続・奥の細道疑紀行 鶴岡市における藤沢周平縁の地を巡る(庄内藩校到道館編)
国道332号に出て鶴ケ岡城と鶴岡市役所の間を抜け、前日に見かけた庄内藩校到道館(ちどうかん)の入口を通り過ぎた大きな駐車場に車を停めました。午前9時の開館時間に合わせて到着したため駐車場にはまだ車がまばらです。受付(写真の左横)を入ると砂利が敷き詰められた道が続いています。
『国指定史跡到道館は文化2年(1805年)に学問所として創設され、文化13年(1816年)に十代藩主が三の郭(くるわ)内の現在位置に移し、藩の政務を処理する会所と学校を合わせた仕組みを作った』ことが説明されています。ちなみに、到道館の名前は論語にある「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」から名付けられたそうです。
藤沢周平氏の「義民がかける」に到道館が登場することを紹介しています。
周囲を塀(へい)や生垣(いけがき)で囲まれた到道館は小さな掘割(ほりわり)を橋で渡って表御門を入る構造になっていました。ちなみに表御門は藩主だけが利用した門です。
表御門を入った左手に廟門(びょうもん)、その左後方に聖廟(せいびょう)がありました。学校の中枢(ちゅうすう)であり、教育の源(みなもと)と考えられ、孔子(こうし)と顔淵の聖顔(せいがん)を祀(まつ)るところでした。
聖廟にある孔子像は孔子第75代の子孫である孫徳成先生の家に伝わる孔子像の複製を制作して寄贈されたものです。
論語の文字(写真では点線のように見える)をもって全体が成り立っており、画賛(がさん、絵以外の文字の部分)は孫徳成先生によるものと説明されています。
この講堂は広間型講堂で、生徒が一堂に会して講義を受けたところだそうです。現在の小学校レベルの句読所(くとうしょ)から大学・大学院レベルの舎生(しゃせい)まで広い世代の生徒が学んでいたそうです。
小学生レベルを除けば、自分が立てた計画に従って自分のペースで進める「自学自修」と、当番生徒の発表について話し合ったり、同じ書を読んで討論したりする「会業」と呼ぶゼミナール形式の方法が中心だったことが説明されていました。講堂の内部には多くの資料が展示されていましたが残念ながら撮影禁止でした。
藩主の居間である「御入りの間」の一室に建物の縮尺模型がありました。1876年(明治9年)、県令三島通庸の命により現在の鶴岡市役所の敷地内に建設された洋風瓦葺(かわらぶき)3階建ての巨大な朝暘学校(ちょうようがっこう)の模型です。洋風の学校を建設して明治政府の威光(いこう)を示す狙(ねら)いがあったようです。
旧庄内藩藩医の嫡男(ちゃくなん)として生まれた「華陽中台先生の碑」がありました。到道館に入学、明治元年に到道館助教となり、明治6年に上京して文部省師範学校で新教育の教授法を学び、帰郷後は朝暘学校などで教鞭を取ったことが説明されています。
講堂を出た西御門(先生や藩の役人の出入り口)の近くで桜が満開でした。前日にはこの西御門を県道47号から撮影しています。
講堂の先にある東構内には、御元締詰所、養老堂、司業学監(がっかん)、助教、典学、繰揚生(そうようせい)室、句読所(くとうしょ)、会食の間、御台所などが並んでいた様子が礎石(そせき)のようなもので示されていました。ちなみに、左後方は市役所です。
東構内の東端から講堂方面を眺(なが)めました。致道館は廃校後、鶴岡県庁(明治9年山形県に合併)、鶴岡警察署、小学校、教育委員会などに転用されましたが、現在は当時の約半分に当たる70アール(7000㎡)余りの敷地が残されているそうです。(続く)
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