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2013年6月に作成された記事

2013年6月30日 (日)

続・奥の細道疑紀行 春日山城跡(後編)

2013_05010588 本丸と三の丸の分岐点に差し掛かりました。毘沙門(びしゃもん)堂下とありますので左上の建物が昆沙門堂でしょう。
 
 
 

2013_05010589 上杉謙信が出陣する前に必ず戦勝を祈願したといわれる毘沙門天があった護摩(ごま)堂跡の下に立つ毘沙門堂です。
 
 
 

2013_05010590 堂の中には今も毘沙門天(別名:多聞天)が祀(まつ)ってありました。上杉謙信が7歳の時に預けられた麓の林泉寺にはその時に出合ったとされる毘沙門天が保存されているようです。
 
 

2013_05010591 毘沙門堂の説明 
 
 
 
 
 

2013_05010606 護摩堂の説明
 
 
 
 
 

2013_05010607 護摩堂跡
 
 
 
 
 

2013_05010592 本丸跡まで3分です。ちなみに、銅像前とは春日山城跡への入口(春日山神社の少し下)にある上杉謙信公の銅像を指しているのでしょう。
 
 
 

2013_05010593 本丸跡に到着
 
 
 
 
 

2013_05010594 本丸跡からは視界が開けて直江津の町並みを展望できました。左端が尾上岳(標高575m)、ほぼ真正面は関川に架かる白い「謙信公大橋」(2004年土木学会田中賞受賞)と上越市役所、右手に北陸自動車道などが確認できます。写真には入っていませんが、さらに左手には直江津港と直江津駅が案内看板には表示されています。 

2013_05010595 天守閣跡が前方に見えます。
 
 
 
 
 

2013_05010602 標高180mの春日山山頂にある天守閣址は意外に広いスペースがあります。
 
 
 
 

2013_05010603 その天守閣址から北陸自動車道の上越JCTが間近に見えます。その右手後方には上越市の高田地区が続いているはずです。
 
 
 

2013_05010604 新緑が美しい西方の小山には多数の砦(とりで)が築かれていたようです。 
 
 
 
 

2013_05010605 直江津港もはっきり見えます。
 
 
 
 
 

2013_05010596 大きな井戸丸址は往時とあまり変わっていないようにみえます。
 
 
 
 

2013_05010597 井戸丸の説明には『廃城後400年を経過して今も満々と水をたたえているのは西方の山々と礫層(れきそう)でつながっていてサイフォンの原理が働いて水が湧(わ)くのであろう」とあります。先人の知恵に脱帽! 難攻不落の山城が廃城になったのは上杉家の国替え後に入府した堀氏が直江津港近くに福島城を築城したためです。 

2013_05010598 「油流し」は本丸の西斜面は人の侵入を拒(こば)んでいるような急斜面のことであり、言い得て妙な命名です。
 
 
 
 

2013_05010599 鐘楼址(しょうろうあと)
 
 
 
 
 

2013_05010600 見下ろすと廓(くるわ)はまだ先へと伸びています。
 
 
 
 
 

2013_05010601 そこは景勝屋敷跡でした。春日山城(国の史跡)は日本100名城のひとつに数えられるだけあって多数の廓(くるわ)がある広大な城であったことは分かりましたが、石垣はなく遺構(いこう)らしきものは空堀(からぼり)と土塁(どるい)だけで、石垣が好きな私はやや拍子抜(ひょうしぬ)けの気分です。   

雲行きが怪(あや)しくなりましたので、二の丸跡と三の丸跡には立ち寄らないで下山すると、春日山神社の石段をちょうど下りきった時に雨が降り始めました。(続く)

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2013年6月29日 (土)

続・奥の細道疑紀行 春日山城跡(前編)

2013_05010568 山道を少し上った駐車場にある春日山周辺の絵図には先ほど立ち寄った春日神社(右下)と上杉謙信の墓がある林泉寺(その上)、そして春日山に築かれた春日山城の広大な城跡が分かり易く示されています。ちなみに、芭蕉は直江津の宿を出て約6km南にある高田を往復しましたが、この場所には立ち寄っていません。 

2013_05010569 こちらは古い絵図のように描かれた春日山城跡です。春日山の麓(ふもと)に描かれた旧加賀街道(北国街道)は江戸へ通じる公道として五街道に次ぐ街道であり、加賀の前田氏をはじめ北陸諸大名の参勤交代の道でした。特に前田氏は幕命によりこの街道以外の通行は原則許されなかったことから「加賀街道」と呼ばれたそうです。 

2013_05010570 駐車場の前から春日山神社の参道である長い石段が上方の鳥居まで続いています。その入口にある「大義名分」「公明正大」と彫られた2本の石柱は明治時代に立てられたもののようです。
 
 

2013_05010571 振り返ると同行者が濡(ぬ)れた石段を足元を確認しながら慎重に上って来ます。
 
 
 
 

2013_05010572 鳥居の手前から見た春日山神社の境内です。明治34年(1901年)に創祀(そうし)されたこの神社は山形県米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信命を祀(まつ)っています。
 
 

2013_05010573 社碑には元帥大勲位伯爵東郷平八郎書とあります。東郷元帥(げんすい)は日露戦争において連合艦隊を率(ひき)いて日本海海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を打ち破ったことで知られます。その時の旗艦(きかん)は横須賀の記事で紹介した三笠です。後に公爵に陞爵(しょうしゃく、爵位が上がること)しています。 

2013_05010574 木々が生茂(おいしげ)っていて直江津の町はほとんど見えません。 
 
 
 
 

2013_05010575 春日山神社の本殿
 
 
 
 
 

2013_05010576 この下方に城主の館跡でああった「お屋敷」と呼ばれる大きな廓(くるわ)があるようですが、ここからは見ることはできません。春日山城は越後守護であった上杉氏が築城したものを上杉謙信(長尾景虎)の父で越後守護代であった長尾為影が修築した要害(ようがい、防御性に富む)の山城です。 

2013_05010577 土留(どど)めがあるだけの階段を上がりました。
 
 
 
 
 

2013_05010578 階段はどこまでも続くようです。
 
 
 
 
 

2013_05010579 やっと千貫門跡に出ました。 
 
 
 
 
 

2013_05010580 その先に続く階段の脇には「空堀・直江屋敷跡へ」と表示されています。 
 
 
 
 

2013_05010581 空堀は千貫門の脇から続いているようです。
 
 
 
 
 

2013_05010582 虎口(こぐち、要所にある出入り口)で二の丸方面と直江屋敷方面が分かれます。
 
 
 
 

2013_05010583 広い郭(くるわ)に出ました。直江屋敷跡と思われますが何の表示もありません。 
 
 
 
 

2013_05010584 少し先にある三段目の郭(くるわ)に「直江山城守宅址」と彫られた石柱を見つけました。もちろん、これが上杉家(最初は長尾家)の重臣であった直江兼続(かねつぐ)の屋敷跡と推定される場所です。 
 
 

2013_05010585 直江屋敷の説明板には謙信の跡目を継いだ上杉景勝(謙信の養子)の家老として活躍し、景勝が会津へ国替えをした時に同行し、米沢藩30万石の城主になったことが簡単に書かれています。   
 
 

2013_05010586 木立の途切れた場所から家並みが少し見えました。眼下には車が通行できる道が通っていますが、茶屋がある馬場跡から三の丸方面へ続く道のようです。
 
 
 

2013_05010587 アングルを変えると視界が広がりました。(続く)

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2013年6月28日 (金)

東京駅一番街の「東京ラーメンストリート」

東京駅へ出掛けました。関西へ移動するアメリカ人留学生を見送る同行者をエスコートすることが目的です。改装された東京駅の八重洲駅舎丸の内駅舎、および地下街を案内したあとに新幹線プラットフォームで無事に送り出すことができました。
 
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正午間近ですから急いで八重洲口地下一階へ向いました。「東京駅一番街」にある「東京ラーメンストリート」です。昨年、同じ目的で東京駅に来た時にはここへの立ち寄りを諦(あきら)めて大井町のラーメン店「江戸一」にしましたから、今年は「東京ラーメンストリート」で食べる心積もりでした。現在は7店が入居しているようです。
 
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各店を紹介する看板が2つ並んでいます。南口寄りには、つけ麺の「六厘舎TOKYO」、塩ラーメン専門の「ひるがお」、蟹(かに)専門の「せいすけ 北の章」の3店舗です。
 
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中央口寄りの看板には、「麺屋 七彩/TOKYO味噌らーめん 江戸甘」、「東京駅斑鳩(いかるが)」、「麺処ほん田」、「ジャンクガレッジ」の4店舗。
 
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どの店に入るかをきめるため店の品定めをしながら見て回ることにしました。最初の「ひるがお」は大きな看板だけです。入口はおそらく反対側にあるのでしょう。
 
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隣にある六厘舎(ろくりんしゃ)の店内は混んでいるようですが外へはみ出て並ぶ人は一人もいません。しかし、よく見るとこちらは出口でした。
 
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店に沿って通路を左へ曲がると長い待ち行列が出来ていました。大厘舎は東京ラーメンストリートが2009年にオープンした時から営業している人気店です。
 
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さらに大厘舎を回り込むように左に折れると、蟹(かに)専門の「せいすけ北の章」と「麺屋 七彩/TOKYO味噌らーめん 江戸甘」がありました。前者は北海道の素材が売りの店で、後者は朝の7時半から営業している喜多方ラーメン(醤油)や坦々麺の「麺屋七彩」(午後5時に「TOKYO 味噌らーめん 江戸甘」へ切り替わ)です。
 
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こちらは「ひるがお」の入口付近です。この店も東京ラーメンストリートがオープンした時に出店したようです。さらに先にある豚骨・魚介の「東京駅斑鳩」に興味を惹(ひ)かれますが、この店の行列に並ぶことにしました。塩ラーメンが好きなこともありますが、店名の「ひるがお」も気になりました。ラーメンとはまったく関係ありませんが、憧(あこが)れていた女優カトリーヌ・ドヌーブが主演する映画「昼顔」を学生時代(45年前)に観たことをふと思い出したのです。
 
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女性の店員さんから先に食券を買うように促されました。同行者は醤油を希望で、私はもちろん塩です。写真入りの説明看板が横にあるのは親切です。できるだけボリュームの少ないメニューを選びました。ちなみに、この店は世田谷区奥沢にあるラーメン専門店「せたが屋」が展開する店のひとつです。
 
