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2013年11月20日 (水)

古代日本への旅 壬申大乱

壬申大乱とは見慣れない言葉ですが、古代日本において皇位を巡って大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)およびその息子の高市皇子(たけちのみこ)が天智天皇の長男である大友皇子(近江朝廷)と国を二分して争った他に類をみない内乱です。壬申(みずのえさる)の年(672年)に起こったことから日本史では一般に壬申(じんしん)の乱と呼ばれます。
 
                          ☆
 
本題に入る前に古田武彦氏は著書「壬申大乱」の第一章まぼろしの吉野で日本書紀の持統紀の記述および万葉集の和歌(柿本人麿作)を多数引用してその舞台が大和の吉野ではなく吉野ヶ里遺跡など吉野の地名が多い北九州(肥前)であることを同氏一流の手法(この場合は従来説が抱える多くの矛盾点と肥前の地形との符合)を用いて指摘する。平易な言葉遣いは先述した2つの著作と異なって読み易いことは読者にとって有り難いことです。

第二章真実の白村江では大唐(いわゆる唐朝)と新羅(しらぎ)の連合軍に白村江(はくつきえ、はくそんこう)で百済(くだら)ともに敗れた九州王朝の本拠地(筑紫)に大唐の駐留軍が入ったことと近畿天皇家の立場を解説する。そして壬申の乱の勝利者である高市皇子を謳(うた)ったといわれる柿本人麿の長歌「城上(きのへ)の宮」がじつは白村江の海戦の半年前に行われた白村江の陸戦で倒れた九州王朝の明日香皇子(あすかのみこ)が対象であったという。

第三章壬申の乱の虚像で著者はいよいよ壬申の乱を詳細に記録する日本書紀の天武紀に切り込む。まず騎馬隊の行軍における記述の不合理性(旧陸軍騎兵隊の情報や古代馬の体格)を指摘した馬の専門家の著作「馬からみた壬申の乱」を引用して行軍工程に現実性がないことを指摘した。

第四章天武天皇の秘密では壬申の乱の当事者である天武天皇の歌に迫る。万葉集の『み吉野の耳我(みみが)の嶺に 時なくそ 雪は降りける~』における「み吉野の」と「耳我の嶺」が大和ではなく肥前の吉野(三根)であることを万葉集の歌を分析して導きだす。大海人皇子(天武天皇)が吉野に逃れたのはこの地に白村江の戦いのための発信基地(軍港)があったからだとし、これで天智天皇の娘であり天武天皇の皇后となった持統(じとう)天皇が在位中に31回も吉野を訪れたことが説明できるという。

次いで著者は上記の歌に続く『よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野~』の「よき人」が白村江の戦いに勝利した大唐(唐朝)の駐留軍総司令官郭務悰(かくむそう)であることを中国の古典における用語法から推測する。総司令官への呼びかけに成功した大海人皇子は近畿(近江、大和など)にいる仲間に知らせたのであろうという。壬申の乱が従来信じられてきたように近江と吉野と関ヶ原(岐阜県)で展開されたものではないことと、そのように記述された目的が西日本を中心に軍事的制圧体制を敷き続けてきた唐軍が無関係に見せようとしたことが根本の動機であったと指摘する。

第五章壬申の乱の真相では日本書紀における駅鈴(駅馬を利用するための鈴)問題、留守司(天皇が長期不在の時に置かれる役所)、「虎翼」問題(大海人皇子が吉野へ入った時に左右大臣と大納言が送ったフレーズ)などを追求する。駅鈴の数は筑紫の大宰府が他の関所に比べて突出して多いこと、日本書紀の中で壬申の乱において4回出てくる留守司が大和(飛鳥)ではなく大宰府にだけ置かれたことは九州王朝による白村江の戦いのためであること、虎のように強いものに更に翼を付けると制しにくくなること(転じて勢力家に権威を与えること)を解説する。

加えて大分君恵尺(おおきだのきみえさか)の存在を挙げる。大分に本拠を置く彼は白村江の戦に参加しなかったことで勢力を温存していたため壬申の乱で活躍したことが知られる。著者は彼が九州一円支配の実力を持っており、親唐勢力の筆頭であったとまでいう。大海人皇子は彼の協力を得た時、まさに虎が翼をうるための基盤ができたとみなす。

第六章<別論一>月西渡る-人麿作家の史料批判

古事記、日本書紀に万葉集の主役である柿本人麻呂が現れないことは九州から近畿への移転(転地)を示すものであると著者は指摘する。

第七章<別論二>筑紫の飛鳥

日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)が没した時に人麿が作ったとされる長歌を引用して、その作歌場所が九州の朝倉郡の周辺領域であるという。明治前期には飛鳥(ひちょう)と呼ばれた場所が現在は飛島(とびしま)に変わった背景を当代の政治権力がそれまでの地名表記を消し去ったと推測する。

第八章<別論三>みどりこの母の歌

人麿は明日香皇女についての3首の長短歌も分析する。

第九章<別論四>越(おち)を恋うる嬬の歌

万葉集でもっとも哀切な人麿作歌である泊瀬部皇女忍坂部皇子(はつせべのひめみこおさかべのみこ)についての短歌は安否が不明である明日香皇子の妻(嬬の命)のために作られたものであると指摘する。著者は明日香皇子が倭国軍を率いて唐と新羅と交戦し、敗戦後に捕虜となった筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)であるという。

終章

明治時代に入って重要視された万葉集には前書きと内容の矛盾という「妙な仕掛け」があったと著者は指摘する。そして著者は初期万葉集の編者が矛盾を承知で大和を舞台に移し替えたのは後代の読者が気づくことを期待したのであろうともいう。『74歳にしてはじめて万葉の編者の志を知った』の言葉で本文を締めくくった。
 
                           ☆
 
中世の親鸞(しんらん)研究で知られる古田武彦氏が著述された北九州が壬申の乱の舞台であったとする本書を興味深く読み終えました。先に紹介した「倭人伝を徹底して読む」と「多元的古代の成立」の良書と同様に万葉集の歌を多数引用して解釈することにより、日本書紀が九州王朝の歴史を盗用し、万葉集の編者が歌の舞台を北九州から大和に転地した、唐軍が北九州に駐留したとする同氏のあまりにも斬新すぎる考えを直ちには信じがたいと感じました。

壬申の乱は大海人皇子が大和の吉野から脱出したあと、皇子の領地があった美濃の豪族が関ヶ原(不破の関)を封鎖したことで東海道と東山道からも兵を集めることが可能になって、大和と近江の各地で大友皇子(近江朝)の軍を破り、近江の瀬田でそれを壊滅させたとする従来説を私は長年信じてきたからなのです。歌とそれが読まれた背景(詠み人と場所)を地理と符合させる努力は興味深いのですが、残念ながら恣意的(しいてき)な印象を与えることも否(いな)めません。

つまり、邪馬台国の場所を魏志倭人伝の記述から比定した同氏の切れ味が本書では活かされていないように思われたのです。吉野を出てからの大海人皇子の行程についての通説(大和・関ヶ原・近江)への批判が詳細である一方、本書では北九州説における行程が具体的に記述されていないことも私には不満でした。古田武彦氏の著作を読み進むことはここまでにして、次回は自らの足で古代日本を旅することにします。

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