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2013年7月に作成された記事

2013年7月31日 (水)

メーグルでたどる名古屋の歴史 産業技術記念館(後編)

赤レンガ造りの建物が昔の雰囲気を残すトヨタテクノミュージアム産業技術記念館に正面入口から入りました。
 
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内装は現代風にアレンジしてあります。通常は有料(大人料金500円、ただし65歳以上は無料)ですが、私が訪れた6月9日とその翌日は無料でした。ちなみに、メーグルバスの1DAYチケットを購入すると名古屋城・二葉館・産業技術記念館などの料金が2割引きとなります。
 
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エントランスロビーで環状織機の動態展示が出迎えてくれました。豊田佐吉氏が1906年に発明したこのユニークな自動織機で、展示機は1924年に製作されたおのであると説明されています。
 
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その横にタペストリーを作る手織り体験コーナーがありました。
 
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テクノランドの前を通過した場所に産業革命の原動力になった巨大な蒸気機関が展示されていました。窓の外は「動力の庭」と呼ばれているようです。
 
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スイスのスルザー・ブラザーズ社製のクロスコンパウンド型(十字複式)蒸気機関(1898年)は長年ドイツの工場で使われていたものを2005年に産業技術記念館が譲り受けたものでした。
 
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トランペットを吹くロボット「トヨタ自動車のパートナーロボット」は2005年に開催された「愛・地球博」こと愛知万博のトヨタグループ館にて音楽ショーを行った有名なロボットは私が訪れた翌日の6月10日にさよならコンサートを開いて引退したそうです。残るパートナーロボットはトヨタ会館にある1体のみになったようです。
 
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奥にある自動車館(自動車の仕組み・国産技術・生産技術などを展示)と繊維機械館(紡ぐ・織る技術などを展示)もぜひ見たかったのですが、市資料館南停留所でメーグルバスに乗り遅れたことが響いて時間切れになってしまいましたので、次の機会に譲ることにしました。

 
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自動車が展示されている屋外へ出ました。まず目に付いたのは大衆車と呼ばれた1966年製トヨタカローラ(1077cc)です。実は、私が最初に購入した新車はモデルチェンジした1970年製の2代目カローラ(約1200cc、2ドア)でした。
 
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クラウンの最新モデル(17代目)の一つである「ハイブリッドアスリート」(市販予定車)はど派手なピンク色です。
 
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1955年製初代トヨペットクラウン
 
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1970年製セリカ(1588ccツインカムエンジン搭載)は日本初のスペシャリティ・カーで絶大な人気がありました。
 
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屋外展示エリアの全景
 
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右手方向
 
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左手方向
 
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先ほど入ったエントランスは南ゲートで、こちらが正面ゲートでした。屋根がある場所がバスの停留所です。
 
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15時55分発のメーグルバスで名古屋駅へ戻りました。この観光コースは今回のように半日(約5時間)で巡ると駆け足になってしまいますから、2回に分けるか、あるいは的を絞った場所だけを訪れることをお勧めします。(終)

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2013年7月30日 (火)

メーグルでたどる名古屋の歴史 産業技術記念館(前編)

「市政資料館南」停留所で次のメーグルバス(午後2時48分)が来るまで30分待ちました。
 
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次のメーグルバスがやっと到着しました。
 
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久屋大通りに入って「名古屋テレビ搭」停留所で停車しました。目の前に一年前に立ち寄ったオアシス21
 
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桜通り(国道19号)から見た名古屋テレビ搭
 
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観覧車があるサンシャインサカエ・ビルの2階にはSKE48劇場があります。
 
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栄の繁華街で渋滞のために動かなくなったメーグルバスから中央分離帯にある奇妙なものを見つけました。街路灯でしょうか?
 
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広小路通りを右折して伏見通りに入ります。
 
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丸の内二丁目にある交差点
 
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トヨタテクノミュージアム産業技術記念館に到着しました。思ったよりも簡素なエントランスです。
 
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案内看板
 
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エントランス横に建つビルは1925年(大正14年)に建設された豊田紡織本社ビルを修復したトヨタグループ館です。この場所は豊田佐吉が発明の足場として豊田自動織布工場を設立し、後に豊田紡織本社になった場所であり、トヨタグループの発祥の地であると説明されていました。豊田佐吉・喜一郎両氏にゆかりの品や資料などを展示しているようです。
 
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その左隣には豊田商会事務所も保存されていました。
 
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一般に公開されているトヨタグループ館の方に入ると糸枷(いとかせ)機のようなものが目に付きました。説明を読むと豊田式糸繰返機(1894年年製動力式の複製)は糸枠の着脱が容易で個々に取り扱えるようにして、一度に多数の枠取りができるたいへん作業性がよく高能率の糸繰返機であると説明されています。
 
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豊田佐吉氏が取得した特許
 
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初期に生産された自動車には「トヨダ」の名前があります。
 
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1946年 製のトヨタのミシン第一号機(アイシン精機) 
 
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2階へ上がると社長室がありました。
 
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こちらは幹部用会議室です。
 
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木製タイムレコーダー(天野製作所製)は昭和10年代の製品と思われ、国産初の電気式タイムレコーダーであったことがアマノ株式会社からの修理を受け付けた旨を記載するレター(2006年3月13日付)とともに展示されていました。
 
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(続く)

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2013年7月28日 (日)

メーグルでたどる名古屋の歴史 文化のみち主税町・白壁・橦木町

二葉館から100m余り北にある主税町(ちからまち)長屋門は江戸時代の武家屋敷の長屋門として当時の位置に残る唯一のものです。長屋門は名前の通り両側が長屋となっており、そこに家臣や下男を住まわせた門。マンションの建設に当たって歴史的資源を活かした魅力ある町並み景観とするため修復して保存されていることと左手にある出格子付き番所(武者窓)は武家屋敷のみに設けることが許されたことが説明されていました。ちなみに、戦前も工業都市であった名古屋市は第二次世界大戦末期に激しい空爆を受けましたが、工場や主要施設が少ないこの東区は戦災の影響は少なかったため、戦前の建物が残っているようです。
 
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西方へ100mほど歩くと古民家風の趣(おもむき)ある門構えが目に入りました。両側をビルに挟まれた一軒屋です。オーナーシェフの北村竜二さんがフランス料理を提供する結婚式場「La Grande Table de KITAMURA(ラ・グランターブル ドゥ キタムラ)」(2004年オープン)は名古屋で指折りの名店だそうです。
 
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堀美術館は名古屋に本社を置く建築設備業向けCAD企業のダイテックグループとダイテック創業者 堀誠社長のコレクションを広く一般に公開するために2006年6月にオープンしたようです。展示されているのは日本の近代美術を代表する洋画家の梅原龍三郎・長谷川利行・藤田嗣治(つぐはる)・海老原喜之助・杉山寧・加山又造などの作品とのこと。月曜日休館。
 
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アーカンジェル迎賓館はひと目でそれと分かる白亜の結婚式場です。テイクアンドギヴ・ニーズ(T&G)社(本社東京)は国内外で多数の結婚式場を運営する企業です。
 
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か茂免(かもめ)は結婚式の出来る老舗料亭(しにせりょうてい)です。千坪の敷地に日本庭園と回廊・茶室・大小の座敷がある数寄屋造の建物があるようです。
 
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分会書庫跡の看板が目に入りました。尾張藩士河村秀穎(ひでかい)が創立した名古屋初の図書館があった場所です。2万巻以上の書籍が収集されていて、一般に公開されていたそうです。
 
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「白壁町ハウス」の名がある立て看板と歴史を感じさせる門と塀がマンションの前にあるのが見えました。マンションの門にしてはチグハグだと思って良く見ると「旧豊田家の門と塀」でした。調べてみると自動織機を発明した豊田佐吉の婿養子である豊田利三郎邸とする説明が見つかりました。利三郎氏は豊田自動織機製作所とトヨタ自動車の初代社長を歴任した人物です。
 
