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2014年2月

2014年2月26日 (水)

クロアチア料理店「ドブロ」でランチ

クロアチア旅行の記事をほぼ書き終えた2月16日(日曜日)、同居者を誘って都心へ出掛けました。日本でクロアチア料理を提供する唯一レストランがあることを偶然に知ったからです。地下鉄銀座線の京橋駅で下車、6番口を出てすぐの路地で左手に入りました。路傍(ろぼう)の残雪に気をつけながら飲食店が並ぶ道を70mほど歩くと、左手に派手な国旗が飾られた店がありました。
 
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クロアチア料理の店「Dobro(ドブロ)」です。
 
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入口を入った狭い通路の先に視界が広がりました。1階(実際は半地下)の「Konoba(コノバ)」と2階(中2階)の「レストラン ドブロ」がレイアウトされているのです。
 
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1階はカフェのようにカジュアルな雰囲気です。ちなみに、コノバはクロアチアでシーフード提供する居酒屋を指すそうです。
 
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店員に案内された2階の「レストラン ドブロ」は落ち着いた雰囲気に好感がもてます。
 
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同行者は大きな木彫りの馬が気に入ったようです。
 
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音楽を演奏しながら酒を飲む人たちのレリーフや絵画などが壁に掛けられています。
 
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料理を選ぶ前に私はクロアチアの赤ワイ「プラヴァツ(Plavac)」(グラス900円)を、同行者はウーロン茶(600円)を注文しました。黒ブドウ品種「プラヴァツ・マリ(Plavac mali)」で作られたこの赤ワインは色が濃いことからクロアチアでは黒ワインとも呼ばれ、生産地の中央・南部ダルマチア地域、ペリェシャツ半島のディンガチュ村で生産されるクロアチアを代表する赤ワインとのこと。やや辛(から)めの味に特徴がありました。私が土産に買ったワインの一つ「ペリェシャツ(Peljesac)」と同品種のブドウが使われているようです。

ホリディランチメニューには「クロアチアセット」(1800円)と「シュトゥルクリセット」(2500円)の2種類がありますが、後者は私たちにとってヘビーすぎると考えて前者を選びました。いずれのセットメニューも、「サルマ」(3週間塩漬したクロアチアのロールキャベツ)、「魚介のプーザラ」(グリルした魚介)、「パスティツァーダ」(とろとろ牛ほほ肉の赤ワイン煮込み)、「ステーキ」の4種類から1品を選ぶことができます。私はこの店で一番人気と言われて心積もりしていた「パスティツァーダ」を、同行者は「魚介のプーザラ」を注文しました。

「本日の前菜」が配膳されました。皿に美しくレイアウトされたタコとポテト、舌平目(したびらめ)と帆立(ほたて)のパテ、ブロッコリーのムースはいずれもさっぱりした味付けで食欲を増進させてくれました。
 
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「魚介のブーザラ」は調理したホウボウ、エビ、ムール貝にクロアチア赤ワイン、ガーリック、トマトのソースが添えてあります。同行者は『おいしい』と言いながら食べています。
   
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私が選んだ「パスティツァーダ」は思った以上に柔らかく煮込まれていてナイフを使う必要がないほどトロトロで、濃厚なソースと一体になっていました。そして、添えられたクリームペンネはマイルドなクリームで味付けされたペンネ・リガーテ(ショート・パスタ)が心地よい歯ざわりを感じさせます。自家製パンも素朴な味とシットリ感が気に入りました。
 
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デザートはカシスのババロア、欧州風ケーキ、フルーツ(オレンジ)が上品にレイアウトされています。コーヒー(または紅茶)が選べます。
 
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ワインなどの飲み物を頼んだことで、2人分の料金はちょうど5000円(サービス料7%を含む)でした。同行者は唐突に、『あなたがよく出掛ける飲み会(実態は各国の料理巡り)で食べた外国料理のうちで何番目に美味しい?』 と私を詰問(きつもん)するのです。私は慌(あわ)てずに、『もちろん、これが一番だよ』と即答しました。(くわばら、くわばら!)
 

「ドブロ」のディナーメニューについては「竹輪会」(飲み会)の関連ブログ記事を参照してください。
 

<同後者のコメント> クロアチアで食べた料理よりもおいしく感じました。日本人の味覚に合わせて味付けされているのかもしれません。ランチとしてはちょっと贅沢ですが、たまには良いと思いますよ。

2014年2月24日 (月)

珠玉のクロアチア旅行(その19) 帰国フライト(後編)

アリタリア航空AZ-782便は定刻の午前11時15分にターミナル3を離れました。
 
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エプロンから誘導路を走行(タクシング)して主滑走路へ向います。
 
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主滑走路の端にいったん停止したあと、エンジンをフルスロットルにして加速しました。心地よい加速度がシートの背もたれに上体を押し付けます。
 
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機首を持ち上げたと思う間もなく、国際線用ターミナルビルが眼下に・・。
 
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さらに高度を上げた機体の窓からレオナルド・ダ・ビンチ国際空港が見渡せました。
 
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雲が近づきます。
 
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海岸線の上空に出ました。
 
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レオナルド・ダ・ビンチ国際空港が雲間に隠れてゆきます。
 
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雲上に出ました。
 
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離陸して約30分後にはかなり下方に雲海が広がりました。
 
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離陸して3時間あまりが経過すると後方から夕日が機体を朱色に染め始めました。
 
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そして、主翼の先端に航空灯の一種である翼端灯(衝突防止用)が点灯していることが確認できます。
 
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あっと言う間に機外が暗くなりましたので、私は機内映画を何本も梯子(はしご)して楽しみました。日本映画「藁の盾(わらのたて)」に始まって、The lone ranger"(ローン・レンジャー)、The intership(インターシップ)、そして「フォーミュラー1 マレーシア」などです。

ローマを発って映画三昧の時間が10時間ほど経過すると、地平線がわずかに明るくなってきました。経過時間から考えて、シベリア東部の上空を飛行しているのでしょう。
 
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さらに20分後には日の出が近づきました。
 
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そして、雲間から朝日が
 
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ひたち海浜公園の上空を通過。海に突き出ているのは日立那珂火力発電所と茨城港です。
 
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成田空港(新東京国際空港)に無事到着しました。
 
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ターミナルビルから見たアリタリア航空AZ-782便の機体正面
 
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予定より45分ほど早い午前6時45分に成田空港に到着しました。11月3日(日曜日)の早朝であり、他に到着客が少なくスムーズの入国審査を受け、往きと同じルート(もちろん逆方向)で午前10時ころに帰宅できました。写真は私がクロアチアで購入した主な土産物です。(同後者が求めた土産は非公開)
 
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私は土産物のなかでも、この
素朴なコーヒー・マグが一番気に入りました。
 
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<同行者のコメント> クロアチアは期待通りにすてきな国でした。どこを訪れても穏やかな雰囲気があって、つい最近まで戦争をしていたとは思えません。今度は汽車の旅か、大型客船に乗ってクルージングしたくなりました。それにしても、この旅行記事は長すぎましたよ。

2014年2月23日 (日)

珠玉のクロアチア旅行(その19) 帰国フライト(前編)

アリタリア航空のAZ782便は定刻の午前11時15分に出発する予定であることがボードに表示されています。3時間近くの乗り継ぎ時間がありますから、ターミナル内のショップを巡ってウインドウショッピングすることにしました。
 
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まずは、日本からローマに到着した時に見かけて気になっていたフェラーリ・ショップを覗(のぞ)いてみました。
 
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寿司バーの
OSAKA SUSHIはハンバーガー・ショップの雰囲気ですが、正面のパネル写真にある巻き寿司はカリフォルニア・ロールではなく日本風に海苔(のり)が外側に出ています。右側のパネルには握り寿司と天ムスもあるようです。
 
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ウインドウショッピングをしたあとは広い通路を歩きました。
 
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日本向け国際便が出発するターミナル3へ向う乗り物に乗車します。
 
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ターミナル3に到着
 
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先ほど乗車した乗り物の軌道
 
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ターミナルビルの建設が続いています。
 
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これが東京行きのアリタリア航空機(AZ782便)の機体は成田から乗ったものと同機種のBEING777 EI ISD(B777-200ER)のようです。
 
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別の角度からも撮影
 
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(続く)

2014年2月22日 (土)

珠玉のクロアチア旅行(その18) オパティアからローマへ(後編)

搭乗するローマ行きの飛行機はすでにタラップに横付けされていました。
 
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ローマからトリエステまで乗った小型旅客機 EMBRAER E175ではなく、ヨーロッパの国際共同会社であるAIRBUSS(エアバス)社(本社はフランスのトゥールーズ)が製造した小型旅客機A-319は、機体の長さ33.8m、翼幅34.1m、高さ11.8mで、巡航速度は850km/hです。機体(緑色と白色の境)から横方向へ突起しているのはピトー管(pitot tube)と思われます。航空機では速度計に使用されるセンサーです。
 
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-319のエンジンは国際合弁会社インターナショナル・エアロ・エンジンズ製のV2500のようです。同社はプラット&ホイットニー(米)、ロールス・ロイス(英)、日本航空機エンジン協会(一般財団法人)、MTUアエロエンジンズ(独)の航空機エンジン製造会社4社で構成される合弁会社。ちなみに、A-319のエンジンにはアメリカのGE・アビエーションとフランスのスネクマの合弁事業であるCFMインターナショナル (CFM International)製のCFM56-5も採用されているようです。
 
