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2013年11月

2013年11月28日 (木)

古代日本への旅 森将軍塚古墳を探訪(最終回)

古墳館を出てすぐ近くにある古墳時代の集落「屋代清水遺構」へ向かいました。手前の田圃(たんぼ)も古代を再現したものでしょうか?
 
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左手前にある再現住宅です。同じ長野県にある尖石(とがりいし)遺跡井戸尻遺跡の再現住宅(竪穴住宅)とそっくりです。
 
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内部の様子も同様で、中央の囲炉裏(いろり)を囲むように切り株のような短い丸太(古代のスツール?)が並び、壁(屋根?)際には大量の薪(まき)が置かれています。古代人は住居の中に大量の薪を貯蔵(ちょぞう)していたとは思われませんが・・。
 
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近くの住居から煙が出ています。火事ではなく、住居の内部を燻(いぶ)しているのでしょう。飛騨・白川郷にある合掌造りの民家で行われてきた住宅を長持ちさせる工夫は古代からあったのでしょうか?
 
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こちらの建物にも説明はありませんが、高床式の建物ですから、住宅あるいは食料用倉庫でしょう。青森の三内丸山遺跡ではその両方を見ています。
 
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こちらの内部にも大量の薪が貯蔵されていました。
 
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切妻型(両流れ)の屋根を持った四角い住宅
 
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古代の滑り出し窓も魅力的です。
 
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ここからも森将軍塚古墳へ行けるようです。
 
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「科野のムラ」の石碑とその説明
 
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科野の里歴史公園案内図がある場所が公園の正面入口です。
 
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この建物は長野県県立歴史館です。時間の制約があって、今回は立ち寄ることができません。
 
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県道392号を国道403号まで引き前して、横町交差点を右折、高見町交差点に出ると上杉謙信縁(ゆかり)の「雨宮渡し2.6km」の案内標識がありました。この交差点を左折すると2軒目(千曲市屋代1805)が次の目的地であるcafe自転車屋でした。cafe自転車屋は駐車場の塀と民家を改築したような山小屋風の建物に大きく「自転車CAFE」と書いてあります。
 
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開店時間の午前11時を数分過ぎていましたが、ちょうど外に出ていたご主人らしき人に尋(たず)ねると、「開店している」との言葉が返ってきました。20席ほどと小振りの店内は壁も窓も飾りも自転車づくしです。左手に見えるのはペニー・ファージング型自転車で、右手のカウンター席は常連さん用でしょう。私はアサリのクリームパスタセット(900円、パスタのみは700円)を注文しました。
 
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別の壁にはワッペンのようなもの(おそらくスーツケースなどに貼るホテルなどの記念シール)と自転車のスプロケット(チェーンに動力を伝える大きな歯車でチェーンホイールとも呼ばれる)と思われるものが飾られています。右側の写真は自転車旅行のシーンのようです。しかし、厨房(ちゅうぼう)で忙しそうなご主人にあれこれ質問することはできませんので、グッと我慢(がまん)することにしました。
 
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窓辺には針金細工の自転車も
 
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まず、サラダが配膳されました。
 
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次いで、あさりのクリームパスタ
 
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そしてデザートと紅茶が運ばれました。コーヒーが好きな方はそれも選べます。私好みのパスタは期待通りでした。店を出る時にはつい堪(こら)えきれなくなって、馬蹄(ばてい)を組み合わせたような知恵の輪についてご主人に質問すると、『アメリカの鍛冶屋(かじや)さんが作ったものです』と柔(にこや)かに教えてくれました。
 
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10数分歩いて屋代駅まで戻ると、青空の下に先ほどまで山麓から中腹までを散策した有明山が美しい紅葉にに覆(おお)われていました。
 
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(終)

2013年11月27日 (水)

古代日本への旅 森将軍塚古墳を探訪(その4)

森将軍塚古墳の後円部で発見された平石を積み上げた竪穴(たてあな)式石室の写真
 
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古墳時代前期の竪穴式石室に収められた棺(かん)は巨木を二つに縦割りにして、内部をくり抜いて合わせた割竹形木棺(わりたけがたもくかん)が主流だったといわれており、木棺が残っていなかった森将軍塚古墳も割竹形であったと考えられると説明されています。
 
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「く」の字に折れ曲がった森将軍塚古墳は、平野から見上げる側の後円部が円形に近く造ってあり、科野の国を見渡せ、しかもクニ中のどこからも望むことができるこの場所にこの規模の前方後円墳を造ることに意義があったと考えられると解説しています。
 
