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2013年5月に作成された記事

2013年5月30日 (木)

続・奥の細道疑紀行 鶴岡市から酒田市へ

国道345号で鶴岡市の市街地に入りました。到道館の少し手前で右折して内川を渡り切った場所に次の目的地がありました。

2013_05010278鶴岡市の老舗そば処「東京庵」(大正2年創業)は海鼠壁(なまこかべ)の外観が印象的です。店舗と内川の間にある駐車スペースがちょうど空いたところでしたので、そこへ車を停めさせてもらいました。店の方によれば川の対岸にも駐車場があるそうです。店先に原付が停まっている理由はあとで分かることに・・。

2013_05010279 午前11時半を少し過ぎたところでしたから落ち着いた感じの店内は空いていました。メニューには、丼もの、うどん、そば、などが数え切れないほどならんでいます。私は定番の「中華そば」(600円)を、同行者は「天ざる」(1150円)を注文して待つ間、窓際に飾られたサイン色紙を眺めると良く知る名前が並んでいました。

2013_05010280 樫山文枝さん、淡路恵子さん、奈良岡朋子さん、仲代達矢さん、平幹二郎さんなど新劇の女優と俳優です。その先には照英さん、左とん平さん、篠田三郎さん、犬塚弘さん、などが続きます。店内には大正時代のモノクロ写真も飾ってあり、当時の東京庵は西洋料理やビアホールもあるモダンな店だったようです。 

2013_05010281 気になっていた店名の由来を女将(おかみ)さんに尋(たず)ねると、「東京で開店したことでこの名前を付けた」と教えて下さいました。メニューにも経緯が詳しい説明があります。その間も出前を依頼する電話がひっきりなしに入っていることが厨房(ちゅうぼう)から聞こえる声で分かりました。 

2013_05010283 「中華そば」は透明感のある醤油出汁に軽く縮れた麺が入って、チャーシュー(2枚)、シナチク(たっぷり)、海苔、刻(きざ)みネギがトッピングされた昔懐かしいラーメンそのものです。スープはやや濃い目の醤油味ですが、麺に絡(から)むとちょうど良い塩梅になります。チャーシューは色が薄い割にはしっかり味付けされていました。

コッテリ系のラーメンに食傷気味な私には幸楽園の「中華そば」と同様にこの鶴岡ラーメンに満足しました。

2013_05010285 同行者もソバとテンプラに満足そうです。味見をさせてもらうとサクサク感あります。その旨を伝えると、「揚げたてばかりではなく、作り置きも混じっている」、と辛口(からくち)のコメントが返って来ました。見た目で分かるように平打ちの細麺は更科系のようですから、その味見はスルーすることに! 

2013_05010286 内川東岸の川端通りに入りました。鶴園橋の袂(たもと)に古い石柱が立っていました。江戸時代は十日町橋と呼ばれていたそうです。夜には欄干(らんかん)にライトが灯(とも)されるようです。 
 
 

2013_05010288 川端通りを北上すると藤沢周平氏を代表する作品「蝉しぐれ五間川」の案内看板がありました。藩のお家騒動に翻弄(ほんろう)される下級武士の息子、牧文四郎の半生を通して人の生き方を描いた小説(2005年映画化)です。ちなみに五間川は内川の古い名前。後方の黄色い花はレンギョウ(モクセイ科)のようです。

2013_05010289 「鶴ケ岡城と城下町」(江戸時代後期)の絵図を興味深く眺(なが)めました。左上に鶴ケ岡城の大手門と二の丸御角櫓、左下に藩校到道館、中央部には十日町口通り、内川に架かる三日橋(現三雪橋)、三日町口番所、三日町木戸門、内川の対岸には人通りの多い町屋らしき家並みが描かれています。 

右下に書かれた「通り丁」の表現は初めて見ます。丁とは、現在でも銀座四丁目の使い方があるように、市街地を分けたものを指しますから、「通り丁」は家並みを分ける道路を指すのでしょう。この通りは地元で「銀座通り」と呼ばれているようです。

2013_05010290 国道345号と県道332号を経由して国道7号線に入りました。鶴岡市本田からは通称三川バイパスとなって20km先の酒田市へ向います。全線が暫定的に2車線になっているため対向車に注意しながら走りました。ちなみに、4車線化される時期は決まっていないそうです。
 

2013_05010291 鳥海山が少し近づきましたが、私は路肩に等間隔に並ぶ白いパイプ(上の写真にも写っている)が気になります。幟(のぼり)でも立てるのでしょうか。 
 
 
 

2013_05010293 東大町交差点を左折した県道40号で酒田市役所の脇を抜けて坂道を上って日和山(ひよりやま)公園に向かいましたが、駐車場は一杯で、交通整理をする人に促されて坂道を下ると村社稲荷神社の前に出ました。どんな由緒がある神社かは分かりませんが記念に写真を撮影。旧高野浜(こうやのはま)の標識がありました。

後で確認すると、高野浜は旧町名(現在は北新町)であり、稲荷神社の中に「弘法大師の腰掛石」というのがあったようです。

2013_05010294 陸橋の上から見た鳥海山です。幾筋にも分かれる線路は酒田港への引込み線(酒田港線)でした。
 
 
 
 

2013_05010295 反対方向は最上川の河口を利用した酒田港です。江戸時代初期に最上川の舟運と北前船で発展した港です。大正時代になって羽越本線が開通すると鉄道輸送にしゅろくとなって停滞しました。1974年に大型船舶に対応できる酒田北港が開港して大陸との外国航路の港に変身しているようです。 

2013_05010296 酒田港の岩壁まで行ってみました。この日(4月29日)は祭日のためか人影はありません。 先ほど通過した日和山公園の大混雑とは好対照です。   
 
 
 

2013_05010322 こちらはその名も鳥海丸、山形県立加茂水産高等学校の漁業実習船です。東日本大震災による津波で宮城県石巻市の住宅街へ打ち上げられた4代目鳥海丸の後継船(5代目)でした。その頃は5代目も石巻港に停泊していましたが大震災が発生する直前の3月8日に酒田港へ到着していたため、危うく難を逃れたそうです。

鶴岡市内を丹念に訪ねて回った後、酒田市へ無事到着することが出来ましたので、2回目の小休止にしたいと思います。

<同行者のコメント> 藤沢周平さんのおかげで鶴岡市内をくまなく見学できました。それに一か月遅れで2回目のお花見ができたことも良いのですが、木戸跡の標識をひとつ残らず見て回るのはずいぶん変わった趣味だと思いますよ。いったいどこまで前もって調べていたのですか?(続く)

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2013年5月29日 (水)

続・奥の細道疑紀行 鶴岡市における藤沢周平縁の地を巡る(湯田川温泉)

2013_05010258 湯田川街道は南西方向へ伸びていました。青龍寺川を渡り、山形自動車道を潜って国道345号に入り、鶴岡高専を過ぎると湯田川温泉街です。湯田川郵便局を目印に左折して由豆佐売神社(ゆずさめじんじゃ)の場所を探しました。この珍しい(読みにくい)名前の神社は出湯と水の神様だそうです。 

2013_05010259 右手に『映画「たそがれ清兵衛」によせて』と題した撮影記念碑を見つけました。『藤沢周平氏の代表作「たそがれ清兵衛」が山田洋次監督によって映画化された時のロケ地の一つであることと、湯田川地域の住民がお祭りのシーンでエキストラとして数多く出演したこと』が説明されています。その記念写真が目に留まりました。

2013_05010260 高校の演劇部に在籍した半世紀前のことですが、市のホール行われた公演後に同様の写真を撮影してもらったことを思い出したのです。それはさて置き、石段の参道には県指定天然記念物の乳イチョウの巨木がそびえ立っていました。根の一種である気根が乳房のように多数垂(た)れ下がることからこの名があるようです。 

参考として映画「たそがれ清兵衛」のストーリーを説明します。時代は幕末の頃、庄内・海坂藩の御蔵役五十石取りの平侍である井口清兵衛は妻を労咳(ろいがい、結核)で亡くしたばかりでしたが、二人の幼い娘と老母がいます。妻の薬代を借金したため生活は苦しく、下城の太鼓が鳴ると同僚の付き合いなど一切を断って帰り、家事と内職に励でいるため「たそがれ清兵衛」と渾名(あだな)されています。そして、清兵衛は剣の達人であることを買われ、切腹を拒否した藩士を藩命(上意討ち)で切ることになりますが・・・。

後半は原作の短編小説とは大きく異なります。それは他作品のストーリーを加えたためですが、一番印象に残ったのは主人公(真田真之さん)が幼馴染(おさななじみ)で清兵衛の後妻にとの縁談話があった飯沼朋江(宮沢りえさん)に身支度の手伝いをして貰っているシーンで、二人とも余計な言葉は一切口に出さないのです。そのあと二人は簡単な別れの言葉を交わします。映画「武士の一文(いちぶん)」で初めて知った庄内弁の美しさもこの映画の魅力でした。ちなみに、「武士の一文」とは武士が命をかけて守らなければならない名誉や面目の意味だそうです

2013_05010261 この映画とは関係ありませんが、すぐ近くの長福寺では枝垂桜(しだれざくら)が綺麗(きれい)に咲き誇(ほこ)っていました。 
 
 
 

2013_05010274 次いで湯田川小学校へ向うと、正門脇に黒い石碑が立っていました。
 
 
 
 

2013_05010275 「藤沢周平先生記念碑」に並ぶ案内板には『昭和24年に藤沢周平氏(本名小菅留治)が山形師範学校を卒業して、新任教師として湯田川中学校(同小学校に併設されていた)に赴任して肺結核の療養生活に入るまでの2年間過ごした場所です。教え子達が平成8年に建立した記念碑である』と説明されています。 

2013_05010272 温泉街に戻りました。1000年以上の歴史があると伝えられる湯田川温泉は豊富な湧出量(毎分約1000リットルと)を誇る硫酸塩泉(旧泉質名:含石膏芒硝泉)であることから庄内三名湯のひとつに数えられ、立派な旅館が何軒も立ち並んでいます。偶然ですが、出立するお客の車を見送る女将(おかみ)さんが写っていました。

2013_05010273 その旅館の近くにある足湯「しらさぎの湯」(平成18年にオープン)を利用する人たちがいました。ちなみに、「白鷺の湯」は湯田川温泉の古い呼び名のようです。
 
 
 

2013_05010262 その横に藤沢周平氏の短編小説「花のあと 以登女お物語」も湯田川が湯治場として紹介されたことが説明されていました。
 
 
 

この小説も「花のあと」の題名で2010年に映画化されています。満開の桜の下で以登(いと、北川景子さん)は剣道場の高弟である江口孫四郎(甲本雅裕さん)から声を掛けられた。父から剣の手ほどきを受けていた以登(北川景子さん)は孫四郎との手合わせを父に懇願(こんがん)して叶(かな)えられる。そして孫四郎への強い思いに気付くが、家が決めた許婚(いいなづけ)がいる以登は諦(あきら)めざるを得ない。その数ヵ月後に孫四郎は藩の重役の卑劣(ひれつな)な罠(わな)にかかって自死(じし)することになる。事件の真相を知った以登は孫四郎の無念を晴らすために剣を取るが・・。

2013_05010263 足湯の向かい側に立ち寄り湯に選んだ共同浴場「正面の湯」があります。
 
 
 
 

2013_05010271 『全国的に見ても屈指の新湯注入率を誇る「天然かけ流し」温泉。加水・加温・循環を全くしていない極めて純粋な天然温泉である』と説明され、共同浴場は湯の供給量が群を抜いていることがグラフで示されています。
 
 

2013_05010270 利用方法が分からずまごまごしている時に掃除をし終えたと思われる女性が外に出て来ましたので教えていただきました。近くの商店の女将さんのでもあるようで、その駐車場を使っても良いと親切にしてくださいました。利用料金は200円と超激安です。
 

2013_05010267 入口はセキュリティのあるオフィスのようにカードキーになっていました。ですから来訪者は利用券を購入した上で、ドアを開けてもらう必要がありました。おそらく地元の人はカードキーを持っているのでしょう。
 
 

2013_05010266 脱衣場は共同浴場らしく至(いた)って簡素です。
 
 
 
 
 

2013_05010268 泉質はナトリウム・カルシウム・硫酸塩温泉でかけ流し、加水と加温はしていないと単純明快。無色透明・無味無臭の湯ですが、ナトリウム分を多く含んでいるため、血圧を下げ、痛みを和らげる鎮静作用があるそうです。別の説明書きには、源泉名は湯田川1号源泉、源泉の温度42.6度、供用場所での温度40.0度とありました。 

2013_05010264 浴室もシンプルな造りです。浴槽は思ったよりも深いので慣れないと入りにくいのですが、一旦入れば湯が肌に心地よく昼前だと言うのに長湯になってしまいました。(ガラスの曇りを利用して撮影)
 
 

2013_05010276 湯田川温泉から鶴岡市の中心部に戻る途中、右前方に冠雪した出羽富士とも呼ばれる鳥海山(標高2236m)が見えました。
 
 
 

2013_05010277 国道345号を走っている時に金峯山(きんぽうざん、標高471m)と思われる山の上空に不思議なものを発見しました。虹(にじ)のようにも見えますがほぼ横一直線で円弧(えんこ)を描(えが)いていないのです。
 
 

金峯山の麓(高坂集落)には藤沢周平氏の生家があるはずだと思いながら写真を撮っている私に同行者が言ったことは、「私、テレビで観(み)たから知ってるわ。彩雲(さいうん)って言うのよ」でした。予期しない展開に内心(ないしん)驚いた私が後で調べると、雲の水滴による光の回折で生じる環水平(かんすいへい)アークとも呼ばれる珍しい自然現象でした。決して超常現象ではありません。(続く)

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2013年5月28日 (火)

続・奥の細道疑紀行 鶴岡市における藤沢周平縁の地を巡る(鶴ケ岡城跡)

2013_05010218 交差点を横断して鶴岡公園に向かいました。庄内藩酒井家が約250年来居城とした鶴ケ岡城址に1875年(明治8年)に造られたそうです。山形県随一の桜の名所であり日本さくら名所100選に選ばれています。大正13年に市政が施行されるまで町役場があり昭和13年に移転したことが鶴岡町役場跡の標識に表示されていました。