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コンパクトな機内の座席数は138
 
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定刻の午前7時10分に離陸したA-319機は雲上に出ました。主翼の下から顔を出しているタンクのようなものは、燃料タンクではなく、主翼の後部にあるフラップを円滑に動かすための駆動ガイドの役割を担っています。フラップが一番引っ込んだ状態(巡航時)に見ることができるもので、英語で Flap track fairingと呼ばれるようです。fairingは流線型構造、あるいは鞘(さや)を意味する言葉です。
 
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そして、主翼の先端付近から朝日が顔を出しました。
 
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眼下には厚い雲海が広がっています。
 
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主翼の先端に何本も取り付けられた管状のものは機体に帯電した静電気を空中に逃がすための放電索でしょう。飛行機には地上の構造物のように避雷針はありませんが、高圧電流に弱い電子機器や燃料(ケロシン)などを守るために、外部からは確認できませんが、落雷時に発生する電気を流れ易くする(逃がす)構造が主翼や胴体に組み込まれているそうです。
 
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フラップが少しだけ持ち上がって主翼の揚力(ようりょく)を調整しているのでしょう。
 
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雲の下に出て高度が下がったようです。地上が見え始めました。
 
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そして、フラップが後方へ伸び始めました。
 
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レオナルド・ダ・ビンチ国際空港の敷地内に入ったようです。
 
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いよいよ着陸(ランディング)
 
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フラップの前半分が持ち上がって機体を減速させています。
 
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車輪のブレーキでも減速
 
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ターミナルから離れた場所に駐機しましたので、バスでターミナルまで移動するようです。
 
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主翼の下にある Flap track fairingがよく確認できます。
 
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バスから見たA-319機の機首部
 
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同じく斜め前方から見た全景
 
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(続く)

2014年2月21日 (金)

珠玉のクロアチア旅行(その18) オパティアからローマへ(前編)

バスターミナルでバスを下車。右手の坂道を上がると高台にHotel Opatiaホテル・オパティアがありました。
 
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ホテルの自室で一息入れた午後5時半頃、ホテルから海岸通(プロムナード)へ下りました。散策しながら夕食を摂(と)る場所を探すためです。まだ午後5時半だというのに、すっかり暗くなっており、街灯の明かりを頼りにして繁華街のある左手方向へとプロムナードを歩きました。
 
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歩道に埋め込まれたプレートにある名前Zeljko Reinerで思い浮かぶことガありません。調べるとクロアチアの元厚生福祉大臣でした。ザグレブの出身の医師で、ZNANSTVENIK KONONISTはクロアチア語で専門的な科学者を意味するようです。他に冬季オリンピック(2002年と2006年)で4度も金メダルを獲得した女子アルペンスキー選手のJanica Kostelic“のものもありました。
 
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5つ星のHotel Milenij(ホテル・ミレニィ)に併設されたカフェ・ワーグナーは寒さのせいでテラス席が空いていますが、屋内の席は客であふれています。
 
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その入口脇に顔が描かれた大きなカボチャが飾られています。ちょうどこの日(11月1日)はハロウィンの翌日(金曜日)でした。古代ケルト人(ガリア人とも呼ばれる)が秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的なる行事でしたが、現代では宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。ちなみに、ケルト人はローマ人やゲルマン人に追われてイギリスやアイルランドにも移住したことで、ケルト語が英語(スコットランド語・ウェールズ語)やアイルランド語のベースになったと考えられるそうです。これは英会話の先生から教えられた知識です。
 
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ピッツアやパスタなどカジュアルなイタリア料理を出す店には若者達の待ち行列が外までできていますが、週末の夜であるにもかかわらず閉まっている店が目立ちます。同行者は探していたものを売る店が閉まっていたため落胆気味に・・。
 
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海側に“VONGOLA RESTAURANT & BARという看板を見つけました。
 
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明るい店内には客の姿が疎(まば)らです。
 
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私は赤ワイン、同行者はオレンジジュースを注文。ちなみに、NARANCA(ナランチャ)はクロアチア語でオレンジを意味します。
 
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プリトヴィッツェ湖群国立公園内を歩いて疲れたのか食欲が湧(わ)きませんので、喉(のど)を潤(うるお)しただけで外に出ました。左手の先に「乙女とカモメの像」があるはずですが、暗闇に包まれているために見えません。ホテル近くに戻ってコンビニのような小さな店でサンドイッチとスナック菓子を少しだけ購入。しかし、小腹が空いた私は午後8時過ぎにホテル内のレストランでパスタを注文していました。
 
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5時間ぐらい仮眠した午前2時半、起床して身支度を整えました。
   
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午前3時になりましたので部屋を出ます。
 
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午前3時半にホテルを出発。乗車したバスは往路と逆ルートを順調に走り、2時間後の午前5時半にイタリアのトリエステ空港に到着しました。チェックイン時に計量された旅行カバンの重量は2人分で33.8kgであり、重量制限の46kg(1人当たり23kg)に十分余裕があります。
 
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朝食はパンが1個だけです。
 
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ハムとチーズのサンドイッチでした。
 
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CARIBBIAN PRINCESS(カリビアン・プリンセス号)はプリンセス・クルーズが運航しているクルーズ客船です。2004年にイタリア・フィンカンティエリ社のモンファルコーネ工場で竣工し、フロリダのフォートローダーデールで命名式が行われ、カリブ海クルーズに就航したそうです。客室は全部で1055室あり、そのうちの817室が海側に面しているとのこと。同型が4番船まで存在するようです。
 
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午前6時45分ころに搭乗が始まりました。
 
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(続く)

2014年2月20日 (木)

珠玉のクロアチア旅行(その17) プリトヴィッツェからオパティアへ(後編)

相変わらずの景色が続きました。
 
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パーキングエリアを通過
 
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そして、立ち木が生茂るエリアに入ります。
 
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さらに30分ほど走行した場所にあるパーキングエリアで食事休憩です。バイキング料理が提供されていました。
 
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山の端(は)に太陽が沈みます。
 
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料金所が遠くに見えて来ました。高速道路A6との分岐点(ジャンクション)が近いのかもしれません。
 
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夕日に輝(かがや)く雲と飛行機雲が交差するようです。
 
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西方へ向う高速道路A6の脇に石塀に囲まれた奇妙な柱を見かけました。
 
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高速道路A7に入ると見覚えのある海岸線に出て、オパティアに近いことが分かります。
 
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オパティアの市街地が確認できます。
 
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スーパーマーケット「コンズム」の真っ赤な看板にはラウンドアバウト(日本語では環状交差点あるいはロータリー)があることを示しています。
 
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ヨットハーバーに多数のヨットが係留されています。
 
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初日に宿泊したホテル・アガバとそれが隣接する広大なアンジョリーナ公園の前を通過すると、海岸に面したImperial Hotel(インペリアル・ホテル)の前に出ました。右手前方にバスターミナルがあるようです。
 
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(続く)

2014年2月19日 (水)

珠玉のクロアチア旅行(その17) プリトヴィッツェからオパティアへ(前編)

国道1号を約10km南下したRudanovac(ルダノヴァツ)という小さな町にあるレストランVila Velevita(ヴィラ・ヴェレヴィタ)に立ち寄りました。
 
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大きな駐車場があるヴィラ・ヴェレヴィタは団体客がよく利用するクロアチア料理店で、宿泊施設も併設されているようです。ちなみに、クロアチア語でSOBEは「部屋」、ZIMMERは「身体障害・高齢者対応」を意味します。
 
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店内はクロアチアの国旗を連想させる赤いチェック柄のテーブルクロスとカーテンが印象的です。
 
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ポタージュ・スープはテーブル毎に配膳され、各自が好きなだけスープ皿に取り分けました。
 
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キノコが入っています。私は燃料補給(ビールの大瓶、18クーナ、約300円)を忘れません。Karlovac(カルロヴァツ)はビールで知られるクロアチアの都市(首都ザグレブの南西約50km)の名前です。日本で言えばサッポロビールのようなものかもしれません。同行者はここでもオレンジジュース(14クーナ、約200円)を。
 
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次いで配膳されたのはメイン料理の鱒(ます)とポテトの盛り合わせです。
 
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デザートはBaklava(バクラヴァ)と呼ばれる中東やバルカン半島で人気のある甘いケーキを期待しましたが、どう見ても砂糖をたっぷりまぶした丸いドーナツでした。
 
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レストランを出発してすぐの交差点で国道52号に反(そ)れて西方へ向います。
 
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車窓から見たクロアチア内陸部のカルスト地形(石灰岩が水で溶食されて出来た地形)の写真をいく枚か紹介します。
 
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小さな集落があっという間に過ぎ去りました。牧場を営む農家のようです。
 
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高速道路A1に入ると工場のような建物も
 
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長閑な丘陵地帯と田園地帯が入り混じった風景が続きます。
 
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(続く)

2014年2月17日 (月)

救缶鳥

今日(2月17日)から「平成25年分の所得税の確定申告書」の受付が始まりましたので、朝一番に家を出て、路傍(ろぼう)の残雪に注意しながら、最寄りの税務署へと車を走らせました。いつもは駐車場に入るために車列を作って待たなければいけませんが、午前9時に到着した時には並ぶ車はなく、すぐ駐車場へ車を停めることができたのは幸運でした。そして、署内の申告受付にはすでに人の行列ができていたものの、約20分後には確定申告書を受領してもらえたことも。

