会田雄次著「敗者の条件」を読む(後編)
慈悲心のある者
主家で摂津(せっつ)の守護(しゅご)である和田を討った功を認められて信長方の荒木村重(むらしげ)から高槻城を与えられた高山右近は荒木村重が信長に謀反(むほん)すると信長に降参する。優柔不断であったため将としての右近の評判は思わしくないが父の代からのキリシタンであった右近は外人神父の評価が高い。天正15年(1587年)にキリシタン禁圧とともに所領を没収され、小西行長(ゆきなが)や前田利家(としいえ)のもとに身をよせた。右近が重要視されたのは、秀吉がキリシタン趣味に魅せられていたのと、一向宗(いっこうしゅう)の勢力に対抗するためキリシタン信徒を保護しようとしたためである。
つまり、それは秀吉とキリシタンの仲介者(ちゅうかいしゃ)としてであって、戦士としてではない。キリシタンが必要でなくなれば、消されるのが当然だろう。慶長19年(1614年)、家康のキリシタン禁止令によって、右近はついに京都へ移され、マニラへ追放されてのちまもなく死んでいる。喰(く)うか喰われるかの現実と、慈愛(じあい)という当時の「虚妄(きょもう)」の間をさまよう犠牲者(ぎせいしゃ)だったといえると著者はいう。
自己の世界に徹する者
千利休(省略)
後進地域にいた者
戦国時代のわが国を先進地域(近畿とその周辺)、中進地域(瀬戸内海沿岸・北陸・中部地域)、後進地域(その他の地域)の3つにわけて、どの地域に生い立った強豪が、覇権(はけん)を握(にぎ)るのに一番都合がよいのかを著者は述べた。後進地域はすでに地に落ちた中央部権威と権力にまだ振り回され、後進地だけに財力も乏(とぼ)しい。先進地域は有能な人材が集まりすぎて、お互いに足をひっぱり合うし、策略に神経を参らせてします。
残る中進地域はまだたくましさも残っており、あるていどの合理性も理解できる。先進地域への劣等意識も強くないから、権威へのおびえもない。財力も相当にある。いわば先進地と後進地の長所短所がすべてそろっていて、能力のあるものは長所のすべてを結集利用できるということになる。結局、中進地域は一番有利と著者は考える。
戦国時代、人生を左右する運命の岐路は20歳台である。そのとき機会が到来しなかったもの、あるいは到来してもその機会をものにすることができなかった人間は、生涯浮かび上がる可能性をもはやほとんど失ったものと見てよい。今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで信長に敗れたあと、これに続いて京にのぼって天下を統一しようとした武田信玄は、浜松の三方(みかた)ヶ原で信長の援軍を得た徳川家康の軍を打ち破ったが、持病の胸の病が悪化して倒れたのである。
その子勝頼もまた勇武の将であったが、信長よりも時代的にまわり合わせが悪かった。信長の三段構えに配置された3000丁(ちょう)以上の鉄砲隊の前に壊滅。ついに甲斐の国に侵入した信長のために一門郎党は殲滅(せんめつ)された。源義家の弟、義光の子孫で、甲斐信濃の守護大名とういう名門武田家の最後であった。やはり上杉謙信との対決が負担であり、甲斐は京都に遠かったことと、土地所有の立ち遅れによる辺境性(豪族軍の寄り合い所帯)、そして信長の存在が大きかった。
先進地域にいた者
松永久秀(省略)
ある勝者
竹中半兵衛とともに秀吉の両翼といわれた智将、黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか)は数奇な伝説につつまれた武将である。彼は織田信長から秀吉の配下に配属された武将であった。いたって風貌(ふうぼう)はあがらず、武勇の士というよりむしろ策謀(さくぼう)の人であった。官兵衛は信長の急死を秀吉が毛利征伐中の秀吉から預かった姫路城で知る。信長を討った明智光秀にはやはり自分自身の能力に対する過信があったが、光秀よりもっと的確にこの状勢をのみこめたのは、やはり光秀と同じく天下に野心のあったこの孝高だったかもしれないと著者はいう。