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しゃれた洋館(個人宅)を見かけました。櫻井家住宅は名古屋市の景観重要建造物に指定されています。
 
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一般の民家のようですが、高い黒塀が印象的です。
 
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百花百草(ひゃっかひゃくそう)は岡谷鋼機の創業家である岡谷家の邸宅でした。(写真は表門)1920年(大正9年)に建てられた書院や茶室・土蔵を改修して2007年(平成19年)に『文化のみち百花百草』として開館(毎週水-土曜日)したそうです。百花百草はかって岡谷家が所蔵し、後に徳川美術館へ寄贈した江戸時代後期の絵師・田中訥言(たなかとつげん)が描いた重要文化財の百花百草図屏風(びょうぶ)にちなむそうです。
 
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旧料亭樟(くすのき)は黒く塗られた和風の門と板塀が目を引き、塀越しに見える緑と調和して落ちついた景観が形成されています。
 
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料亭香楽はひときわ目立つ武家屋敷です。素材をいかした懐石料理と、地元名古屋コーチンを八丁味噌ベースの秘伝のお味噌を使った鶏料理「香楽鍋」が有名のようです。
 
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百花(ひゃっかろう)は和と洋が不思議な形で融合された和魂洋才(わこんようさい)の結婚式場です。
 
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春田鉄次郎邸は大正13年(1924)頃に建てられたアールヌーボーの余韻漂う洋風数寄普請です。陶磁器貿易商として成功した春田鉄次郎が武田五一に依頼して造った住宅と言われています。現在は、創作フランス料理「デュボネ」として営業している部分と見学者用に開放している部分とあるようです。
 
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旧豊田佐助邸は豊田佐吉の弟である佐助が住んでいた住宅です。木造の洋館・和館を併設した珍しいスタイルです。水・木・土と週に3日だけ公開されています。
 
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文化のみち橦木館(しゅもくかん)は陶磁器商として活躍した井元為三郎が大正末期から昭和初期に建てた当時の様子をよく伝える邸宅です。大きく区画割りされた敷地に和館、洋館、東西二棟の蔵、茶室、庭園が残されています。珈琲館「橦木館カフェ」が営業しています。月曜日休館。
 
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さらに西方へ歩くと古い住宅が並んでいました。これは伊藤家住宅です。
 
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そして大森家住宅
 
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国道41号に出て外堀通りと交差する東片端交差点に向うと名古屋高速の東片端JCTが目の前に広がりました。写真には写っていませんが、頭上に1号楠線と都心環状線をつなぐ高架道路が左右に延びています。
 
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この交差点から外堀通り沿いに歩いた場所にメーグルの「市政資料館南」停留所があるはずですから、先ほど下車した「文化のみち二葉館」停留所に戻るより楽だと思ったのです。しかし、近いと思ったその停留所まで約400mもあり、後ろから来たメーグルバスは私を追い抜いて行きました。そして交差点で信号待ちをする私は交差点の先にある停留所を発車したメーグルバスが小さくなるのを惨(みじ)めな思いで見送りました。やはり、主税町・白壁・撞木町を一周して「文化のみち二葉館」停留所に戻るべきでした。(続く)

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2013年7月27日 (土)

メーグルでたどる名古屋の歴史 文化のみち二葉館

乗車する予定のメーグルバスが定刻に停留所へ到着しました。名古屋城停留所でほとんどの乗客が下車しましたから確実に座れそうです。
 
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次の停留所は「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」です。5年前に徳川園と徳川美術館を訪れていますから今回はパスすることに。その次の「文化のみち二葉館」停留所で下車すると停留所の前に立派な洋館「二葉館」(国の登録有形文化財)がありました。「旧川上貞奴邸」と表示されています。
 
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日本初の女優と謳(うた)われた川上貞奴(さだやっこ)と、電力王と称された福沢桃介(ももすけ、福沢諭吉の婿養子)が、大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元し、貞奴の関連資料を展示するとともに、郷土ゆかりの文学資料の保存・展示を行っているそうで期待できそうです。

正面玄関を入ったホールにある受付で入館料(大人200円)を支払いました。ホールの左手にはまわり階段と暖炉(だんろ)が設備された大広間があります。その暖炉の上に置かれたディスプレイで二葉館の説明ビデオが流されていました。
 
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左手にあるのは綺麗(きれい)なステンドグラスです。当時の有名なデザイナーであり、福沢桃介の義弟の杉浦非水が描いた原画をもとに作成したとのこと。
 
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暖炉の反対側にある半円形をした休憩エリアには復元された円形ソファが置かれています。
 
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天井の様子
 
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展示室1(旧食堂)に入りました。こちらの窓もカーブしており、上部には山並みをモチーフにしたステンドグラスがはめ込まれています。
 
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壁際にあるガラスケースに入っているのは唯一現存する貞奴の舞台衣装「花魁(おいらん)のうちかけ」と「深山の美人」の舞台で貞奴が使用した小道具「薙刀(なぎなた)」(レプリカ)で、その右側はドイツ人画家のミュッラーが1900年頃に描いた貞奴のポスター「サダ・ヤッコ(川上貞奴来演)」です。
 
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パリで撮影した貞奴の写真や舞台脚本、雑誌・新聞のスクラップ、貞奴を描いた青年ピカソのデッサンなどを展示するガラスケース
 
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川上貞奴さんと福沢桃介さんの年譜
 
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展示室3(旧茶の間)の和室には福沢桃介が漢詩(唐代の詩人・崔敏童作)を直筆で書いた掛軸・貞奴が愛用していた火鉢(レプリカ)・座布団・三味線などが当時の雰囲気を感じさせます。
 
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桃介が電燈会社(関西電力と中部電力の前身)の社長であったこともあり、当時の貞奴邸は電気設備がとても充実しており、屋根の上にはサーチライトが備えられ、自家発電設備も設置されていたそうです。写真は配電線ごとに設置されたヒューズ付きのスイッチ群(現在のブレーカーに相当)がある分電盤です。
 
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創建当時は名古屋城や御岳を一望できる高台にあり、遠くからも目立つ建物であったため、当時の地名の東二葉町から、世間では二葉御殿と呼んでいたと説明されています。
 
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まわり階段で二階へ上がると「文化のみち」の解説がありました。名古屋城から徳川園に至る白壁(しらかべ)・主税町(ちからまち)・橦木町(しゅもくちょう)は名古屋の近代かの歩みを伝える歴史的な遺産の宝庫ともいえる地区であると説明され、右の地図には主な建物が表示されています。
 
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大正時代の川上貞奴邸(地図の上部中央の⑭)は現在の二葉館(ほぼ中央の⑬)の少し北にあったことが表示されています。
 
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「日本の近代文学は名古屋から始まった」のタイトルに惹(ひ)かれて読んでみました。そして、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)と二葉亭四迷(ふたばていしめい)はともに名古屋の出身であったことを知りました。
 
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雑然とした書斎で意外なことに人気作家・城山(しろやま)三郎さんの写真を発見。よく考えると城山さんは名古屋の出身でした・・。
 
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反対側の壁際に城山三郎さんの年譜(ねんぷ)と多数の著書が展示されていました。私はずっと前に読んだ城山さんの長編小説「役員室午後3時」(鐘紡がモデル)、「官僚たちの夏」(高度成長を推進した通産官僚の出世競争が描かれる)、「落日燃ゆ」(A級戦犯になった元首相廣田弘毅の生涯を描いた物語)を思い出しました。
 
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(続く)

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2013年7月20日 (土)

メーグルでたどる名古屋の歴史 名古屋城本丸御殿(後編)