例年、私は申告書を手書きで作成しています。国税庁のhpにある申告書の作成コーナーを利用しても良いのですが、アナログ人間である私は電卓を駆使(くし)しながら手計算で作成するのが性(しょう)に合っているのです。ましてや、電子証明書を取得し、かつ専用のICカードリーダライタ(約3000円)を購入する必要がある国税電子申告・納税システム(e-Tax)は敬遠しています。今年も還付金が期待できそうで、お嬢吉三(じょうきちざ)ではありませんが、『こいっあ春から縁起が良いわい!』の心境(しんきょう)です。

しかし、「好事魔多し」の諺(ことわざ)通りに、午後からは自動車ディーラーへ出掛けなければならないのです。某社製ハイブリッド車のリコール通知が先週末にわが家に届いたからです。早速、電話で予約を申し込みました。雪が融けるのを待って今日の午後を選びました。今週末には遠出を予定していますから、その前に修理(ハイブリッドシステムの制御ソフトを修正)してもらえば安心して出掛けられます。前口上(まえこうじょう)が長くなってしまいました。本題に入ります。

                             ☆

2月14日のお昼前、わが家に大きなダンボール箱が宅急便(ヤマト運輸)で送られてきました。箱の表面には奇妙な「救缶鳥」(きゅうかんちょう)の文字が大きく表示されています。8日前(2月6日)の午後9:54から放送されたテレビ東京の人気番組「カンブリア宮殿」を見て同居者が興味を持ったものです。他(ほか)ごとをしていたため番組の終盤しか観られなかった私に向かって同居者が、「世界に貢献できるパンの缶詰だって!防災にも役立つのよ!」と捲(まく)し立てました。さっそくネット検索で見つけたサイトにアクセスして「救缶鳥」なるパンの缶詰を申込みました。賞味期間は3年と十分長いのですが、15缶のセットが12,000円と決して安くはないのです。しかも、パンそのものが美味しいのかどうかも分かりません。しかし、防災対策にうるさい同居者の言うことに逆らうことができない私は、高い買い物にならないことを願いながら、試しにと1セットだけ申し込みました。

ダンボール箱を開けると、「オレンジ」「レーズン」「いちご」と表示された3種類の缶詰(直径約10cm、高さ約12cm)が計15缶入っていました。1缶の中味は200gで菓子パンの約3個分、通常の缶パン(保存パン)の2個分のボリュームがあるようです。
 
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同居者はさっそく「レーズン」の缶を開けました。プルトップ付きですから缶切りは不要です。しかも、「ダブルセイフティ」タイプが採用されていますから安全な構造です。
 
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試食した同居者は、「焼きたてのように柔らかくて美味しい」と満足しています。「防腐剤も入っていないんだって」と付け加えるのは、まるで救缶鳥のセールスマンになったようです。
 
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私もお裾分(すそわ)けに預かりました。しっとりした食感は非常食とは思えず、十分満足できるもので、ほんのりした甘味があり食べやすくする配慮がなされています。
 
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通常の非常食とは違い、2年が経過して使用しなかった場合は無償で回収してくれる仕組みがあります。つまり、2年後には世界の飢餓を救う義援物資として活用されるのです。しかも、次回の購入価格から1缶当たり100円がディスカウントされるそうです。ちなみに、「救缶鳥」を販売している株式会社パン・アキモトは昭和22年に創業したJR那須塩原駅の近くの「焼き立てパン屋」で、パンの缶詰のみのメーカーではないとのこと。そして、この「救缶鳥」は同社による国際義援事業の一環ですが、わが家のように個人客だけではなく、今や「救缶鳥」は全国の企業・自治体など約300の団体が備蓄しているそうです。

同社のhpによれば、インドネシアのスマトラ島沖で大地震が発生した時に同社が現地の知人から売れ残りのパンの缶詰を送ってほしいと頼まれたことがきっかけとなって考え付いたのが賞味期限前に回収する「救缶鳥」プロジェクトだったそうです。新しい救缶鳥を届けた帰りに缶詰を回収することで輸送コストを抑えることができるメリットもあるようです。つまり、ウイン・ウインの関係が成立するビジネスモデルなのです。

このプロジェクトに興味を持った方は参加されることをお勧めします。なお、価格(12,000円)に抵抗がある方は、例えば3人による共同購入(5缶ずつ)、あるいはやや割高ですが「カンブリア宮殿」の放映を記念した5缶セット(4980円)、のいずれかを選択できます。

2014年2月16日 (日)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(下巻)を読むⅣ

昭和35年3月、東西冷戦の最中に国岡商店はソ連の原油を購入する契約を結んで日本の石油業界を驚かせ、36年には千葉県の姉崎海岸に東洋最大の製油所の建設を計画、自社用である13万トンのスーパー・タンカーを佐世保重工に発注、徳山に一大石油化学コンビナートを計画した。そして11月に創業50周年の式典をおこなったときには、いずれの計画も実現に向かって進み始めた。

しかし、その直後、鐵造のもとに、日田重太郎の病が重いという知らせが届いた。病名は癌(がん)で、余命はひと月ということだ。鐵造が見舞った翌日に日田は静かに息を引き取る。87歳であった。昭和37年2月、鐵造は日田の望みを叶(かな)えて、その故郷淡路島で盛大な社葬をあげて日田を見送った。鐵造は日田を失った後、あきらかに何かが変わった。常に全身に纏(まと)っていた闘争心のようなものが消えたのだ。

同じころ、石油業法が成立した。石油業界を統制することが目的であった。鐵造は悪法であると反対を表明したが、他の石油会社はこれに賛意を示した。しかし、鐵造はこの法律に対して徹底抗戦せず、あっさりと矛(ほこ)をおさめた。10月、国岡商店が満を持して建造した世界最大のスーパー・タンカーが完成して日章丸と名付けられた。三代目である。

昭和38年の暮れ、日本を異常寒波が襲い灯油や重油が不足する事態が起こる。石油連盟だけでなく通産省も生産調整を国岡商店に求めたため、鐵造は石油連盟を脱退。11月の末、通産大臣が鐵造に会見を求めてきたが鐵造は一歩も譲らないため、昭和39年の1月初旬、通産省の石油審議会会長が斡旋案を携(たずさ)えて国岡本社を訪ねたが、鐵造は石油政策の問題を解決するものではないとこれを受け入れない。政府はついに鐵造の主張を受け入れることを決めた。

この年の10月、世界初の高速鉄道「新幹線」が開通し、東京オリンピックが開催された。そのころ、産業界を揺るがす大事件が起こった。昭和40年11月、全日本海員組合が賃金引き上げを要求して、大規模なストライキをおこなったのだ。石油業界はたちまち原油不足に陥り、石油製品が底をつきはじめた。国岡酒店は原油を大量に持っていたので石油連盟の非難を無視して鐵造は大増産を指示した。

2カ月以上続いた海員ストが終わると、鐵造はフル生産の停止を命じた。通産大臣になった三木武夫は石油の生産調整を撤廃すると発表した。三木の勧めで鐵造は石油連盟に復帰する。石油自由化の始まりを告げる日であった。昭和41年9月、鐵造は国岡商店の本社を日比谷の国際ビルに移した。新社屋移転にともない、鐵造は念願であった国岡美術館をその9階のフロアーに開館する。彼が長年にわたって蒐集(しゅうしゅう)した膨大な美術品や骨董(こっとう)を展示したものである。

新社屋に移転した翌日、鐵造は正明に社長を、東雲に副社長をやれと命じた。そして、社長を退いた鐵造は会長となる。この年の秋、21万トンという破天荒な巨大タンカー国岡丸が完成した。鐵造はその竣工式に皇室、政財界、官公庁からのべ3万人を招待したほか、全国の中学校から生徒約1万5千人を招待した。未来に対して大きな夢を持ってもらいたいとの鐵造の発案だった。

昭和48年10月、第4次中東戦争が起こった。恒例行事のようにおこなわれていたアラブ諸国とイスラエルの戦争だったが、このときは先進諸国を震撼(しんかん)させる事態に発展した。石油輸出機構(OPEC)加盟のペルシャ湾岸の6カ国が原油価格を12月までに1バレル3.01ドルから11.65ドルへと引き上げることを宣言したのだ。わずか2カ月あまりで一挙に4倍近く跳ね上がった原油の高騰(こうとう)は日本経済を根底から揺(ゆ)さぶった。いわゆる「石油ショック」である。

鐵造の予言通り、石油ショックの嵐は昭和49年の春ごろから鎮静(ちんせい)に向かった。しかし、日本経済は戦後はじめてのマイナス成長になり、ここについに日本の高度経済成長は終焉(しゅうえん)を迎えた。

終章

昭和49年5月、フランスを代表する文化人のアンドレ・マルローがモナリザの日本初公開のため、フランス政府特派大使として来日した際に、望んで鐵造と対談したことが紹介される。昭和51年、鐵造は91歳になった。この年の6月、国岡商店は国岡丸から数えて9隻目にあたるマンモス・タンカーを完成させた。25万4000トンの巨大なタンカーに鐵造は日田丸と名付けた。

