カテゴリー「街道巡り」の111件の記事

2011年11月13日 (日)

旧東海道のドライブ旅(最終回) 大津・髭茶屋追分から京都・三条大橋へ

名神高速道路の下を潜(くぐ)った大津市追分町で国道1号から旧東海道へ入ります。その角にあるKOBAN(大津警察署藤尾交番逢坂山検問所)は現代の関所と言えるかも知れません。
 
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佛立寺(ぶつりゅうじ)を過ぎた分かれ道に立つ道標には「右京道 左宇治道」と彫られているようです。ここが伏見街道との大津追分で「髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)」とも呼ぶそうです。大坂へ向かう伏見街道(東海道五十七次)は左手に進みます。
 
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三井寺再興の祖である智証大師坐像があるという閑栖寺(かんせいじ)の付近から長い下り坂が続きます。智証大師(ちしょうだいし)の諡号(しごう)で呼ばれる円珍(えんちん)は入唐八家(唐に渡って密教経典を伝えた八人の僧)の一人で空海の甥(おい)に当たります。
 
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旧東海道は国道1号に分断されて直進できません(歩行者は横断歩道橋が利用可)ので三条通(府道143号・旧国道1号)に入りました。適当な場所で右折して旧東海道に戻るつもりでしたが・・・。
 
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左手に入る路地の角に「右 三条大橋、左 旧渋谷道」の道標を見つけました。渋谷道は鎌倉時代に山科から東山を越えて京の六波羅探題(ろくはらたんだい・現在は六原小学校の校庭)近くへ至る主要な道でしたが、その後に三条大橋へ向かう道が旧東海道として重要な街道となったため間道(かんどう)の位置づけになったそうです。
 
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外環三条交差点を右折して山科駅方面へ向かうべきでしたが、車線取りに失敗して通過してしまい、五条の別れ交差点に差し掛かってしまいました。その名前通りに五条の六波羅探題へ向かう渋谷道とのもう一つの追分です。
 
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右手にある京都薬科大学(体育館)の角に山階寺跡(やましなでらあと)の石柱を見つけました。
 
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山階寺は七世紀後半、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた藤原鎌足が重病を患(わずら)った際に鎌足の妻が夫の病治癒(やまいちゆ)を祈願して釈迦三尊像を本尊として建立したと伝えらますが、その詳細な場所は分かっていないようです。後に藤原京へ移されて厩坂寺(うまやさかでら)と称(しょう)され、さらに平城遷都とともに平城京へ移転されて興福寺と名付けられました。

東海道本線のガード手前で旧東海道が三条通に合流しました。残念なことに山科で立ち寄る予定だった山科地蔵徳林庵や五条の別れにある右三条道という道標などを見逃(みのが)してしまいました。普段(ふだん)であれば引き返してでも立ち寄るところですが先を急ぐ気持ちが邪魔(じゃま)をしたようです。

東海道本線のガードを潜ったところの右手に天智天皇御陵の入口があります。
 
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参道脇になぜか石造りの日時計がありました。表記から見てかなり古いもののようです。これも気に掛かって調べてみると、日本書紀に中大兄皇子(後の天智天皇)が奈良の明日香に日本で始めて水時計(漏刻)を使用したとあり、1920年(大正9年)にその日(6月10日)が「時の記念日」に制定されましたから、その記念碑かも知れません。
 
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三条通の反対側に細長い公園のような旧京津電気鉄道京津線の廃線区間(山科駅以西)に造られた遊歩道が見えました。写真左手にある門のようなものがその入口です。
 
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旧東海道はこの遊歩道の途中で左に折れます。その先には御陵(みささぎ)一里塚(江戸日本橋より124里)と亀水不動尊があるようですが、先が急がれてそのまま三条通を走ると日ノ岡を過ぎた辺(あた)りから右にカーブする緩やかな上り坂になりました。前方の信号で旧東海道が三条通に左手から合流しているはずです。
 
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下り坂に入って京都市蹴上(けあげ)浄水場を過ぎた蹴上のY字路で三条通は岡崎方面へ向かう白川通と分かれます。三条大橋はもう2km足らずの距離です。
 
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白川橋を越えて東山三条交差点を通過すればいよいよ最終目的地の三條大橋に到着します。
 
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勤皇を訴え全国を旅した高山彦九郎の像は三条大橋の東詰で御所を拝んでいます。
 
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同じく西詰には弥次喜多像もありました。
 
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池田屋騒動の時に付いたのではないかと言われる刀傷が三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)に残っています。新選組が長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士を池田屋に襲撃した事件で、その旅館池田屋は三条大橋から100m余り西にあったようです。
 
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同行してくれた折り畳み式自転車を三条大橋で記念撮影しました。
 
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今回のドライブ旅で2年余りを掛けた旧東海道五十三次を巡るドライブ旅を無事に終えることが出来ました。これにより以前にドライブ旅した京街道と合わせて「東海道五十七次」も完走したことになり、満たされた気分で京都東ICから名神高速道路に入って帰路に着くことにしました。
 
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そして一年前にも夕食に立ち寄った名神高速道路大津SAの叶匠寿庵(かのうしょうじゅあん)でやや遅めの昼食です。私は「牛肉うどん」(1150円)、同行者は「近江牛ひつまぶし膳」(1580円)を注文。いずれも美味しく食べました。
 
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午前中に通過した大津の町が眼下に広がっています。参考までに、中央の薄茶色のビル群が滋賀県庁で、その先にある緑色のビルが矢橋の渡しの港「小舟入」に近い滋賀県警察本部
、県庁の左手(左端の高層マンションの手前)は大津宿跡辺りです。
 
