カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の215件の記事

2013年11月14日 (木)

新規ブログ開始しました

10月中旬に新規掲載を休止した「温泉大好き、ドライブも!」に代わるブログを始めることにしました。ココログで利用できる容量を追加するのが最善の作と判断してしたことで、当面は容量を気にしないで投稿することができる環境が整いました。記事の内容は従来と大きく変わるわけではありませんから、そのままのタイトルで継続しても良いのですが、ここはやはり心機一転するため新しいサイト名「旅行大好き、飛行機も!」へマイナーチェンジすることに決めました。
 

カテゴリーは「旅行」を中心に、「音楽」「本」「映画」などを適宜投稿する予定ですから、これまでの当ブログと同様に新しいサイト「旅行大好き、飛行機も!」へもアクセスしてください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年10月19日 (土)

突然ですが、ブログ記事の新規投稿を休止します

当ブログ「温泉大好き、ドライブも!」は2005年10月6日に最初の記事を投稿してから満8年が経過し、これまでに投稿した記事の数が1261件、掲載した写真は約1万8800枚に達しました。平均すると月に13件、写真は15枚/件のペースです。8周年を迎えたこのタイミングに私のアカウントで現在利用できるココログの容量(最大5GB)がほぼ一杯になったことを潮(しお)に、新たな記事の投稿を休止することにしました。ただし、既存の記事は当分公開を続けたいと思います。また、関連ブログの「これって、何!」と「竹輪会」への投稿は今後も継続する予定です。
 

投稿休止に当たってこの8年間を簡単に振り返ってみたいと思います。学生時代に国内旅行で訪れた場所をたどるように始めたドライブ旅行のスパイスと位置づけた温泉探訪の記事は213件を数えました。重複して紹介した温泉は2-3カ所だけですから約210カ所の温泉地を訪ねたことになります。カテゴリー別でみると一番多かったのは旅行・地域の698件、次いでドライブ(405件)、日記・コラム・つぶやき(210件)、グルメ(132件)、街道めぐり(111件)、音楽(78件)、登山(49件)、映画・テレビ(39件)、そして趣味(30件)の順でした。(重複有)
 

ココログ・ランキングで確認すると9月1日の「東京ディズニーランドのデイパレード」と10月13日の「足柄古道と万葉うどん」の記事が高い順位を獲得しました。それ以外にアクセス数の多かった今年の記事は意外なことに、百田尚樹著「永遠のゼロ」「影法師」「錨を上げよ」「風の中のマリア」「モンスター」「Box!」「RING」とコーリン・パウエル著「リーダーを目指す人の心得」など書籍の読後感、テレビドラマ「波の塔」の感想文、箸(はし)休め的に書いた「iPhone5用ケーブル」「スマホ症候群」「製品の寿命」でした。
 

旅行関係では今年の池尻大橋」「横須賀」「続・奥の細道擬紀行」「横浜中華街」「高松・栗林公園」「仙台市の遺跡」「東京ゲートブリッジ」など、昨年は「青森県・下北半島と三内丸山遺跡」「名古屋の高いもの」「飛騨へのバス旅」「東京スカイツリー」「三浦半島南端部ドライブ」「新東名高速道路などへ多くの方々にアクセスしていただきました。
 

ブログ記事を書くに当たってのテーマ選びでは、ココログ・ランキングや当ブログへのアクセス数を意識したわけではありませんが、両年とも温泉に関する記事が上位に入っていないことは意外でした。温泉の選び方と紹介方法に魅力がなかったのかもしれません。当面は投稿を休止しますが、近いうちに新しいテーマに模様替えして再開したいと密かに考えています。それまでは当ブログの既存記事(アーカイブ)でまだお読みになっていないものにアクセスしていただけると幸いです。
 

これまで8年間にわたって大過なく記事を投稿・公開することが出来ましたのは、ひとえに当ブログにアクセスして下さった方々と記事へのコメントをお寄せ下さった方々のお陰だと思っております。最後になりましたが、当ブログをこれまで愛読いただきました皆様に厚くお礼を申し上げます。
 
<追伸> ココログの契約容量制限(10G)に近づいたため、サムネイル写真だけを残してフルサイズの写真は順次削除しますので、ご了承ください。(2016年10月10日)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年9月23日 (月)

製品の寿命を考える(三題)

修理に出していたFinePix F770EXRが我が家に戻って来ました。7月下旬に横浜へ出かけた時、ディスプレイ上に「レンズ制御エラー」と表示されるだけで、まったく使えなくなったデジカメです。そこで満身創痍(まんしんそうい)になったため1年余り前に引退させたFinePix F30を緊急避難用として使いながら次に買うべきデジカメの候補をあれこれ比較した結果、同じフジフィルム製のFUJIFILM XF1にしようとすでに決めました。しばらく様子を見ることにして机の上に放置していたFinePix F770EXRは意地を張ったようにその後1ヶ月間も症状が変わらないため、新しいデジカメを購入する前にダメモトで家電量販店を経由して修理に出すことにしたのです。
 

修理が終わったとの電話連絡を受けて向かった家電量販店で店員さんから『部品の交換は不要であり部品を調整しただけなので修理費は不要』と伝えられました。デジカメとともに受け取った修理報告書にはどの部品を調整したのかは記載されていないので釈然(しゃくぜん)とはしませんが、保証期間が過ぎた製品の修理が無料とはありがたいことだと思うことにして、店員さんに根掘り葉掘り問いただすことは止めました。5年前のブログ記事で紹介しましたが、我が家では家電製品を無償で修理してもらうことがなぜか多いのです。エアコン、ドラム式洗濯機、ブラウン管式テレビなどです。決してクレーマーではないのですが・・。
 

と言うわけでFUJIFILM XF1の購入計画はキャンセルすることになりました。1999年に購入したFinePix 2700と2006年のFinePix F30と同様、2012年のFinePix F770EXRもあと5-6年は使うことになりそうです。『嬉(うれ)しくもあり、嬉しくもなし』、つまり嬉し悲しい想いが残りました。
 
                         ☆

 

長年にわたって同じものを使い続ける性癖(せいへき)がある私は自動車を10年以上乗り続けること(最長は17年間、約15万km)にしていますが、もっと長い期間にわたって使い続けているのもがあることに気づきました。それはゴルフクラブです。アメリカに住んでいた時に購入したもので、アイアンは1989年製のマグレガー(MacGregor)、ウッドはキャロウェイゴルフ(Callaway Golf)の新製品であったビッグバーサ(1991年発売)とその弟分を今もそのまま使い続けているのです。
 

ゴルフ仲間からは最新のゴルフクラブにすればスコアが5つくらいは改善できるとアドバイスされているのですが、ゴルフクラブを変えたおかげでスコアが良くなったと言われるのが癪(しゃく)なへそ曲がりの私は今のゴルフクラブへの拘(こだわ)りを捨てられないのです。
 
 
                         ☆

 

