔と変わらない神谷町駅から地下鉄日比谷線に乗って帰宅。
 
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40年前の私は2度の手術を経て1年後に仕事へ復帰した直後、つまり初めての挫折(ざせつ)経験から立ち直ったばかりで、自分の目標に向かってもう一度羽ばたこうと思わせてくれたのが赤い鳥(山本潤子さん)のヒット曲「翼をください」(1971年)でした。そして、麻布で過ごした当時の充実した2年間が私に翼をくれたようです。(終)

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2013年4月18日 (木)

麻布散策 六本木から狸穴へ(前編)

所用で六本木ヒルズへ久しぶりに出掛けました。4月9日(火曜日)のことです。
 
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49階のアカデミーヒルズから西方に伸びる青山通り(国道246号)が真下に見下ろせます。中央が首都高速3号渋谷線の高樹町出入口、そのずっと先に立ち並ぶビルは渋谷ヒカリエやセルリアンタワーなど、そして右上が代々木公園、右手前が南青山(青山霊園)、左端は広尾ガーデンヒルズ(大規模マンション)です。
 
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六本木交差点から六本木ヒルズ方面を振り返りました。3年前に改築された喫茶店アマンド(六本木店)が左端に写っています。40年近く前、この店で同居者と待ち合わせたことを思い出しました。(六本木の地名の由来はこちらの記事を参照して下さい)
 
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その頃、東京メトロ日比谷線の六本木駅あるいは神谷町駅から仕事場へ2年間通った外苑東通り(都道319号)をなぜか急に歩いてみたくなりました。左側の歩道を南東方向へ進むと、三年前に紹介した「つけ麺専門店の三田製麺所(六本木店)」とショットバーのMOTOWN HOUSE が目に入りました。後者はバブルがピークだった1989年に開店した外国人が良く利用する店のようです。
 
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左手の路地を入ると別のブログで4年前に紹介した居酒屋「なまはげ」があります。
 
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反対側の歩道から南西に下る饂飩坂(うどんざか)は『天明年間末(1788年)頃まで末や伊兵衛という、うどん屋があったため、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある』と説明されています。ちなみに後方の高層ビル2棟は六本木ヒルズレジデンス。この坂から都営大江戸線に沿って下ると麻布十番方面に出られます。
 
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饂飩坂の入口付近から見た外苑(がいえん)東通りと東京タワーのクローズアップ
 
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雑居ビル「ROI(ロア)」は40年前の姿のままで存在感を示しています。昨年秋に凄惨(せいさん)な集団暴行死事件が2階にあるクラブで起こったとは信じられません。
 
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六本木5丁目交差点に差し掛かると東京タワーが真正面に見えます。
 
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同交差点の左手奥に小さな六本木三丁目児童遊園を見つけて立ち寄りました。
 
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公園の横を下る狭くて奇妙な路地を見つけました。下まで降りてみましたが坂道の名前は表示されていませんので、ただの抜け道なのかも知れません。この辺りの外苑東通りは尾根のような場所に伸びていますから、四谷の甲州街道(国道20号)と同様に両側がともに下り坂になっています。
 
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六本木5丁目交差点の北東の角に度肝(どぎも)を抜く店”ROPPONGI GRILLがありました。店頭に置かれたエルヴィス・プレスリー似の人形もインパクトを大増幅しています。しかし、”HOTROCKS & BAR”、“WE WILL ROCK YOUGrilled Burgars!Grilled Sticks!などと表示されていて正体不明。あとで調べると、昨年オープンしたアメリカの酒とジャンクフードを提供するバーでした。ちなみに、Happy Hourとはドリンクの割引サービスのことです。
 
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信号のある次の三叉路を左へ入ったところには先ほどの"ROPPONGI GRILL"と対照的な"TEIEN TOKYO"(テイエン トウキョウ)があります。『300坪の敷地を有し、庭園を眺めながらのダイニングができる隠れ家的イタリアンレストラン』(同店のhpより)でした。外観と中味が何やらチグハグだと思った私はイソップ寓話(ぐうわ)「すっぱいブドウ」のキツネかもしれません。立て看板を見ると平日ランチ(パン・サラダ付き)が980円と手頃ですが、残念なことに昼食を済ませたばかりでした。
 
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飯倉片町交差点が近づきました。前方に見える高架は首都高速都心環状線です。
 
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振り返ると何やら奇妙な黄色い施設が見えました。それは以前ニュースで見たドンキホーテの屋上施設「絶叫マシン」(往復型ジェットコースターのハーフ・パイプ)でした。7年前に住民などの反対で延期(事実上の中断)になったはずですが・・。これも調べると、ドンキホーテが振動対策が不十分だとして設計会社を訴えたことに対して東京地裁は先月下旬に約8億5900万円の損害賠償を命じる判決を出したようです。ちなみに、青野と表示された手前の建物は和菓子の老舗(しにせ)「青野総本舗」です。
 
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飯倉片町交差点は都道319号(外苑東通り)と都道415号(高輪麻布線)が交差し、都道415号の上を首都高速都心環状線が通過しています。この風景は40年前も同じでした。飯倉片町(いいくらかたまち)は江戸時代に武家屋敷があった場所で、同じく武家屋敷があった六本木と狸穴(まみあな、現在の麻布台)の間に位置します。ちなみに、飯倉片町は外苑東通りの南側にあった旧麻布区の町名で、都道415号を境界として、現在は六本木と麻布台に分割されています。飯倉とは米あるいは穀類の倉庫があったこと、片町は道路の南側に広がった町であることが名の由来のようです。
 
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こちらが一の橋JCT(高輪)方面
 
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そして、こちら方向は谷町JCT(六本木一丁目)から溜池(ためいけ)へ向かいますから急な下り坂になっています。交差点の両側に機動隊の大型車両とパトカーが待機しているのは、この先にある施設を警備するためでしょう。
 
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(続く)

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2013年4月12日 (金)