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ゆっくり昼食休憩を取った後は、新名神高速道路・東名阪自動車道・伊勢湾岸道路をすべて順調に走行、短い渋滞がところどころで発生する東名高速道路もほぼ一定の速度で乗り切って、日が沈んだ頃には帰宅できました。ちなみに、今回のドライブ旅は総走行距離が約1610km、平均燃費が23.1km/ℓとまずまずの結果です。

<同行者のコメント> 旦那さまが帰宅途中に昼食を食べるのは珍しいと思いましたが、どうも翌日にゴルフの予定が入っていたため早く帰宅したかったようです。高速道路のSAで休憩する回数がいつもより少なかったのもきっとそのために違いありません。

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2011年11月12日 (土)

旧東海道のドライブ旅 大津宿(下)

京町一丁目交差点に「札の辻」と書かれた標柱と大津市道路元標を見つけました。
 
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西近江路が琵琶湖方面へ下って行きます。
 
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京都方面を見るとなぜか京阪電気鉄道京津線が西近江路から右へそれて行きます。
 
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明治天皇聖蹟碑」がある場所は昔の「大津宿大塚本陣」跡、東海道五十三次で一番目の宿場でした。ちなみに聖跡碑は天皇が御幸(みゆき)あるいは行幸(ぎょうこう)、つまり外出された場所を言います。
 
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明治以降の各天皇は全国を御幸(つまり巡幸)されたため各地の地名に「御幸」や「聖蹟」の名が見られます。有名なものは銀座南青山の「みゆき(御幸)通り」、京都府八幡市の木津川御幸橋(ごこうばし)、川崎市幸区(旧御幸村)では御幸小学校御幸公園の名に残り、東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅もその一つです。
 
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交差点の名前は「御幸町」(みゆきちょう)。この辺の西近江路は「八町筋」と呼ばれて付近には、本陣と脇本陣が各々2軒を初め、多くの旅籠屋が連なっていたとの説明がありました。
 
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右手には京阪電車京津線の踏切を挟(さ)んで「関蝉丸(せきせみまる)神社下社」の鳥居と拝殿・本殿があります。
 
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安養寺の門前にある石板には『日本書紀によると「逢坂」で神功(じんぐう)皇后の将軍・竹内宿禰(たけうちのすくね)と神功皇后に反抗した仲哀(ちゅうあい)天皇の異母皇子・忍熊王(おしくまのみこ)がこの地で偶然出会ったと伝えられることに由来する』と説明されていました。
 
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安養寺の本尊である阿弥陀如来坐像は行基の作と伝えられて国重要文化財に指定されています。また蓮如上人(れんにょしょうにん)が浄土真宗布教の拠点であった京都大谷の本願寺を山門(比叡山延暦寺)の手で焼き討ちされて大津へ逃れる時に安養寺の門前にあった「身代わり石」に隠れて難を逃れたと伝えられます。
 
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国道1号と合流すると京阪電気鉄道京津線に沿って長い上り坂が続きます。前方に見える高架は名神高速道路です。
 
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関蝉丸神社上社」です。平安時代の琵琶の名手で音曲の神として崇められた蝉丸(せみまる)が、逢坂山に住んだことでその没後、この神社に祀られたそうです。
 
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弘法大師堂を見掛けました。
 
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日本一のうなぎ「かねよ」のすぐ先に「逢坂の関」の碑と常夜燈がありました。以前の記事「もうひとつの東海道」でも写真を掲載しています。『逢坂の関は鈴鹿不破(岐阜県不破郡関ヶ原町松尾)と並ぶ古代の三関所の一つとして平安時代に入って重要な役割を果たしましたが、平安時代後期になると徐々に形骸化(けいがいか)したこと、その場所は関蝉丸神社(上社)と関寺(現在の長安寺辺り)にあったと伝えられる』ことが説明されています。
 
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「これやこの 行くも帰るも別かれつつ しるもしらぬもあふさかの関」は先述した蝉丸が呼んだ有名な歌です。
 
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旧東海道は右手に入って行きます。大谷町に入って坂を下る途中、日本一のうなぎ「かねよ」(明治5年創業)のすぐ先に蝉丸神社の分社がありました。上社・下社・分社を合わせて蝉丸神社と呼ばれるそうです。
 
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「右京三条 左伏見奈良」と彫られた道標がありました。
 
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右手には大谷茶屋があります。うなぎと京料理の名店のようです。峠道になぜ鰻屋が2軒並んでいるのか不思議に思われました。鰻好きの私は機会を見つけてどちらかの店に立ち寄りたいと思います。
 
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旧東海道は国道1号の反対側へ移ります。徒歩なら横断歩道橋を利用できますが車は行き止まりで、「逢坂の関」碑まで引き返しました。
 
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(続く)

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2011年11月11日 (金)

旧東海道のドライブ旅 大津宿(上)

国道1号の粟津町西交差点から石山駅前を通過して松原町西交差点で旧東海道に入り、前回も通過した粟津中学校の裏手を走ります。
 
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前回のドライブ旅では時間切れのため湖岸道路(県道102号)へ出た三叉路のすぐ先に「膳所城北総門跡」の石柱を見つけました。
 
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旧東海道は道なりに左に折れて京阪電気鉄道石山坂本線の踏切りを渡ります。
 
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若宮神社の前を通過してすぐ右へ折れ、瓦ヶ浜駅脇の踏切りを渡ります。
 
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丸の内町の縁心寺(えんしんじ)前を通過します。この寺は膳所城の初代城主戸田一西(かずあき)が創建、後に膳所藩主本多家の菩提寺となりました。
 