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この巨大な壺は何に使われたのでしょうか? 穀物、木の実、それとも・・・。
 
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副葬品である蛇行剣(じゃこうけん)や短甲(古代の鎧)の複製などの武器類(倉科2号墳)
 
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朝顔形埴輪、円筒埴輪、円筒埴輪、様々な容器、帯金具(バックル)、轡(くつわ、馬具)など
 
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男女二人が埋葬された2号墳の説明
 
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横穴式石室の三号墳の説明
 
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5世紀代から7世紀代に築かれた小古墳の説明
 
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横から見た石室
 
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反対側から見た石室
 
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「科野(しなの)のムラ」のくらし
 

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「日本列島全体に見られる交流」として古墳時代には近畿、東海、北陸、関東地方との交流があったと説明されていました。
 
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朝鮮半島から運ばれた土器は大和王権を通して手に入れたと見られるとの考えが述べられています。
 
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千曲市内には12カ所の古墳があるようです。
 
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まつりや儀式のコーナーにはまず馬の墓(五輪堂遺跡)の写真がありました。
 
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古墳時代中ごろの集落跡(屋代清水遺跡)
 
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発掘調査で掘り出された集落跡
 
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一階のサブ展示室には発掘調査時に型取りをして作った実物大の精密模型が展示されていました。これは朱で塗られた壁の一部です。
 
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竪穴式石室の一部を実際の大きさに石を積んで再現したものです。盗掘口から石室の内部を覗(のぞ)く仕掛けになっていました。本物の石室はもちろん古墳のなかに保存されているそうです。
 
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(続く)

2013年11月26日 (火)

古代日本への旅 森将軍塚古墳を探訪(その3)

「森将軍塚古墳の築造」と題して、楕円形に近い後円部の形を円に近づけるために墳丘の裾(すそ)に貼(は)り石帯を設けたことと、盛土が崩れ落ないように石垣によってブロックを造り、そのブロックごとに土を盛るという特色のある方法が用いられていることが説明されています。
 
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後方から見た後円部
 
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後円部から前方部方向を望む
 
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古墳の反対側にある小径は通行止めになっていましたので、元来た道を前方部の先端部まで戻ることにしました。前方部の前面には工事中のためか臨時通路が設(もう)けてあります。下の写真は前方部左側の工事現場の様子です。葺石(ふきいし)の貼り直しが行われていました。

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工事用の重機を通過させるため道路には鉄板が敷き詰めてありました。工事は12月20日まで続くようです。
 
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見学バス(マイクロバス)の
乗車場に到着
 
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約束の時間まで10分近くあります。暇(ひま)つぶしに森将軍塚古墳と同古墳館の位置関係をiPhone 5で確認してみました。
 
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先ほどまで霧雨が断続的に降っていたのに、マイクロバスに乗る時になって青空が広がって・・。
 
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1時間後にマイクロバスで古墳館に戻って2階にあるメイン展示室に入りました。
 
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合子(ごうす)形埴輪(はにわ)のシンボル展示
 
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メッセージパネルが目に入ります。
 
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その奥には日本一のサイズといわれる森将軍塚古墳の竪穴式石室(実物大模型)が展示されていました。仙台市の「地底の森ミュージアム」と似て上から見下ろす設計になっています。
 
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竪穴式石棺(たてあなしきせきかん)は長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mで日本最大級のものであり、後円部中央にある竪穴式石室は平石が積み上げられた二重の石垣で囲われた長さ15.0m、幅9.3m、深さ2.8mの大きな穴の中に築かれ、石室内には遺体を入れる木棺が納められていたと説明されています。
 
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副葬品のほとんどは過去の乱掘によって散逸していたが、辛うじて残されていた三角縁神獣鏡片(長野県下で唯一の出土)は、ヤマト王権との繋がりを示す重要な資料とされるそうです。他にも近畿地方の影響と思われる土器類(円筒埴輪・壺形埴輪・朝顔形埴輪・異形埴輪家形埴輪)、刀・剣や切先(きっさき)の尖った槍(やり)か剣のようなもの、鉄鏃(てつぞく、鉄の矢尻)、細工のための小刀、農業に使う鎌(かま)、翡翠(ひすい)で造った高級な勾玉(まがたま)、碧玉(へきぎょく、石英の一種)の管玉(くだたま)などが検出されているとのこと。身分を示す鏡・玉と武器や生産用具を表すと考えられている剣の三つがそろったのは珍しい例であると説明されていました。
 
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出土した三角縁神獣鏡の破片(右)と三角縁神獣鏡の模型(左)
 
