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2013年10月に作成された記事

2013年10月19日 (土)

突然ですが、ブログ記事の新規投稿を休止します

当ブログ「温泉大好き、ドライブも!」は2005年10月6日に最初の記事を投稿してから満8年が経過し、これまでに投稿した記事の数が1261件、掲載した写真は約1万8800枚に達しました。平均すると月に13件、写真は15枚/件のペースです。8周年を迎えたこのタイミングに私のアカウントで現在利用できるココログの容量(最大5GB)がほぼ一杯になったことを潮(しお)に、新たな記事の投稿を休止することにしました。ただし、既存の記事は当分公開を続けたいと思います。また、関連ブログの「これって、何!」と「竹輪会」への投稿は今後も継続する予定です。
 

投稿休止に当たってこの8年間を簡単に振り返ってみたいと思います。学生時代に国内旅行で訪れた場所をたどるように始めたドライブ旅行のスパイスと位置づけた温泉探訪の記事は213件を数えました。重複して紹介した温泉は2-3カ所だけですから約210カ所の温泉地を訪ねたことになります。カテゴリー別でみると一番多かったのは旅行・地域の698件、次いでドライブ(405件)、日記・コラム・つぶやき(210件)、グルメ(132件)、街道めぐり(111件)、音楽(78件)、登山(49件)、映画・テレビ(39件)、そして趣味(30件)の順でした。(重複有)
 

ココログ・ランキングで確認すると9月1日の「東京ディズニーランドのデイパレード」と10月13日の「足柄古道と万葉うどん」の記事が高い順位を獲得しました。それ以外にアクセス数の多かった今年の記事は意外なことに、百田尚樹著「永遠のゼロ」「影法師」「錨を上げよ」「風の中のマリア」「モンスター」「Box!」「RING」とコーリン・パウエル著「リーダーを目指す人の心得」など書籍の読後感、テレビドラマ「波の塔」の感想文、箸(はし)休め的に書いた「iPhone5用ケーブル」「スマホ症候群」「製品の寿命」でした。
 

旅行関係では今年の池尻大橋」「横須賀」「続・奥の細道擬紀行」「横浜中華街」「高松・栗林公園」「仙台市の遺跡」「東京ゲートブリッジ」など、昨年は「青森県・下北半島と三内丸山遺跡」「名古屋の高いもの」「飛騨へのバス旅」「東京スカイツリー」「三浦半島南端部ドライブ」「新東名高速道路などへ多くの方々にアクセスしていただきました。
 

ブログ記事を書くに当たってのテーマ選びでは、ココログ・ランキングや当ブログへのアクセス数を意識したわけではありませんが、両年とも温泉に関する記事が上位に入っていないことは意外でした。温泉の選び方と紹介方法に魅力がなかったのかもしれません。当面は投稿を休止しますが、近いうちに新しいテーマに模様替えして再開したいと密かに考えています。それまでは当ブログの既存記事(アーカイブ)でまだお読みになっていないものにアクセスしていただけると幸いです。
 

これまで8年間にわたって大過なく記事を投稿・公開することが出来ましたのは、ひとえに当ブログにアクセスして下さった方々と記事へのコメントをお寄せ下さった方々のお陰だと思っております。最後になりましたが、当ブログをこれまで愛読いただきました皆様に厚くお礼を申し上げます。
 
<追伸> ココログの契約容量制限(10G)に近づいたため、サムネイル写真だけを残してフルサイズの写真は順次削除しますので、ご了承ください。(2016年10月10日)

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2013年10月18日 (金)

足柄街道を走る(最終回) 御殿場市温泉会館

直進すると県道365号(金太郎富士見ライン)に入りますが、足柄街道(県道78号)にしたがって左折しました。道幅の狭い山道をドライブするのは私の楽しみのひとつです。途中、2台ほどの対向車と出会いました。少しでも幅の広い場所を選ばないとすれ違うことができないのです。
 
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赤坂古道は足柄峠に至る古道のひとつですが足柄古道の一部かもしれません。ちなみに赤坂の名は昔このあたりから須恵器(茶碗や壷)を造るのに使う赤土が取れたことで名づけられたそうです。石畳を敷き詰めてきれいに整備されています。
 
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足柄街道の脇に建つ「唯念上人の大名号塔」の説明文には、『天保元年(1830年)に小山町上の奥野さわの唯念寺(ゆいねんじ)を開いた唯念上人(ゆいねんしょうにん)の筆による日本一の大きな石佛(高さ3.8m、幅1.5m)である。飢饉(ききん)と疫病の流行で苦しむ農民の心を救おうと念仏を唱え祈願を行った。地元の人たちも力を合わせて大きな石に上人の書いた南無阿弥陀仏の名号を彫り、栗の木沢のこの地に建てて上人とともに悪疫退散(あくえきたいさん)と極楽往生を祈った。天保10年(1839年)のことである』とあります。力強い文字に圧倒されました。
 
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JR御殿場線の足柄駅を過ぎて御殿場市内に入ると雲が切れて富士山の中腹が見え始めました。私の念力がやっと通じたようです。
 
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足柄街道(県道78号)で市役所北交差点まで下りたあと、左折して国道138号(御殿場バイパス)を箱根山の乙女(おとめ)峠方面へ進む計画でしたが、市街地を走っても面白くありませんから近道をすることにしました。東名高速道路の下を潜(くぐ)った直後に左の脇道へ入り、東名の足柄SAを回り込む形で東名をもう一度潜(くぐ)って東山湖(ひがしやまこ)の脇に出ました。

国道138号(箱根裏街道、乙女道路)の坂を上って、Lala GOTENBAホテル&リゾートの少し手前を左の脇道に入ると最終目的地の「御殿場市温泉会館」に到着しました。富士カントリークラブに隣接する場所です。施設に接する第1駐車場が満車でしたので、手前の第2駐車場に戻って駐車しました。「温泉会館」へ歩く途中に富士山が見えるスポットを見つけました。偶然でしたが、トンボ(蜻蛉)が富士山の上(?)を飛んでいる様子が写っています。
 
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午後4時過ぎに平凡な平屋の施設に入りました。(この写真は帰る時に撮影)
 