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木下町にある和田神社の表門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)の門を移したもので、境内には関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が京に送られる途中につながれたと伝えられる銀杏(いちょう)の大木(樹高約24m・樹齢約600年)があるようです。写真の右手奥に写る木でしょう。
 
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響忍寺に行き当りました。旧東海道はこれを迂回するように右手へ進みます。
 
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石坐(いわい)神社の前を通過
 
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小さな枡形の様に折れ曲がる道の角に膳所城北総門跡の石柱が立っていました。
 
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義仲寺(ぎちゅうじ)の手前に通行止めの立て看板があるため車を降りて歩きました。
 
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義仲寺は、名前から思い浮かべられるように、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)をこの地に葬(ほうむ)ったことに由来し、寺は近江守護であった佐々木六角が室町時代末期に再興したと伝えられます。
 
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大津警察署の裏手を通過して京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡った松本二丁目のY字路にある案内標識には、『江戸時代、この辺には石場の渡し場(港)があり、対岸の八橋(やばせ)への船客でにぎわっていた。渡し場には「呼次の松」と呼ばれる松があって、船頭がこの松の根元に立って客を呼んでいたのでその名がついた』と呼次松(よびつぎのまつ)の由来が説明されていました。
 
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松本一丁目から京町四丁目に入ると旧東海道が真っ直ぐ伸びています。
 
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滋賀県庁前郵便局の前を通過
 
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京町二丁目の角に露国皇太子遭難地の小さな碑が立っていました。1891(明治24)年5月にロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が来日した折り、警備に当たる巡査の一人に斬りつけられ負傷した大津事件が発生した場所です。明治天皇自(みずか)らがニコライ皇太子を見舞って謝意を示したことと、榎本武揚(えのもとたけあき)外相などが奔走(ほんそう)したことにより日露関係が悪化することはなかったようです。
 
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大津の地名は大きな港(津)に由来、大津宿の中心街は高札場(こうさつば)がある辻であったことで「札の辻」と呼ばれました。ここは東海道と北国(ほっこく)街道(別名西近江路)の分岐点にあたり、国道161号と路面電車の京阪電車京津線が走っています。旧東海道は京町一丁目交差点を左折(南に曲がる)して西近江路と合流します。
 
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(続く)

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2011年11月 1日 (火)

旧東海道のドライブ旅 野路から島ノ関へ

国道1号(旧道)を野路町交差点まで引き返し、右折して旧東海道に入りました。国道1号で分断された旧東海道は上北池公園の中に再現された野路一里塚など当時の様子が残されているようですが、道路が混雑しているため車を留めることは諦(あきら)めて、先へと走りました。そして一里塚公園と野地の玉川跡は見過ごしてしまいました。弁天池を右手に見ながら旧東海道は南笠東の住宅地の中を進んで行きます。南笠には南笠古墳群(みなみがさこふんぐん)があるようです。
 
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狼川(おおかみがわ)を渡ると道幅が狭くなり、緩やかな坂を下りると、草津市から大津市(月輪)に入りました。
 
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「名勝 月輪大池 南1粁」の道標
 
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月輪寺(つきのわでら)の門前には「月輪新田開発発祥之地」と「明治天皇御東遷駐輦之所」の石碑が2つ立っています。
 
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一里山公園の近くを通過
 
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一里山1丁目交差点を直進します。左手に面白いデザインの道標が立っています。
 
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右手にある瀬田小学校の角を旧東海道は左(南)に曲がり、南に向かった旧東海道はその先のカーブでは右(西)に曲がります。
 
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直線的な道に出ました。
 
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旧東海道から少し離れますが「三大寺」に奈良時代の「近江国国府」があります。国府跡はかなりの回り道になりますから、神領交差点から左に入った「近江国一之宮の建部(たてべ)大社」にだけ寄り道しました。
 
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「瀬田の唐橋」を通過しました。以前、「近江路の城巡り」をした時にも訪れています。
 
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京阪石山坂本線(けいはんいしやまさかもとせん)の踏切を渡り、鳥居川交差点を北(右)に進み、東海道本線のガードを潜(くぐ)ります。
 
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粟津中学校の先にある御殿浜で旧東海道をそれて、湖岸道路(県道102号)へ出ました。日没が近づいたため、この日の旧東海道を辿(たど)るドライブ旅を打ち切ることにしたのです。
 
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湖岸道路と琵琶湖に挟(はさ)まれた膳所城跡(ぜぜじょうせき)公園の前を通過します。関ヶ原の合戦のあとに徳川家康が築城の名手といわれた藤堂高虎(とうどうたかとら)に造らせた坂本城と同じ水城で、模擬再建された城門だけが建っています。ちなみに膳所城(ぜぜじょう)の城門は膳所神社などに移築されているそうです。
 
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「八橋の渡し」の大津側の港「小舟入(こふないり)」があった島ノ関を通過し、浜大津交差点を左折した国道161号から国道1号に入り、この日の宿泊地へと向かいました。
 
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<同行者のコメント> それまで順調に走っていたわが家の運転手さんは草津の町で苦戦していました。一方通行の多い道を走り回ったあげく、車を置いて歩き始めたのです。お疲れさま! 昼に食べた讃岐うどんは美味しかったです。その後に入った温泉の湯も良かったですが国道を走る車の音が気になって落ち着けませんでした。

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2011年10月31日 (月)

旧東海道のドライブ旅 「矢橋の渡し」と天然温泉「ニューびわこ健康サマーランド」

一旦国道1号に出て草津宿の外(はず)れにある立木神社へ向かいましたが、立木神社前交差点も左折出来ませんので、国道1号へ引き返しました。旧東海道沿いにある立木神社は古くより交通安全厄除けの神社として信仰を集めていたそうです。