百田尚樹著「錨を上げよ」を読む

本年度の「本屋大賞」を百田(ひゃくた)尚樹さんの最新作「海賊とよばれた男」が受賞したことを知ったのは百田さんの長編小説「錨(いかり)を上げよ」(2010年11月講談社発行)の上巻をちょうど読み終えた3日前の4月9日でした。「錨を上げよ」の題名に惹(ひ)かれて二部構成の本(上下巻計約1200頁)を手に取った時は百科事典のような分厚(ぶあつ)さに圧倒されました。同じモチーフ(創作の動機となる思想)で2作目を書かない主義の百田さんの作品ですから、内容はまったく見当がつきません。当ブログは読んだ順に「RING」(2010年)、「永遠の0(ぜろ)」(2006年)、「Box!」(2008年)、そして「影法師」(2010年)を紹介しています。

表紙には水面に漂(ただよう)う丸太が一本描(えが)いてあることから海の物語かもしれないと考えながら表紙を捲(めく)った上巻の目次には第一章から第三章まで章題が並んでいました。今回の記事はこれまで以上に長くなりましたから、下巻(第4章以降)だけをお読みいただいても本書の魅力が伝わると思います。

                         ☆

第一章 進水

終戦間もない大阪で生まれた少年の回想で始まる。主人公の作田又三(さくたまたぞう)が昭和30年に大阪市東淀川区(淀川の北部エリア)で生まれ、後に同志社大学法学部を中退して放送作家になる経歴は作者自身とほぼ同じだが、本書は決して自叙伝(じじょでん)小説ではない。当時の時代模様(もよう)や大阪の街の様子、家族や親族のこと、そして時代がかった主人公の名前の由来などが作者らしい精緻(せいち)な文体で詳(くわ)しく紹介さる。(私のように近い世代には懐かしい記述である)

小学校時代の又三は、一年生の時から勉強に興味がなく、教師を苛立(いらだ)たせるやんちゃ(いたずら好き)で喧嘩(けんか)に明け暮(く)れる日々、近所に住むユニークな大人との係(かか)わり、出来の良い2人の弟たち、竜之介(りゅうのすけ)・剣之助(けんのすけ)との対比が描かれる。中学に入ってもこの状況はエスカレートするばかりで不良少年のレッテルを貼(は)られた。中学を卒業すると同時に就職する生徒がいる中、主人公は創立間もない府立南方(みなみがた)商業高校に最低点でやっと合格する。文部省のモデル校(実はモルモット校)にはなぜか体育科があり、商業科生徒と体育科生徒の間の対立が詳しく描かれる。

生徒会と応援団を牛耳(ぎゅうじ)る体育科生徒との確執(かくしつ)、ゴルフ場でのアルバイトで手に入れた中古の単車(オートバイ)を乗り回した時の警察官や暴走族とのトラブル、夏休みに行った長野県へのツーリング(遠出)では予想もしない単車盗難や様々なトラブルに巻き込まれて東京まで逃げるはめに。東京に着いて間もなく所持金を盗まれて困っている時に声を掛けてきたヤクザ(借金取立屋)にその手伝いをさせられる。一般人相手の取立てだけでは工場のスト破りの助っ人にも駆りだされたが、労働者たちの反撃に遭(あ)って命からがら大阪まで逃げ戻る。

第二章 出航

単調な高校生活に戻った主人公は学生運動家になった中学時代の同級生と再会して彼が属する勉強会に参加するようになる。メンバーのほとんどは大阪の名門公立高校の一つである高津高校の生徒たちで、主人公はメンバーの一人である女子高校生西村芙美(ふみ)に恋をする。リーダーの森山との対抗心から自校の制服撤廃(てっぱい)を校長に直談判(じかだんぱん)することを思いついた主人公が向った校長室からはあっけなく追い払われたため、生徒会に働きかけて全校生徒にアンケートを行わせ、百パーセントの支持を得た署名入り嘆願書(たんがんしょ)を学校側に提出するがこれも簡単に却下(きゃっか)されてしまう。職員室に乗り込んだ主人公は学年主任の言葉で頭にきて椅子(いす)を蹴っ飛ばしたため1週間の停学(これで2度目)を喰(く)らってしまう。その上、西村芙美に冷たく振られてしまう。

悪友に誘われて窃盗(せっとう)に手を貸すが警察にあっけなく捕まってしまう。主人公は初犯であったため少年法の中の「不処分」で済んだが30日の停学になったため落第が決定した。新学年に剣道部に入部した主人公は夏休みに入ったあたりから大学へ行きたい気持ちが芽生(めば)える。弟の竜之助が有名校である北野高校へ通い出して京大理学部を目標に受験準備を始めたことに刺激されたのだ。しかし剣道部員が他校生徒と喧嘩して対外試合自粛(じしゅく)が校長から命じられたため校長に抗議(こうぎ)するが受け入れられず、校長の机をひっくり返してまたもや1週間の停学に。

停学が解けて学校に戻ると普通科が主導する生徒会が様々な改革を学校側に受け入れさせていたが、制服問題だけは3年生の心情的な反対にあって進まないため、生徒会長池原法子(のりこ)が主人公に3年生を説得して欲しいと頼んできた。主人公は3年生が次回は賛成すると読んで何もしないが2回目のアンケート調査ではその通りの結果が出て、主人公は池原法子と仲良くなるが・・。二学期に入って主人公が就職活動に巻き込まれている間に池原法子との関係は壊(くず)れてしまう。一度目の就職試験では面接者と口論して不採用、12月にやっと学校が薦(すす)めてくれた中堅スーパーマーケットへの就職が決まった。

第三章 挫折(ざせつ)

