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2013年7月10日 (水)

会田雄次著「敗者の条件」を読む(前編)

2013_06080091 東北地方を巡るドライブ旅の長い記事を書き終えた翌週には真夏の熱波が日本列島を覆(おお)ったため、この数日は外出をできるだけ控(ひか)えるようにしています。そして、5月末に放送されたあるテレビ番組の書評コーナーで紹介された半世紀前に出版された「敗者の条件」(昭和40年3月刊中公新書)を読みました。

 

「戦国時代を考える」を副題とするはこの書籍は西洋史学者(当時京大名誉教授)である会田雄次(あいだゆうじ)氏がヨーロンパのルネサンスと対比しながら戦国武将を代表する10数人を評(ひょう)しながら「戦乱の世の競争原理」を追求した異色作品です。1965年(昭和40年)3月に中公新書として刊行され、1983年(昭和58年)8月には中公文庫となり、現在は改版本(2007年2月25日)がAmazonや楽天ブックスで購入できます。

 

例によって長文になりますので、視覚的なアクセントとしてわが家のベランダで最近咲いた初夏の花(アサガオとジャコバサボテン)の写真を掲載します。

 

                          ☆

 

序章 戦国時代とルネサンス

 

14世紀から16世紀にかけての日本の戦国時代とヨーロッパのルネサンスの類似点を挙げながら、著者は意外とも思われる視点を示して、ページを捲(めく)り始めたばかりの読者を惹きつける。「競争」という思想が今も根強く残っている欧米との本格的競争を敗戦国である日本が行ってゆかなければならないことを今からほぼ半世紀前の1965年に予見した。

 

第1章 闘争の宿命を負う者

 

2013_06080074 宿敵としての親子兄弟の例としてまず斎藤道三(どうさん)とその子義竜(よしたつ)を挙げた。一介(いっかい)の生臭坊主(なまぐさぼうず)から主人殺しをかさねて、美濃一国の大領主になった戦国武士の典型である。その娘であるお濃(のう)は信長の正室(本妻)となった。才気にあふれて武略にも秀(ひい)でてはいるが容貌(ようぼう)が怪異で大男であった長男の新九郎義竜を嫌った道三は三男を後継者にしようとしたことで義竜がこれをうらんだ。長子相続性が定まる江戸時代より前のことである。先手を打った義竜が2人の弟をだまし討ちにしたことは良く知られるが、著者は尾張の織田家でも同じことが行われたと指摘する。

 

2013_06080086織田信長は主筋の織田広信を倒し、庶兄(しょけい)たちを追い、同じ腹の弟十郎信行を殺している。織田家の末流であった信長の父信秀は本家の清洲城主織田大和守敏定を攻め、織田家中の実力第一人者となったのである。父の跡をついだ信長は敏定の養子織田広信を攻めて切腹させ、清洲城の主となった。そして那()古屋の城主で自分の伯父である織田孫三郎信光を暗殺している。最後に残った同腹の弟信行は行儀正しい大人しい秀才であったため領民や家臣の信望も厚かく、信長も愛していたようであるが、母がこの弟を偏愛して織田家の後継者にしようと企てると状況は急変した。信行の行状に怒った信長は仮病で弟を呼び寄せて切腹を命じたのである。

 

2013_06080079甲斐(かい)の名族の出である武田信玄も父信虎を追放し、自分の長男の太郎義信を殺したことで悪名が高い。しかし、当時においてはそういうことはむしろ当たり前の現象にすぎないという著者は陶晴賢(すえはるかた)、毛利元就(もうりもとなり)、長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)・信親(のぶちか)、浅井長政(あざいながまさ)、浅倉氏景(うじかげ)、上杉謙信、里見義豊(よしとよ)、伊達晴宗(だてはるむね)らはいずれも一族親子兄弟の血で血を洗うはてしない争いのなかから頭をもたげてきていると指摘。

 

徳川家康もやはり長男信康をその母もろともに殺している。秀吉だって養子秀次を成敗(せいばい)しているが、これはヨーロッパでも同じであると著者はいう。秀吉や家康に対して、世間は同情のまなこをもってみるのは、前者の生まれつき明るい性格によって好感をもたれ、そして後者は幼少時に今川氏に人質として育てられたという暗い生活が人びとの同情をさそうと分析する。

 