立木神社の南にある矢倉橋へ向かう前に、国道1号(旧道)の矢倉中央交差点の先にある「本家さぬきやセルフ草津店」で昼食を摂ることにしました。「本家さぬき」の名前がありますが、大阪出身のうどんチェーン店です。神戸出身の人気店「丸亀製麺」と同様に讃岐とは直接関係がないのです。
 
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私は「カレーうどん」(380円)、同行者は「ざるうどん」(280円)と「てんぷら」(シェア用)を注文。カレーうどんの写真を撮っている間に同行者は「ざるうどん」を大半平らげていましたので、残念ながらその写真はありません。値段の安さと食感が讃岐うどんらしさを感じさせました。
 
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旧東海道に入って新草津川に架かる矢倉橋を南から北へ渡りました。
 
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矢倉橋を渡り切った右手にある小さな公園に黒門の案内板と草津宿立場の浮世絵看板が立っています。
 
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立木神社へ向かう旧東海道です。
 
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東海道と矢橋街道の追分(ひょうたんを製造販売する店・瓢泉堂の角)には、「右やはせ道、これより廿五丁」と刻まれた矢橋道標が建っており、東海道はここから陸路を進む本道と、矢橋から琵琶湖を船で渡り大津に出る道の二通りありました。矢橋街道(矢橋道)は25町(約2.7km)の道ですが、現在は東海道線で分断されたため、徒歩の人も近くのガードへ迂回する必要があります。

私は直進して矢倉南交差点でいったん国道1号に入り、野路町交差点を経由して県道18号へと迂回しました。セブンイレブンのすぐ先で八橋街道は県道18号に合流しますが、矢橋(やばせ)中央交差点の直ぐ先で矢橋街道は南西方向へとそれます。

琵琶湖に行き当った場所にある公園が「矢橋港」(八橋の浜)跡です。陸路の瀬田の大橋経由は三里(12km)と遠回りとなりますが、湖上は五十町(約5.5km・矢橋街道を加えて約8.2km)と大幅に短い距離ですが気候の影響を受けやすいため、室町時代の連歌師宗長は「武士(もののふ)の矢橋の舟は早くとも急がば回れ瀬田の長橋」と詠(よ)んでいます。

また矢橋港は近江八景の「矢橋帰帆(やばせのきはん)」として知られ、広重などの浮世絵などで親しまれた名所でしたが、現在は琵琶湖沖の広大な矢橋帰帆島や近江大橋で近代的な景観へと姿を変えました。唯一残っている常夜灯を取り損なったことは返すがえすも残念です。その常夜灯の様子は滋賀県の「滋賀の風景」で見られます。

湖岸道路(県道559号)の帰帆(きはん)南橋越しに対岸の大津方面と比叡山を望みました。大津市打出浜の石場港と島ノ関の小舟入(こふないり)周辺も埋め立てられたため、現在は湖岸から少し離れた打出浜(大津警察署)辺りと県警本部辺りであり、ちょうど写真に写る高層ビル(大津プリンスホテル)の方角です。その先のゴール「京都・三条大橋」までは直線距離で約13kmを残すだけになりました。
 
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右手に長く伸びるのは下水処理施設として造られた人工島「矢橋帰帆島」です。遠方に見える山は左が大文字山(標高465m)で、右が如意ヶ岳(標高472m)のようです。
 
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矢橋大橋を渡って矢橋帰帆島へも立ち寄りました。
 
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この島には、野球場やテニスコート、グランドゴルフ場などのスポーツ施設のほか、楽しい遊具や芝生のある広場などがあり、市民の憩いの場になっています。
 
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県道18号で野路町交差点まで戻り、国道1号(旧道)を南下して大津市に入りました。次の目的地である古琵琶湖天然ラドン温泉「ニューびわこ健康サマーランド」は天然温泉が少ない湖南エリアでは貴重な施設です。ホテルに併設されたこの施設の外観は昭和時代のヘルスセンター風で微妙ですが・・。
 
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「健康」を強調することにも時代を感じさせます。
 
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入り口に高札風デザインの「古琵琶湖天然ラドン温泉」の説明書きが掛けられていました。館内着やタオル付きの入館料金(平日・土曜午後)は1300円とやや高めです。60分までのショートタイムは600円とゆっくり出来ない利用者にはお得感があります。
 
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フロント脇の休憩スペース近くのエレベータを利用しました。男湯への入口は3階(浴場は2階)、女湯は4階に浴室があるようです。
 
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脱衣場はプールのロッカールームのように味気ない雰囲気があります。
 
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螺旋(らせん)階段で2階へ下りると、なぜか浴室への入り口が出口と別になっています。同施設のhpによれば、『泉質は含弱放射能-カルシウム・ナトリウム-塩化物温泉(但張性弱アルカリ性低温泉)。有馬温泉の「金泉・銀泉」にも匹敵するとの高い評価を得ており、100%の源泉を使用している(源泉の希釈はせず)』と説明されています。
 
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浴場は中央部の洗い場を取り囲むように高・低温サウナ、ミストサウナ、バイブラバス、寝風呂、冷水槽寝湯、ジャグジーなどが並んでいます。
 
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露天エリアには半露天の岩風呂と信楽(しがらき)陶器風呂があります。国道1号を通る車の音がよく聞こえました。
 