最近、苦労させられているものがあります。それは当ブログで何度も記事を投稿したパソコンです。私のパソコン遍歴をかいつまんで紹介すると、1980年頃に職場で使ったコモドール(ComodorePET2001に始まり、自宅用にもMSXパソコンを購入、1989年にはアメリカの職場でアップルのMacintosh SEと衝撃的な出会いがあり、自宅用として1991年に同じアップルのMcintoshsiを購入しました。帰国後は1999年にアップルのiMac、その前後にWindows 95/98 OSを搭載するパソコンが加わり、Window 2000を経て現在はメイン機としてWindows XPのパソコンとサブ用にはWindows 7を搭載するパソコンを使っています。OSとしてのWindowsはアップルのOSのような魅力がなく、製品としての完成度もWindows XPをピークに低下しているように思います。
 

魅力に乏(とぼ)しい上に私を悩ませ続けるのはWindows XPパソコンです。2年ほど前から動作が不安定になりはじめたため、不要なアプリを削除し、使用するアプリは最新版に更新し、ディスクのクリーンアップ/エラーチェク/デフラグ(最適化)およびレジストリエントリの修復もしばしば実行することで何とか動作を安定化させてきました。しかし、1年ほど前からはディスプレイが時々表示しなくなったため外部ディスプレイを接続して何とかしのいできましたが、ついには半年前から音声が出なくなってしまいました。
 

さらに悩ましいのは来年4月にWindows XPのサポートが停止されることが決まっていることです。セキュリティが保たれなくなるため、使い続けることは現実的にできません。そこで意を決しWindows 7パソコンをメインに昇格させるための作業を開始しました。文書や写真などのデータは度重なるハードディスクのクラッシュに懲(こ)りて複数の外部記憶装置に蓄えてありますから、主な作業はメイン機で使用しているアプリのWindows 7対応版を入手してWindows 7パソコンにインストールすること、メールソフトの住所録などをWindows 7パソコンのメールソフトにコピーすること、プリンターやスキャナーのドライバーとユーティリティの変更などです。
 
中には有償で購入しなければならないアプリもありますから費用もかかりますが、できれば年内には移行を完了したいと考えています。Windows OSの度重なる変更のためにこの面倒な移行を余儀(よぎ)なくされた私はその作業をしながら還暦(かんれき)を迎(むか)えたシンガーソングライターのレーモンド松屋さんが2010年に作詞・作曲した「別の貴方(あなた)」を無意識に口ずさんでいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月16日 (金)

スマホがあなたの頭脳を破壊する?

当ブログでは昨年9月に掲載した記事「テレビは必要ですか?」に続いて、今年1月にはテレビの観すぎが頭脳に悪影響を与えると警鐘を鳴らした和田秀樹著「テレビに破壊される脳」を紹介しましたが、今回はスマートフォンが人の脳(思考と行動)に与える悪影響を考えてみました。

スマートフォン(以下スマホ)は腕時計以上に身近な存在として常に持ち歩く人が多い万能の電子機器で、アップル社のアイフォーンやAndroido OSを使うソニー製Xpedia、サムスン電子製GALAXY、シャープ製AQUOS PHONEなど大きなタッチスクリーン(現状では4-4.7インチ)を持つ携帯電話端末を指すといって良いでしょう。通話・メール・インターネット・音楽プレーヤーなどの機能が備わっていて、ネットサーフィン・YouTube・ブログなども簡単に利用できるだけではなく、無料のアプリを追加すればFacebook・Twitter・Skype・LINEなどのコミュニケーション機能や各種ゲームも楽しめます。つまりスマートフォンは名前の通り「賢い電話」なのです。

従来の携帯電話(フィーチャーフォン)でも通話以外にメールやインターネットなどの利用も可能でしたが、スマホは携帯電話の可搬性(ポータビリティ)とパソコンの多様な機能(ユーティリティ)を一つにまとめた新時代の携帯端末と言えるでしょう。これらの魅力に加えてパケット定額などの料金制度がこの数年でスマホを爆発的に普及させたと考えられます。こんな便利なスマホですが、懸念材料もいくつか考えられます。そんなバカなと思われることも有るかも知れませんが、後悔しないためにはどうすべきかを考える参考にしていただければ幸いです。

(1)歩行中の利用がもたらす危険

最も分かりやすいリスクとして挙げられるのは最近注目され始めた「歩きスマホ」です。歩行中にスマホに夢中になって人や車に接触することや、時には駅のプラットフォームから転落する事故も発生しています。スマホはフィーチャーフォンに比べて画面が大きくて鮮明なことで利用者が画面に没頭しやすいことと、両手で操作(左手で持って右手の指で画面にタッチ*)するため視線が下を向きやすいいのです。つまり、心理的にも物理的にも周囲が見えにくくなりがちなのです。このリスクを避けるには迷惑にならない所に立ち止まって利用することに尽(つ)きます。「歩きタバコ」ならぬ「歩きスマホ」は止めましょう。
  *主なタッチ操作: タップ、フリック、スワイプ、ピンチ、マルチタップ、ドラッグ

(2)電磁波が脳に与える悪影響

学生の頃からの趣味であるアマチュア無線で大出力(100ワット以上)の電波を扱ってきた私は電磁波の影響に強い関心を持っています。昔のことですが、熱心なアマチュア無線家は強い電波に長時間さらされるため、子供は女の子しか産まれないという都市伝説がありました。それはともかく、高圧(数万ボルト以上)の送電線や放送局の送信アンテナ(50-100キロワット)の周辺では体に変調をきたす人が多いことが昔からよく知られており、電子レンジ(500-1000ワット)も人体に悪影響を与えることが1970年頃に確認されたことで電磁波が外部へ漏れ出さないような保護対策が義務付けられました。これらに比べればスマホが出す電波(1ワット以下)はかなり弱いのですが、携帯電話が現在のように小型化された20数年前からその危険性が指摘されています。それは脳に近い耳に携帯電話を接近させて使用することで小電力でも脳内に高い電界を生じるからです。しかも、同じ場所に長い時間にわたって保持することが多いことも懸念される理由でした。

20年以上にわたってこの懸念は未解決(タバコと異なり歴史が浅い携帯電話は人体に有害であることは実証されていないとする意見が支配的)でしたが、2年前に世界保健機関(WHO)の専門組織である国際がん研究機関は携帯電話の頻繁(ひんぱん)な利用で脳腫瘍(のうしゅよう)のリスクが高まる可能性があるとの見解を公表しました。小さいと思われる危険性も確率が高い(回数が多い、時間が長い)とリスクはそれに比例して大きくなるからです。例えば、低温火災(木材の低温炭化による火災)や低温火傷(携帯用カイロや湯たんぽなどが原因)が身近に存在する似たタイプのリスクです。電磁波によるリスクを避けるには、使用時間を制限するか、それが出来ない時はハンズフリー・モード(マイク付イヤフォン)を使用すれば良いのです。

(3)時間を専有される問題

スマホが登場する前のフィーチャーフォンでも長時間あるいは頻繁(ひんぱん)に電話する傾向が年々強まって通話時間が長くなる傾向があることを統計データが示していました。そしてスマホでは通話に加えてメールやTwitterLINE・チャット、あるいはネットサーフィン(ウェブの連続閲覧)、ゲーム(オンラインおよびアプリ)に没頭(ぼっとう)して時間を消費する人が急増しています。その背景にはスマホの使いやすさと料金の定額制があると思われます。ニールセン社による最近のスマホ利用状況調査”Mobile NetView”で「女性の一人あたりの月間利用時間は47時間で、男性(34時間)の1.44倍である」「利用目的は男女とも検索・通販サイト・LINEが上位を占めている」ことが明らかにされています。しかし、アプリの利用や音楽視聴などの時間を含んでいないようですから、スマホの使用時間はもっと長いと考えられます。