就職したスーパーではしつこい性格の店長と衝突した。5月の終わり頃にアルバイトとして来た大阪音楽大学1年生の武藤伊都子(いつこ)の可愛さに惹(ひ)かれた主人公はレストランでの食事に誘(さそ)うが、それが店長の耳に入って大目玉を食らう。しつこく言い寄られたと伊都子が訴えたからである。給料を使い果たしてしまった上に、度重(たびかさ)なる遅刻により有給休暇が無くなり、給料が遅刻時間に応じて減らされてしまったことで頭にきた主人公は、周囲の大学生の楽しそうな様子を見て大学へ行きたい気持ちが異常にまで膨(ふく)らんだこともあって、その会社を辞めてしまう。そして医学部の学生と称して家庭教師のアルバイトをしながら受験勉強に没頭(ぼっとう)する。家庭教師先の姪(めい)である短大2年生の中田百合子(ゆりこ)と出会った主人公はその奔放(ほんぽう)さに惹(ひ)かれて深い関係になるが、デート代のために新聞配達のアルバイトを加えたため受験勉強に身が入らない。そして金持ちの気儘(きまま)さを持つ百合子にあっさりと振られてしまう。

土方作業のアルバイトを始めた主人公は目標であった15万円の貯金が出来ると両方のアルバイトを辞(や)めて師走(しわす)の半ば過ぎから本格的に勉強に専念した。関学(関西学院大学)と同志社大学を滑り止めに受験して同志社から法学部の合格通知が来た。さらに参考書を徹底的に丸暗記した主人公は同じアパートの大学生たちに公言していた東大の一次試験を受けるがあえなく不合格になる。しかし、これが幸いして同志社の入学金納付日に間に合った。有名私立大学でも国立一期校(当時)の合格発表前に納付日を設定していたからだ。そして大学生としての生活が始まったが・・・。

過激派の活動と学園紛争、下宿での生活、主人公が加入したサークル「ヨーロッパ文学研究会」の裏の顔(左翼思想グループ)とマドンナである英文科4回生(年生の関西風呼称)加納佐和子(かのうさわこ)への憧(あこが)れと深刻なトラブル、そして大学への失望、大学祭での出来事、合コンで知り合った短大生の井本早苗(いもとさなえ)や小野田純果(じゅんか)との短い恋、小学校の同級生池田明子との一夜、そして同じアパートの友人と出掛けた東北旅行、父の急死などが続く。3回生になった主人公は7月の初めのある日、心の中の留め金(とめがね)が外れて、一切を投げ出して京都発東京行きのハイウェイバスに乗り込んだ。

第四章 漂流 (注;この章から下巻)

もう二度と大学へ戻るつもりのない主人公は池袋にある麻雀(まーじゃん)屋で雑用係のアルバイトを見つけ、朝の喫茶店で知り合ったホストクラブに勤める坂本弘のアパートに居候(いそうろう)をする。様々なアルバイトも長続きはしない。まるで労働の嫌(いや)さを一つひとつ確認するために仕事を続けているようなものだ。赤提灯(あかちょうちん)で声を掛けられた右翼団体の男から自分の運送会社に入らないかと誘(さそ)われた主人公がその運送会社へ顔を出すと、早速入隊書に署名と血判(けっぱん)まで押させられた。月給は15万円と魅力的だが、仕事を終えた後の「教練」は辛(つら)かった。運送業務のほかに装甲車仕立ての宣伝カーに乗って都内を街宣(がいせん)することもあるのだ。区会議員の補欠選挙では選挙応援だけでなく対立候補の選挙活動妨害や凶器を用いた乱闘が予定されると聞かされた主人公は給料の前借を頼んで5万だけ貰(もら)うことに成功し、襲撃の前夜にそこから逃げた。

2月の初めには足立区千住のパチンコ屋に住み込みのアルバイトを見つけて採用される。その主人が『何にも当りの枠(わく)は数が決まっている』と確率で物事を捉(とら)えようとすることは、最初のアルバイト先(麻雀屋)の主人が運命を個人的なものとして捉えようとすることと根本的に違うものだった。2度目の給料を貰った主人公はパチンコ店を飛び出してしまう。

次いで見つけたのは秋葉原にあるレコード店。クラッシクレコード売り場のレジ係は退屈(たいくつ)な仕事ではあったが、小さいながらも人生の足場を作りたいと思っていた主人公は音楽に関心が高まり名曲や作曲家についての本を読み、5月に入る頃にはクラシックレコードに詳(くわ)しくなり、少しずつ客の数と売上が増えた。棚の並べ方やジャンルの区分のやり方も工夫(くふう)した。すると売上ははっきりと上昇して返品と仕入れも任されるようになり、次いで準社員扱いで主任の肩書きももらい、中古品と称した値引き販売で売上がさらに増えた。外国レコードの輸入も計画した時にはアルバイトの慶応大学4年生依田聡子(よださとこ)が手伝ってくれたことと円高の進行で輸入の仕事は順調に進んだ。しかし聡子とのデートと祖母の葬儀(そうぎ)が重なり連続休暇を取ったことから社長と口論になってしまう。それにもかかわらず聡子は主人公へ何も告げずアメリカに居る婚約者の元(もと)へと去った。

第五章 

レコード店を辞めた主人公はしばらくぶらぶらしていたが、3月に入って近くの大衆食堂でオホーツクのテレビ報道番組を観ている時に不思議な衝撃(しょうげき)が体の中を走るのを感じた。心の中で誰かが「錨(いかり)を上げよ!」と叫(さけ)んだのだ。アパートをひき払った主人公は北海道の根室(ねむろ)に向う。しかし、海に乗り出すチャンスはなかなか見つからない。そんな時に耳にしたのがウニの密漁船だ。主人公は痩(や)せ型美人の白武久子が経営する小さな喫茶店「帰郷」を休憩場所として利用していたが、そこで会った密漁人の法月(のりづき)義男からソ連が占有する貝殻島(かいがらじま)という場所と月に30万円を保証するとの言葉を聞いた主人公の気持ちは決まった。

納沙布(のさっぷ)にある法月の家に投宿しながら密漁の際の作業について細かい説明を受け、出漁の準備、船上での仕事を耳にタコが出来るほど聞かされた。主人公たちはソ連の警備艇が居ないタイミングを見計らって出漁を繰り返した。突然現れたソ連の警備艇に追い回されることは何度もあったが、用心深い法月の判断と操舵(そうだ)で逃げ切る。7月に入ってウニ漁が中断された時には10数回の出漁で150万円以上の金が溜(た)まっていた。そしてウニ漁は9月の終わりに再開して翌年の2月半ばまで続いた。しかし春になった時に法月が一方的に漁の終了を宣言した。前妻と復縁することになったことで昆布漁業権を回復したからだ。