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温泉は鉄分を含んだ茶褐色と説明されていましたが、鉄分やマンガンを濾過装置で除去しているため、その色は目立ちません。匹敵するとされる有馬温泉を連想すれば、金の湯というよりも銀の湯(有馬温泉)に近いく、さっぱりした印象の温泉でした。(続く)

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2011年10月30日 (日)

旧東海道のドライブ旅 草津宿

旧東海道(県道116号)は草津川支流の金勝(こんぜ)川の堤防に行き当たりました。ここは旧東海道と中郡街道の分岐点で、旧東海道は右(西)に折れます。堤防の向こうに目川(めがわ)池があり、古い道標には東海道の文字が彫られています。
 
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旧東海道は金勝川の堤防ぞいに進み、左(南)に大きく曲がると茅葺きの民家があり、その先に目川一里塚の石碑がありました。江戸日本橋より118里の地点です。東海道一里塚がある目川は瓢箪(ひょうたん)が名産で「ひょうたんの里」と呼ばれているそうです。昔は瓢箪が旅人のお茶やお酒などを入れる容器として旅人の必需品であったことで農民が副業として瓢箪を栽培して、立場(たてば・街道の休憩所)などで売られたと思われます。ちなみに目川の地名は金勝川流域にあり集落との境目を指すことから起こったとされます。
 
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ほぼ一直線の旧東海道が続きます。
 
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立場茶屋であった目川田楽「古志ま(こじま)屋」跡です。「ここで提供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽(でんがく)で独特の風味を有し東海道の名物となった」と説明されています。
 
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田楽茶屋とは立場の元伊勢屋と、この古志ま屋、京伊勢屋の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた」と説明されています。ちなみに歌川(安藤)広重が「石部」として描いたのはこの目川の里です。
 
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栗東市の岡地区が地域事業として3年前に開業した田楽茶屋「ほっこり庵」は当時のレシピをもとに味噌田楽と菜飯の味を再現しているそうです。隣に見える「菊の水」も同じ経営のようです。
 
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旧東海道はこの先で右(西)方向にカーブして東海道新幹線のガードを潜りました。
 
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かつては草津宿南の矢橋道標近くにあった草津名物うばが餅を売る「うばがもちや」(姥が餅屋)は国道1号の国道大路交差点角に移転しているようですが、国道1号の大路三丁目交差点を直進して県道143号となって草津市の中心部へ入りました。旧東海道はこの交差点の手前で草津川沿いにそれて南岸へ渡り、草津宿の中心部へ入りますが、立ち寄り先を決めていましたのでそのまま進みました。 
 
小汐井(おしおい)神社は中山道第一の宮です。「おしおい」とは神事を行う前に海中(ここでは湖中)で身を清めたことを指す言葉だそうです。そして地名の草津は草深い地にあった港がその由来のようです。ちなみに、群馬県草津温泉の草津は強烈な硫黄臭のある温泉の湯を「臭(くさ)水(うず)」と呼んだものが後に変化したとの説があります。
 
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覚善寺の門前に東海道と中山道の追分道標が立っています。
 
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サカエマチ商店街の入口にあるタワー111の手前を左折するつもりでしたが、車は侵入出来ませんので、タワー111の外周を大きく迂回しました。
 
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草津川(天井川)下のトンネルも一方通行で車は侵入できません。寄り道をしたことは間違いだったようです。
 
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草津本陣はトンネルの先にあるとの案内標識が立っています
 
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草津川をどのルートで渡るか迷いましたが、東海道本線の上を通過して、野村運動公園グランドの手間を左折、再び東海道本線を潜って本四商店街の入口(草津宿交流館の近く)に出ました。
 
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車を停めて旧東海道を草津川のトンネル方面へ歩きました。
 
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先ず真新しい「くさつ夢本陣」(正式名称:草津市まちなか交流施設)を見かけました。
 
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そして少し先の右手にある草津市観光物産館脇本陣の脇にひっそりと立つ草津宿脇本陣の石柱を見つけました。
 
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50mほど先の左手に立派な草津宿本陣(国指定史跡)が見えました。田中七左衛門が勤めていたこの本陣職はほぼ昔の姿のまま残されていて、今は資料館として公開されています。もう一つの本陣は田中九蔵が務めたそうです。
 
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大きく迂回することを余儀なくされたトンネルは目と鼻の先です。トンネルの手前が東海道と中山道が分かれる草津追分で、高札場があった場所です。
 
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街道交流館にも立ち寄りました。
 
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さらに80mほど南に歩いた太田酒造(道灌蔵)の店先に「草津宿と政所(まんどころ)」の説明看板が立っていました。
 
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なぜ道灌蔵(どうかんぐら)なのかと思い同社のhpを開いてみると、江戸時代の初期に太田道灌(どうかん)の末流であった太田家は越前福井藩から草津に移って関守となり、明治時代初期に酒造りを始めたのだそうです。(続く)

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2011年10月29日 (土)

旧東海道のドライブ旅 石部宿(下)

石部中央交差点の東角に「御高札場」跡がありました。左手の奥へ伸びる細い道が旧東海道です。
 
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公園内の白壁には芭蕉の句とともに3枚の絵が並んでいます。左から順に歌川(安藤)広重の『東海道五十三次「石部」田楽茶屋にて』『東寺長壽寺』『西寺 常楽寺』。
 
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現在の石部は昔ながらの細い道がそのまま残っていますが古い建物は少ないようです。その中で目立ったのがこの石部宿 夢街道」という休憩所でした。
 
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民家の庭先に小島本陣跡の石柱とその左側に明治天皇聖蹟碑がありました。今はないこの本陣に明治天皇が宿泊されたそうです。
 