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壁面には科野の国最大の古墳、出土品、そして当時に人々の生活を説明するパネルが並んでいます。
 
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森将軍塚古墳の築造作業
 
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森将軍塚古墳の出土品群
 
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これが2号埴輪棺の本物
 
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8号組合式箱型石棺と出土品である矢尻、刀子(とうす)、ガラス小玉など
 
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(続く)

2013年11月25日 (月)

古代日本への旅 森将軍塚古墳を探訪(その2)

前方部へ上がるコンクリート製の階段は復元時に造られたもので、古墳が築造された時にはもちろん無かったと思われます。
 
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階段を上りきった場所から見下ろした埴輪棺(はにわかん)とその説明盤の付近
 
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前方部の縁(ふち)に並べられた埴輪をすぐ近くで撮影していると展望台に二人連れの来訪者がこちらを見ていることに気づきました。
 
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前方部から2号埴輪棺と2号石室などが見つかったことと、前方部の上部には千曲川から運び上げられた玉砂利が敷きつめられていたと説明されています。説明文には書かれていませんが、前方部の大きさは、長さ約40m、幅約30m、高さ約4mとのこと
 
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前方部から見た後円部の様子です。径が約45メートルで高さは約4メートルであるそうです。
 
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階段を上りきったところから見た前方部の様子です。右側の法面(のりめん)、つまり正面からみた左側で工事が行われていることがはっきり確認できました。
 
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後円部の様子です。玉砂利が敷き詰められているだけで、ほかには何も見当たりません。
 
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後円部からみた有明山(標高652m)
 
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送電線の鉄塔付近にはさきほど訪れた有明山将軍塚古墳があります。
 
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後円部頂の中央に長さ15.0m、幅9.3m、深さ2.8mの穴が掘られ、その内部に墓壙(ぼこう)と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの竪穴式石室(石槨)が築かれている。この石室は東日本最大級の大きさを誇っているそうです。景初3年(239年)制作の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の破片が出土したことはヤマト王権との繋(つな)がりを示す重要な資料とされるそうです。
 
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科野(しなの)の国の地勢と古墳群の説明図には城跡も表示されていました。有明山に連(つら)なる一重山の尾根筋にある山城の屋代城は室町時代初期に築城されて天正11年(1583年)に最後の城主・屋代秀正がこの地を去るまで200年余り使用されたそうです。城域の半分ほどは破壊されましたが現在も曲輪(くるわ)や掘切が一部残っているそうです。説明図にはありませんが、上杉謙信が川中島合戦の時に渡ったといわれる「雨宮の渡し」の近くにには唐崎城跡、倉科地区には鷲尾城跡もあるようです。
 
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こちらは現在の千曲市です。森将軍塚古墳からの眺めは素晴らしく、眼下に長野新幹線千曲川、その向こうに北信五岳の飯綱山などが見渡せます。
 
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右手方向には上越市からの帰路に利用した上越自動車道も見えます。
 
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後円部から前方部の反対方向を覗(のぞ)くと円墳(えんぷん)のようなものが見えました。森将軍塚古墳の周辺からは、直径3mから20mほどの小さな円墳が、13基見つかっているそうです。これらの古墳は、5世紀はじめころから7世紀後半ごろまでの間に、次つぎと造られたものです。採石で削られた尾根部分にも古墳があったので、当初はもっと多くの古墳があったと考えられます。森将軍塚古墳の主と関係の深い集団の代々の有力者が葬(ほうむ)られたのでしょう。
 
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古墳の下にある遊歩道に出ました。
 
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円墳を経て科野のムラに出る道のようです。
 
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小山にしか見えませんが円墳のひとつかもしれません。
 
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木の根道の坂を下りて行き当たった場所に2号墳がありました。
 
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科野のムラまで下りると帰りのマイクロバスに乗れませんから、ここでUターンして尾根に続く木の根道を引き返しました。
 
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先ほど見かけた小さな円墳も巨大な森将軍塚古墳を背景にすると絵になっています。
 
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(続く)

2013年11月24日 (日)

古代日本への旅 森将軍塚古墳を探訪(その1)

上越新幹線上田駅で「しなの鉄道」に乗り換えて6駅目の屋代(やしろ)駅で下車しました。所用で長野方面を訪れた機会を利用して以前から関心を持っていた古墳を訪ねることにしたのです。千曲(ちくま)市循環バス(東部線)を利用してその古墳がある科野の里歴史公園へ向かうことも考えましたが、本数が少ないことから約1.5kmの距離を歩くことにしました。ちなみに、千曲市内を散策する方は駅のレンタサイクル(料金は2時間500円)を利用しても良いでしょう。
 