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同行者に選んだシンプルな「醤油らーめん」(750円)は新宿御苑で大人気だった醤油らーめんを復活させたものだそうです。魚介系スープは濃(こ)い色をしていますが意外にさっぱりした味でした。黒っぽく見えるのはアオサのようで、同行者はそれが美味しいと言いながら完食しました。
 
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私が決め打ちした天然素材だけを使ったという「塩らーめん」(750円)はこの店で一番人気のようです。白髪(しらが)ネギの上にはエビの殻(から)を粉にしたようなものが載(の)せられています。エビの風味が強く感じられるスープと私が好きな香港式麺のように細くて腰があるストレート麺の組み合わせが印象的。ほど良いボリュームですが、私の好みとしてはエビ風味をもう少し押さえた方が良いと思いました。
 
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八重洲地下中央口改札へ向う途中に同行者の足が止まりました。タッチディスプレイに面白がって触れています。最近良く見かけるデジタルサイネージ(電子看板)です。調べると、昨年4月に設置された総合案内用ディスプレイでした。55型ディスプレイを4台組み合わせたマルチ­画面で構成され、2人が同時に操作できるマルチタッチが可能となっており、しかも4ヶ国の外国語にも対応するそうです。
 
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こちらは東京駅の待ち合わせスポット「銀の鈴」です。2007年10月に東京駅地下一階のエキナカ商業施設「グランスタ」が開業した時にリニューアルされた4代目です。
 
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私が写真を撮っている間にコンコースを丸の内口方面へ歩いていた同行者の足がお菓子屋さんの前で止まりました。
 
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この立て看板を見たようです。店内で買い物を済ませた同行者に尋(たず)ねると案の定、日本橋錦豊琳(にしきほうりん)の「きんぴらごぼう」をお土産に買ったとのこと。ゴボウを生地に練り込んで辛(から)みを利(き)かせた「きんぴらごぼう」風味のこの「かりんとう」(花林糖)をテレビか何かで知ったそうです。
 
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ボランティア活動が順調に進み始めて同行者のご機嫌が麗(うるわ)しいことは私にとって何よりです。

<同行者のコメント> 英語が堪能(たんのう)な旦那さまは頼もしいですね。美味しいラーメンを食べて、お菓子の「きんぴらごぼう」を買うこともできたことで、楽しい一日になりました。

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2013年6月24日 (月)

続・奥の細道疑紀行 上越市直江津

2013_05010550 佐渡行きフェリー乗り場である佐渡汽船のターミナルビルに立ち寄りました。佐渡汽船は新潟港と寺泊港およびこの直江津から佐渡行きの定期船を運行している会社です。ちなみに、新潟港-両津港間だけで運行されるジェットフォイルは水中翼(フォイル)とウォータージェットを組み合わせて時速80kmで高速走行できる船です。

2013_05010551 直江津(なおえつ)港は新潟港や酒田港と同様に北前船で栄えた港町ですが、現在はいずれも地理的な利点を活かしてロシアや韓国との貿易港になっているようです。
   
 
 

2013_05010552 県道468号を西へと走って到着した五智国分寺は芭蕉も立ち寄った名刹(めいさつ)です。名前にあるように越後国分寺の寺籍を継ぐとされる寺で、上杉謙信によって再興されたと伝えられるようです。
 
 

2013_05010553 直江津の史跡を巡る「心のふるさと道」の案内看板を見て次の目的地を確認
 
 
 
 

2013_05010554_2 安国山の山号が寺額に大きく書かれた山門(仁王門)
 

 
 
 
 

2013_05010555 山門を潜(くぐ)って参道を歩くと左手に芭蕉句碑『薬欄にいづれの花を くさ枕』がありました。 芭蕉が高田を訪れた時に詠(よ)んだ句と説明されています。
   
 
 
 

2013_05010556 歌碑のようですが読めません。
   
 
 
 
 

2013_05010557平成9年(1997年)に鎌倉時代の本堂をモデルとして建て直された本堂は新しく感じられます。ちなみに、本尊は大日如来(国の重要文化財)を中心に、阿弥陀如来、薬師如来、宝生如来、釈迦如来を含む五智如来(ごちにょらい)は密教の金剛界五仏のことで、京都の東寺(教王護国寺)講堂にも安置されています。 

2013_05010558撫で佛(なでぶつ)の「びんづる(賓頭盧)尊者」は釈迦(しゃか)の弟子で、十六羅漢(らかん)の筆頭と伝えられます。長野の善光寺でたっぷり撫(な)でましたから、ここではお参りするだけにしました。
 
 

2013_05010559慶応元年(1865年)に上棟(じょうとう)された三重搭は県指定有形文化財です。
 
 
 
 

2013_05010560 アングルを変えてもう一枚
 
 
 
 
 

2013_05010561 JR直江津駅(北口)はモダンなデザインですが、以前の山小屋風駅舎に比べると味気ないと思います。ちなみに、この駅はJR東日本とJR西日本の境界駅です。 
 
 
 

余談です。直江津の地名は直江荘と呼ばれた荘園に造られた港(津)を意味しますが、直江の由来は真っ直ぐな海岸線やアイヌ語(海と河口の間にある集落)がなまったなど諸説があって定かではないようです。また直江といえば直江兼続(かねつぐ)が思い浮かびますが、兼続はこの地に所領を持っていた豪族直江家の婿養子(むこようし)になったことで直江姓になっています。そして直江津は有名な説話「山椒大夫(さんしょうだゆう)」、つまり童話「安寿と厨子王(ずしおう)」の舞台として、後鳥羽上皇の怒りを買った浄土宗開祖法然(ほうねん)上人の弟子であった親鸞(しんらん)が流された場所としても知られます。

2013_05010562 直江津駅の周辺で芭蕉が宿泊した旅籠(はたご)古川屋を探しましたが見かりません。あれこれ調べた結果、このコインパーキングが古川屋の跡地であることが分かりました。300年以上の歴史がある古川屋は昨年1月に廃業したことで建物が取り壊されたようです。
 

2013_05010563 芭蕉はここで『文月や 六日も常の 夜には似ず』の句を読んだと伝えられます。その前にある道路を見ながら当時の北国街道の宿場周辺を想像してみました。
 
 
 

2013_05010564 県道185号を南下した直江津の郊外にある春日神社に立ち寄りました。
 
 
 
 

2013_05010565春日山城の名前の由来と なった「春日神社」は天徳2年(958年)に春日山の山頂に創建され、永徳1年(1381年)に春日山城の築城に際して現在の地に移築されたそうです。 
 
 

2013_05010566 石の鳥居の先に伸びる参道は急な石段となって拝殿へと続いていました。藤原北家の流れを汲(く)む上杉氏の家督(かとく)を継(つ)いだ長尾景虎(かげとら、後の上杉謙信)は、武神・毘沙門天(びしゃもんてん)の熱心な信仰家であり、藤原氏の氏神にあたる春日神社に厚い信仰を寄せたと伝えられています。

2013_05010567春日神社を過ぎると県道180号は山間(やまあい)に入って行きます。長かったドライブ旅もいよいよ終盤に差し掛かりましたので4回目の小休止を取ることにします。
 
 
 

<同行者のコメント>初めて訪れた新潟市は思っていたよりも大きな都市でした。それにしても、芭蕉は日本海の海岸線にそってずいぶん歩いたものだと感心します。上越市のホテルは静かな松林の中にあって温泉をたっぷり楽しむことができましたが、新発田市でチャーシューが一杯入ったラーメンを無理して食べたため、夕食に出された海鮮料理を食べるのが大変でした。(続く)

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2013年6月23日 (日)

続・奥の細道疑紀行 上越市の大潟

2013_05010529 日本海を見たくなりました。ホテルを出立したその足で海岸に出て、上下浜を見下ろす「日本海夕日の森公園」に立ち寄りました。小高くなったこの「お台場デッキ」の他、夕日の丘、月の広場、西の森、東の森、南の森があるようです。 
 

2013_05010530 雁木浜(がんぎはま)の西方には直江津(なおえつ)港、昨年完成したばかりの中部電力上越火力発電所、LNG(液化天然ガス)の受け入れ施設などが見えます。
 
 
 

2013_05010531 海岸に近づくと波打ち際では磯釣りをする人たちが並んでいました。直江津港の防波堤の先には鳥ヶ首岬(とりがくびみさき)が望めますが、岬の先端にある鳥ヶ首灯台(1950年点灯)は霞(かす)んでいて見えません。この灯台がある場所は江戸時代中期の高田地震で大規模な地滑りが起きた「名立崩(なだちくず)れ」跡です。

2013_05010532 国道8号を横切って「大潟水と森公園」へ向かいました。上越市大潟(おおがた)区にある県立の都市公園です。海岸に発達した頸城(くびき)砂丘の後背地に潟湖群があり、江戸末期に排水路の新堀川が掘削されて大潟が干拓されました。大潟は上越市に合併する前の旧町名で大きな鵜ノ池とその隣の朝日池が公園になっています。

その他にも長峰池、天ヶ池、蜘(くも)ヶ池などがあります。このうち朝日池は1646年(正保3年)、高田藩の大潟地区の新田の開墾(かいこん)にともない造成され溜池(たためいけ)で、現在も水田の灌漑(かんがい)に使われているようです。ここまで書けば察しの良い方はもうお気付きかもしれません。百田尚樹氏が書いた長編小説「影法師」の舞台と私が考えた場所です。実は、この感動的な小説を読んだ昨年12月から上越市の大潟と高田を一度は訪れたいと思っていたのです。

2013_05010533 北口駐車場に車を停めて鵜ノ池に向かいました。キャンプ場の左前方に木道の「水上回廊」が整備された鵜ノ池が広がっています。
 
 
 

2013_05010534 右手の木道に入りました。「歴史ゾーン」と表示されています。
 
 
 
 

2013_05010536 ミツガシワの群生があります。ちょうど開花し始めたところです。
 
 
 
 

2013_05010537_2 近接撮影したミツガシワ
 
 
 
 
 

2013_05010538 花茣蓙(はなござ)が敷かれた遊歩道を歩くと、前方に山吹(やまぶき)の花が咲いているのが見えました。
 
 
 
 

2013_05010539 早朝の雨に濡(ぬ)れた山吹の花を近接撮影
 
 
 
 
 

2013_05010540 シャクナゲ(石楠花、ツツジ科)
 
 
 
 
 

2013_05010543 思いがけないことに鵜ノ池に突き出した半島の先端近くに丸山古墳がありました。「歴史ゾーン」の名前の由来に納得です。
 
 
 

