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2014年2月16日 (日)

百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」(下巻)を読むⅣ

昭和35年3月、東西冷戦の最中に国岡商店はソ連の原油を購入する契約を結んで日本の石油業界を驚かせ、36年には千葉県の姉崎海岸に東洋最大の製油所の建設を計画、自社用である13万トンのスーパー・タンカーを佐世保重工に発注、徳山に一大石油化学コンビナートを計画した。そして11月に創業50周年の式典をおこなったときには、いずれの計画も実現に向かって進み始めた。

しかし、その直後、鐵造のもとに、日田重太郎の病が重いという知らせが届いた。病名は癌(がん)で、余命はひと月ということだ。鐵造が見舞った翌日に日田は静かに息を引き取る。87歳であった。昭和37年2月、鐵造は日田の望みを叶(かな)えて、その故郷淡路島で盛大な社葬をあげて日田を見送った。鐵造は日田を失った後、あきらかに何かが変わった。常に全身に纏(まと)っていた闘争心のようなものが消えたのだ。

同じころ、石油業法が成立した。石油業界を統制することが目的であった。鐵造は悪法であると反対を表明したが、他の石油会社はこれに賛意を示した。しかし、鐵造はこの法律に対して徹底抗戦せず、あっさりと矛(ほこ)をおさめた。10月、国岡商店が満を持して建造した世界最大のスーパー・タンカーが完成して日章丸と名付けられた。三代目である。

昭和38年の暮れ、日本を異常寒波が襲い灯油や重油が不足する事態が起こる。石油連盟だけでなく通産省も生産調整を国岡商店に求めたため、鐵造は石油連盟を脱退。11月の末、通産大臣が鐵造に会見を求めてきたが鐵造は一歩も譲らないため、昭和39年の1月初旬、通産省の石油審議会会長が斡旋案を携(たずさ)えて国岡本社を訪ねたが、鐵造は石油政策の問題を解決するものではないとこれを受け入れない。政府はついに鐵造の主張を受け入れることを決めた。

この年の10月、世界初の高速鉄道「新幹線」が開通し、東京オリンピックが開催された。そのころ、産業界を揺るがす大事件が起こった。昭和40年11月、全日本海員組合が賃金引き上げを要求して、大規模なストライキをおこなったのだ。石油業界はたちまち原油不足に陥り、石油製品が底をつきはじめた。国岡酒店は原油を大量に持っていたので石油連盟の非難を無視して鐵造は大増産を指示した。

2カ月以上続いた海員ストが終わると、鐵造はフル生産の停止を命じた。通産大臣になった三木武夫は石油の生産調整を撤廃すると発表した。三木の勧めで鐵造は石油連盟に復帰する。石油自由化の始まりを告げる日であった。昭和41年9月、鐵造は国岡商店の本社を日比谷の国際ビルに移した。新社屋移転にともない、鐵造は念願であった国岡美術館をその9階のフロアーに開館する。彼が長年にわたって蒐集(しゅうしゅう)した膨大な美術品や骨董(こっとう)を展示したものである。

新社屋に移転した翌日、鐵造は正明に社長を、東雲に副社長をやれと命じた。そして、社長を退いた鐵造は会長となる。この年の秋、21万トンという破天荒な巨大タンカー国岡丸が完成した。鐵造はその竣工式に皇室、政財界、官公庁からのべ3万人を招待したほか、全国の中学校から生徒約1万5千人を招待した。未来に対して大きな夢を持ってもらいたいとの鐵造の発案だった。

昭和48年10月、第4次中東戦争が起こった。恒例行事のようにおこなわれていたアラブ諸国とイスラエルの戦争だったが、このときは先進諸国を震撼(しんかん)させる事態に発展した。石油輸出機構(OPEC)加盟のペルシャ湾岸の6カ国が原油価格を12月までに1バレル3.01ドルから11.65ドルへと引き上げることを宣言したのだ。わずか2カ月あまりで一挙に4倍近く跳ね上がった原油の高騰(こうとう)は日本経済を根底から揺(ゆ)さぶった。いわゆる「石油ショック」である。

鐵造の予言通り、石油ショックの嵐は昭和49年の春ごろから鎮静(ちんせい)に向かった。しかし、日本経済は戦後はじめてのマイナス成長になり、ここについに日本の高度経済成長は終焉(しゅうえん)を迎えた。

終章

昭和49年5月、フランスを代表する文化人のアンドレ・マルローがモナリザの日本初公開のため、フランス政府特派大使として来日した際に、望んで鐵造と対談したことが紹介される。昭和51年、鐵造は91歳になった。この年の6月、国岡商店は国岡丸から数えて9隻目にあたるマンモス・タンカーを完成させた。25万4000トンの巨大なタンカーに鐵造は日田丸と名付けた。

昭和54年2月、イランで革命が起こった。亡命中のイスラム教指導者ルーホッラー・ホメイニ師を精神的支柱とするイランの民衆が蜂起(ほうき)したのだ。国家元首のパーレビ国王はアメリカに亡命し、イラン革命政府は外油コンソーシアムを追放。鐵造は国家にしても会社にしても永遠に続くものは何もないと思った。しかし、いつの日か国岡商店が消えても、その精神は消えることはないとも鐵造は思う。

昭和56年3月6日午後、鐵造は突然激しい腹痛に襲(おそ)われた。主治医の診断は腸閉塞(ちょうへいそく)だったが、高齢のため手術は危険であった。応急処置を施したことで鐵造は翌朝、小康(しょうこう)状態を取り戻した。しかし、数時間後、鐵造の様態が急変、午前11時25分、国岡鐵造は95年の英雄的な生涯を静かに終えた。

                          ☆

期待通りに面白い小説でした。時代背景とエピソードを巧(たく)みに織り交ぜて国岡鐵造(出光佐三がモデル)の劇的な生涯を平易な文体で描いたのはさすが百田尚樹氏です。一読をお勧めしたい良書の一つと言えると思います。本書とは直接関係しませんが、百田氏が昨年11月にNHKの経営委員になられてからの同氏の言動には失望させられました。好きな作家であっただけに誠に残念です。

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