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石部中央交差点を過ぎた旧東海道は真明寺の先で桝形(ますがた)に曲がっていて、最初の角に田楽(でんがく)茶屋がありました。さきほど高札場跡で見た歌川(安藤)広重の絵に描かれた茶屋を再現したようです。
 
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左折した(枡形を抜けた)先に一里塚跡があり、小公園になっている西縄手(にしなわて)跡に松並木が再現されていました。左後方には東海道五十三次図が描かれた石板が見えます。
 
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名神高速道路の下を通過して入った栗東(りっとう)市林の「長徳寺薬師如来堂」に「従是東膳所領」と刻まれた領界石がありました。「膳所領」とは大津にあった膳所藩(ぜぜはん)の近江国における飛び領地の一つであった石部のことを指すようです。
 
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すぐ横に「上野夜雨(かみののやう)」の詩碑がありました。栗太(くりた)八景の一つである上野(現在の栗東市林)を詠んだものです。旧栗田郡は現在の栗東市と草津市および大津市と守山市の一部を含む地域でした。ちなみに八景について「八景島シーパラダイス」の記事で触れています。
 
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長徳寺の少し先の交差点角に「新善光寺是より一丁余」の道標がありました。新善光寺は平氏を弔(とむら)うために信州善光寺から請来(しょうらい)された同じ栗東市林にある寺です。
 
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旧和中散本舗大角家(おおすみけ・国の重要文化財)は胃腸薬と知られる道中薬の「和中散」を製造・販売した薬屋です。
 
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梅木一里塚跡の石碑がありました。
 
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横の大きな石板には江戸時代の東海道ガイドブックに掲載された六地蔵村の様子と「梅木立場」が置かれたことが説明されています。ちなみに立場(たてば)は宿場と宿場の間に置かれた休憩所のことです。
 
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行者堂(ぎょうじゃどう)の石柱が目に入りました。調べると、手原(てはら)の人たちが作った行者講(役行者が開いた奈良県吉野にある大峯山寺に参拝するグループ)の集会所で、戦前までは堂内で護摩(ごま)を焚(た)いたり・食事をしたりしたそうです。
 
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名神高速道路栗東ICへのアクセス道を潜(くぐ)って栗東市手原に入ると「手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれた木札を見掛けました。
 
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手原の稲荷神社には「明治天皇手原御小休所」の石柱と休憩用の「手ハラベンチ」がありました。
 
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ここには栗太八景の一つである「手原行人」の詩碑が立てられています。
 
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境内で大きなコブのある木を見つけました。
 
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民家の前に意外にも東経136度子午線の石柱がありました。日本標準時子午線である東経135度は明石市を通っていることはよく知られていますが、136度が旧東海道を横切る場所についてこれまで知りませんでした。好奇心を刺激されて調べてみると、東経137度は愛知県豊明市豊明小学校付近、東経138度は掛川市の十九首塚付近、東経139度は三島市の山中城跡付近でした。
 
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東海道すずめ茶屋跡地の石柱が駐車場脇に立っています。左手の木札には「田楽茶屋」と説明されていました。
 
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上鈎池(かみまがりいけ)西側の小さな公園に「足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」の石碑があります。これも調べてみると、室町幕府第九代将軍足利義尚が構えた陣跡でした。足利義尚は九代将軍の座を争った応仁(おうにん)の乱(1467-1477年)で衰退した幕府権力を回復すべく、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角氏を追って延暦寺僧真宝坊の居館であった真宝館に陣を敷きましたが、この陣所で25歳の若さで病死しました。
 
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1487年に始まった戦は長享の乱(ちょうきょうのらん)と呼ばれます。ちなみに六角氏は宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏の流れを汲(く)んでいますから、源氏一族における勢力争いとも言えますが、応仁の乱以降に続いた混乱により源氏(守護大名)以外の武士(戦国大名)が台頭する戦国時代が始まります。

旧東海道は川辺(かわづら)交差点を通過して目川(めがわ)の一里塚へ向います。
 
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(続く)

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2011年10月28日 (金)

旧東海道のドライブ旅 石部宿(上)

新名神高速道路の信楽(しがらき)ICを出て、県道53号で湖南市に入り、県道4号で草津線の踏切りを渡ってすぐ右手の路地へと右折しました。この路地が旧東海道で、台風12号による強雨で前回のドライブ旅を中断した水口町泉にある「横田の渡し」跡の対岸に位置します。つまり国道1号の横田橋を渡って湖南市へ入った場所なのです。この湖南市三雲から旧東海道のドライブ旅を再開することにしました。
 
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何事でも細かいことが気になる私は、前回終点になった「横田の渡し」の痕跡(こんせき)を湖南市側にも探すことにして、草津線三雲駅前を通過して旧東海道をさらに東へ進みました。
 
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左手に立派な常夜灯が立っています。
 
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水口町側の常夜灯の対岸から場所がずれていますので、草津線沿いにさらに進むと、右手に「新海道」石碑跡の案内板が目に入りました。「横田の渡し」から伊勢に向かう街道に入っていることが分かりましたので、ここでUターンして三雲駅方面へ戻ることにしました。
 
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駅前の交差点で見つけたものは「微妙大師万里小路藤房卿墓所」の石碑です。これは後で調べたことですが、微妙大師(1296-1380年)とは過去に16人しかいない大師のひとりである宗弼(そうひつ)のことで、俗名は万里小路(までのこうじ)藤房、建武の中興で後醍醐天皇を支えた鎌倉時代から南北朝時代の公家(くげ・貴族)で、中納言まで出世しますが、新政権に失望して出家したと伝えられる人物でした。
 