2013_05010246 県道47号(羽黒街道)に沿って歩くとL字型に折れ曲がった堀端(ほりばた)に出ました。鳥居を建てる時に埋め立てられたため堀が途切れているのは残念ですが、幅が約20mある内堀に満開の桜の花が映っています。平城であり石垣が少なく他の城址と雰囲気が違います。
   

2013_05010247 堀端をさらに歩くと大宝館(たいほうかん)の前に出ました。1915年(大正4年)に大正天皇の即位を記念して建てられたオランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームをあわせ持つ擬洋風建築です。1985年(昭和60年)まで市立図書館として利用されましたが、現在は鶴岡出身の著名人の資料館になっていました。

2013_05010248 内堀はさらに西方へ伸びています。橋を渡って公園の中心部へ行く道すがら大宝館に入ってみることにしました。
 
 
 
 

2013_05010249 1階と2階が展示室として無料で開放されていました。1階の奥、2階へ上がる階段の手前に藤沢周平氏(昭和2年~平成9年)の展示コーナーがありました。「藤沢周平の原風景」(鶴岡に息づく作品の世界)として鶴岡市内地図に同氏に縁の地が表示されており、教師をしていた時代のものと思われる写真も飾られています。

館内には明治の文豪・高山樗牛(ちょぎゅう、明治4年~明治35年)や日本のダ・ヴィンチといわれた松森胤保(たねやす、文政8年~明治25年)、明治期の小説家・田沢稲舟(いなぶね、明治7年~明治29年)、昭和期の日本の代表作家・横光利一(りいち、明治31年~昭和22年、終戦時に鶴岡市へ疎開)、旧陸軍中将の石原莞爾(いしわらかんじ、明治22年~昭和24年)など20数名についての展示コーナーが並んでいました。

藤沢周平氏の他に興味を持ったのが石原莞爾陸軍中将です。石原氏は関東軍作戦参謀として旧陸軍大将の板垣征四郎(いたがきせいしろう)とともに満州事変を起して満州を占領しましたが、二・二六事件が発生した時には東京警備司令部参謀として反乱軍を鎮圧しています。その後、関東軍参謀長の東條英機と対立し、同副長を罷免(ひめん)されて予備役として終戦を迎えたことが有利に働いたようで、極東国際軍事裁判においては最終的に戦犯の指名から外れて昭和24年に病死。戦犯に指名されなかった理由は明らかにされていませんが、一緒に満州を占領した板垣陸軍大将の方はA級戦犯として昭和23年に処刑されました。

2013_05010250 護国神社の参道に出ました。本丸御殿御玄関跡と表示されています。
 
 
 
 

2013_05010251 反対側に鶴岡市立藤沢周平記念館のモダンンな建物がありました。建築家の高谷時彦氏の設計で3年前に開館した施設です。入ってみたくはありましたが、大宝館の展示を見ていますから、先へ進むことにしました。
   
 

2013_05010252荘内神社を通過すると北側の内堀に出ました。
 
 
 
 
 

2013_05010253 あやめ園の脇の花筏(はないかだ)が見事です。
 
 
 
 
 

2013_05010254 荘内神社の参道に屋台が並んでいます。この神社は藩祖酒井忠勝を祀(まつ)るために本丸跡に創建されたものです。 
 
 
 

2013_05010255 最初に眺(なが)めた噴水のある内堀で白鳥を発見しました。日本海側にある山形県ならではの光景でしょう。思わずシャッターを切りました。
 
 
 

2013_05010256 桜の花びらが浮かぶ水面に片足立ちする白鳥は口ばしの黄色い部分が狭いことからコハクチョウでしょう。北極圏のツンドラ地帯から約4000kmも離れたこの地まで飛来したとは信じられない優雅さです。   
 
 

2013_05010257 県道47号の南側には真新しい石垣がありました。これは城の雰囲気を演出するために二の丸御角櫓跡に最近造られたものでしょう。調べると、地元では鶴ケ岡城にあった建物を再建する計画があるようです。心なしか桜の若木にも風情(ふぜい)が感じられません。気分転換に鶴岡城の歴史をかいつまんで紹介しましょう。 

この地を支配した会津の上杉氏が関ヶ原の合戦で西軍に加担したことで会津120万石から米沢30万石に減封されると、代わって庄内地方を支配した最上氏が拠点にしていた大宝寺城(大宝館の名の由来?)を鶴ケ岡城と名前を変更したが、その最上氏も元和8年(1622年)にお家騒動が発生したため改易(かいえき、お家断絶)となる。そして旧最上領のうち庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入って、鶴ヶ岡城をその本城として大改修して現在に残る縄張りが完成、その形で幕末まで続くが戊辰(ぼしん)戦争で破壊され、明治4年に廃城となる。

2013_05010211 昨日と同様に内堀沿いの県道47号を西方へ走ると外堀の先に大宝館に似た到道館博物館が見えました。その先の信号を左折すると早朝に見かけた大督寺に到着。藤沢周平氏の作品「義民が駆ける」の舞台です。この小説は幕府から国替え(三方領地替え)を命じられた庄内藩(荘内藩とも表記)の反対運動を描いています。 

2013_05010212 大督寺(だいとくじ)の境内
 
 
 
 
 

2013_05010213 大督寺境内の南側には旧荘内藩藩主酒井家墓所がありました。
 
 
 
 

2013_05010215 総穏寺(そうおうんじ)
 
 
 
 
 

2013_05010216 藤沢周平氏の短編集「又蔵の火」に登場した寺です。
 
 
 
 
 

この道(湯田川街道)をさらに南下すれば国道345号に入って次の目的地に行けるはずです。(続く)

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2013年5月27日 (月)

続・奥の細道疑紀行 鶴岡市における藤沢周平縁の地を巡る(庄内藩校到道館編)

2013_05010230 国道332号に出て鶴ケ岡城と鶴岡市役所の間を抜け、前日に見かけた庄内藩校到道館(ちどうかん)の入口を通り過ぎた大きな駐車場に車を停めました。午前9時の開館時間に合わせて到着したため駐車場にはまだ車がまばらです。受付(写真の左横)を入ると砂利が敷き詰められた道が続いています。 

2013_05010232 『国指定史跡到道館は文化2年(1805年)に学問所として創設され、文化13年(1816年)に十代藩主が三の郭(くるわ)内の現在位置に移し、藩の政務を処理する会所と学校を合わせた仕組みを作った』ことが説明されています。ちなみに、到道館の名前は論語にある「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」から名付けられたそうです。 

2013_05010231 藤沢周平氏の「義民がかける」に到道館が登場することを紹介しています。
 
 
 
 

2013_05010233 周囲を塀(へい)や生垣(いけがき)で囲まれた到道館は小さな掘割(ほりわり)を橋で渡って表御門を入る構造になっていました。ちなみに表御門は藩主だけが利用した門です。 
 
 

2013_05010234 表御門を入った左手に廟門(びょうもん)、その左後方に聖廟(せいびょう)がありました。学校の中枢(ちゅうすう)であり、教育の源(みなもと)と考えられ、孔子(こうし)と顔淵の聖顔(せいがん)を祀(まつ)るところでした。
 
 

2013_05010235 聖廟にある孔子像は孔子第75代の子孫である孫徳成先生の家に伝わる孔子像の複製を制作して寄贈されたものです。
 
 
 

2013_05010236 山本珍石画伯によって描かれた孔子です。
 
 
 
 
 

2013_050102361 論語の文字(写真では点線のように見える)をもって全体が成り立っており、画賛(がさん、絵以外の文字の部分)は孫徳成先生によるものと説明されています。
 
 
 

2013_05010238 この講堂は広間型講堂で、生徒が一堂に会して講義を受けたところだそうです。現在の小学校レベルの句読所(くとうしょ)から大学・大学院レベルの舎生(しゃせい)まで広い世代の生徒が学んでいたそうです。
 
 

小学生レベルを除けば、自分が立てた計画に従って自分のペースで進める「自学自修」と、当番生徒の発表について話し合ったり、同じ書を読んで討論したりする「会業」と呼ぶゼミナール形式の方法が中心だったことが説明されていました。講堂の内部には多くの資料が展示されていましたが残念ながら撮影禁止でした。

2013_05010240 藩主の居間である「御入りの間」の一室に建物の縮尺模型がありました。1876年(明治9年)、県令三島通庸の命により現在の鶴岡市役所の敷地内に建設された洋風瓦葺(かわらぶき)3階建ての巨大な朝暘学校(ちょうようがっこう)の模型です。洋風の学校を建設して明治政府の威光(いこう)を示す狙(ねら)いがあったようです。 

2013_05010243 「御入りの間」の外観
 
 
 
 
 

2013_05010245 旧庄内藩藩医の嫡男(ちゃくなん)として生まれた「華陽中台先生の碑」がありました。到道館に入学、明治元年に到道館助教となり、明治6年に上京して文部省師範学校で新教育の教授法を学び、帰郷後は朝暘学校などで教鞭を取ったことが説明されています。
 

2013_05010244 桜の花をクロズアップ
 
 
 
 
 

2013_05010239 講堂を出た西御門(先生や藩の役人の出入り口)の近くで桜が満開でした。前日にはこの西御門を県道47号から撮影しています。
 
 
 

2013_05010241 講堂の先にある東構内には、御元締詰所、養老堂、司業学監(がっかん)、助教、典学、繰揚生(そうようせい)室、句読所(くとうしょ)、会食の間、御台所などが並んでいた様子が礎石(そせき)のようなもので示されていました。ちなみに、左後方は市役所です。   
 

2013_05010242 東構内の東端から講堂方面を眺(なが)めました。致道館は廃校後、鶴岡県庁(明治9年山形県に合併)、鶴岡警察署、小学校、教育委員会などに転用されましたが、現在は当時の約半分に当たる70アール(7000㎡)余りの敷地が残されているそうです。(続く)

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2013年5月26日 (日)

続・奥の細道疑紀行 鶴岡市における藤沢周平縁の地を巡る(鶴ケ城木戸跡編)

庄内藩校致道館が開館する午前9時までの時間を利用して庄内藩の藩庁であった鶴ヶ岡城の木戸跡を巡(めぐ)ることを思い立ちました。ホテルで貰った鶴岡市市街地観光ガイドマップには11カ所も表示されているため所要時間を考えて、朝食を終えた午前7時半過ぎにホテルを出発することに。

鶴ケ城の木戸は城をぐるりと取り囲むように配置されていますから、常識的に考えればホテルに一番近い場所から一周すれば良いのですが、その後の行動予定もあります。このため、ホテルから11カ所の木戸跡を回って庄内藩校到道館までを最短距離で一筆書きするコース取りを考えた上で、鶴岡市中心部を縦横に貫く道幅の広い旧国道7号(県道332号、羽州浜街道)と国道345号(金峯街道)を最大限に利用することが時間短縮のためには得策だと考えました。これで私の脳内に最適なコース案が出来上がりました。

2013_05010203 ホテル脇の道路(苗津大山線)沿いに並ぶ富樫実(とがしみのる)氏のモニュメントと彫刻ベンチの作品群を見たあと県道332を東進して山形大学農学部の先で右折、国道332号を南下してNHK鶴岡支局を回りこむように右折、鶴岡北校の南東の角に出ると、「鶴ヶ岡城 高畑口木戸跡」の木柱がフェンスの前に立てられていました。 

2013_05010206 鶴岡北校を半周してさらにコの字型に路地を進んだ十字路脇に次の木戸跡があるはずですが見つかりませんので四方に歩いて探すことにしました。最後に向った東方向は住宅に沿って道が折れ曲がっていて、その奥まった場所でついに「新形町口木戸跡」を見つけました。
   

2013_05010207 西方へ500mほど進むと道は青龍寺川に行き当たって道なりに左へ折れます。その川を渡る道との三差路付近に次の「万年橋口木戸跡」がありました。水路の反対側、住宅の竹塀(たけべい、竹垣)前にその木柱が立っています。近くにある橋の名前が万年橋なのでしょう。
 

2013_05010208 クラシックな消火栓を見掛けましたので一枚撮影しました。気になって調べると「地上式単口消火栓」と呼ばれる種類で、鶴岡市では約300mに一カ所の割合で設置されているそうです。 
 
 

2013_05010209 青龍寺川に沿って南下すると羽黒街道に出る少し手前にある枡形(ますがた)に次の木戸跡があるはずだと探しました。しかし木柱はなく、もうひとつ消火栓が立っているだけです。地図で確認すると確かにこの場所のはずです。ふとブロック塀を見ると看板がありますので近寄ってみると「大山街道口木戸口跡」の案内板でした。   

2013_05010210_2 『鶴ケ城三の丸の中は郭内(くるわうち)といわれて外部との出入り口は11しかなく、これを11木戸と呼び、木戸の通行はなかなか厳しかった。武士は別として、鶴岡の町人もみだりに通ることはできなかった』と説明されています。当時の地図に描かれた道は国道と県道が追加された以外は現在の地図とほとんど同じです。

2013_05010214 羽黒街道に出て200m余り東進した交差点を右折して向った大督寺(だいとくじ)の付近にあるはずの次の「鍛冶町口木戸跡」もすぐには見つけられません。大督寺の塀が途切れた場所にやっと黒い木柱を発見しました。これまで見た標柱よりも塗装の色と文字跡が真新しく見えます。   

2013_05010217 次の交差点を左折して約300m東進し、左折して国道345号(金峯街道)に入るとアートフォーラム前の駐車場に「元曲師町口木戸跡」がひっそりと立っていました。
 
 
 

2013_05010219 鶴丘公園の南東角を右折して県道47号(羽黒街道)を東進すると内川(うちかわ)に架かる鶴園橋に出ますが、その左手前にある鶴岡消防署中央分署の敷地隅に次の「十日町口木戸跡」がありました。藤沢周平氏の小説に登場する「五間川」のモデルとなったのがこの内川と言われているそうです。 

