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2015年7月

2015年7月29日 (水)

SNSの功罪とリスク対策

ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS、コミュニティ型公開・閲覧サービス)が2000年代前半に日本で登場したことにより、個人が情報を発信・受信することがきわめて容易になりました。それまでの経緯とその後の変化を簡単に振り返ってみましょう。20年ほど前に誰もがインターネットを利用できるようになってから、インタラクティブ(相互方向性)に情報のやり取りが可能になりました。ホームページから始まり、電子掲示板で会話するサービスが加わり、ブログ(英名:Weblog)と呼ばれるネットワーク上の日記として情報を次々と投稿・掲載するサービスが誕生しました。それに続いて、相手をある程度限定できるSNSが爆発的に普及し、現在は6割程度の人がブログを、8割以上の人がSNSを利用していると言われます。

 

スマホが急増したことがSNSの普及を加速したことは間違いないでしょう。そして、SNSによって疎遠(そえん)になっていた旧友と連絡が取れたり、自分が企画したブランへの賛同者を募(つの)ったりと、従来はほとんど不可能であった不特定多数へのアクセスが日常的に行えるようになりました。また送る内容も単純なテキストだけでなく、写真や動画、位置情報なども含めて情報発信できるようになり、それに対して不特定の人がリアクションを即座に返すことも可能になりました。

 

国内のSNSとしては、FacebookmixiTwitterLINEなど多彩なサービスがあり、スマホのユーザーでひとつも利用していない人はほとんどいないでしょう。しかし、かく言う私はSNSよりも10年前に始めたブログ・サービスを主に利用しています。実は、TwitterLINEのアカウントは持っていますが、前者はブログとの連携目的だけに留め、後者は休止中です。この理由は後で述べたいと思います。

 

このように便利なSNSには影の部分(リスク)も存在することを理解しておく必要があるでしょう。影とは何でしょうか。その一番目に挙げられることは利用者の匿名性(とくめいせい、身元を明かさないこと)です。この特性により、配慮に欠けた一方的な書き込みや罵倒(ばとう)・侮辱(ぶじょく)する言葉を使って特定の人物やグループを攻撃する事例は後を絶ちません。意図的にデマ流すことはもっての外(ほか)ですが、根拠がはっきりしない情報を拡散させる行為も慎(つつし)むべきです。

 

二つ目は、リアルタイム(即時)性が高く、かつ保存性も高いという性質です。これらは便利な特性ですが、時には悪く働くことがあるのです。一時的な思い込みや感情に基づいた書き込みであっても、一度文字にしてしまうと会話以上に確たる存在(言霊、ことだま)となり、時間が経過してもそのままネットワーク上に残り、取り消すことは事実上不可能なのです。つまり、やり直しはできないということです。その書き込みを不快に思った人はたとえそれが誤解であったとしても過激な反応し、同調者が登場すると波紋が急速に広がるトラブルがしばしば起きています。

 

三つ目はSNS依存症。テレビゲームやスマホゲームと同様、SNSに嵌(はま)ると、片時もSNSから離れられなくなる強迫神経症を罹患(りかん)する恐れがあることです。最初の2つの陰とは違ってSNSだけに固有の問題というわけではありませんから、ここでは詳しく説明しません。

 

これら3つのリスク(負の側面)が存在するため、SNSにおいては他のメディアと同様に(あるいはそれ以上に)メディア・リテラシー(使う上に必要とされる能力)が必要です。SNSでは、例え特定の相手に向けて発信したメッセージであっても、「すべての人に見られている」「自分が言われて嫌なことは発信しない」「自分あるいは他人の個人情報は書かない」、この3つを認識して守ることが最低限の必要条件です。

 

これらに加え、人の感情についても十分留意する必要があるでしょう。人は他人が自分よりも恵まれている、あるいは優れていることを知らされると、妬(ねた)み嫉(そね)み、つまり嫉妬(しっと)の感情が生まれやすいからです。この視点から、ブログやFacebookなどのプロフィールを実際の自分よりよく見せて書くのは「百害あって一利なし」です。そして、記事(または本文)を書く時にも、自慢話は極力控(ひか)えるべきだと私は考えます。

 

次いで、自らリスクを生じさせないようにすることも重要です。例えば、リアルタイム性が高いTwitterでは自分の居場所を特定できる情報や近い将来の行動予定を呟(つぶや)かないことです。他人についても同様に書くことは慎むべきでしょう。意外に気づかないリスクが写真に記録されている位置情報(Exif情報に含まれる)です。これを事前に削除しておかないと、自宅や勤務先などの場所や自らの行動パターンが第三者によって特定されてしまいます。そして、自分自身や家族、友人、あるいは見知らぬ人が写り込んだ写真(顔や特徴がよく分かるもの)も大きなリスク要因になります。

 

さて、ここから本記事のポイントです。SNSは電話による会話や電子メールとは本質的に異なるものであることを理解する必要があります。SNSは一人対一人(あるいは一人対特定の少数)のコミュニケーション(会話)ではなく、NNのプレゼンテーション(情報発信)であり、アバター(自分の分身)が不特定多数の人に向けて情報発信するメディアなのです。ですから、予期しない反応が返ってくることも想定しておかなければなりません。つまり、事前に内容を十分吟味してからネットに上げるべきなのです。

 

Facebook(2014年11月現在で国内に2400万ユーザー)やLINE(2014年7月現在で国内に5400万ユーザー)を使う必要性をまったく感じない私はブログを使った1対N型の情報発信(国内に約2000万のユーザーがいるTwitterを併用)と電子メール、身近な相手とは携帯電話の11型のSMS(ショートメールサービス)を使い分けています。つまり、情報発信と会話(コミュニケーション)を明確に分けているのです。これによって、便利な情報発信ツールであるSNSはあくまでもその手段であると位置づけ、SNSを使うこと自体を目的化させないようにしています。

 

依存症に陥(おちい)る人の多くはSNSを通じて他人と繋(つな)がっている安心感、あるいはフォロアー数や他者からもらう「いいね!」(Like)の件数の多さでもって自己満足しているようです。また、LINEの「既読通知機能」も依存症を誘発するトリガーになる可能性があると思われます。インターネットが普及し始めた頃には電子メールが相手に届かないことがよくあったため、「既読通知」の機能は有用でしたが、現在はその恐れはほぼ無くなりましたから、受信者に返信を催促(さいそく)していると受け取られる「既読通知」は使わないことにすれば人間関係を損なうリスクを減らせるでしょう。

 

最後に、SNSのリスクから自分を守る技術的な手法に触れたいと思います。私はスパムメールに対する受信拒否およびブログの胡散臭(うさんくさ)いビューアーやビジネス関係者からのコメントに対するアクセス拒否も適宜設定して、リスクを生じさせないよう注意しています。そして、SNSの使用は極力控(ひか)えています。すなわち、上述したように、ネットワーク上では自らを不必要に他人の目に晒(さら)さないようにしているのです。あえて詳細を説明しませんが、私はiPadを使って複数のiPhoneによる通信をすべてモニター(一方向の情報共有)できるようにしています。もし、第三者にこれを悪用されると大変危険な機能ですが・・。

 