本丸御殿中之口部屋を出て天守閣の方面へ向うと工事事務所のようなものがありました。その後方には天守閣とともに小天守閣も見えます。
 
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本丸御殿復元工事見学コーナーの看板を見て立ち寄ることにしました。
 
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本丸御殿の工事スケジュールがパネルで説明されています。第一期工事の「玄関・表書院」は2013年3月に完了して5月29日に一般公開されていますが、第二期工事の「対面所等」は2016年の公開、第三期工事の「上洛殿等」は2018年の公開が予定されているようです。
 
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本丸御殿の見取り図「御本丸御深井丸図(ごほんまるおふけまるず)」です。ちなみに、御深井丸とは西北隅櫓がある天守閣の北西に位置する郭(くるわ)のことです。
 
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同上(昭和実測)には中之口部屋などが表示されていません。
 
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規矩術(きくじゅつ)と「さしがね(指矩)」が説明されています。規矩術とは建物接合部材の形状を規(円、つまりコンパス)および矩(方形、つまり指矩)によって作り出す手法でした。この説明を読んで高校の数学教師が幾何学の授業でヒモと定規を使って様々な図形を綺麗に描いたことに驚いたことを思い出しました。あれも規矩術だったのでしょうか?
 
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昔の大工道具である「釿(ちょうな)」(注;木材を荒削りしたのち平らにすることに用いる鍬(くわ)形の斧(おの))、「玄能(げんのう)」(注;大きな金槌(かなづち)、「鋸(のこ)」(ノコギリ)、「鑿(のみ)」、「鉋(かんな)」などが解説されています。
 
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本丸御殿の完成イメージ図
 
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天守閣へ向いました。小天守閣の間近まで工事用の塀(へい)が伸びています。
 
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その塀に本丸御殿(玄関・表書院)の公開ポスターが貼られています。
 
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本丸御殿復活へのあゆみパネル展
 
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本丸御殿の模型
 
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不明門を抜けて本丸から御深井丸に出ると右手に内堀が見通せました。
 
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内堀の外側を前回とは逆方向に歩くと「天守の石垣」に今回も目を惹(ひ)かれました。
 
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本丸御殿復元工事の「木材加工場・原寸場」がありますがこの日(日曜日)は見学できませんでした。
 
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本丸御殿と天守閣を一周するコースを経て西南隅櫓まで戻りました。次の「メーグルバス」(12時52分発)まで15分ほどになりましたので正門を出て約1時間20分前に下車した名古屋城停留所へ向うことにしました。
 
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(続く)

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2013年7月19日 (金)

メーグルでたどる名古屋の歴史 名古屋城本丸御殿(中編)

本丸御殿玄関の右手を少し進んだ場所に観覧者の入口があるようです。
 
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一般客の入口となっている中之口部屋で靴を下足箱に入れて折れ曲がった通路を経て奥へと入りました。
 
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虎の間とも呼ばれた玄関一之間の奥に重要文化財の襖絵(ふすまえ)「竹林豹虎図(ちくりんひょうこず)」がありました。
 
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焼失前の姿がそのまま再現された玄関一之間
 
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襖絵「竹林豹虎図」も煌(きら)びやかに模写復元されています。
 
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玄関二之間の「竹林豹虎図」
 
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玄関から外を眺(なが)めました。
 
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玄関と二之間の間にある廊下の竿縁(さおぶち)天井
 
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一之間を撮影する人たち
 
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大廊下を通って本丸御殿で最大の建物である「表書院」に入りました。「表書院」とは藩主と来客や家臣が謁見する応接室で、江戸時代は広間とも呼ばれたそうで、計5部屋ありました。その最初は三之間です。天井は格子の間に板をはった格(ごう)天井で、左手に少し見えるのは三之間西側襖絵「麝香(じゃこう)猫図」。薄暗い上に急いで撮影したため手振れが生じてしまいました。後で知りましたが、39畳もあるこの広い部屋だけは中へ入ることができたようです。
 
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左隣の二之間西側にある襖絵「松楓禽鳥図(しょうふうきんちょうず)」
 
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表書院の奥にある上段の間は一段高くなった床(とこ)や付書院(つけしょいん)を備えています。藩主や重要な来客の座として使われたそうです。またもや手振れ写真になって・・。
 
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左手から見た一之間です。この部屋だけは小組格(こぐみごう)天井が採用されています。格子の間に板ではなく小型の格子が組み込まれています。右半分に見えるのは東側襖絵の「桜花雉子図(おうかきじず)」。
 
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横から見た上段の間には左から床の間・付書院、そして中央に見える襖絵「桜花雉子図(おうかきじず)」の奥は武者隠し(上段の間に座る藩主を警固する者が詰める場所)と二之間にも接する納戸の間(非公開)があり、右端に少しだけ見えるのは南側襖絵の「松竹禽鳥(しょうちくきんちょう)図」です。
 
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床の間絵(左)と折り上げ小組格天井(右上)が藩主の権威を示しています。この上段の間は亀の尾(支輪)と呼ばれる曲がった材料で天井を一段高くしています。
 
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上段之間の突出し天窓は花欄間(はならんま)で、その花形模様が美しい。
 
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現在も工事中の対面所(左側)と表書院の間に伸びる幅の狭い畳廊下(たたみろうか)を抜けて出口へ向いました。
 
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(続く)

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2013年7月18日 (木)

メーグルでたどる名古屋の歴史 名古屋城本丸御殿(前編)

所用で名古屋へ出掛けた折に昨年と同様に市内を散策することにしました。今回のハイライトは何と言っても第一期工事分の玄関と表書院が完成して5月29日に一般公開された名古屋城の本丸御殿ですが、それだけではもの足りませんので名古屋らしさを感じさせるエリアにも足を伸ばす計画を立てました。

今から1カ月前の6月16日に朝の新幹線に乗りました。この日はあいにくの曇天で三島駅付近から富士山を見ることができません。携行した軽い内容の本を読んでいるうちに名古屋駅に到着しました。到着した16・17番線ホームでいつも利用する「住よし」で「たぬき玉子入りきしめん」(440円)を注文しました。この店で、かき揚げ玉子入りきしめん(かけ)きしめんきつね入りきしめんみそきしめんを食べた感想を当ブログの記事で紹介しています。
 
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ほどなく配膳された「たぬき玉子入りきしめん」は「(かけ)きしめんのたぬき版」に玉子を入れたものです。写真では玉子が沈んでいるためシンプルな「たぬききしめん」に見えて、かき揚げ入りのような豪華(ごうか)さはありませんが、その味は申し分ありません。
 
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名古屋駅東口のバス乗り場(8番)へ向いました。停留所の屋根裏に「メーグル」と書かれた右端のレーンには長い行列が出来ていました。「メーグル」とは市内北部の観光地を定額で巡回できる「なごや観光ルートバス」の愛称です。「メーグル」とは「メー」(名古屋の省略形)と「グル」(巡回をイメージさせる擬音のグルグル)」を組み合わせた造語と思われます。
 
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名駅通りの反対側では大名古屋ビルヂングが取り壊されて新しい大名古屋ビルヂングの建設が5月から始まっているようです。そして名古屋駅側でも「名古屋駅新ビル」(仮称)の建設が始まっていました。
 

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「メーグルバス」の一日乗車券を案内と整理をする人から500円で購入しました。
   
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到着した「メーグル」(バス)の後部には名古屋城本丸御殿の玄関と表書院が5月29日に公開されたと表示されています。
 
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「メーグル」への乗車が始まりました。乗車時に運転席脇の機械で日付を印字してもらう仕組みになっていました。乗車時に運転席脇の機械で日付を印字してもらう仕組みになっていました。
 