2013_05010220 これが鶴園橋です。江戸初期にこの橋が架けられた時には十日町橋と名付けられましたが、明治に入って架け替えられる時に三日橋や五日橋とともに名称が変更されたそうです。鶴ケ岡城の跡に造られた鶴岡公園がその名の由来とする説があるようです。   
 

2013_05010221 内川の西岸を北上した次の三雪橋(みゆきばし)の近くに「三日町口木戸跡」があり、みゆき通りが鶴ケ城の大手門方面へ伸びています。
 
 
 

2013_05010222 これが朱塗りの三雪橋です。慶長13年(1608年)に時の領主であった最上義光が作ったもので三日町橋と呼ばれていましたが、この橋からながめる鳥海山、月山、金峰山の3つの山の雪がとても美しかったことから、明治9年に当時の県令(県知事)三島通庸(みちつね)が名づけたと言われています。

2013_05010223 千歳橋の袂(たもと)にある「五日町口木戸跡」から見た鶴ケ岡城方面
 
 
 
 

2013_05010224 モダンな千歳橋(旧五日橋、長さ約30m)は富樫実氏の「空(くう)にかける階段」シリーズのひとつでした。名前は縁起の良い言葉の千年に拠(よ)るようです。 
 
 
 

2013_05010225 千歳橋を渡った内川の東岸(三雪橋寄り)に明治の女流作家田沢稲舟(いなぶね)の胸像がありました。あとで調べると、この場所は22年余の波瀾(はらん)の人生を送った彼女の生家前に当たるそうです。
 
 

2013_05010227 さらに北へ進んだ開運橋の袂(たもと)に「荒町口木戸跡」がありました。内川ホットパーク(旧内川公園)の隅(すみ)です。
   
 
 

2013_05010228 同パーク内の枝垂(しだ)れ桜が見事です。
 
 
 
 
 

2013_05010229 勤労者会館と庄内病院の間を通過したクリーニング店「日本の美 西 陣」の前に「代官町口木戸跡」がありました。最初の高畑口木戸跡」からの所要時間は1時間10分で、計画通りの9時まで10分を残して11カ所の木戸をすべて訪れることが出来ました。次は藩校と鶴ケ城を探訪します。(続く)

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2013年5月23日 (木)

百田尚樹著「モンスター」を読む

百田作品を読み切る計画がここまで進展しました。タイトルからは内容が推測できませんが、手に取ったハードカバー(2010年3月幻冬舎刊)の表紙は黒地にマネキンのように若く美しい女性の顔が描かれています。作品ごとに異なるモチーフで小説を書くポリシーを持つ百田氏ですから、これまでの作品とはかけ離れた小説としての期待が高まりました。ちなみに、この小説は映画化されて4月下旬に公開されました。

目次にはプロローグに次いで「町で一番美しい女」「みにくいあひるの子」「運命の恋」「モンスター」などの15章が続きます。どうも容姿の美しさと男女の恋愛を絡めたストーリーのようですが、在り来(ありき)たりのテーマでは百田氏らしくないでしょう。それに「モンスター」が何を意味するのかも想像できません。

 
                        ☆
 

美しい女性が駅のプラットフォームに降り立ったところからプロローグが始まる。駅員はもちろん、売店の若い女店員や駅前で客待ちをしていた初老のタクシー運転手も女性の美しさに目を奪われてしまう。ペンションを買い取ってレストランに改築しているオーナーであろうとその女性を乗せたタクシー運転手は直感する。『腰を抜かすぐらいの別嬪(べっぴん)だ』と自慢げに言う工務店社長の話から地元では美人のうわさで持ち切りなのだ。運転手は『この人は素敵な人だ。優しくて、品がある』と思った。

本編に入って「町で一番美しい女」と噂されるこの見知らぬ女性がレストランをオープンすると大変な評判になって来客が絶えない。レストランの男性客や女性スタッフの言葉を通して女性の美しさが持つ圧倒的な力が語られる。そして主人公の和子は4歳の頃の忘れられない感動的な記憶を思い返す。しかし小学校に入ると自分の醜い容姿について同級生から悪口を浴びせかけられた日々が回想される。母親や姉からも「ブス」と言われる主人公。中学と高校ではその状態が変わらないどころか辱(はずかし)めはエスカレートする。

幼い頃の大切な思い出の相手が同じ高校の同級生だと知っても、それを言い出すことは出来ない。相手の気持ちを自分のものに出来ないことを思い知らされた主人公はとんでもない行動を実行したため、地元でモンスターと呼ばれるようになる。家業への悪影響を心配する両親は東京の短大へ進学することを積極的に勧める。厄介払(やっかいばら)いのために金を出したのだ。そして主人公は東京での一人暮らしを始める。短大に入った主人公は合コンに何度も誘われて参加するが、引き立て役であることを思い知らされる。

心理学の若い助教授から他の女学生と一緒に美人についての様々な話を聞いて、主人公はすべてが分かったような気がした。そして醜(みにく)い顔のせいで自分に恋する男性が現れなかったことと、恋愛によって美しくなる機会も自分には与えられないことを短大での2年間に思い知らされる。就職に備えて主人公は、図書館司書、秘書検定、英検一級などの資格を取っていた。マスコミ関係に就職したかったのだ。

しかし名のある会社の就職試験には軒並み不合格だった。すべて面接で落とされてしまう。逆に同じ短大でも美人の学生は一流企業から簡単に内定が貰えた。一流大学と違って学力よりも顔で選ばれるのだ。それでもようやく女子工員として製本会社への就職が決まる。単調できつい仕事だが給料は安かった。しかも同僚の女子行員から露骨(ろこつ)にブスと言われた。学歴と品性は多くの場合比例して、女の方が男よりも残酷(ざんこく)なことを主人公は知る。

そんな生活が続いて24歳になった時に主人公は初めて目を整形する。二重瞼(ふたえまぶた)にする手術は15分ほどであっけなく済み、手術代8万4千円の効果は主人公の中で何かを変えた。さらに目を大きくする追加手術(蒙古襞を切除する目頭切開法)も受ける。そして次は横に広がった鼻の番になるが120万円もかかることを知った主人公は風俗でアルバイトをすることを決意。しかしファッションヘルスはもちろん、ソープランドでも雇って貰えない主人公はSMクラブで何とか風俗のデビューを果たした。それも虐(いじ)められる専門の女(M嬢)だ。2カ月で鼻の手術をする金が貯(た)まった。さらに突き出た口(乱杭歯のインプラント化と顎の骨の切除)を整形するため、より多い収入を得るためにホテトル嬢に転身する。

そして主人公がレストランを開いた目的が少しずつ明かされて行く。7年間務めた製本会社を辞めた主人公はファッションヘルスに移ることにした。しかし口の手術が終わった時にはその後遺症のため顎(あご)の筋肉が弱って唇の感覚がほとんどなくなったため、ファッションヘルスの仕事を辞める。ソープランドで働くようになった主人公の収入は倍増し、その金を惜しげもなく整形手術につぎ込むと、一所懸命作った作品を丁寧(ていねい)に磨いている感じがしたのである。そして整形する対象は顔だけでなく、元々良かったスタイルを除く女性的な部位にも及んだ。

着実に美しくなる主人公に対する会社の上司と同僚の反応(嫉妬・羨望・嫌悪)が生々しく描かれ、美しくなるとその人の中味も上質に見える錯覚(光背効果)により上昇スパイラルに入ったことで、主人公は自信を得ただけでなく快感すら感じるプロセスも描写される。主人公に言い寄る男性たちが自らを売り込むために熱心に語るテーマとしての「村上春樹の著作」や「ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番」、主人公が身に付ける女性の魅力(話し方・メイク・ファッション)や駆け引きなど、男性と女性の異なる関心事が描かれる。

このストーリーの最終展開は伏せますが、「風の中のマリア」にも似たラストシーンには百田尚樹さんならではの心地よい感動が待っていました。命を懸(か)けて好きな男性のために完璧な美しさを追求した主人公ははたして幸せを掴(つか)むことが出来たのでしょうか。

 
                        ☆
 

[読後感] この小説における異常とも思える状況設定とストーリー展開を通して永遠のテーマである『人間にとって容姿の美しさとは何か?』について、著者は何を言おうとしたのでしょうか。読者に何を問い掛けようとしたのでしょうか? 

私の限られた人生経験に照らし合わせてみると、著者が簡単に述べた『美しさと魅力は別のもの」という言葉にヒントがあるような気がします。『美しさ』は鎮痛薬(ちんつうやく)であるモルヒネ注射のように誰の心も魅了(みりょう)しますが、その快感は投与された時しか感じられないのです。一方、魅力は極めて個人的な心の感動であって理屈では説明できない心の反応(永続的な変化)だと思います。

主人公が体調を崩した時に他の誰よりも足繁(あししげ)く見舞いに訪れた平凡な男の情熱にほだされた主人公はその男と結婚します。しかし、半年も経つと夫の態度が変わり、3年後には会社の若い平凡な女性と浮気をしたのです。それを罵(ののし)る主人公に向って夫は「人は顔じゃない」と言って離婚を申し出たことも示唆(しさ)に富んでいます。

言わずもがなですが、身内については顔の美醜(びしゅう)をそれほど意識しないことや、下世話な表現である『美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる』も言い得て妙でしょう。もちろん、男性が美人を求めるのは本能(あるいはDNA)に従った行動であり、わずか3日で飽きることはないでしょうが、「限界効用逓減(ていげん)の法則」のように「時間とともに満足度が減少する傾向」が貴重な存在である美人にも当てはまると思います。逆に、減らないものと言えば幸福感(楽しい思い出)でしょう。

実は当ブログでこのテーマにこれまで一度だけ言及したことがあります。悪人列伝(その2):藤原薬子で著者の作家海音寺潮五郎氏が『美貌は他の能力と違って人間の最も弱いところに訴えることによって力となるものである』と指摘したことです。

外国に目を移すと、カエサルとアントニウスを魅了したクレオパトラ、傾国(けいこく)の美女と呼ばれた中国の玄宗皇帝の皇妃であった楊貴妃(ようきひ)、トロイ戦争の原因になったギリシャのヘレネが世界の三大美女に挙げられますが、百田尚樹氏はそれらは例外であって、美女のためにすべてを無くすような権力者はいないことと、どんな美貌の持ち主であっても男が一旦手に入れればその神通力は急速に失われることを主人公に語らせています。

本論から外れますが、この小説は美容整形と風俗業界についても主人公と医師や風俗関係者の会話を通して掘り下げた解説をしています。美しさとは顔のパーツとそのバランス(黄金比)が平均的である(アジア人と白人ではこれが異なる)こと、目や口元が知性的あるいは優しく見える理由の解説が顔は整形する効果を客観的に説明しています。また、風俗で行われるグロテスクなサービスの描写に嫌悪感が少ないのは、ひとえに百田氏の卓越した技量(表現力)によるものでしょう。

最も印象に残ったことは、美容整形で美しくなった女性たちが、美しさを武器に出来る仕事(AV嬢や風俗嬢など)で金を稼(かせ)いだあとは、日常生活に戻るため元に近い顔に戻すことが多いことを風俗の仲間たちに話させていることです。

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2013年5月19日 (日)

続・奥の細道疑紀行 羽黒山温泉「やまぶし温泉ゆぽか」から鶴岡市の宿泊地へ

2013_05010177_2 鶴岡市役所羽黒庁舎の少し先にある羽黒山温泉「やまぶし温泉ゆぽかに立ち寄りました。出羽三山を模(も)した外観の公営温泉です。
 
 
 

2013_05010181_2 ロビーに入って右手の券売機で利用券(400円)を購入しました。ホールは吹き抜けになっていて開放感と清潔感がありますが、左手にある売店が迫(せ)り出しているためやや雑然とした印象を与えることは残念です。
 
 

2013_05010178_2銀行の受付のように綺麗なカウンターに利用券を出して奥へ進むと、庄内映画村のスタンドの両脇に男湯と女湯の入口がありました。右手には食事処と休憩室などがあるようです。
 
 

脱衣場がやや 浴室は淡い水色のタイル張りで、大きなガラス窓の前に横に長い浴槽がありました。気泡風呂とジェットバスの機能も浴槽に備え付けられています。明るく清潔な印象があります。羽黒町源泉の泉質はナトリウム・カルシウム・塩化物泉(pH=7.5)、源泉の温度は71.1度(使用場所の温度53.2度)、溶孫物質総量は13,910mg/kg、但し書きには井戸水の加水・循環ろ過・塩素系薬剤使用があると表示されています。

露天風呂は東屋のある岩風呂です。目隠しの塀が高いのは残念ですが、それでも広い青空が広がっていて、4月下旬の涼しい風が肌に心地よい。熱めのお湯をなめるとショッパイ味がしました。つい長風呂になってしまい身体のほてりがしばらく残りました。湯上がりの同行者はコーヒー牛乳を飲んだ後は土産物の品定めを始めました。

2013_05010183_2 県道47号を西へ進むと鶴岡市役所の前に出ました。
 
 
 
 
 

2013_05010182_2 県道の反対側(南側)には庄内藩校致道館があります。
 
 
 
 
 

2013_05010184_2 鶴ヶ丘城跡(鶴岡公園)を横切る県道47号沿いには桜並木が続きます。翌日が好天になることを願いながらこの日の宿泊先へ向いました。
 
 
 

2013_05010186_2 今回鶴岡市で選んだのは市街地の西部(山形自動車道鶴岡ICの近く)にあるホテルイン鶴岡、車での移動が便利であることと朝食バイキングに人気があると聞いたからです。それに新しいビジネスホテルですから、部屋の狭さを気にしなければ、宿泊料金が信じられないほど安いことも魅力でした。 

2013_05010187_2 大浴場もあるようですが温泉を楽しんだばかりですから夕食時間まで最上階の部屋で過ごしました。ちょうど夕陽が沈むところでした。
 
 
 

2013_05010188_2 連休のため宿泊客が多くてやや遅めの夕食になりました。通常は朝食だけの宿泊プランを選びますが、この日は軽めの夕食「選べる温か鍋セット」付プランにしました。
 
 
 