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市営の温泉なので料金は500円(3時間、割引券で50円引き)とリーズナブル。午後10時まで営業(毎週月曜休み)しているようです。
 

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館内の構造は一般的な日帰り温泉です。受付の左手は売店になっており、その先に浴室、和室(8畳x4室)、大広間(78畳)などが並んでいました。
 
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通路の左手前にある浴室の脱衣場は広くありませんが清潔感がありました。高台にあるこの施設の風呂は内風呂のみです。御殿場乙女温泉(乙女1号・2号・3号)の湯は透明でわずかにヌルヌル感のあるナトリウム泉-塩化物・硫酸塩泉・アルカリ性単純温泉で、泉温41.6度)。加水無し、加温有り、濾過循環(ろかじゅんかん)と消毒有りと表示されていました。
 
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大きな浴槽の西方向は全面ガラス張りで、浴槽からでも富士山と御殿場市街が正面に見えますから、夕日が沈む様子を見ながら夜景になるのを待つのが最大の贅沢(ぜいたく)でした。
 
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風呂から上がって大広間(休憩室)に向かいました。南西側には先程通過した風車のある御殿場美華ガーデンがゴルフ場越しに見えます。
 
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余談です。私が最初に購入した車で箱根エリアをよくドライブした昭和40年代の後半に「まわるスカイレストラン ムーラン乙女」(昭和48年開業)として注目を浴びましたが、20年以上前に閉店して廃墟(はいきょ)になっていた記憶があります。ちなみにムーランはフランス語で風車を意味します。そしてムーラン・ルージュ(赤い風車)と言えばパリにある有名なレビュー劇場です。調べるとそのムーラン乙女は5年前に改装され御殿場美華ガーデンとして営業を再開したようです。富士山を見ながら気軽に食事を楽しむのに適したドライブイン(ショップ&レストラン)でしょう。

閑話休題(かんわきゅうだい)。右手に視線を戻すと御殿場の市街地が一望できます。
 
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富士山にふたたび雲が掛かり始めました。
 
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煌(きら)びやかな御殿場の夜景が広がりました。
 
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休憩室(大広間)から見る富士山はカメラを望遠にしないと電線が視界の邪魔(じゃま)になることが残念です。富士山が暗闇(くらやみ)に包まれてしまう前にもう一度温泉に入ることにしました。
 
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数年前に温泉会館が閉鎖されるとの噂が流れましたが、現在は民間業者に委託されて営業しており、客の入りも良いことからその心配は当分なさそうです。食事処(レストラン)はありませんが、売店では土産物から弁当などを売っており、隣の調理場がそば・うどん・ゆで卵(50円)・丼物(どんぶりもの)などを提供していますから、大広間(78畳の休憩室)と和室(8畳4室)を利用して軽い食事をすることができます。地元御殿場の「みくりやそば」(500円)と「みくりやうどん」(500円)がお勧めのメニューのようです。ちなみに、みくりや(御厨)とは神の台所を意味しますが、ここでは御殿場地方の古い地名(明治22年の合併で誕生した御厨町、現在の御殿場市)を指すようです。

富士山の景色と温泉を2度も楽しんだあとはゆっくり休憩すろことにしました。そして、都合2時間あまり滞在したあと、走りなれた東名高速道路を利用して帰路へ。久しぶりに足柄街道のドライブを楽しむとともに、私の予知眼(よちがん)が健在であることを確かめることができた楽しい1日になりました。

<同行者のコメント> 以前行ったことがある場所へまた出かけるという旦那様にはあきれました。でも今回は雪の中でなかったことが良かったと思います。はじめて訪れた日帰り温泉はお湯がなめらかで、しかも浴槽から富士山が真正面に見えたこともうれしいことでした。そういえば、これまで富士山を見に出かけた時に曇っていると、雲間から顔を出してほしいと祈祷師(きとうし)さんみたいに祈っていましたね。

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2013年10月17日 (木)

足柄街道を走る 足柄関所跡と足柄城址(後編)

遊歩道入口を見つけました。深い窪地(くぼち)を通過するようです。
 
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そこは
空堀跡でした。
 
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空堀を過ぎた二の郭(くるわ)は二の丸に相当します。
 
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ここにも足柄峠から見える山々がコンパス上に表示されています。足柄峠城址公園で一番のビューポイントと思われます。
 
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北西方向には雲が立ち込めていて富士山の姿はありません。自宅を出発する前、私の予知眼(よちがん)には青空に美しく映(は)える富士山が見えましたので、万葉公園に立ち寄るあたりからこの場所から見る富士山を楽しみにしていたのです。それに、今回の記事「足柄街道を走る」の目玉に位置づけていましたから、富士山が見られないことは画竜点睛(がりょうてんせい)を欠(か)くことにもなります。ちなみに、右端に写る山並は山梨県との県境にある大洞山(おおほらやま、標高1383m)と思われます。その左端には山中湖へ抜ける籠坂峠(かごさかとうげ)があるはずです。
 
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南に目を転じると金時山(標高1213m)がはっきり見えます。その手前に少しだけ見えるのは猪鼻砦跡(いのはなとりであと)がある尾根のピークでしょう。地蔵堂からの登山道はこの地点を経由して金時山へ至(いた)ります。戦国時代には足柄城とともに小田原城にとっての重要な防衛拠点だったようです。
 
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二の廓から三の郭へ向かいます。
 
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空堀跡にはサンショウバラ(バラ科)が大きく成長していました。花期は5月下旬から6月上旬のようです。
 
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三の郭の表示
 
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ススキ(薄)が秋を演出しています。
 
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遊歩道は林の中に入って行くようですから、ここで引き返すことにします。
 
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一の郭まで戻りました。休憩所の左奥にある足柄街道の上に架かる歩道橋を確認すると、こちら側も通行止めになっていました。
 
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足柄街道に停めた車に戻りました。T字路を左手に進むと金時林道(終点に駐車場有り)を経由して金時山へ登れるようですが、今回の最終目的地を目指して足柄駅方面へ下りることにします。
 
