足柄街道を走る 足柄関所跡と足柄城址(前編)
足柄峠(標高759m)に到着しました。昔は足柄坂と呼ばれていたそうです。「あづまはや(吾妻はや)」は前回の記事で紹介したように、日本武尊(やまとたける)が叫んだという「あゝ我が妻よ」を意味します。説明看板には倭健命(やまとたけるのみこと、日本武尊)の説明と足柄峠にまつわる歴史年表が書かれていました。ちなみに、倭健命は古事記による表記で、日本書紀では日本武尊となっています。
その横にある足柄城の説明看板には後北条氏によって築城された戦国時代の出城であると書いてありました。ちなみに、後北条氏とは相模国の小田原を中心として栄えた北条早雲に始まる戦国大名のことで、鎌倉時代の北条氏と区別するために「後~」を冠しています。看板の左手に小道がありますが、通行止めの標識が置かれています。残念ですが諦(あきら)めることに。
この峠は昌泰2年(899年)に古代の足柄関が設置されたと推定される場所です。標柱の前にある「おじぎ石」は、昔旅人がこの石に手をつき、おじぎをして通行手形を見せたことで名付けられたそうです。左手に映画「乱」のセット(城門)を使って関所の門が再現されていたようですが、私としたことがなぜか気づきませんでした。『心ここに在(あ)らざれば・・・』であったのかもしれません。
街道の反対側にある足柄山聖天堂は弘法大師開基と伝えられます。ちなみに本尊は大聖歓喜双身体像です。右手には熊にまたがる金太郎の石像が見えます。
T字路に行き当ると、正面に新羅三郎義光吹笙之石碑がありました。
新羅(しんら)三郎義光(本名源義光)は源頼義の三男(八幡太郎義家の弟)で、奥州の乱(後三年の役)で清原武衡(たけひら)を相手に苦戦する兄義家(よしいえ)に助力するために官を辞して奥州に向かう途中、足柄峠のこの大石の上で笙(しょう)の秘曲をその師匠である豊原時秋の息子に教えたとの言い伝えがあるそうです。笙は雅楽に用いる管楽器で、パイプオルガンを小さくしたような縦笛(たてぶえ)のことです。粗忽(そこつ)な私は新羅(しらぎ)の名から渡来人と早とちりしてしまいましたが、実は近江国の新羅明神(大津市の三井寺)で元服(げんぷく)したことで付けられた通称でした。
足柄城址と刻(きざ)まれた大きな石碑脇の階段を上って足柄城址へ向かいました。
現在は足柄峠城址公園として整備されています。
公園の一番手前のエリアが一の郭(くるわ、曲輪とも表記)でした。一の郭は江戸時代の城における本丸に相当します。
『玉手ヶ池は底知らずの池または雨乞(あまご)い池といわれ、底は小田原に通じているともいわれており、また干ばつ続きの折には池の水をかき回して雨乞いをすれば必ず雨が降ると言い伝えられている。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものである』と説明してありました。
木立の中に入って池の様子を撮影
これは洒落(しゃれ)で建てられた看板と思われますが、表示された「足柄峠笛祭り」は新羅三郎にちなんだ小山町の祭りのようです。毎年の余興(よきょう)でこの看板が「相模之国南足柄領」に変わることもあるそうです。
大きな石碑に書かれた文字は逆光のためよく読めません。
横に回り込むと読みやすい文字で、『全貌(ぜんぼう)を裾野(すその)まで見せて余(あま)すなし 不二は悠然(ゆうぜん)と天ささげたつ 蝶介』と書かれていました。後で知ったことですが、歌人で小説家の生田蝶介(いくたちょうすけ)氏が戦時中小山町へ疎開した時に作った歌の碑のようです。
来し方を振り返ってみました。左手が玉子ヶ池の説明看板(池は木立の中)と中央の奥に休憩所があるだけです。
標高が700mを超える場所から富士山の展望を楽しむことができる緑地公園として整備されたのでしょう。(続く)
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