2013_05010542 円墳のように見えますが、2段築成の方墳(一辺が18.5m)でした。古墳時代前期後半から中期前半(4世紀後半から5世紀前半)に造られたことが分かったそうで、頸城(くびき、旧久比岐国)では一番古い古墳でした。
 
 

2013_05010544 手前は白いシャクナゲ、後方は散り始めた桜です。
 
 
 
 
 

2013_05010547 半島の先端部から見た鵜ノ池。対岸は干拓された田圃(たんぼ)のようです。
 
 
 
 

2013_05010546 右手方向も同様
 
 
 
 
 

鵜ノ池とその先に広がる田圃を見ていると「影法師」の終局で主人公が堤防から干拓地を眺(なが)める感動的なシーンが思い起こされました。郡奉行として提案した干拓事業の試行に成功した主人公は、計らずも江戸詰めに抜擢(ばってき)されたため本工事を見ないまま江戸で過ごし、筆頭国家老として帰国した時に初めて完成した干拓地を見たのです。多くの人々が影ながら自分を助けてくれていたことを知った主人公は感謝と悔悟(かいご)が入り混じる複雑な気持ちだったのでしょう。

2013_05010549 駐車場へ戻る直前の遊歩道脇にスギナ(杉菜)に囲まれて小さな花が咲いていました。ちなみに、スギナはツクシ(土筆)が成長したもので、その形が杉の木に似ていることが名前の由来のようです。(続く)

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2013年6月22日 (土)

続・奥の細道疑紀行 柏崎市から上越市へ

2013_05010499 国道352号に入って刈羽(かりわ)村に差し掛かりました。刈羽砂丘がある村ですが、現在は柏崎刈羽原子力発電所が注目されています。しかし、写真を撮るのは憚(はばか)れますので、その敷地を迂回するように曲がる国道352号を走り抜けて柏崎(かしわざき)駅に立ち寄ると、駅前にモニュメント「四季の波」 がありました。

2013_05010500 そのまま国道8号に出て赤坂山公園(市立博物館前)の脇を通過する頃には木立の先に大きく傾いた夕日が隠(かく)れてしまいました。
 
 
 

2013_05010501 鯨波(くじらなみ)海岸に出ると日没(にちぼつ)が近いことが分かります。右手から合流するのが旧北国街道のようです。 
 
 
 

2013_05010502 右前方に米山福浦八景県立自然公園が見えました。柏崎市にある美しい景観の「だるま岩」「聖が鼻」「御野立公園」「番神岬」「鴎が鼻」「松が崎」「猩々洞」、そして「牛が首層内褶曲」の8つをまとめて米山福浦八景と呼ぶそうです。 
 

2013_05010503 北陸自動車道米山ICへの入口を通過しました。米山(標高993m)は信仰の山で三階節(さんがいぶし)に♪米山さんから雲が出た 今に夕立がくるやら♪と歌われています。ちなみに、米山町にはかって北国街道の蜂崎関所と蜂崎宿があり、芭蕉は「たわら屋」に宿泊しています。
   

2013_05010504 芭蕉ケ丘トンネルに入ります。芭蕉と何か関係があるかと思って調べましたが・・。芭蕉が歩いたと思われる旧道は海側へ大きく迂回(うかい)していますから、国道8号は遥(はる)かに走りやすくなりました。 
 
 

2013_05010506 米山トンネルを通過します。こちらも芭蕉ヶ丘トンネルと同様です。 
 
 
 
 

2013_05010510 上越市に入って北国街道の宿場であった柿崎を過ぎる頃には日没(にちぼつ)が迫(せま)っていました。
 
 
 
 

2013_05010528 上越市での宿泊先に選んだ「鵜(う)の浜ニューホテル」には午後6時過ぎに到着しました。日本海の雁子浜(がんごはま)を望む頚城(くびき)砂丘の高台に位置する松林に囲まれた閑静な雰囲気です。その昔、「鵜の池」の近くに鵜の長者が住んでいたという縁起の良い伝説から「鵜の浜」と名付けられたそうです。

2013_05010511 エントランスは夜の佇(たたず)まいです。
 
 
 
 
 

2013_05010524 部屋から海浜の松林を見ていると、旅行前に知ったこの地に伝わる人魚伝説を思い出しました。佐渡ヶ島の娘と雁子浜の若者との悲恋物語です。 
 
 
 

2013_05010513 チェックインが予定より約1時間も遅れたため、温泉に入る前に部屋で夕食をとることにしました。日本海の海の幸をや季節の素材を用いた揚げ物など多彩な内容ですが、ボリュームが控えめで私にはほど良いものでした。
 
 

2013_05010515 後から出された魚料理は酒をたっぷり呑(の)んだためかピンボケ写真に・・。 
 
 
 
 

2013_05010517 食後の休憩を少し取ったあとに風呂へ向いました。小振りな脱衣場は清潔感があります。
 
 
 
 

2013_05010522 内湯の「鵜の湯」は「鵜の浜温泉五号井戸」という源泉のお湯が掛け流しになっています。泉質はナトリウム-塩化物泉(弱アルカリ高張性低温泉)。ちなみに、手前に見えるのはバイブラ風呂(ジャグジー)で、奥のドアは露天エリアへの通路です。 
 

2013_05010523右手にあるサウナも小振り 
 
 
 
 
 

2013_05010526 明かり取りのある半露天風呂「銀河の湯」にもゆったりと入りました。昭和33年に石油の資源開発中に湧出したこの源泉は弱アルカリ性ですから肌にしっとりと馴染(なじ)むようで良く温(あたた)まります。
   
 

2013_05010527 翌朝になって露天風呂の天井(てんじょう)を改(あらた)めて確認すると透明でカマボコ型をしていました。(続く)

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2013年6月21日 (金)

続・奥の細道疑紀行 赤塚の佐潟から出雲崎へ

2013_05010480 佐潟に立ち寄った後は、当初予定していた北国街道(県道2号)ではなく、遅れを取り戻すために海岸沿いの国道402号(日本海夕日ライン)を使って寺泊(てらどまり)へ向うことにしました。このため芭蕉が宿泊した北国街道の弥彦(やひこ)宿は通りません。 
 

2013_05010482 防砂林の中を走りました。
 
 
 
 
 

2013_05010483 越前浜で国道402号は右に折れます。この辺(あた)りの国道402号はこの少し先にある名勝越後七浦の名前をとって「越後七浦シーサイドライン」と呼ばれているようです。 
 
 

2013_05010484 再び防砂林を通過します。新潟県は最北の村上市から西端の糸魚川市まで8つの砂丘が続いていますが、現在通過しているのは西蒲原(にしかんばら)砂丘です。 
 
 
   

2013_05010485 右手の高台に角田岬灯台が見えました。標高482mの角田山に立つ真っ白な灯台は光達距離が19海里(約35km)とのこと。その下(海側)には「判官舟かくし」があるそうです。判官(ほうがん)と呼ばれていた源義経が兄の頼朝に追われ奥州平泉へ逃げ落ちる途中、舟とともに身を隠したといわれている洞穴(どうけつ)です。   

2013_05010486角田山を潜(くぐ)り抜ける 角田トンネルに入ります。 
 
 
 
 
 

2013_05010487 越後七浦シーサイドラインは長岡市寺泊野積(てらどまりのずみ)まで続く13.9kmの海岸道路で、日本海と奇岩が作り出す美しい風景を楽しめます。青森の浅虫温泉で見た裸島暮坪の立岩に雰囲気が似た立岩は撮影し損(そこ)ねました。 
 

2013_05010488 これが「獅子が鼻」のようです。横から見ると獅子(しし)の頭に見えるそうです。獅子はライオンのことですが、狛犬(こまいぬ)のうち角のないものを指すようですから、この場合は後者の方でしょう。 
 
 

2013_05010489 新潟市西蒲区から長岡市へ入り、野積橋北詰交差点を右折して信濃川から分かれた大河津分水路(1922年完成)に架かる野積橋を渡りました。芭蕉は弥彦から峠を越えて、この辺りで海岸に出たのでしょう。 
 
 

2013_05010490 寺泊白岩を通過します。寺泊は伝馬が置かれた北国街道の宿駅であり、古くから漁業が盛んで佐渡へ渡る港町だったそうです。 国分寺が作った無料宿泊所があったことが地名の由来のようです。 
 
 

2013_05010491 佐渡に近い寺泊には現在も佐渡の赤泊(あかどまり)へ行く寺泊フェリーターミナル(佐渡汽船乗り場)があります。ちなみに、佐渡へは距離が少し長くなりますが新潟港から両津(りょうつ)行きと直江津から小木(おぎ)行きのフェリーが出ています。 
 

2013_05010492_2 北限のアオウミガメで知られる寺泊水族博物館もありましたが外観を撮影するだけで通過 
 
 
 
 

2013_05010493 白波が立つ日本海を見ながら柏田崎へ向って国道402号(北陸道)を走りました。和島には道の駅「良寛の里わしま」があるようです。あの良寛(りょうかん)さんが晩年の数年間を和島の木村家で過ごし、貞心尼(ていしんに)と出逢(であ)って和歌の師匠になったのもこの和島の地だったそうです。 

2013_05010494 前方に見えてきたのは良寛さんが生まれた出雲崎(いずもざき)町でしょう。日本海から波が打ち寄せています。
 
 
 
 

2013_05010495 芭蕉が宿泊した出雲崎に入ると「海と夕日の広場」駐車場の案内標識がありましたので車を停めて立ち寄る先を確認しました。この出雲崎は江戸時代に幕府の直轄地(天領)として栄えたそうです。
 
 

2013_05010497 良寛生誕の地(橘屋跡)である良寛堂(新潟県文化財)です。江戸時代に出雲崎の名主の家で生まれた良寛さんが18歳で出家するまで過ごした場所です。
 
 
 

2013_05010496 良寛堂を背にして良寛(りょうかん)の座像がありました。生涯にわたって寺を持たず、40歳頃越後に帰っても質素な生活をしながら庶民に分かり易い言葉で仏法を説いたと言われます。和歌・俳句・漢詩・書などに秀でた良寛さんは72歳で天寿をまっとうされたようです。
    

2013_05010498 交差点から旧北国街道に入って芭蕉園へ足を伸ばしました。芭蕉が宿泊した大崎屋は芭蕉園の真向いにあったと説明されていました。芭蕉は出雲崎で有名な句、『荒海や 佐渡によこたふ 天の河』 を詠(よ)んでいますが、この句とともに佐渡についての芭蕉による記述を彫(ほ)った天河句碑(銀河の序)が後方に見えます。