(4)自分の自由時間と考える習慣を失くす問題

上記(3)で述べたように、スマートフォンの利用方法で多いのは、天気予報・地図などの生活情報を入手するだけでなく、疑問に思ったこともネット検索すれば知りたい情報が手に入るため知識が受け売りになるだけでなく一面的な結論に陥(おちい)ることが多くなりがちです。そして、友人・知人とのコミュニケーションにおいてはメールやチャットなどを利用するサイバー空間での言葉のやり取りで「つながっている」ことを確認し合うこと、そしてゲームで遊ぶことなど、暇潰(ひまつぶ)しに最適なスマホが登場したことによって人々は退屈(たいくつ)するということがなくなっているのです。したがって、考えようとする意志や考えるための時間は生まれないでしょう。また「ボーっとする時間」(自省するための時間)さえ無くなっているのです。それなら、「ボーっとするためのアプリ」を開発すれば良いではないかとの意見が出てきそうです。どこまでスマホに支配されたいのでしょうか。ちょっとの間、スマホの電源を切る勇気を持つだけで良いのですが・・。

(5)他人との直接的な交流が減る問題

上記(4)で述べたように、コミュニケーションがスマホを利用したサイバー空間で行われるようになると、友人とコミュニケーションする内容以上に着信数が気になり始めるようです。そして、着信すると即座に返信しなければならないとの強迫観念(きょうはくかんねん)も生まれるそうです。こうなると、スマホを片時も手放せなくなってしまいます。電車のなかでもスマホに文字を入力している人はこの状況に陥(おちい)っているのでしょう。フィーチャーフォンでもこの状況が指摘されていましたが、スマホは使いやすいためより深刻になっているようです。いくら利用してもパケット定額制があるため毎月の料金が増えないこともブレーキを利(き)きにくくしています。上記した「考える時間が少なくなる」ことと同じ理由で友人・知人と直接会って会話する機会も確実に減ることでしょう。

(6)依存症に陥るリスク

以上、スマホの使い過ぎがもたらす問題を長々と書きましたが、(1)事故の引き金と(2)電磁波が脳細胞へ与える影響の2つを別にすれば、いずれもスマホには酒やタバコ、あるいはある種の薬物と同様に習慣性(つまり依存症)があることです。依存症(いぞんしょう)は和田秀樹氏が「テレビで破壊される脳」で指摘されたように、人の意思の問題ではなく、肉体的あるいは精神的な疾患(病気)なのです。使用することを止める以外に治療法はないのです。当事者自身はもう止めることができなくなっているのです。したがって、スマホ依存症にならない事前の対策が必要なのです。ゲーム機やパソコンでも依存症の問題が指摘されましたが、スマホは携帯性に優(すぐ)れることから、より深刻な依存症に陥(おちい)るリスクがあると考えられます。とくに精神的にも肉体的にも成長期にある子供は(1)から(6)までのリスクがすべて当てはまりますから、親は子供にスマホを安易に買い与えないようにすべきでしょう。買い与える時には使用制限(フィルタリングや使用時間)を子供に納得させた上で、それが設定できるスマホ(携帯電話会社)を選ぶべきでしょう。何か問題が起きてからではもう遅いのです。

ここまで読んでいただけば心当たりがあることやなるほどそうだと思われたこともいくつかあると思います。便利で手放せないスマホは使い過ぎに注意しながら賢く(スマートに)利用しましょう。
 

<参考情報>スマホの誕生から現在まで

スマホとは従来の携帯電話(フィーチャーフォン)と対比する新しい携帯電話の呼び名で、カナダRIM社(現在のブラックベリー社)が1990年代に登場したPDA(携帯情報端末)に電話機能を追加して1997年に発売したビジネス用携帯端末のブラックベリーが最初のスマホとして欧米ではよく知られています。日本では2007年に発売されて現在のスマホの原型になったアップル社のiPhone(アイフォーン)が最初と言った方が通じやすいでしょう。

アイフォーンもブラックベリーと同様にアップル社のポータブルメディアプレーヤーであるiPod Touch(アイポッドタッチ)に携帯電話機能・インターネット/メールの送受信機能を追加したものです。最初のモデルは携帯電話の通信方式が日本で使われていないGSM規格であったため日本市場には投入されませんでしたが、第2代目のiPhone 3Gが3G規格に対応したことで日本市場にも登場しました。さらにiPhone 3GSiPhone 4iPhone 4SiPhone 5が毎年発売されて身近な存在になりました。

アイフォーンの大成功に刺激された競合各社がGoogle社の提供するAndroid OSなどを使ってアイフォーンとそっくりなスマホを続々発売したことで、携帯電話におけるスマホの販売シェアは70%前後まで急増しています。しかし、Android以外のOS2011-2012年の2年間で淘汰(とうた)されてしまい、現在はアップル社のiOSAndoroidの2つがスマホ用OSのデファクト(実質的な)標準となり、寡占化(かせんか)が進行しました。

参考として数値データを示しましょう。世界における最新のスマホ販売シェア(台数ベース)は、メーカー数の多いAndroidが約70%と突出し、次いでiOS(アイフォーン)が約20%、その他の合計が約10%のシェアになったようです。日本国内に限ればAndroidが60%強、アイフォーンが30%強、その他の合計が5%弱とアイフォーンの人気が相対的に高いことが分かります。そして、アイフォーンの平均単価はAndroid端末に比べて高いため、金額ベースでは両者の差が縮まると考えられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月11日 (木)

会田雄次著「敗者の条件」を読む(後編)

慈悲心のある者

2013_06080020 主家で摂津(せっつ)の守護(しゅご)である和田を討った功を認められて信長方の荒木村重(むらしげ)から高槻城を与えられた高山右近は荒木村重が信長に謀反(むほん)すると信長に降参する。優柔不断であったため将としての右近の評判は思わしくないが父の代からのキリシタンであった右近は外人神父の評価が高い。天正15年(1587年)にキリシタン禁圧とともに所領を没収され、小西行長(ゆきなが)や前田利家(としいえ)のもとに身をよせた。右近が重要視されたのは、秀吉がキリシタン趣味に魅せられていたのと、一向宗(いっこうしゅう)の勢力に対抗するためキリシタン信徒を保護しようとしたためである。

2013_06080023つまり、それは秀吉とキリシタンの仲介者(ちゅうかいしゃ)としてであって、戦士としてではない。キリシタンが必要でなくなれば、消されるのが当然だろう。慶長19年(1614年)、家康のキリシタン禁止令によって、右近はついに京都へ移され、マニラへ追放されてのちまもなく死んでいる。喰(く)うか喰われるかの現実と、慈愛(じあい)という当時の「虚妄(きょもう)」の間をさまよう犠牲者(ぎせいしゃ)だったといえると著者はいう。

自己の世界に徹する者 

千利休(省略)