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屋代駅から逆コの字型のルートを20分ほど歩き、科野(しなの、信濃の古い呼び名)の里ふれあい公園を通過すると、午前9時20分頃に千曲市森将軍塚古墳館に到着しました。小高い場所に森将軍塚古墳と思われるものがはっきり見えます。
 
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森将軍塚古墳は古墳時代(4世紀)に築かれた前方後円墳で、信州の当時の呼び名「科野(しなの)の国」の大王の墓とされます。森将軍塚古墳は「森」(地名)にある「偉い人」(将軍)のお墓という意味だそうです。ちなみに、現在も森の地名が屋代駅から千曲駅にかけての地域に残っています。古墳館に隣接して長野県立歴史館があり、有明山の古墳群を合わせて「科野の里歴史公園」を構成しています。
 

入り口脇の壁にはイギリスのストーン・ヘンジ(環状列石)やメキシコのテオティワカン(太陽のピラミッド)など世界の巨大遺跡のパネルが並んでいます。午前9時に開館していますが他に来訪者はなく、受付の女性が親切に説明してくれました。入館料200円、古墳見学バスとの共通券は500円であるとのこと。古墳を見に来た私はもちろん後者のチケットを券売機で購入しました。古墳館と古墳見学のどちらを先にするかとの質問に、私は「小雨が本格的な雨にならないうちに古墳を見たい」と答えると、バスの手配をしてくれて置き傘を使うことも勧められました。
 
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入口付近に停まっていた見学バス(マイクロバス)に運転手さんが乗り込むと私一人を乗せて急な坂を登り始めました。曲がりくねった山道が続きますから、徒歩で登るのは大変そうです。5分もしないうちに有明山の中腹にある森将軍塚古墳の降車場に到着しました。
 
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「何分後に迎えにくれば良いか」との質問に私が、「有明山将軍塚古墳にも行って見たいから1時間後にお願いします」と答えると、さらに上にある車返しまでマイクロバスに乗車することを勧められました。
 
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案内標識にしたがって獣道(けものみち)のような尾根道を登ると50mほど高い場所に「有明山山頂0.6km、15分」の標識とともに有明山将軍塚古墳の案内板が立っていました。
 
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有明山将軍塚古墳は石棺(せきかん)などが埋め戻されたため、現在は内部を見ることができません。『全長33m(36.5m)、後円部は径17m(30m)、高さ2.5m(7m)、前方部は幅10m、長さ16.5m、高さ1mとされ、6世紀代の築造と考えられる』と説明されています。ちなみに、( )内は1999年に行われた最新の範囲確認調査の結果です。
 
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前方後円墳の形は崩れていて、2つの小山が何とか確認できるだけです。前方部と思われる場所まで歩いて振り返りましたが、残念ながらはっきりとした形状を見ることはできません。
 
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車返しまで戻る途中にマイクロバスの乗り場が眼下に確認できました。
 
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そして、尾根伝いの小径をさらに降りると左手の木立の間から森将軍塚古墳が見えてきました。
 
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林を出ると巨大な古墳が目の前に広がりました。長野県最大の前方後円墳(墳丘の全長が100m)であるこの森将軍塚古墳は復元されて一般公開されているのです。長野県における前方後円墳としては最初期にあたる古墳時代前期(4世紀末)に造られ、信濃国の前身・科野(しなの)の首長の墳墓と目される。昭和46年(1971年)に国の史跡に指定され、昭和56年(1981年)から平成4年(1992年)までの11年をかけて葺石(ふきいし)を貼(は)るなどして築造当時の姿に復元されたそうです。神戸市垂水区の五色塚古墳と雰囲気がよく似ています。
 
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千曲市内にある他の古墳と併せて埴科古墳群(はにしなこふんぐん)とも呼ばれているそうです。
 
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曲がった尾根上に築造されたことによって左右対称ではなく、後円部が楕円形に近いのです。古墳ができた時の様子を推定してきれいに復元されており、墳丘(ふんきゅう)は葺石(ふきいし)で覆(おお)われ、三重の埴輪列のほか、墳頂(ふんちょう)には形象埴輪(けいしょうはにわ)が配されていました。平野部から130-140mの高さにある狭隘(きょうあい)で急斜面の有明山尾根上にあるため、後円部は楕円のようになり、前方部と後円部では中軸線が20度ばかり違っているのが大きな特徴です。
 