22 芭蕉は佐渡には渡っていませんから、自分の知識に想像を交(まじ)えて書いたのでしょう。その代わりではありませんが、半世紀前の学生時代に佐渡へ旅行した時の写真を2枚だけ掲載しましょう。まず佐渡金山に近い相川(あいかわ)の夜祭です。ネット検索すると現在の相川祭りの様子YouTubeにアップされていました。 

25 もう一枚は「佐渡おけさ」の舞台です。吊(つ)るされた提灯(ちょうちん)には立波会と表示されています。これもネットで検索するとYouTube現在の立波会を見つけることが出来ました。そして大正時代に正調佐渡おけさを発表したグループであることも知りました。 

 

芭蕉園のすぐ近くに良寛記念館もありますが、遅れを挽回(ばんかい)する必要があるため、立ち寄りを断念することに。国道402号から国道352号に入り、出雲崎魚港と道の駅「越後出雲崎天領の里」を通過、柏崎(かしわざき)へ向います。(続く)

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2013年6月20日 (木)

続・奥の細道疑紀行 新潟市

2013_05010462 阿賀野川大橋を渡って新潟市に入りました。船で新潟に着いた芭蕉は大工源七の家に1泊して、翌朝には弥彦へ出立していますから新潟ではほとんど見聞していないと思われます。そこで芭蕉の足跡に拘(こだわ)らず新潟市内を訪れることにします。
 

2013_05010463 最初に立ち寄ったのは護国(ごこく)神社です。駐車場から境内に入ると本殿がありました。
 
 
 
 

2013_05010464 参道を入口方面へ歩くと予科練(よかれん)鎮魂(ちんこん)の碑には「若鷲の歌」(昭和18年作詞西条八十)一番の歌詞が刻(きざ)まれています。
 
 
 

2013_05010465 陸軍少年飛行兵新潟県出身戦没者慰霊の碑にはなぜか総理大臣中曽根康広の署名がありました。中曽根氏は海軍の主計少佐だったはずですが・・。 
 
 
 

2013_05010466 戊辰役殉難者墓苑は幕末の戊辰(ぼしん)新潟戦争で亡くなった西軍(新政府軍)だけでなく東軍(米沢・会津・庄内藩軍)の兵士も弔(とむら)う墓です。 
 
 
 

2013_05010467 案内地図を見ると護国神社の海側には新潟市水族館があり、その右手には西海岸公園が続いています。海岸の様子が気になって調べると、海へ突き出ているのは突堤(とってい)、横に伸びるのは砂浜の侵食を防ぐため汀線(ていせん、海と陸の境界)に築かれた人工リーフで、珊瑚礁(さんごしょう)と似た消波効果があるそうです。

余談ですが、新潟の地名は信濃川と阿賀野川の河口の中州に新しく形成された潟湖であることから、「新しい潟」を意味するとの説が有力です。ちなみに、潟が付く湖は干拓(かんたく)によって大幅に減少しましたが、新潟市内には北から福島潟、鳥屋野潟(とやのがた)、十二潟、御手洗潟(みたらせがた)、佐潟(さかた)、上堰潟(うわせきがた)の6つがあり、新発田市にも升潟(ますがた)があります。

2013_05010472 参道の入口にある鳥居
 
 
 
 
 

2013_05010468 その横に芭蕉堂の看板を見つけました。後方に小さく見えるのは八木朋直(ともなお)氏の胸像です。八木氏について調べると、元米沢藩士で関流和算の奥義(おうぎ)を極めて藩の勘定役となり、戊辰戦争では会計方として活躍。後に新潟県会計課長、第四銀行頭取、第四代新潟市長を歴任した人物でした。

2013_05010469 左手の公園のような芭蕉堂緑地に入りました。蓑塚(みのづか)は『芭蕉が新潟へ到着した時に古い蓑を新しいものと取り替えたと言われる場所』と説明されています。
 
 
 

2013_05010470 芭蕉堂は芭蕉の肖像画と由来書が永久保存されているそうです。
 
 
 
 

2013_05010471これが芭蕉堂
 
 
 
 
 

2013_05010473 芭蕉が歩いたと思われる日本海沿いの道(県道16号)に入って南西方向に走り、そして内野で県道2号(北国街道)に入りました。新潟市の中心部から約20km離れた西区赤塚地区に入って御手洗潟(右の写真)を過ぎると、国内最大の砂丘湖である佐潟(さかた)の一帯は公園となっていました。 

この佐潟はオオハクチョウとコハクチョウなど水鳥の飛来地として知られるとともに、1996年(平成8年)3月にラムサール条約湿地に登録されました。ちなみに、日本には釧路湿原、琵琶湖、阿寒湖、宍道湖(しんじこ)、秋吉台地下水系など計37箇所が登録されています。

2013_05010474 佐潟橋を渡って遊歩道が佐潟の湖畔に続いています。
 
 
 
 
 

2013_05010475 湧水湖(ゆうすいこ)である佐潟(下潟)は南西方向へ長く(1km以上)伸びています。その先には小さな上潟(うわかた)があるようです。 
 
 
 

2013_05010476  「北国街道(赤塚)」の標柱があります。北国街道と呼ばれる街道はたくさんありますが、この北国街道は新潟から赤塚、稲島、弥彦、寺泊の各宿場を経て出雲崎まで行く街道でした。
 
 

2013_05010477芭蕉句碑の説明看板
 
 
 
 
 

2013_05010478 3つ並ぶ句碑の真ん中が芭蕉の句碑、『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』です。
 
 
 
 

2013_05010479 山田無文(むもん)老師句碑には『干大根 今日もはるるや 越後路』とあります。山田氏は現代の禅僧(元花園大学学長)で芭蕉との関係はなさそうです。
 
 
 

公園内には平成10年に開設された佐潟水鳥・湿地センターもありますが、予定時間を過ぎていますので、次の目的地へ向います。(続く)

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2013年6月19日 (水)

続・奥の細道疑紀行 新発田城址

芭蕉は村上に2泊している間に日本海沿いの瀬波(せべ)を訪れています。奥の細道には記述がないようですが、曽良の日記によれば、村上を出た芭蕉と曽良は羽州浜街道(現在の県道3号、一部国道345号と重複)を南下した乙(きのと)村の乙宝寺(おっぽうじ)に立ち寄り、さらに船を使って新潟へ直行したようですから、新発田には立ち寄っていません。私が内陸よりの国道7号を利用した理由は村上市から最短コースで新発田(しばた)市へ向うためでした。

2013_05010441 新発田城に到着しましたが、陸上自衛隊新発田駐屯地(ちゅうとんち)が城跡にあるため、車を停められる場所を探して新発田公園に入りました。駐車場脇にある新発田城城址公園の地図で現在の新発田城の様子が掴(つか)めました。本丸の石垣と内濠(うちぼり)の一部、3つの櫓(やぐら)、そして表門だけが残されています。

2013_05010442 日本100名城に指定された新発田城の三階櫓(2004年に復元)と駐屯地との境界に造られた土塀(どべい)
 
 
 
 

2013_05010444 江戸末期には事実上の天守閣であった三階櫓に近づいて撮影しました。棟(むね)が丁字形になっており、三つの入母屋をつくってそれぞれに鯱(しゃちほこ)を上げているため3の鯱がある珍しい櫓です。また、本丸の石垣は「切り込みはぎ」と角には「算木積み」が採用したことで、石の表面が平らに整形され、目地は隙間(すきま)無く積まれています。市指定文化財(史跡)とのこと。

2013_05010446 内濠に沿って右手に歩くと旧二の丸隅櫓(国指定重要文化財、昭和34-35年に解体修理)と折れ曲がった濠が続いています。腰回(こしまわ)りが瓦張(かわらば)りの海鼠壁(なまこかべ)で覆われた二の丸隅櫓は解体修理時に現在の場所(本丸鉄砲櫓跡)に移築されました。右手は二の丸跡にある土門橋跡土塁(どるい)のようです。

2013_05010447 新発田城の説明には、『慶長3年(1598年)に加賀から越後蒲原郡6万石の領主として移封された堀口秀勝が上杉景勝に破れて落城した新発田秀家の城跡を取り入れて築いたもので、明治初頭まで溝口家の居城として270年続いた。本丸を二の丸が取り囲み、南に三の丸が突き出し、南北に細長いひょうたん型をしていた』とあります。

幕末の戊辰(ぼしん)戦争で新発田藩は新政府寄りの立場を取ろうとしましたが、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗(こう)しきれずにやむなく加盟しました。しかし、最終的に新発田藩は新政府軍に合流し参戦したため、新発田の地は戦火から守られましたが、越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られたそうです。

2013_05010448 表門(本丸正門)は国指定重要文化財で二の丸隅櫓と同時期に解体修理されたようです。二の丸隅櫓と同様に腰回(こしまわ)りが瓦張(かわらば)りの海鼠壁(なまこかべ)で覆われています。
 
 

2013_05010449 右端にあるのは2004年に三層櫓とともに復元された辰巳櫓(たつみやぐら)です。ちなみに、辰巳は東南を意味します。
 
 
 

2013_05010450 表門を入った本丸跡には初代藩主溝口秀勝の銅像がありました。
 
 
 
 

2013_05010451 辰巳櫓への石段を登ると隣接する陸上自衛隊新発田駐屯地内を土塀越しに垣間(かいま)見ることができました。 
 
 
 

2013_05010452 辰巳櫓の入口付近
 
 
 
 
 

2013_05010453 その内部はまだ真新しい
 
 
 
 
 

2013_05010456こちらは旧二の丸隅櫓(すみやぐら)です。
 
 
 
 
 

2013_05010454その2階はこうなっています。
 
 
 
 
 

2013_05010457その近くの本丸跡です。石垣に沿って三層櫓へ行けるかと思いましたが、塀に遮られていました。
 
 
 
 

2013_05010458 右手でなにか作業をする人が見えます。
 
 
 
 
 

2013_05010459 鎧兜(よろいかぶと)を展示する準備作業をしていました。確認すると、「少年少女剣士のパレードと堀部安兵衛太鼓」の催し物(5月3日)に備えた準備と思われます。
 
 
 
 

2013_05010461 表門を出た二の丸跡に旅姿をした堀部安兵衛武庸像を見かけました。安兵衛は通称で、武庸(たけつね)は(いみな、正式名)です。   
 
 
 

堀部安兵衛は赤穂浪士の一人として知られますが、実はここ新発田市(新発田藩)の出身です。安兵衛の父中山弥次衛門が辰巳櫓焼失の責任をとって藩を辞したため、父の死後安兵衛は浪人となって江戸に出ましたが、そこで元赤穂藩江戸留守居役の堀部弥兵衛に見込まれて養子となり、赤穂藩の家臣なった経緯があります。ちなみに中山安兵衛の母方の祖母は藩祖・溝口秀勝の娘と言われますから、新発田藩でも上級武士の家柄だったのでしょう。

2013_05010460 車に戻って新発田城から少し東へ走ると県立新発田病院の脇に「義士堀部安兵衛生誕之処」の石碑がありました。(続く) 

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2013年6月16日 (日)

意外! あの「花畑牧場」を発見!!

