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2015年6月10日 (水)

岸見一郎氏・古賀史氏共著「嫌われる勇気」を読む

ダイヤモンド社から2013年12月に発刊されたユニークな書名のソフトカバー本(岸見一郎氏と古賀史氏の共著、1500円+税)を読みました。~自己啓発の源流「アドラー」の教え~のサブタイトルがありますから、1990年代にブームとなった自己啓発本の再来かもしれませんが、この書名は「自己啓発」にそぐわないようです。表紙も和紙のような青い柄に書名が大きく書かれているだけの地味な装丁なのです。そんな疑問を感じながら本書の表紙を捲(めく)りました。

 

内表紙の次ページで青年と哲人(てつじん)の会話が始まりました。『世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる』と説く哲人の考えに納得できない青年が、哲人の許(もと)を訪ねて来て、連夜2人で議論をするとの舞台設定です。

 

第一夜 トラウマを否定せよ

 

心理学界の巨人であるフロイトと学説上で対立したことからフロイトと袂(たもと)を分かち、独自の理論に基づく「個人心理学」を提唱した「アルフレッド・アドラーの心理学」を哲学として捉(とら)える哲人に青年は様々な疑問を投げかけた。

 

「なぜ人は変われるのか」について哲人は、過去の出来事によって現在の自分が規定される「原因論」ではなく、今の目的が現在の自分を作り出しているとする「目的論」で理解すべきであると指摘し、「原因論」に従っている限りは一歩も前に進めないと断じた。そして、「トラウマ」の存在を否定し、「人は怒りを捏造(ねつぞう)する」、つまり相手を屈服させる手段として「怒り」という感情を捏造(ねつぞう)するのだと哲人はいう。そして、「怒り」は出し入れ可能な「道具」であると解説した。

 

「過去に支配されない生き方」をするのが良いとし、「アドラーの心理学」がニヒリズムの対極にある思想であると解説した。「人は変われる」を前提に考えるべきであるともいう。大切なのは、「何が与えられているか」ではなく、「与えられたものをどう使うか」であり、「自分の不幸は自分自身が選んだもの」であると断言する。言い換えれば、「人は常に変わらないという決心をしている」と言えるともいう。つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることの方が楽であり、安心なのだとその理由を解説する。

 

あなたの人生は「今」と「ここ」で決まると指摘し、「もしも何々だったら」と考えているとしたら、変わることなどできないと断言した。

 

第二夜 すべての悩みは対人関係

 

哲人は次のステップの議論へと移り、自分のことが嫌いな理由は「自分を好きにならないでおこう」と決心しているからだと指摘する。そう考える理由は「自分が他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に恐れているからなのだ。つまり、他者との関係のなかで傷つかないことを目的にしているからだ」と哲人は分析する。そして、その改善策として「勇気づけ」の有用性を説明した。

 

われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」だと哲人はいう。「つまり、主観の良いところは、自分の手で選択可能であり、最終的には対人関係の悩みにつながる」ことも付言した。「言い訳としての劣等コンプレックス」の見方では、理想に到達していない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く、「優越性の追求」(理想の状態を追求すること)が「劣等コンプレックス」(劣等感そのものではなく)の背景にあるという。ここで哲人は、コンプレックスは日本語で誤用されているような劣等感ではなく、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語であって、劣等感とは関係ないと指摘する。むしろ、劣等感は努力や成長を促す「切っ掛け」にもなりうるものであるという。

 

「自慢する人は劣等感を感じている」として、強い劣等感に苦しみながらも、努力したくない人や、「劣等コンプレックス」でも我慢できない人は、「もっとも安直な手段によって補償しよう」と考え、「優越コンプレックス」に陥る。つまり、あたかも自分が優れているかのように振る舞い、「偽りの優越感」に浸ると哲人はいう。身近な例は「権威づけ」や「過去の手柄話」など、そして特異ではあるが「不幸自慢」もあると。

 

人生は「他者との競争」からではなく、「理想の自分との比較」から生まれるものであると哲人は指摘し、われわれは「同じではないけれど対等である」ともいう。対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることはできないと警告し、「人々は自分の仲間なのだ」と考えることを勧める。さもないと、他者との「権力争い」は敗者による「復讐」へと進展するだろうとも警告する。また、自分の主張が誤っていた場合は、すなおに誤りを認め、謝罪の言葉をのべ、論争から降りるべきであるとも。(以下省略)

 