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展望台から見た森将軍塚古墳です。前方部にはパワーショベルがあって左半分のエリアで何かの工事が行われているようです。
 
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右手にある階段を下りることにします。
 
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前方部に置かれた埴輪(はにわ)をズームアップすると、何種類か異なる形状のあることがはっきり見てとれます。
 
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前方部の側面に出ました。葺石(ふきいし)の様子がはっきり分かります。上方は傾斜がゆるくなっているようです。
 
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森将軍塚古墳の埴輪(はにわ)には朝顔形、壺(つぼ)形、家形、円筒(えんとう)など儀礼的なものを型どった埴輪がたくさん立て並べられており、埴輪棺(はにわかん、5世紀時代のお墓)も12基出土したと説明されています。
 
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これがその埴輪棺のようですがレプリカでしょう。
 
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後円部は一段と高くなっています。
 
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(続く)

2013年11月20日 (水)

古代日本への旅 壬申大乱

壬申大乱とは見慣れない言葉ですが、古代日本において皇位を巡って大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)およびその息子の高市皇子(たけちのみこ)が天智天皇の長男である大友皇子(近江朝廷)と国を二分して争った他に類をみない内乱です。壬申(みずのえさる)の年(672年)に起こったことから日本史では一般に壬申(じんしん)の乱と呼ばれます。
 
                          ☆
 
本題に入る前に古田武彦氏は著書「壬申大乱」の第一章まぼろしの吉野で日本書紀の持統紀の記述および万葉集の和歌(柿本人麿作)を多数引用してその舞台が大和の吉野ではなく吉野ヶ里遺跡など吉野の地名が多い北九州(肥前)であることを同氏一流の手法(この場合は従来説が抱える多くの矛盾点と肥前の地形との符合)を用いて指摘する。平易な言葉遣いは先述した2つの著作と異なって読み易いことは読者にとって有り難いことです。

第二章真実の白村江では大唐(いわゆる唐朝)と新羅(しらぎ)の連合軍に白村江(はくつきえ、はくそんこう)で百済(くだら)ともに敗れた九州王朝の本拠地(筑紫)に大唐の駐留軍が入ったことと近畿天皇家の立場を解説する。そして壬申の乱の勝利者である高市皇子を謳(うた)ったといわれる柿本人麿の長歌「城上(きのへ)の宮」がじつは白村江の海戦の半年前に行われた白村江の陸戦で倒れた九州王朝の明日香皇子(あすかのみこ)が対象であったという。

第三章壬申の乱の虚像で著者はいよいよ壬申の乱を詳細に記録する日本書紀の天武紀に切り込む。まず騎馬隊の行軍における記述の不合理性(旧陸軍騎兵隊の情報や古代馬の体格)を指摘した馬の専門家の著作「馬からみた壬申の乱」を引用して行軍工程に現実性がないことを指摘した。

第四章天武天皇の秘密では壬申の乱の当事者である天武天皇の歌に迫る。万葉集の『み吉野の耳我(みみが)の嶺に 時なくそ 雪は降りける~』における「み吉野の」と「耳我の嶺」が大和ではなく肥前の吉野(三根)であることを万葉集の歌を分析して導きだす。大海人皇子(天武天皇)が吉野に逃れたのはこの地に白村江の戦いのための発信基地(軍港)があったからだとし、これで天智天皇の娘であり天武天皇の皇后となった持統(じとう)天皇が在位中に31回も吉野を訪れたことが説明できるという。

次いで著者は上記の歌に続く『よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野~』の「よき人」が白村江の戦いに勝利した大唐(唐朝)の駐留軍総司令官郭務悰(かくむそう)であることを中国の古典における用語法から推測する。総司令官への呼びかけに成功した大海人皇子は近畿(近江、大和など)にいる仲間に知らせたのであろうという。壬申の乱が従来信じられてきたように近江と吉野と関ヶ原(岐阜県)で展開されたものではないことと、そのように記述された目的が西日本を中心に軍事的制圧体制を敷き続けてきた唐軍が無関係に見せようとしたことが根本の動機であったと指摘する。

第五章壬申の乱の真相では日本書紀における駅鈴(駅馬を利用するための鈴)問題、留守司(天皇が長期不在の時に置かれる役所)、「虎翼」問題(大海人皇子が吉野へ入った時に左右大臣と大納言が送ったフレーズ)などを追求する。駅鈴の数は筑紫の大宰府が他の関所に比べて突出して多いこと、日本書紀の中で壬申の乱において4回出てくる留守司が大和(飛鳥)ではなく大宰府にだけ置かれたことは九州王朝による白村江の戦いのためであること、虎のように強いものに更に翼を付けると制しにくくなること(転じて勢力家に権威を与えること)を解説する。