後進地域にいた者

2013_06080001 戦国時代のわが国を先進地域(近畿とその周辺)、中進地域(瀬戸内海沿岸・北陸・中部地域)、後進地域(その他の地域)の3つにわけて、どの地域に生い立った強豪が、覇権(はけん)を握(にぎ)るのに一番都合がよいのかを著者は述べた。後進地域はすでに地に落ちた中央部権威と権力にまだ振り回され、後進地だけに財力も乏(とぼ)しい。先進地域は有能な人材が集まりすぎて、お互いに足をひっぱり合うし、策略に神経を参らせてします。

残る中進地域はまだたくましさも残っており、あるていどの合理性も理解できる。先進地域への劣等意識も強くないから、権威へのおびえもない。財力も相当にある。いわば先進地と後進地の長所短所がすべてそろっていて、能力のあるものは長所のすべてを結集利用できるということになる。結局、中進地域は一番有利と著者は考える。

2013_06080004戦国時代、人生を左右する運命の岐路は20歳台である。そのとき機会が到来しなかったもの、あるいは到来してもその機会をものにすることができなかった人間は、生涯浮かび上がる可能性をもはやほとんど失ったものと見てよい。今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで信長に敗れたあと、これに続いて京にのぼって天下を統一しようとした武田信玄は、浜松の三方(みかた)ヶ原で信長の援軍を得た徳川家康の軍を打ち破ったが、持病の胸の病が悪化して倒れたのである。

その子勝頼もまた勇武の将であったが、信長よりも時代的にまわり合わせが悪かった。信長の三段構えに配置された3000丁(ちょう)以上の鉄砲隊の前に壊滅。ついに甲斐の国に侵入した信長のために一門郎党は殲滅(せんめつ)された。源義家の弟、義光の子孫で、甲斐信濃の守護大名とういう名門武田家の最後であった。やはり上杉謙信との対決が負担であり、甲斐は京都に遠かったことと、土地所有の立ち遅れによる辺境性(豪族軍の寄り合い所帯)、そして信長の存在が大きかった。

先進地域にいた者 

松永久秀(省略)

ある勝者  

2013_06080062竹中半兵衛とともに秀吉の両翼といわれた智将、黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか)は数奇な伝説につつまれた武将である。彼は織田信長から秀吉の配下に配属された武将であった。いたって風貌(ふうぼう)はあがらず、武勇の士というよりむしろ策謀(さくぼう)の人であった。官兵衛は信長の急死を秀吉が毛利征伐中の秀吉から預かった姫路城で知る。信長を討った明智光秀にはやはり自分自身の能力に対する過信があったが、光秀よりもっと的確にこの状勢をのみこめたのは、やはり光秀と同じく天下に野心のあったこの孝高だったかもしれないと著者はいう。

2013_06080064しかし、おびただしい兵馬とともに秀吉が反転してきたのである。孝高の観測の誤りは、秀吉の力を過小評価したことにある。交通の要地である姫路城を秀吉に提供し、自分は小城の山崎城へ事前に移っていた孝高は期待しながら、一時休息のため城中に入った秀吉に向って光秀との合戦は天下をとる機会であると囁(ささ)いた。だが、すべてを見通したような秀吉の鋭い視線に孝高は異常な不安におそわれた。秀吉に自分の野心を見出されたであろうから、もう自分は絶対に信用されなくなったことを悟(さと)ったのである。

2013_06080071そして狂気したように秀吉のご機嫌(きげん)をとり、これといった恩賞(おんしょう)は与えられなかったが秀吉に忠節をつくしている。必死の働きで、かろうじて詰腹(つめばら)を切らされることをまぬかれたといえるのだが、秀吉は孝高をなお警戒していた。そして、孝高は天正17年(1589年)に剃髪(ていはつ)して如水円清(じょすいえんせい)と号し、家督を長政にゆずっている。著者は如水の名は自分の望みを水の泡のごとく失ったという意味で、秀吉に対する命乞(いのちご)いなのであるという。

2013_06080082秀吉の死は、孝高の生命を救うと同時に、かれの天下統一の野望を復活させた。関ヶ原の合戦時には東軍として手薄になっていた西軍に味方した九州の大名領の大半を征服して自分の能力を確認したあとは、そのすべてを家康に献上し自らへの恩賞も辞退して隠居(いんきょ)生活を送った。『考高は戦国に生きようとした若き日の決心を生涯貫きえたまれにみる男だったといわねばならない。勝者としたゆえんである』との言葉で著者は締(し)めくくった。

                         ☆

文芸復興として知られる一方で戦乱に明け暮れたルネサンス期の政治思想家マキャべり(マキャヴェッリ)の「君主論」とその時代の視点から日本の著名な戦国大名を「勝者」と「敗者」に規定し、「競争」とは何かと「自由」とは何かが濃密に記述されていました。敗者が悪人の汚名を着せられ、あるいは敗者が劣った人間であると決め付けられる歴史的な評価事例をルネサンス期の西欧人たちと対比しながら解説する本書を興味深く読み終わりました。

先の大戦でビルマ戦線に送られ、終戦後の二年間をイギリス軍の捕虜(ほりょ)としてアーロン収容所で暮らした経験を通して著者は、勝者となった後も闘争の精神を失わず、徹底して敵を絶望に追い込むヨーロッパ人の執念深さを知ったと言います。そして著者はヨーロッパ人の闘争心の起源をルネサンス時代のイタリアに求めています。ルネサンス時代のイタリアは、新興市民層の力で古い社会が動揺・混乱し、人殺しと内乱と戦争が続いた地獄図絵の世界であり、権謀術数の限りを尽くした戦いの時代であったと解説します。つまり、戦国時代の日本もルネサンス時代のヨーロッパも、「勝者の条件」と「敗者の条件」は同じだったというのです。

半世紀前に書かれた本書の文体はやや難解でしたが、時代とともに変わる評価基準と変わることのない普遍的な見方があることをあらためて教えられたような気がします。中でも、「まむし」と呼ばれた斉藤道三、私の好きな蒲生氏郷、環境に恵まれなかった猛将武田信玄、そして著者が勝者とする黒田官兵衛についての解説に引き込まれました。

蛇足です。本書で取り上げられた戦国武将に照らし合わせながら自分の半生を振り返ってみました。大学受験や若手の開発技術者として成功した時の私は自分自身を客観的に見ていたと思います。しかし、その後の私は成功すれば成功するほどその体験に基づいた価値判断(思い込み・過信)と最大の成功率を求める指針(呪縛)に従って行動したため、自らが成長する機会とより大きな成功を無意識に捨てていたことを本書は私に気づかせてくれました。先に読んだコリン・パウエル著「リーダーを目指す人の心得」とともに20年前に読んでいればと悔(く)やんでも今の私にはもう手遅れです。私より若い皆さんはこれらの著作をまだ役立てられる時間とチャンスがあるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月10日 (水)

会田雄次著「敗者の条件」を読む(前編)

2013_06080091 東北地方を巡るドライブ旅の長い記事を書き終えた翌週には真夏の熱波が日本列島を覆(おお)ったため、この数日は外出をできるだけ控(ひか)えるようにしています。そして、5月末に放送されたあるテレビ番組の書評コーナーで紹介された半世紀前に出版された「敗者の条件」(昭和40年3月刊中公新書)を読みました。