つまり、各個人が確実に識別されるリアル空間(現実の世界)と情報主体のバーチャル空間(匿名性を持つネットの世界)の間に適度な大きさの結界(けっかい)を設けて両者を混同させないことが、SNSを便利なツールとして使いながらリスクを減らす有効な防衛策である考えています。本記事が少しでも参考になれば幸いです。

2015年7月24日 (金)

デジカメ考

信州のドライブ旅から戻った私は破損したデジカメを近くの家電量販店へ持ち込みました。修理できるかどうかを確認するためです。しかし、保証期間が過ぎたデジカメの修理は意外にも高額な料金が掛かることを思い知らされました。何と、修理内容に依らず料金が15000円! メーカーの定額修理料金約13000円(部品代+技術料+税金)に家電量販店の手数料が加わるのです。その金額では新品を購入した時の価格の約7割にもなってしまい、購入してから3年が経過したデジカメの修理費としては高すぎるように思われます。

 

どうするか少し迷いましたが、新しいデジカメに買い換えることをその場で決断し、ただちに購入候補をいくつかリストアップしました。私の主な用途はスナップ写真ですから、一眼レフやミラーレス一眼レフは対象外。当然の帰結としてデジカメが選択する対象ですが、各メーカーから数え切れないほどの製品が販売されています。個別のデジカメを比較し始めると思考が発散して絞り込めません。私の決め方は今回も用途(目的)に合わせて必要な機能と性能に優先順位を付ける手法です。

 

1999年に最初のデジカメを購入してから都合(つごう)3台を使ってきました。1台あたり平均して5年強の間隔で買い替えたことになります。過去16年間にデジカメの性能が大幅に向上したことは間違いありませんが、それでも私には小さな不満点がまだ存在しています。それは、オートフォーカスの応答速度、バッテリー容量の少なさ(つまり撮影できる枚数の制限)、光量が不足する時(夜間あるいは屋内での撮影時)の画質、などの基本性能に関する不満です。

 

1番目の不満点(ピン合わせのト問題)は撮影時に2ステップ(焦点合わせ→撮影)でシャッターを切ればかなり改善されますが、これではシャッターチャンスを逃す恐れがあります。つまり、電源を入れてからの立ち上がり(起動時間)と同様、オートフォーカスの応答速度は速ければ速いほど使い勝手が良いのです。2番目のバッテリー容量問題は電力消費が大きい液晶モニターを細目(こまめ)に消せば良いのですが、これも現実には面倒なことです。しかも、これまで使用してきた3台のデジカメはいずれもバッテリーを充電するためにACアダプタが必要でした。そこで、予備のバッテリーを常に携行していました。

 

3番目はフラッシュを使用できない環境(意外に多い)で撮影する時の性能です。それ以外の条件としては、前回購入する時に重視した望遠機能(光学式20倍)を使うことは意外に少なかったことから、今回は必須条件から外しました。それに代わる条件として、従来重視していなかったデジカメの外観を付け加えました。持っていて楽しくなるような魅力的なデザインはやはり重要です。また、価格は安いに越(こ)したことはありませんが、少しばかりの価格差には拘(こだわ)らないことにしました。 

 

そして選んだデジカメがフジフイルム社製のFUJIFILM XQ2です。何といっても小型軽量(バッテリーなどを含み約206gとデジカメでもトップクラス)が最大の特徴。使い始めてからまだ日が浅く、細かい点(暗所撮影など)を評価するには時期尚早(じきしょうそう)ですが、今のところ気に入っています。オートフォーカスの応答速度の良さ(カタログ値:0.06秒)、USBインターフェース(スマホ充電用電池や自動車のシガライターに接続したアダプター)で充電できること、明るいレンズ(F1.8)と小型で高性能のフラッシュ、そしてレトロ風の控えめな外観など、魅力満載のデジカメは私の期待した通りのものでした。 

 

最後に付け加えたいことが「カスタマー・エクスペリエンス」(顧客体験)です。ガートナー社の定義によると、それは「顧客の期待どおりの、または期待を超える顧客対応(顧客との交流や対話)を設計・提供することにより、顧客の満足度、ロイヤルティ、支持を向上させる取り組み」とされます。平たく言えば、「メーカーに対する信頼感と親しみ・製品への馴染(なじ)み」でしょう。

 

インフラ産業の世界では何十年も前から「カスタマー・エクスペリエンス」をコスト低減につながる要因と考える企業が多く存在しました。つまり、製品購入時の価格(初期コスト)と運用コストに加え、「カスタマー・エクスペリエンス」を総合評価(導入から廃却までのライフサイクルコスト評価)に入れる企業が海外には多く存在したことを私自身の経験を通して知っています。最初のデジカメから4代目まですべて同じメーカーの製品であったのは偶然ではありません。実は、デジカメに限らず、私はあらゆる製品の評価基準としてこの考えを活用しているのです。

2015年7月21日 (火)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 善光寺を出発して帰路へ

小腹が空(す)きましたので、仲見世の店に入って「あま酒のソフトクリーム」「焼きおにぎり」と、
 
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野沢菜と野菜ミックス入りの「お焼き」を求めました。
 
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宿坊「白連坊」の前にある「むじな灯籠」の由来とそれをモチーフにして制作された「むじな地蔵」の説明看板
 
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錫杖(しゃくじょう)を持ち、丸い頭光(ずこう)、つまり輪光(りんこう)がある「むじな地蔵」の頭を撫(な)でる同行者。「むじな地蔵」の左手は与願印(よがんいん)ですから、必ずや願いを聞き入れ、望みを叶(かな)えてくださることでしょう。
 
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次いで、数珠(じゅず)を持った信心深い「むじな」の頭も・・。ちなみに、「むじな(貉)」とはイタチ科の穴熊(あなぐま)のことを指します。古来から「むじな」は、狐(きつね)や狸(たぬき)と同様、人を化かす動物と考えられてきたことから、この言い伝えが産まれたのでしょう。そして、「むじな」とよく似ていることからイヌ科の狸も「むじな」と呼ばれることがあるようです。
 
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善光寺参道(敷石)の由来
 
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駐車場に戻って、国道406号・県道399号・国道117号・県道35号を戻って長野ICへ向かいました。帰路は上信越自動車道を走って関越自動車道に出ても良いのですが、長野自動車道と中央高速道路を利用することにしました。こちらのルートで立ち寄りたい場所があるのです。その一つは長野自動車道の姥捨(おばすて)SA「月の里」です。
 
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千曲市の食材を使った料理を提供する食事処がありますが、私の目的は千曲川沿いに広がる善光寺平と信濃五岳を展望することです。
 
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善光寺平の後方にある「信濃五岳」は左から、戸隠連峰・妙高山・黒姫山・飯縄山(いいづなやま、飯綱山、中央やや左の大きく見える山)・斑尾山(中央やや右)です。右端には志賀高原も確認できました。ちなみに、日本の夜景100選にも選ばれた名所で、眼下に広がる景色全てが川中島の戦いの戦場であったそうです。
 
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次の立ち寄り先は諏訪SAにある「ハイウェイ温泉諏訪」
 
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利用料金は大人が610円、営業時間は午後10時まで、泉質はアルカリ性単純泉と表示されています。
 
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1階に受付・売店・休憩室があり浴室は2階です。2度目の立ち寄りですから迷うことはありません。
 
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そして、2階には脱衣所・洗面所・浴室がコンパクトに配置されています。
 
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浴室には大小2つの浴槽があることは8年前と変わっていません。
 