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足柄街道の緩(ゆる)やかな下り坂を快調に走っていると、路肩に「金太郎富士見ライン」の標識が目に入りました。歴史を感じさせる足柄街道に比べて今風で分かりやすいネーミングですが、私にはちょっとベタ(ありきたり)な感じがします。足柄峠(正式には県道78号との分岐点)と小山町を結ぶ県道365号に付けられた愛称でした。ですから、足柄街道(県道78号)にこの標識を立てるのは厳密にはフライイングでしょう。
 
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次いでこんな標識も見つけました。当ブログの愛読者は「あれだな!」とお分かりになったと思います。3年前に日本ロマンチック街道をドライブした時に、四万(しま)温泉から長野原町へ向う途中の暮坂峠(くれさかとうげ)で見つけた標識と同じです。
 
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やはり矢印の先にはマンホールがありました。そして、その蓋(ふた)にはNTTの前身である日本電信電話公社(略称:電電公社)の公式マーク(公社章)が描かれています。ちなみに、このマークは電信(Telegraph)と電話(Telephone)の頭文字をデフォルメしたものです。ちょっと、気づきにくいのですが、2つのTに囲まれた部分がサービス(Service)のSになっているそうです。現在の公式マーク(ロゴ)は民営化される時に採用された「ダイナミックループ」と呼ばれます。(暮坂峠の記事にその写真を掲載)
 
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日がだいぶ傾いて来ましたから、先を急ぐことにしましょう。(続く)

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2013年10月16日 (水)

足柄街道を走る 足柄関所跡と足柄城址(前編)

足柄峠(標高759m)に到着しました。昔は足柄坂と呼ばれていたそうです。「あづまはや(吾妻はや)」は前回の記事で紹介したように、日本武尊(やまとたける)が叫んだという「あゝ我が妻よ」を意味します。説明看板には倭健命(やまとたけるのみこと、日本武尊)の説明と足柄峠にまつわる歴史年表が書かれていました。ちなみに、倭健命は古事記による表記で、日本書紀では日本武尊となっています。
 
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その横にある足柄城の説明看板には後北条氏によって築城された戦国時代の出城であると書いてありました。ちなみに、後北条氏とは相模国の小田原を中心として栄えた北条早雲に始まる戦国大名のことで、鎌倉時代の北条氏と区別するために「後~」を冠しています。看板の左手に小道がありますが、通行止めの標識が置かれています。残念ですが諦(あきら)めることに。
 
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この峠は昌泰2年(899年)に古代の足柄関が設置されたと推定される場所です。標柱の前にある「おじぎ石」は、昔旅人がこの石に手をつき、おじぎをして通行手形を見せたことで名付けられたそうです。左手に映画「乱」のセット(城門)を使って関所の門が再現されていたようですが、私としたことがなぜか気づきませんでした。『心ここに在(あ)らざれば・・・』であったのかもしれません。
 
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街道の反対側にある足柄山聖天堂は弘法大師開基と伝えられます。ちなみに本尊は大聖歓喜双身体像です。右手には熊にまたがる金太郎の石像が見えます。
 
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T字路に行き当ると、正面に新羅三郎義光吹笙之石碑がありました。
 
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新羅(しんら)三郎義光(本名源義光)は源頼義の三男(八幡太郎義家の弟)で、奥州の乱(後三年の役)で清原武衡(たけひら)を相手に苦戦する兄義家(よしいえ)に助力するために官を辞して奥州に向かう途中、足柄峠のこの大石の上で笙(しょう)の秘曲をその師匠である豊原時秋の息子に教えたとの言い伝えがあるそうです。笙は雅楽に用いる管楽器で、パイプオルガンを小さくしたような縦笛(たてぶえ)のことです。粗忽(そこつ)な私は新羅(しらぎ)の名から渡来人と早とちりしてしまいましたが、実は近江国の新羅明神(大津市の三井寺)で元服(げんぷく)したことで付けられた通称でした。

足柄城址と刻(きざ)まれた大きな石碑脇の階段を上って足柄城址へ向かいました。
 
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現在は足柄峠城址公園として整備されています。
 
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公園の一番手前のエリアが一の郭(くるわ、曲輪とも表記)でした。一の郭は江戸時代の城における本丸に相当します。
 
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『玉手ヶ池は底知らずの池または雨乞(あまご)い池といわれ、底は小田原に通じているともいわれており、また干ばつ続きの折には池の水をかき回して雨乞いをすれば必ず雨が降ると言い伝えられている。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものである』と説明してありました。
 
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木立の中に入って池の様子を撮影
 
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これは洒落(しゃれ)で建てられた看板と思われますが、表示された「足柄峠笛祭り」は新羅三郎にちなんだ小山町の祭りのようです。毎年の余興(よきょう)でこの看板が「相模之国南足柄領」に変わることもあるそうです。
 
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大きな石碑に書かれた文字は逆光のためよく読めません。
 
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横に回り込むと読みやすい文字で、『全貌(ぜんぼう)を裾野(すその)まで見せて余(あま)すなし 不二は悠然(ゆうぜん)と天ささげたつ 蝶介』と書かれていました。後で知ったことですが、歌人で小説家の生田蝶介(いくたちょうすけ)氏が戦時中小山町へ疎開した時に作った歌の碑のようです。
 
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来し方を振り返ってみました。左手が玉子ヶ池の説明看板(池は木立の中)と中央の奥に休憩所があるだけです。
 
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標高が700mを超える場所から富士山の展望を楽しむことができる緑地公園として整備されたのでしょう。(続く)

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2013年10月15日 (火)

足柄街道を走る 万葉公園と足柄明神社

県道78号(足柄街道)へ戻ってさらに西を目指しました。写真で左手に入る道は夕日の滝への向かう市道です。T字路の角には「金太郎のふるさと南足柄市」のことばとともに万葉公園の案内標識があります。気温が27度に上昇するなかを、九十九折れになった県道を上りきると静岡県小山町との境界(県境)に到着しました。
 
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大きな岩でできた歌碑の解説に目が止まりました。足柄地方の労働民謡であったようで、若い男女の恋愛感情を歌ったものだそうです。
 