そこで主人公は密漁を自分でやることにすると、これが面白いように当たった。海上保安部の陸上部隊に検挙されたが口を割らなかったことで罰金1万円を支払うことで放免(ほうめん)される。10月だけでも6度出漁して主人公の手元には600万円以上の金が入ったことで仲間を連れて豪遊したが、それでもその年の暮れには700万円を超える金が手元に残された。翌年には貝殻島より遠い水晶島へも船を繰(く)り出した。水揚(みずあ)げは多かったがソ連警備艇に追い回されることも増えた。さらに環境が変わったことでヤクザたちによる密漁船のグループ化が行われて主人公たちもその渦(うず)に巻き込まれた。

第六章 停泊

東京で商社に勤め始めた弟の竜之介に会ってから大阪に戻った主人公は母名義の口座に300万円を移すが、自身の生活は相変わらずの調子で足のリハビリを兼ねて通ったビリヤードや賭博(とばく)ゲーム機に200万近くを費(つい)やし、挙句の果(あげくのは)てに競馬と競輪に凝(こ)ったことで都合(つごう)500万円もの金を無くしてしまった。そんな生活の中、ビリヤード場で働いていた宇野保子(やすこ)と知り合い、その素朴(そぼく)さと純真さに惹(ひ)かれて半年後に入籍、これまでに無かった平穏(へいおん)で楽しい生活が始まった。

仕事を探していた主人公はフリーのテレビ放送作家をしている昔の友人柿本健男(たけお)に仕事を手伝うように誘われる。慣(な)れない仕事ではあったが、一所懸命(いっしょけんめい)やったことで次第に仕事が増えて、一流企業の中堅社員並の収入を得るようになる。妊娠した保子は流産をしたため、ビリヤード場を辞(や)め、気分転換にジャズダンスを習い始める。主人公に仕事を世話してくれた柿本は段々仕事が無くなり、慰安旅行で出掛けた和歌山・白浜の旅館での宴会時に偽善者のプロデューサーを糾弾(きゅうだん)する騒動(そうどう)を起す。柿本を大阪まで連れ帰った主人公は深夜の自宅マンションで信じられない光景を目撃する。

第七章 抜錨(ばっぴょう)

妻保子の裏切りに我慢(がまん)が出来ない主人公は保子が泣いて許しを乞(こ)うても決心は揺(ゆる)るぐことはなく離婚する。放送作家の仕事を一切辞(いっさいや)めた主人公はひょんなことから頼まれ仕事で出掛けたタイのバンコックにおいても波乱に満ちた日々を8ヶ月間も過ごす。(筆者注;また唐突な展開だが主人公に青春を総括させるために設定された場であろう) そして大阪に戻った主人公は、今は売れっ子の放送作家になった柿本健男、平凡なサラリーマンになった元全共闘闘士の飯田勝行、初恋の池田明子と邂逅(かいこう)し、さらに1年後には探し求めていた保子にも会うことができた。(詳細についてはあえて伏せる)

そして、『人生は生きるに値するものだという強い思いに胸を貫かれた。人生の長い航海は、これから始まるのだ』の短い言葉で気が遠くなるほど長い話は終る。

                         ☆

<読後感> これまで読んだ百田尚樹さんの小説とは異なり、果てしなく流れる時間を追い続ける先の読めないストーリー展開だけでなく、破天荒(はてんこう)な主人公の行動と際限(さいげん)ない男女間の愛と憎(にく)しみが溢(あふ)れていて、村上春樹さんの作品と共通する点を見出(みいだ)しながら読みました。それは本書が25年ほど前に書かれた処女作をベースに改題されたものだからかもしれません。

本書を読むまではまったく異なる作風だと思っていた百田さんと村上さんの作品に私が感じた類似点(上記)と相違点を少し乱暴ですが整理したいと思います。まずモチーフ(創作の動機となる思想)に関して、冒頭で述べたように百田さんは常に新しいモチーフで異なるテーマの長編小説を、村上さんはご自身のモチーフを少しずつ発展させながら村上流の長編小説を書き続けているように思われます。あえて言えば、前者はデジタル的、後者はアナログ的にモチーフを変化させていると言えるかもしれません。

もう一つは読み手と主人公の間に設定される距離です。主人公に一人称で語らせることが多いのは二人に共通しますが、百田さんは小説で設定された空間へ巧(たく)みに読み手を誘(さそ)い、村上さんは読み手に適度な距離から主人公を俯瞰(ふかん)させることが多いのです。つまり、村上作品はしばしば現実(リアル)空間と想像(イマジナリー)空間を同時進行的に展開して読み手に時空を超えた2つの世界を同時に見せますが、百田さんはリアリティに富んだ精緻(せいち)な描写(びょうしゃ)で読み手を限りなく主人公の近くまで引き寄せるように思われるのです。

いずれも魅力的な作家ですが、私には百田さんの小説の方が読後の居心地が良い(心が平穏でいられる)のです。この次は「風の中のマリア」と「モンスター」、そして最新作「海賊とよばれた男」へと読み進みたいと思います。しかし、今日(12日)午前0時に村上春樹さんの長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(文芸春秋)が発売されたことが朝のテレビニュースで報じられたことで、私には嬉(うれ)しくも悩(なや)ましい選択肢(せんたくし)がまたひとつ加わりました。

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2013年4月 7日 (日)

池尻大橋を散策 文化浴泉

屋外のテーブル席に腰掛(こしか)けていると寒さが身に沁(し)みるため、時間調整を兼(かね)ねて大橋図書館に避難(ひなん)することにしました。「オーパス夢ひろば」に面したエレベーターで上がった「目黒天空庭園」を経由して向った大橋図書館と同じ9階フロアで「大橋の歴史展示(今昔)」が開催されていたので、先に覗(のぞ)いて見ました。いろいろ工夫(くふう)されたパネル展示を興味深く見て回りました。
 
