続・奥の細道疑紀行 春日山城跡(後編)
本丸と三の丸の分岐点に差し掛かりました。毘沙門(びしゃもん)堂下とありますので左上の建物が昆沙門堂でしょう。
上杉謙信が出陣する前に必ず戦勝を祈願したといわれる毘沙門天があった護摩(ごま)堂跡の下に立つ毘沙門堂です。
堂の中には今も毘沙門天(別名:多聞天)が祀(まつ)ってありました。上杉謙信が7歳の時に預けられた麓の林泉寺にはその時に出合ったとされる毘沙門天が保存されているようです。
本丸跡まで3分です。ちなみに、銅像前とは春日山城跡への入口(春日山神社の少し下)にある上杉謙信公の銅像を指しているのでしょう。
本丸跡からは視界が開けて直江津の町並みを展望できました。左端が尾上岳(標高575m)、ほぼ真正面は関川に架かる白い「謙信公大橋」(2004年土木学会田中賞受賞)と上越市役所、右手に北陸自動車道などが確認できます。写真には入っていませんが、さらに左手には直江津港と直江津駅が案内看板には表示されています。
標高180mの春日山山頂にある天守閣址は意外に広いスペースがあります。
その天守閣址から北陸自動車道の上越JCTが間近に見えます。その右手後方には上越市の高田地区が続いているはずです。
新緑が美しい西方の小山には多数の砦(とりで)が築かれていたようです。
井戸丸の説明には『廃城後400年を経過して今も満々と水をたたえているのは西方の山々と礫層(れきそう)でつながっていてサイフォンの原理が働いて水が湧(わ)くのであろう」とあります。先人の知恵に脱帽! 難攻不落の山城が廃城になったのは上杉家の国替え後に入府した堀氏が直江津港近くに福島城を築城したためです。
「油流し」は本丸の西斜面は人の侵入を拒(こば)んでいるような急斜面のことであり、言い得て妙な命名です。
そこは景勝屋敷跡でした。春日山城(国の史跡)は日本100名城のひとつに数えられるだけあって多数の廓(くるわ)がある広大な城であったことは分かりましたが、石垣はなく遺構(いこう)らしきものは空堀(からぼり)と土塁(どるい)だけで、石垣が好きな私はやや拍子抜(ひょうしぬ)けの気分です。
雲行きが怪(あや)しくなりましたので、二の丸跡と三の丸跡には立ち寄らないで下山すると、春日山神社の石段をちょうど下りきった時に雨が降り始めました。(続く)
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