 

「戦国時代を考える」を副題とするはこの書籍は西洋史学者(当時京大名誉教授)である会田雄次(あいだゆうじ)氏がヨーロンパのルネサンスと対比しながら戦国武将を代表する10数人を評(ひょう)しながら「戦乱の世の競争原理」を追求した異色作品です。1965年(昭和40年)3月に中公新書として刊行され、1983年(昭和58年)8月には中公文庫となり、現在は改版本(2007年2月25日)がAmazonや楽天ブックスで購入できます。

 

例によって長文になりますので、視覚的なアクセントとしてわが家のベランダで最近咲いた初夏の花(アサガオとジャコバサボテン)の写真を掲載します。

 

                          ☆

 

序章 戦国時代とルネサンス

 

14世紀から16世紀にかけての日本の戦国時代とヨーロッパのルネサンスの類似点を挙げながら、著者は意外とも思われる視点を示して、ページを捲(めく)り始めたばかりの読者を惹きつける。「競争」という思想が今も根強く残っている欧米との本格的競争を敗戦国である日本が行ってゆかなければならないことを今からほぼ半世紀前の1965年に予見した。

 

第1章 闘争の宿命を負う者

 

2013_06080074 宿敵としての親子兄弟の例としてまず斎藤道三(どうさん)とその子義竜(よしたつ)を挙げた。一介(いっかい)の生臭坊主(なまぐさぼうず)から主人殺しをかさねて、美濃一国の大領主になった戦国武士の典型である。その娘であるお濃(のう)は信長の正室(本妻)となった。才気にあふれて武略にも秀(ひい)でてはいるが容貌(ようぼう)が怪異で大男であった長男の新九郎義竜を嫌った道三は三男を後継者にしようとしたことで義竜がこれをうらんだ。長子相続性が定まる江戸時代より前のことである。先手を打った義竜が2人の弟をだまし討ちにしたことは良く知られるが、著者は尾張の織田家でも同じことが行われたと指摘する。

 

2013_06080086織田信長は主筋の織田広信を倒し、庶兄(しょけい)たちを追い、同じ腹の弟十郎信行を殺している。織田家の末流であった信長の父信秀は本家の清洲城主織田大和守敏定を攻め、織田家中の実力第一人者となったのである。父の跡をついだ信長は敏定の養子織田広信を攻めて切腹させ、清洲城の主となった。そして那()古屋の城主で自分の伯父である織田孫三郎信光を暗殺している。最後に残った同腹の弟信行は行儀正しい大人しい秀才であったため領民や家臣の信望も厚かく、信長も愛していたようであるが、母がこの弟を偏愛して織田家の後継者にしようと企てると状況は急変した。信行の行状に怒った信長は仮病で弟を呼び寄せて切腹を命じたのである。

 

2013_06080079甲斐(かい)の名族の出である武田信玄も父信虎を追放し、自分の長男の太郎義信を殺したことで悪名が高い。しかし、当時においてはそういうことはむしろ当たり前の現象にすぎないという著者は陶晴賢(すえはるかた)、毛利元就(もうりもとなり)、長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)・信親(のぶちか)、浅井長政(あざいながまさ)、浅倉氏景(うじかげ)、上杉謙信、里見義豊(よしとよ)、伊達晴宗(だてはるむね)らはいずれも一族親子兄弟の血で血を洗うはてしない争いのなかから頭をもたげてきていると指摘。

 

徳川家康もやはり長男信康をその母もろともに殺している。秀吉だって養子秀次を成敗(せいばい)しているが、これはヨーロッパでも同じであると著者はいう。秀吉や家康に対して、世間は同情のまなこをもってみるのは、前者の生まれつき明るい性格によって好感をもたれ、そして後者は幼少時に今川氏に人質として育てられたという暗い生活が人びとの同情をさそうと分析する。

 

第2章 闘争世界の敗者

 

戦国時代やルネサンスは平和で秩序(ちつじょ)正しい現代とは正反対の諸条件が作用した世界であると著者は述べる。この世界においては、私たちの世界で勝利者になるような人間が敗者になり、有利な条件にかこまれたような環境が逆に不利となるという。だが、一見逆のようにみえるこの法則は、実は逆なのではなく、同一法則が裏と表のように逆にみえるように現れたにすぎないことが理解されるであろうとして、次にあげる多くの人物について解説した。

 

一匹狼に徹しなかった者

 

2013_06080078美濃の大名、斎藤道三は氏素性(うじすじょう)も、土地財産もなく、一切他人の庇護(ひご)もうけず、だれの助けも借りず、だれとも同盟せず、信頼し相談できる部下をも持たず、妻にもめぐまれず、一国一城の主になりあがった男である。同じ様な立場から出発した秀吉は、信長の庇護(ひご)のもとにあったことから、道三の独立性には遠く及ばない。しかし、ずばぬけた人物である道三はかなりの人材であったにちがいない長男の義竜(義龍)を嫌い、凡人(ぼんじん)だった次・三男を愛するという明らかな過ちを犯したと著者は指摘する。

 

これと同様に名将とうたわれた織田信秀も次男信行を愛している。道三の本当の失敗はたびたび織田信秀と争い、これを打ち破りながら、ついに和睦(わぼく)し、自分の娘お濃を信長に与えたことにあるという。さらに、信長を利用しようと考えて面接テストをおこなったのはよいが、逆にかえって見事に裏をかかれ、あざやかに敗北したため、それ以降の道三は自信を無くしたのか人が変わってしまったという。そして義竜に攻められた道三は義竜の家来に討ち取られてしまう。

 

覇者(はしゃ)の出自(しゅつじ)にこだわる者

 

2013_06080087本能寺の変後、山崎の合戦で秀吉が大勝し、天下統一への巨歩を踏み出したとき、まず邪魔(じゃま)なものを除くことがはじめられた。九州の島津氏、中国の毛利氏、三河の徳川家康などの宿敵との対決に先立って、信長の統一をうけつぐために邪魔になるものは、血統上の継承権を持つ信長の次男信雄(のぶjかつ)と三男信孝の2人のほかに、自分とならぶ信長の有力武将で自分に臣従(しんじゅう)しない柴田勝家、滝川一益、佐々成政(さっさなりまさ)などである。

 

勝家は土百姓出身の秀吉とはちがい織田家の旧臣であり重臣であったことから秀吉の臣下(しんか)になることはできない。一方、滝川と佐々は反抗するが屈服(くっぷく)して一時は重(おも)んぜられたものの、結局殺されてしまった。それは勝家対秀吉の対決という決定的瞬間に敵方についた二人は、前の失敗をとりかえすだけの業績をあげたとしても、マキャヴェリが指摘したように勝利者はそんな人間を信頼するものではないからである。

 

欠点のない者

 

2013_06080089進退出所に誤りがなく、勇武剛直で、才智に恵まれながら、その人間性ゆえに倒されねばならなかった人物として著者は蒲生氏郷(がもううじさと)をあげる。氏郷は朝鮮の役において名護屋(現在の佐賀県唐津市)で渡鮮準備中に急死した。著者は辞世(じせい)の句、『限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ』を秀歌としながらも、無理に殺された恨(うら)みを織りこんだものとみる。数え切れない戦巧をあげながら、彼はつねに冷たい秀吉の目を意識せざるをえなかった。秀吉は氏郷に対して憎しみとまではいかないが、非常な警戒心を持っていたと著者は推定する。