2013_05010190_2 鍋は「キムチ鍋」「鶏の水炊き」「寄せ鍋」から好みによって選べますから、私は「具沢山(ぐだくさん)な寄せ鍋」にしました。 
 
 
 

2013_05010191_2 辛いものが好きな同行者は「キムチ鍋」を注文しました。いずれの鍋もほど良いボリュームと味に二人とも満足。 
 
 
 
 

2013_05010192_2 朝が早かったため、夕食後はアルコール燃料を補給して、早めに就寝しました。翌朝目覚めると雲ひとつ無い快晴! 晴れ男の面目躍如(めんもくやくじょ)です。気を良くした私はいつものように散歩に出かけました。 
 
 

2013_05010193_2近くにある「空(くう)にかける階段広場緑地」でシンボルモニュメントの「空にかける階段」を見かけました。地元鶴岡市出身の富樫実(とがしみのる)氏が2001年に製作した作品の高さはちょうど20mもあるそうです。 
 
 

2013_05010196_2基部の写真で分かるように塗装されていません。コールテン鋼と呼ばれる耐候性鋼材が使われて、表面の錆(さび)が保護膜となり内部まで腐食しないそうです。
   
 
 

2013_05010195_2そして時間が経過すると現在の茶褐色から暗褐色に変化するようです。 
 
 
 
 

2013_05010200_2同じ緑地内にはイスとテーブルが数え切れないほど並んでいます。これも富樫実氏の作品「ストリートファーニチャー(彫刻ベンチ)」(2002年)で、火山岩の一種である「六方石」が使われていました。溶岩が冷却する過程で柱状節理と呼ばれる縦方向の割れ目(5-6角形)が生じて出来たものです。 

2013_05010201_2 川越にある「時の鐘」のようなものが見えますので、国道7号(三川バイパス)を横断してその場所へ行ってみることにしました。 
 
 
 

2013_05010202_2 その右手に回り込むと庄内観光物産館の火の見櫓(やぐら)でした。軽い散歩をしたあとは朝食バイキングに期待してホテルへ戻りました。
 
 
 

今回のドライブ旅はまだ初日が終ったところですが、ここで小休止することにして、数日後にこの続きを投稿したいと思います。 

<同行者のコメント> ずいぶん長い距離を走りました。おしんがイカダに乗った場所、変わった建物のおそば屋さん、そして雪がまだ残る羽黒山など、旦那様の旅行メニューはいつものように盛りだくさんです。気がつくと日本海側の町に着きました。居酒屋さんに入ったのはこれが初めての経験でした。(続く)

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2013年5月18日 (土)

続・奥の細道疑紀行 清川から羽黒山へ(その3)

2013_05010122 県道45号(手向バイパス)に出て先ほど立ち寄った「羽黒自然の小経」まで戻り、羽黒山有料道路(通行料400円)に入りました。芭蕉はこの道路に並行する月山登拝路を月山に向けて歩いたそうです。山頂の駐車場に車を停めました。昔ながらのデザインで描かれた出羽三山案内図の横に簡略化された案内看板がありました。

2013_05010123 歴史博物館の前を通過した右手に末社が並んでいました。左から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社の順です。 
 
 
 

2013_05010124朱が鮮やかな鳥居を潜(くぐ)ります。
 
 
 
 
 

2013_05010125 社務所と参拝者の受け入れ施設を兼ねた「参集殿」の方向を見ると『世界平和之搭』と表示された丸い玉の上にカラスのようなものが止まっています。その先には鐘楼(しょうろう)も見えます。
 
 

2013_05010128 鐘楼堂(しょうろうどう)は切妻造りの萱葺(かやぶ)きで、最上家信の寄進で元和4年再建された羽黒山では五重塔に次いで古い建物であり、建治元年の銘がある大鐘(国指定重要文化財)は東大寺・金剛峰寺に次いで古いそうです。ちなみに、鎌倉幕府が元寇の国難除去の祈願で寄進したものといわれます。 

2013_05010126 鐘楼堂の左手にある鏡池お前には神宮祭主北白川房子様の歌碑『阿か阿かと朱ぬりもはゆる 出羽のやしろ とはに栄えむ 御国の鎮と』がありました。北白川房子様は明治天皇の第7皇女です。ちなみに、神宮祭主は伊勢神宮の神職で戦後は女性の元皇族が就任されているようです。 

2013_05010127 鏡池越しに見える三神合祭殿(国指定重要文化財)は一棟の内に拝殿と御本殿とが造られた合祭殿造とも称される独特の社殿です。鏡池は年間を通しほとんど水位が変らない神秘な池として信仰をあつめ、羽黒信仰の中心でもあったそうです。 
 

2013_05010130 三神合祭殿の長押(なげし)には様々な装飾彫刻があり、左から湯殿山(ゆどのさん)神社、月山(がっさん)神社、出羽(いでは)神社の額が掛けられています。
   
 
 

2013_05010131 出羽三山神社のHPには『この社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m、桁行24.2m、梁間17mで主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である』と説明されています。
 

2013_05010132 上を見上げると長押(なげし)に二十四孝(にじゅうしこう、昔の中国で孝行が特に優れた24人)の彫刻が並んでいました。 
 
 
 

2013_05010138 三神合祭殿を過ぎた場所にある蜂子(はち)神社は出羽三山神社御開祖・蜂子皇子(はちのこのみこ)を祀っています。ちなみに、蜂子皇子は崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子です。 
 
 

2013_05010137 その左側にあるのは厳島神社は龍の彫刻が見事です。
 
 
 
 
 

2013_05010136 さらに先へ進むと朱に塗られた鳥居がありました。参道の終点鳥居に違いないとその鳥居を潜(くぐ)り、一の坂から歩いて登った参拝者になりきって撮影しました。
   
 
 

2013_05010135 三の坂を見下ろしました。頂上付近の参道には雪はまったく残っていませんから石段をもう少し下りてみたくなりましたが、何とか思い留(とど)まりました。   
 
 
 

2013_05010139 駐車場へ引き返す途中に芭蕉像と出羽三山の句碑がありました。『凉しさや ほの三日月の 羽黒山』、『加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那(語られぬ湯殿にぬらす袂かな、かたられぬゆどのにぬらすたもとかな)』、『雲の峯 いくつくつれて(幾つ崩て) 月の山』の3句が刻(きざ)まれています。 

2013_05010140 天宥(てんゆう)社は記事(その2)で紹介した羽黒山五十世執行別当天宥法印(ほういん、僧正に相当)を祀(まつ)っています。芭蕉は天宥の業績をしのんで追悼(ついとう)の句文を手向(たむけ)、『其玉や 羽黒にかへす 法の月』と詠(よ)んだそうです。其玉は天宥法印の魂(たましい)を、法の月は仏法による救済を、意味します。 

2013_05010141 駐車場に戻って下山する途中、第3駐車場に立ち寄りました。写真は展望台から見た月山(標高1984m)。月山の名前は農業の神「月読尊」(つくよみのみこと、素鳴尊の兄で月の神)を祭ったことに由来するそうです。月山の右手には五穀豊穣・家内安全の守り神が祀(まつ)られる湯殿山(標高1500m)が続きます。 

2013_05010142 その左手は火打岳(標高1033m)、虚空蔵岳(標高1090m)、追立山(標高992m)などでしょう。
 
 
 
 

2013_05010176 県道45号と県道47号で鶴岡市の中心部へ向う途中で羽黒山大鳥居を通過しました。この先の交差点を左折すれば庄内映画村オープンセットへ行けますが、10km近くの距離がありますし、最終入場時間の午後3時半を30分も過ぎていますから、そのまま通過しました。(続く)

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2013年5月17日 (金)

続・奥の細道疑紀行 清川から羽黒山へ(その2)

2013_05010152 神橋(しんきょう)を渡りながら右手を見ると「須賀の滝」の前に境内社の岩戸分神社(左)と祓川神社(右)があり、その間に不動明王(ふどうみょうおう)も見えました。ちなみに、昔の参拝者はこの祓川(はらいがわ)で身を清めたそうです。 
 

2013_05010153 祓川に架かる趣(おもむき)のある石橋を渡って滝へ向うと、正面に不動明王がはっきり確認できました。
 
 
 
 

2013_05010154 須賀(すか)の滝は高さと水量があって見ごたえがありますが、何と人工的に造られた滝でした。羽黒山中興の祖と呼ばれた天宥別当(てんゆうべっとう)が造った8kmの水路で月山山麓(さんろく)より水を引いたもので、当初は不動の滝と呼ばれたそうです。参道に石を敷き、杉並木を整備したのも天海僧正に師事した天宥でした。

2013_05010155 ふり返ると先ほど渡った神橋の全景が見られました。
 
 
 
 
 

2013_05010156 実は神橋を渡った先の参道はまだ雪に覆(おお)われていて歩くのさえ難儀(なんぎ)な状態なのです。
 
 
 
 

2013_05010157 樹齢一千年以上といわれる天然記念物「爺杉」(じじすぎ)(樹高48.3m、樹齢1000年以上)
 
 
 
 

2013_05010160 見上げると首が痛くなるほどです。
 
 
 
 
 

2013_05010161 爺杉の脇から左手に伸びる石畳(いしだたみ)の先に国宝の羽黒山五重搭が見えます。
 
 
 
 

2013_05010162 近づいてもう一枚撮影しました。『承平年間(931-938年、説明板には1050年前と記述)に平将門が建立したと伝えられるが、1372年(応安5年、説明板には約620年前と記述)に再建され、昭和41年3月国宝に指定された』ことが説明されていました。
 

2013_05010164 均整(きんせい)がとれた美しい姿を右手方向から眺(なが)めながら、3年前に平将門縁の地を訪ねた時のことを思い出しました。 
 
 
 

2013_05010165 一の坂が始まりました。
 
 
 
 
 

2013_05010166 左手にある詩人西條八十(さいじょうやそ)氏の歌碑には『五十路の夏にわけのぼる 羽黒の峰の梅雨雲や また見んことのあるやなしやと ふり返りゆく山つゝじ』と刻(きざ)まれていました。私には草書体の文字が難解であるためネット検索で確認しました。
 

2013_05010167 一の坂の途中にある境内社の大直日(おおなおび)神社には『祭神大直日神は諸々(もろもろ)の禍事(まがごと)を直し正して善(よ)き方に導き賜(たま)う神なり』と説明されていました。   
 
 

2013_05010168 蛸(たこ)の足のように大地を掴(つか)む杉の根を見て高尾山の「たこ杉」を思い出しました。
 
 
 
 

2013_05010169 一の坂はまだまだ続きます。社務所前で貰った周遊ガイドには二の坂と三の坂を経て三神合祭殿までの石段2446段を登るには片道1時間と書かれていますから、早々と決断して引き返すことにしました。駐車場で待つ同行者も気掛かりで・・。 
 

2013_05010170 杉木立の間から見た五重塔は室生寺の五重塔と雰囲気(ふんいき)が似(に)ています。 
 
 
 
 

2013_05010173 神橋に近づくと雪が融けてぬかるんだ参道になりました。 
 
 
 
 

2013_05010174二の坂と三の坂には雪が残っていないだろうと思いましたが、山中に続く参道は何があるか分かりませんから、不本意ですが楽で安全な方法を選ぶことにしました。(続く)

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2013年5月16日 (木)

続・奥の細道疑紀行 清川から羽黒山へ(その1)

2013_05010108 庄内町清川に到着。国道47号から脇道で下へ降りた清川小学校の敷地に「芭蕉上陸の地」碑がありました。芭蕉は本合海から最上川舟運の川港であった清川までの舟旅で「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠んだといわれることが説明されています。
 

2013_05010107 校舎寄りに松尾芭蕉像とその句碑が並んでいました。ちょっと気になったことは、「早し」を「速し」とすべきではないかということです。念のために調べてみると、昔は現代ほど両者の使い分けが厳密ではなく、現代語でも早馬や早籠(かご)などが慣用句として残っていました。 
 

2013_05010109 さらに右手にある釣瓶(つるべ)井戸と左後方(土留めの脇)に見える榎(えのき)は江戸時代にこの場所にあった清川関所の名残(なごり)だそうです。
 
 
 

2013_05010111 芭蕉の足跡に従って立谷沢川沿いに南下すると、遠くに虚空蔵岳(こくうぞうだけ、標高1090m)と月山(がっさん、標高1984m)が見えました。虚空蔵の名を京都府京田辺市長野県上田市神奈川県伊勢原市栃木県栃木市京都府京都市で見かけましたが、虚空蔵とは宇宙のような無限の智恵と慈悲を持つ菩薩(ぼさつ)のこと。

2013_05010113 県道45号が右に折れる場所に羽黒山の案内標識がありました。直進した県道344号は月の沢温泉で行き止まりになりますから、月山へ向うには県道45号で羽黒山を経由して県道211号(月山高原ライン、約18km)に入る必要があるようです。 
 

2013_05010114 曲がりくねった急坂を上ると雪の壁が現れました。その後ろには桜の花が覗(のぞ)いています。
 
 
 
 

2013_05010115 坂を上り切って鶴岡市に入ると平らな場所に出ました。月山へ向う県道211号との分岐点に月山ビジターセンターと羽黒自然の小径(こみち)がありました。
 
 
 

2013_05010120 月山方面はまだ通行止めですから、後者に立ち寄ることにしました。約1.5kmのバリアフリー自然観察路で、春の雪解けの季節にはミズバショウとザゼンソウが見られると説明されています。
 
 

2013_05010116 湿原には尾瀬にあるような木道が整備されていました。後方の木立の中はまだ雪が積もっています。
 
 
 
 

2013_05010118 水芭蕉(みずばしょう)はサトイモ科ミズバショウ族の多年草です。純白の花のように見えるのは苞葉(ほうば)と呼ばれる葉が変形したものだそうです。ザゼンソウ(座禅草)は時機が遅すぎたのか見ることはできませんでした。
 
 

2013_05010119 ちなみに、松尾芭蕉は芭蕉の木が好きだったことで芭蕉をペンネームにしたと言われます。
 
 
 
 