所用でたまプラーザへ出掛けました。東京急行田園都市線の沿線ですが、東名高速道路の東名川崎ICあるいは国道246号(大山街道)を利用すれば車でのアクセスも便利です。たまプラーザ駅は3年半前にリニューアルされ、駅改札口を取り囲むようにサウスプラザ、ゲートプラザ、ノースプラザ(東急百貨店)が立ち並んでいます。
 
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たまプラーザ駅に直結したたまプラーザテラスのゲートプラザⅠ(3階)に一世(いっせい)を風靡(ふうび)した「花畑牧場」が2013年2月22日にオープンしたと聞いたとで、今回立ち寄ることにしたのです。右手にあるのが車を停めた地下駐車場BがあるゲートプラザⅠです。
 
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花畑牧場と言えば4年前に南青山で「
花畑牧場 ホエー豚亭」(青山店)を見かけたことがあります。当時は生キャラメルが大人気でしたが、その後に経営が悪化したことで北海道の店舗が半減し、北海道以外(東京エリア)では青山店の他、竹下通り店、渋谷店、銀座店など10店舗以上が相次いで閉店して、昨年末時点では軽井沢の「花畑牧場 カフェ&ホエー豚亭」だけになってしまいました。
 
 
通販に活路を見出そうとしている中、たまプラーザへ新規出店した目的は分かりませんので調べると、個店主義(1店舗1コンセプトで出店)のレストランを経営するダイヤモンドダイニングという会社が既存店 “Cheese Parade Café”を改装してリニューアルオープンしたようです

   
3階へ上がると右手に「花畑牧場 十勝チーズ工房」MOZZARELLA BARがありました。 
 
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今風にメニューの解説が黒板に手書きされています。
 
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東急百貨店が目の前に見える窓側に席に案内されました。テープルに付くとメニュー全体の説明とお勧め品の紹介がありました。マニュアル通りに全ページを説明してくれるのは親切ですが、煩(わずら)わしくも感じられました。午後6時を少し回ったばかりで、右手斜めから夕陽が差し込んでいます。
 
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ドリンクは赤ワイン(500円)を注文、迷った同行者は店員さんにお勧めを聞いた「手摘みハスカップジュース」(590円)に決めました。ハウスワインはやや渋みが強く高級感はありませんが、さっぱりした味は飲み易い。テーブルに疵(きず)が目立つのは居抜(いぬ)きで造られた店舗だからでしょう。壁紙も同様です。
 
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初めてのハスカップジュースはロゼワインを濃(こ)くしたような色をしています。北海道で栽培されるハスカップは青紫の実が生(な)るようですが、絞り汁は鮮やかな赤色で、ブルーベリーに似ているもののやや甘酸っぱい味でした。目に良いと言われるアントシアニン(シアニジン)はブルーベリーの3.3-10倍、各種ビタミンやカルシウムなども豊富に含まれているそうです。
 
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東急デパートに隣接するイトーヨーカ堂の屋上駐車場に夕陽が掛かり始めました。窓の外のテラスにも簡単なテーブルが何卓か置かれていますが、入口の看板にあった喫煙席のようです。
 
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店のお勧めは「花畑牧場ふわとろモッツァレラメニュー」とのことで、先ず「ふわとろモッツァレラ牧場カプレーゼ」(780円)を注文しました。トロトロのチーズと美味しいトマトにかけられたバジルソースを同行者は気に入ったそうです。
 
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次いで配膳されたピッツァ「自家製ラクレットチーズのマルゲリータ」(1380円)はチーズの風味は十分ありますが、プレーンな味は食べやすいものです。
 
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メインは「ホエー豚のヒレ肉の香草包み焼きタリアータ バルサミコソース」(1400円)。名前は長いのですが柔らかいヒレ肉は胡椒(こしょう)で味付けされています。ちなみに、タリアータはイタリア語で「切った」を意味するそうです。岩塩とバルサミコを付けると、また異なる味が楽しめました。皮付きのジャガイモも適度に歯応(はごた)えがあって美味しい。
 
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同行者はデザート選びで悩んだ末に定番の「ホット生キャラメル&バニラアイス」(650円)に決めました。思ったより大きなアイスクリームであるため、すでに満腹になっていた私も少し手伝うことになりました。
 
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お口直しに「モチップス」がサービスされました。オカキにあの生キャラメルをまぶしたもので意外に美味しく、『やめられない、とまらない』のCMでヒットしたカッパエビセンのように手が止まらなくなりました。
 
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客対応にやや物足りなさを感じましたが、料理の満足度を考え合わせると総合評価はまずまずでした。次の機会には私の好物のパスタ・メニューから「ふわとろモッツァレラのトマトソースパスタ」(1100円)や「ラクレットとイタリア産バルミジャーノのトリプルチーズパスタ」(1480円)、そして「濃厚クリーミーチーズフォンデュ」(980円)を、同行者は「ラクレットとパルミジャーノのチーズ・チーズ・チーズリゾット」(1480円)と「自家製ジェラート」(400円)を考えているようです。(写真は入口に近い席の壁に飾られたチーズと豚に関する写真パネル)
 
2013_06080050
 
担当してくれた店員さんがテーブルで会計をしてくれるのは欧米風です。それに、この店での食事代が5000円強になったことで、2時間分の駐車料金(800円)が無料になるプチ・プレゼントもありました。

<同行者のコメント> 旦那様にしては珍しい店選びでした。それに旦那様が好きなパスタの代わりに選んだ大き目のピッツァは予想通りに残してしまい、注文時に確認しておいたドギーバッグをお願いしました。火曜日のためか店内が空(す)いていたことも良かったと思います。

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2013年6月12日 (水)

続・奥の細道疑紀行 酒田市から村上市へ(後編)

山形県に接する新潟県北部に位置する村上市を代表するものはこの村上城跡と現在も市街地になっている城下町です。その他にも、県境で看板を見た「笹川流れ」(海岸の景勝地で国の名勝・天然記念物に指定され、日本百景にも選ばれている)、市街地に入る時に渡った三面川を遡上(そじょう)する鮭(さけ)、北限のお茶栽培地としても知られます。今回は通過地点の一つですから、最初の2箇所に絞(しぼ)って立ち寄ることを計画しました。

2013_05010423 四ツ門を抜けた左手が三の丸ですが、右手に折れました。珍しい名前の御鐘門(おかねもん)跡は石垣の構造からみて外枡形(そとますがた)形式の櫓門(やぐらもん)と推察されるそうです。 外枡形とは枡形が城外に飛び出しているもので、江戸城の桜田門や姫路城の埋門などの事例があります。   

2013_05010424朝日飯豊(いいで)名峰の眺望(ちょうぼう)」は雄大です。ちなみに、2日前に村山市から見た葉山は朝日連峰の東端に位置しています。 
 
 
 

2013_05010425 御鐘門を過ぎると二ノ丸となってしばらく平坦な場所が続きましたが、少し先の右手に印象的な高石垣が迫(せ)り出していました。この石垣上に位置していたのがこの出櫓(でやぐら、だしやぐら)跡。本丸を守るために張り出して構えた櫓(やぐら)です。細い道に侵入した敵兵を狙撃(そげき)するには持って来いの構造です。 

2013_05010426戦国時代の村上城は江戸時代の郭(くるわ)よりはるかにシンプルで『虎口(こぐち)竪堀(たてぼり)帯曲輪群(おびくるわぐん)があるだけで、本丸にも石垣が無かった』と説明されています。 
 
 

2013_05010427上部に櫓を持つ櫓門(やぐらもん)や二階造りの楼門(ろうもん)ではない平門の冠 木門(かぶきもん)跡。
 
 
 
 

2013_05010428 広い場所に出ました。本丸跡のようです。 
 
 
 
 
 

2013_05010429 「お城山から鳥瞰図(ちょうかんず)」の看板の先には大きく湾曲しながら日本海に注(そそ)ぐ三面川が見えます。左端に見えるビルは村上体育館、その右手が村上市役所・村上地区公民館・村上小学校のです。
 
 

2013_05010430 天守櫓(天守台)跡には測量の基準となる国土地理院の三角点(右手の白い棒の横にある四角い御影石)とともに気象観測用の百葉箱が設置されています。 
 
 
 

2013_05010431 石垣の構造
 
 
 
 
 

2013_05010432 石垣の種類
 
 
 
 
 

2013_05010436 村上城の天守閣から上りと同じ「七曲り」を下りて城下町に向いました。「城下町村上散策案内」を見ると寺の多いことが分かります。稲荷神社の近くに芭蕉の句碑があるようです。 
 
 

2013_05010433 村上小学校に近い小町通(県道286号)に入ると元禄2年(1689年)6月に芭蕉と曽良が二泊三日した宿「久左衛門」跡(国の登録有形文化財)は現在村上茶を出す甘味処「井筒屋」になっています。
 
 

2013_05010434 村上小学校の東側に回り込むと国の重要文化財「若林家住宅」の門がありました。隣には村上市郷土資料館があります。 
 
 
 

2013_05010435 若林家住宅の母屋
 
 
 
 
 

2013_05010437 村上市内をもう少し散策したいところでしたが、次の目的地へ急ぐことにしました。牛沢交差点で合流した国道7号を約30kmひた走って新発田(しばた)市に入り、舟入交差点を左折した人気ラーメン店「梟(ふくろう)」に立ち寄りました。市中心部から少し離れた新興エリア(新栄町)に相応(ふさわ)しい外観がポップなラーメン屋です。 

2013_05010438 店内にもフクロウの置物が多数置かれています。我々は窓側のテーブル席に付きました。
 
 
 
 