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すぐ先の右手にある明治天皇聖蹟は民家の庭先に立っているように見えます。
 
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先ほど渡った草津線の踏切りを逆方向に渡ると、水口宿(みなくちじゅく)と石部宿(いしべじゅく)に加えて万里小路藤房が開基した妙感寺(みょうかんじ)案内標識がありました。旧東海道は踏切りの脇で右に折れ、国道1号の南側を折れ曲がりながら、西方の石部宿方面へと伸びています。
 
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すぐ先に真新しい常夜灯がありました。
 
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振り返ると彼岸花が満開です。
 
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次の目標である大沙川隧道(おおすながわずいどう)を目指して旧東海道を走っていると、前方に通行止の立て看板が立ちはだかりました。
 
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指示に従って右折したところにある湖南市勤労青少年ホームの駐車場に車を停めさせてもらい、100mほど歩くことにしました。通行止めの理由はその隧道(トンネル)の上に聳(そび)える松の巨木の枝下ろし作業のためでした。
 
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近くの方に訊ねると、「弘法杉」とよばれるこの杉は、「弘法大師がこの地を訪れた時に食べた弁当の箸(はし)を地面に挿したところ生えた杉」(弘法大師錫杖跡)と伝えられることを教えて下さいました。樹高26mで周囲6mの大木は推定樹齢が約750年とされます。弘法大師は835年に入定(にゅうじょう・即身仏になること)していますから年代が400年以上も食い違いますが、そんな瑣末(さまつ)なことはどうでも良いことでしょう。隧道の上を通っているのは天井川(てんじょうがわ)の大沙川です。ちなみに、天井川とは平地よりも川底が高い川のことで、昔、小学校の社会科(地理)の時間に習ったことがあります。

国道1号へと迂回、夏見東交差点から旧東海道へ戻り、さらに集落の中を走りました。
 
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2kmほど走ると報恩寺の先でもう一つの天井川・由良谷川(ゆらやかわ)の下を潜(くぐ)ります。
 
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寛文4年(1664年)に創業した地酒の北島酒造淀藩配下の酒造取締を命じられた老舗(しにせ)です。
 
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旧東海道はほぼ一直線になって伸びています。
 
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落合川橋の袂(たもと)に「これより石部宿(いしべじゅく)」の立て看板がありました。東海道五十三次・51番目の宿場である石部宿は幕府直轄の宿場で、京から36km程の距離にある伊勢参宮街道との分岐点です。石部には昔 金山があったそうで、融通のきかない人物の代名詞である「石部金吉」はこの石部宿から出た言葉のようです。 
 
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石部東交差点を左折して寄り道をしました。これは後知恵(あとぢえ)ですが、一つ先の石部中央交差点から入る方が良かったのです。
 
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県道119号で南へ向い、石部南小前交差点を右折、宝来坂交差点を左折、石部中学を回り込むように山道へ入りました。目的地は雨山文化運動公園内にある「石部宿場の里」です。
 
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石部宿の様子(農家・商家・旅籠・茶店などの建物)が再現されていました。

 
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併設された「東海道石部宿歴史民族資料館」にも立ち寄りました。
 
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東海道五十三次と石部宿の様子が模型や資料で詳しく解説されていました。(続く)

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2011年10月 3日 (月)

旧東海道のドライブ旅 水口宿(下)

湖東信用金庫水口支店前を右折しました。旧東海道は複雑な枡形(ますがた)を構成しています。コの字型に曲がってさらに右折する角(小坂町の石柱がある)に「水口石」と呼ばれる力石がありました。
  
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西方へ約400m進んだ五十鈴神社の角に「林口の一里塚跡」(江戸から113里)の石柱を見つけました。ちょうどこの付近が「西見附」で水口宿の出口となっていたそうです。
 
 
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ここからクランク型に旧東海道は折れ曲がります。
 
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街道巡りを中断して信号のある交差点から水口石橋駅方面へ引き返しました。信号のある次の交差点を右折して最初の道草を食います。目的地は水口城です、手前の中央公民館と体育館の奥にある無料駐車場に車を停めさせてもらいます。表通りに出て100mほど南に歩くと白壁が美しい水口城が見えました。
 

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三代将軍徳川家光が上洛する(京に上る)時に宿泊するために水口岡山城の城下町に造った館が水口城であり、堀と石垣に囲まれた水口城は本丸と二の丸からなり、その建物構成は京都の二条城と共通すると説明されています。残念ながらこの日(金曜日)は閉館日で入城できませんでした。

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次いで訪れたのは水口歴史民族資料館(別名曳山の館)。近江鉄道本線の水口城南駅前(法務局横)の無料駐車場を利用しました。米原市の米原駅と甲賀市の貴生川(きぶかわ)駅を結ぶ鉄道の駅です。

 

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駅脇の踏切を渡った公園のようなエリアには人影がほとんどありません。懸念した通り、こちらも閉館していました。

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広い庭には移設された東水口領の石柱(横田の渡し南対岸にあった西の境界を示すものを移設)と道標などが配置されています。

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元来た道を引き返して旧東海道へ戻りました。北脇縄手の碑が立つ先は松並木が続いています。
 

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昔からの松並木ではなく新しく植えられたものでした。
 

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柏木農協の前にある「時の鐘」には半纏姿(はんてんすがた)の人形が置かれて「広重の「東海道五十三次水口宿」の絵も掛けてありました。
 
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水口町泉で左にそれて泉川に架かる「舞込橋」を渡ります。風流な名前です。車を路肩に停めてドアを開けると車内に雨が舞い込み、カメラのレンズに水滴が付くほど、本降りの雨になってしまいました。