2013_05010143 県道45号を鶴岡市方面へ1.5kmほど下って、案内標識に従って右折すると石の鳥居が聳(そび)える出羽三山神社の前に出ました。出羽三山神社は月山の月山神社、羽黒山の出羽(いでは)神社、湯殿山(ゆどのさん)の湯殿山神社の総称で、羽黒山に三社の神を併(あわ)せ祀(まつ)る三神合祭殿があるそうです。 

2013_05010144 石の鳥居を潜(くぐ)った随神門(ずいしんもん)の右手前に「奥の細道芭蕉翁来訪の地」の碑が立っていました。その左にある大きな石は「天拝石(てんぱいせき)」で、昔修験者(しゅげんじゃ)が行法(ぎょうほう、修行)を行った場所にあった石と思われると説明されています。 
 

随神門は仁王門として元禄年間に秋田矢島藩主生駒氏が寄進したものとされ、入母屋・銅板葺き・三間一戸で、外壁は朱色に塗られています。明治初頭に発令された神仏分離令により仁王像が随神像と置き換えられて門の名称も変わりました。

2013_05010145 右手に「藤沢周平 その作品と縁の地 羽黒の呪術者たち 羽黒山」の立て看板を見つけました。
 
 
 
 

今回の旅を思い立った理由の一つが藤沢周平氏の作品です。映画化された「武士の一分」(2006年)、「たそがれ清兵衛」(2002年)、「山桜」(2008年)、「花のあと」(2010年)を順に観て来ましたが、今年3月20日にWOWOWで放送された藤沢周平特集番組で、「小川の辺(ほとり)」(2011年)、「蝉(せみ)しぐれ」(2003年)、「隠し剣 鬼の爪」(2004年)を新たに観たことで居ても立っても居られなくなったのです。

2013_05010146 羽黒山の参道が下に向って伸びていました。この杉並木(総数445本)は特別天然記念物に指定されています。
 
 
 
 

2013_05010175 右手に継子坂(ままこざか)と彫られた石碑がひっそりと立っていました。この坂には幼(おさな)い継子にまつわる悲しい言い伝えがあるようです。 
 
 
 

2013_05010148 参道の石段は急峻(きゅうしゅん)な下り勾配(こうばい)になっていて、まるでスキー場のゲレンデやジャンプ台のようです。 
 
 
 

2013_05010149継子坂を下 り切った場所は境内社(けいだいしゃ)が6社も並んでいて神域を感じさせる雰囲気があります。思わず来し方を振り返りました。数えることはしませんでしたが石段は約250段もあったようです。 
 
 

2013_05010150 右に折れた参道はさらに下方へ続くようです。雪解け水で石畳が濡れていますから注意して歩くことに
 
 
 
 

2013_05010151 朱に塗られた神橋(しんきょう)に出ました。日光東照宮の神橋を小振りにしたようなこの橋で祓川(はらいがわ)を渡ります。神橋の向こう側に見えるのは境内社の下居社(しもいしゃ)です。(続く)

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2013年5月15日 (水)

続・奥の細道疑紀行 新庄市の「そば庄司」と「本合海の乗船場跡」

2013_05010063 県道305号から国道13号のバイパス(尾花沢新庄道路)に入って、さらに国道47号(新庄南バイパス)で新庄市の郊外へ向かいました。国道47号を下りた所に「手打ちそば 庄司」がありました。酪農から転職したご主人が牛舎(ぎゅうしゃ)を改装して店舗にした蕎麦(そば)屋さんです。右手の入口付近は増設された部分でしょう。

2013_05010064 入口を入った左手の土間には石臼(いしうす)や餅(もち)つき用の臼(うす)と杵(きね)など子供の頃に見慣れた懐かしい道具類が置かれていました。
 
 
 

2013_05010065 右手には蓑(みの)、ノコギリ、鍬(くわ)、竹細工製品などが並んでいます。私のような古い世代にはたまらない演出で、蕎麦の味にも期待が高まります。
 
 
 

2013_05010066 12時になったばかりの店内は席が手前から半分ほど埋(う)まっていたため、空いている奥の席に座(すわ)りました。私は好きな鴨南蛮(かもなんばん)そば(1050円)やニシンそば(1000円)にしようか迷いましたが、やはりこの店の名物である鴨板の合い盛り(1100円)に、同行者は冷たいとろろそば(800円)を選びました。

2013_05010070 付け出しは旬の自家野菜の漬物と蕎麦寒天です。見た目にも綺麗(きれい)ですが食べて驚きました。蕪(かぶ)は心地(ここち)良い歯ざわりと甘ささえ感じる塩梅(あんばい)が絶品なのです。あっと言う間に私の皿から姿を消してしまいました。 
 

2013_05010074 「冷たいとろろそば」は不思議な外観をしています。同行者は冷たいそばにも出汁(だし)が入っていることに驚いて、「温かい方にすれば良かったわ」と愚痴(ぐち)を言っています。味見をさせてもらうと味のバランスが良い夏向きのメニューでした。 
 

2013_05010075 私に配膳(はいぜん)された鴨板(かもいた)は右側に白っぽく細打ちの今田舎(更科そば)、左側に少し黒っぽい太打ちの昔田舎(田舎そば)が盛られています。山形の板蕎麦はボリュームが多かったことを思い出しました時には手遅れでした。私が好きな田舎そばである昔田舎は太い上に腰があって顎(あご)が疲れるほどでした。 

鴨肉の入ったやや濃(こ)いめの付け汁に助けられて何とか昔田舎も完食した時に同行者から「私がにしん煮(400円)を頼んで、板蕎麦を2人で分ければ良かったのよ。そうすればあなたの好きな鴨と『にしん』の両方を食べられたわ!」と後知恵(あちぢえ)を私にぶつけて来ました。なるほど、お説ごもっとも!

2013_05010080 国道47号に戻って西方へ3kmほど走った所で脇道に入って、芭蕉が乗船したと伝えられる本合海(もとあいかい)の集落に入りましたが、船着場跡の案内表示らしきものは見つかりません。そして、国道に出てしまい後続車に押されるように本合海大橋を渡ってしまいました。右手に公園のようなものが見えましたので立ち寄ることに。

本合海水辺プラザでした。案内看板には芭蕉乗船の地が分かり易く表示してあります。右に折れたT字路を左手に300mほど進んだ先にあったのです。

2013_05010081 最上川の対岸(右岸)に見える小さな祠(ほこら)は矢向神社(矢向大明神)で、山頂には中世の城(楯)である八向楯(やむきだて)があったそうです。これは聞きかじりですが、兄頼朝と対立した源義経は舟で最上川を遡(さかのぼ)り、本合海で上陸した時に「矢向大明神」を拝んだあとに奥州平泉に向かったそうです。 

2013_05010084 先ほどの案内地図に従って戻ると、川縁(かわべり)に芭蕉と曽良の陶像(東山焼き)が建っていました。近くにある案内板に『1689年(元禄2年)に大石田を後にした芭蕉と曽良の一行は新庄の澁谷風流宅に2泊したあとに本合海の船着場に来た』ことが説明されていました。
 

2013_05010087 これは『五月雨を あつめて早し 最上川』の句碑です。逆光のためフラッシュを使って撮影しました。
 
 
 
 

2013_05010088 その先は行き止まりになっていて両側に親柱のような石柱がありますから古い橋があったのかもしれません。右手に見える青い橋は先ほど往復した本合海大橋です。帰宅後に調べると、1934年(昭和9年)に完成した橋の跡で、1978年に本合海大橋に架け替えられたことが分かりました。

2013_05010092 左手(上流方向)の最上川を望みました。五月雨(さみだれ)にはまだ早いのですが最上川は豊かに水を湛(たた)えています。 
 
 
 

2013_05010093 最上川に沿って国道を走って最上郡戸沢村にある戸澤藩船番所跡に立ち寄りました。現在は最上川下りの乗船場になっています。
 
 
 

2013_05010094 裏手に回って最上川縁(べり)に出ると「川の一里塚」には「日本海まで約十里」と表示されていました。
 
 
 
 

2013_05010095 こちらが現代の乗船場。手前に船が2隻(せき)、対岸には3隻待機しています。
   
 
 
 

2013_05010099 国道47号を少し先に進んで最上峡(もがみきょう)に入ると対岸に滝がいくつも見えました。
 
 
 
 

2013_05010100 最上峡沿いの道が続きます。余談ですが、最上の地名は律令(りつりょう)時代にこの地方が最上郡と呼ばれたことによりますが、由来は定かではないようです。陸奥国(むつこく)の最も上(つまり北)にあるからと漢字表記から解釈するのは俗説で、その以前は藻上郡(もかみこうり)と表記されていたそうです。 

2013_05010103糸の滝ドライブインに到着。『白糸の滝』は富士山麓や軽井沢、多摩川上流の小菅村にもあります。ここにも乗船場があり、『車の回送は要りません』と看板に表示してありますから、川下りのあとは乗船した場所まで戻ってくれるようです。 
 

2013_05010104 これがレストランから見た白糸の滝で、落差が約123mもあるそうです。朱色の鳥居が鮮やかです。ちなみに、最上峡には最上四十八滝という滝群(たきぐん)もあるようです。 
 
 

2013_05010105 最上川下りの船が近づいたタイミングにもう一枚撮影しました。(続く)

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2013年5月14日 (火)

続・奥の細道疑紀行 村山市と大石田町へ

2013_05010037 東根(ひがしね)市の山形空港脇を通り抜け、国道13号を北上して村山市に入ります。最上川の西側を北上する国道347号でも良いのですが、やはり芭蕉が「奥の細道」で通った羽州(うしゅう)街道に近いルートを選んだのです。 
 

2013_05010038 田植えの準備が始まろうとする田園風景の先には雲が晴れて全景を表した葉山(標高1462m)が眩(まぶ)しいほど光っています。葉山は山岳信仰の山として江戸時代初期までは羽黒山や月山とともに出羽三山(でわさんざん)の一つに数えられていたそうです。 
 

2013_05010040 道の駅「むらやま」で休憩することにしました。村山市は最上川が中央を北へ流れており、観光案内図によれば最上川三難所と呼ばれる碁点(ごてん)・三ケ瀬(みかのせ)・隼(はやぶさ)舟下りすることが出来るようです。   
 
 

2013_05010041 米沢牛の文字を見つけた同行者は移動販売車へ突進しました。『衣を着たステーキと絶賛されるメンチカツ』のキャッチコピーには私も目が眩(くら)みそうです。
 
 
 

2013_05010044 写真を撮る前に米沢牛のメンチカツを勧められて一口食べてみました。同行者は「売店のおじさんがわざわざ揚(あ)げたてをくれたのよ」、そして「女優さんみたいだね」とも言ってくれたと大はしゃぎ。おじさんは御世辞(おせじ)を大奮発(だいふんぱつ)してくれましたが、熱々のメンチカツはキャッチコピー通りの絶品でした。

2013_05010045 国道を走るだけでは詰(つ)まりませんから、右手に反(そ)れる県道120号(羽州街道)に入ることにしました。
 
 
 
 

2013_05010046 車の姿はほとんどありません。
 
 
 
 
 

2013_05010047 等間隔で穴が空いた黄色い中央分離帯は融雪(ゆうせつ)施設が埋(う)められているのかもしれません。
 
 
 
 

2013_05010048 袖崎小学校前に巨大な古木が並んでいました。
 
 
 
 
 

2013_05010050 国道13号を横切って入った県道189号で最上川河畔(かはん)に出ました。
 
 
 
 

2013_05010051 最上川「さみだれの瀬」の大きな立て看板があります。
 
 
 
 
 

2013_05010052 土手で土筆(つくし)の群生を見つけました。
 
 
 
 
 

2013_05010055 大石田河岸(おおいしだかし)に下りてみると物資輸送用と思われる船が2艘(そう)陸に上げられていました。大石田は鉄道が開通するまで最上川舟運の中継河岸があったことと、酒田船あるいは最上船とも呼ばれる大石田船の艜舟(ひらたぶね、底が平たく喫水の浅い船)が使われたことが説明されています。

ちなみに、船荷は大石田船が紅花(べにばな)、青苧(あおそ、麻の原料)、真綿(まわた)、蝋(ろう)、漆(うるし)、大豆(だいず)、小豆(あずき)などの雑穀(ざっこく)であり、酒田船の積荷は塩、茶、砂糖、海産物、木綿などだったそうです。

2013_05010056 雪の捨て場所なのか河原に残雪がありました。
 
 
 
 
 

2013_05010059 前回の旅でも立ち寄った大石田大橋の周辺に続く白壁の塀蔵(へいぐら)が印象的です。 
 
 
 
 

2013_05010060 今回は芭蕉が宿泊した高野一栄宅を大橋の下流で探しましたが見つかりません。
 
   
 
 

2013_05010057 念のため案内看板も確認しても表示されていないので諦(あきら)めることにしました。帰宅後に確認すると、大橋の袂(たもと)で見掛けた案内標識に従い下流方向へ少し辿(たど)ってみた「芭蕉翁真蹟歌仙碑」の近くに高野一栄宅跡の標柱があったようです。 
 

2013_05010061 大石田駅前で県道305号(大石田・名木沢線)に入りました。最上川の支流である丹生川(にうがわ)を渡る手前にあった雪捨て場です。ここまでは前回の旅と重複するルートですから、いよいよ次回から本編が始まります。(続く)

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2013年5月13日 (月)

続・奥の細道疑紀行 山形自動車道で寒河江市と大江町へ

5年前の2008年9月に思い立って出掛けた東北地方南部のドライブ旅を続けたくなりました。前回は蒲生氏郷と伊達政宗の足跡を探るとともに芭蕉が歩いた「奥の細道」を辿(たど)ってまず那須・白河を巡り、大内宿(会津郡下郷町)・会津若松・米沢を経由、そして山寺(山形市)からは天童・尾花沢・岩出山(大崎市)・仙台と芭蕉とは逆のコースをドライブしました。

今回は尾花沢近くの大石田を再訪して、最上川を下るところから始めることにしました。道路が混雑する連休は避けたいのですが、連休が明けると同居者が毎年支援するボランティア活動(留学生の受け入れ)の準備が本格化しますので、止むを得ず連休の前半を選んだのです。東北で桜が咲き始める時機であり良いタイミングだと思われました。ドライブ紀行を書きながら「立ち寄り先に関連するテーマ」も紹介することにします。