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万葉広場入口の標識には足柄峠まで0.7kmと表示されています。
 
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万葉公園は細長い形をしているため入口がいくつもありましたが、駐車場のある入口(案内図のほぼ中央に示されている)を見つけました。
 
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足柄峠の案内看板には東国と京(西国)を結ぶ要路であったことが詳しく説明されています。日本武尊(やまとたけるのみこと、やまとたける)の言葉「あづまはや」は東(あずま)と吾妻(あずま)をかけているのでしょう。
 
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円盤の上に足柄万葉公園から見える場所が示されていました。東南東には足柄平野(酒匂川)から江ノ島・相模湾・三浦半島・房総半島など、南方向には箱根の明神ヶ岳(1169.1m)・大涌谷(おおわくだに)・金時山(標高1212.5m)箱根連山、西南西には愛鷹山(あしたかやま、標高1188m)、西南西には富士山(標高3776m)、北西方向には籠坂峠(かごさかとうげ)など。
 
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園内の東屋(あづまや)付近から聞こえる人の声に誘(さそ)われて向かいました。双眼鏡で遠くを眺(なが)めているようです。
 
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素晴らしい展望が開けていました。左端に写るお結び型の山は矢倉岳(標高870m)です。遠くに見えるのは開成町と大井町でしょう。
 
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この歌碑は万葉仮名(まんようがな)で書かれていますので、すぐ近くにある説明看板の内容をそのまま引用します。『足柄(あしかり)の御坂畏(みさかかしこ)み 曇夜(くもりよ)の 吾(あ)が下這(したば)へを 言出(ことで)つるかも』(万葉集巻14.3371)の大意は、『足柄の神の御坂を越えて行くとき、峠の神に手向(たむ)けして恐れかしこまるあまり、人の秘さねばならない恋人の名前までつい告白してしまった。人に云(い)うべきじゃないことだのに』と解説されていました。
 
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先ほどのグループの誰かが声を発すると同時に全員が立ち上がって双眼鏡で何かを熱心に見ています。失礼とは思いましたが、漏(も)れ聞こえてくる言葉から「野鳥を観察するグループ」だと分かり、邪魔(じゃま)してはとその場を離れることにしました。
 
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県境の尾根に続く足柄街道を進むと静岡県小山町(おやまちょう)に入ります。そして、いよいよ最終目的地の御殿場市が15kmに近づきました。
 
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その標識に隠れていた足柄明神社の案内看板が目に止まりました。書かれた由来は、『東国平定の帰りに食事をしている日本武尊を白い鹿になって襲って撃ち殺された坂の神は坂東人(ばんどうびと、関東地方の人)の誇りを守った古代の英雄である』とあります。ちなみに、坂東とは足柄峠と碓氷(うすい)峠の坂から東の地域、つまり関東地方の古称(こしょう)です。私の好きな平将門(たいらのまさかど)の心意気や時代小説「のぼうの城」の主人公成田長親(ながちか)が、忍城(おしじょう、埼玉県行田市)の開城を迫(せま)る石田三成の使者長束正家(なつかまさいえ)に放った、『戦いまする。坂東武者の槍の味、存分に味わわれよ』の台詞(せりふ)が思い浮かびました。
 
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足柄明神社の鳥居は平凡な明神(みょうじん)鳥居ですが、なぜか柱だけが朱(しゅ)に塗られています。鳥居の色は朱または白木のいずれかにすべて塗るはずですが・・。
 
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足柄城の明神曲輪(くるわ)空堀跡
 
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足柄明神の石祠(ほこら)は思ったよりも質素です。それは天慶3年(940年)に創建されたとされる足柄明神社が2度の遷座(せんざ、御神体を移すこと)を経て苅野に移転して足柄上郡18ケ村の鎮守(ちんじゅ)になりましたが、明治6年(1873年)に矢倉(現足柄)神社が足柄明神を祭神から消して日本武尊と入れ替えたことで、氏子(うじこ)から抜けた矢倉沢村の人々が足柄明神社を再建した経緯があるためでした。
 
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手作り感に溢(あふ)れる絵馬が多数掛けられています。
 
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ここからも足柄平野がよく見渡せます。
 
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足柄街道(県道78号)に戻ると、足柄明神社の案内看板の先に「竹之下合戦史跡」の標柱がありました。
 
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竹之下合戦の名称から何も思い浮かばない私は気になって調べることに。竹ノ下(たけのした)の戦いは南北朝時代の建武2年1335年)に足利尊氏(あしかがたかうじ)勢と箱根峠に陣を進めた新田義貞(にったよしさだ、正式名は源義貞)勢の別動隊(義貞の実弟脇谷義助の軍)の間で行われた合戦でした。後醍醐(ごだいご)天皇が建武(けんむ)政権に反旗を翻(ひるが)して鎌倉を占領した足利尊氏を討つため新田義貞を派遣しますが、それに失敗したことで建武政権が崩壊し、2人の天皇(つまり2つの朝廷)が並立する南北朝体制が始まる切っ掛けになった合戦でした。(続く)

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2013年10月14日 (月)

足柄街道を走る 夕日の滝

地蔵堂の前に戻ってその左脇を抜ける道に入りました。
 
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今回は通過しましたが、前回(2005年1月18日)立ち寄った金太郎の生家跡です。童謡で知られる金太郎は平安時代の侍、坂田公時(さかたのきんとき)の幼名とされます。丹波国大江山で鬼退治をした源頼光(みなもとのよりみつ)の家来で、四天王のひとりと言われています。ちなみに、その鬼たちの頭領(とうりょう)は酒呑童子(しゅてんどうじ)と呼ばれました。
 
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民家が点在する山間(やまあい)の細い道を進むと棚田が点在しています。
 
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前回は猪(いのしし)の毛皮が干(ほ)してあったのを思い出しました。そして強烈な獣臭(けものしゅう)も・・。
 
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地蔵堂から1kmほどで「夕日の滝バンガロー」に行き当たりました。
 
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その駐車場に車を停めて案内標識に従ってバンガローの外周を歩きました。通行止めになっていますが、金時山の登山道が右手に続きます。
 
