続・奥の細道疑紀行 春日山城跡(前編)
山道を少し上った駐車場にある春日山周辺の絵図には先ほど立ち寄った春日神社(右下)と上杉謙信の墓がある林泉寺(その上)、そして春日山に築かれた春日山城の広大な城跡が分かり易く示されています。ちなみに、芭蕉は直江津の宿を出て約6km南にある高田を往復しましたが、この場所には立ち寄っていません。
こちらは古い絵図のように描かれた春日山城跡です。春日山の麓(ふもと)に描かれた旧加賀街道(北国街道)は江戸へ通じる公道として五街道に次ぐ街道であり、加賀の前田氏をはじめ北陸諸大名の参勤交代の道でした。特に前田氏は幕命によりこの街道以外の通行は原則許されなかったことから「加賀街道」と呼ばれたそうです。
駐車場の前から春日山神社の参道である長い石段が上方の鳥居まで続いています。その入口にある「大義名分」「公明正大」と彫られた2本の石柱は明治時代に立てられたもののようです。
振り返ると同行者が濡(ぬ)れた石段を足元を確認しながら慎重に上って来ます。
鳥居の手前から見た春日山神社の境内です。明治34年(1901年)に創祀(そうし)されたこの神社は山形県米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信命を祀(まつ)っています。
社碑には元帥大勲位伯爵東郷平八郎書とあります。東郷元帥(げんすい)は日露戦争において連合艦隊を率(ひき)いて日本海海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を打ち破ったことで知られます。その時の旗艦(きかん)は横須賀の記事で紹介した三笠です。後に公爵に陞爵(しょうしゃく、爵位が上がること)しています。
木々が生茂(おいしげ)っていて直江津の町はほとんど見えません。
この下方に城主の館跡でああった「お屋敷」と呼ばれる大きな廓(くるわ)があるようですが、ここからは見ることはできません。春日山城は越後守護であった上杉氏が築城したものを上杉謙信(長尾景虎)の父で越後守護代であった長尾為影が修築した要害(ようがい、防御性に富む)の山城です。
その先に続く階段の脇には「空堀・直江屋敷跡へ」と表示されています。
虎口(こぐち、要所にある出入り口)で二の丸方面と直江屋敷方面が分かれます。
広い郭(くるわ)に出ました。直江屋敷跡と思われますが何の表示もありません。
少し先にある三段目の郭(くるわ)に「直江山城守宅址」と彫られた石柱を見つけました。もちろん、これが上杉家(最初は長尾家)の重臣であった直江兼続(かねつぐ)の屋敷跡と推定される場所です。
直江屋敷の説明板には謙信の跡目を継いだ上杉景勝(謙信の養子)の家老として活躍し、景勝が会津へ国替えをした時に同行し、米沢藩30万石の城主になったことが簡単に書かれています。
木立の途切れた場所から家並みが少し見えました。眼下には車が通行できる道が通っていますが、茶屋がある馬場跡から三の丸方面へ続く道のようです。
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