4月28日(日)の早朝に自宅を出発、首都高速中央環状線と同川口線を経由して東北自動車道に入った頃には東の空が白んで来ました。宇都宮を過ぎた上河内SA(自宅から約160km地点)で休憩を兼ねて朝食を摂(と)ることにすると、早朝なのに休日のフードコートは大変な混雑。

2013_05010001 青空が広がる東北自動車道を130km余りを快調に走行して2回目の休憩のため福島松川PAに立ち寄ると桜の花がほぼ満開になっていました。
 
 

福島県の松川と言えば終戦後に松川事件が発生した場所です。1949年(昭和24年)に東北本線で蒸気機関車が脱線・転覆した事件は下山事件や三鷹事件ともに国鉄三大ミステリー事件として知られ、私の好きな作家松本清張氏がノンフィクション「日本の黒い霧」(1960年文芸春秋誌で連載)の題材に取り上げています。

2013_05010006 村田JCTで山形自動車道に入ります。
 
 
 
 
 

2013_05010008 宮城川崎PA付近から見た蔵王の山並みには雲が立ち込めています。
 
 
 
 

2013_05010009 古関PA付近から見える笹谷峠から神室岳(標高1356m)にかけての山々にはまだ雪が残っています。
 
 
 
 

2013_05010010 笹谷峠の下を抜ける笹谷トンネル(長さ3286m)に入ります。
 
 
 
 

2013_05010011 トンネルを抜けて山形市に入ると黒い雲が立ち込めていました。『寒河江(さがえ)→月山雨スリップ注意』の表示が出ています。
 
 
 

2013_05010012 しかしそれもほんのわずかの区間で、高度が下がると青空が戻って来ました。
 
 
 
 

2013_05010014 山形JCTから先は対面通行になりました。中山町はNHK連続テレビ小説『おしん』(1983-1984年)で主人公のおしんが生まれたと設定された集落がありますが、その岩屋地区はかなり山奥に入った場所であり、撮影に使われた建物は鶴岡市の庄内映画村オープンセットへ移設されているようですから通過することにします。

2013_05010017 福島松川PAから125.7km先の寒河江(さがえ)SAが近づきました。このSAにあるETC出口を利用します。寒河江市は前回立ち寄った天童市の西隣にあり、さくらんぼの産地として知られます。
 
 

2013_05010018 ETC出口へ向います。
 
 
 
 
 

2013_05010019 ETC出口を出た場所には桜並木がありました。両側はホテルやフーズセンターなどの施設が並んでいます。
 
 
 
 

2013_05010021 最上川に架かる平塩橋の手前に『牛前の渡し』の説明看板がありました。山形市から鶴岡市へ向う1000年以上の歴史がある六十里越街道の渡船場が50mほど上流にあったそうです。
 
 

2013_05010022 国道458号で隣の大江町へ向いました。目的地は道の駅「おおえ」
 
 
 
 

2013_05010024 ここは『おしん』が筏(いかだ)に乗って最上川を日本海に面した酒田まで下った場所です。
 
 
 
 

2013_05010026 長いドライブのあとに同行者は好物のソフトクリーム『ラ・フランスソフト」を手にしました。さっぱりした甘さが特徴である山形の味覚です。
 
 
 

2013_05010027 最上川の簗場(やなば)は増水していました。
 
 
 
 
 

2013_05010029 最上川越しに葉山(標高1462m)が雲に覆(おお)われています。
 
 
 
 

2013_05010030 ここが『おしん』のロケが行われた藤田地区です。
 
 
 
 
 

2013_05010031 最上川は大きくカーブして、
 
 
 
 
 

2013_05010032 対岸は崖(がけ)がそそり立っています。
 
 
 
 
 

2013_05010034 道の駅へ戻る途中に咲いていた桜の花をアップして撮影しました。(続く)

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2013年5月10日 (金)

百田尚樹著[輝く夜]を読む

百田氏の処女作である長編小説「永遠の0」に次ぐ2作目の作品を読みました。昨年10月以来、当ブログでは同氏の作品を「RING」「永遠の0」「Box!」「影法師」「錨を上げよ」「風の中のマリア」の順で紹介して来ましたが、いずれも長編小説でしたから、貴重なこの短編小説に期待して講談社文庫(2010年11月出版)を手に取りました。2007年11月に太田出版より「聖夜の贈り物」として刊行されたものを改題、文庫本化したものです。クリスマス・イブに纏(まつ)わる5つの話が詰まっていました。例によって、ネタバレに近いことまで書きましたのでご注意下さい。
 
                         ☆
 

第一話「魔法の万年筆」

年末が近づいたある日、7年間務めた運送会社が経営不振になったため、人が好い主人公の慶子が解雇されるシーンで始まる。それは弟が経営する小さな工業デザインの会社が資金繰りに困っているために、それまでに貯めたお金のほとんどである200万円を弟の口座に振り込んだばかりのことだった。

高校を卒業して最初に就職した自動車ディーラー会社の先輩営業マン田代から15年前のクリスマス・イブにネックレスを買ってもらったことを思い出していた恵子は交差点の角で初老のホームレスを見かける。アスファルトには白墨(はくぼく)で「三日間何も食べていません」と書いてあった。お金を出すかどうか躊躇(ちゅうちょ)する恵子はホームレスと目が合った。悲しみに満ちたその目を見た恵子は近くのハンバーガーショップでハンバーガーと熱いミルクをテイクアウトして、500円玉と一緒にホームレスの前に置く。

立ち去ろうとした恵子にホームレスは「実は俺、サンタクロースなんだ。お礼させてもらうよ。これ、魔法の万年筆」と使い古しの短い鉛筆を手渡した。「この魔法の万年筆で願い事を書くと、願いが叶(かな)うんだよ。三つだけ」と言うと、くるりと背中を向けて去って行った。急に寂(さび)しくしくなった恵子は駅前まで戻ってイタリアンレストランに入り、メニューの中から一番高い2500円のコースを注文する。料理を待つ間、硬貨入れの中に鉛筆が入っていることに恵子は気付く。(注釈;さみしいは俗語)

同僚の由美に強く言われて譲(ゆず)ってしまった恋人田代のことや、同じアパートに住む年下で売れない俳優の藤沢健作とのことをワインを飲みながら思い出した恵子は、鉛筆で何かを書いてみようと思う。「美味しいケーキを食べたい」と書いた直後に、「これをどうぞ。当店からのクリスマスサービスです」とウェイターがショートケーキの皿を恵子の前に置いた。本当に魔法の鉛筆なのかもしれないと思った恵子は残された2つの願いを考えた。いずれも叶(かな)えられることになるが、はたして・・。
 
                        ☆
 

第二話「猫」

クリスマス・イブに事務所で残業する派遣社員の雅子(まさこ)がいる。自ら志願したことだが、企画書を決められた書式に合わせてまとめる仕事をしているのだ。業界で注目されるベンチャー企業の社長である石丸幸太もその作業に付き合っている。4か月の契約期間の最終日に憧(あこが)れの男性と二人きりで仕事をしている状況が雅子はとても素敵に思えた。仕事が終わって雑談するなかで雅子はそれまでの職歴と1年前から猫を飼っていることを石丸に話す。恋人に振られた雨の夜に拾った片目のドラ猫だ。雅子に問われて石丸は「部下の女性とは絶対に恋愛関係にならないと決めている」という。

石丸から食事に誘われた雅子は猫にエサをあげる必要があると断るが1時間だけと言われて誘いを受ける。会社近くにある古い洋食屋で一番人気の定食を食べている時に石丸が「自分の会社の正社員になる気はないか」と聞く。雅子の仕事振りが気に入ったからだとも言う。賃貸マンションの自宅までタクシーで送られた雅子は「水を一杯飲ませてくれませんか」と石丸に言われて緊張する。そしてドアを開けると猫の「みーちゃん」が急に飛び出してきて石丸の足に体をこすりつけた。

「ミーシャは大学生の時に拾った猫だったが1年半前に急に行方不明になった」と言う石丸に、「水が欲しいなんて嘘(うそ)だったんですね。私、すごく緊張しました」と言いながら、雅子は勘違いした自分が恥(は)ずかしかった。石丸は急に頭を下げながら、「来年正社員になってほしいと言いたことはなかったことにしてもらえますか」と言う。その言葉を聞いた雅子は体から力が抜けた。そして石丸が険(けわ)しい顔をして「青木さんが正社員になったら・・・」と言葉を続けた時に、「みーちゃん」がにゃーと鳴いた。
 
                          ☆
 

第三話「ケーキ」

とある病院のナースステーションでの簡単なクリスマス会に医師の大原は看護師から誘われた。他愛(たあい)のないおしゃべりのなかである患者の容態(ようだい)が話題に上った。全身に癌(がん)が転移した20歳の若い杉野真理子のことだ。そして主人公真理子の孤児として施設で育った不幸な生い立ちが真理子の回想の形で語られる。中学を出て働きながら美容学校に通ったこと、美容院に就職した年に出場したコンテストで準優勝したこと、そして1年後には病院のベッドにいて入院費を美容院の店長が出してくれていること、若くてハンサムな医師の大原に心がときめいていることなども。

ある時、看護師の一人が大原は美人の女医と付き合っているらしいと噂するのを聞いた真里子はベッドの中でシーツをかぶって泣いた。そして死ぬ前に一口でいいからケーキが食べたいと思い、サンタへ死にたくないとお願いすると奇跡が起こった。癌細胞が毎日縮小して年が明けるとベッドから起きて動けるようにまでなったのだ。1月の終わりに癌細胞がすべて消えた真里子はほどなく退院する。そして後遺症なのか右手の親指が動かなくなった真里子を店長が友人のパティシエが経営するケーキ屋に紹介する。

ケーキ職人になった真里子は先輩男性から申し込まれて交際を始めた2ヶ月後に有名なミュージカルを観にいった帰りに求婚されて結婚、1年後には独立して郊外の駅前にケーキ店を開店して順調な人生が始まった。瞬く間に時間が経過し、長男が美容師になり、孫も2人生まれた。古希(70歳)を迎えた真里子は退院後に大原先生と3度目の再会をした時にずっと自分のことが好きでいてくれたことを知る。再度入院した真里子は50年間待っていてくれた癌が自分に素敵な人生を送らせてくれたことを思う。

暗転した後にナースステーションで開かれたクリスマス会のシーンに戻る。まったく同じことが繰(く)り返されるが、ただ一つだけ違っていたことは・・・。
 
                         ☆
 

第四話「タクシー」

クリスマス・イブに女友達と飲んだ30歳直前の香川依子(よりこ)は乗ったタクシーの運転手に愚痴(ぐち)話をするシーンで始まる。4年前に別の女友達と出掛けた沖縄で知り合った2人の男性との出来事を依子は一方的に話し出した。運転手は酔っ払い女を相手にしたくないのか、相槌(あいづち)さえ打たないで黙(だま)っている。依子は無口で大人しい島尾に惹(ひ)かれたこと、女友達が言い出したことで鞄(かばん)職人である自分達がスチュワーデスだと嘘(うそ)をついたこと、相手はテレビ局のディレクターと配送係だったことなど、依子の独白(どくはく)は延々と続く。

携帯電話の番号を教えたことで東京に戻ってからも依子は島尾からしばしばデートに誘われる。場所は一流ホテルの喫茶店や一流レストランばかりである。島尾への想いが募(つの)るほど依子は嘘をついたことに罪悪感を持つ。3度目のデートで島尾はクリスマス・イブに会いたいという。意を決した依子は嘘をついたことを詫(わび)びた上で、それでも好きでいてくれたなら、イブの正午に、初めてデートしたホテルに会いに来てほしいと書いた手紙を投函(とうかん)した。2日後に島尾から携帯電話にメッセージが残されていた。「個人的な事情でイブの日には合えなくなった」と言う内容であった。

携帯電話の履歴と島尾の電話番号をすべて消した依子は携帯電話を買い直して電話番号も変えた。「自分の人生で島尾はすべて消えたはずだったが、心の中までは消去出来なかった」と依子が言った時、運転手が初めて口を開いた。「その人がテレビ局員というのは、嘘かもしれないですね」と話す声を聞いた瞬間、依子は頭の中に懐かしい声が甦(よみがえ)った。忘れられない声だ。運転手の声はさらに続いて・・・。
 
                         ☆
 

第五話「サンタクロース」

4人の子供たちに恵まれた和子がクリスマスケーキを切り分けている。ケーキのあとはドミノをして遊ぶ家族だが、2度目の停学になったことを和子に叱(しか)られた年の離れた長男は自室に籠(こも)ったままだ。それでも心から幸せを味わう和子。寝室で夫と2人きりになった時に和子は、隣の部屋で遊ぶ子供たちの声を聞きながら、一年前に連鎖倒産しそうになった夫の印刷会社のことなどを語り合う。「クリスマスって不思議だな。キリスト教徒でもない人たちにも特別な日になっている」と呟(つぶや)いた夫に向って一家でただ一人だけクリスチャンである和子は18年前のことを話し始めた。

母を7歳の時に癌(がん)で亡くし、20歳の時に再婚しなかった父を脳梗塞(のうこうそく)で失った和子は6年間付き合って翌春に結婚する予定だった中学の同級生の亮介(りょうすけ)を突然交通事故で失ってしまう。2ヵ月後に妊娠していることを知った生きる気力が失(う)せた和子は見知らぬ町の雪が降り始めた暗い道を死に場所を求めて歩いていた。そして偶然行き当たった教会に誘われるように入る。サンタクロースの恰好(かっこう)をした牧師が優しく声を掛けて礼拝堂へ案内して暖かい紅茶を勧める。問わず語りに身の上を話す和子は、手の甲に星形の痣(あざ)がある牧師からも身の上話を聞いて、愛する赤ちゃんと生きることを決める。