 

先祖伝来の近江の地から辺境の会津に送られた氏郷がまったくの独力で自分の才智と努力によって城下の若松を繁華(はんか)な城下町にし、領国を豊かに経営したことに秀吉は不安を持ったのかもしれない。氏郷の没後、その子は氏郷が築いたいわゆる120万石の土地を没収され、宇都宮18万石におとされている。秀吉はよほど氏郷にふくむところがあったに相違ない。その理由に考えられることは、氏郷が秀吉のとうていおよばない名門の出身(近江・六角義賢の家老の子)であり、また信長の信頼が厚かったということだと著者は詳しく解説する。

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月23日 (日)

続・奥の細道疑紀行 上越市の大潟

2013_05010529 日本海を見たくなりました。ホテルを出立したその足で海岸に出て、上下浜を見下ろす「日本海夕日の森公園」に立ち寄りました。小高くなったこの「お台場デッキ」の他、夕日の丘、月の広場、西の森、東の森、南の森があるようです。 
 

2013_05010530 雁木浜(がんぎはま)の西方には直江津(なおえつ)港、昨年完成したばかりの中部電力上越火力発電所、LNG(液化天然ガス)の受け入れ施設などが見えます。
 
 
 

2013_05010531 海岸に近づくと波打ち際では磯釣りをする人たちが並んでいました。直江津港の防波堤の先には鳥ヶ首岬(とりがくびみさき)が望めますが、岬の先端にある鳥ヶ首灯台(1950年点灯)は霞(かす)んでいて見えません。この灯台がある場所は江戸時代中期の高田地震で大規模な地滑りが起きた「名立崩(なだちくず)れ」跡です。

2013_05010532 国道8号を横切って「大潟水と森公園」へ向かいました。上越市大潟(おおがた)区にある県立の都市公園です。海岸に発達した頸城(くびき)砂丘の後背地に潟湖群があり、江戸末期に排水路の新堀川が掘削されて大潟が干拓されました。大潟は上越市に合併する前の旧町名で大きな鵜ノ池とその隣の朝日池が公園になっています。

その他にも長峰池、天ヶ池、蜘(くも)ヶ池などがあります。このうち朝日池は1646年(正保3年)、高田藩の大潟地区の新田の開墾(かいこん)にともない造成され溜池(たためいけ)で、現在も水田の灌漑(かんがい)に使われているようです。ここまで書けば察しの良い方はもうお気付きかもしれません。百田尚樹氏が書いた長編小説「影法師」の舞台と私が考えた場所です。実は、この感動的な小説を読んだ昨年12月から上越市の大潟と高田を一度は訪れたいと思っていたのです。

2013_05010533 北口駐車場に車を停めて鵜ノ池に向かいました。キャンプ場の左前方に木道の「水上回廊」が整備された鵜ノ池が広がっています。
 
 
 

2013_05010534 右手の木道に入りました。「歴史ゾーン」と表示されています。
 
 
 
 

2013_05010536 ミツガシワの群生があります。ちょうど開花し始めたところです。
 
 
 
 

2013_05010537_2 近接撮影したミツガシワ
 
 
 
 
 

2013_05010538 花茣蓙(はなござ)が敷かれた遊歩道を歩くと、前方に山吹(やまぶき)の花が咲いているのが見えました。
 
 
 
 

2013_05010539 早朝の雨に濡(ぬ)れた山吹の花を近接撮影
 
 
 
 
 

2013_05010540 シャクナゲ(石楠花、ツツジ科)
 
 
 
 
 

2013_05010543 思いがけないことに鵜ノ池に突き出した半島の先端近くに丸山古墳がありました。「歴史ゾーン」の名前の由来に納得です。
 
 
 

2013_05010542 円墳のように見えますが、2段築成の方墳(一辺が18.5m)でした。古墳時代前期後半から中期前半(4世紀後半から5世紀前半)に造られたことが分かったそうで、頸城(くびき、旧久比岐国)では一番古い古墳でした。
 
 

2013_05010544 手前は白いシャクナゲ、後方は散り始めた桜です。
 
 
 
 
 

2013_05010547 半島の先端部から見た鵜ノ池。対岸は干拓された田圃(たんぼ)のようです。
 
 
 
 

2013_05010546 右手方向も同様
 
 
 
 
 

鵜ノ池とその先に広がる田圃を見ていると「影法師」の終局で主人公が堤防から干拓地を眺(なが)める感動的なシーンが思い起こされました。郡奉行として提案した干拓事業の試行に成功した主人公は、計らずも江戸詰めに抜擢(ばってき)されたため本工事を見ないまま江戸で過ごし、筆頭国家老として帰国した時に初めて完成した干拓地を見たのです。多くの人々が影ながら自分を助けてくれていたことを知った主人公は感謝と悔悟(かいご)が入り混じる複雑な気持ちだったのでしょう。

2013_05010549 駐車場へ戻る直前の遊歩道脇にスギナ(杉菜)に囲まれて小さな花が咲いていました。ちなみに、スギナはツクシ(土筆)が成長したもので、その形が杉の木に似ていることが名前の由来のようです。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月21日 (金)

続・奥の細道疑紀行 赤塚の佐潟から出雲崎へ

2013_05010480 佐潟に立ち寄った後は、当初予定していた北国街道(県道2号)ではなく、遅れを取り戻すために海岸沿いの国道402号(日本海夕日ライン)を使って寺泊(てらどまり)へ向うことにしました。このため芭蕉が宿泊した北国街道の弥彦(やひこ)宿は通りません。 
 

2013_05010482 防砂林の中を走りました。
 
 
 
 
 

2013_05010483 越前浜で国道402号は右に折れます。この辺(あた)りの国道402号はこの少し先にある名勝越後七浦の名前をとって「越後七浦シーサイドライン」と呼ばれているようです。 
 
 

2013_05010484 再び防砂林を通過します。新潟県は最北の村上市から西端の糸魚川市まで8つの砂丘が続いていますが、現在通過しているのは西蒲原(にしかんばら)砂丘です。 
 
 
   

2013_05010485 右手の高台に角田岬灯台が見えました。標高482mの角田山に立つ真っ白な灯台は光達距離が19海里(約35km)とのこと。その下(海側)には「判官舟かくし」があるそうです。判官(ほうがん)と呼ばれていた源義経が兄の頼朝に追われ奥州平泉へ逃げ落ちる途中、舟とともに身を隠したといわれている洞穴(どうけつ)です。   

2013_05010486角田山を潜(くぐ)り抜ける 角田トンネルに入ります。 
 
 
 
 
 

2013_05010487 越後七浦シーサイドラインは長岡市寺泊野積(てらどまりのずみ)まで続く13.9kmの海岸道路で、日本海と奇岩が作り出す美しい風景を楽しめます。青森の浅虫温泉で見た裸島暮坪の立岩に雰囲気が似た立岩は撮影し損(そこ)ねました。 
 