2013_05010439 私は味噌チャーシュー(870円)を注文、大きなチャーシューが5枚も入っています。ご飯サービス(無料)は辞退しました。チャーシューが2枚だけの普通の味噌ラーメンでも良かったようです。 
 
 

2013_05010440 同行者はねぎチャーシューメン(910円)もビッグです。いずれもボリュームがあり過ぎて、途中でギブアップしそうになりましたが、2人とも何とか完食しました。後知恵でしたが、ラーメンと何か単品を頼んでシェアするべきだったと意見が一致しました
 
 
新発田市に到着したところで3回目の小休止にしたいと思います。 

<同行者のコメント> 酒田にある立派なお屋敷が印象に残りました。でも、おしんが奉公したという米問屋を見学するのはパス。 新発田市で食べた「ねぎチャーシューメン」はおいしかったのですが若い人向きのボリューム!お城はずいぶん高い山の上にあったようですね。 私は車の中で待機したのは正解でした。それに、石垣だけしか残っていない城跡はもう十分見飽きたのではないですか?(続く)

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2013年6月11日 (火)

続・奥の細道疑紀行 酒田市から村上市へ(中編)

象潟(きさかた)への旅を終えた芭蕉は「奥の細道」の主な目的をほとんど成就(じょうじゅ)できたためなのか、酒田でのんびりした後は酒田以降の旅の記録はそっけないものになったようです。それに7月の暑さに気力も衰(おとろ)えたのことで、さしたるエピソードも記載せず、旅程とルートだけを淡々と記述しているだけですから、この先は私の関心事に従ってドライブすることにします。

2013_05010404 由良海岸から県道50号で上り切った峠のような場所で国道7号に入りました。日本海沿いに国道7号が続いて、三瀬(さんぜ)と小波渡(こばと)を通過したところで赤地蔵尊菩薩を見掛けました。
 
 

2013_05010405 そのすぐ先には「暮坪(くれつぼの棚田」の案内板も見えて好奇心(こうきしん)をそそられましたが、棚田(たなだ)の解説を撮影するだけで我慢(がまの)することに。
 
 
 

2013_05010409 少し先に塩俵岩(しおだわらいわ)の案内標識が目に入りました。車を停める場所の関係から行き過ぎた場所から振り返って撮影。
 
 
 

2013_05010408 これが注連縄(しめなわ)が張られた塩俵岩
 

 
 
 
 

2013_05010406 芭蕉蹟「温海(あつみ)」の中に句標を見つけました。左手にある立派な句碑には『あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み』と刻(きざ)まれています。
 
 
 

説明板の後半が分かり難いので確認すると、酒田で芭蕉が不玉と納涼船に乗った時に最上川の河口に近い場所から見た温海岳(標高736m)を読んだ句でした。吹浦(ふくら)とは遊佐町(ゆざまち)にある地名で、温海岳の麓(ふもと)から砂浜が吹浦まで延々(約40km)と続いている雄大で涼しげな景観を表現したようです。

2013_05010407 国道7号と並行する羽越本線を新潟発・秋田行の特急列車「いなほ」(485系電車、新潟色)が通り過ぎました。
 
 
 
 

2013_05010410 「暮坪の立岩」を過ぎると史跡「念珠関(ねずがせき)跡」がありました。
 
 
 
 

2013_05010412 「念珠関址(ねんじゅぜきあと」の碑は立派です。
 
 
 
 
 

2013_05010411 その詳しい説明によると、ここは古代の鼠ヶ関(ねずがせき)が移転された近世の関所跡(明治5年廃止)で、古代の関所後はここから約1km南にあり、当ブログで紹介した勿来(なこそ)関白河関と並んで奥羽三大難関の一つとされていたそうです。 
 

この関所は歌舞伎の勧進帳で弁慶が大芝居を打つ場面に設定されていますが、史実では義経一行は難なくこの関所を通過したことも付記されています。

2013_05010413 いよいよ新潟県村上市に入ります。案内標識は見かけませんでしたが、古代の鼠ヶ関跡は国道7号よりも海寄りにあるのでしょう。
 
 
 

2013_05010414 峠に国指定名勝天然記念物「笹川流れ」の看板
 
 
 
 
 

国道7号は勝木で山間に分け入りました。勝木川に沿った上り坂となった国道7号はトンネルをいくつも抜けて、朝日トンネルを抜けて葡萄山(ぶどうやま)が近づくと下り坂になりました。芭蕉は葡萄峠を越えましたが国道7号をそのまま走りました。

2013_05010415大須戸川(おおすどがわ)に沿った緩(ゆる)やかな下り坂を走ると、三面川(みおもてがわ)に架かる水明橋を渡って村上市の市街地に入りました。
 
 
 

2013_05010418 国道7号の右前方に見える小山を半時計回りに回り込んで村上城址に到着しました。案内版には『室町時代以来の本庄氏の拠点が慶長3年(1598年)に国替えでこの地に入った村上頼勝により大改造され、その後も城主によって三層の天守閣が築造されたが、寛文7年(1667年)に落雷で消失した』とありました。

2013_05010416 一文字門跡には急な階段が続いています。
 
 
 
 
 

2013_05010419 葛篭折(つづらおれ)の階段を頑張(がんば)って登ると視界が開けてきました。村上市街地のずっと先は日本海のようです。 
 
 
 

2013_05010420 階段はまだまだ続きました。
 
 
 
 
 

2013_05010421 ちょうど10分間で階段を登り切って四ツ門跡に到着
 
 
 
 
 

2013_05010422 国指定史跡村上城跡の案内図を見ると臥牛山(がぎゅうさん、標高135m)の山頂付近にかなり広大な山城があったことが分かります。(続く)

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2013年6月10日 (月)

続・奥の細道疑紀行 酒田市から村上市へ(前編)

2013_05010390 夕暮れが近付いた頃、宿泊先である酒田駅に近いホテルイン酒田駅前へ到着しました。
 
 
 
 

2013_05010389 名前の通り酒田駅は目と鼻の先です。ホテルの裏口にある駐車場で何とか空きスペースを見つけました。予約時に隣接するコインパーキングも利用できるとは聞いていましたがラッキーです。
 
 

2013_05010379館内に入ると珍しいものを見つけました。つるし雛の「傘福(かさふく)」です。雛のつるし飾りは伊豆の稲取、福岡県柳川市、そして酒田市が三大つるし飾りの地であることを長野県佐久市の「かしわや本店」で開催された合同展示会で知ったことを思い出しました。
 

酒田港にある酒田海鮮市場の「海鮮どんや とびしま」で夕食を食べる予定でしたが、ホテルから市街地を横切って歩くと30分ほど掛かる(約2km)とレセプション係に教えられたため、ホテル内の居酒屋「うろこ亭」に急遽(きゅうきょ)変更しました。ホテル内には他にフランス風郷土料理レストラン「ル・ポットフー」、イタリアンレストラン「アンジェロ」、「炉ばた焼 田舎」もあるようです。

2013_05010380 まず、お通しと焼酎(しょうちゅう)のお湯割り
 
 
 
 
 

2013_05010381 水菜としらすのパリパリサラダ(640円)
 
 
 
 
 

2013_05010384 海老しんじょう揚げ(700円)
 
 
 
 
 

2013_05010385 同行者の好みに合わせて、ソイ(曽以)・コチ(鯒)・ホウボウ(魴鮄)・ミズダコ(水蛸)・バイガイ(蛽)の刺身5点盛(1480円)
 
 
 

2013_05010388 〆(しめ)は焼きうどんです。私は焼酎のお湯割りが進みました。
 
 
 
 

2013_05010391 ホテル内で早めに朝食バイキングを済ませて午前8時半頃に出発しました。この日は小雨が降っていることと長距離ドライブが待っているからです。国道112号(旧羽州浜街道)に入って最上川の出羽大橋を渡ります。 
 
 

2013_05010392 宮野浦から庄内空港と温野浜温泉方面へと国道112号が伸びています。
 
 
 
 

2013_05010394 国道が112号が通過する十里塚や浜中の集落は日本海が近いのですが防砂林が続いているため海を見ることはできません。 
 
 
 

2013_05010396 庄内空港の滑走路の下を潜(くぐ)って海岸沿いに出ると鶴岡市市の湯野浜温泉街に入りました。このエリアは「日本の夕陽百選」に選ばれているそうです。
 
 
 

2013_05010398 温泉街を抜けた場所から振り返って撮影。雲から晴れ間が覗(のぞ)き始めました。 
 
 
 
 

2013_05010399加茂水産高校がある鶴岡市加茂で海岸沿いの県道50号に入ると市立加茂水族館の先に小型灯台を見つけました。 
 
 
 

2013_05010400 集客のために1999年頃から始めた「クラゲの展示」が人気となっている加茂水族館の臨時駐車場に車を停め、新水族館(2014年開館予定)の建設工事現場の脇を海岸方向へ歩くと、急な階段の脇にある小さな看板に荒埼灯台と表示されていました。
 

2013_05010401 防波堤に出るとテトラポット(消波ブロック)が岩場に堆(うずたか)く積み上げられていました。
 
 
 
 

2013_05010402 湯野浜から10kmほど南下した由良(ゆら)集落を過ぎて県道50号で高台へ上がると、由良漁港の先に白山神社がある白山島(はくさんじま、別名御島)が海岸線と朱色の橋で結ばれているのが見えました。この由良海岸の夕日も美しいそうです。 
 

2013_05010403 沖合の岩礁(がんしょう)上に黒と赤に塗り分けられた小さな灯台のようなものを見つけました。調べると由良港倉泉岩灯標でした。(続く)

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2013年6月 9日 (日)

続・奥の細道疑紀行 酒田市から象潟へ(後編)

2013_05010358 田圃(たんぼ)の脇に出来た水溜(みずたま)りが舟つき場の跡で地面には舟つなぎ石があります。
 
 
 
 

2013_05010360 三十六歌仙の一人である猿丸太夫(さるまるだゆう、さるまるのだいふ)姿見の井戸 
 
 
 
 

2013_05010361 西行法師の歌桜(植え替えられた若木)
 
 
 
 
 

2013_05010362 歌桜の花びら
 
 
 
 
 

2013_05010363 九十九島越しに見た鳥海山。ビニールハウスと住宅が視界を狭めているのは残念ですが、現代における象潟の風景です。 
 
 
 

2013_05010364 大木の枝の股(また)に安置された木登り地蔵は下へ降ろしてもいつの間にか木の上に登ってしまうとの言い伝えがあるそうです。
   
 
 