和子はもう一度その教会を訪ねようとしたが見つけられなかったと夫に告げた。そして12年前に海岸で迷子になった息子と砂山を作って遊んでくれていた夫との出会いについても話し出した。「俺の自慢の息子だ」と長男のことを言う夫に感謝の言葉を言おうとした時に、隣の部屋で大声がした。年下の娘がつまづいて石油ストーブを倒す直前に長男が助けたのだ。手の甲を怪我(けが)した長男の手当てをする和子が見た火傷(やけど)の傷(きず)は・・・。
 
                         ☆
 

[読後感] 40ページ前後の5つの短編小説はオムニバスになっていました。つつましく生きる若い女性5人が幸せを掴(つか)むプロセスと奇蹟(きせき)を丁寧(ていねい)に描いており、百田尚樹さんらしくそれぞれの短編には異なる感動が有りました。しかも、星新一さんが得意としたショートショートのように最後に印象的な落ちがあることで余韻(よいん)が残る効果を演出したのは見事だと思います。

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2013年5月 6日 (月)

横須賀へのドライブ旅 横須賀温泉「湯楽の里」

2013_04150202 三笠桟橋近くの駐車場を出発して「うみまぜ公園」と「海辺つり公園」の脇を抜け、椰子(やし)の並木が続く国道16号で馬堀海岸を目指して走りました。
 
 
 

2013_04150203 横浜横須賀道路の馬掘海岸ICを過ぎた最初の馬掘海岸四丁目東交差点を右折して広い駐車場に入りました。横断歩道と簡素な門の先に「湯楽(ゆら)の里」の入口と三浦野菜を販売する湯楽市場(左手の建物)があります。ちなみに、名前が似ている川崎市の溝口温泉「喜楽里(きらり)」とは姉妹店です。

2013_04150205 入口の脇にある「馬掘の由来」を紹介する看板に洗足池公園で銅像を見た名馬「名月」が主役として登場することは意外でした。
 
 
 

2013_04150214 平日の利用料金は大人1000円。内部の雰囲気は「喜楽里」と似ており、2階に女湯と男湯が並んでいました。
 
 
 
 

2013_04150213 男湯の入口脇にベンチがあります。これは待ち合わせ用でしょう。
 
 
 
 

2013_04150215 この温泉の売りは何と言っても展望風呂です。泉質はナトリウム-塩化物強塩泉(高張性・中性・高温泉)、泉温44.9度、湧出量150L/分。
 
   
 

2013_04150206 脱衣場は落ち着いた印象があり、内湯は白湯の浴槽が2つと水風呂、そして塩サウナと高温サウナがコンパクトに配置されています。
 
 
 

2013_04150208 実際の展望風呂は葦簀(よしず)の目隠しが海を遮(さえぎ)っていますが、それなりに良い景色を楽しめます。湯の色は茶褐色で、塩っぱい味がしました。 
 
 
 

2013_04150216 1階にある仮眠ができる「お休み処」には目隠しつきのマットレスが左右に並んでいました。
 
 
 
 

2013_04150224 海を眺(なが)めることができる「お休み処」から、
 
 
 
 
 

2013_04150217 国道16号越しに東京湾が見えました。防波堤に20番と表示されているのは横須賀市港湾部が企画した「うみかぜ画廊」の20番目(最後)の作品「海と変遷」(防衛大学校美術部)です。 
 
 

2013_04150221 少しズームアップすると第一海堡(かいほ)が大きく見えました。水深約5mの場所を埋め立てて1890年(明治23年)に竣工した要塞(ようさい)です。
 
 
 

2013_04150222 少し左手には1914年(大正3年)に竣工した第二海堡が確認できますが、護岸改良工事が行われているようです。現在はいずれの海堡も上陸することが出来なくなったことは残念です。   
 
 

第二海堡のさらに左にあった第三海堡(水深39mの場所に建設)は完成した2年後の大正12年に発生した関東大震災で崩壊(ほうかい)して暗礁(あんしょう)化していましたが、2007年(平成19年)に撤去されたために見ることは出来ません。しかし1200トンもあるコンクリート製の大型兵舎は引き上げられて先ほど通過した「うみかぜ公園」の一角に常設展示されているそうです。

2013_04150223先ほどまでいた猿島は間近です。
 
 
 
 
 

2013_04150220同じ1階には岩盤浴の「温熱房」もありました。 
 
 
 
 
 

2013_04150225_2 午後5時を過ぎましたのでお休み処からお食事処へ移動しました。私は久しぶりに広東麺(730円)を選びました。具沢山でとろみのあるスープに絡んだ麺は期待通りの美味しさです。 
 
 

2013_04150226 同行者は手作り寄せ豆腐御前(1180円)を注文。多彩な品目が控え目のボリュームで組み合わされた女性好みのメニューです。よほどお腹が空いていたのか私が写真を撮る前に半分近くが消えてしまい、もはや原形をとどめていません。 
 

2013_04150229 そこで、食べる前の姿を紹介するためにレストランの入口にある食品サンプルの写真を撮りました。
 
 
 
 

2013_04150232 食事を終えた同行者はお土産コーナーで横須賀黒船来航「カレーせんべい」を手に取っています。
 
 
 
 

2013_04150233 「湯楽の里」の駐車場を出て馬掘海岸インター交差点から横浜横須賀道路に入った頃には日が傾いていました。事故が発生し易い時間帯であり、しかも佐原ICまでは対面通行ですから、十分注意しながら走ることに。
 
 

2013_04150235 佐原本線料金所(佐原IC)を通過して片側2車線になった横浜横須賀道路を横浜方面へ快調に走りました。
   
 
 
 

<同行者のコメント> 同じ日に船に3回も乗るなんて珍しいことです。旦那さまが旅行プランを細かく計画していたようで順調な横須賀めぐりになりました。最後に温泉で温まったあと、ゆっくり休憩できたことも良かったです。見覚えのある景色だと思えば2年前に観音崎へドライブした時に通った場所でした。

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2013年5月 5日 (日)

横須賀へのドライブ旅 猿島探索(後編)

2013_04150159砲台跡まで戻ってさらに先に進むと四差路(しさろ、変則な十字路)に出ました。展望台を経て広場まで進んで来ましたから、次は直進して日蓮洞(にちれんどう)へ向うことにします。 
 
 

2013_04150160 遊歩道の右前方に砲台跡らしきものが見えてきました。
 
 
 
 
 

2013_04150161 先ほどと同じ円形の台座ですが、円形に並ぶ中心部のボルトは残っていません。
 
 
 
 

2013_04150162 遊歩道が行き当たった場所にもうひとつ砲台跡がありました。中編で述べた主旨と同じですが、『東京湾口の守りを固めるためにフランスから輸入されたカノン砲は実戦で使われることがなかったが、昭和16年頃より鉄筋コンクリート製の円形砲座が5座造られ、その上に高射砲が配備されて終戦まで使用された』と説明されています。

2013_04150163 砲台跡の右奥にある鉄製階段が急峻(きゅうしゅん)な地形に合わせて複雑に曲がりながら下へと続いています。途中にステンレス製のベンチが置かれているのは親切な配慮ですが私は・・・。階段のステップを良く見ると赤色と黄色のペンキでXマークと△マークが描かれているのは補修のための目印のようです。 

2013_04150168 岩場「ヨネノ根」に出ました。長く伸びる岩場の突端に釣り客が一人で釣りを楽しんでいます。そして海上には青色の灯浮標が見えます。
 
 
 

2013_04150167 左手方向に岩場を渡ると立ち入り禁止の看板が下がる大きな洞窟(どうくつ)がありました。「日蓮洞」あるいは「日蓮洞窟」と呼ばれるこの洞窟では縄文(じょうもん)時代の土器が発見されたそうです。 
 
 

2013_04150169 こんな波打ち際の洞窟が住居になるとは驚きですが、木の実や小動物を採取していた縄文人は貝や魚も食べていたそうですから、魚介類(ぎょかいるい)が好きな縄文人が住んでいたのでしょう。ちなみに日蓮洞の名前は日蓮上人が上総(かずさ、現在の千葉県中部)から船で鎌倉へ渡る時に避難した場所であるとの伝説に由来します。 

2013_04150170 階段を上がって遊歩道に戻りました。先が急な崖(がけ)になっていることと生態系を傷つけるとの理由で、この切通しは立ち入り禁止です。
 
 
 

2013_04150172 四差路に戻ってトンネル方面へ進みました。短いトンネルに見えますが弾薬庫跡だと思われます。左側の出入り口は板が打ち付けられています。 
 
 
 

2013_04150175 トンネルを抜けて振り返ると幅が半減し、向って左側の小さな入口にはオレンジ色の板が打ち付けられています。先ほどの入口とこの入口がどこへ繋(つな)がっているのか気になります。そして写真には写っていませんが、左手で上へと伸びる階段が通行止めになっていました。トンネルの上に出るようですが・・。正に立体迷路のようです。

2013_04150176その反対側(右手)を見ると少し先にトンネルがあります。先ほど通過した遊歩道の展望台と砲台の間に出られるようです。 
 
 
 

2013_04150178 トンネルの右手前にあるのは倉庫のようです。その横にある看板には『第一砲台の関連施設と考えられる。台地の上には27センチ加農砲(カノン砲)が2門設置され、砲台下には弾薬庫と弾薬を上げる井戸(縦穴)が陸軍によって建設された。その後、海軍が高角砲を設置して、その通路トンネルとして利用された』と書かれています。

2013_04150181 もとの場所に戻って、レンガ造りの長いトンネルに入りました。右手に見えるのは明治時代に造られた2階建て砲台施設でした。
 
 
 

2013_04150185 『このアーチ状の開口部は2階と西側斜面へ上がるための出入り口で、山頂付近にあった司令部と照明所への重要な通路である』と説明されています。照明所と言えば、管理棟の近くで見た発電所はこの照明所の電力を供給する施設だったようです。
 

2013_04150187 『このトンネルに採用されたフランス積み(正式にはフランドル積み)はイギリス積みが一般的であった日本では4件しか確認されていない貴重な建築物である』と説明されています。その看板に見入る私の横では同行者が「愛のトンネル」(通称)を通り抜けたことで無邪気(むじゃき)に喜んでいました。 

2013_04150188トンネルを抜けた遊歩道は大きく左に折れます。右側の壁は柔らかい砂岩がむき出しになっていますが、左側の壁は石垣で補強されていました。
 
 
 

2013_04150190 切通し(露天掘り幹道)の両側には弾薬庫と兵舎が交互に並んだ旧要塞施設がありました。
 
   
 
 

2013_04150189 これは兵舎跡で、
 
 
 
 
 

2013_04150194 こちらが弾薬庫跡です。この弾薬庫には真上の第2砲台へ砲弾を運ぶ井戸のような竪穴(たてあな)があるそうです。そう言えば先ほど見た短いトンネルの前面と同じデザインでした。 
 
 

2013_04150196 緩(ゆる)やかに左へカーブすると遊歩道はこの先で右カーブして管理事務所脇に戻ります。
 
 
 
 

約1時間の猿島探索を大満足で終えると、ほどなく次の連絡船が猿島桟橋に近づいて来ました。我々が乗船した時には4-5名であった乗客が10名余りに増えたようです。(続く)

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2013年5月 4日 (土)

横須賀へのドライブ旅 猿島探索(中編)

2013_04150135 広場から北へ長い階段が続いています。
 
 
 
 
 

2013_04150136 細長い広場に出ましたが何もなさそうです。
 
 
 
 
 

2013_04150137 大蛸(おおだこ)の足のような木の根が大地をしっかり掴(つか)んでいますので、思わずシャッターを切りました。強烈な生命力を感じさせます。
 
 
 

2013_04150139 左手に脇道がありますが、そのまま直進するとまた階段がありました。階段上の左側にコンクリートで造られた何かが見えます。案内地図にあった砲台跡だろうと期待しながら階段を上がりました。
 
 

2013_04150140 右手の草むらにもコンクリート製の四角いものがあります。何かの台のようです。
 
 
 
 

2013_04150141 左手にはかなりの範囲がコンクリートで覆(おお)われていて全貌が見えませんが、大砲ではなく高射砲などが置かれていた場所かもしれません。 
 
 
 

2013_04150142 大きな広場に出ると奥に古びた建物がありました。 対空監視哨(しょう)として使われていた建物が展望台になったそうです。 ちなみに哨は見張りをすることを意味する漢字です。 
 
 

2013_04150144 近づくと階段が太いチェーンでぐるぐる巻きにされていますから使用禁止のようです。裏手に回ってみると同様に階段はロープが張られていて「立入禁止」の看板も掛けられていました。周囲の立ち木が高いので例え上がったとしても展望は良くないでしょう。
 

2013_04150145 螺旋(らせん)階段ならぬS字階段が下へと続いています。下りてみるとジグザグに折れ曲がった九十九(つづら)折れ階段でした。 
 
 
 

2013_04150146 かなりの長さがある下り階段が続いたあとに開けた場所に出ました。   
 
 
 
 

2013_04150147 遊歩道の左脇に円形の台座のようなものがありますから、これは砲台跡に間違いありません。 事前の調査では24センチ・カノン砲(加農砲)が置かれていたそうです。カノン砲とは砲身(ほうしん)が長くて長射程であるものの重量とサイズが大きい特徴がある車輪の付いた大砲です。 

2013_04150148 近づいてみると中心部に腐食(ふしょく)したボルトのようなものが円形に並んでいます。高校生の時に観たアメリカ映画「ナバロンの要塞」(1961年公開)に登場したエーゲ海ナバロン島の巨大な大砲(射程60kmの28センチ・カノン砲を搭載した列車砲と思われる)に似たものを想像していた私にはそのコンパクトさが意外です。 

2013_04150149 すぐ先の右脇にも同様の砲台跡があります。ボルトのことが気になって調べ直すと、明治時代に陸軍が設置したカノン砲用砲台が関東大震災で破損し、移管された海軍が防空陣地として8センチ高角砲(高射砲の海軍呼称))を設置(大戦中に大型化)したことが分かりました。円形に並ぶボルトは高角砲の固定用だったのです。 

2013_04150150 遊歩道が左右に分かれているため、まず右手へ進むことにすると、またまた下り階段がありました。
 
 
 