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売店の奥にある休憩所で一服したため、午後8時20分まで1時間強も滞留してしまいました。外に出ると先ほどより宵闇(よいやみ)が深まっていました。
 
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連休明けの初日のため通行量が少ない中央高速道路では、下り坂を最大限に利用しながら速度を抑えた(つまり電動モーターをフル活用)走行に心掛けました。それに加えて時間調整のため途中のSAで1時間近い休憩を入れたことで、日が変わった12時45分ころ自宅へ帰着。ちなみに、今回のドライブ旅は、走行距離が747.5kmに対して、燃費は24.7km/ℓと良好な結果でした。
 
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なお、安曇野(あずみの)と白馬についてはJAFの会員誌“JAFMate“(2015年5月号)の「関東甲信越・ドライブ情報」の記事を参考にしました。
 

<同行者のコメント> 混雑する時期をうまく外した旦那様のおかげで交通渋滞や人ごみに巻き込まれることはほとんどありませんでした。10年以上前に松本市を訪れた時は松本城のお堀のまわりをドライブしただけでしたが、今回やっと天守閣の最上階まで上がれました。松代の地下壕へ行く計画を立てた旦那様の考えは相変わらず理解不能です。それでも、旦那様の思いつきで立ち寄った善光寺ではお数珠をいただけましたから、きっと良いことがあると思います。(終)

2015年7月20日 (月)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 長野市の善光寺

松城町の代官山駐車場(象山東駐車場)を午後4時10分前に出発して、県道35号で長野IC方面へ戻り、さらに千曲川を渡って長野市の中心部へ向かいました。下氷鉋(しもひがの)交差点を直進して国道117号で犀川(さいかわ)を渡り、県庁前交差点を直進して県道399号へ入り、信大前交差点を右折して国道406号を東進し、大門交差点を左折して中央通(表参道)を北上しました。善光寺交差点から先は進入禁止ですから左折した50m先の左手にある善光寺大本願駐車場(最初の2時間が500円)に車を停めました。前回(6年前に)参拝した時は善光寺の裏手にある第3駐車場を利用しましたが、大本願駐車場の方が地の利が良いのです。
 
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午後4時30分ですからまだ参拝ができそうです。前回は11月の夕方(午後5時過ぎ)に到着したため、午後4時15分で締め切られた本堂の内陣に入ることができず、外陣にある「おびんずる様」(賓頭廬尊者)にお参りした(触れた)だけでした。仲見世を歩いて「定額山(じょうがくさん)」の山号がある仁王門を潜(くぐ)ります。
 
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仲見世(なかみせ、表参道)が山門へ向かって伸びています。
   
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前方の山門が近づきました。
 
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六地蔵像があります。全ての生命は6種の世界に生まれ変わるという仏教の六道輪廻の思想に基づき、それぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたとされます。ちなみに、京都の伏見宿、長野県上田市の北国街道、横浜の弘明寺(ぐみょうじ)、静岡県の藤枝宿、品川の品川寺(ほんせんじ)、群馬県の水澤観音、巣鴨の真性寺(しんしょうじ)などで見かけたことをブログ記事で紹介しています。
 
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山門(三門)に到着しました。楼上(ろうじょう)には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。
 
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善光寺山門は、江戸時代中期の寛延三年(1750年)に建立された山門(三門)で、国の重要文化財に指定されています。地震の影響で土台部分が傷んだことと全体の老朽化も進んだことから、平成14年 (2002年)から平成19年(2007年)までの約5年間、大規模な修復工事が行われたそうです。

 

「前立本尊遷座式」(4月4日から6月1日まで)、つまり「御開帳」が行われていることが表示されていました。数え年で7年に1度(すなわち6年毎)に行われる行事です。
 
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山門から本堂にかけて長い人の列ができています。本堂へ参拝するのを待つ人たちの行列なのでしょうか。
 
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同行者が突然、『お数珠(じゅず)をもらいたい』と言いだしたのです。それに引きずられるように私が列の最後尾に並ぶと、見るからに地位の高いお坊さんが目の前を通過して本堂へ向かうところでした。「大本願」と染め抜かれた法被(はっぴ)を着たお供を連れています。あとで調べたことですが、「大本願」とは仁王門の左手にある本願寺系の尼寺(25院)で、その住職は「善光寺上人(しょうにん)」と呼ばれるそうです。そして、「お数珠頂戴」とは高僧が手にされた数珠で参拝者の頭に触れて功徳をお分けいただくことでした。
 
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ちなみに、善光寺は「大本願」に加えて、同じく境内(山門の左手)にある天台宗の「大勧進(だいかんじん)」(14坊)によって護持と運営が行われており、「大勧進」の住職は「大勧進貫主(かんす)」と呼ばれ、天台宗の名刹(めいさつ)から推挙された僧侶が務めているそうです。

 

本堂内陣の参拝者は、先ほど進みかけたように、右手から入るようにとの表示があります。
 
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もう一度山門を潜(くぐ)ると、そこには信心深い参拝者たちは跪(ひざまず)いて「善光寺上人」を拝んでいます。どこからともなく戻ってきた同行者は『お数珠をいただけたわ!』と大はしゃぎ。
 
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「山門拝観」の表示を見つけました。山門の右手奥にある券売機で拝観券を購入しました。ちなみに、山門2階へ登楼参拝する拝観料は大人が500円。山門の階段から先は撮影禁止すから、その手前で本堂方面を撮影しました。「善光寺上人」は人の列に沿ってゆっくり進んでおり、その先には御開帳の期間中に立てられている回向柱(えこうばしら)が見えます。
 
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山門の上階から表参道が良く見渡せました。後で知ったことですが、外の景色は撮影しても良かったようです。残念! そして、山門2階の内部には山門本尊の文殊菩薩像、その四方を守護する四天王像、色鮮やかに修復された仏間の障壁画がありました。意外だったのは、四国八十八ヶ所霊場御分身仏があることです。

 

山門を下りた同行者は回向柱(えこうばしら)へ向かいました。この回向柱(高さ約10m)は本堂に安置されている阿弥陀如来(前立本尊)の右手に結ばれた金糸と五色の糸につながる白い綱で結ばれており、回向柱に触れることは前立本尊(まえだちほんぞん)に触れるのと同じで結縁(けちえん)が果たせ、その功徳ははかりしれないそうです。
 
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周(まわ)りに人だかりが出来ている回向柱に触るのは大変ですが、裏手(本堂側)は近寄りやすいようです。
 
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国宝に指定されている善光寺の本堂は仏を祀(まつ)る「金堂」と、参拝者が礼拝する「礼堂」とが一体になった建築で、その入口には「外陣参拝」と「内陣参拝」の場所を示す横断幕が下げられています。我われはもちろん「内陣参拝」の入口に向かいました。5月は午後5時まで「内陣参拝」(御開帳参拝券500円)ができますから、何とか間に合いました。「お戒壇巡(かいだんめぐ)り」(ご開帳参拝券に含まれる)はちょうど締め切られたところでした。次回参拝する時にはぜひ・・・。
 