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バンガロー・エリアを抜けると内川には朱色の橋が架かっています。
 
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記憶にありませんので8年前の写真を確認すると当時は木製の小さな橋でした。前回訪れたのは1月中旬であり、雪が積もる難儀(なんぎ)な道を滝壺(たきつぼ)まで歩いたことを思い出します。
 
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橋を渡った正面に金太郎の歌碑がありました。見たことがあるように思われましたが、念のために調べてみると、平成18年度(2006年度)に建てられたことが分かりました。私の記憶もあまり当(あ)てにならないようです。
 
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その隣には「見守り地蔵」が並んでいます。こちらも最近造られたものでしょう。
 
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「夕日の滝」への順路に飛び石が敷かれている様子は8年前とまったく同じです。古い橋の写真(3つ上)と見比べて見てください。
 
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もちろん、この木の根道も変わっていません。
 
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木立の間から「夕日の滝」が見えてきました。
 
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夕日の滝」の全景です。案内看板には『この滝は酒匂川(さかわがわ)の支流内川にかかっており高さ約23m、幅約5mです。夕日の滝という名称は、夕日に映えるその美しさからきているようですが、説によると毎年1月15日に太陽が滝口の中央に沈むのでその名が付けられたと伝えられています』と書かれています。
 
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望遠で撮影した滝口
 
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歩きにくい岩場を滝壺(たきつぼ)の近くまで降りて、滝壺を含めた「夕日の滝」の全景を撮影しました。
 
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こちらは8年前にほぼ同じ場所から撮影した写真です。冬場だったせいか滝口付近がすっきりしていました。
 
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橋まで戻った時、右奥に野外ステージのようなものがあることに気づきました。
 
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橋の上から「夕日の滝」がある内川の上流方向を眺(なが)めました。
 
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下流方向にはバンガロー(キャンプ場)の炊事場(すいじば)が見えます。
 
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駐車場まで戻って、次の目的地へ向かいました。(続く)

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2013年10月13日 (日)

足柄街道を走る 足柄古道と万葉うどん

走りなれた国道246号を西へ走りました。丹沢山塊(さんかい)の主峰である大山(おおやま、標高1252m)が近づくと厚木市に入ります。そして伊勢原市と秦野市を過ぎると丹沢山塊の縁(ふち、へり)に沿(そ)って少しずつ高度を上げて行きます。さらに大井町で国道246号から県道78号(足柄街道)へそれて南足柄市(みなみあしがらし)に入りました。竹松交差点では「金太郎のふる里」の大きな標識に乗る金太郎と熊が来訪者を出迎(でむか)えてくれます。
 
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竜福寺交差点を直進して県道723を南西へ進むと7年前の記事で紹介した大雄山最乗寺に至(いた)りますが、今回は右折して県道78号を西方へ走りました。
 
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南足柄市役所のある関本を通過すると足柄街道(あしがらかいどう)はしだいに市街地を抜けて行きます。
 
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足柄街道(あるいは足柄道)は箱根越えのルートができるまでは東海道の本道(江戸と沼津を結ぶ主要道路)で、江戸時代から大山詣(もうで)をする人々が利用したため大山街道(正式名称は矢倉沢往還)とも呼ばれました。矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)のルートを踏襲(とうしゅう)する県道78号に沿って平安時代の足柄街道である足柄古道が残っているようです。ちなみに往還は主要な街道を意味しますが、矢倉沢往還は五街道ではありませんから、厳密にいえば脇往還(わきおうかん)です。

県道726号との交差点付近にあるという矢沢往還(東海道の脇街道)の矢倉沢関所(脇関所)跡に立ち寄ることにしました。交差点を左折して集落に入ると、2つの道X字型に接しています。谷側の道に「足柄道」の標識を見かけました。ちなみに、この近くには矢倉沢の地名と矢倉岳(標高870m)の名が残っています。
 
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民家越しに現代の東海道である東名高速道路を望むことができます。
 
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おおよその見当にしたがって左手方向へ緩(ゆる)やかな下り坂を100mほど歩くと、
 
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足柄道に沿った末光邸の門脇に矢倉沢関所跡の石碑と標柱がありました。
 
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足柄街道(県道726号)に戻って、さらに西進すると「足柄古道入口」バス停がありました。古道らしい細い道が上方に続いています。
 
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矢倉沢を過ぎて急なS字カーブを抜けると地蔵堂トンネルに入ります。内川に架かる橋の手前を左折すると足柄街道の旧道に入るようです。
 
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地蔵堂トンネルを抜けて小さな川を渡ったところを「夕日の滝」の案内標識に従って左折して集落に入ると地蔵堂の前(海抜415m)に出ました。
 
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この地蔵堂には神奈川県指定重要文化財である室町時代末期の作と伝えられる厨子(ずし)と南北朝から室町時代の作とされる木造地蔵菩薩立像があるそうです。
 
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地蔵堂の角を右に折れると、最初の目的地である「足柄古道 万葉うどん」に到着しました。ここにも「足柄道」の標識があります。
 
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8年半前の2005年1月に「夕日の滝」を見に訪れた時に立ち寄った店です。その時の写真で確認すると店舗の屋根は藁葺(わらぶ)きでしたが、現在はきれいに葺き変えられています。
 
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店内に入ると内装は以前のままのように思われます。
 
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テラス席も変わっていないようです。
 
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『毎月11日は「めんの日」で、うどんの大盛りサービスがある」と貼(は)り紙されています。残念なことに、この日は8日でした。尤(もっと)も、大盛りを食べ切る自信はありませんが・・。
 
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麺台(めんだい、うどんを打つ台)を見ることができます。
 
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私は今回もこの店いち押しの「スパイシー特製カレーうどん」(920円)を選びました。同行者に「とろろうどん」(720円)、「ざるうどん」(500円)、「きのこうどん」(870円)などを勧(すす)めたところ、おでん(130円/本)にするとのこと。同行者はおでんの定番である大根に加えて、ゆで玉子、こんにゃく、昆布巻きをセルフサービスで選びました。お裾分(すそわ)けにあずかった私は控(ひか)えめの味噌味でおいしく食べました。
 