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図書館へ移動する時に何気なく外を見ると、朝方は入場できなかった「おおはし里の杜(もり)」に人の姿が多数確認できました。ゲートが開けられたようです。
 
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小さな池のような水田が2つ並んでいます。
 
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「おおはし 里の杜(もり)」の急な階段を上ります。
 
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小川のせせらぎが再現されています。
 
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大橋JCTへの入口を反対側から確認できます。
 
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大橋図書館で2時間ほど暇(ひま)を潰(つぶ)したあと、クロスエアタワーのエレベーターに乗って地上階まで降りて外へ出ると、目の前に中央環状品川線の工事現場がありました。大橋JCTから品川区の大井JCTまでの区間の工事が今年度中に完了して中央環状線が全区間開通するそうです。
 
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目黒川を渡って目黒川右岸を玉川通り(国道246号)方面へ歩きました。昔(昭和30年代後半でも)、友禅(ゆうぜん)流しがこの川で行われていたことがカラー写真入りで説明されています。
 
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最初の路地に入ってマンション「エクセル東山」の1階(道路が傾斜しているために半地下)にある「文化浴泉」(ぶんかよくせん)に立ち寄りました。
 
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最近改装された入口を入ると下駄箱の鍵が昔懐かしい木製であることを見て感激!
 
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ロビーは思ったよりも広く、落ち着いた雰囲気です。営業時間は15時半から25時(日曜日は8時から12時まで早朝も営業)。銭湯ですから入浴料はもちろん450円。男性は下駄箱の鍵とロッカーの鍵を交換する必要がありました。
 
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フロント脇に浴室への入口があります。ロビーの壁面には貸しロッカーが50カ所も並んでいて常連客には便利でしょう。
 
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脱衣所も木目をベースにしたインテリアデザインです。マンションの1階にあるため太い柱と梁(はり)を木製に見せる工夫がありました。同様に木目が配(あしら)われたロッカーは真四角なものが39個、縦長のものが12個もあり十分な数量ですが、番号表示には数字ではなく「ひらがな」が使われているのも珍しいと思います。残念ながら手振れ写真になってしまいました。
 
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高い天井(てんじょう)を見上げると中央に鳳凰(ほうおう)のような鳥が描(えが)かれています。
 
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浴室にはカラン(蛇口)が向かい合わせで18個も並ぶ洗い場の奥に浴槽が2つ並んでいます。横長の浴槽を仕切って2つにしたと言うべきかもしれませんが・・。
 
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左側が薬湯「宝寿湯」(日曜日以外は細かい泡で白く見えるというナノ風呂)、右側が軟水(なんすい)を利用した泡風呂で、座風呂とボディーマッサージ風呂がコンパクトにまとまっています。右手前にあるサウナは別料金(300円)です。左手前には水風呂もありますがサウナを利用しないのでパスしました。浴槽側のタイル張りされた壁には銭湯には珍しく丸い縁(ふち)取りの中に赤富士が描(えが)かれています。同湯のhpによれば日本初のペンキ絵とのこと。文化浴泉にはユニークな趣向(しゅこう)が一杯ですが、嫌味(いやみ)が無く好感が持てます。長時間歩いたこともあって宝寿湯と泡風呂(湯の温度はいずれも約42度)が気持ち良くて長湯になりました。

目に留(と)まったプラスチック製の湯桶(ゆおけ)は、映画「テルマエ・ロマエ」にも登場した定番のケロリン桶ではなく、「文化浴泉」と表記されていることが意外でした。ちなみに、「テルマエ・ロマエ」とはラテン語で「ローマの浴場」の意味。そう言えば今年1月にメーカーが事業を取りやめたため存続が懸念されていたケロリン桶をスポンサーで鎮痛剤ケロリンを販売する内外薬品が代わって販売することになったことは銭湯好きにとっての朗報(ろうほう)です。

同じ目黒区東山3丁目には7年前の記事で紹介した大江戸東山温泉がありましたが、その年の12月に閉鎖されてしまいました。(写真は2006年4月1日に撮影)
 
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その時のことを思い出しながら大江戸東山温泉があった場所へ行ってみると、建物はすでに取り壊(こわ)されて、新しい建築工事が始まっていました。
 
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「池尻大橋を散策」のタイトルにもかかわらず大橋を中心に東隣の青葉台と南隣の東山(いずれも目黒区)および世田谷区池尻2丁目にある池尻大橋駅(東口)付近を紹介するに留(とど)まりました。玉川通り(国道246号)に広がる池尻3丁目と4丁目については北沢川緑道の記事で紹介しましたので興味がある方はお読み下さい。

<同行者のコメント> 前回訪れた蒲田での失敗に懲(こ)りたのか旦那さまは詳しく調べていたようで、まごつぐことはまったくありませんでした。そのため時間にも余裕があって、お花見をたっぷり楽しめました。そして、お蕎麦屋さんがとても良い雰囲気で、もちろんお蕎麦は美味しかったです。最後に立ち寄った綺麗(きれい)な銭湯で冷えた体をホカホカに温めたまま帰宅する大満足の一日になりました。(終)

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2013年4月 6日 (土)

池尻大橋を散策 蕎麦店「東京 土山人」

「桜樹記念碑」がありました。その横にある説明板には『昭和の始めに行われた目黒川の改修工事に合わせて桜並木が作られた』ことが書かれています。
 
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休憩(きゅうけい)するための喫茶店を探しながら歩いているうちに山手通りに出てしまいました。昨今(さっこん)は喫茶店が激減したため、年配者にとって街歩きがとみに不便に! それではとフレッシュバーガーに入ってドリップコーヒーとジンジャークリームチャイを飲みながら1時間近くも休憩。頃合(ころあい)を見計(みはか)らって目黒川沿いに戻ると青葉台水位観測局と表示された黒いボックスが目に入りました。
 