昭和54年2月、イランで革命が起こった。亡命中のイスラム教指導者ルーホッラー・ホメイニ師を精神的支柱とするイランの民衆が蜂起(ほうき)したのだ。国家元首のパーレビ国王はアメリカに亡命し、イラン革命政府は外油コンソーシアムを追放。鐵造は国家にしても会社にしても永遠に続くものは何もないと思った。しかし、いつの日か国岡商店が消えても、その精神は消えることはないとも鐵造は思う。

昭和56年3月6日午後、鐵造は突然激しい腹痛に襲(おそ)われた。主治医の診断は腸閉塞(ちょうへいそく)だったが、高齢のため手術は危険であった。応急処置を施したことで鐵造は翌朝、小康(しょうこう)状態を取り戻した。しかし、数時間後、鐵造の様態が急変、午前11時25分、国岡鐵造は95年の英雄的な生涯を静かに終えた。

                          ☆

期待通りに面白い小説でした。時代背景とエピソードを巧(たく)みに織り交ぜて国岡鐵造(出光佐三がモデル)の劇的な生涯を平易な文体で描いたのはさすが百田尚樹氏です。一読をお勧めしたい良書の一つと言えると思います。本書とは直接関係しませんが、百田氏が昨年11月にNHKの経営委員になられてからの同氏の言動には失望させられました。好きな作家であっただけに誠に残念です。

2014年2月15日 (土)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(下巻)を読むⅢ

第四章    玄冬(昭和28年~昭和49年)

日章丸がアバダンで3度目の積荷を終え、日本に向けて航海をしていた8月半ば、イランに衝撃的な事件が起きた。クーデターでモサデク政権が崩壊したのだ。これを演出したのはアメリカのCIAだった。イランの石油国営化が国際的に認められることに焦ったイギリスが秘密裏にアメリカと交渉したのだ。アメリカの目的は石油利権である。モサデク政権打倒に失敗してイタリアに亡命中だったパーレビ国王はイランに戻り、イランは再び王政となった。

イラン国営石油会社との契約が継続されるかを確認するため鐵造は弟の正明と常務の武知をテヘランに派遣。二人は同社の社長から現契約の継続と履行の約束を取りつけるとともに、新首相からも国岡商店を支持することは将来とも変わらないとの言葉をもらった。さらに二人は新首相から吉田首相宛にイランと日本の親善を求める手紙を託された。そして二人が羽田空港に到着した10月27日、新首相は形式上続いていた日本との戦争状態の終結を発表する。

しかし鐵造の疑念通りにアメリカは国際コンソーシアム(出資者連合)を作ってイラン政府と交渉に入った。前首相のいないイラン政府はもはやコンソーシアムに対抗する術(すべ)も力も持っておらず、要求をほぼ認めた形で協定書に調印した。イラン国営石油が自由に処分できる原油量は全生産量の12.5%に限られ、しかもガソリンや軽油はイラン国内の消費分以外は認められなかった。もしそれらを海外へ輸出したい時はコンソーシアムから製品を購入し、転売するという形を取らねばならないのだ。

イラン国営石油会社はこれまでの値引き価格を全面的に破棄(はき)すると通告してきた。そしてイギリスの石油会社は東京での仮処分訴訟を取り下げた。国岡商店と争う意味がなくなったからだ。イラン国営石油会社は国岡商店に一方的な契約解除と価格通告を行った。鐵造はふたたび正明と武知をテヘランへ送ったがもはや同社は何もできない状況に追い込まれていた。

国岡商店とイラン国営石油会社との蜜月(みつげつ)時代はわずか1年半で終わりを告げたが、日章丸は会社の存続さえ危ぶまれていた国岡商店を救っただけでなく、今や押しも押されもせぬ業界第3位の大企業に成長させた。しかし鐵造はこれに安住してはならぬと、製油所の建設を急がねばならないと思った。イラン国営石油会社がメジャーたちに乗っ取られた今、他の原産国から直接原油を仕入れ、それを精製して石油製品にして販売しなければならない。

鐵造は徳山の海軍燃料廠(しょう、工場)跡地の払い下げに陳情書を大蔵大臣に出すとともに、政府の関係者にも働きかけて、国岡商店への払い下げが決定する。製油所の巨大な建設費への融資に国内の銀行はことごとく断ってきたため、昭和30年10月、鐵造はアメリカに飛んだ。かつて国岡商店に400万ドルの巨額融資をしてくれたバンク・オブ・アメリカに融資を頼むためだ。鐵造が面会した副社長はサンフランシスコ港に入稿した日章丸と同行した武知のことをよく覚えていた。

鐵造の経営理念と勇気を認めた副社長は国岡商店の資本金2億円の18倍もの融資額(1000万ドル)を即決してくれた。しかも、返済期間は7年、年利4.5%という破格な好条件だった。次に鐵造はピッツバーグを訪れた。セブンシスターズ(大手石油会社)の一つであるガルフとの取引でクウェートの原油を輸入することを考えたのだ。アジアに進出していなかったガルフは国岡商店とのビジネスは大歓迎だった。鐵造はシカゴにも飛んだ。アメリカ一の石油精製技術の開発専門会社を訪れて、精製工場の建設を依頼しその場で仮契約を結んだ。

昭和31年3月、世界最先端の技術と国内最大規模を持つ精油所の起工式が行われた。建設費の見積もりはなんと110億円という途方もないものだった。鐵造は10カ月で完成させると公言し、少なくとも2年から2年半はかかると主張する建設本部長の東雲や請負業者たちの反対に耳を貸さない。東雲が率先して働く姿に現場の空気が徐々に変わり、奇跡的に工期が短縮され、工事は驚異的なスピードで進んでいた。アメリカの会社の全面的な協力もあり、昭和32年3月、ついに10カ月で製油所が完成する。

2カ月後、盛大な竣工式が行われた日の朝、鐵造は突然、正明を副社長に任命した。そして竣工式の貴賓席には国岡商店の礎(いしずえ)を築いた日田重太郎が座っていた。このとき、81歳だった。鐵造は製油所の工事を行っている昭和31年8月、ガルフからクウェートの原油を輸入するという10年契約と同時に、10万トン級の超大型タンカーを2隻チャーターする契約を成立させていた。徳山製油所が稼働した昭和32年、国岡商店の石油販売シェアは12.2%に伸び、業界2位に躍り出た。

海が浅い徳山港に接岸できない超大型タンカーから製油所に原油を運ぶ方法を検討するように指示された重森資材課長は、様々な方法を鐵造に提案するものの却下されてしまうが、やっと海底パイプを利用するシー・バース方式たどり着く。鐵造の承認を得た重森は工事を開始するが、海が荒れ始めたことで施設に失敗する。損害保険の請求に訪れた東京海上火災の本社では重森の誠実な説明を了承して特別の計(はか)らいをしてくれたことで、日本初のシー・バースは、昭和33年1月に完成した。

翌月、国岡商店がチャーターした巨大タンカー(8万5564トン)がクウェートから原油9万7000キロリットルを積んで徳山港のシー・バースに着桟した。この年の7月から岩戸景気と呼ばれる好景気を迎え、日本の経済史上最長の42カ月も続いた。同じ年の10月には世界最高の東京タワーが竣工(しゅんこう)した。シェアを伸ばし続けた国岡商店は昭和35年に15.0%に拡大して長年業界1位だった日邦石油に肉薄した。鐵造は10万トン級のタンカー2隻の建設をアメリカの造船会社に依頼し、昭和35年までに進水させた。同年、鐵造はl8年を経て旧型になった日章丸を北洋水産に売却した。(続く)

2014年2月14日 (金)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(下巻)を読むⅡ

外油を含む13社の包囲網はじわじわと国岡商店を追い詰めて、石油配給率も徐々に落ち始め、7%を切るまでになった。加えて、日本の経済はデフレの嵐が吹き荒れ、不況に見舞われていたとき、大事件が勃発(ぼっぱつ)した。朝鮮戦争が始まったのだ。この朝鮮戦争が日本経済を蘇(よみがえ)らせた。アメリカ軍が日本の業者からさまざまな物資を直接、購入する特需によって立ち直る。

鐵造にも朗報が舞い込んだ。鐵造の主張を支持した資源庁と運輸省海運局が経済安定本部長官にあてて、タンカーを追加する旨の要望書を出してくれたのだ。鐵造は御用納めの日に経済安定本部の金融局に財政金融局長を訪ねた。2時間待たされた末、国岡商店がタンカーを持つ意義を鐵造がわずか5分間説明しただけで会談は終わった。翌月運輸省内で開かれた聴聞会は紛糾(ふんきゅう)したが、運輸大臣が国岡商店に決めること決断した。金融局長から大臣への働きかけがあったのだ。

昭和26年3月に相生(あいおい)市の播磨(はりま)造船所で起工式が行われた。1万8774トンという日本最大、世界でも有数の巨大タンカーである。そして、4月に製油所のジョイント・ユース制廃止がついに決定した。ここで国岡商店の危機を救ったのは泥沼化した朝鮮戦争である。深刻な重油不足が生じたためGHQが民間貿易による重油の輸入を許可し、輸入用の外貨を元売り会社に割り当てるように政府に指示したことで、国岡商店も割当を受けることが決まったのだ。

しかし、海外の石油取引の実情に関しての情報を与えられていなかった日本の石油会社が2カ月足らずで100万ドルを超える取引をするのは至難であった。鐵造は石油顧問団が仕組んだ策略であることを承知でアメリカから高額な重油を購入することを決断する。建造中のタンカーはまだ進水式を終えておらず、高額の外国船のタンカーを雇(やと)って重油を運んだ。