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「カレーうどん」は合わせ味噌のようにも見えるカレーの大きな塊(かたまり)と刻(きざ)みネギがトッピングされており、「よくかき混ぜるように」とアドバイスされました。うどんのお替りは1杯100円ですから、もし足りなければ追加すればいいでしょう。
 
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同行者はちょっと味見をしただけでしたので、ピリ辛(から)の味噌味に食欲をそそわれた私がほとんどを食べる結果になりました。再訪する価値が十分ある美味(おい)しいうどんでした。(続く)

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2013年10月10日 (木)

丸の内のKITTE(キッテ)を訪ねる

地下鉄銀座線を神田駅で下車してから山手線に乗り換えると、わずかひと駅で東京駅に到着しました。友人夫妻に、昨年10月1日に保存復元された東京駅丸の内駅舎とおなじく今年3月21日にオープンした商業施設KITTEを案内することにしたのです。東京駅丸の内中央改札口を出て丸の内駅舎について簡単に説明しながら交差点を渡ってJPタワーの低層棟にあるKITTEに入りました。
 
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高層棟を含めてJPタワーと呼ばれます。昨年7月の関連記事で紹介したように、この低層棟は昔の東京中央郵便局の概観(イメージ)がそのまま復元されています。ちなみに、KITTEというネーミングは「切手」と「来て」2つの言葉に由来するそうです。
 
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KITTEのメインエントランスを入ると巨大な吹き抜け空間(アトリウム)が広がりました。外観からは想像できなかった三角形のフットプリントに驚かされます。天井から吊るされているものに目を奪われました。よく見るとテレビアニメ「ドラえもん」の登場人物の短冊(たんざく)でした。
 
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その真下にはドラえもんの巨大な人形が置かれています。その右手前のプレートは「藤子・F・不二雄 生誕80周年記念イベント at KITTE」が8月12日から9月1日まで開催されていることを示しています。郵便ロケットはポストのような形をした郵便配達員型の小型ロボットで、届けたい物をロケットに入れ、あて名を書けば、空を飛んで届けてくれると説明されています。
 
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エレベーターを利用して6階の屋上庭園「KITTEガーデン」に出ました。木道が整備されていて尾瀬を散策する気分で集会できます。友人夫妻は白い煙突のようなものを眺(なが)めているようです。その先に見える高層ビルは八重洲口南側にあるグラントウキョウサウスタワー(中央)とパシフィックセンチュリー・プレイス丸の内(右端)
 
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私も近くへ行ってみると東京駅の構内(プラットフォーム)が眼下に広がりました。新幹線用プラットフォームの先に見える白い円弧のような形をした施設はグラントウキョウのノースタワーとサウスタワーを結ぶ4階建ての歩行者デッキGRANROOF(グランルーフ)です。今年9月20日に竣工(しゅんこう)する直前でした。
 
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左手に歩くと東京駅丸の内駅舎の南口を見下ろす場所に出ました。屋根の形が手に取るように確認できます。
 
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白い煙突を振り返ってみました。
 
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ブーメラン型(逆くの字)をした屋上庭園の奥まで進むと丸の内ビル(左)と新丸の内ビル(右)が間近に迫(せま)ります。
 
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右手を見ると丸の内駅舎の全景をみることができました。以前の記事にも書きましたが駅前ロータリーに建つ2つの換気塔は何とかならないものでしょうか。ちなみに、奥にあるのは日本生命丸の内ビルです。
 
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屋内に戻りました。アトリウムを周遊する5階の通路からドラえもんとその飾り付けを見下ろしてみました。
 
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友人の奥さんは手芸が趣味であることから関連のショップを見かけると足が止まります。4階に降りると旧東京中央郵便局の郵便局長室が復元されていました。模様しものをするためか家具や什器などは置かれていません。訪れた日には旧東京中央郵便局の局舎が昭和4年頃に新築された時の工事写真がパネル展示されていました。
 
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基礎工事の現場写真です。後方に当時の東京駅が写っています。
 
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鉄骨建方(たてかた)です。ちなみに建方は建築の方法あるいは構造を意味します。
 
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各階のショップを覗(のぞ)きながら1階まで降りました。中央郵便局の様子を確認するために向かうと、当然ですがその窓口は他の郵便局とさして変わらないようです。
 
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しかし、その右手には郵便局としては珍しいことに売店があります。
 
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中に入ると定番の記念切手コーナーが目立ちました。高校生の頃から切手蒐集(しゅうしゅう)が趣味であった私は社会人になっても記念切手を定期的に購入し続けたため、ファイルには20-30年前の古い切手が大量に残っています。現在、葉書(50円)と手紙(80円)の切手に郵便局で交換して使っていますがなかなか減りそうにもありません。消費税が8%になる来年3月には葉書(51円)と手紙(82円)に値上がりするそうですから交換手続きが面倒になることを懸念しています。
 
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記念切手に代わって私の目にとまったものは「東京駅丸の内駅舎ジグソーパズル」です。チビスケくんへの土産(みやげ)にと購入しましたが、幼稚園の年中さんにはまだ難しすぎるかもしれません。
 
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残暑の中を歩いてバテ気味になった友人に対して、奥さんの方はいたって元気でした。屋上庭園「KITTEガーデン」からの景色とともにKITTE内でのショッピングを楽しんだようですから、当初の予定になかったKIITTEを加えたことは怪我(けが)の功名(こうみょう)だったかもしれません。

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2013年10月 7日 (月)

浅草散策

隅田川の桟橋から浅草水上バス乗り場の脇に造られた階段を上り、東武スカイツリーラインの浅草駅を右手に見ながら横断歩道を渡りました。この日は8月末(30日)にもかかわらず、熱波が押し寄せてきたため気温は30度をゆうに超えたため、商店の前を通過すると店内から漏れる冷気に感謝しながら雷門(かみなりもん)まで歩きました。

正式名称は「風雷神門」(ふうらいじんもん)というのだそうです。それは門の右側に風神、左側に雷神が置かれていることによるのでしょう。現在の雷門は昭和35年(1960年)に竣工(しゅんこう)した比較的新しいもので、門の中央に吊り下げられた大きな提灯(重量が700kg)は松下幸之助氏が寄進したもとのこと。写真では分かりませんが、11月中旬までの予定で改修工事が行われていました。
 