加えて大分君恵尺(おおきだのきみえさか)の存在を挙げる。大分に本拠を置く彼は白村江の戦に参加しなかったことで勢力を温存していたため壬申の乱で活躍したことが知られる。著者は彼が九州一円支配の実力を持っており、親唐勢力の筆頭であったとまでいう。大海人皇子は彼の協力を得た時、まさに虎が翼をうるための基盤ができたとみなす。

第六章<別論一>月西渡る-人麿作家の史料批判

古事記、日本書紀に万葉集の主役である柿本人麻呂が現れないことは九州から近畿への移転(転地)を示すものであると著者は指摘する。

第七章<別論二>筑紫の飛鳥

日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)が没した時に人麿が作ったとされる長歌を引用して、その作歌場所が九州の朝倉郡の周辺領域であるという。明治前期には飛鳥(ひちょう)と呼ばれた場所が現在は飛島(とびしま)に変わった背景を当代の政治権力がそれまでの地名表記を消し去ったと推測する。

第八章<別論三>みどりこの母の歌

人麿は明日香皇女についての3首の長短歌も分析する。

第九章<別論四>越(おち)を恋うる嬬の歌

万葉集でもっとも哀切な人麿作歌である泊瀬部皇女忍坂部皇子(はつせべのひめみこおさかべのみこ)についての短歌は安否が不明である明日香皇子の妻(嬬の命)のために作られたものであると指摘する。著者は明日香皇子が倭国軍を率いて唐と新羅と交戦し、敗戦後に捕虜となった筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)であるという。

終章

明治時代に入って重要視された万葉集には前書きと内容の矛盾という「妙な仕掛け」があったと著者は指摘する。そして著者は初期万葉集の編者が矛盾を承知で大和を舞台に移し替えたのは後代の読者が気づくことを期待したのであろうともいう。『74歳にしてはじめて万葉の編者の志を知った』の言葉で本文を締めくくった。
 
                           ☆
 
中世の親鸞(しんらん)研究で知られる古田武彦氏が著述された北九州が壬申の乱の舞台であったとする本書を興味深く読み終えました。先に紹介した「倭人伝を徹底して読む」と「多元的古代の成立」の良書と同様に万葉集の歌を多数引用して解釈することにより、日本書紀が九州王朝の歴史を盗用し、万葉集の編者が歌の舞台を北九州から大和に転地した、唐軍が北九州に駐留したとする同氏のあまりにも斬新すぎる考えを直ちには信じがたいと感じました。

壬申の乱は大海人皇子が大和の吉野から脱出したあと、皇子の領地があった美濃の豪族が関ヶ原(不破の関)を封鎖したことで東海道と東山道からも兵を集めることが可能になって、大和と近江の各地で大友皇子(近江朝)の軍を破り、近江の瀬田でそれを壊滅させたとする従来説を私は長年信じてきたからなのです。歌とそれが読まれた背景(詠み人と場所)を地理と符合させる努力は興味深いのですが、残念ながら恣意的(しいてき)な印象を与えることも否(いな)めません。

つまり、邪馬台国の場所を魏志倭人伝の記述から比定した同氏の切れ味が本書では活かされていないように思われたのです。吉野を出てからの大海人皇子の行程についての通説(大和・関ヶ原・近江)への批判が詳細である一方、本書では北九州説における行程が具体的に記述されていないことも私には不満でした。古田武彦氏の著作を読み進むことはここまでにして、次回は自らの足で古代日本を旅することにします。

2013年11月17日 (日)

古代日本への旅 九州王朝説

「倭人伝を徹底して読む」に続いて「多元的古代の成立(上下巻)」(2012年12月ミネルヴァ書房刊)を読み終わりました。古田武彦氏の著作はいずれも難解な言葉と関連古文書から膨大な検証データを引用するため、読者はまるで大海の漂流者にでもなったような気分に陥(おちい)りますが、同氏が示す海図でいつの間にか目的地へと辿(たど)り着いて安堵(あんど)できる仕掛けがありました。  

天皇家一元史観による従来の「定説」に対して行った学的挑戦の粋を集成した論集という「多元的古代の成立」(上下巻計744ページ)の詳細に立ち入ると長くなりますので、それぞれのポイントと考えられる事項を以下に列挙します。