2013_05010488 これが「獅子が鼻」のようです。横から見ると獅子(しし)の頭に見えるそうです。獅子はライオンのことですが、狛犬(こまいぬ)のうち角のないものを指すようですから、この場合は後者の方でしょう。 
 
 

2013_05010489 新潟市西蒲区から長岡市へ入り、野積橋北詰交差点を右折して信濃川から分かれた大河津分水路(1922年完成)に架かる野積橋を渡りました。芭蕉は弥彦から峠を越えて、この辺りで海岸に出たのでしょう。 
 
 

2013_05010490 寺泊白岩を通過します。寺泊は伝馬が置かれた北国街道の宿駅であり、古くから漁業が盛んで佐渡へ渡る港町だったそうです。 国分寺が作った無料宿泊所があったことが地名の由来のようです。 
 
 

2013_05010491 佐渡に近い寺泊には現在も佐渡の赤泊(あかどまり)へ行く寺泊フェリーターミナル(佐渡汽船乗り場)があります。ちなみに、佐渡へは距離が少し長くなりますが新潟港から両津(りょうつ)行きと直江津から小木(おぎ)行きのフェリーが出ています。 
 

2013_05010492_2 北限のアオウミガメで知られる寺泊水族博物館もありましたが外観を撮影するだけで通過 
 
 
 
 

2013_05010493 白波が立つ日本海を見ながら柏田崎へ向って国道402号(北陸道)を走りました。和島には道の駅「良寛の里わしま」があるようです。あの良寛(りょうかん)さんが晩年の数年間を和島の木村家で過ごし、貞心尼(ていしんに)と出逢(であ)って和歌の師匠になったのもこの和島の地だったそうです。 

2013_05010494 前方に見えてきたのは良寛さんが生まれた出雲崎(いずもざき)町でしょう。日本海から波が打ち寄せています。
 
 
 
 

2013_05010495 芭蕉が宿泊した出雲崎に入ると「海と夕日の広場」駐車場の案内標識がありましたので車を停めて立ち寄る先を確認しました。この出雲崎は江戸時代に幕府の直轄地(天領)として栄えたそうです。
 
 

2013_05010497 良寛生誕の地(橘屋跡)である良寛堂(新潟県文化財)です。江戸時代に出雲崎の名主の家で生まれた良寛さんが18歳で出家するまで過ごした場所です。
 
 
 

2013_05010496 良寛堂を背にして良寛(りょうかん)の座像がありました。生涯にわたって寺を持たず、40歳頃越後に帰っても質素な生活をしながら庶民に分かり易い言葉で仏法を説いたと言われます。和歌・俳句・漢詩・書などに秀でた良寛さんは72歳で天寿をまっとうされたようです。
    

2013_05010498 交差点から旧北国街道に入って芭蕉園へ足を伸ばしました。芭蕉が宿泊した大崎屋は芭蕉園の真向いにあったと説明されていました。芭蕉は出雲崎で有名な句、『荒海や 佐渡によこたふ 天の河』 を詠(よ)んでいますが、この句とともに佐渡についての芭蕉による記述を彫(ほ)った天河句碑(銀河の序)が後方に見えます。

22 芭蕉は佐渡には渡っていませんから、自分の知識に想像を交(まじ)えて書いたのでしょう。その代わりではありませんが、半世紀前の学生時代に佐渡へ旅行した時の写真を2枚だけ掲載しましょう。まず佐渡金山に近い相川(あいかわ)の夜祭です。ネット検索すると現在の相川祭りの様子YouTubeにアップされていました。 

25 もう一枚は「佐渡おけさ」の舞台です。吊(つ)るされた提灯(ちょうちん)には立波会と表示されています。これもネットで検索するとYouTube現在の立波会を見つけることが出来ました。そして大正時代に正調佐渡おけさを発表したグループであることも知りました。 

 

芭蕉園のすぐ近くに良寛記念館もありますが、遅れを挽回(ばんかい)する必要があるため、立ち寄りを断念することに。国道402号から国道352号に入り、出雲崎魚港と道の駅「越後出雲崎天領の里」を通過、柏崎(かしわざき)へ向います。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月19日 (水)

続・奥の細道疑紀行 新発田城址

芭蕉は村上に2泊している間に日本海沿いの瀬波(せべ)を訪れています。奥の細道には記述がないようですが、曽良の日記によれば、村上を出た芭蕉と曽良は羽州浜街道(現在の県道3号、一部国道345号と重複)を南下した乙(きのと)村の乙宝寺(おっぽうじ)に立ち寄り、さらに船を使って新潟へ直行したようですから、新発田には立ち寄っていません。私が内陸よりの国道7号を利用した理由は村上市から最短コースで新発田(しばた)市へ向うためでした。

2013_05010441 新発田城に到着しましたが、陸上自衛隊新発田駐屯地(ちゅうとんち)が城跡にあるため、車を停められる場所を探して新発田公園に入りました。駐車場脇にある新発田城城址公園の地図で現在の新発田城の様子が掴(つか)めました。本丸の石垣と内濠(うちぼり)の一部、3つの櫓(やぐら)、そして表門だけが残されています。

2013_05010442 日本100名城に指定された新発田城の三階櫓(2004年に復元)と駐屯地との境界に造られた土塀(どべい)
 
 
 
 

2013_05010444 江戸末期には事実上の天守閣であった三階櫓に近づいて撮影しました。棟(むね)が丁字形になっており、三つの入母屋をつくってそれぞれに鯱(しゃちほこ)を上げているため3の鯱がある珍しい櫓です。また、本丸の石垣は「切り込みはぎ」と角には「算木積み」が採用したことで、石の表面が平らに整形され、目地は隙間(すきま)無く積まれています。市指定文化財(史跡)とのこと。

2013_05010446 内濠に沿って右手に歩くと旧二の丸隅櫓(国指定重要文化財、昭和34-35年に解体修理)と折れ曲がった濠が続いています。腰回(こしまわ)りが瓦張(かわらば)りの海鼠壁(なまこかべ)で覆われた二の丸隅櫓は解体修理時に現在の場所(本丸鉄砲櫓跡)に移築されました。右手は二の丸跡にある土門橋跡土塁(どるい)のようです。

2013_05010447 新発田城の説明には、『慶長3年(1598年)に加賀から越後蒲原郡6万石の領主として移封された堀口秀勝が上杉景勝に破れて落城した新発田秀家の城跡を取り入れて築いたもので、明治初頭まで溝口家の居城として270年続いた。本丸を二の丸が取り囲み、南に三の丸が突き出し、南北に細長いひょうたん型をしていた』とあります。

幕末の戊辰(ぼしん)戦争で新発田藩は新政府寄りの立場を取ろうとしましたが、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗(こう)しきれずにやむなく加盟しました。しかし、最終的に新発田藩は新政府軍に合流し参戦したため、新発田の地は戦火から守られましたが、越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られたそうです。

2013_05010448 表門(本丸正門)は国指定重要文化財で二の丸隅櫓と同時期に解体修理されたようです。二の丸隅櫓と同様に腰回(こしまわ)りが瓦張(かわらば)りの海鼠壁(なまこかべ)で覆われています。
 
 