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古墳時代の地元豪族・本田善光が関西地方で見出し、地元の信濃国へ持ち帰ったとされる御本尊「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背(こうはい)の中央に阿弥陀如来(あみだにょらい)、向かって右に観音菩薩(かんのんぼさつ)、左に勢至菩薩(せいしぼさつ)が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。大化期に次ぐ白雉(はくち)5年(654年)以来の秘仏であり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」(重要文化財)が造られました。普段は御宝庫に安置されていますが、数え年で七年に一度の「御開帳」の時だけ、特別にお姿を拝むことが叶います。(善光寺のhpより)
 

 

余談ですが、善光寺がいかに古い寺であるかを説明しましょう。善光寺は644年、つまり皇極天皇(こうぎょくてんのう)の治世に建立されたと伝えられます。百済より伝来した仏教をめぐっては仏教容認派の蘇我氏(そがし)と非容認派の物部氏(もののべし)が争い、587年に蘇我氏が物部氏を打った事で最終的な決着を見ました。日本で最古の寺は6世紀末ころ(587年ともいわれる)に蘇我馬子が開基した飛鳥寺(法興寺)とされます。 

 

次いで、593年に建立された官寺の四天王寺、607年の法隆寺はです。そして、日本最古の仏教大学であった東大寺は聖武天皇(在位724-749年)によって建立されました。つまり、善光寺は仏教が正式に伝来(公伝)したとされる538年よりわずか90年ほど後、東大寺よりも100年近く前に建てられたのです。ちなみに、日本の仏教が複数の宗派(真言宗・天台宗など)に分かれたのは平安時代またはそれ以降です。

 

話を元に戻します。「一光三尊阿弥陀如来」は飛鳥時代の中頃に秘仏化され、鎌倉時代にはご本尊を模鋳(もちゅう)した「前立本尊(まえだちほんぞん)」が鎌倉期に作られたそうです。「御開帳」で目にすることができるのはこの「前立本尊」の方です。内陣のかなり前に座ることができたため、「前立本尊」を拝むことができました。

 

午後5時から「夕座法要」の読経が内々陣で行われたあと、先ほどの「善光寺上人」がお導師として前立本尊の厨子(ずし)の扉と御簾(みす)を下す儀式を執(と)り行われました。ちなみに、翌日の午前5時30分から行われる朝事(あさじ)ではこれらを開ける儀式が行われるそうです。

 

10数分で終わった「夕座法要」(内陣参拝)のあと、同行者は『もう一度お数珠をいただきたい』と言い、表参道の反対側にでき始めた人の列に並びました。それにつられて私も列に並びました。お数珠をいただいたあとも並びなおして都合2度いただくことに。同行者も同様に2回、つまり計3回もお数珠をいただく強欲さ! 「お上人様」は、我々の欲など気にされることもなく、表参道をさらに進んで仁王門方面へ向かわれます。
 
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同行者は回向柱を触った時に知り合った女性と一緒に歩いています。
 
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(続く)

2015年7月19日 (日)

歴史に学ぶ大手企業の盛衰

最近、日本企業の低迷や不祥事が目に付きます。国家の興亡と企業の盛衰にアナロジー(類似性)を求めるつもりはありませんが、企業の場合も国家と同様、外部環境によって衰退すると言うよりも内在する問題点が企業を弱体化させることが多いように思われます。深刻な問題がニュースで報道された企業では、経営幹部間の確執や、成功体験に囚(とら)われた環境の変化を無視した(合理性に欠ける)経営戦略、あるいは一部経営者が独走するコーポレート・ガバナンス(企業統治)の欠如や不十分なコンプライアンス(法令順守)意識などがその主因となっています。注目される事例には、大手電機企業のT社(経営者間の勢力争いとコンプライアンス不在)・SN社(メーカーの原点を忘れて収益改善だけを優先させた経営)・SH社(成功体験に溺れた過大設備投資で破たんの瀬戸際へ)、ゴム業界のTGK社(耐震構造用ゴム製品の品質改ざんと隠ぺい)、航空業界のSM社(過大投資計画による経営破たん)、ファストフードのM社(顧客の満足よりも収益性を優先)、大手家具販売店のO社(お家騒動)を挙(あ)げることができます。
 
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本題に入る前に、国家の興亡(古代から近世までのヨーロッパにおける主要国とイスラム帝国)をまとめた2週間前の記事、「古代ギリシャ文明とヨーロッパ文明」のポイントを振り返ることにします。カリスマ性のある指導者が国家を起こし、その後継者たちが国の領土を拡大し、さらなる繁栄に導くことはいずれの国家にも共通します。そして、成熟した国家が次第に内部に問題を抱えるようになって弱体化行くのですが、国家のリーダーだけでなく国民(市民)も自国だけは磐石(ばんじゃく)な存在であると信じて疑いません。不幸にも世襲あるいは国内の勢力争いで資質に乏しいリーダーが選ばれるようになると、国内に軋轢(あつれき)と混乱が生じ、弱体化は着実に進行するのです。そして、人々がこれに気づいた時には手の施(ほどこ)しようがなくなっており、国家は自壊(じかい)の道をひた走ることになります。

 

表面的には革命あるいは外敵の侵入で国家が滅びたように見えますが、実体は自ら崩壊したと見る方が正しいのです。10年ほど前に読んだ中西輝政氏の著作「なぜ国家は衰亡するのか」(PHP新書1998年刊)に詳しく解説されています。しかし、これはローマ帝国やイスラム帝国のような巨大国家だけではありません。小国であっても同様なのです。さらに言えば、より身近な存在である企業についても共通する問題であり、家族についても似た状況が起こり得るのです。

 

先の記事「古代ギリシャ文明とヨーロッパ文明」でも触れていますが、地球上に最初に生まれた4つの文明(四大文明)であるメソポタミア・エジプト・インダス・黄河長江流域(中国)には共通する条件があります。それは大きな川の存在とそこで行われた農耕の発達があります。人を安定的に養うことができる農産物の蓄積が可能となったのです。そして、テクノクラート(各分野の専門家)が誕生し、文字を発明したことで知識の蓄積と継承が可能となったのです。

 

四大文明のうち黄河長江流域を除く3つの文明が滅びた原因は、農耕の発展や過剰な牧畜によって、森林の再生産が不可能になり、エネルギー資源が枯渇(こかつ)したことにあり、黄河長江流域だけは「石炭」の発見と普及によって存続し得たとの見方が有力です。つまり、文明はエネルギー源の喪失(そうしつ)で致命的なダメージを受けるのです。ちなみに、黄河長江流域の文明を含めないで世界三代文明、あるいはインダスと黄河長江流域の二つを除いたメソポタミアとエジプトの二つを古代文明とする考えが欧米では主流のようです。

 

四大文明に続いて誕生した文明は、古代ギリシャ文明、メキシコと中央アメリカのメソアメリカ文明(紀元前後から15世紀前半のマヤ・テオティワカン・アステカなど)、アンデス文明(紀元前後から16世紀前半)などを挙げることができますが、それらの詳細は本題に必須ではないので省略します。 

 

閑話休題。「栄枯盛衰」あるいは「盛者必衰 」をことさら強調することが本記事の目的ではありません。仔細(しさい)に考察すると、興亡を繰り返した国家や企業は、画一的なパターンではなく、それぞれに固有な特徴があるのです。国家の盛衰を考えるうえで、まず長期間存続した国家をピックアップしてみましょう。現代とは時間軸の尺度が異なり、記録に乏しい古代国家は別にして、この2000年間で最も長寿命を誇る国家を長寿の順に並べてみます。 