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午前11時10分に出発した「メーグル」は名駅通りを北へ向い、則武(のりたけ)新町交差点を右折して「産業技術記念館」停留所と、しばらく走った「ノリタケの森」停留所にまず停車しました。
 
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外堀通り(県道200号)の新御園橋交差点を左折して伏見通り(国道22号)を北上すると名古屋城が近づきました。名古屋城前交差点とその西側に接した名古屋能楽堂の敷地内にある加藤清正像が見えます。
 
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名城正門交差点に近い名古屋城停留所でメーグルバスを下車。1年前にも訪れた名古屋城の正門へ向いました。明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されて正門となりましたが、第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年に天守閣とともに現在の正門が再建されました。
 
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西之丸に入ると見事な天守閣の屋根瓦の緑青入りが新緑に映えていました。右手前は解体修理中の西南隅櫓(重要文化財)です。この建物は慶長17年(1612年)頃に建てられ、大正10年(1921年)に土台の石垣の崩壊にともない行われた大規模修理以来の大規模な修理だそうです。ちなみに工事の完成は平成26年秋頃の予定。
 
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さらに東方へ直進して本丸御殿方面へ向かいと大きなテントが張られていました。ここが行列の最後尾のようです。強い日差しを避けるためのテントがあることはあり難い。
 
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テントの中には長い行列に並ぶ人を退屈させないように本丸御殿内の写真パネルが飾られています。
 
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こちらは玄関付近の解説
 
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そして謁見(えっけん)の場である一段と豪華な表書院上段之間の写真を見ると期待が高まりました。
 
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観光用の人力車が待ち行列の切れ目を抜けて西南隅櫓の方向に向います。
 
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表二之門へと行列が続いています。西之丸を東西に通行する人たちのために簡単な遮断機が設置してあります。
 
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枡形(ますがた)を構成する本丸表一之門跡
 
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本丸御殿の車寄(くるまよせ)と玄関がやっと見えました。玄関破風(小さい屋根)とその上にある飾り瓦(かわら)の獅子口(しちぐち)と下にある兎毛通し、そして中之口部屋の屋根の木連格子と建物を火災から守る懸魚(げぎょ)などが印象的です。名古屋城本丸御殿は尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615年)に建てられました。寛永11年(1634年)には将軍のお成御殿として上洛殿(じょうらくでん)が増築され、格式高い御殿として知られていましたが、昭和20年(1945年)の空襲で天主閣とともに全焼したそうです。
 
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少し前進した位置から玄関破風をアップして撮影しました。
 
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(続く)

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2013年7月11日 (木)

会田雄次著「敗者の条件」を読む(後編)

慈悲心のある者

2013_06080020 主家で摂津(せっつ)の守護(しゅご)である和田を討った功を認められて信長方の荒木村重(むらしげ)から高槻城を与えられた高山右近は荒木村重が信長に謀反(むほん)すると信長に降参する。優柔不断であったため将としての右近の評判は思わしくないが父の代からのキリシタンであった右近は外人神父の評価が高い。天正15年(1587年)にキリシタン禁圧とともに所領を没収され、小西行長(ゆきなが)や前田利家(としいえ)のもとに身をよせた。右近が重要視されたのは、秀吉がキリシタン趣味に魅せられていたのと、一向宗(いっこうしゅう)の勢力に対抗するためキリシタン信徒を保護しようとしたためである。

2013_06080023つまり、それは秀吉とキリシタンの仲介者(ちゅうかいしゃ)としてであって、戦士としてではない。キリシタンが必要でなくなれば、消されるのが当然だろう。慶長19年(1614年)、家康のキリシタン禁止令によって、右近はついに京都へ移され、マニラへ追放されてのちまもなく死んでいる。喰(く)うか喰われるかの現実と、慈愛(じあい)という当時の「虚妄(きょもう)」の間をさまよう犠牲者(ぎせいしゃ)だったといえると著者はいう。

自己の世界に徹する者 

千利休(省略)

後進地域にいた者

2013_06080001 戦国時代のわが国を先進地域(近畿とその周辺)、中進地域(瀬戸内海沿岸・北陸・中部地域)、後進地域(その他の地域)の3つにわけて、どの地域に生い立った強豪が、覇権(はけん)を握(にぎ)るのに一番都合がよいのかを著者は述べた。後進地域はすでに地に落ちた中央部権威と権力にまだ振り回され、後進地だけに財力も乏(とぼ)しい。先進地域は有能な人材が集まりすぎて、お互いに足をひっぱり合うし、策略に神経を参らせてします。

残る中進地域はまだたくましさも残っており、あるていどの合理性も理解できる。先進地域への劣等意識も強くないから、権威へのおびえもない。財力も相当にある。いわば先進地と後進地の長所短所がすべてそろっていて、能力のあるものは長所のすべてを結集利用できるということになる。結局、中進地域は一番有利と著者は考える。

2013_06080004戦国時代、人生を左右する運命の岐路は20歳台である。そのとき機会が到来しなかったもの、あるいは到来してもその機会をものにすることができなかった人間は、生涯浮かび上がる可能性をもはやほとんど失ったものと見てよい。今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで信長に敗れたあと、これに続いて京にのぼって天下を統一しようとした武田信玄は、浜松の三方(みかた)ヶ原で信長の援軍を得た徳川家康の軍を打ち破ったが、持病の胸の病が悪化して倒れたのである。

その子勝頼もまた勇武の将であったが、信長よりも時代的にまわり合わせが悪かった。信長の三段構えに配置された3000丁(ちょう)以上の鉄砲隊の前に壊滅。ついに甲斐の国に侵入した信長のために一門郎党は殲滅(せんめつ)された。源義家の弟、義光の子孫で、甲斐信濃の守護大名とういう名門武田家の最後であった。やはり上杉謙信との対決が負担であり、甲斐は京都に遠かったことと、土地所有の立ち遅れによる辺境性(豪族軍の寄り合い所帯)、そして信長の存在が大きかった。

先進地域にいた者 

松永久秀(省略)

ある勝者  

2013_06080062竹中半兵衛とともに秀吉の両翼といわれた智将、黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか)は数奇な伝説につつまれた武将である。彼は織田信長から秀吉の配下に配属された武将であった。いたって風貌(ふうぼう)はあがらず、武勇の士というよりむしろ策謀(さくぼう)の人であった。官兵衛は信長の急死を秀吉が毛利征伐中の秀吉から預かった姫路城で知る。信長を討った明智光秀にはやはり自分自身の能力に対する過信があったが、光秀よりもっと的確にこの状勢をのみこめたのは、やはり光秀と同じく天下に野心のあったこの孝高だったかもしれないと著者はいう。

2013_06080064しかし、おびただしい兵馬とともに秀吉が反転してきたのである。孝高の観測の誤りは、秀吉の力を過小評価したことにある。交通の要地である姫路城を秀吉に提供し、自分は小城の山崎城へ事前に移っていた孝高は期待しながら、一時休息のため城中に入った秀吉に向って光秀との合戦は天下をとる機会であると囁(ささ)いた。だが、すべてを見通したような秀吉の鋭い視線に孝高は異常な不安におそわれた。秀吉に自分の野心を見出されたであろうから、もう自分は絶対に信用されなくなったことを悟(さと)ったのである。

2013_06080071そして狂気したように秀吉のご機嫌(きげん)をとり、これといった恩賞(おんしょう)は与えられなかったが秀吉に忠節をつくしている。必死の働きで、かろうじて詰腹(つめばら)を切らされることをまぬかれたといえるのだが、秀吉は孝高をなお警戒していた。そして、孝高は天正17年(1589年)に剃髪(ていはつ)して如水円清(じょすいえんせい)と号し、家督を長政にゆずっている。著者は如水の名は自分の望みを水の泡のごとく失ったという意味で、秀吉に対する命乞(いのちご)いなのであるという。