昭和26年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されて正式に日本の戦争が終結した。日本の完全なる主権が承認され、独立がようやく実現したのだ。同じ月、建造中のタンカーの進水式がおこなわれ、3ヶ月後の年末には戦争で失ったタンカーと同じ日章丸と名付けられた巨大タンカーが完成し、アメリカから日本へ大量の重油と軽油を運び始めた。国岡商店が申請したガソリンの輸入もサンフランシスコ講和条約が発効した4月以降は認められて、安価で良質なガソリンも日章丸が運ぶことになった。

メジャー(外油)の圧力によりアメリカでの購入が困難になり始めた頃、イランから石油を買い付ける商談がアメリカのコンサルタント会社から国岡商店に持ちかけられた。イギリスの国営企業がイランに持つ石油会社をイラン政府が国有化したことで、イギリスがイランの経済封鎖を行っているため、ビジネスの好機であるという。慎重な鐵造はその話を断る。

しかし、国際司法裁判所がイランに有利な判断を示したことで事態は進展する。アメリカ政府もイランの石油国有化を認める方針であるとの情報を得た鐵造は決断した。昭和27年8月、国岡商店とコンサルタント会社との間に契約が結ばれた。9月にはイランのテヘランで契約交渉が始まったが、イギリスの横暴で疑心暗鬼になっていた首相をはじめ、イラン政府側との交渉は難航する。

3カ月にわたった粘り強い交渉で国岡商店は合意にこぎつけた。しかし、タンカーを借りる契約をしていた飯野海運からそのチャーターを断ってきた。何らかの圧力があったのだ。鐵造は日章丸をイランへ派遣することを決断する。日章丸の乗組員の安全、戦争船舶保険の契約、石油代金(ドル)の確保など、様々な困難を克服(こくふく)した鐵造は3月23日午前9時過ぎに神戸港で日章丸を見送った。

4月5日正午、日章丸がセイロン(現在のスリランカ)のコロンボ沖にさしかかったとき、国岡本社から無電が入り、イランのアバダンへ行くように指示があり、ただちに日章丸の全乗組員にその旨が伝えられた。日章丸はインドの鼻先を抜けると、アラビア海に向けて北上した。9日の昼過ぎ、日章丸はチグリス川とユーフラテス川が合流したシャット・アル・アラブ河の河口に着く。アバダンはこの河口から45海里(約83km)遡(さかのぼ)ったとことにある。

川底を深く掘った長さ4海里(約7km)のチャネル(人工の水路)を水先案内人の誘導に従って無事通過した日章丸はアバダン港に到着、19番ジェティ(桟橋、さんばし)に横付けした。日章丸の乗組員はイラン国営石油会社と一般市民から熱烈な歓迎を受ける。4月10日、午後零時50分だった。鐵造は外務省に赴(おもむ)いてその旨を報告したあと、国岡館で記者会見を開いた。

4月15日、午前6時すぎ、日章丸はチャネルの水深30フィートに合わせてガソリンと軽油を積み込んでアバダン港を出港した。チャネルを慎重に通過する日章丸は座礁(ざしょう)しそうになるが新田船長の決断で事なきを得て、午後3時、河口に到着、河口を出ればペルシャ湾である。イギリス軍を警戒しながら航行する日章丸は往路に通過したマラッカ海峡ではなく、2日以上は余分に時間がかかるスマトラ島とジャワ島の間にあるスンダ海峡へと迂回(うかい)した。イギリス軍の裏をかくためだ。

海峡を抜けたジャワ海は全体に水深が浅いだけでなく、暗礁(あんしょう)や珊瑚礁(さんごしょう)がいたるところにあって、座礁あるいは沈没さえありうるのだ。29日の朝、日章丸はスマトラ島とボルネオ島の間のガスパル海峡を抜け、ついに30日、南シナ海に出た。そして、イラン石油の所有権を主張するイギリスの石油会社アングロ・イラニアンが申請した日章丸の石油仮処分の口頭弁論が東京地裁で始まった。

2週間後の5月14日、日章丸は再びイランを目指して神戸港を出港した。そして東京地裁は仮処分申請を却下する判決を言い渡した。正式な国交さえなかった2つの国を石油という太いパイプで結び、半世紀以上にわたって世界を支配してきた国際石油カルテルの一角を見事に突き崩したのは日章丸という一艘(いっそう)のタンカーだった。しかし、世界を震撼(しんかん)させる事件がテヘランで起こった。(続く)

2014年2月13日 (木)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(下巻)を読むⅠ

第三章    白秋(昭和22年~昭和28年)

昭和22年11月、戦争が終わって2年後、国岡商店はついに石油販売業務を再開し、生死不明だった末弟の正明が満州から帰国した。昭和23年(1948)3月、鐵造の夢を打ち砕くような出来事が起こる。アメリカ陸軍が派遣したストライク対日賠償使節団が「日本の製油所施設はスクラップすべき」とする報告書を発表したのだ。これには日本の石油産業を破壊してしまおうという意図が込められていた。

しかし、2カ月後の5月、同じ米陸軍が派遣したジョンストン調査団は「日本の復興に必要な工場は存続させるべき。製油所の撤去は必要ない」と180度異なる内容の報告書を発表した。その背景には世界情勢が影響していた。ドイツと朝鮮半島における米ソの意見対立である。これが日本の工業と石油産業を救うことになる。

8月に外油のカルテックス(スタンダード・オイルとテキサコの合弁会社)の日本支社が国岡商店に提携話を持ち込んできた。「石油輸入はいずれ自由化され、石油配給公団もまもなく解散になる」との情報をもたらしたことで鐵造は提携に乗り気になるが、その条件が株式の譲渡と役員の派遣であることを鐵造が知ったことで交渉は決裂した。

しかし、その交渉時の情報通りにカルテックスは長年国岡商店の親会社であった日邦石油と提携し、株式の50%を取得した。そして9月、GHQは石油輸入基地の民営移管と石油配給公団の早期解散の方針を示し、翌年4月から民間の石油元売会社が石油製品の輸入および販売をおこなうようにとの指示を出す。ついに石油の自由化が目前に迫ったのだ。

GHQが示した元売会社の第一条件は輸入基地施設を有することだった。2年近く必死で石油タンクを入手しようとして叶(かな)わなかったことを残された3カ月あまりで成就できるとは思えず、鐵造は絶望的な気持ちになる。『不可能だ』という鐵造の言葉に驚いた東雲は、『店主がそんな弱気なことを言えば、長谷川さんに怒られますよ』というと、鐵造は『よく言った、東雲君。死に物狂いでタンクを手に入れよう』と応じた。

東雲たちはタンクの情報を求めて東奔(ほん)西走したが、どこにも余剰タンクなどない。しかし運命は国岡商店を見捨てなかった。国有財産として接収されていた旧三井物産の貯油施設が三井系の企業に売却されるとの新聞記事を東雲が見つけたのだ。鐵造が特持会社整理委員会に対して抗議すると、多くの新聞が記事にしたため、タンク群(全国14カ所、57基)は公開入札されることに決まる。

入札の不公正なルールにも抗議して是正させたものの、落札するには4000万円が必要であった。国岡商店にはその金がないどころか、戦後のさまざまな事業の失敗で借金は2000万円にも膨(ふく)れ上がっていた。間の悪いことに、大蔵省が金融引き締め策を取っている最中で、新規の銀行から融資を受けることはまず無理と考えられたが、不意に鐵造の脳裏(のうり)に東京銀行に行ってみようという思いが浮かぶ。

2800万円の融資を鐵造が旧知の大田営業部長に申し込むと、大田はこれ以上融資できないと答えたが、担当の大江常務に会うことを勧めた。融資額を問われた鐵造が腹をくくって4000万円というと、大江は『よろしいでしょう』と思いがけない返事をする。2年前に佐世保の旧海軍のタンク底で働く国岡商店の若者たちの姿を見て強い衝撃を受けており、融資をしようとその場で決めたのだ。

入札に参加した鐵造は念のためGHQを訪れて不正がおこなわれないようにして欲しいと申し入れた。これが効いたようで国岡商店は施設一括と個別の両方とも落札してしまう。その資金繰りに頭を悩ませていた鐵造のもとに整理委員会から一部を降りてくれないかという申し出がある。GHQの他の部門(石油顧問団)から横槍が入ったのだ。もともとすべてを落札するつもりのなかった鐵造は整理委員会と相談して九州を中心とする西日本のタンク14基(38,000トン分)を昭和23年の暮れに入手する。

GHQの指示で公団解散委員会に参加した外油3社が出してきた身勝手な元売会社の資格要件は20代の若さで商工省石油課長に就(つ)いたばかりの人見孝の反対で事なきを得た。さらに石油協会も直販を行う国岡商店を指定から外させようとしたが、3月終わりに国岡商店を含む9社(外油3社を含む)が指定された。その翌日、鐵造は日邦石油から30年来の特約店契約を解除する通告書を受け取る。

昭和24年3月31日、石油配給公団が解散になって9社の元売会社は翌日から活動を始めたが、そのスタートラインは平等ではなかった。外油3社の比率が73%、日本6社が27%の割当なのだ。元売会社となって全国で本格的な石油販売に乗り出した国岡商店の販売力は他の石油会社を大きく引き離し、販売実績によって毎月修正される配給比率は3カ月後に当初の5.46%から7%近くまで高まる。