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杉並区にある善福寺川緑地で見た宮下橋水位警報局と同様の施設です。プチ薀蓄(うんちく)ですが、水位の判断基準は上から堤防の一番高所である天端(てんば)、危険、警戒、注意の順です。青葉台水位観測局では各々5.25m、3.75m、3.25m、2.65mが指定されており、写真にある黄色の矢印は注意水位のようです。
 
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目黒川沿いに青葉台三丁目まで戻ると右手に洒落(しゃれ)た看板「蕎麦土山人」(そばどさんじん)が見えました。しかし明るく照明された店舗には色とりどりのランドセルが展示してあります。同行者に訊(たず)ねると、有名なカバン屋である「土屋鞄製造所」(足立区西新井)の直営店「童具店(どうぐてん)」(中目黒店)でした。
 
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東京 土山人」の場所にやおら気付いて階段を下り、半地下を演出した地階にある引き戸を開けて店内に入りました。
 
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右手のガラス窓の奥に蕎麦(そば)打ち場があり、蕎麦打ち台とともに電動式の石臼(いしうす)が2台置かれています。
 
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叩(たた)きが面白くデザインされています。
 
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その先にあるもう一つの戸を開けると別世界が広がっていました。明かり取りを兼ねた坪庭(つぼにわ)が落ち着いた雰囲気を醸(かも)し出しています。この「東京 土山人」は兵庫県芦屋市に本店があり、関西を中心に多店舗を展開しているそうです。
 
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出された蕎麦茶を飲みながら数え切れないほど多くの蕎麦と天麩羅(てんぷら)などが並(なら)ぶメニューを眺(なが)めながら同行者は店員から聞いたお薦(すす)めの中から炙(あぶ)り地鶏と山菜のつけ汁蕎麦(1470円)を注文しました。蕎麦は「細打ちせいろ」「荒挽き田舎」「太切り」の3種類の中から「細打ちせいろ」が使われており、付け汁は出汁(だし)の濃(こ)くがありながら見た目と違ってマイルドですから細い蕎麦と上手(うま)くマッチ、そして地鶏もほど良い歯応(はごた)えがありました。
 
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私は大好物の「鴨南蛮そば」(1680円)と「にしんそば」(1790円)のいずれかにするつもりでしたが、やはりお薦めの中から蛤(はまぐり)の潮(うしお)そば(1680円)を選びました。こちらは太切り蕎麦。大きな蛤は弾力を感じるうえに、ワカメとあいまって海の香りがほのかに伝わってきます。味に物足りなさを感じながら食べ終わってから、黒七味を入れれば味が引き締まっただろうと、ちょっと悔(く)やみました。
 
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同行者は器(うつわ)も気に入ったそうです。そして私に配膳された貝殻(かいがら)を置く皿(上の写真)もしげしげと眺(なが)めています。
 
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そう言われれば私の器もなかなか風情(ふぜい)があります。帰宅後に調べると、店名「土山人」の由来になった窯元(かまもと)土山人の弟子(でし)だった人たちが作った器のようです。
 
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お土産(みやげ)に太巻き(1050円)を追加した同行者は、「お箸(はし)をもらえるんだって!」とはしゃいでいます。何気(なにげ)なく箸袋(はしぶくろ)の裏側を見たところ、『気に入れば持ち帰っても良い』と書かれていたそうです。
 
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写真は自宅で食べる前に撮影した太巻きです。出汁(だし)巻き玉子と鰻(うなぎ)が巻かれていました。
 
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元来た目黒川沿いの道を引き返して大橋JCTの「オーパス夢ひろば」で開催されている「オーパス目黒大橋まちびらきフェスタ」を覗(のぞ)いてみることにしました。演者たちが多数の子供を相手に楽しそうな音楽遊びを教えています。
 
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ぐるりと取り囲む模擬店(もぎてん)も多彩ですが、折からの寒さのせいか客足はまばらです。
 
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排気塔が聳(そび)える大橋JCTを見上げると、巨大なダムの直下にいるように感じられました。
 
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(続く)

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2013年4月 5日 (金)

池尻大橋を散策 そして西郷山公園へ

菅刈公園を出て坂道を上り、最初の十字路を左に折れました。
 
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西郷山公園の西側入口に到着しました。こちらの公園が西郷従道邸跡だと思っていましたが、実は西郷邸は菅刈公園から西郷山公園にかけての広大な敷地を有していたのです。
 
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小高くなった公園内のジグザグした道(女坂)を上りました。
 
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大輪の赤い椿(つばき)の花が咲いています。
 
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こちらの花は白斑(はくはん)が入ってあります。
 
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落差が約20mある人口滝には残念ながら水が流れ落ちていません。
 
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公園の最高地へ上がりました。
 
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公園の東側入口の直ぐ先にガウディが設計したカサ・ミラに雰囲気が似た建物が・・。
 
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好奇心に抵抗できずに旧山手通りの西郷橋側へ回り込んでみるとゴジデザインハウス(アパレル企業・伊太利屋の企画製造部門)でした。
 
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西郷山公園内に戻ると、高台の中心部に公園の由来が説明されていました。
 
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その脇には鹿児島県伊集院町(いじゅういんちょう、平成の合併により現在は日置市)から寄贈された「いすの木」がありました。
 
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珍しい名前に興味をもって調べると、マンサク科の常緑高木である「いすの木」は蚊母樹あるいは柞と表記され、材が堅(かた)くて重いことから柱・机・櫛(くし)などに用いられるそうです。伊集院町には昔から「いすの木」が多く、「いすの木」で作られた倉(院)「いすいん」があったことから、「いじゅういん」と呼ばれるようになったことも知りました。私が当て推量した「椅子(いす)の木」ではなかったことは残念! ちなみに西郷従道の兄、西郷隆盛は伊集院家から妻を迎えていますが、伊集院町から「いすの木」が寄贈されたのは「鹿児島つながり」だけのようです。

「冬の富士の眺(なが)め」の立て看板が目を引きました。
 
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地面にある表示によれば富士山目黒川丹沢山はこの方向にあるようです。
 
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西郷山公園を出て目黒川の千歳橋(ちとせばし)まで歩きました。
 
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上流方向を一枚撮影 
 
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目黒川の左岸を上流方向へ戻ることにしましたが・・、
 
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対岸(右岸)に桟敷席(さじきせき)を発見!
 