しかし、おびただしい兵馬とともに秀吉が反転してきたのである。孝高の観測の誤りは、秀吉の力を過小評価したことにある。交通の要地である姫路城を秀吉に提供し、自分は小城の山崎城へ事前に移っていた孝高は期待しながら、一時休息のため城中に入った秀吉に向って光秀との合戦は天下をとる機会であると囁(ささ)いた。だが、すべてを見通したような秀吉の鋭い視線に孝高は異常な不安におそわれた。秀吉に自分の野心を見出されたであろうから、もう自分は絶対に信用されなくなったことを悟(さと)ったのである。
そして狂気したように秀吉のご機嫌(きげん)をとり、これといった恩賞(おんしょう)は与えられなかったが秀吉に忠節をつくしている。必死の働きで、かろうじて詰腹(つめばら)を切らされることをまぬかれたといえるのだが、秀吉は孝高をなお警戒していた。そして、孝高は天正17年(1589年)に剃髪(ていはつ)して如水円清(じょすいえんせい)と号し、家督を長政にゆずっている。著者は如水の名は自分の望みを水の泡のごとく失ったという意味で、秀吉に対する命乞(いのちご)いなのであるという。
秀吉の死は、孝高の生命を救うと同時に、かれの天下統一の野望を復活させた。関ヶ原の合戦時には東軍として手薄になっていた西軍に味方した九州の大名領の大半を征服して自分の能力を確認したあとは、そのすべてを家康に献上し自らへの恩賞も辞退して隠居(いんきょ)生活を送った。『考高は戦国に生きようとした若き日の決心を生涯貫きえたまれにみる男だったといわねばならない。勝者としたゆえんである』との言葉で著者は締(し)めくくった。
☆
文芸復興として知られる一方で戦乱に明け暮れたルネサンス期の政治思想家マキャべり(マキャヴェッリ)の「君主論」とその時代の視点から日本の著名な戦国大名を「勝者」と「敗者」に規定し、「競争」とは何かと「自由」とは何かが濃密に記述されていました。敗者が悪人の汚名を着せられ、あるいは敗者が劣った人間であると決め付けられる歴史的な評価事例をルネサンス期の西欧人たちと対比しながら解説する本書を興味深く読み終わりました。
先の大戦でビルマ戦線に送られ、終戦後の二年間をイギリス軍の捕虜(ほりょ)としてアーロン収容所で暮らした経験を通して著者は、勝者となった後も闘争の精神を失わず、徹底して敵を絶望に追い込むヨーロッパ人の執念深さを知ったと言います。そして著者はヨーロッパ人の闘争心の起源をルネサンス時代のイタリアに求めています。ルネサンス時代のイタリアは、新興市民層の力で古い社会が動揺・混乱し、人殺しと内乱と戦争が続いた地獄図絵の世界であり、権謀術数の限りを尽くした戦いの時代であったと解説します。つまり、戦国時代の日本もルネサンス時代のヨーロッパも、「勝者の条件」と「敗者の条件」は同じだったというのです。
半世紀前に書かれた本書の文体はやや難解でしたが、時代とともに変わる評価基準と変わることのない普遍的な見方があることをあらためて教えられたような気がします。中でも、「まむし」と呼ばれた斉藤道三、私の好きな蒲生氏郷、環境に恵まれなかった猛将武田信玄、そして著者が勝者とする黒田官兵衛についての解説に引き込まれました。
蛇足です。本書で取り上げられた戦国武将に照らし合わせながら自分の半生を振り返ってみました。大学受験や若手の開発技術者として成功した時の私は自分自身を客観的に見ていたと思います。しかし、その後の私は成功すれば成功するほどその体験に基づいた価値判断(思い込み・過信)と最大の成功率を求める指針(呪縛)に従って行動したため、自らが成長する機会とより大きな成功を無意識に捨てていたことを本書は私に気づかせてくれました。先に読んだコリン・パウエル著「リーダーを目指す人の心得」とともに20年前に読んでいればと悔(く)やんでも今の私にはもう手遅れです。私より若い皆さんはこれらの著作をまだ役立てられる時間とチャンスがあるかもしれません。
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