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2014年11月22日 (土)

平野啓一郎著「生命力の行方〜変わりゆく世界と分人主義〜」を読む

11月16日の記事に書きましたようにブログ記事の投稿を1週間近く休止せざるを得なくなりました。それは突然降って湧(わ)いたような(まったく予期しなかった)災難が私に生じたためです。2週間前に受診した今年の健康診断の結果、精密検査(大腸カメラ)を受けることが必要になりました。その検査結果により、担当医から数日間入院して内蔵のプチ手術を受ける必要があると宣告さたのです。そして、今週初めに紹介された大学病院へ入院。患部が内臓の奥、しかも入り組んだ場所にあるため、念のため術後の経過観察が一両日必要とのこと。幸いなことに1時間半におよんだ手術と術後の状態はすべて順調で、予定通り5日間の入院で退院できました。そして、来週のフォローアップ健診時までに検体(切除した患部)が悪性でないことが確認されれば、病院からは無罪放免となり、今月末には完全に通常の生活へ戻れそうです。

 

今回の入院とは何の関係もありませんが、平野啓一郎氏(芥川賞受賞者)が提唱する「分人(ぶんじん)主義」の考えに興味を持つようになっていた私は、手にしたばかりの同氏著「生命力の行方〜変わりゆく世界と分人主義〜」(2014年9月30日講談社刊、1800円+税)を病室に持ち込みました。携帯電話やインターネットが使えないデジタル・デトックス(脱デジタル)環境での過ごし方を考えたのです。手術前から始まった点滴を受けながら、手術を受けた翌日から2日間で本書を読み終え、退院までにこのブログ原稿をまとめたのです。そのため、記事内容がややまとまりに欠けることは、なにとぞご容赦(ようしゃ)ください。さて、前置きはこの辺にしましょう。

 

                             ☆

 

本書の「まえがき 今、何が起きているのか?」で著者は、ITを通じて個人の内面から地球の裏側まで、かってないほど透明になったが故に、却(かえ)って「先行き不透明」な時代となったと感じられると指摘し、問題の本質は世界の一個性だろうと続けた。ボードレールが提唱した「多様性」を「生の必須条件」として尊重する考えを紹介し、この世界が存続しているのは、多様性に於(お)いて、その「生命力」が常に「移動」しているからだと彼の考えを説明した。そして、最近8年間に書かれた著者のエッセイ(50余編)と対談集(8編)で構成される本書は、文学・アート・エンターテイメント・時事問題、および自分が唱える分人(ぶんじん)主義を書いたものであるという。

 

それでは、まず筆者の考え方を知るために「1章 社会の生命力」からいくつかのエッセイを紹介しましょう。

 

一国民の大半が話題とするような情報が、従来はテレビを中心としたマスコミによって一斉配信されるものであったが、今も「話題化される性質」は、対面形式であろうと、ネット上であろうと、コミュニケーションを成立させる媒体(ばいたい)が話題であることに変わりない。

 

「顔文字考」では、携帯メールで多くの人が顔文字・絵文字を使用するようになったのは、それがこの新しい伝播(でんぱん)メディアのコミュニケーションに於(お)いて、有効であることを実感したからである。パソコン・メールに比べて、より「話し言葉」に近くならざるを得ない携帯メールの場合、身体言語の類型的な記号化である顔文字によって言表が補(おぎな)われなければ、コミュニケーションの失敗を招(まね)く恐れがある。

 

フランス・ブルターニュの小さな港町で開催されたシンポジウムに参加するために宿泊したホテルについて書いた「気にしないのも自由」は、ネット上におけるホテルの評判から率直で辛辣(しんらつ)なものや別の評価を引用して、民主的ではあるが、疲れる世の中だなと感じると書き始めた。日本人は「己(おのれ)の置かれた境遇のなかに満足を求め、現状に甘んじようとする風があるが、進取的な西洋人は、常により良き状態を願って已()まない」と谷崎潤一郎の言葉を引用する。しかし、著者にとっての「西洋人」たるフランス人の美質の一つは、「物事を大して気にしないところである。不便さと適当につき合っている」として、「ネット上の言論の自由は一定の暴力性と表裏(ひょうり)の関係である」と指摘する。