 

トップは何と言っても東ローマ帝国(395年から1453年までの1058年間)、次いでエチオピアのアクスム王朝(100年ころから940年ころまで約800年間続いたとみられる)とエチオピア帝国(1270年から1975年まで705年間)、1299年に建国されて1922年まで続いたオスマン帝国が623年間、韓国の李朝(末期の大韓帝国を含む李氏朝鮮)は1392年から1910年の518年間、アッバース朝は750年から1258年まで約500年間続きました。

 

これら6つの国家のうち、東ローマ帝国・オスマン帝国・アッバース朝の3国は多様な文化と人種を巧みに取り込むことで国家としてのエネルギーを持続させましたが、李朝は中国の王朝(明国と清国)から冊封(さくほう、主従関係の契約)を受けて朝貢国(ちょうけんこく)となることで安定した外交関係を維持しました。国内では儒教を重んじ(仏教を排斥)、固定的な社会階層を堅持することで、変化を極力抑える体制を維持しました。アクスム王朝は、東ローマ帝国などとの交易で栄え、勃興したイスラム諸国との関係も良好に保ちました。そして、アクスム王朝が新興勢力滅ぼされた後、同王朝の血筋を受け継ぐと称する人物がエチオピア帝国を樹立したのです。 

 

ちなみに、史上最大の領土を有したとされるモンゴル帝国は、チンギス・ハン(ジンギス・カン)が1206年に創設した遊牧国家で、1271年に緩やかな連邦国化し、1368年にモンゴル高原に撤退した北元が1634年に滅亡するまで存続しました。つまり、中央集権国家としてはわずか65年でしたが、モンゴル帝国は428年間続いたとみることができます。

 

そして、日本はどうでしょう。神話の世界では神武天皇が即位したとされる紀元前660年から現在まで2675年間続いている(いわゆる皇紀の考え)、3世紀から始まる連合王権であるヤマト王権の成立、あるいは歴史的に実在性が高いと考えられる継体天皇(507年即位)が大和に入った526年以降とする考えがあります。しかし、朝廷の力は時代とともに大きく変化し、天皇が実権を持っていた時代は限られることを考慮する必要があります。したがい、ここで何年間と特定することは避けたいと思います。

 

参考として天皇の実権が弱まった時期を挙(あげ)げると、9世紀から10世紀かけて藤原氏(藤原北家)が行った摂関(せっかん)政治の存在、鎌倉時代には天皇政権と武家政権の二重政権体制になり、それに続く室町幕府が成立すると天皇は南北朝に分裂して(後に統一されるものの)実権を失い、戦国時代の群雄割拠状態を経て成立した徳川幕府(1603年から1867年までの264年間存続)が明治政府が樹立されるまで政治の実権を持ち続けたことです。さらに、太平洋戦争に負けた直後の1945年からサンフランシスコ講和条約が発効した1952年までの7年間に亘(わた)って連合国に占領され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって統治された歴史も存在します。
 
                         ☆☆
 
 

それでは、企業についてはどうでしょうか。1世紀以上にわたって存続している長寿企業に共通する特徴を「The Living Company」(邦題は企業生命力、日経BP社2002年刊)の中で書いたアーリー・デ・グース氏は、創業100~700年の欧米および日本の企業27社について調査した結果、数百年続く長寿の企業には次のような特徴があると指摘しました。

 

1)環境に敏感である

2)強い結束力と独自性がある

3)寛大である(権力の分散化)

4)資金調達で保守的である

 

さらに、これらを様々な角度から考察し、「利益追求のみに走ると、企業の寿命は短くなる」と結論づけています。アーリー・デ・グース氏はまた、「企業は生命」であり、「強い結束力」の重要性を強調。人と人との強い結束力・人と人との信頼関係(つまり企業と従業員の結びつきと信頼関係)です。これらに必要とされる要件は長期雇用(長期にわたる勤続)が相互の信頼を築き上げるというのです。逆に、競争社会になれば、優秀で有能な社員ほど先に企業を見捨てると断じました。

 

これは大規模なリストラ(人員削減が中心で事業再構築は不十分)を断行した企業の多くが業績の低迷あるいは企業そのものが消滅したことを見れば明らかです。以前の記事で紹介した米沢藩の財政を再建した第9代藩主上杉鷹山は250年も前に上記の対応を実践していたことには驚かされます。

 

ちなみに、日本企業で最も長寿命の企業は578年に創業された社寺建築の「金剛組」で、今年で何と1437周年を迎える世界でも最古とされる老舗企業です。これは別格としても、日本には創業300年以上の企業が430社余り、100年以上の歴史を持つ企業が2万社近くもあるそうです。

 

話を現在に戻します。日本国内において勝ち組であるトヨタ自動車、セブンイレブン、ユニクロ、ニトリなどの企業については改めて触れる必要はないでしょう。私が関心を持つ自動車メーカーでは、別格のトヨタを除くと、ユニークな経営戦略を実践する富士重工(米国市場で成功、同業他社より収益性が高い)、マツダ(ロードスターなどユニークなコンセプトの車とクリーンディーゼル・エンジン技術が評価されている)、スズキ(高い研究開発費率と海外進出で成果、国内は過当競争の影響を受けている)は善戦しているようです。 

 

一方、苦戦しているのは本田技研工業と日産自動車の2社です。(注; 国内の軽自動車市場が低迷して業績が悪化したダイハツ工業および2000年と2004年に大規模なリコール隠しが発覚して現在も業績が低迷する三菱自動車と三菱ふそうバス・トラックはあえて取り上げません) 消費税の増税前の駆け込みで軽自動車の販売台数が急増した一昨年度とは様変わりの状況で、軽自動車をスズキのOEM(受託製造)に頼る日産は国内シェアを大きく落としました。苦戦するこれらの企業を分析すれば、反面教師として、企業経営に何が必要なのかがおのずと見えてくると思われます。

 

ホンダは、繰り返される主力車種のリコールに加え、タカタ製エアバッグの大量リコールと米国での事故無届け問題などが続出して、利益は確保しているものの危機的な経営状況にあります。その原因は2009年のリーマンショク後の全社的なリストラ(開発部門の本田技術研究所を含む人員削減)が大きく影響しているといわれます。これによってホンダは黒字経営を確保しましたが、創業者である本田宗一郎氏が開発部門を本体とは別会社化した目的を忘れてしまったようです。そして、ホンダらしさを喪失(そうしつ)したホンダはその咎(とが)めを現在受けているといえます。マクドナルドやソニーの失敗と共通する本質を忘れた利益至上主義が災いした企業の事例に分類されるでしょう。

 

そして日産自動車は、次世代自動車の本命と位置づける電気自動車まだまだ発展途上の技術)の販売が不振であることの穴埋めとして、他社の周回遅れでハイブリッド車(現在は高級FR車のみに独自の1モーター2クラッチ方式を採用)を2016年度末までに15車種発売すると発表しました。市場よりもメーカーの都合論理)を優先したツケが回ってきたようです。経営の効率性が他社と比較して低いことも懸念材料です。昨年、ゴーン社長は経営不振の責任を取らせる形で日本人COOを更迭(こうてつ)しましたが、最近になって腹心の外国人幹部3名が相次いでライバル企業に流出してしまいました。昨日、自身の後継者を日本人から選ぶと発言したことは、 実質的な親会社であるルノーの会長兼CEOも務めるゴーン氏の日産自動車における求心力が低下したことを窺(うかが)わせます。カリスマ経営者の負の側面が顕在化(けんざいか)したのかもしれません。
 