2013_05010449 右端にあるのは2004年に三層櫓とともに復元された辰巳櫓(たつみやぐら)です。ちなみに、辰巳は東南を意味します。
 
 
 

2013_05010450 表門を入った本丸跡には初代藩主溝口秀勝の銅像がありました。
 
 
 
 

2013_05010451 辰巳櫓への石段を登ると隣接する陸上自衛隊新発田駐屯地内を土塀越しに垣間(かいま)見ることができました。 
 
 
 

2013_05010452 辰巳櫓の入口付近
 
 
 
 
 

2013_05010453 その内部はまだ真新しい
 
 
 
 
 

2013_05010456こちらは旧二の丸隅櫓(すみやぐら)です。
 
 
 
 
 

2013_05010454その2階はこうなっています。
 
 
 
 
 

2013_05010457その近くの本丸跡です。石垣に沿って三層櫓へ行けるかと思いましたが、塀に遮られていました。
 
 
 
 

2013_05010458 右手でなにか作業をする人が見えます。
 
 
 
 
 

2013_05010459 鎧兜(よろいかぶと)を展示する準備作業をしていました。確認すると、「少年少女剣士のパレードと堀部安兵衛太鼓」の催し物(5月3日)に備えた準備と思われます。
 
 
 
 

2013_05010461 表門を出た二の丸跡に旅姿をした堀部安兵衛武庸像を見かけました。安兵衛は通称で、武庸(たけつね)は(いみな、正式名)です。   
 
 
 

堀部安兵衛は赤穂浪士の一人として知られますが、実はここ新発田市(新発田藩)の出身です。安兵衛の父中山弥次衛門が辰巳櫓焼失の責任をとって藩を辞したため、父の死後安兵衛は浪人となって江戸に出ましたが、そこで元赤穂藩江戸留守居役の堀部弥兵衛に見込まれて養子となり、赤穂藩の家臣なった経緯があります。ちなみに中山安兵衛の母方の祖母は藩祖・溝口秀勝の娘と言われますから、新発田藩でも上級武士の家柄だったのでしょう。

2013_05010460 車に戻って新発田城から少し東へ走ると県立新発田病院の脇に「義士堀部安兵衛生誕之処」の石碑がありました。(続く) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月12日 (水)

続・奥の細道疑紀行 酒田市から村上市へ(後編)

山形県に接する新潟県北部に位置する村上市を代表するものはこの村上城跡と現在も市街地になっている城下町です。その他にも、県境で看板を見た「笹川流れ」(海岸の景勝地で国の名勝・天然記念物に指定され、日本百景にも選ばれている)、市街地に入る時に渡った三面川を遡上(そじょう)する鮭(さけ)、北限のお茶栽培地としても知られます。今回は通過地点の一つですから、最初の2箇所に絞(しぼ)って立ち寄ることを計画しました。

2013_05010423 四ツ門を抜けた左手が三の丸ですが、右手に折れました。珍しい名前の御鐘門(おかねもん)跡は石垣の構造からみて外枡形(そとますがた)形式の櫓門(やぐらもん)と推察されるそうです。 外枡形とは枡形が城外に飛び出しているもので、江戸城の桜田門や姫路城の埋門などの事例があります。   

2013_05010424朝日飯豊(いいで)名峰の眺望(ちょうぼう)」は雄大です。ちなみに、2日前に村山市から見た葉山は朝日連峰の東端に位置しています。 
 
 
 

2013_05010425 御鐘門を過ぎると二ノ丸となってしばらく平坦な場所が続きましたが、少し先の右手に印象的な高石垣が迫(せ)り出していました。この石垣上に位置していたのがこの出櫓(でやぐら、だしやぐら)跡。本丸を守るために張り出して構えた櫓(やぐら)です。細い道に侵入した敵兵を狙撃(そげき)するには持って来いの構造です。 

2013_05010426戦国時代の村上城は江戸時代の郭(くるわ)よりはるかにシンプルで『虎口(こぐち)竪堀(たてぼり)帯曲輪群(おびくるわぐん)があるだけで、本丸にも石垣が無かった』と説明されています。 
 
 

2013_05010427上部に櫓を持つ櫓門(やぐらもん)や二階造りの楼門(ろうもん)ではない平門の冠 木門(かぶきもん)跡。
 
 
 
 

2013_05010428 広い場所に出ました。本丸跡のようです。 
 
 
 
 
 

2013_05010429 「お城山から鳥瞰図(ちょうかんず)」の看板の先には大きく湾曲しながら日本海に注(そそ)ぐ三面川が見えます。左端に見えるビルは村上体育館、その右手が村上市役所・村上地区公民館・村上小学校のです。
 
 

2013_05010430 天守櫓(天守台)跡には測量の基準となる国土地理院の三角点(右手の白い棒の横にある四角い御影石)とともに気象観測用の百葉箱が設置されています。 
 
 
 

2013_05010431 石垣の構造
 
 
 
 
 

2013_05010432 石垣の種類
 
 
 
 
 

2013_05010436 村上城の天守閣から上りと同じ「七曲り」を下りて城下町に向いました。「城下町村上散策案内」を見ると寺の多いことが分かります。稲荷神社の近くに芭蕉の句碑があるようです。 
 
 

2013_05010433 村上小学校に近い小町通(県道286号)に入ると元禄2年(1689年)6月に芭蕉と曽良が二泊三日した宿「久左衛門」跡(国の登録有形文化財)は現在村上茶を出す甘味処「井筒屋」になっています。
 
 

2013_05010434 村上小学校の東側に回り込むと国の重要文化財「若林家住宅」の門がありました。隣には村上市郷土資料館があります。 
 
 
 

2013_05010435 若林家住宅の母屋
 
 
 
 
 

2013_05010437 村上市内をもう少し散策したいところでしたが、次の目的地へ急ぐことにしました。牛沢交差点で合流した国道7号を約30kmひた走って新発田(しばた)市に入り、舟入交差点を左折した人気ラーメン店「梟(ふくろう)」に立ち寄りました。市中心部から少し離れた新興エリア(新栄町)に相応(ふさわ)しい外観がポップなラーメン屋です。 

2013_05010438 店内にもフクロウの置物が多数置かれています。我々は窓側のテーブル席に付きました。
 
 
 
 

2013_05010439 私は味噌チャーシュー(870円)を注文、大きなチャーシューが5枚も入っています。ご飯サービス(無料)は辞退しました。チャーシューが2枚だけの普通の味噌ラーメンでも良かったようです。 
 
 

2013_05010440 同行者はねぎチャーシューメン(910円)もビッグです。いずれもボリュームがあり過ぎて、途中でギブアップしそうになりましたが、2人とも何とか完食しました。後知恵でしたが、ラーメンと何か単品を頼んでシェアするべきだったと意見が一致しました
 
 
新発田市に到着したところで3回目の小休止にしたいと思います。 

<同行者のコメント> 酒田にある立派なお屋敷が印象に残りました。でも、おしんが奉公したという米問屋を見学するのはパス。 新発田市で食べた「ねぎチャーシューメン」はおいしかったのですが若い人向きのボリューム!お城はずいぶん高い山の上にあったようですね。 私は車の中で待機したのは正解でした。それに、石垣だけしか残っていない城跡はもう十分見飽きたのではないですか?(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