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「目黒川お花見会」の立て看板がある3階建ての立派な桟敷席で花見が夜半まで催(もよお)されるのでしょう。
 
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(続く)

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2013年4月 4日 (木)

池尻大橋を散策 目黒川畔から菅刈公園へ

連絡デッキで結ばれたプリズムタワーの5階からエレベーターで1階へ降りて目黒大橋郵便局の脇から目黒川の河畔(かはん)に出ました。目黒川沿いの道を歩きながら桜の花と水面(みなも)に浮かぶ花筏(はないかだ)を楽しむことにしました。(常盤橋から見た上流の大橋方面)
 
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下流方向を見ると万代橋(ばんだいばし)の手前で花筏は途切れました。
 
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右岸には昔あったと伝えられる大橋の加藤水車が再現されています。
 
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対岸の桜並木と大橋JCTの巨大な壁を撮影
 
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氷川橋(ひかわばし)付近で目黒川の流れを見るとタイル状に並ぶ小さな花筏が・・。
 
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左岸に移って花茣蓙(はなござ)が敷(し)かれた歩道を歩きます。
 
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東山橋過ぎると山手通り(都道317号)に行き当たりました。渋谷方面へ少し歩いた場所にある横断歩道を渡り、再び目黒川沿いに出て、目黒橋から下流方向を見るとタイル状の花筏(はないかだ)がまだ続いています。
 
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鮮(あざ)やかな朱色に塗られた中の橋は人気スポットのひとつです。
 
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南部橋の袂(たもと)から左手の路地に入ると青葉台2丁目にある菅刈(すげかり)公園に出ました。
 
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園内には散り始めた桜の花と花茣蓙(はなござ)が広がっています。
 
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公園を奥へ歩くと桜のほかにも椿(つばき)や紫木蓮(しもくれん)などの花々が咲き競(きそ)っています。
 
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左手にある瀟洒(しょうしゃ)な建物が気になりました。
 
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この公園は西郷隆盛の実弟である政治家・軍人であった西郷従道(つぐみち)の屋敷跡であることが説明されています。
 
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江戸時代に豊後の岡(竹田)城主中川公の屋敷でしたが、明治になって西郷隆盛の弟・従道が兄のために約6haにおよぶその地を購入。隆盛が西南戦争に敗れて自刃したため、従道は自らの別邸として利用することにして、フランス人デスカスの設計による木造二階建ての洋館や、書院づくりの和館などが建てられました。また池を中心とした回遊式の庭園も設けられ、東京一の名園とも謳(うた)われたそうです。なお、戦災を免(まぬが)れた洋館は昭和35年に愛知県犬山市の「明治村」に移されて国の重要文化財に指定されています。

明治22年には明治天皇が行幸(ぎょうこう)されたようです。
 
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門を潜(くぐ)ると左手に見事な枝垂(しだ)れ桜がありました。
 
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シジミバナ(蜆花)とは聞きなれない名前です。白い花がシジミの内蔵に似ていることで付けられた名前だそうです。
 
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2001年に復元された日本庭園
 
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ここにも花茣蓙(はなござ)が・・。
 
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(続く)

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2013年4月 3日 (水)

池尻大橋を散策 大橋JCTと目黒天空庭園(後編)

なだらかに傾斜した庭園が下方へ向って延びています。約2時間前の午前7時に開園していますが、時折小雨が降る悪天候のためか、園内に人影はありません。
 
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「四季の庭」にはシバザクラ(芝桜)が植えられています。来年には埼玉県の秩父羊山公園のミニチュア版になるのかもしれません。
 
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愛らしい白い花が咲くチョウジガマズミはスイカズラ科の落葉低木
 
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「あそびの広場」でピンクの花を咲かせるハナヅオウはマメ科の落葉低木
 
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「くつろぎの広場に」に入ると東屋(あずまや)の休憩所も設置されています。その左にある巨大な盆栽(ぼんさい)のようなものは仕立物(したてもの)と呼ばれるそうです。私は信楽(しがらき)焼きの大鉢(おおはち)が温泉の壺湯にも使えそうだ思いました。
 
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芝生が張られたばかりの「くつろぎの広場」は梅雨時を迎えて芝生の根が成長すれば今夏(こんか)に美しくなることでしょう。
 
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ゲンペイシダレ(源平枝垂れ)と呼ばれる花桃はバラ科の落葉低木で、八重咲きの花が一本の木に紅(平氏の旗印の色)と白(源氏の旗印の色)に咲き分けることから付けられた名前です。洗足池公園の鳥居脇でも見かけました。
 
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藤棚(ふじだな)が出来るようです。
 
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芝生が張られた「くつろぎ広場」はさらに下方へと続いています。
 
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「潤(うるお)いの森」で咲くシダレザクラ(枝垂桜)
 
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野菜やつる植物などが植栽される「コミュニティスペース」に入るとビニールで覆われた野菜畑があり、前方の「西口広場」には目黒天空庭園管理棟が見えます。
 
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左手にパーゴラがあります。バラのドームが出来るのかと思ってよく確認すると葡萄棚(ぶどうだな)でした。そう言えばパーゴラとは元々葡萄棚を指す言葉でした。
 
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管理棟の脇を抜ける通路の金網にある「246デッキ」と手書きされた張り紙に導かれて狭いスペースへと進みました。
 
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信楽(しがらき)焼きのタイルと大鉢を使って竹林を再現した「もてなしの庭」の脇を抜けます。
 
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勾配(こうばい)や段差を活かした信楽焼きのタイルや縁石などで造られた植栽帯(しょくさいたい)には日陰に耐える地被(ちひ)植物が植えられていました。
 