 

「2章 アート&エンターテイメントの生命力」に次ぐ「3章 文学の生命力」では、プロダクト・デザインの仕事をする主人公を「デザインと人間関係には似た発想ができる」との視点で描いた著者の小説「愛とは結局のところ、何なのか?-かたちだけの愛」を解説する。著者は「恋」と「愛」とを一旦区別して考える必要を感じたと明かす。「恋」とは、「会いたい」と相手を乞(こ)い求めて、短期的に燃え上がる感情である。それに対して、「愛」とはむしろ、一旦関係が結ばれた後に、長く持続する感情である。筆者はエッセイのテーマについて小説の最後に主人公が辿(たど)り着く結論を、読者一人一人に委(ゆだ)ねたいと結言する。

 

                             ☆

 

いよいよ本題です。「1章 社会の生命力」から別のエッセイのポイントを詳しく説明します。

 

「生き辛(つら)さの原因は?-私とは何か、個人から分人へ」で著者は自らの「個人とは論」を概観する。「分人(ぶんじん)」とは人間を見る際の「個人より更に小さな単位」であるという。私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。常に、相手次第、場所次第であると。当たり前の話だが、個性的に、主体的に生きる自分という固定概念と矛盾(むじゅん)するため、この事実を軽んじ、否定しようとする。そして、その肝心(かんじん)の「本当の自分」が何なのか分からないことに思い悩み、苦しんでいると自らを省(かえり)みる。

 

筆者は問題は「個人」という概念にあると考える。そして、「個人」とは英語"individual"の翻訳(ほんやく)であり、語源のラテン語では「分けられない」という意味だったと解説。さらに、それが一人の人間を指す「個人」という意味に変化した背景にキリスト教という一神教の伝統を挙(あ)げる。つまり、神が一者であるからこそ、それと向かい合う人間も、唯一(ゆいいつ)の「本当の自分」でなければならなかったと解説する。

 

もう一つは論理学であるという。確かに、私たちの体は一個(脳ミソも一個)でそれを分けることはできないが、私たちが日常的に接しているのは多種多様な人間であり、一なる神ではない。そこで、著者が考えたのが、"individual"から否定の接頭辞"in"を取った「分人(dividual)」という概念である。一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱(かか)えている。そのすべてが「本当の自分」であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことであると考えたのである。

 

筆者は、2030年代の宇宙飛行士が抱える秘密の顛末(てんまつ)を描いた近未来小説「ドーン」においてはじめてこの概念を用い、それに続く「かたちだけの愛」と「空白を満たしなさい」で深く掘り下げたことを明かした上で、「他者の多様性を認めるためには、まず自己の多様性を認めなければならない。それを肯定し得る思想を持つべきである」の言葉で締(し)めくくった。

 

                             ☆

 

10代のころから重要なことを自ら決断する時にほとんど迷ったことがない私ですが、高校に入学してから大学を卒業するまでの7年間、あることについては自分の感情と意思のそれぞれが求めるものに大きな乖離(かいり)があることに戸惑(とまど)い続けていました。その具体的な内容には触れませんが、どちらが真の自分なのか分からなかったのです。今にして思えば、「結論(どちらを選ぶか、あるいはYES or NO)を出さないこと」が私の結論だったようです。それから40年以上が経(た)って当時の私の判断は間違っていなかったと思うようになり始めていたところで本書を読み、やっとその理由が「胸にストンと落ちた」のです。近いうちに、本書の中で著者の平野啓一郎氏が自ら紹介した「ドーン」や「空白を満たしなさい」などの著作も近々読んでみたいと思います。

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