 

2013_04150151 最初に立ち寄った場所と同じ様な広場がありました。先ほどの場所に戻ったのかと錯覚(さっかく)するほど景色が似ています。『この辺りは幕末に築かれた卯の崎台場(うのさきだいば)があり、3門の大砲が据えられていた。猿島には他にも台場が2箇所あった』ことが案内看板に説明されています。 

2013_04150152 先ほど連絡船から見た黄色い釣り船がゆっくり旋回(せんかい)する横に青い帆を持つ白い釣り船がいますから、釣りに適したポイントでしょう。右手には日産自動車の自動車輸送船が浦賀水道の方面に出航して行くのが見えます。煙突の色が青いことから午前中の「軍港めぐり」で見た2隻のうちで左側に停泊していた輸送船のようです。ちなみに写真の中央上にぼんやり見えるのは富津岬にある「明治百年記念展望搭」で、その左手前には第一・第二海堡(かいほ)があるはずです。

2013_04150154 急な鉄製階段を下りると岩場に出られるようです。
 
 
 
 
 

2013_04150155 これが右手の岩場「オイモノ鼻」です。釣り人が釣り場を求めて歩いていました。
 
 
 
 

2013_04150156 左手にコンクリートで出来た四角いものがありますが関連するような説明は何もありません。これも高射砲の台座でしょうか。 
 
 
 

2013_04150157 先ほどの釣り船は横向きになったタイミングにもう一度撮影すると船名がはっきり確認できます。
 
 
 
 

2013_04150158 右に方向を転じてズームアップすると防衛大学校がはっきり見え、手前の海上に岩礁(がんしょう)があることが分かりました。(続く)

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2013年5月 3日 (金)

横須賀へのドライブ旅 猿島探索(前編)

2013_04150104 アメリカ軍基地のゲート前を通過して三笠公園に到着しました。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれた公園はちょうど30年前の5月中旬に小さかった子供たちと記念艦「三笠」を見に立ち寄ったことがある場所です。帝国海軍連合艦隊司令長官であった東郷平八郎大将の銅像が戦艦三笠を背にして立っています。

2013_04150106 戦艦三笠はイギリスの造船所でに建造され、1902年(明治35年)5月に横須賀へ到着しました。1905年(明治38年)には日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦して大勝しましたが、ワシントン軍縮条約によって三笠の廃艦が決定したため、1925年(大正14年)に記念艦として横須賀のこの地に保存されました。

2013_04150109 次の目的地である猿島(さるしま)へ向かうことにして公園脇の三笠桟橋から「猿島航路」の連絡船(12時30分発)に乗りました。1時間に1往復する連絡船の大人料金は1200円。乗船したSea Friend 1号は総トン数19トン、旅客定員85名の小型の双胴船(そうどうせん)です。
 

2013_04150112 操舵室(そうだしつ)はアナログ感に溢(あふ)れています。ちなみに「軍港めぐり」の船と同じSea Friendの船名から分かるように同じ会社が運航しています。 
 
 
 

2013_04150113 同行者はデッキの再前部(船首側)に座って前方を凝視(ぎょうし)しています。要塞跡(ようさいあと)だと説明したことで緊張しているのでしょうか。防波堤の先に見えるのが無人島の猿島です。
 
 

2013_04150114 横須賀新港の防波堤を抜けると猿島が目の前に迫って来ました。赤色の灯浮標(灯火ブイ)は右舷(うげん)標識で、航路又は可航水域の右側(水源に向かって右側)の端を示します。ちなみに水源は湾の奥(あるいは河川の上流)を意味します。円錐形の頭標が付いています。
 

2013_04150115 黄色い釣り船の船尾には帆が付いています。風を利用して舟を停止させるために使うものだと思います。船体の表示は「第八こうゆう丸」と読めますから市内新安浦港の船でしょう。
 
 

2013_04150116 緑色の灯浮標(灯火ブイ)は左舷(さげん)標識で、航路又は可航水域の左側の端を示すものです。円筒形の頭標が特徴で、太陽電池で得られた電気エネルギーを使って緑色のLED光源を点灯する仕組みになっているようです。 
 

2013_04150117 猿島の様子がはっきり見て取れるようになりました。
 
 
 
 
 

2013_04150118 砂浜に接近
 
 
 
 
 

2013_04150119 猿島桟橋(さんばし)の岸壁が目の前に迫りました。
 
 
 
 
 

2013_04150121 直線距離が1.7kmで約10分と短い航海を終えて上陸、長い桟橋を歩きました。 
 
 
 
 

2013_04150123 綺麗(きれい)な海に長い昆布が揺(ゆ)らめいています。 
 
 
 
 

2013_04150126 猿島のタイル舗装(ほそう)された遊歩道に入ります。海軍港の標識には「右江180、左江905」と表示されていて道標のようですがその意味が分かりません。
 
 
 

2013_04150128 猿島公園の概要を紹介する地図には「猿島が縄文と弥生の遺跡から江戸・明治・昭和の要塞(ようさい)島として歴史的建造物が残る、自然と歴史が折り重なった不思議に満ちた宝島である』と説明されています。戦後はアメリカ軍に接収されたいましたが1961年に返還され、遊歩道が整備された1995年から一般に開放されています。 

2013_04150197島内を探索する前に広いボードデッキがあるビジターセンター(管理棟)を覗(のぞ)いてみるとパネル展示があるだけでやや拍子抜け。
 
 
 

2013_041501982階のウッドテラスから「砂鉄の浜」越しに横須賀の市街地が望めます。 
 
 
 
 

2013_04150131気を取り直して近くにある古い建物に近づくと明治28年に完成した発電所でした。石炭を燃料とする蒸気機関を使った発電所だったようです。   
 
 
 

2013_04150132 坂道を少し上がると三叉路に差し掛かって迷いましたが、右手の階段を登って広場に出て見ることに。
 
 
 
 

2013_04150133 広場には屋根があったと思われる東屋跡に円卓と半円形のベンチが2つ残っています。
 
 
 
 

2013_04150134 馬堀海岸から走水方面が望めます。丘の上にある建物は防衛大学校のようです。左端に小さく写る白い棟は東京湾海上交通センターで、観音埼灯台はその後方にあります。(続く)

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2013年5月 2日 (木)

横須賀へのドライブ旅 YOKOSUKA軍港めぐり

2013_04150004 午前10時半を過ぎましたのでヴェルニー公園からダイエーショッパーズプラザ横須賀1階にある「YOKOSUKA軍港めぐり汐入ターミナル」の乗船券売り場へ向いました。運賃は大人が1200円です。
 
 

2013_04150061 陸上からは見ることが難しい横須賀港の様子(アメリカ海軍横須賀海軍施設と海上自衛隊施設)を海上から間近に見ることが出来る貴重な手段です。航路案内図(右の写真)に示されるように米軍の倉庫施設がある吾妻島(あづましま)を周回する約40分のクルーズ。
 

2013_04150062 浮き桟橋(さんばし)を経由して乗船するようです。このタイプの桟橋は潮の干満にかかわらず船との位置関係が保たれるため、乗船し易(やす)い利点があります。 
 
 
 

2013_04150099 Sea Friends V号の旅客定員は1階(客室)が110名、2階(甲板)が40名と表示されています。乗船の案内に促(うな)がされた我われは、待ち行列のほぼ先頭にいた利点を活(い)かして、甲板席(かんぱんせき)に陣取(じんど)りました。 
 

2013_04150066 午前11時に出航すると左手にオレンジ色に塗られた大型船が見えました。貨物船のようですが大きなクレーンがついています。ガイドさんは最近帰国した南極観測船「しらせ」で、氷との格闘で出来た傷跡が多数残っていると説明してくれました。
 

2013_04150071 その前方にある灰色の船舶は海上自衛隊の護衛艦(ごえいかん)「てるづき」です。あとで調べると、排水量約5000トン、全長151m、船首にある主砲はアメリカ海軍のMk45 5インチ(127mm)砲、建造費約690億円と桁外れの護衛艦で、今年3月14日に就役(しゅうえき)し、1ヵ月前の3月15日に横須賀へ配属されたばかりでした。

2013_04150069 右手の米軍施設(旧横須賀造船所)に潜水艦が見えました。黒い船体に「505」と艦番号が白く表示されています。ガイドさんの説明によればこの表示がある潜水艦は珍しいのだそうです。それは潜水艦の場合、就役訓練が終る(本格任務に就航する)と消されるからです。事実、翌週の23日に艦番号が消去されたことを知りました。

2013_04150070 正面から見る潜水艦には圧倒的な威圧感があり、私はショーン・コネリーが主演したアメリカ映画「レッド・オクトーバーを追え!」(1990年公開)を思い出しました。良く見るとこの潜水艦は日章旗を掲げていますから、アメリカ海軍と場所を共有している海上自衛隊の潜水艦でしょう。あとで確認すると自衛艦「ずいりゅう」  でした。 

2013_04150071_2 最新鋭のイージス艦「アンティータム」(排水量9600トン)が停泊していました。イージス艦とは航空機や対艦ミサイルに対応するイージスシステムを搭載した軍艦の総称で、太平洋戦争末期にアメリカ海軍の軍艦が零戦(ぜろせん)と桜花(おうか)など旧帝国海軍の特攻機に攻撃されたことが開発の契機になったと伝えられます。 

2013_04150073 原子力空母「ジョージ・ワシントン」(1992年就航)は、総排水量約10万トン、全長333m(6階建)、搭載機70機(最大85機)、乗員は約5000名(最大6500名)で、2008年に初めて日本に配備された第7艦隊の原子力空母です。 
 

2013_04150075 海上に浮かぶ四角い構造物が10数個並んでいました。鉄製の軍艦に帯びた磁気の強さを測定して消去する設備の「消磁所」だとガイドさんが説明してくれました。つまり磁気機雷や磁気探知機への対策です。
 
 

2013_04150078 沖合には大正9年に初点灯したた角型の赤灯台(正式名称:横須賀港東北防波堤東灯台)が見えます。外洋から見て右手にあるこの赤灯台と左手にある蝋燭(ろうそく)型をした白灯台(正式名称:横須賀港東防波堤北灯台)との間を通れば安全に入港することが出来るのです。 
 

2013_04150079住友重機械工業横須賀製作所の巨大なクレーン群が見えてきました。1971年(昭和46年)に同社の追浜(おっぱま)造船所として設立されましたが、造船事業の縮小にともなって現在は半導体やFPD(表示装置)用製造装置などメカトロニクス製品の研究開発および製造を行う事業所へと変貌(へんぼう)したとのこと。 

2013_04150080窓がない2隻(せき)の巨大船は日産自動車の自動車運搬船です。同社は最新の山王丸など7隻を国内輸送に、そして海外向けには傭船(ようせん)を含めて22隻の輸送船を利用しているようです。 
 
 

2013_04150081 日産自動車の追浜物流倉庫(右)と建物のデザインがユニークな横須賀市の施設「リサイクルプラザ・アイクル」(左)が並んでいます。追浜物流倉庫の後方には日産自動車の巨大な追浜工場があるはずです。 
 
 

2013_04150084 長浦湾に入ると海上自衛隊自衛艦隊司令部の建物とアンテナ用タワーが見えました。自衛艦隊は海外派遣やシーレーン防衛を行う機動部隊で、旧帝国海軍の連合艦隊に相当します。 
 
   

2013_04150085 今年3月に退役した海上自衛隊の潜水艦「わかしお」(1994年就役、排水量2450トン)を間近から見られました。小さく見えますが、ジャンボジェットの本体(胴体)とほぼ同じ大きさがあり、その高さ18mの半分強の10mだけが海上に出ているそうです。 
 

2013_04150086 海上保安庁の巡視船「たかとり」(排水量600トン)は強力な消防能力を持っているそうです。船首近くに描かれた青いマークはSafety/Speedy/Seaの頭文字である“S”を図案化したものだとガイドさんが説明。海上保安庁のhpではSafety/Search and Rescue/Survey/Speed/Smart/Serviceと多彩な意味があることを解説しています。

2013_04150087 横須賀港と長浦港の間を小型船が最短距離で往き来できるように1889年(明治22年)に造られた新井掘割水路を通過します。幅が27mしかないこの水路が開削(かいさく)される前には吾妻島は陸地と繋(つな)がる箱崎半島だったそうです。
 

2013_04150089 自衛隊の艦船が並んでいました。ガイドさんによれば艦番号は艦船の用途も示しており、2桁は特務艇、3桁は護衛艦・潜水艦・掃海艇など、4桁は輸送船や練習艦など支援用艦船を意味するそうです。ちなみに4桁の番号「6102」を持つ試験艦「あすか」(1995年就役)は防御性能を試験する専用艦で、隣りの無番号は退役した艦船。

2013_04150091 3桁の艦番号「152」の護衛艦「やまぎり」(1989年就役)は、2004年に練習艦へ転籍して艦番号が「3515」に変更されましたが、2011年に護衛艦に再転籍したことで元の艦番号に戻った経歴があります。
 
 

2013_04150096 クルージングが終わりに近づくとヴェルニー公園の右端にヴェルニー記念館が見えました。フランス・ブルターニュ地方の住宅らしい急傾斜の屋根と石の壁がある建物です。横須賀製鉄所の資料や記念品が展示されているそうですから、次の機会には立ち寄ってみたいと思います。 

興味深いクルージングとガイドさんの巧(たく)みな説明に満足した同行者は、乗船券売り場に戻って土産の品定めを始めるとキーホルダーが目に留まったようで、「潜水艦とイージス艦のどちらが良い?」と聞きます。3年前に観音埼灯台から見た浦賀水道を浮上航行する潜水艦を思い出していた私は反射的に、「潜水艦!」と答えてしまいました。同行者の怪訝(けげん)な顔を見た私は、「イージス艦は他の軍艦と区別し難いから・・」と意味不明な理由付けをしていました。選択の判断を問われると咄嗟(とっさ)に判断理由をこじつけるのは職業病のなせる業(わざ)かもしれません。それはさて置き、「軍港めぐり」をしたことで嬉(うれ)しいことに駐車料金は無料でした。(続く)

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