  (注)多元的古代とは古代の日本列島には複数の王朝と大王が並立・連立して存在したとする

     仮説のことを意味し、この学説は一般的に多元王朝説と呼ばれる

「上巻」 (邪馬壹国に関する6編の論文)

● 3-7世紀の歴史書を読むには多元史観が不可欠である

● 古代中国における短里(周朝および魏・西晋朝)と長里(漢朝)に約5倍の差があった

● 縄文人による太平洋横断(縄文土器が南米でも出土)

● 邪馬壹国(一般的には邪馬台国と呼ばれる)への工程解釈

「下巻」 (倭の五王論、三角縁神獣鏡論、古事記序文論など7編の論文)

● 倭の五王(讃・珍・済・興・武)は九州王朝の王である

● 弥生(やよい)遺跡と青銅器の分布

● 埼玉古墳群の稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した鉄剣(国宝)の銘文

● 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は魏(ぎ)から卑弥呼に贈られた銅鏡かの考察

● 古事記・日本書紀成立の根本問題

歴史教科書や他の古代史文献とは大きく異なる視点で書かれた本書を驚きを感じながら読み進みましたが、読後には魏志倭人伝(ぎしわじんでん)について大変興味深い解釈が明確に述べられていることが分かりました。なかでも著者が邪馬壹国(やまちこく)であるとする邪馬台国(やまたいこく)の場所を魏朝(ぎちょう)時代の短里(75-90mを用いて筑紫(つくし)の太宰府(だざいふ)辺りに比定する論法(邪馬台国九州説)には頷(うなず)けました。一方、縄文人(じょうもんじん)が太平洋を横断したとする同氏の考え(本書上巻)についてはまだ懐疑的(かいぎてき)であると考えています。

年代推定法が最近見直されて箸墓(はしはか)古墳の築造が3世紀後半に早められたことで、卑弥呼(ひみこ)の墓である可能性が出てきた(従来指摘されていた年代のズレがほぼ解消した)ため邪馬台国近畿説が盛り返しているようです。しかし、本書を読み終えた私は中国の国史で使われた言葉の統計的な分析を踏まえて魏志倭人伝を素直に読み取る手法にあらためて納得させられました。

私の好きな松本清張氏も『古代史疑」で古田氏と同様に魏志倭人伝の記述を誤記や誇張などと決めつけることで持論にとって都合の良い意味に読み替えるべきではないと指摘しています。ただし、行程の里数・日数と戸数は五行説に合わせた数字と断定したこと、卑弥呼に女王の名称を与えたのは魏志倭人伝の編者(陳寿)であると指摘したこと、当時の倭人は漢字が読めたとは考えられないとしたこと、邪馬台国の所在地を有明海に近い福岡県山門郡に比定したこと、魏志倭人伝に邪馬台国と対立していたとだけ記述された狗奴国(くなこく)について大胆な仮説を紹介しこと、などは古田氏と異なります。

倭(わ)の五王については中国の国史にある記述を解説したうえで、古事記と日本書紀が五王に直接触れていないことと考古学(出土品)の分析結果を引用して明快に説明したことにより、同氏の九州王朝説には強い説得力が感じられました。一方、松本清張氏は通説に従って履中(りちゅう)天皇など大和政権の天皇(当時は大王)説を支持し、魏志倭人伝から約100年間の空白期間の後に中国の宋書に倭の五王が登場するまでに大きな変動が倭国にあったと考えました。

すなわち、前東大教授江上波夫氏が提唱したいわゆる「騎馬民族説」に賛同したのです。魏朝による朝鮮半島支配の拠点であった帯方郡(たいほうぐん)が魏朝の終焉(しゅうえん)にともない滅亡したのち、北方系の種族が北九州に上陸して女王国を併呑(へいどん)し、狗奴国を敗亡させて九州一帯を統一したのち畿内に進出し、そこに強大な勢力を持つ大和朝廷を樹立したとする考えです。

なお、古代日本における最大の事件であった「壬申(じんしん)の乱」が九州を舞台とした出来事であるとする同氏の説は残念ながら本書には含まれていません。ミネルヴァ書房の古田武彦古代史コレクションには「壬申大乱」も入っていますから、オーバーヒートした頭をクールダウンしてから、近いうちに同書にも挑戦したいと思います。

2013年11月14日 (木)

古代日本への旅 魏志倭人伝

ようこそ、ブログサイト「旅行大好き、飛行機も!」へ。サイト名を一新してオープンさせた当サイトは「旅行」を中心に、「音楽」「本」「映画」などの記事を気の向くままに投稿する予定です。書き手の気分転換が目的のサイト名変更ですから、「温泉大好き、ドライブも!」の続編と捉えていただけると幸いです。
 