                         ☆
   

余談になりますが、個人的な興味から自動車関連の技術にも触れたいと思います。街中の低速走行やアップダウンの多い道路の走行時でも良好な性能と燃費を両立できるハイブリッド車に傾注(けいちゅう)する日本の自動車メーカーの課題は、ヨーロッパの乗用車市場で主流(シェア50%以上)になっているクリーン・ディーゼルエンジンのダウンサイジング(小排気量化)とターボチャージャー(ツインターボ)技術で大きく後れをとっていることでしょう。国内市場ではSKYACTIVE-Dエンジンにトルク特性を改善するシーケンシャルTurboを搭載したマツダ車が60%以上のシェアを持っていますが、今年に入ってメルセデスベンツ・BMW・ボルボ・MINI・シトロエン・フォルクスワーゲンなどの大手ヨーロッパ自動車メーカーが挙(こぞ)って日本市場にクリーン・ディーゼル車を投入(あるいは投入予定を発表)しています。

 

ターボチャージャー付のクリーン・ディーゼルエンジンは低速での高トルク特性と高速での高出力性能を両立できる理想的なエンジン(特に高速・長距離運転において)ですが、それでもハイブリッド車と同様にコストの課題があるようです。ダウンサイジングされたクリーン・ディーゼルエンジンでも、より高い圧縮比に耐えるようにガソリンエンジンより堅牢(けんろう)に作られているため、ディーゼル車はガソリン車に比べて車重が重くなることと、高度な燃料噴射装置が必要であるため、構成が複雑なハイブリッド車(節約できるガソリンの金額よりハイブリッド機能のコストの方が高額であるという的外れの指摘がある)と同様に通常のガソリン車に比べてコストアップ(30-40%)することです。量産化によるさらなるコストダウンに期待したいところです。 

 

コスト面だけではなく、ディーゼルエンジンが有する独特のエンジン音と排気ガスの匂(にお)いも、かなり改善はされていますが、人によって気になるかもしれません。また、CO2の排出量はガソリン車よりも少ないのですが、逆に微粒子状物質と窒素酸化物を排出することは弱点と言えるでしょう。ちなみに、ディーゼルエンジンはガソリンよりも安価な軽油を使うから経済的であるという人がいますが、現在は税制上(軽油取引税は1リットル当たり32.1円、ガソリン税は53.8円、いずれも石油税と消費税が別途掛かる)の優遇措置で安くなっているだけですから、軽油の需要が増えるとこのメリットがどうなるかは分かりません。ちなみに、現在のガソリン価格の平均は1リットル当たり約135円、同じく軽油は約110円で、税金の多寡(たか)に因(よ)るさであることが分かります。

 

本記事のテーマに興味を持たれた方は、先述の「国家はなぜ衰亡するのか」と「企業生命力」、そして4年前に紹介した「ビジョナリーカンパニー」(ジェームス・C・コリンズ著)をお読みになることをお勧めします。

2015年7月17日 (金)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 長野市の松代象山地下壕(後編)

同じ壕内でも見る方向によって雰囲気が変わります。
 
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非常用のインターフォンはもちろん地下壕の一般公開に設置された設備(壕内に5か所設置)です。
 
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明るい場所に出ました。前方に見えるのは2番目の曲がり角です。
 
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最奥部からかなり戻った場所から見た2番目の曲がり角の方向
 
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2番目の曲がり角の先には直進する壕が照明で照らし出されていました。
 
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さらに2分ほど歩いた地点
 
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照明に照らされた壁の様子
 
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鉄骨の骨組みが続きます。
 
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少し広い場所に出ました。
 
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長い壕が続きます。
 
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左折した先に出口(つまり入口)が見えます。壕内に入ってから約30分が経過していました。
 
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ヘルメットを返却所に返して駐車場へ戻ることにしました。北へ伸びる川沿いの道で「象山恵明禅寺(えみょうぜんじ)」を見かけました。禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、佐久間象山の号はこの寺に因(ちな)んだとされるそうです。
 
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その先には朱色の鳥居が
 
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竹山随護稲荷神社でした。看板の説明によると、『真田信親公(注釈;真田昌幸の孫、真田幸村の甥)が江戸の屋敷内に鎮守として祭っていたもので、四代目藩主が真田十万石の宗家を継ぐことになったため、江戸の屋敷から恵明寺境内に遷座した。そして、明治4年の神仏分離令で神社となった』そうです。
 
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落ち着いた佇(たたず)まいの住宅が並んでいます。
 
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二度右折して南へ歩くと駐車場が近づきました。
 
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駐車場には先客の観光バスの姿がありません。
 
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当初の計画では「松代象山地下壕」を最終目的地に予定していましたが、立ち寄る先を急遽追加することにしました。その前に最後の小休止を入れます。(続く)

2015年7月16日 (木)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 長野市の松代象山地下壕(中編)

先へ進むと照明の間隔が広くなって構内は薄暗くなりました。
 
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削岩機ロッドの説明
 
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その内部は奥行がまちまちですが、いずれも行き止まりになっています。
 
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掘りかけと思われる壕
 
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2番目の曲がり角に「見学ルート図」がありました。
 
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曲がり角を左折すると、一直線の壕が続いていました。実際の壕内は写真よりも暗かった印象があります。
 
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右手に「木片(電気配線跡)」の説明がありましたが、壕内は暗いため、それを確認することはできませんでした。
 
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一段と暗くなった壕内
 
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岩に刺さったままの削岩機ロッド
 
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非公開部分に書かれた文字などの写真(実寸大)
 
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反対側の壕
 
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トロッコ枕木の跡
 
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壕内はさらに暗くなりました。
 
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「測点跡」は壕の東西・水平を測量した跡のようですが、測点があった暗い天井よりも明るく照明された壕の方が目立ちます。
 
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その先で金網のフェンスに行き当たりました。出入り口には鍵が掛けられています。
 
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天井付近の様子
 
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壕はさらに先へと続いているようです。
 
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「地下壕の公開部分はここまでです」と表示されていますから、ここで引き返すことにします。
 
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(続く)

2015年7月15日 (水)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 長野市の松代象山地下壕(前編)

デジカメが壊れて使えなくなりましたが、何とか気を取り直して、国道158号で長野自動車道の松本ICへ向かいました。松本ICから向かうのは最終目的地の長野市です。他に選択肢はありませんから、ここから先はiPnone 5で撮影することに。梓川(あずさがわ)を渡った安曇野ICの3km手前ポイントから再び北アルプスを望むことができました。
 
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筑北(ちくほく)PAを通過。筑北の名称はこのPAが筑摩郡筑北村にあることによりますが、筑摩郡(ちくまぐん)に先に触れた旧筑摩県の名前が残っています。
 
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更級(さらしな)JCTで上信越自動車道に入り、松代PAを通過すると、ほどなく長野ICに到着しました。越松本ICから約45分の所要時間でした。
 