2013_06080082秀吉の死は、孝高の生命を救うと同時に、かれの天下統一の野望を復活させた。関ヶ原の合戦時には東軍として手薄になっていた西軍に味方した九州の大名領の大半を征服して自分の能力を確認したあとは、そのすべてを家康に献上し自らへの恩賞も辞退して隠居(いんきょ)生活を送った。『考高は戦国に生きようとした若き日の決心を生涯貫きえたまれにみる男だったといわねばならない。勝者としたゆえんである』との言葉で著者は締(し)めくくった。

                         ☆

文芸復興として知られる一方で戦乱に明け暮れたルネサンス期の政治思想家マキャべり(マキャヴェッリ)の「君主論」とその時代の視点から日本の著名な戦国大名を「勝者」と「敗者」に規定し、「競争」とは何かと「自由」とは何かが濃密に記述されていました。敗者が悪人の汚名を着せられ、あるいは敗者が劣った人間であると決め付けられる歴史的な評価事例をルネサンス期の西欧人たちと対比しながら解説する本書を興味深く読み終わりました。

先の大戦でビルマ戦線に送られ、終戦後の二年間をイギリス軍の捕虜(ほりょ)としてアーロン収容所で暮らした経験を通して著者は、勝者となった後も闘争の精神を失わず、徹底して敵を絶望に追い込むヨーロッパ人の執念深さを知ったと言います。そして著者はヨーロッパ人の闘争心の起源をルネサンス時代のイタリアに求めています。ルネサンス時代のイタリアは、新興市民層の力で古い社会が動揺・混乱し、人殺しと内乱と戦争が続いた地獄図絵の世界であり、権謀術数の限りを尽くした戦いの時代であったと解説します。つまり、戦国時代の日本もルネサンス時代のヨーロッパも、「勝者の条件」と「敗者の条件」は同じだったというのです。

半世紀前に書かれた本書の文体はやや難解でしたが、時代とともに変わる評価基準と変わることのない普遍的な見方があることをあらためて教えられたような気がします。中でも、「まむし」と呼ばれた斉藤道三、私の好きな蒲生氏郷、環境に恵まれなかった猛将武田信玄、そして著者が勝者とする黒田官兵衛についての解説に引き込まれました。

蛇足です。本書で取り上げられた戦国武将に照らし合わせながら自分の半生を振り返ってみました。大学受験や若手の開発技術者として成功した時の私は自分自身を客観的に見ていたと思います。しかし、その後の私は成功すれば成功するほどその体験に基づいた価値判断(思い込み・過信)と最大の成功率を求める指針(呪縛)に従って行動したため、自らが成長する機会とより大きな成功を無意識に捨てていたことを本書は私に気づかせてくれました。先に読んだコリン・パウエル著「リーダーを目指す人の心得」とともに20年前に読んでいればと悔(く)やんでも今の私にはもう手遅れです。私より若い皆さんはこれらの著作をまだ役立てられる時間とチャンスがあるかもしれません。

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2013年7月10日 (水)

会田雄次著「敗者の条件」を読む(前編)

2013_06080091 東北地方を巡るドライブ旅の長い記事を書き終えた翌週には真夏の熱波が日本列島を覆(おお)ったため、この数日は外出をできるだけ控(ひか)えるようにしています。そして、5月末に放送されたあるテレビ番組の書評コーナーで紹介された半世紀前に出版された「敗者の条件」(昭和40年3月刊中公新書)を読みました。

 

「戦国時代を考える」を副題とするはこの書籍は西洋史学者(当時京大名誉教授)である会田雄次(あいだゆうじ)氏がヨーロンパのルネサンスと対比しながら戦国武将を代表する10数人を評(ひょう)しながら「戦乱の世の競争原理」を追求した異色作品です。1965年(昭和40年)3月に中公新書として刊行され、1983年(昭和58年)8月には中公文庫となり、現在は改版本(2007年2月25日)がAmazonや楽天ブックスで購入できます。

 

例によって長文になりますので、視覚的なアクセントとしてわが家のベランダで最近咲いた初夏の花(アサガオとジャコバサボテン)の写真を掲載します。

 

                          ☆

 

序章 戦国時代とルネサンス

 

14世紀から16世紀にかけての日本の戦国時代とヨーロッパのルネサンスの類似点を挙げながら、著者は意外とも思われる視点を示して、ページを捲(めく)り始めたばかりの読者を惹きつける。「競争」という思想が今も根強く残っている欧米との本格的競争を敗戦国である日本が行ってゆかなければならないことを今からほぼ半世紀前の1965年に予見した。

 

第1章 闘争の宿命を負う者

 

2013_06080074 宿敵としての親子兄弟の例としてまず斎藤道三(どうさん)とその子義竜(よしたつ)を挙げた。一介(いっかい)の生臭坊主(なまぐさぼうず)から主人殺しをかさねて、美濃一国の大領主になった戦国武士の典型である。その娘であるお濃(のう)は信長の正室(本妻)となった。才気にあふれて武略にも秀(ひい)でてはいるが容貌(ようぼう)が怪異で大男であった長男の新九郎義竜を嫌った道三は三男を後継者にしようとしたことで義竜がこれをうらんだ。長子相続性が定まる江戸時代より前のことである。先手を打った義竜が2人の弟をだまし討ちにしたことは良く知られるが、著者は尾張の織田家でも同じことが行われたと指摘する。

 

2013_06080086織田信長は主筋の織田広信を倒し、庶兄(しょけい)たちを追い、同じ腹の弟十郎信行を殺している。織田家の末流であった信長の父信秀は本家の清洲城主織田大和守敏定を攻め、織田家中の実力第一人者となったのである。父の跡をついだ信長は敏定の養子織田広信を攻めて切腹させ、清洲城の主となった。そして那()古屋の城主で自分の伯父である織田孫三郎信光を暗殺している。最後に残った同腹の弟信行は行儀正しい大人しい秀才であったため領民や家臣の信望も厚かく、信長も愛していたようであるが、母がこの弟を偏愛して織田家の後継者にしようと企てると状況は急変した。信行の行状に怒った信長は仮病で弟を呼び寄せて切腹を命じたのである。

 

2013_06080079甲斐(かい)の名族の出である武田信玄も父信虎を追放し、自分の長男の太郎義信を殺したことで悪名が高い。しかし、当時においてはそういうことはむしろ当たり前の現象にすぎないという著者は陶晴賢(すえはるかた)、毛利元就(もうりもとなり)、長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)・信親(のぶちか)、浅井長政(あざいながまさ)、浅倉氏景(うじかげ)、上杉謙信、里見義豊(よしとよ)、伊達晴宗(だてはるむね)らはいずれも一族親子兄弟の血で血を洗うはてしない争いのなかから頭をもたげてきていると指摘。

 

徳川家康もやはり長男信康をその母もろともに殺している。秀吉だって養子秀次を成敗(せいばい)しているが、これはヨーロッパでも同じであると著者はいう。秀吉や家康に対して、世間は同情のまなこをもってみるのは、前者の生まれつき明るい性格によって好感をもたれ、そして後者は幼少時に今川氏に人質として育てられたという暗い生活が人びとの同情をさそうと分析する。

 

第2章 闘争世界の敗者

 

戦国時代やルネサンスは平和で秩序(ちつじょ)正しい現代とは正反対の諸条件が作用した世界であると著者は述べる。この世界においては、私たちの世界で勝利者になるような人間が敗者になり、有利な条件にかこまれたような環境が逆に不利となるという。だが、一見逆のようにみえるこの法則は、実は逆なのではなく、同一法則が裏と表のように逆にみえるように現れたにすぎないことが理解されるであろうとして、次にあげる多くの人物について解説した。