2013_05010365 その地蔵をズーム撮影しましたが緊張のあまり手振れを生じてしまいました。
 
 
 
 

2013_05010366 本堂の正面に戻ると屋根の上に大きな「三つ鱗(うろこ)」が・・。
 
 
 
 

奈良時代には島であった象潟の地名は紺方(きさかた)と表記され、後に紺形との用法もあったようですが、紺はアカガイの古名キサガイのキサであり、方あるいは形は潟を意味するとみて、赤貝が多く獲れた潟であるとの説があります。それが、歌人によって万葉集などで象潟と表記されるようになったようです。他にも象の形に似た潟、あるいは刻(きざ)まれたまれた潟であるとする説もあるようです。

2013_05010367 時間の都合で芭蕉が訪れた能因島(のういんじま)に立ち寄ることは断念。酒田市へ引き返すことにして奥の細道で最北端にある蚶満寺を後にして鳥海山の景色を楽しみながら国道7号のドライブに専念しました。見晴らしの良い場所を見つけたため車を停めて鳥海山をもう一度撮影。 

2013_05010368 三崎峠まで戻ってその駐車場に車を停めました。
 
 
 
 
 

2013_05010372 新奥の細道コース案内
 
 
 
 
 

2013_05010373 こちらは三崎公園の遊歩道案内
 
 
 
 
 

2013_05010369 日が傾いて凪(な)いだ日本海に陽(ひ)の光が映(は)えています。
 
 
 
 

2013_05010370展望台から酒田市方面を望みました。手前の小路が 遊歩道ですが、芭蕉が旅した時代にははるかに悪路だったのでしょう。遠方には国道7号も見えます。
 
 
 

2013_05010371 象潟方面へも遊歩道が続いています。丘の上には小さな三崎灯台が見えます。
 
 
 
 

2013_05010376 国道7号にある案内板にしたがい右折して少し行くと「旧青山本邸」の大きな看板のかかった門が見えました。午後5時を回っていて、すでに入館締め切り時間を1時間も過ぎています。 
 
 

2013_05010377こ の建物は、安政6年(1859年)漁夫として北海道へ出稼ぎに行き、翌年独立してニシン建網漁業で大成功し、北海の漁業王と言われるようになった青山留吉翁が建築した建物です。門の脇に国指定重要文化財「旧青山本邸」の詳しい説明がありました。 
 

2013_05010375 内部には人影はありません。
 
 
 
 
 

2013_05010374 正面が中心となる建物のようです。内部を見学できないのは残念ですが、蚶満寺で長居をした付けが回ってきたようです。未練(みれん)は捨(す)てることにして酒田市内の宿泊先へ急ぐことにしました。(続く)

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2013年6月 8日 (土)

続・奥の細道疑紀行 酒田市から象潟へ(前編)

2013_05010338 日和山を下りて海岸沿いに国道112号と国道7号線(羽州浜街道)で飽海郡遊佐町(あみぐんゆざまち)に入ると、やがて道の脇に「旧青山本邸」の大きな案内板が見えてきましたが、帰路に立ち寄ることにして、そのまま直進しました。 
 

2013_05010339 風力発電所が並んでいます。庄内有力発電有限会社(日立グループと東京ガスなどが出資)の施設は7基の総出力が14,560kwであり、蓄電池が併設されていて出力変動を緩和(かんわ)することが出来るそうです。ちなみに、酒田市で見かけた風力発電所も同じ会社の施設です。 

2013_05010341 鳥海山が一層間近に迫りました。
 
 
 
 
 

吹浦(ふくら)を過ぎて難所の三崎峠に差し掛かりましたが、ここも帰路に立ち寄ることにして通過して、秋田県にかほ(仁賀保)市に入りました。海岸線近くに伸びる国道7号をひた走って象潟(きさかた)に到着。象潟駅前交差点の付近から蚶満寺(かんまんじ)の案内を探しながら走りましたが、3km余り行過ぎて羽越本線の陸橋を越えてしまいました。Uターン出来る場所が無かったのです。アイフォーン5で検索すると道の駅象潟「ねむの丘」近くにあることが分かりました。海側の景色に見とれていたため、羽越本線の反対側にあった蚶満寺の案内標識を見過ごしたようです。

2013_05010342 羽越本線の小さな踏切を渡ると蚶満寺(かんまんじ)の門柱があり、未舗装ですが数台分の駐車スペースがありました。
 
 
 

2013_05010343 左手の木立の中に何かあるようですから、そちらへ向かうと、西施(せいし)像に出会いました。
 
 
 
 

横の説明板には『中国四大美女の一人で、中国の春秋末期時代に生まれた女性である。越王が呉国との戦いに破れると越王が美女西施を呉王に献(けん)じ、呉王の心を乱し、政治を怠(おこた)らせる計略を考えた。西施も国のために呉国へ赴(おもむ)き、献身的に呉王に尽(つ)くした。後に、呉国を滅ぼした越国では西施を愛国精神を具(そな)えた天下第一の美女とした称(たた)えた』と説明されています。

2013_05010344 松尾芭蕉像
 
 
 
 
 

2013_05010345 かつては参道だった道を歩いて山門へ向いました。
 
 
 
 
 

2013_05010346 右手に九十九島の碑がありました。
 
 
 
 
 

2013_05010347 山門を入った所にある売店で拝観料(300円)を払うと、ボランティアガイドさんが数人を引率してガイドを始めたところでしたので、合流させてもらうことが出来ました。蚶満寺(かんまんじ)の境内と象潟九十九島の詳細な解説を聞くことができました。 
 

2013_05010348 『蚶満寺周辺一帯にはかって九十九島といわれるたくさんの島々を浮かべた潟であり、松島とならび称された景勝地であった。しかし、文化元年(1804年)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地になった。昭和9年の国の天然記念物に指定された』と案内看板に説明されていました。 

2013_05010349 皇宮山蚶満珠禅寺の本堂です。
 
 
 
 
 

2013_05010351 慈覚(じかく)大師(最澄の高弟円仁)の開創(かいそう)と伝えられる蚶満寺には西行法師と北条時頼(ときより)らが訪れたとされるほか、小林一茶や松尾芭蕉なども訪れています。ガイドさんは『芭蕉は酒田から海岸の砂浜や岩場などを歩いて象潟へ辿(たど)り着いた』と曽良(そら)の旅日記を引用して解説しました。   

曽良の旅日記によると、酒田を出て吹浦に宿泊、翌日は象潟に到着しています。奥の細道には『山を越こえ、礒いそを伝ひ、いさごをふみて其際そのさい十里』と記述されていますから、1泊2日で十里(約40km)を歩いたことは確かでしょう。しかし、象潟に2泊した後、帰路は1日で酒田まで戻っていますから舟を利用したのでしょう。

2013_05010350 変わった名前の「夜泣きの椿」はこの寺の七不思議の一つでした。寺の周辺で凶事(きょうじ)が起こると夜泣きするとの言い伝えがあるそうです。   
 
 
 

2013_05010352 本堂の裏手に回るとタブの木(クスノキ科)の巨木が聳(そび)えています。樹齢は1000年を超えるそうです。
 
 
 
 

2013_05010353 北条時頼公のつつじはガイドさんによればほとんど花を付けないそうです。
 
 
 
 

2013_05010354 本堂の屋根には北条氏の紋(もん)である三つ鱗(うろこ)が飾られています。
 
 
 
 

2013_05010355 親鸞聖人御腰石
 
 
 
 
 

2013_05010356 芭蕉の句碑『象潟の 雨や西施が ねぶの花』です。雨の象潟と西施、そして合歓木(ねむのき、マメ科の落葉高木)の花を重ね合わせたのでしょう。芭蕉は推敲(すいこう)後に『象潟や』と変えています。 
 
 

2013_05010357 現在の九十九島を眺めました。芭蕉も境内から象潟の景色を眺(なが)めて、趣(おもむき)は異なるものの松島と並び称された景色にきっと満足したのでしょう。
 
 
 

2013_05010359 農作業をする人たちを見ていると古墳のようにも見えてきました。(続く)

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2013年6月 7日 (金)

続・奥の細道疑紀行 酒田市の日和山公園

2013_05010318 観光マップで見つけた酒田町奉行所跡へ向うと正門が再現されていました。
 
 
 
 

2013_05010320 門を潜った場所に奉行所の説明があります。元和8年(1622年)に酒井氏が庄内に入部して、最初は酒田町代官所が置かれ、後に酒田町奉行所となり、1700年頃には表口約94m、奥行約130mの規模があったことが説明されていました。 
 

2013_05010321 こちらは縮尺復元模型です。現在の場所(約1000平米)は酒田町奉行所の裏手に当たり、当時は約5倍の広さがあったとの説明がありますが、上の説明とは異なるように思われますが・・。
 
 

再度日和山(ひよりやま)公園へ向かいました。酒田港に面した駐車場で少し待つとやっと空きスペースが出来ました。日和山公園は酒田市における桜の名所で、急な階段を登った高台にはソメイヨシノなど約400本の桜が咲き誇っていました。

2013_05010323 1895年(明治28年)、最上川対岸の宮野浦に初めての洋式木造六角灯台(高さ9メートル、一辺の長さ約3メートル)が建てられ、昭和33年(1958年)に近代灯台に役割を譲って現在の位置に移設されたと説明されています。 
 

2013_05010329 1813年(文化10年)に酒田に寄港する北国廻船の航海安全を祈願してこの常夜灯(高さ約3メートル)が建てられたそうです。現在は酒田港繁栄のシンボルとして保存されています。
 
 

2013_05010326 往時活躍した千石船(北前船を1/2で再現)が頂上近くの池に浮かんでいます。
 
 
 
 

2013_05010327 河村瑞賢翁像がありました。初めて聞く名前ですから調べると、酒田港の整備拡張に貢献した人物でした。急増する江戸人口の食料供給の方法として酒田港より幕府直轄地(天領)の御城米を江戸に直送することを幕府に命じられた河村瑞賢は堀や土壘(どるい)を築いて御城米置場を完成させたそうです。その跡は公園の西端にあるようです。

2013_05010325 園内の全長1.2kmにわたる散歩道「文学の散歩道」には、29基の文学碑が建てられ、江戸時代から昭和にかけて酒田を訪れた文人墨客を紹介しています。こちらは斉藤茂吉氏の『おほきなる流れとなれば ためらはず 酒田のうみに そそがむとす』 
 

2013_05010328 若山牧水の歌碑『砂山の蔭に早やなりぬ何やらむ別れの惜しき酒田の港』
 
 
 
