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2014年6月 4日 (水)

九州を横断するドライブ旅 吉野ヶ里遺跡を探訪する(その4)

北内郭を出て北墳丘墓へ向かいました。遊歩道脇に、「弥生時代の中ごろ、吉野ヶ里を治(おさ)めていた歴代の王の墓と考えられる北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)・祖霊(それい)の宿る柱である立柱(りっちゅう)・祀堂(しどう)・北墳丘墓にお参りするための専用の道と考えられる墓道(ぼどう)の説明」がありました。
 
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一般の墓である甕棺墓列(かめかんぼれつ)です。吉野ヶ里遺跡では約3000基以上の甕棺墓が確認されているそうです。
 
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甕棺のひとつ
 
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祠堂(しどう)は墳丘墓に眠る祖先の霊に毎日お供え物を捧げ、お祈りをするための施設と考えられているそうです。北墳丘墓は、弥生時代の後半にはお墓ではなく、祖先の霊をまつる祭壇として人々の信仰の中心となったそうです。
 
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北墳丘墓の外観
 
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北側にある入り口から北墳丘墓の中に入ると甕棺が並んでいるのが間近に見えました。
 
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墳丘墓に埋葬された甕棺(かめかん)は一般の墓とは違い、ガラス製の管玉(くだたま)や聖堂の剣など、貴重な副葬品(ふくそうひん)が納められていたとのこと。
 
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今からおよそ2100年前、弥生時代中期(紀元前2世紀~期限1世紀頃)吉野ヶ里遺跡北側の標高約25mの墳丘(ふんきゅう)上に南北約40m、東西27m、盛り土の高さは4.5mの平面隅丸(すみまる)長方形の墳丘墓が築かれたことが説明されています。
 
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「技術と汗の結晶」と題した展示コーナーでは、『北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)の築造は、当時としては非常に高度な技術(土まんじゅうをつないで付き固める工法)が用いられていた。中国から伝来したと考えられる、少しずつ土を盛っては突き固めるという工程を繰り返す工法で、丁寧(ていねい)かつ丈夫(じょうぶ)に作られている』と説明されています。

 

「墳丘墓くらべ」では、弥生時代前期松に畿内を中心に方形周溝墓(しゅうこうぼ)と呼ばれる低墳丘墓が出現しはじめ、北部九州でも墳丘や溝で区画された墓が弥生時代中期には出現している。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓はまだ類例の少ない弥生中期のはじめに、国内では他の墳丘墓よりもはるかに大きい規模で築造されている。やがて、古墳時代に入ると墓の形式が前方後円墳に代表される全国共通の形式に変ったが、弥生時代には勢力をもった集団が各地に存在していたことがうかがえる』と解説しています。

 

発掘調査によって14基の甕棺が見つかっているそうです。
 
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甕棺(かめかん)のクローズアップ
 
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「彩り鮮やかな装飾品」の展示コーナーでは、『北墳丘墓から出土した甕棺のうち、銅剣が1本ずつ埋葬されていたものが8基出土している。そのうち1基は有柄細形銅剣(ゆうへいほそがたどうけん)とともに見事なコバルトブルーのガラス管玉(くだたま)が79個分副葬されていた。また、剣の柄や把頭飾(はとうかざ)り部分まで同棲である有柄(雄平)銅剣は、国内では4例目の出土で、いずれも西日本でしか発掘されていない珍しいものである』との説明がありました。
 
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甕棺への埋葬方法
   
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壕と柵
 
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北墳丘墓の前にある半地下道を通って外郭の外へ出ると、「北墳丘墓下」のバス停がありました。20分間隔で環濠入り口行のバスが夏季(6月-8月)のみ無料で運行されています。所要時間は約10分と表示されています。バス停の手前から右手に伸びる遊歩道に入ると「祭りの広場」が広がっていました。
 
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「中のムラ」と「南内郭」の脇を通って、一般の人(下戸)たちが住んでいたという、「南のムラ」にも向かいました。
 
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「中のムラ」の建物群
 
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「中のムラ」の東隣には「弥生くらし館」があります。土器復元作業を見学できる公開作業室や南のムラの成り立ちが映像や模型などで分かりやすく説明されているギャラリーや映像室および休憩室などがあるようです。また、この施設では「勾玉(まがたま)づくり」「土笛づくり」「火おこし」などの「ものづくり体験」を行うことができるそうですが、出発する時間が迫りましたので駐車場へ向かうことにします。
 
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外郭の門を出ます。
 
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環濠・土塁や柵の他にも逆茂木(さかもぎ)/乱杭(らんぐい)が集落を守るために集落の入り口付近など特に重要な区域にはバリケードとして築かれていたそうです。
 
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「天の浮橋」の手前から見た歴史公園センターの遠景
 
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「天の浮橋」の上から田手川と北方の脊振(せふり)山地を望みました。
 
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3世紀後半頃、約50ヘクタールの広さがあった吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕はほぼ埋没し、さらに北内郭と南内郭はその機能が失われてしまったと考えられているそうです。そして、南内郭付近の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれました。つまり、吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したのです。その理由は、古墳時代に入って戦乱が収まったことに加え、低湿地を水田として開拓出来るようになり、人々の生活基盤が丘陵地から平野に移ったことなどが考えられます。 

吉野ヶ里遺跡をちょうど1時間かけて一周したため、すでに午後4時半を過ぎてしまいました。この日の宿泊地へ急ぐことにします。例によって、ここで「九州を横断するドライブ旅」の投稿を小休止します。
 
<同行者のコメント> 熊本城の桜の小路では楽しく食べ歩きができました。急に立ち寄ると言い出した吉野ヶ里遺跡では、私が駐車場の車で待っている間に、ずいぶん見て回ったのですね。青森長野の古代遺跡と何がちがうのでしょうか。何カ所見ても同じだと思うのですが・・。
 
(
続く)

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