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「アプローチ空間」を下りた左手に「オーパスブリッジ」(国道246号に架かる横断歩道橋)が長く伸びています。これが通称「246デッキ」かもしれません。頭上を横切るのはもちろん首都高3号渋谷線です。
 
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その中ほどから見た国道246号(玉川通り)の渋谷方面
 
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「目黒天空庭園」の端(一番低いエリア)にある「奥の庭」(枯山水と地被植物の庭)の先にあるエアガーデン(クロスエアタワーの屋外施設)はクロスエアタワー3階の公共施設エントランスおよびレジデンスエントランスがあり、大階段で2階のクロスウェイプラザ(人口地盤)とも繋(つな)がっていました。
 
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参考情報です。O-Path(オーパス)目黒大橋は大橋JCT・プリズムタワー・クロスエアタワーで構成される再開発エリアの名称です。大橋JCTの建設は首都高速道路が、その周辺は東京都(高層マンションは官民一体事業)が開発を担当したそうです。ちなみに、名前の由来はジャンクションの形状がOであり、目黒天空庭園を円形の小道(英語でPath)に見立てて組み合わせた造語とのこと。(続く)

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2013年4月 2日 (火)

池尻大橋を散策 大橋JCTと目黒天空庭園(前編)

東急田園都市線を池尻大橋駅で下車しました。池尻大橋の名前は世田谷区池尻と目黒区大橋を組み合わせたもので、世田谷区と目黒区の区界に駅があることによります。東口を出て玉川通り(国道246号)に沿って渋谷方面へ歩きました。高架道路は首都高速3号渋谷線です。
 
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玉川通りの大橋から目黒川を見下ろすと期待通りに花筏(はないかだ)が浮いていました。『目黒川は世田谷区池尻を上流端として品川区東品川で東京湾にそそいでいる。都市化の進展で水質の悪化や水量の減少がみられたため、平成7年(1995年)から清流復活の事業として新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理された再生水の一部を送水管で目黒川に送っている』と看板に説明されています。
 
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目黒川の先には高層マンション「プリズムタワー」(地上27階)が聳(そび)えています。フットプリントが三角形をしていることから付けられた名前のようです。
 
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その隣に巨大な施設が見えました。首都高速3号と首都高速中央環状線を結ぶ大橋JCTです。そのループ部分は、地上約35m、地下約36m 、高低差約71m、一周約400mの4層構造で、制限速度は40Km/hです。大橋JCTはコッロッセオ風にデザインされた壁面が印象的です。近い将来にはオオイタビ(つる性植物)などを使った壁面緑化が行われるそうです。最初の目的地はこの屋上にある前日にオープンした「目黒天空の庭」はプリズムタワーの5階と直結されているようですが、大橋JCTの周囲を巡(めぐ)ることにしました。
 
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大橋JCTの中のオーパス夢広場(多目的広場)では昨日から開催されている「オーパス目黒大橋まちびらきフェスタ」の準備作業が進められているようです。右手は駐車場のようです。
 
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大橋JCTの周囲をさらに歩きました。
 
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面白いものを見つけました。
 
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大橋エリアの今昔(こんじゃく)が2つの地図(左側:現在、右側:昔)で見比(みくら)べることが出来るのです。
 
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施錠(せじょう)された大きな扉(とびら)は緊急出入り口でしょう。
 
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大橋JCTと隣の高層マンション「クロスエアタワー」(42階建・地上高155m)を結ぶ連絡デッキが確認できます。外観が茶色で統一された低層階にはスーパーや事務所などがあるようです。内覧会(マンションの下見)のために解放されていたグランドエントランスから「クロスエアタワー」に入りました。高価なマンションの下見客(したみきゃく)にはほど遠いカジュアルな服装をした私と同居者に向ってレセプショ二ストの女性たちが丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)をしてくれました。
 
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広いロビーを抜けたエレベーターホールから9階にある大橋図書館へ向いました。先月、この場所に移転したばかりのようです。なぜこちらを選んだかと言えば、大橋図書館の脇にある入口から「目黒天空庭園」(ジャンクション屋上庭園)に入って、高みから見下ろしながら園内を散策したかったのです。折柄(おりから)の冷え込みのため防寒服に身を包んだ同行者はさっさと庭園に向います。
 
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「オーパス目黒大橋まちびらきフェスタ」の案内図
 
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完成したばかりの「目黒天空の庭」は約7000平方メートルもの面積があり、かつての目黒川周辺の原風景をモデルとした自然再生空間(目黒の原風景)が屋上に再生されていました。
 
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植栽(しょくさい)のゾーニングが説明されています。こちらのURLで詳しく確認できます。
 
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右手には大橋JCTの入り口が間近に確認できます。左側が首都高速3号渋谷線の上り線から中央環状線への入口で、右側が同下り線からそれに合流する道路です。
 
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クロスエアタワーを見上げました。「このマンションは幾(いく)らぐらいするの?」と同行者が唐突に訊(き)くので、アイフォーンを使って調べて「8000万円前後が中心価格帯だよ」と答えると、「ふ~ん。ここに住める人はいいわね。毎日庭園を自宅から眺(なが)められて」との返事が返って来ました。「そのコストは・・」と言いそうになるのを私は堪(こら)えました。
 
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右手には大橋JCTで一番高い大橋換気所があり、その手前には樹林・草地・小川・池・水田(池に見える)を配した立体的な庭園が整備されていますが、何故(なぜ)か入口ゲートが閉まっていて入ることは出来ません。
 
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その手前の東口広場には富士山が見られるという展望台があります。生憎(あいにく)の雨模様(あめもよう)ですから、写真を見ながらマンションやビルを目印(めじるし)に富士山の方向を確認すると正面ではなく右手のようです。富士山がもっと見えるかと想像していましたが、写真で見る富士山は少し前の西日暮里の富士見坂からの遠望と同様にマンションが増えていますから、まもなく見えなくなってしまうのかもしれません。
 
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(続く)

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