 

一匹狼に徹しなかった者

 

2013_06080078美濃の大名、斎藤道三は氏素性(うじすじょう)も、土地財産もなく、一切他人の庇護(ひご)もうけず、だれの助けも借りず、だれとも同盟せず、信頼し相談できる部下をも持たず、妻にもめぐまれず、一国一城の主になりあがった男である。同じ様な立場から出発した秀吉は、信長の庇護(ひご)のもとにあったことから、道三の独立性には遠く及ばない。しかし、ずばぬけた人物である道三はかなりの人材であったにちがいない長男の義竜(義龍)を嫌い、凡人(ぼんじん)だった次・三男を愛するという明らかな過ちを犯したと著者は指摘する。

 

これと同様に名将とうたわれた織田信秀も次男信行を愛している。道三の本当の失敗はたびたび織田信秀と争い、これを打ち破りながら、ついに和睦(わぼく)し、自分の娘お濃を信長に与えたことにあるという。さらに、信長を利用しようと考えて面接テストをおこなったのはよいが、逆にかえって見事に裏をかかれ、あざやかに敗北したため、それ以降の道三は自信を無くしたのか人が変わってしまったという。そして義竜に攻められた道三は義竜の家来に討ち取られてしまう。

 

覇者(はしゃ)の出自(しゅつじ)にこだわる者

 

2013_06080087本能寺の変後、山崎の合戦で秀吉が大勝し、天下統一への巨歩を踏み出したとき、まず邪魔(じゃま)なものを除くことがはじめられた。九州の島津氏、中国の毛利氏、三河の徳川家康などの宿敵との対決に先立って、信長の統一をうけつぐために邪魔になるものは、血統上の継承権を持つ信長の次男信雄(のぶjかつ)と三男信孝の2人のほかに、自分とならぶ信長の有力武将で自分に臣従(しんじゅう)しない柴田勝家、滝川一益、佐々成政(さっさなりまさ)などである。

 

勝家は土百姓出身の秀吉とはちがい織田家の旧臣であり重臣であったことから秀吉の臣下(しんか)になることはできない。一方、滝川と佐々は反抗するが屈服(くっぷく)して一時は重(おも)んぜられたものの、結局殺されてしまった。それは勝家対秀吉の対決という決定的瞬間に敵方についた二人は、前の失敗をとりかえすだけの業績をあげたとしても、マキャヴェリが指摘したように勝利者はそんな人間を信頼するものではないからである。

 

欠点のない者

 

2013_06080089進退出所に誤りがなく、勇武剛直で、才智に恵まれながら、その人間性ゆえに倒されねばならなかった人物として著者は蒲生氏郷(がもううじさと)をあげる。氏郷は朝鮮の役において名護屋(現在の佐賀県唐津市)で渡鮮準備中に急死した。著者は辞世(じせい)の句、『限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ』を秀歌としながらも、無理に殺された恨(うら)みを織りこんだものとみる。数え切れない戦巧をあげながら、彼はつねに冷たい秀吉の目を意識せざるをえなかった。秀吉は氏郷に対して憎しみとまではいかないが、非常な警戒心を持っていたと著者は推定する。

 

先祖伝来の近江の地から辺境の会津に送られた氏郷がまったくの独力で自分の才智と努力によって城下の若松を繁華(はんか)な城下町にし、領国を豊かに経営したことに秀吉は不安を持ったのかもしれない。氏郷の没後、その子は氏郷が築いたいわゆる120万石の土地を没収され、宇都宮18万石におとされている。秀吉はよほど氏郷にふくむところがあったに相違ない。その理由に考えられることは、氏郷が秀吉のとうていおよばない名門の出身(近江・六角義賢の家老の子)であり、また信長の信頼が厚かったということだと著者は詳しく解説する。

(続く)

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2013年7月 3日 (水)

続・奥の細道疑紀行(最終回) 割烹温泉「上越の湯」

直江津の宿を出立(しゅったつ)した芭蕉は高田に2泊したあと直江津に戻って五智国分寺居多(こた)神社に参拝し、そして日本海沿いに歩いて名立(なだち)を経て富山県境に近い糸魚川(いといがわ)へ向いました。一方、私たちの「奥の細道」を辿(たど)る今回のドライブ旅は上越市が終着点です。上信越自動車道の上越高田ICに入って約300km走れば自宅に帰着できますが、長旅の疲れを癒(いや)すため芭蕉のルートに倣(なら)って直江津方面に戻ることにしました。

2013_05010661 国道18号(上新バイパス)に入って北陸自動車道の上越ICにほど近い割烹(かっぽう)温泉「上越の湯」に到着しました。バイパス道路が開通した田園地帯に平成6年(1994年)11月にオープンした大規模複合施設「上越ウイング・マーケットセンター」(45,000坪の土地面積と11000坪の売り場面積)の一角にありました。 

2013_05010665 2011年2月に経営が変わって再オープンした日帰り温泉「上越の湯」は24時間・年中無休営業で、平日料金の大人600円(3時間利用は300円)には岩盤浴の利用も含まれています。なお、館内着・タオルセットは別料金(500円)や宿泊パック(朝食付き)は平日料金が3500円のようです。 

2013_05010666 脱衣場には大型のロッカーが並んでいて使いやすい。
 
 
 
 
 

浴室に入ると薄暗い照明に大浴場・ジャグジー・寝風呂・露天風呂・座り湯など多彩な浴槽が並んでいて、温泉を楽しむためには良いのですが、インテリアデザインがいまひとつで楽しさは中位(ちゅうくらい)です。東屋(あずまや)がある露天風呂は壁際にあるため窮屈(きゅうくつ)に感じました。しかし、高温サウナ・低温備長炭(びんちょうたん)サウナ・ブラックシリカ岩盤浴の3種類がありサウナ好きに向いています。

淡黄緑色(透明)である温泉の泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素温泉(低拡張アルカリ性低温水)で、25.3度の源泉が約42度に加温されています。弱アルカリ性ですから肌に柔らかい湯でした。

2013_05010664 窓がないため全体的に薄暗く、広いロビーにはリラクゼーション、韓国式あかすりエステ、韓流ほぐし処など各種のボディケアのサービスに加えて、食事処が3か所もあることで「割烹温泉」と珍しい呼び方をしているのでしょう。私にはスーパー銭湯というよりも昔のヘルスセンターの趣(おもむき)が感じられました。

なかでも珍しいと思ったのは個室レンタルルーム(料金は800円/時間)が50室ほど並んでいたことです。テレビや寝具なども備えられていて休憩だけでなく宿泊にも利用できるようです。

2013_05010663 フロント脇の広い休憩コーナーで30分ほど身体のほてりを冷ましました。フードコーナーもあってのんびりできる場所です。休憩だけであればリクライニングシートがあるリラックス室、またはごろ寝コーナーが良いでしょう。   
 
 

2013_05010667 「上越の湯」の建物を出た同行者は車に戻る途中に犬を見つけて駆(か)け寄りました。 
 
 
 
 

2013_05010671 「湯~太郎」という名の犬でした。
 
 
 
 
 

2013_05010668 金網で囲まれた犬小屋は細長くて、「湯~太郎」は人影を見ると短距離ダッシュのように犬小屋内を往復しています。よくみるとパットゴルフ場であった施設を犬小屋に流用しているようです。 
 
 

2013_05010675 雨はほぼ止(や)んだようですから出発することにします。上越ICから北陸自動車道に入りました。約4km先にある上越JCTで上信越自動車道にそれました。直進すると芭蕉が向かった名立・富山方面です。
 
 

2013_05010680 山間(やまあい)に入った上信越自動車は上越高田ICを通過し、妙高(みょうこう)高原を越えると、信州中野IC(147km付近)に差し掛かりました。3年半前に北信濃のドライブ旅をした時に利用したICです。先ほどまでの曇天はすっかり青空に変わっていました。   
 