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長野ICから県道35号で市南部の松代町に入りました。「善光寺御開帳2015 日本一の門前町大縁日」の垂れ幕が街灯に飾られています。逆光のため、ダッシュボードがフロントガラスに反射して、映り込みのある見難(みにく)い写真になってしまいました。
 
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松代地区内にあるはずの代官山駐車場(象山東駐車場)を10分以上も探し回ってやっと到着できました。観光バスが停まっていますから間違いなさそうです。
 
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松代郵便局から先の道は幅が狭くなるため、うろ覚えの案内図を意識しながら郵便局の角を左折したのが間違いのもとでした。もう一本先の紺屋町交差点まで進むべきだったのです。
 
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案内標識にしたがって「象山地下壕(ぞうざんちかごう)」へ向かいます。
 
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山寺常山邸(やまでらじょうざんてい)」の看板があるお屋敷を見かけました。
 
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立て看板には『鎌原桐山(かんばらとうざん)および佐久間象山と並ぶ「松代三山」と称(たた)えられた兵学者の「寺山常山」の自宅で、表門は常山が暮らした江戸時代末期から明治時代初期に建てられたと推定される』と説明してありました。
 
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川を渡るようです。
 
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その先に「象山地下壕の入口」がありました。駐車場から7分ほど歩いた場所で、入場が出来なくなる午後3時まで残り30分に迫っていました。ちなみに、地下壕の見学は午後4時まで可能で、入壕は無料です。
   
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「松代象山地下壕見学者への注意書き」と「松代象山地下壕の説明」
 
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地下壕の入口脇に「朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」がありました。終戦間近に建設された「象山地下壕」にも多くの朝鮮人が動員されていたことを知りました。
 
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横にある「追悼平和記念碑案内」に書かれた内容を長くなりますが以下に紹介します。
 

『太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて大本栄の移転と国体(天皇制)維持のため、軍の命令によって、防衛上の観点から選ばれた松代を中心に、大本営と皇居(舞鶴山)、政府機関と日本放送協会・中央電話局(象山)。皇居住居(皆神山・後に食糧庫に変更)、賢所(弘法山)、受信施設(妻女山)などを移転する大工事が秘密裏に企画された。1944年11月11日から45年8月15日、敗戦の日まで続けられたこの工事には、東部郡、工兵隊、熱海鉄道教習所生徒、および産業報国隊・勤労報国隊の徴用者や学徒・学童も多数動員されたが、地下壕掘削などの中心的役割を果たしたのは、当時植民地下の朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)から多くの強制連行者を含む約6000人の人々であった。(中略)この大地下壕を中心とする「松代大本営」は、太平洋戦争と朝鮮植民地化に象徴される日本のアジア侵略の歴史と、その反省を永遠に刻む歴史的遺跡であり、この碑の建立と壕の見学が、なお残る民族差別の克服と友好親善の新たなる第一歩となることを切に願うものである。  1995年8月10日 松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員会』

 

10日前の7月5日に「明治日本の産業革命遺産」(全23か所)が世界遺産への登録が決定しましたが、そのうち7つの施設は世界遺産登録の基本精神に反するとして韓国から強い反対があり、日韓両国の外務大臣間では韓国が世界遺産登録を目指す「百済の歴史地区」と日本の「明治日本の産業革命遺産」の両方が登録されるよう両国が協力することで合意を見ました。しかし、世界遺産委員会の委員会審議の直前になって韓国側は「強制徴用」の表現の仕方を巡ってまた反対の方針を打ち出したことで、両国はやや玉虫色の表現で再合意した経緯を思い浮かべ、複雑な思いでこの記事を書いています。

 

「松代象山地下壕案内図」には全長が10km以上もあるという地下壕の地図と一般公開されているクランク型のルート(全長519m)が表示されています。
 
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入り口脇の小屋に置かれたヘルメットを被(かぶ)って地下壕の入口へ
 
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地下壕の入口を入ると、その先は急な下り坂になっていました。
 
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しかし、すぐ平らになった壕には補強のため鉄骨の骨組みが設置されています。
 
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(続く)

2015年7月14日 (火)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 国宝松本城(終)

太鼓門枡形と二の丸御殿跡へ向かいます。
 
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内堀を挟んだ右手が二の丸です。
 
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太鼓門は文禄4年(1595年)ころに気づかれたそうです。時の合図、登城の合図、火急の合図などを伝える重要な太鼓楼が置かれたことからこの名前があります。現在の太鼓門は平成11年(1999年)に復元されたものです。
 
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太鼓門礎石(そせき)の由来
 
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太鼓門から見た枡形です。その周りの壁には銃眼・矢眼などの狭間(さま)が設けられています。
 
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「太鼓門枡形の由来」には枡形の目的(城の入口を固く守る)と形状(石垣と土塀を四角に囲った二重の門構え)が説明されています。
 
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櫓門の脇にある「玄蕃(げんば)石」は、重量22.5トンの巨石で、枡形門の威容を示す役目があることと、名称は築造者の官名に因(ちな)むことが説明されています。
 
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城外から見た太鼓門です。江戸時代には外堀の外側にある三の丸から二の丸と本丸に入る正門だったそうです。
 
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同じく外堀(手前)と二の丸(奥)
 
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外側の門付近から見た太鼓門
 
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二の丸御殿跡は、本丸御殿が焼失したあと、藩の政庁が移され建物で、幕末まで使用されたそうです。そして、明治初期(廃藩置県後)に筑摩県(明治9年まで存在した松本・諏訪・高遠・飯田を含む県)にの庁舎として使われましたが、明治9年(1876年)に消失しました。昭和54年(1979年)から6年間をかけて発掘され、史跡公園として整備され、平面復元されて見学できるようになっています。
 
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「二の丸御殿絵図」
 
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「式台(しきだい)」は玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置される板のことで、その奥に玄関の表示が見えます。
 
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12時半になりましたので、を松本城の二の丸跡にある松本市立博物館には立ち寄らず、昼食にすることにしました。松本城の西(埋橋の近く)に「そば庄 松本城店」があるようですが、松本市立博物館から大名町通りで南方向へ200m余り歩いた大手三丁目にある有名な蕎麦屋「三城(さんじろ)」に入りました。このエリアは松本城の三の丸があった場所で、「大名丁」と呼ばれていたそうです。
 
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店のファサードには「三城」と染められた暖簾(のれん)が架けられているだけですから通り過ぎてしまうかもしれません。事実、私も行き過ぎたことに気づいて戻りました。
テーブルは4人卓と2人卓が各々2組、カウンターは数席ですから、最大でも10数人しか同時に利用できません。店内はファサードと統一感がある白い壁と木曽桧(きそひのき)の柱とテーブルの茶色が組み合わせはシンプルで、店のこだわりが感じられます。幸運にもテーブルがひとつ空いていました。店内にはメニューらしきものはありませんので、「二人前」とだけ注文しました。この店が提供するメニューは「ざるそば」(2000円)だけなのです。
 
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まず、お通しの「蕨(わらび)のお浸(ひた)し」に加えて、「冷酒入れ」と「ぐい飲み」が配膳されました。まったく癖がない「わらび」は東の美ヶ原で採れたものとのこと。冷酒も口当たりが良いものでした。ちなみに、箸(はし)も桧で作られているようです。
 