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仲見世(寺院の門前町で土産を売る商店街)に並ぶ商店を覗(のぞ)きながら歩きました。友人の奥さんは日本の小物や絵葉書が気に入ったようで熱心に選びます。
 
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仲見世の北端には仲見世通りと交わる伝法院通りが左右(東西)に伸びています。伝法院(でんぽういん)とはこの通りを左手に入ったところにある浅草寺の本防(ほんぼう、住職の住む坊)です。この場所からは木立に遮(さえぎ)られて見ることができません。
 
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右手(東方向)の伝法院通りの先には東京スカイツリーがよく見えます。
 
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友人の奥さんはこの舞妓(まいこ)さんの絵皿も気に入ったそうです。
 
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宝蔵門(ほうぞうもん)の前に差し掛かりました。現在の門は大谷重工業とホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏の寄進により復興再建された浅草寺の山門(仁王門)で、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した什宝物(じゅうほうぶつ)を収蔵する室が設けてあるそうです。大きな提灯には小舟町と書かれています。日本橋小舟町奉賛会より平成15年(2003年)に奉納掛け換えされたものだそうです。
 
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宝蔵門を潜(くぐ)ると巨大な本堂(観音堂)が現(あらわ)れました。昭和33年(1958年)に再建された現在の本堂は鉄筋コンクリート製の本瓦葺(ほんかわらぶ)きで、間口は34.5m・棟高(むねたか)は29.4mさそうです。大きな提灯は平成16年(2004年)に東京新橋組合が修復奉納したという新橋大提灯(重さ約600kg)です。新橋ではなく「志ん橋」と表記されています。
 
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浅草寺は飛鳥時代(628年)に隅田川で漁師が引き上げた観音像(聖観世音菩薩)を祀ったことが由来であることが浅草寺のhpに詳しく説明されています。ちなみに、浅草寺は坂東三十三観音札所の第13番です。
 
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本堂に参拝するため石階段を上がると右手に東京スカイツリーが見えました。
 
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振り返ると参道を行き来する人たちと石階段で記念撮影するグループが・・・。左手に少し見えるのはお水舎(みずや)で、手水舎(ちょうずや)とも呼ばれる参拝者が身を浄(きよ)めるために手水を使う施設です。
 
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本堂脇の石段を西方向へ降りると奥の空き地で何やら舞台装置のようなものを組み立てています。ちょっと気になりますが、今回は2人も同行者がいますから、確認することは諦(あきら)めました。
 
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影向堂(ようこうどう)の境域に阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)がありました。元禄6年(1693年)に建立されたこの唐銅(からかね、青銅)製の像はもともと本堂裏築山にあったものを平成6年(1994年)の境内整備にともなって現在の場所に移されたそうです。
 
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浅草観音温泉の建物が間近に見える場所に三匠句碑(さんしょうくひ)がありました。江戸時代前期を代表する俳句三匠である西山宗因(そういん)・松尾芭蕉(ばしょう)・榎本其角(えのもときかく)の句碑が並んでいます。宗因の句「ながむとて 花にもいたし 頸(くび)の骨」は新古今集にある西行の和歌「ながむとて 花にもいたく・・・」からとった句であると説明されています。そして芭蕉の句は「花の雲 鐘は上野か 浅草か」、其角の句は「ゆく水や 何にとどまる のりの味」が選ばれていました。
 
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五重塔(ごじゅうのとう)と東京スカイツリーを一緒に(ツーショットで)撮影してみました。この五重塔は本堂や雷門などと同様、昭和30年代に再建されたものです。
 
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浅草寺の境内(けいだい)を出た右手にある浅草木馬館は大衆演劇場です。8月公演は劇団炎舞(えんぶ)による「大衆演劇と豪華舞踏絵巻」が出し物でした。「特別講演」と表示されていますから、何かを記念する公演だと思われます。同劇団のhpによると、座長の橘炎鷹(たちばなえんおう)が花形スターである同劇団は全国各地を回って人情劇()・喜劇()・剣劇(任侠もの)などの時代劇を公演しているそうです。
 
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ちなみに大衆演劇における舞踊(ぶよう)は演歌や流行歌に合わせて役者が踊るショーを指します。下の看板に描かれている女姿は座長が演じるお蔦(つた)と思われます。つまり、泉鏡花(きょうか)作「婦系図(おんなけいず)湯島の白梅(しらうめ」」が演目(えんもく)なのでしょう。木馬館の左手に少しだけ写るのは浪曲定席(ろうきょくじょうせき)の木馬亭(もくばてい)。定席とは常設の寄席(よせ)を意味するそうです。

明治時代後期から戦後にかけて日本を代表する歓楽街であったという浅草六区や庭園が国の名勝に指定されている伝法院も案内しようと考えていたのですが、折からの熱波で気温が35度を超えた(アイフォーンで確認)ためか、友人の足取りが重くなってしまいました。コーヒー店でしばらく休憩(きゅうけい)したあとは、浅草散策を打ち切り、地下鉄を利用して別の場所へ移動することにします。

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2013年10月 5日 (土)

三度目の隅田川クルーズ(後編)

両国橋を過ぎると左岸に続くテラスに錦絵(にしきえ)が多数貼(は)られているのが見えます。この2枚は川遊びをする女性たちが描かれています。よく見ると手前の欄干(らんかん)には両国らしく相撲の決まり手を解説する装飾もありました。
 
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左の錦絵には「東京名所」と表示され、両国橋と花火が描かれているようです。右の錦絵は川船で混雑する状況を表現しているのでしょう。ここにも相撲の決まり手が・・。
 
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花火と両国橋を渡る人たち(左側)、空には満月・橋を渡る人力車と馬車が右側の錦絵に描かれています。
 
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隅田川テラスギャラリーでした。東京都交通局のhpによると、これらの錦絵は大相撲、隅田川花火大会、北斎祭りなど、季節のイベントに合わせて張り替えるそうです。
 