2013_05010683_3須坂長野東ICを過ぎた長い下り坂を走りながら信州の景色を楽しみました。
 
 
 
 

2013_05010684 「131.1kmポスト」の電光表示板には都内で10kmの渋滞が発生したことを表示されています。
 
 
 
 

2013_05010685 長野ICを通過します。北信濃のドライブ旅で帰路に着いた時を思い出しました。
 
 
 
 

2013_05010686 更埴(こうしょく)JCTで上信越自動車道は左にカーブします。夕日がまぶしく逆光写真になってしまいました。
 
 
 
 

2013_05010689 坂城(さかき)ICに差し掛かると日がかなり傾いてきたことが分かります。
 
 
 
 

2013_05010690 上田菅平ICも順調に通過。3年前に日本ロマンチック街道をドライブした時にこの近くを通過しています。 
 
 
 
 

2013_05010692 東部湯の丸ICを過ぎた場所からみる雲は赤く染まっています。
 
 
 
 

2013_05010698 佐久小諸JCTに差し掛かりました。ここは直進します。ちなみに、中部横断自動車道はまだ一部区間しか開通していませんが、将来は新東名高速道路の新清水JCTまで伸びるそうです。 
 
 

八風山トンネルで長野県と群馬県の県境を越えると日がとっぷり暮れていましたので、写真撮影は止めて、運転に専念することにしました。急な下り坂を一気に走って松井田妙義IC・下仁田IC・富岡IC・吉井ICを通過すると上信越自動車道の東端に位置する藤岡PAに到着。このPAには藤岡ICとハイウェイオアシスららん藤岡(道の駅ふじおか)が併設されていて、関越自動車道に入る藤岡JCTは目と鼻の先ですから、ここで休憩を兼ねた夕食にすることにしました。長い導入路は伊勢湾岸道路の刈谷ハイウェイオアシスと似ています。

到着したのが午後7時を少し回ったところで、ほとんどの店が閉まっていました。やっと見つけた派手な外装の「東京とんこつラーメン翔(しょう)」に恐(おそ)る恐る入りました。トンコツ・味噌・醤油の3種あるなかから同行者の意見をいれて味噌ねぎらーめん(780円)と焼きギョーザ(330円)を注文しました。

2013_05010703 味噌ねぎらーめんは中太縮れ麺に、チャーシュー、メンマ、ネギ、海苔(のり)がトッピングされています。スープはしつこさのない豚骨ベースで、チャーシューは柔らかく美味しいのは良いのですが、麺が柔らかくてスープの味も店構えの割には平凡でした。店名に「東京」とあるのは江戸味噌を使っているからなのでしょう。 

2013_05010704 焼きギョーザは小振りですが、その味はまずまずでした。つまり、飛び込みで入ったラーメン店としてはいずれのメニューも及第点(きゅうだいてん)だったと思います。 
 
 
 

藤岡JCTから走りなれた関越自動車道に入ると、所々で車の輻輳(ふくそう)はありましたが、終点の練馬ICまでほぼ順調に走行できました。しかし、環状8号は夜半になっても混んでいて・・。それはさておき、山形県・秋田県(南端)・新潟県を巡(めぐ)る今回のドライブ旅は、下調べを十分行ったことで、予定したスポットをほぼ計画通りに回ることができました。ちなみに、総走行距離は約1380km、平均燃費は23.0km/リットルでした。

<同行者のコメント> 高田を訪れるとは知りませんでした。昼食を食べた藤作のご主人に高田の見どころを説明していただいたことで、高田バテンレースの店に寄ることができたのはとてもうれしかったです。でも、旦那様に誘われるまま春日山城の本丸跡と天守閣跡まで登ったところ、思いのほか大変な山登りですごく疲れましたが、最後に温泉へゆっくり入ったことで生き返りました。

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2013年7月 2日 (火)

続・奥の細道疑紀行 上越市高田(後編)

2013_05010635 本町7丁目の交差点を右折すると道の反対側に呉服屋のような店舗が見えました。
 
 
 
 

2013_05010639_2 同行者は気になったようで、「きものの小川」の店内に入って品定めをしています。
 
 
 
   

2013_05010637 南側の歩道に戻った同行者は吉田バテンレースと表示された店の前で足が止まりました。同行者に尋(たず)ねるとバテンレースはドイツで生まれた工芸品で、この店は日本で一番有名なのだそうです。門外漢(もんがいかん)の私にはチンプンカンプン(珍粉漢粉)!
 

これも調べると、横浜に入ってきたバテンレースを明治中期にこの店の先々代などが協力してこの地で製造を始めたそうです。大正時代の最盛期には20軒以上あった業者も戦争や大震災で生産が低下して昭和に入ると3軒だけになり、現在は材料から一貫生産と販売をしているのはこの吉田バテンレースだけになったそうです。

2013_05010638 同行者について店内に入ると意外な写真を見つけました。右の写真に写るのはは連続テレビドラマ「ザ・ガードマン」(1965年4月‐1971年12月)に出演していた俳優の藤巻潤(じゅん)さん、左は「また会う日まで」(1971年)が大ヒットした歌手の尾崎紀代彦さんのようで、この店内で撮影されたものと思われます。

2013_05010640 雨足(あまあし)が強くなってきましたので駐車場へ戻ることにします。雁木が途切れている場所では時々雁木の端で雨宿りする必要がありました。途中、目に留(と)まった雁木とハンギングバスケットを撮影。 
 
 

2013_05010641 車で本町から大手町を経由して本城(もとしろ)町へ向いました。高田城跡(県の指定史跡)は現在高田公園になっています。その中にある高田図書館脇の駐車場に車を停めましたが、本格的な雨になりましたから駐車場は空(す)いています。小降りになったタイミングに濠(ほり)に架かる極楽橋(ごくらくばし)へ向いました。

2013_05010643甲信越にある桜の名所のなかでもトップクラスに位置付けられ、「日本三大夜桜」で知られる高田公園は花散らしの雨のためか、桜の花は見当たりません。代わって菜の花が満開です。堀にそって左手へ歩くと、20年前の平成5年(1993年)に復元された三重櫓(さんじゅうやぐら)が雨に濡(ぬ)れていました。   

堀を背にした説明板には『高田城は明治4年(1871年)に廃城され、陸軍省の所有となり、明治41年に陸軍第13師団は入場したが、その前に行われた土木工事により、土塁(どりゅ)は崩(くず)され、堀の一部は埋められ、二の丸と三の丸の区画は無くなった。本丸跡には師団の司令部(当時の写真)が置かれた』と書かれています。

2013_05010646 本丸跡に入りました。三つ葉葵(あおい)の家紋がある絵図で分かりますが、外堀は自然の河川を利用して作られ、非常に幅が広いことが特徴です。また、天守閣が建築されなかったことと石垣が積まれなかったことも他の平城と異なります。その理由は大阪冬の陣の直前で工事を急いだためと考えられるそうです。

2013_05010645 現在の高田城跡の規模は稲葉正通(まさみち、正往)時代(1685-1701年)の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様であると説明されています。ちなみに、本丸跡の大半は現在上越教育大学の付属中学校として使われています。 
 

2013_05010649 三重櫓へ向かいました。1・2階は展示室として高田藩ゆかりの資料などが観覧できるようです。入場料は大人200円。カメラのレンズに雨粒(あまつぶ)が落ちてしまいました。 
 
 

2013_05010650 見上げた三重櫓
 
 
 
 
 

2013_05010652 3階の展望室に上がりました。
 
 
 
 
 

2013_05010651 高田公園内が一望できました。この写真は西方(高田駅方面)の窓越しに撮影したもの。
 
 
 