焦(あせ)った外油は日本の石油会社との統合を急ぎ、わずか1年あまりで日本の石油会社はほぼ乗っ取られる形となった。さらに外油は石顧問団を使ってGHQに国内の石油施設を共同使用するジョイント・ユース制の廃止方針を出させた。そのうえ外油の息がかかった石油顧問団の意見を受け入れたGHQは原油の輸入枠(わく)を広げ、石油製品の輸入量を減らした。製油所を持たない国岡商店にとっては非常に痛いものであり、鐵造は製油所と石油タンク建設の用地を太平洋岸に探すと同時に、タンカーに活路を求めた。(続く)

2014年2月11日 (火)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅷ

ガロヴァツ滝を過ぎたのは午前12時少し前でした。ガロヴァツ湖ではなく乗船所(P2)方面へ向かうようです。
 
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木道にしたがって左手へ下りてゆきます。
 
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湖の対岸に先ほど歩いた遊歩道が間近に見えます。
 
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丘の中腹に見えるのは宿泊したホテル「イェゼロ」のようです。
 
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いつのまにかGRANDINSKO JEZERO(グラディンスコ湖)に差し掛かっていました。
 
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この当りを遊覧船で通過した記憶があります。
 
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湖畔の遊歩道を離れて落ち葉が積もる脇道へ入りました。
 
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吊り橋かと思うような木道に合流するようです。
 
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JEZERO BURGET(ブルゲ湖)は海抜553m、水深5mです。
 
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乗船場(P2)が近づいたようです。
 
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木製の階段で湖畔に下ります。
 
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乗船場(P1)との間を結ぶ遊覧船の乗船場(P2)に出ました。
 
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遊覧船がまもなく到着します。
 
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ここにも小魚の群れが
 
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船着場(P2)からきれいに舗装された遊歩道を歩きました。
 
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階段を上がります。
 
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3時間半ほど園内を散策したあと、公園のゲート(ST2)を出てホテル「イェゼロ」まで歩きました。そこで、しばらく休憩(きゅうけい)です。ドゥブロヴニク旧市街と並ぶハイライトの地であるプリトヴィッツェ湖群国立公園を十分堪能(たんのう)したことで、今回のクロアチア旅行もいよいよ終盤に差し掛かります。馴染(なじ)みとなったバスに乗って次の目的地へ向いました。前日はすっかり暗くなった午後7時過ぎの到着でしたから、同国立公園周辺(国道1号沿い)の景色を見るのは初めてです。
 
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小さな集落を通過して国道1号を南下しました。
 
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ここで6回目の小休止を入れます。(続く)

2014年2月10日 (月)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅶ

木道は緩(ゆる)やかな階段状になって右手へ続きます。
 
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水中から顔を覗(のぞ)かせた切り株に生えた水草と苔(こけ)が植物の強い生命力を感じさせます。
 
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GALOVAC JEZERO"(ガロヴァツ湖)から流れ落ちるガロヴァツ滝です。
 
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この場所も尾瀬沼に似た雰囲気を感じさせます。
 
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前方にまた滝が見えて来ました。
 
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男性的な岩肌を流れ落ちる滝です。
 
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滝壺(たきつぼ)の様子
 
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MALI PRSTAVAC(マリ・プルシュタヴツィ滝)の落差は18mです。ちなみに、MALIはクロアチア語で「小さい」を意味します。先ほど通過したVERIKI PRSTAVAC(ヴェリキ・プルシュタヴツィ滝)の小型版ということなのでしょう。
 
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斜め横から見たマリ・プルシュタヴツィ滝はさらに迫力を増しました。
 
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その左側で流れ落ちる滝をズームアップ
 
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もっと先にもまだ滝が続いていました。
 
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小魚が泳ぐ滝壺の水底にコインが多数あるのが見えます。ローマにある「トレビの泉」をイメージしているのかも知れません。
 
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きれいな湖がこれでもかと続きます。
 
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水中に落ちた木の枝が石灰化しはじめています。
 
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GALOVACKI BUK(ガロヴァツ滝)の落差は18mです。公園内で3番目に大きな面積を持つガロヴァツ湖の石灰堰堤(せっかいえんてい)に姿を表す滝です。ちなみに、BUK(ブク)とSLAP(スラップ)はいずれも滝を意味します。気になって2つの違いを調べましたが確認できませんでした。
 
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PROF. DR. IVO PEVALEK(イヴォ・ペヴァレク教授・博士)の業績を称(たた)えるめいいたレリーフが岩肌にありました。同教授はプリトビチェ湖群の著名な研究者で、1920年代からこの湖群の不思議な現象である石灰堰堤を守るために活動した人です。
 
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ガロヴァツ滝は静岡県富士宮市にある白糸(しらいと)の滝に似ています。
 
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石灰華滝のコロセウムと呼ばれる小さな湖にも水草が枯れ木を利用して生長しています。
 
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木道がS字を描いて湖を抜けてゆきます。
 
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(続く)

2014年2月 9日 (日)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅵ

桟橋(さんばし)から急な木製階段が上方へ続いています。案内標識にはボートの他にバス乗り場があることが表示されています。公園に沿って走るバスは4つある公園の入口(ST1-4)を結んでいるようです。ちなみに、ST3とST4は上湖群のさらに上流にあります。
 
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一旦なだらかになった木道は再び上り坂(階段)になるようです。
 
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階段の先に滝が見えました。
 
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木製の階段が木橋に変わると、
 
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そこには青色から緑色へのグラデーションが美しい小さな湖がありました。
 
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実際は意外に大きな湖のようで、JEZERO GRANDINSKO(グラディンスコ湖)かもしれません。
 
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湖沿いに木道が続くと思ったのですが、何ということか急な階段が待ち構えていました。
 
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その理由はすぐ先に滝があったのです。
 
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振り返ると通過したばかりの木道と湖が見下ろせました。
 
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ズームアップすると後続グループの姿が見えます。
 
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木道は浅瀬に差し掛かりました。
 
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こちらがJEZERO GRANDINSKO(グラディンスコ湖)でした。海抜554m、水深10mと表示されています。
 
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木の間に大きな滝が見えますので、少しズームアップして撮影しました。。ヴェリキ・プルシュタヴツィ滝のようです。大きな岩山から大量な水が流れ落ちる様は迫力があります。
 
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すぐ横には滝とは好対照な、こんな穏(おだ)やかな風景もありました。
 
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グラディンスコ湖も穏やかです。
 
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案内標識に乗船所(P2)と表示されていますから、周回して先ほど下船した場所へ戻るようです。
 
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最近整備されたと思われるやや新しい木道です。
 
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透き通った水を通して見える緑色の水草がきれいです。
 
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VERIKI PRSTAVACヴェリキ・プルシュタヴツィ滝)の落差は28mでした。水しぶきが木道まで飛んできます。ちなみに、"VERIKI"はクロアチア語で「大きい」を意味します。
 
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ここがヴェリキ・プルシュタヴツィ滝のほぼ正面のようです。
 
1141 

(続く)

2014年2月 8日 (土)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅴ

階段を降りるとコジャク湖の船着場があるようです。
 
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木の間隠れに対岸へ向う船が見えます。
 
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宿木(やどりぎ)かと思いましたが、幹全体を覆(おお)っていますから、蔦(つた)のようです。
 
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船着場の標識には距離の表示がありませんが、
 
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すぐ先に売店と休憩所などがありました。その横の広場は夏にキャンプ場として使えそうに広々としています。
 
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船着場の入口
 
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歩き疲れたのか同行者はTWISTER(竜巻、渦巻き)と言う名のアイス・キャンディを購入しました。ALGIDAはイタリアで人気があるアイスクリーム製造会社のようです。
 
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日差しが強くなったようで同行者はフリースを脱いでいます。
 
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プリトヴィツ国立公園で使われているボート(遊覧船)の名前です。定員は100名。ちなみに、クロアチア語の“SEDRAは英語のtufa、つまり日本語では「多孔質の石灰石」を意味するようです。
 
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周囲の風景
 
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コジャク湖の上流にある船着場が見えて来ました。ここは早朝にホテルから散歩で出掛けた公園の入り口(ST2)に近い場所にあると思われます。
 
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大勢の乗客が下船しました、上空の青空に飛行機雲が・・。
 
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乗船したままの我われを乗せた遊覧船は次の船着場へ向いました。
 
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最終目的地は北岸のようです。
 
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小さな入り江に入るようです。
 
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小さな桟橋(さんばし)がありました。
 
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(続く)

2014年2月 7日 (金)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅳ

"SLAPOVI MILKA TERNINA"(ミルカ・トルニナ滝)と表示されています。"SLAPOVI"はクロアチア語で滝を意味します。
 
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そして、その先に美しい滝がありました。
 
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"MILKA TERNINA 1863-1941"(ミルカ・トルニナ)はクロアチア出身の有名なオペラ歌手(ソプラノ)で、欧米のオペラハウスにおいて活躍した女性でしたが、1906年に突然発症した顔面麻痺(まひ)のため引退を余儀なくされました。しばらくは声楽教師をしていましたが、後にクロアチアへ戻ったそうです。この滝は美しい声を持つ彼女の名前を採って付けられたとのこと。
 