第2章 闘争世界の敗者

 

戦国時代やルネサンスは平和で秩序(ちつじょ)正しい現代とは正反対の諸条件が作用した世界であると著者は述べる。この世界においては、私たちの世界で勝利者になるような人間が敗者になり、有利な条件にかこまれたような環境が逆に不利となるという。だが、一見逆のようにみえるこの法則は、実は逆なのではなく、同一法則が裏と表のように逆にみえるように現れたにすぎないことが理解されるであろうとして、次にあげる多くの人物について解説した。

 

一匹狼に徹しなかった者

 

2013_06080078美濃の大名、斎藤道三は氏素性(うじすじょう)も、土地財産もなく、一切他人の庇護(ひご)もうけず、だれの助けも借りず、だれとも同盟せず、信頼し相談できる部下をも持たず、妻にもめぐまれず、一国一城の主になりあがった男である。同じ様な立場から出発した秀吉は、信長の庇護(ひご)のもとにあったことから、道三の独立性には遠く及ばない。しかし、ずばぬけた人物である道三はかなりの人材であったにちがいない長男の義竜(義龍)を嫌い、凡人(ぼんじん)だった次・三男を愛するという明らかな過ちを犯したと著者は指摘する。

 

これと同様に名将とうたわれた織田信秀も次男信行を愛している。道三の本当の失敗はたびたび織田信秀と争い、これを打ち破りながら、ついに和睦(わぼく)し、自分の娘お濃を信長に与えたことにあるという。さらに、信長を利用しようと考えて面接テストをおこなったのはよいが、逆にかえって見事に裏をかかれ、あざやかに敗北したため、それ以降の道三は自信を無くしたのか人が変わってしまったという。そして義竜に攻められた道三は義竜の家来に討ち取られてしまう。

 

覇者(はしゃ)の出自(しゅつじ)にこだわる者

 

2013_06080087本能寺の変後、山崎の合戦で秀吉が大勝し、天下統一への巨歩を踏み出したとき、まず邪魔(じゃま)なものを除くことがはじめられた。九州の島津氏、中国の毛利氏、三河の徳川家康などの宿敵との対決に先立って、信長の統一をうけつぐために邪魔になるものは、血統上の継承権を持つ信長の次男信雄(のぶjかつ)と三男信孝の2人のほかに、自分とならぶ信長の有力武将で自分に臣従(しんじゅう)しない柴田勝家、滝川一益、佐々成政(さっさなりまさ)などである。

 

勝家は土百姓出身の秀吉とはちがい織田家の旧臣であり重臣であったことから秀吉の臣下(しんか)になることはできない。一方、滝川と佐々は反抗するが屈服(くっぷく)して一時は重(おも)んぜられたものの、結局殺されてしまった。それは勝家対秀吉の対決という決定的瞬間に敵方についた二人は、前の失敗をとりかえすだけの業績をあげたとしても、マキャヴェリが指摘したように勝利者はそんな人間を信頼するものではないからである。

 

欠点のない者

 

2013_06080089進退出所に誤りがなく、勇武剛直で、才智に恵まれながら、その人間性ゆえに倒されねばならなかった人物として著者は蒲生氏郷(がもううじさと)をあげる。氏郷は朝鮮の役において名護屋(現在の佐賀県唐津市)で渡鮮準備中に急死した。著者は辞世(じせい)の句、『限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ』を秀歌としながらも、無理に殺された恨(うら)みを織りこんだものとみる。数え切れない戦巧をあげながら、彼はつねに冷たい秀吉の目を意識せざるをえなかった。秀吉は氏郷に対して憎しみとまではいかないが、非常な警戒心を持っていたと著者は推定する。

 

先祖伝来の近江の地から辺境の会津に送られた氏郷がまったくの独力で自分の才智と努力によって城下の若松を繁華(はんか)な城下町にし、領国を豊かに経営したことに秀吉は不安を持ったのかもしれない。氏郷の没後、その子は氏郷が築いたいわゆる120万石の土地を没収され、宇都宮18万石におとされている。秀吉はよほど氏郷にふくむところがあったに相違ない。その理由に考えられることは、氏郷が秀吉のとうていおよばない名門の出身(近江・六角義賢の家老の子)であり、また信長の信頼が厚かったということだと著者は詳しく解説する。

(続く)

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