 

2013_05010654 次いで向かった師団長官舎は明治期の洋風木造建築物で、上越市が移築・復元したものだそうです。
 
 
 
 

2013_05010655 長岡外史中将は旧陸軍第13師団長であり、上越市が日本のスキー発祥(はっしょう)の地となった基(もとい)を築いた軍人でした。そして、桜の名所100選の地に選ばれ、日本三大夜桜ともいわれる高田公園の桜も同中将が築いたことも説明されています。 
 

余談ですが、長岡外史の後任の師団長となったのが日本騎兵の父といわれた秋山好古(よしふる)で、その弟の秋山真之(さねゆき)は日本海海戦で東郷平八郎大将の配下(先任参謀)として迎撃作戦の「丁字戦法」を考案することでバルチック艦隊を撃滅(げきめつ)した軍人です。つまり、司馬遼太郎氏の長編歴史小説「坂の上の雲」の主人公である松山出身の秋山兄弟なのです。

2013_05010656 正面から見た建物です。車寄せに似た構造の玄関が雪国らしいと思いました。 
 
 
 
 

2013_05010657 内部に入ってまず目についたのは男子応接室。明治・大正時代らしい呼び名です。 
 
 
 
 

2013_05010658 こちらは書斎(手前)と婦人応接室、奥は食堂です。ちなみに、2階は3間続きの和室と子供部屋などがありました。和室は居間や寝室などに使われたのでしょう。 
 
 
 

2013_05010660 最後に立ち寄ったJR信越本線の高田駅(明治19年開業)は城下町らしく城を意識したのか何とも不思議なデザインです。実は、2002年(平成14年)に旧来からの駅舎の前にアーケードを設置して尖(とん)がり屋根を付けただけで、駅舎の内部は旧来のままのようです。
 

これも余談ですが、上越市は約40年前の1971年に直江津市と高田市が合併して誕生したため、港が近い直江津駅、城下町に置かれた高田駅、そして市役所が新設された中間地域にある春日山駅が信越本線に並んでいて、一体感に欠けているように感じられました。この状況は県のレベルですが140年前に津軽藩と盛岡藩(別名南部藩)の支藩(七戸藩・八戸藩など)の領地を中心に発足し、県庁をほぼ中間にある港町の青森に置いた青森県とよく似ています。(続く)

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2013年7月 1日 (月)

続・奥の細道疑紀行 上越市高田(前編)

2013_05010608 雨が降る県道63号を高田地区へ向いました。
 
 
 
 
 

2013_05010610 高田地区の中心部にある会席料理「藤作(とうさく) 別館」で昼食を摂(と)ることにしました。本町通り(県道198号)には駐車できませんので、裏通りにあるコインパーキングに車を停めて裏口から店内に入ります。
 
 

2013_05010612 かなり狭い(正に鰻の寝床のような)通路を入ると半個室へ案内されました。ランチメニューから同行者は若葉弁当(1500円)、私は心積もりしていた「藤作ランチ」(1000円)を注文しました。待つことしばしで、私に玉子豆腐とキンピラゴボウが配膳(はいぜん)されました。茶碗蒸(ちゃわんむ)しみたいに柔らかい豆腐です。 

2013_05010613 次いで焼き魚、玉子焼き、メロンの小片、肉料理などが。
 
 
 
 
 

2013_05010614 同行者には幕の内弁当のような重箱が置かれました。玉子豆腐、刺身、テンプラ、サザエのつぼ焼き、焼き魚、玉子焼き、サヤエンドウ、高野豆腐などと多彩で女性好みのメニューです。それにご飯と味噌汁も付いています。
 
 

2013_05010615 私に刺身の入った器(うつわ)が配膳されたところで何かが変であることに気づきました。同行者と私の注文が逆に受け取られたようです。
 
 
 

2013_05010616 ご飯と味噌汁まで揃(そろ)いましたから、今さら交換する訳にも行きません。私が「逆に配膳されたみたいだね」と言うと、同行者は「そうなのよ。私の料理はみんな量が少ないから変だと思ったわ」と口を尖(と)がらせます。
 
 

2013_05010617 私は食後のコーヒーを飲むことで嵐が過ぎ去るのを待ちました。時間が経つと同行者は料理に納得したようで会計する時に「美味しかったですよ」と言っています。それが契機となって、ご主人と思われる男性が高田の町について詳しく説明してくださいました。 
 

2013_05010620 これが本町通りから見た「藤作 別館」の表玄関です。
 
 
 
 
 

2013_05010619 本町通りに出ると現代の雁木(がんぎ)が続いていました。日本で降雪量が一番多い高田に雁木があることを小学校の社会科で習った記憶があります。「2014年高田開府400年雁木・町家・雪日記」の旗が多数吊(つ)り下げられています。家康の六男・松平忠輝の居城・高田城が築城されて来年が400年目に当るのでしょう。 

2013_05010622 雁木は雨避(あまよ)けにもなりますから車の中に置いたままの雨傘を取りに戻る必要はありません。藤作のご主人から教えられた高田小町にまず立ち寄りました。有力な商家の町屋跡を修復してコミュニティプラザとして利用されているそうです。 
 

2013_05010623 その内部です。土間に足踏み式ミシンが置かれています。右手奥にあるのは蓄音機のようです。
 
 
 
 

2013_05010625 昔懐かしい雪の風景写真です。ちなみ、左は雪で作られた雁木間をつなぐ大きなトンネル、右は昔の雁木(がんぎ)。後者は昭和41年と表示されていますから、ちょうど半世紀前の写真です。
 
 

2013_05010626 内庭には石灯籠と並んで井戸用手押しポンプがあります。 
 
 
 
 

2013_05010627 蔵のギャラリー
 
   
 
 
 

2013_05010628 高い天井にある明かり取り
 
 
 
 
 

2013_05010629 2階からみた土間と囲炉裏(いろり)
 
 
 
 
 

2013_05010631 下小町の辻標には『本町通りは上小町・中小町・下小町の三小町に分かれていた。この下小町には最盛期には旅籠が30軒もあった』と説明されています。
 
 
 

2013_05010633 昔風の雁木も残っています。
 
 
 
 
 

2013_05010632 現役では日本一古いとも言われる映画館「高田世界館」にも立ち寄ってみました。大正5年に常設映画館としてオープンしたそうです。
 
 
 

2013_05010634 「ほかいびと 伊奈の井月」(北村皆雄監督)と題した映画が翌日の5月2日まで5日間上映されているようです。『芥川龍之介に見出され、山頭火に慕われ、つげ義春が漫画に描いた乞食俳人井月(せいげつ)』の文字が見えます。小説家の芥川龍之介と俳人の種田山頭火の名前は知っていますが井月なる人物はさっぱり分かりません。 

調べると、つげ義春の「無能の人」の最後の「蒸発」に登場する俳人の井上井月を描いた映画で、出身地の長岡市、晩年を過ごした恵那市とこの上越市などで上映されているようです。そして、『井上井月は文政5年(1822年)に越後長岡藩士の子として生まれ、勝造または勝之進と称したといわれる。いかなる契機で俳人となったか明らかでないが井月と号した人物』であることを知りました。
 

『長岡を出た井月は、嘉永5年善光寺に来り、伊那へ来たのは安政5年頃であったという。伊那谷にあること30余年、明治20年3月10日上伊那郡美篶村末広太田窪(現在の伊那市美篶末広)の塩原折治(俳号梅関)方で眠るように漂泊詩人井月は往生を遂げた』そうです。ちなみに、「ほかいびと」とは村々を訪ねて人々に「ほかい」(寿ぎ、祝い言)の言葉を唱えて歩くことを生業(なりわい、職業)とした人のことを指(さ)すそうです。(続く)

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