2024年10月 7日 (月)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(最終回) 帰路は岡崎ICから東名川崎ICまで

午後4時30分ころ、岡崎ICから東名高速道路に入り、音羽蒲郡ICと豊川ICを経て三ケ日JCTで新東名高速道路(連絡路、片側2車線)に逸(そ)れました。通行する車はほとんどいません。新東名高速道路の富幕山(とんまくやま)トンネルに入ります。ここでは最高速度が80㎞/hに制限されています。 いなさJCTで新東名高速道路の本線(上り線)に入りました。こちらも走行する車はごく僅(わず)かです。 前方に見えるのは都田川(みやこだがわ)橋。PC2径間連続エクストラドーズド橋(橋長268m、支間長133mx2)。中央に高さ56.4mの橋脚3本の上に繋(つな)がる主塔が3基並ぶとともに、それらに挟(はさ)まれ...

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2024年10月 6日 (日)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その14) 岡崎市の岡崎城に初登城⑥

左手へ進んだところにある立派な建物は「巽閣(たつみかく)」です。展示館かと思いましたが、賃貸広間などがあるようです。 意外なことに「アラモの碑」の説明看板がありました。『「アラモの戦い」と「三州長篠城の戦い」がよく似ていることに関心を持った地元出身の地理学者志賀重昂(しげたか)氏が大正3年(1914年)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。注釈:「三州長篠城の戦い」は天正3年5月(1575年7月9日)に、三河国長篠城を巡って、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼軍が戦った合戦、長篠・設楽ヶ原の戦いと記す場合がある。』遊歩道から見下ろす高い石垣と深...

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2024年10月 5日 (土)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その13) 岡崎市の岡崎城に初登城⑤

天守閣最上階(5階)の展望室から廻縁に出て外を見下ろしました。なお、隣の建物は「井戸櫓」(写真左)と「龍城神社」(同右)です。その先には「晨閣(たつみかく)」の建物と岡崎市の市街地が広がっています。注釈:難解な漢字である晨は早朝・夜明けを告げるを意味するカラー写真による案内パネル(東方向)別の方向を見るために廻縁を右手へ移動しました。 南方向です。さらに西方向も 最後は北方向です。 何やら変な趣向があります。パイプを使って正確に大樹寺の場所(約3.5㎞の距離)を確認できる優れものです。超アナログな方法ですが・・。階段脇に何やら人の列ができています。ひょっとして、ここにも名城スタンプのコーナー?...

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2024年10月 4日 (金)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その12) 岡崎市の岡崎城に初登城④

五万石を支えた岡崎城下町: 東海道や舟運により、交通の要衝(ようしょう)であった岡崎の城下町の賑(にぎ)わいを紹介しています。 東海道二十七曲りと城下町十九か町: 田中吉政が岡崎城を総構えしたときに、東海道が城下に引き入れられた。慶長14年(1609年)、本田康重により総構えの北辺まで大きく廻され、東海道は「二十七曲り」と呼ばれる屈曲の多い道筋となった。岡崎城下町模型です。江戸時代後期の町並み(岡崎城の南東部)を再現。岡崎城総構えの東の入口 籠田(かごた)総門から大手門前の対面所辺りまでを示す。東海道の両側には町家が立ち並び、南側には侍屋敷が拡がる。町家の裏手には、城下町を囲む土類と総堀が巡る...

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2024年10月 3日 (木)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その11) 岡崎市の岡崎城に初登城③

岡崎城天守閣の前に出ました。三層のコンパクトな建物です。江戸時代には三層三階地下一階でしたが、現在(1959年再建)は三層五階になっているようです。なお、正面には入母屋破風(いりもやはふ)があり、最上部に連高欄(手すり)と廻縁(説明:建物まわりの縁、昔は無かった)が設けられています。そして、右側のベージュ色の建物の陰になって僅(わず)かだけ覗(のぞ)いている建物は井戸櫓(やぐら)。 その右手には「岡崎東照宮 龍城(たつき)神社」があります。祭神は、徳川家康公、本多忠勝公、天神地祇、五穀英霊です。 石段を上がって岡崎城の天守閣へ入ります。 岡崎城の説明パネルには『15世紀中頃(室町時代)、西郷弾...

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