 

2013_05010336 野口雨情の歌碑『米ぢや庄内 港ぢや酒田 日和山まで 船が来る』
 
 
 
 

2013_05010337 与謝蕪村の歌碑『毛見の衆の舟さし下せ最上川 新米の坂田は早しもがみ河』
 
 
 
 

2013_05010330 もちろん、芭蕉の立像と『暑き日を 海にいれたり 最上川』の句碑もありました。写真は不玉亭で詠んだ『温海山(あつみやま)や吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み』の句碑です。 
 
 

2013_05010331 展望台から見た鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)
 
 
 
 
 

2013_05010335 そして鶴岡市の方向には月山
 
 
 
 
 

2013_05010332 酒田港のクレーンと最上川対岸にある風力発電施設が手に取るように見えます。六角灯台が最初に建てられたのは風力発電施設がある辺(あた)りかもしれません。 
 
 
 

2013_05010333 最上川の手前にも風力発電施設がありました。
 
 
 
 
 

2013_05010334 眺望点から見た六角灯台と日本海
 
 
 
 
 

酒田では庄内藩主の侍医(じい)・淵庵不玉(えんあんふぎょく、本名は伊東玄順)を訪ねて最初に2泊、象潟(きさかた)から戻って7泊(都合9泊)したそうです。酒田市役所の前に大きな標柱を見かけましたがありますが、不玉亭跡には石標と説明板が立っているのみのようです。芭蕉は不玉邸と玉志邸で句会を開きましたが、何処を見て歩いたかは分かりませんので、私たちは酒田市の歴史的な場所を適当に選んで訪れました。(続く)

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2013年6月 6日 (木)

続・奥の細道疑紀行 酒田市内における芭蕉の足跡

芭蕉は一体何処(どこ)へ行ってしまったのかと訝(いぶか)る方が多いと思いますので、羽黒山に参拝した後の芭蕉の行動を簡単に説明しましょう。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の参拝に1週間をかけた芭蕉は、鶴岡を訪れて弟子のひとりであった中堅の庄内藩士長山五郎右衛門重行(じゅうこう)宅(山王日枝神社の近くにあった)に3泊しましたが、山行(さんこう)の疲れか体調を崩(くず)したため長山邸から出歩くことはほとんどなかったそうです。

そして3日後には長山邸に近い内川(当時は五間川)の大泉橋袂(たもと)にある船着き場(現地に案内看板があるようです)から舟に乗って内川とそれが合流する赤川を下って鶴岡から酒田へ向かいました。現在の赤川は昭和初期に行われた付け替え工事により赤川放水路として直接日本海に注(そそ)いでいますが、芭蕉が訪れた当時は酒田市黒森地区から県道38号に近いルートで最上川に合流していたそうです。

船旅で楽な旅をした芭蕉は酒田にある日和山下の船着き場(現在は酒田港の一部になっている船場町付近)で下船したようです。このため、私たちは酒田に入って日和山公園と酒田港を真っ先に訪れたのです。ここから先は芭蕉なら訪れたであろうと思われる場所を適当に巡(めぐ)ることにしました。

2013_05010298 酒田港から県道43号に出ると一番町交差点の近くに本間家旧本邸(山形県指定有形文化財)がありました。道路の反対側から撮影しようとする間に先行した同行者はすでに門の前に立っています。
 
 

2013_05010297 武家の格式を持つ長屋門の横には酒田市が設置した本間家の解説がありました。
 
 
 
 

本間家のhpによると、『本間家旧本邸は本間家三代光丘が幕府の巡見使一行を迎えるための本陣宿として明和五年(1768年)に新築し庄内藩主酒井家に献上した二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領し、商家造りの方で昭和二十年の春まで住んでいました。桟瓦葺平屋書院造りで、武家屋敷と商家造りが一体となっている建築様式は、全国的にも珍しいものです』と上記とほぼ同じことが説明されています。

2013_05010300 「伏龍(がりゅう)の松」の左手が玄関で、右手が家族の出入りに使われた薬医門です。通り(県道45号)をはさんだ向側には、事業を営んでいたお店(たな)があり、現在は本間家別館として土産物などを販売していました。ちなみに入場料は大人が700円。
 

2013_05010304 本間家の西隣にある駐車場から見ると奥行きがかなりあることが分かります。
 
 
 
 

2013_05010301 荘内証券の前に芭蕉が句会を開いた酒田三十六人衆の一人、玉志近江屋三郎兵衛宅跡の標柱がありました。平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされた時に三代秀衛の妹(あるいは後室)が36騎の従臣に守られて酒田へ落ち延び、従臣たちは回船問屋として酒田を繁栄させ、その子孫は酒田三十六人衆と呼ばれたそうです。 

2013_05010302 旧鐙屋(あぶみや)跡は石置杉皮葺屋根(いしおきすぎかわぶきやね)の典型的な町家造りです。門から右手方向を撮影したため、屋敷の大きさを表現できていないのが残念です。ちなみに、鐙屋は酒田を代表する廻船問屋(酒田三十六人衆)で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たしたそうです。 

2013_05010303 屋根の上に丸い石がいっぱい置かれているのが確認できました。
 
 
 
 

2013_05010305 本間家に東側にある来訪者用駐車場まで戻ると道の反対側に「旧堀端」の案内を見つけました。
 
 
 
 

2013_05010306 新井田(にいだ)川の縁(ふち)に出ました。
 
 
 
 
 

2013_05010307 山居(さんきょ)倉庫と山居橋の案内板
 
 
 
 
 

2013_05010308 山居橋は新井田川に架かる歩行者専用橋です。
 
 
 
 
 

2013_05010311 橋を渡りきった場所に酒田観光マップがありました。観光名所が分かり易く図解されています。
 
 
 
 

2013_05010309 対岸に倉庫が立ち並んでいました。明治26年に建設された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として使用されているそうです。左手前の建物は大正15年に建築された、1階が下見板、2階は蔦(つた)が絡(から)まるドイツ壁の木造建築です。現在はJA全農山形米穀研究所(旧・東宮殿下行啓記念館)として使われています。

2013_05010310 一番手前は「庄内米歴史資料館」として公開されています。入館料は大人300円です。
 
 
 
 

2013_05010312 倉庫に沿って歩くと、左手に石畳が敷かれた船着場がありました。
 
 
 
 

2013_05010313 水辺まで下りて見た新井田川と山居橋
 
 
 
 
 

2013_05010314 隣の船着場には最上川の舟運に使われた小鵜飼船(こうがいせん)が展示されていました。支流や船着場間の近距離輸送に使われ、積載量は50俵ほどだったことと、大石田町の船大工が製作したものであることが説明されています。
 
 

2013_05010315倉庫群の端近くから来し方を振り変えりました。壁に貼られた酒田山居倉庫の案内図には10号棟に続く2棟が売店・食事処・ミュージアムが入る観光物産館として平成16年にオープンした「夢の倶楽(くら)」になっていることが分かりました。 
 

2013_05010317「夢の倶楽」を回り込んで倉庫裏手の遊歩道に入ると大きなケヤキが並んでいました。良く知られてことですが、この山居倉庫はテレビドラマ「おしん」の2度目の奉公先である米問屋「加賀屋」としてロケ地に使われました。(続く)

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2013年6月 4日 (火)

小さな竹の橋

この数年、毎年恒例となっている同窓生との食事会に出掛けました。会場は皇居近く、竹橋にあるホテルの12階のレストランです。日が傾いて皇居が夕日に照らされているのを見ながら食事会が始まりました。6年前4年前の記事で少し触れていますが、今回はメインテーマに取り上げます。お堀(大手濠)に影が映るのは昨年5月にリニューアルオープンしたパレスホテルです。
 
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そして桜田門(警視庁)と霞が関から永田町にかけた見慣れた風景です。
 
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とりあえずビールで乾杯したあとに配膳されたのは「シェフ特製4点盛りプチオードブル」
 
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次いで「本日のポタージュ」
 
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アルゼンチンの赤ワイン「サンタ・アナ」を味わっていると窓の外は薄暮(はくぼ)を迎えていました。その景色を見ていると、なぜかハイ・ファイ・セットのヒット曲「スカイレストラン」(1975年)の歌詞とメロディ、そして見事に表現した山本潤子さん(元赤い鳥)の歌声が思い浮かびました。
 
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メインはビーフステーキ「熱々ジューシー鉄板焼ステーキ」です。あえてロースとおろしポンズを選びました。やや小振りで、私にはちょうど良いボリューム。
 
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最後は「特選デザート」とコーヒー(または紅茶)
 
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食べ終わった時には窓の外が夜景に変わっていました。ここでふと気が付きました。毎年見ている東京タワーが見えないのです。5月31日より地デジ放送の電波が東京スカイツリーから送信されるようになっても東京タワーは残っているはずです。つい先日も神谷町から東京タワーをしっかり確認しています。
 
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どうも、現在建設中の虎ノ門ヒルズが東京タワーをちょうど遮る位置にあるようです。「はとバスで東京見物」の記事で紹介したように、東京タワーと東京スカイツリーの両方をよく展望できることが気に入っていたホテルでしたが・・。
 
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近況などを交換する間に今回食事会に出来なかったメンバーに話が及ぶと、幹事さんがその何人かに電話してくれて、予期しない電話座談会になっていました。思わず口を突いて出る方言を使った昔話に花が咲くと半世紀前のことが鮮(あざ)やかに甦(よみがえ)って、気が付けば食事会は3時間に及んでいました。

ピアノの生演奏を聴いていると、昔懐かしいハワイヤンの名曲「小さな竹の橋」の歌詞が思い浮かびます。♪♪小さな橋よ 竹の橋の下 川の水に流れてゆく。あの日の夢も 楽し思い出も 青い水に流れてゆく。永い年も月も 色とりどり。やがては消えてゆく 赤いバラの花びら。小さな橋よ 竹の橋の下 恋も夢も流れてゆく♪♪
 
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大手濠と大手門の周辺はすっかり夜景になっています。
 
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これはレストランの別の窓から見た首都高速都心環状線の神田橋出入り口周辺の様子で、遠方に東京スカイツリーが写っています。
 
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東京スカイツリーが鮮やかな照明に浮かび上がるのは昨年と同じです。手振れに注意しながらズームアップして撮影しました。
 
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酔いが回った友人を最上階(15階)の部屋に送り届けて戻る途中に、明るく照明されたチャペルがいつものように輝いています。
 
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