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"JEZERO MILANOVAC"(ミラノヴァツ湖)に出ました。海抜524m(523mとも)、水深18m、長さ500mです。
 
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対岸の白い石灰石の岩肌が湖面に美しい
 
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細長いミラノヴァツ湖に沿って遊歩道が続きます。
 
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湖の色が濃紺に変わりました。
 
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対岸に美しく3筋に別れた滝が
 
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ミラノヴァツ湖はまだ続きます。
 
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前方にあるダムから幾筋(いくすじ)もの滝が流れ落ちています。ミラノヴァツ湖の上流端に辿(たど)り着いたようです。
 
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湖畔にある石碑に、"Akademic Gustav Janecek 30.XI..1848-08.IX.1929"の文字がありました。後で調べると、"Gustav Janecek"(グスタフ・ジャネツェック)はチェコ出身のクロアチア・ザグレブ大学教授(薬学)で、1893年に"Plitvickh Jezera"(プリトヴィッツェ湖)の保護団体を設立し、その湖畔にホテルも建設した人物でした。そして、前述のオペラ歌手"MILKA TERNINA"(ミルカ・トルニナ)もこの湖群の保護と遊歩道の整備に資金を提供したことを知りました。
 
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遊歩道は上り坂に差し掛かりました。
 
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見事な滝がいくつも現れました。手前の滝が流れる様は日光の龍頭の滝に少し似ています。
 
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落差が10mある“MIRANOVICKI SLAP(ミラノヴィツェ滝)でした。SLAP“も滝を意味します。
 
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ここにもシクラメンの原種が・・
 
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再び木道区間に入ると次の湖が見えて来ました。先方に乗船場があるようです。
 
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上湖群の最下流に位置するJEZERO KOJAK(コジャク湖)でしょう。尾瀬沼に雰囲気が似ているように感じました。
 
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コジャク湖から流れ出る小川を渡った木道は対岸へ向います。
 
1093 

(続く)

2014年2月 6日 (木)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅲ

岩壁に行き当たった場所にあるT字路を右手へ進みます。
 
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足元には幾筋もの小さな滝が流れ落ちています。
 
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プリトヴィッツェ滝が近づきました。
 
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その滝壺から流れ出る水が小さな連滝となっています。
 
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プリトヴィッツェ滝の目の前にでました。
 
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大滝を背景に同行者とのツーショットを親切な方が撮影してくれました。
 
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木道をT字路まで戻り、さらに先へと進みます。
 
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木道に沿って水が流れ落ちています。
 
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ここにも魚影が見られます。
 
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先ほど通過したジグザクに折れ曲がった下り坂とダム上に造られた木道も水面に映(は)えています。
 
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鴨(かも)も人を警戒する素振りを見せません。左はカルガモで、右はマガモのようです。
 
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ガヴァノヴァッツ湖の鏡のような水面に対岸の景色が映(うつ)って綺麗です。
 
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小さな滝に近づきすぎたようでカメラのレンズに水滴が・・。
 
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いたるところで清水が流れ落ちています。
 
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木道はさらに先へと続いています。
 
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"JEZERO GAVANOVAC"(ガヴァノヴァッツ湖)は海抜514m、水深は10mです。
 
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湖を横切るも駆動から見た小さなダム(堰堤、えんてい)
 
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ガヴァノヴァッツ湖の上流端が見えてきました。
 
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木道は対岸の道に変わりました。
 
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そして小さな滝が
 
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(続く)

2014年2月 5日 (水)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅱ

可憐(かれん)な花を見つけました。シクラメンの原種とのこと。
 
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コジャック湖東端の乗船場(P3)方面へ向うようです。
 
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プリトヴィッツェ滝のほぼ真正面に出ました。
 
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左手の滝も真下に見えます。
 
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対岸の崖のような場所に伸びる木道が間近に見えます。
 
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左手に少しだけ見えたのは上湖群(Upper Lakes)最下流にある大きなコジャック湖のようで、ずっと先まで続いているようです。
 
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ジグザグに折れ曲がった遊歩道が下方へと続くようです。
 
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湖水がエメラルド色に美しく輝(かがや)いています。
 
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いよいよ木道区間に入ります。小さな子供も両親と一緒に景色を楽しんでいるようです。
 
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下湖群(Lower Lakes)が始まるミラノヴァツ湖のすぐ下流にあるカルジェロヴァツ湖(JEZERO KALUDEROVAC)は海抜が508mで、水深は12mと表示されています。ちなみに、Jezeroはクロアチア語で湖を意味します。
 
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水深によって湖水の色が美しいグラデーションを作り出しています。右端で草が生茂っている場所は石灰華(せっかいか)でできた堰堤(えんてい、ダム)です。石灰華とは水中の化学成分と岩石が有機変化を起こし、炭酸塩となって固まり、沈殿したものです。
 
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木道はそのダムの上に対岸まで伸びています。
 
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対岸の遊歩道を歩く人たちの姿が静かな湖面に写っています。
 
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木道脇の水草
 
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対岸のT字路に出ました。右手の大滝(BIG WATERFALL)方面へ行くようです。
 
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最も下流に位置するノヴァコヴィチャ・ブロッド湖(JEZERO NOVAKOVICA BROD)は海抜504mで、水深4.5mです。
 
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小さな滝から清水が絶え間なくノヴァコヴィチャ・ブロッド湖に流れ込んでいます。
 
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その浅瀬に群れをなす小魚
 
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(続く)

2014年2月 4日 (火)

珠玉のクロアチア旅行(その16) プリトヴィッツェ湖群国立公園Ⅰ

翌朝は午前6時に起床しました。窓の外はまだ薄暗く、山の中にいることだけが分かります。
 
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ベランダに置かれた椅子(いす)とテーブル
 
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ロビーだけに明かりが灯(とも)る午前6時半過ぎに朝の散歩に出てみました。
 
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山小屋風のホテル「イエゼロ」は思ったよりも規模が大きいようです。
 
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ホテルへのアプローチ付近(駐車場の先)に明かり取りを兼ねた半地下の中庭が造られていました。
 
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勘(かん)ピューター(カンナビ)にしたがって湖があると思われる裏手を目指して遊歩道を歩きました。
 
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遊歩道を3-4分歩いたところにプリトヴィッツェ湖群(Plitvicka Jezera)国立公園のゲート(ST2)がありました。早朝のため受付には人影はありません。
 
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近くにある大きな案内地図で確認すると現在地(緑色で表示)は公園(案内地図)のほぼ中央にあるコジャク湖に面しているホテル街のようです。ゲート(ST2)を入ると乗船場(赤い印のP1とP2)も間近のようです。
 
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朝食が始まる午前7時に合わせてホテルへ戻ってカフェテリアへ向いました。毎朝、食べすぎているようですから、この日は皿に載(の)せる量を控(ひか)えめにしました。
 
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自室へ戻ると青空が広がっていることで、公園内の散策に期待が大きく膨(ふく)らみます。
   
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午前9時にホテルを出発したバスが数分後に到着したのは早朝に見たものとは別の入口でした。
 
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コジャク湖(JEZERO KOZJAK)へ向うようです。
 
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ハイキングコース(Hiking Trail)があることが説明されています。
 
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早朝に見た入口(ST2)よりずっと規模が大きいゲート(ST1)がありました。世界で最も美しいと言われる滝を持つプリトヴィッツェ湖群国立公園は1979年にUNESCOの世界自然遺産に指定(2000年に拡張指定)されました。
 
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公園内にある16の湖は約150mの標高(海抜)差があると説明されています。現在地(ST1)に近いミラノヴァツ湖(海抜523m、K印の上)の左手が一番大きな湖であるコジャック湖です。
 
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入口を入って遊歩道を歩くと見晴台に出ました。中央奥に見えるのはクロアチア最大のプリトヴィッツェ滝です。公園で最大のみどころであるこの滝は高さが78mもあるそうです。手前に細長く伸びるのがカルジェロヴァツ湖湖で、それを横切る遊歩道が少しだけ見えます。
 
1015 

プリトヴィッツェ滝を拡大
 
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左手にある滝
 
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滝壺からミラノヴァツ湖へ水が流れ出ています。
 
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ズームアップすると木製の遊歩道(橋)もはっきり確認できます。
 
1020 

(続く)

2014年2月 2日 (日)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(上巻)を読むⅢ

大手銀行が次々と取り付け騒ぎで休業するなか、大蔵大臣となった高橋是清(これきよ)が果敢(かかん)な処置を断行したことでようやく事態が沈静化した。しかし昭和4年の秋、アメリカ・ニューヨークのウォール街で起こった株式の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌(きょうこう)が日本にも大打撃を与えた。そして国岡商店は台湾と朝鮮から撤退せざるをえなくなる。昭和6年には南満州鉄道の線路が爆発される柳条湖(りゅうじょうこ)事件を契機に関東軍が軍事行動を起こして満州全土を制圧する満州事変が勃発(ぼっぱつ)。翌7年、政府の政策に不満を持った海軍の青年将校たちが五・一五事件を起こし、犬飼毅(いぬかいつよし)首相を暗殺した。