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総武本線の鉄橋を潜(くぐ)ると遠くに黄色い橋が見えてきました。三径間上路式(じょうろしき、通路が主構造の上側にある形式)アーチ橋である蔵前橋です。アーチが橋桁(はしげた)の下に見えます。
 
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蔵前橋の欄干(らんかん)には関取の彫り物が装飾されていますが工事のためかネットが掛けられているためよく確認できません。7年前に築地と浅草を訪れた時の記事に掲載した写真をご覧下さい。
 
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高速道路越しに東京スカイツリーが見えてきました。隅田川には屋形船が係留(けいりゅう)されています。
 
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水色の厩橋(うまやばし)は1893年(明治26年)に竣工したプラットトラス形式の鉄橋が昭和4年に現在の3径間下路式タイドアーチ橋に架け替えられました。下路式(かろしき)とは通路が主構造の下側にある形式を指します。そして橋名は西岸にあった御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)にちなむそうです。残念なことにシャッターチャンスを逃してしまいました。

いよいよゴールが近づきました。駒形橋は1927年(昭和2年)に竣工した中路式ソリッドリブタイドアーチ橋です。アーチの中ほどに通路が設置されているのが確認できます。高速道路の右手に見えるのはアサヒビールの本社ビルと孫悟空が乗る觔斗雲(きんとうん)をモチーフとしたモニュメントです。ちなみに、現在は筋斗雲と表記されることが多いようです。
 
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続いて赤い橋を潜(くぐ)りました。吾妻橋(あづまばし)は1931年(昭和6年)に竣工した3経間上路式ソリッドリブタイドアーチ橋です。
 
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東武スカイツリーラインの鉄橋の手前で水上バスはUターンしました。
 
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浅草の桟橋(さんばし)に到着
 
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先ほどまで乗船していた龍馬号の舳先(へさき)
 
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吾妻橋の全景
 
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東京スカイツリーを中心に墨田(すみだ)区役所(左)とアサヒビール本社(右)を撮影
 
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振り返って桟橋の全景を撮影
 
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(終)

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2013年10月 4日 (金)

三度目の隅田川クルーズ(前編)

ニュージンランドから友人が何度目かの来日をしました。今回は夫人を同行していますので、友人が前回の来日時に乗って気に入ったという水上バスによる隅田川(すみだがわ)のクルーズをまず案内することにしました。別の機会に同行者と一緒にユニークな形をした水上バス「ヒミコ」に乗船したことを当ブログで紹介しています。今回は隅田川に架かる橋を主テーマとして紹介したいと思います。

今回は浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)から乗船することにしました。8月30日の園内には残暑が厳(きび)しく、しかもキバナコスモスが見られるだけですから園内を散策しないで水上バス乗り場へ直行しました。東京都観光汽船が運行する水上バスは浅草までの乗船料金が720円、乗船時間は約45分です。朝一番の便である「竜馬」号は午前10時30分に浜離宮を出航すると、浅草へ向かう前にまず日の出桟橋(ひのでさんばし)に立ち寄るため隅田川を南下しました。
 
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左前方にレインボウブリッジが見えてきました。
 
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日の出桟橋を出航して隅田川を遡(さかのぼ)り始めました。右手に東京海洋大学の純白の練習船「汐路丸」(しおじまる)が見えます。ちなみに全長は49.93m、総トン数425トン。
 
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浜離宮の水門付近まで戻(もど)った時に東京都公園協会が運営する水辺ラインの「あじさい」号とすれ違いました。
 
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浜離宮越しに東京タワーが見えます。その左手の高層マンションはアクティ汐留(地上56階、高さ190.25m)、右手の2棟は東京ツインパークス(地上47階、高さ165m)、右端は日本通運本社ビル(地上28階、高さ136.51m)、中央の遠方に見えるのは六本木ヒルズです。
 
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築地市場(つきじしじょう)では競(せ)りがとっくに終わったようで閑散(かんさん)としています。その岸壁には黄色い船が2隻停泊していました。
 
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最初に潜(くぐ)る橋は勝鬨橋(かちどきばし)です。1940年(昭和15年)に架けられた中央部が開閉式になっている珍しい橋です。名前の由来は日露戦争において旅順陥落(りょじゅんかんらく)祝勝記念で設置された「勝鬨の渡し」に由来するそうです。ちなみに勝鬨とは戦争などに勝利したした時に挙(あ)げる鬨(とき)の声(大勢で一緒に叫ぶ声)です。道路の交通量が増加したことで1970年末に開閉したのが最後になったそうです。勝鬨橋の後方で一際目立つ色をした建物は興和住生築地ビル(地上23階)で住友生命の本社機能が入居しています。
 
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佃大橋(つくだおおはし)は撮影のタイミングを失してしまいました。
 
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斬新(ざんしん)なデザインの吊(つ)り橋は中央大橋(1993年竣工)
 
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現在の永代橋(えいたいばし)は1926年(大正15年)に竣工(しゅんこう)した橋ですが、最初の永代橋は元禄(げんろく)11年(1698年)に架けられました。赤穂浪士(あこうろうし)が吉良邸(きらてい)に討(う)ち入ったあと、完成して4年しか経っていない永代橋を渡って泉岳寺(せんがくじ)へ向かったそうです。
 
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タグボート(曳船)が貨物を搭載(とうさい)したバージ(艀、はしけ)を牽引(けんいん)して隅田川を下って行きます。
 
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隅田川大橋は首都高速9号深川線の高架橋と一体化して造られています。
 
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清洲橋は1928年(昭和3年)に竣工した美しい吊り橋で、土木学会の土木遺産に指定されています。そして2007年には勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定されました。
 
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これは前回の記事「浜町緑道を歩く」で簡単に紹介した新大橋です。何度も架け替えられて、現在の新大橋は1977年(昭和52年)に架け替えられた2径間連続斜張橋です。
 
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両国橋は1904年(明治37年)にそれまでの木製の橋から上部構造がある鉄製の曲弦トラス3連桁橋に架け替えられましたが、1932年(昭和7年)に現在の橋(3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋)に架け替えられて上部構造のないすっきりした橋になりました。
 
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(続く)

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