記念すべき第一回目のテーマは古代日本への時空旅行(タイムトラベル)です。具体的には古代史を研究する異端児、古田武彦氏の著作についての書評を書きたいと思います。取り上げるのは同氏の著作の中から私が興味を持った「倭人伝(わじんでん)を徹底して読む」「多元的古代の成立(上下巻)」「壬申(じんしん)大乱」の4冊です。
 

同氏の処女作「邪馬台国(やまたいこく)はなかった」(1971年朝日新聞社刊)は1970年前後にブームとなった邪馬台国論争において、九州説を主張した松本清張氏の「古代史疑」(1968年中央公論社刊)と宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」(1967年講談社刊)とともに注目されました。邪馬台国に当時から興味を持っていた私は後者の2冊を読みましたが、古田武彦氏の著作を読むのは今回が初めてなのです。
 

古田武彦氏の多数ある著作をどの順番で読むべきか迷いましたが、まず「倭人伝を徹底して読む」(2010年12月ミネルバ書房刊)を選びました。2-3世紀に日本列島のどこかにあったとされる邪馬台国の所在を読み解く展開を予想したのですが、読み進むと意外な内容に驚かされました。著者は邪馬台国が現在の大宰府(だざいふ)の地にあったことは自明であると考えたのか、本文中に邪馬台国の所在を解き明かすプロセスが何も書かれていないのです。
  ()著者は邪馬台国ではなく魏志倭人伝の原文通りに邪馬壹国(やまいちこく)と表記
 

古田氏は本のタイトル通りに魏志倭人伝(ぎしわじんでん)が含まれる三国志に加え、礼記(らいき)や漢書(かんじょ)など中国の国史を引用して、中国語における言葉の用法解説に本文のほぼ全てのページを割(さ)いて詳細に説明したのです。魏志倭人伝の読み方(解釈法)と倭国の存在を多くの傍証(ぼうしょう)を駆使(くし)して解説しました。そして、中国側から見た倭国像だけではなく、古事記と日本書紀の主要なエピソードである天孫降臨(対馬・壱岐から福岡県の高祖山連峰への侵入)・国ゆずり(大国主から天照大神への勢力移譲)とともに、出雲風土記・常陸風土記などの記録や出土品のタイプ別分布を参照しながら、古代日本(倭国)における勢力圏の移動(出雲→筑紫→大和)も紹介します。
 

読んでみて印象に残ったことを順不同で挙げると、(1)卑弥呼(ひみこ)の時代に倭国の範囲が北九州と朝鮮半島南部に及んでいたこと、(2)邪馬台国が識字国家であったこと、(3)距離の単位が魏王朝時代の短里(約75m)で表示されていることを解明したこと、(4)国名だけが記述された黒歯国と裸国が南米(エクアドル、ペルー、チリ北部)であると指摘したこと、(5)私が信奉する松本清張氏の倭人伝解釈(北九州の倭国と朝鮮半島側の倭国を別の国と考えたこと)を一刀両断したこと、(6)天孫降臨の地は南九州の高千穂峰ではなく筑紫の高祖山連邦(福岡市と糸島市の境界)であるとしたことなどです。
 

難解な固有名詞と地名があふれる長文を読み進む手助け(励み)となったのは、古墳や遺跡を訪ね歩くことが好きな私が訪れた場所が多数引用されたことです。つまり、ブログ「温泉大好き、ドライブも!」で紹介した、八ヶ岳周辺の古墳群(和田峠で採掘された黒曜石を含む)、山梨の古墳群、埼玉県行田市のさきたま古墳群(稲荷山古墳)、芝公園の古墳(東京)、名古屋の古墳群(鶴舞公園周辺熱田神宮周辺)、飛鳥の古墳(奈良県)、箸墓古墳(奈良県)、長岡京市の古墳群継体天皇陵(高槻市)、仁徳天皇陵(堺市)、五色塚古墳(神戸市)、高千穂峡などといくつかが重複しているのです。
 

最後に付録として、邪馬台国に関する研究論文を江戸時代の新井白石(あらいはくせき)から現代まで10数件を概観したことと、「日本の生きた歴史」として自説の一部を修正した経緯を平易に説明したことも理解の手助けになりました。
 

次は「多元的古代の成立(上下)」を読むことで、邪馬台国の所在地比定とともに701年まで九州に王朝が存在していたとする古田氏の九州王朝説を知りたいと思っています。

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