関東軍が主導して建国した満州国が国際連盟で独立国として認められず、日本はこれを不服として翌8年に国際連盟を脱退することになる。昭和11年には政府に不満を持った陸軍の青年将校たちが首相官邸や大臣官邸などを襲撃する二・二六事件が起こり、石油聯合(れんごう)株式会社(通称石聯)が政府の肝(きも)いりで設立された。加盟する大手石油会社が扱う全石油製品の販売と統制を行う会社だが、国岡商店は入っていなかった。翌12年に鐵造は人に推(お)されて貴族院議員になる。

昭和12年7月、中国軍と日本軍の軍事衝突「盧溝橋(ろこうきょう)事件」が起こり、両国は中国全土で戦闘状態に入った。装備に勝る日本軍はわずか3カ月で上海戦線を突破し、12月には首都の南京を占領して、北京で傀儡(かいらい)政権の中華民国臨時政府を樹立した。昭和13年に入ると、中国との戦いはますます深みに入り、もはや事変ではなく全面戦争といった様相を呈(てい)していた。

その年の4月には国家総動員法が成立したが、それには言論を制限しうる内容が含まれていた。すべての国力を中国との戦いに注ぎこもうとした日本は2年後に開催が決まっていた東京オリンピックを返上し、昭和14年には満州北方でソ連との戦闘が起こる。世に言うノモンハン事件である。その最中、アメリカは日本の中国侵略に抗議するとして日米通称航海条約の破棄(はき)を通告してきた。

鐵造は大きなリスクを承知の上で上海に油槽所(石油備蓄タンク群)を竣工(しゅんこう)させ、アメリカの小さな石油会社から購入した灯油と揮発油(ガソリン)を入れたが、東京の海軍航空本部からその油槽所を借り受けたいという申し出があった。国岡商店の幹部たちは憤慨(ふんがい)するが、鐵造は『ぼくは軍に貸そうと思っている。日本は非常時だ。このタンクが日本のためになるなら、むしろ喜んで提供しようじゃないか』と。鐵造は石油流通の統制が強化された国内の営業所を縮小し、満州と中国に株式会社を設立して主力を海外に移すことにした。海外の支店と出張所は50を超え、店員の数も600名近くになっていたのだ。

昭和15年の秋、鐵造は中国に渡っていくつもの支店と出張所を回った時に海軍の江藤大佐とばったり出会った。海軍にタンクを貸すにあたっての交渉の席で何度か顔を合わせた相手である。江藤大佐の案内で上海の海軍航空基地を訪れた鐵造は新型戦闘機が直陸するのを見た。江藤大佐は零式艦上戦闘機(通称零戦)と呼ばれていると説明した。その零戦から降りてきた若い航空兵に鐵造は思わず頭を下げた。海軍式の敬礼をしたその航空兵の胸の名札に宮部と書いてあるのが見えた。(注、「永遠の0(ゼロ)」の主人公をここで登場させたのは筆者の遊び心である)

アメリカを仮想敵とした日本は北部仏印(ベトナム)から南部仏印へと進駐したことで、アメリカが日本への石油輸出をすべて禁止した。そして日本は大東亜戦争(太平洋戦争)へと突入する。鐵造は陸軍や海軍からの協力要請に国岡商店の利益を無視して国の役に立つことであるとして、南方に300名以上の店員を派遣したり、虎の子の石油輸送船日章丸を提供したりしたのである。にもかかわらず日本軍は昭和17年から18年にかけて行われたガダルカナル島をめぐる戦いに敗れて以後、昭和19年にはサイパン島がアメリカ軍に占領されて日本のほぼ全土がアメリカの長距離爆撃機B29の攻撃圏内に入った。

そしてアメリカ軍は比島(フィリピン)に侵攻した。海軍は自爆攻撃を行う特攻隊を投入したが、その奮闘もむなしくアメリカ軍は比島に上陸した。昭和20年になると、空襲はさらに激しさをまして、3月9日に東京下町に大規模な空襲を行い約10万人、被災者100万人を超える悲惨(ひさん)な被害をもたらした。さらにアメリカ軍の空襲は全国の主要都市を焼け野原にした。そして8月、原子爆弾が広島、次いで長崎に落とされ、同月15日、ついに日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)した。このとき、日本の備蓄石油はほぼゼロに等しく、これ以上戦う力はどこにもなかった。

2014年2月 1日 (土)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(上巻)を読むⅡ

第二章 青春(明治18年~昭和20年)

鐵造は福岡県宗像(むなかた)郡赤間村(現在の宗像市赤間)で染め物業を営む裕福な徳三郎の子供として生まれた。小学校では学業・行状とも「乙」(おつ)、体格は虚弱と評価されただけではなく、幼いころから神経症を患(わずら)っていた。高等小学校(現在の中学校)を卒業した翌年、福岡に新設された商業学校へ進学しようとするが、父親の反対で受験さえできなかった。これで闘争心に火がついた鐵造は翌年父に内緒で商業学校を受験した。

合格通知と入学許可書が家に届いたとき、父は呆(あき)れたが、今度はもう反対しなかった。福岡商業に入った鐵造は学業にいそしむとともに父が福岡市に持つ福岡営業所を手伝った。そして自らの病弱な体と心を鍛(きた)えるために短艇(たんてい)部に入部し、弁論部にも所属した。勉強のほうも疎(おろそ)かにしなかったことで1年から4年まで学年で3番以内の成績を残し、自信に満ちた少年になっていた。

福岡商業を卒業した鐵造は商業の最高学府である東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進みたいと思っていたが、入試科目は旧制中学の履修(りしゅう)科目に従っていたため、実業学校からの進学は難しかった。ところが鐵造が3年生のときに日本で2番目の高商として設立された神戸高商(現在の神戸大学)は入試科目を出身学校の履修科目から選択できたことで、鐵造は4倍の競争率をくぐりぬけ、晴れて神戸高商の学生となった。

鐵造は日田重太郎という資産家と知り合いになり知遇(ちぐう)を得てその息子の家庭教師となる。新興商社鈴木商店の採用通知が遅れたことから鐵造は周囲の反対を振り切って零細な酒井商会で丁稚(でっち)として働き始めた。そして酒井商会の売上を何倍もの規模にした鐵造は2年あまりで酒井商会の重役になり、さらに常務として店を切り盛りするようになったが、学生時代からの夢を実現するため独立したいとの思いが募(つの)っている自分に気づく。

そんな折、日田から誘われた鐵造は近況を日田に話すと、鐵造の思いを見抜いた日田は独立資金6000円を京都の家を売って提供しようという。その時の鐵造の月給は20円であったから、年収の20年分に相当する金額であった。その時に実家が没落(ぼつらく)していたこともあり、鐵造は熟慮した末、日田の申し出を受けることにする。酒井商会を円満退社した鐵造は明治44年に九州の門司で国岡商店を旗揚げした。25歳だった。

新規参入業者である国岡商店は4年目を迎える春に資金が底をついた。日田に廃業せざるを得なくなったことを詫(わ)びる鐵造に日田は、『神戸の家を売れば7000円くらいの金を都合できる。どうしてもあかなんだら一緒に乞食(こじき)をやろうや』と力強く言った。鐵造はもう一度商売を徹底的に考え直した。そして目をつけたのは灯油を使う小型漁船「ポンポン船」に税金が掛からない軽油を売り込むことであった。中古の漁船の「焼き玉エンジン」を購入して軽油が使えることを確認して販売する上でのいくつかの困難を克服した国岡商店は7割近くのシェアを獲得する。九州各地を手始めに四国にも支店を作って瀬戸内海にも進出、西日本の海を暴れまわったことで国岡商店の名は「海賊」の異名とともに沿岸に轟(とどろ)いた。

満州に捲土重来(けんどじゅうらい、一度失敗したことへの再挑戦)を期した鐵造は南満州鉄道株式会社(通称満鉄)へ車軸油(潤滑油)を売り込むことを目論(もくろ)むが、前身である東清鉄道の時代から車軸油を独占するアメリカのスタンダード石油など外油(欧米の石油会社)の牙城(がじょう)を突き崩すことができない。それでも寒冷地へ路線を延長する満鉄に不可欠であると考えた鐵造は凍結しにくい車軸油の配合実験を繰り返して最適なものにしたことが奏効(そうこう、効果が現れる)して売り込みに成功する。

大正12年9月1日に関東一円を巨大地震が襲(おそ)った。関東大震災である。多くの銀行が手持ちの資金を確保するために債権の回収に取りかかった。鐵造のもとにも第一銀行門司支店が融資した金額25万円を半年以内に返済するようにと通告してきた。全借入金のちょうど半分の金額である。その噂を聞きつけた高利貸しが全額融資する話を持ちかけてきた。50名の店員の生活を優先した結果、鐵造は借りることにして日田に報告する。しかし、日田に一喝(いっかつ)された鐵造は店を清算することを決めて、残り半分を融資してくれている二十三銀行門司支店長に精算までの猶予(ゆうよ)を頼んだ。

前支店長の時代から鐵造を見込んで大金を融資してきた二十三銀行門司支店の現支店長が同行の頭取に掛け合ってくれた。鐵造に自宅で会った頭取は行内の重役たちの反対にも関わらず追加の融資を決断した。危機を脱した国岡商店は再び攻勢に出て、満州に基盤を築くとともに朝鮮と台湾にも進出し、国岡商店の店員の数も100名を超えた。昭和に入っても日本経済は金融不況から一向に回復できず、大商社であった鈴木商店が破産するという大事件が起こった。鐵造が神戸高商の卒業時に一度は入ろうとした会社である。(続く)

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