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2014年5月30日 (金)

九州を横断するドライブ旅 熊本城(その2)

案内表示にも大きな石が使われています。
 
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小天守の下にある石段は通行できないようです。
 
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天守閣への入口は小天守寄りにありました。
 
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入口に掲げられた暖簾(のれん)には細川家の家紋である細川九曜(ほそかわくよう)と加藤家の「蛇の目(じゃのめ)」が描かれています。
 
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その上部
 
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天守閣の案内図によると、大天守閣は地上6階、地下1階、小天守閣は地上4階、地下1階の構造になっています。
 
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再建当時の天守閣の鯱(しゃちほこ)が展示されています。
 
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加藤清正と忠広に関する歴史年表
 
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加藤清正の死後、その跡を継いだ加藤広次が改易(身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること)されたことで小倉領主から肥後領主(熊本城主)になった細川忠利(ただとし)と名君と称される細川重賢(しげかた)の歴史年表
 
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熊本城と熊本城下の縮尺模型
 
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熊本城古写真
 
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城下の北東に位置する坪井(つぼい)から見た熊本城
 
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昭和35年に大天守閣と小天守閣が復元された時に作られた10分の1の模型の説明には、『大天守は1階から順に上へ、鉄砲の間、具足の間、矢の間、弁当の間、貝の間、上段の間で、小天守は1階から順に上へ、松の間、兜佩(かぶとはき)の間、納戸(なんど)、上段の間になっている』と書かれています。ちなみに、佩(はき)は飾りを意味するようです。
 
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熊本城天守閣・小天守断面復元図には、『約16m(西・南面)の石垣の上に南に大天守(高さ32m)、北に小天守(高さ19m)を乗せ、その上に望楼(遠くを見渡すためのやぐら)をそれぞれ東西方向に乗せている』と説明されています。ちなみに、小天守は「御上」(夫人のための住居)として建てられたそうです。
 
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住居風に造られた「上段の間」の模型
 
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本丸御殿の説明には、「天守閣前から月見台にかけて、部屋数が53室、畳数が1570畳もあった本丸御殿が設けられていた。藩主の居間および対面用の部屋として使われた」とあります。
 
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石垣の写真
 
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櫓(やぐら)の写真
 
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熊本城両軍力戦は西南戦争(1877年/明治10年2月~9月)における熊本城を巡る政府軍と西郷軍(薩摩軍)の戦いを描いたもののようです。
 
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両軍の中心人物
 
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近くに西南(せいなん)戦争の説明とともに、「熊本城を死守した男 闘将・谷干城(たにたてき、かんじょう)」の説明がありました。(なぜか撮影不可) 薩軍が陥落させようとした熊本城を守る熊本鎮台(旧日本陸軍の明治初期にあった編成単位)司令長官は、維新の戦いで西郷がその才を高く評価していた土佐藩出身の谷干城少将であり、西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長、学習院院長、初代農商務大臣、貴族院議員を歴任した人物です。
   
(続く)

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