 
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右手に「泉の一里塚跡」(江戸から114里)の近く(元の場所より市街地寄り)に復元された一里塚があります。これで水口にあった3つの一里塚を全て確認することができました。
 
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横田の渡し」に到着。野洲川は昔、この辺で横田川と呼ばれていたそうです。
 

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文政5年(1822年)に建設された大きな常夜燈が見事です。対岸からの目印に使われたそうです。

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「昔の横田橋」と「横田の渡し」についての説明文がありました。対岸は湖南市の三雲で、JR草津線が走っているはずですが草丈(くさたけ)が高いため確認できません。
 
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野洲川の下流方向をみると明治時代に架けられた横田橋(板橋)の橋台の跡のようです。遠方に見えるのは国道1号が通る現在の横田橋のアプローチ部です。
 

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台風12号が接近しているためか雨が強くなりましたので、この日の旧東海道巡りのドライブ旅はここで中断、日を改めて京都の三条大橋までのドライブ旅を続けることにしました。国道1号に出て、名神高速道路の栗東ICから宿泊地へ向かいます。
    

<同行者のコメント> わが家の運転手さんは過密スケジュールでいつも昼食が遅くなるのですが、この日はなぜか早い時間に蕎麦屋さんへ向かいました。よほど期待していた蕎麦屋さんだったのでしょうか。それとも、土山宿で腕時計の電池が切れたとつぶやいていましたから、時間が分らなくなったのかもしれません。いずれにしても、お蕎麦はとても美味しかったです。

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2011年10月 2日 (日)

旧東海道のドライブ旅 水口宿(上)

「間の宿」の大野村(現土山町大野)にある明治天皇聖蹟跡の石碑を過ぎ、写真に写る国道1号を左斜めに渡った先は「今宿」の集落です。
 
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今宿の石碑、大きな常夜灯と松が旧東海道の雰囲気を醸(かも)し出す大野西交差点(下の写真)で国道1号を左斜め方向へ横断して県道549号に入ると、同じ甲賀市の水口(みなくち)町今郷(いまごう)の標識がありました。その先にある甲賀市観光絵図を見ながら国道1号と県道549号の間の細い道へ入ります。
 
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少し行くと左手の浄土寺の駐車場前に復元された「今在家(いまざいけ)の一里塚跡」(現在の地名に合わせて今郷の一里塚とも呼ばれる江戸日本橋から112番目の一里塚)があります。その先は左にカーブして県道549号へ出ました。
 
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県道549号(旧国道1号)に一旦吸収された旧東海道は100m弱で右手にそれて行きます。
 
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右手の八坂神社前を通過すると再び県道549号に合流しますが、野洲川に架かる橋を過ぎた先でまた右手へ離れました。バス停の標識と並んで「岩神社 岩上不動尊 参道」の石柱が立っています。街道沿いで子供の成長を見守る神様だそうです。その場所を確認しようしましたが小さな祠(ほこら)のようで見過ごしてしまいました。
 
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街道は閑静な集落を抜けて行きます。
 
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標識に従ってY字路を右に進みます。
 
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松並木の石碑がありました。水口宿(みなくちじゅく)に程近(ほどちか)いこの辺から松並木の間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われると説明されています。滋賀県の観光情報によると、『古城山は大岡山(おおおかやま)とも称し、町域東北部に屹立する標高282.9mの美しい山です。周りの地形は浸食されて丘陵地化し、付近一帯の中で古城山のみが孤立して残ったため、この地形特色を生かして、戦国時代に築かれたのが水口岡山城で、古城山という名はこのことに由来しています。』と説明されています。
 
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秋葉北交差点を通過して国道307号(グリーンバイパス)と山川橋を渡ると水口宿の入口になります。渡った右側の小公園に「東海道五十三次水口宿・田町」の石柱が立っていました。
 
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短い坂道を上った場所に水口宿の江戸口とよばれる「東見附跡」があります。復元された冠木門(かぶきもん)が出迎えてくれます。
 
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ここからが東海道五十三次50番目の水口宿の入口です。
 
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本町交差点を直進
 
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水口宿は特徴的な「三筋の町」として発展した宿場で、近江の東海道五宿のうち大津に次ぐ規模だったそうです。写真は高札場跡のある三筋の辻の最初のY字路。
 
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この三筋の辻(Y字路)の左手前奥に明治天皇聖蹟碑が建っていて、そこに本陣があったようですが、うっかり見落としてしまい、その辺りを適当に撮影しました。後で調べるとカーブミラーの脇に立つ作坂町(つくりざかちょう)の石柱と綺麗な竹塀の奥に本陣跡があったようです。
 
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旧東海道はY字路の左手方向です。
 
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2つめのY字路は右手に進みます。
 
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御菓子処一味屋」の向かいの家の前に問屋場跡の標石がありました。
 
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本水口商店街お客様駐車場付近から街道筋を振り返りました。すぐ横の交差点角に「からくり時計」と「曳山の由来」を説明した石碑がありました。
 
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先ほど分かれた3つの道が合流する西側の三筋の辻にもう一つ「水口曳山のからくり時計」があります。
 
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近江鉄道本線石橋駅脇の狭い踏切を渡ったすぐ右手にある甲賀市水口市民センターは新しい地域コミュニティ「自治振興会」によるまちづくりの拠点で、観光客の休憩所も兼ねているそうです。
 
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水口宿で有名なかんぴょう(干瓢)と曳山(ひきやま)の説明です。
 
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曳山と言えば3年前に訪れた隣町の日野町で見掛けたことを思い出しました。
(続く)

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