第三夜 他者の課題を切り捨てる (具体例の説明が主体であるため、詳細は省略してキーワードだけを列記する)

 

・承認欲求を否定する

・「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない

・「課題の分離」とはなにか

・他者の課題を切り捨てよ

・対人関係の悩みを一気に解消する方法

・「ゴルディオスの結び目」(*)を断て *アレクサンドロス大王の東征にまつわるい逸話(難問)

・承認欲求は不自由を強いる

・ほんとうの自由とはなにか

・対人関係のカードは、「わたし」が握っている

 

第四夜 世界の中心はどこにあるか (込み入った議論であるため内容説明を省略)

 

第五夜 「いま、ここ」を真剣に生きる (派生的な論議であるため前半の説明を省略)

 

・普通であることの勇気

・人生とは連続する刹那(せつな)である

・ダンスするように生きる

・「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ

・人生最大の嘘は「いま、ここを生きないこと」

・無意味な人生に「意味」を与えよ
 
 「人生には一般論として語れるような意味」は存在せず、「人生の意味は、あなた自身が

自分自身に与えるものだ」であり、「他者に貢献するのだ」という「導きの星」さえ見失わな

ければ、迷うこともないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてもかま

わない。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変

わりえない、ということだと哲人は結言する。

 

<読後感> フロイト、ユングと並んで「心理学の三大巨頭」と称され、自己啓発の源流とも呼ばれるアドラーの思想(心理学)を哲人と青年の会話(議論)で解説するユニークな手法は、動(やや)もすると難しくなりがちな心理学を身近な事例を使って分かりやすく解説することに役立っています。

 

アルフレッド・アドラーは19世紀後半から20世紀前半に生きたオーストリア出身の精神科医であり軍医・心理学者・社会理論家でもありました。日本で良く知られる精神分析を得意とした無神論者のフロイトやそのよき理解者(後にフロイト決別する)であったスイスの精神科医・心理学者であり、分析心理学を創始したユングとは異なり、アドラーは日本では知名度が高くありませんが、自らの経験を踏まえた多彩な研究で欧米において高く評価されているようです。

 

「アドラーの心理学」は「他者」との関係性に着目し、フロイトとは対照的に「過去の経験(体験)」(トラウマ)が現在の自分に与える影響を否定する点に特徴があります。(異説有) 自らが幼少期から苦労して克服した肉体的な弱点および精神科医として身体的な弱点を克服した患者を診断する中で生まれた性善説に基づく考えのようです。

 

「嫌われない」ことは、「相手に好かれたい」だけではなく、「自分が責任をとらなくてもよいメリット」があることが本当の目的であるとの指摘は正鵠(せいこく)を射ている(確信を突いている)と首肯(しゅこう)できます。また、本書では「ほめること」は「叱(しか)ること」と同様、相手を縦の関係に置く行為だとしています。つまり、「ほめること」によって、相手を操作しようとしているのだと。また、「怒る」のも自信のなさの表れだとも。大切なのは「横の関係」になることだと言っています。

 

確かに物事は自分自身の考え方次第で、良くなったり、逆に悪くなったりすることは良くあります。中国の故事にも「人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬」とあります。つまり、禍福(かふく)というのは予測できないものであるというのです。ちなみに、人間(じんかん、漢音)は人の住む世界(世間)を意味しますが、人間(にんげん、呉音)と読ませる故事辞典があるように、どちらの詠み方でも良いようですが、人間(じんかん)とした方がホモサピエンスである人間(にんげん)のことと誤解されることが少ないと思います。

 

また、本書が指摘する様々な事柄を読み進むと、「アドラーの考え」には宗教に似たものを感じさせます。それもキリスト教やイスラム教のような一神教ではなく、多神教の仏教(あるいはヒンドゥー教)の教えに通底することが多いように思われるのです。西洋人であるアドラーがなぜこのような考えに至ったのかは前述した程度のことしか理解していませんが、宗教の影響というよりも、精神科医として患者を診断することを通じて生まれた考えであろうと推察できそうです。

 

しかも、宇宙の絶対的な真理と神秘性を重視(不可欠と)する宗教の色彩は希薄ですから、新興宗教の一派のような思想であるとの偏見を持って「アドラー心理学」を捉(とら)えるではなく、あくまでも自己啓発本として本書を一読することで、「アドラ心理学」に触れてみるこことをお勧めします。
[自己啓発よりも地道な学習と実践を重視した元仕事教信者より]

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