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次いでメインの盛り蕎麦(そば)蕎麦です。木曽開田産の玄蕎麦(げんそば)を自家製粉機で挽き(ひ)くるみしたそば粉を使い、太めに切られた蕎麦には香ばしい香りがありました。蕎麦汁(そばつゆ)も濃(こ)くがあって、蕎麦との相性も良いものでした。
 
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蕎麦湯を飲んでいると漬物が出されました。きゅうり・奈良漬け・沢庵(たくあん)はいずれも美味しく、最後は柔らかくてほのかに甘い花豆でした。一人前が2000円と高めの値段に納得できましたが、静かさに包まれた環境で蕎麦を楽しむための店のようで、気詰まりを覚えた私は30分あまりで「三城」を退出しました。

 

車を停めた開智駐車場へ戻るために松本城の三の丸方面へ向かと、蔦(つた)が絡(から)まる建物を見つけました。
 
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このあとハプニングが起こりました。脇見をしていて歩道の段差に躓(つまず)いたため、ストラップを手首に通していたデジカメ(FinePix F770EXR)が歩道の敷石に強くぶつかってしまったのです。私自身も膝(ひざ)を敷石にぶつけていたい思いはしましたが、怪我がなかったことは幸いでした。デジカメに電源が入っていたため、レンズ筒の先端に傷痕がくっきり残っています。念のためデジカメの動作確認をすると、撮影したばかりの写真が表示された。しかし、安心したのも束(つか)の間、撮影モードにするとアラームが出てしまいました。レンズ筒の内部にダメージを与えたようで、レンズ筒がまったく動かないのです。

 

6年前、富士山山頂でご来光を待っている時のことです。先代のデジカメ(FinePix F30)が強風で三脚ごと倒れて、レンズ筒が動かなくなり、同様のアラームが出ました。しかし、その時は軸が少しずれたレンズ筒を騙(だま)しだまし元の位置に戻すことができ、何とかご来光の撮影を継続することが出来ました。しかし、今回はレンズ筒の被害状況が相当深刻でした。

 

駐車場に戻って車の中でも何度も試してみましたが、前回のように上手くは・・・。破損したデジカメのことは考えないことにして(気を取り直して)、次の目的地へ向かうことにしました。(続く)

2015年7月13日 (月)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 国宝松本城(その4)

順路にしたがって4階へ下りました。御座所は城主が天守に入ったときはここに座を構えたと考えられているそうです。三間×三間となっていて、小壁(こかべ、鴨居と天井との間の壁)をおろし、鴨居(かもい)の真上に取り付けた長押内法長押(うちのりなげし)を廻(まわ)していました。
 
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3階を経て2階まで下りました。「二の丸御殿の発掘と整備」の説明パネルと出土品が展示されています。
 
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花頭窓(かとうまど)は上が尖った特殊なアーチ型になった中国由来の窓で、戌亥小天守4階に2か所、辰巳附櫓2階に2か所設けられているそうです。
 
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窓の内側には水きりの小穴があけられているとのこと。
 
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遠眼鏡(とおめがね)は望遠鏡の古い呼び名
 
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月見櫓は三方吹き抜けとなり、回りに巡らされた朱塗りの回縁(まわりぶち)や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守や他の櫓と比べて開放的です。ちなみに、回縁は壁の最上部分と天井が接する部分に取り付けられる縁のような部材のこと。そして、この月見櫓は松本城主松平直正(家康の孫)によって、一国一城例という陶製の厳しい中、寛永年間に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものだそうです。
 
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出口は月見櫓の地下一階にありました。
 
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下から見上げた大天守
 
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月見櫓の近くにある牡丹が満開でした。説明看板には、『信濃国守護で戦国大名であった小笠原長時が同じ甲斐源氏の一族である武田信玄に追われて天文19年(1550年)に松本の林城館(松本市の東部にあった山城)を去る時、山辺の兎川寺(とせんじ)の住職に託した牡丹と伝えられ、昭和32年に松本城に移植された小笠原牡丹(ぼたん)である』とありました。
 
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ツツジの朱色が新緑に映(は)えています。
 
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「日本の城」の展示コーナーには松本城の他に、沖縄の首里城・熊本城・島原城・唐津城・平戸城など九州・沖縄の城をはじめ、全国の主要な城写の真パネルが展示されていました。
 
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大天守から東へ伸びる道を戻りました。享保12年(1727年)年に消失した本丸御殿跡が原っぱの用に広がっています。
 
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こちらは本丸の東側から見た大天守を背景にした本丸御殿跡
 
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黒門の手前に「宇宙つつじ」と変わった名前のツツジが咲いていました。
 
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本当に宇宙を旅したツツジであると説明されています。
 
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黒門を抜けて本丸を出ました。
 
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(続く)

2015年7月11日 (土)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 国宝松本城(その3)

順路にしたがって階段で3階にあがります。大天守の3階は乾小天守三階と同じく下から二重目の屋根がこの階の周囲を巡ってつくられているため窓が作れません。隠し階、暗闇重などと呼ばれています。戦時は倉庫・避難所としてつかわれたと考えられているそうです。
 
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3階から短い階段で4階へ上がると雰囲気が変わりました。1階から3階より柱が少なく、天井が高く、四方の窓から光が入るため、広々として開放的な室内です。
 
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次いで、4階から5階へ上がる急な階段が待ち構えていました。4階の床と天井の間は4メートル弱あるそうです。
 
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大天守5階は3間x3間の広さがある大広間となっていました。4階よりもさらに天井が高く(約4.5m)、四方に窓が開いていて戦況を確認できるため、有事には作戦会議室だったそうです。
 
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東西に千鳥破風、南北に唐破風が取り付けられ、室内には破風の間があり、武者窓から全方向の様子を見ることができます。
 
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武者窓(むしゃまど)
 
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大天守の最上階(6階)へ上がります。周囲に3尺(90cm)通りの入側(いりかわ)が巡る3間の一部屋となっています。畳を敷くと京間16畳(階段を除く)となり、有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となったところとのこと。
 
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6階の屋根裏は太い梁が井の字の形に組まれ(井桁梁/いげたばり)、四方へ出て軒をつくる垂木の下に、さらに太い桔木が外側に向かって放射状に配置されています。これは天守最上階の重い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるため、テコの原理を使った装置です。乾小天守四階にも同じ桔木(はねぎ)があるそうです。
 
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「東方向の展望」を説明する写真パネルには山辺谷から美ヶ原が表示されています。
 
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ほぼ同じ東方向を撮影さいました。芝生に覆(おお)われた本丸には本丸御殿跡の形状が瓦を使って表示されているのが確認できました。ちなみに、本丸御殿跡の右奥に見える平屋の建物は売店で、その先(城外)には松本市役所の建物も見えます。
 
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「南方向の展望」を示す写真パネルには松本市街の中心部と塩尻・木曽方面が
 
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「西方の展望」を写した写真パネルには、安曇平とその先にある北アルプス(乗鞍岳・槍ケ岳・常念岳・燕岳など)が
 
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「北方の展望」の写真パネルには信州大学と重文開智学校から放光寺・城山方面が
 
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元和3年(1617)松本に入封した戸田氏が天井近くに祀(まつ)ったされる二十六夜神は、月待ち信仰であるとともに、松本城の守り神でもあるとのこと。
 
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(続く)

2015年7月10日 (金)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 国宝松本城(その2)

入口は大天守と乾(いぬい)小天守の間にある大手口でした。内部には観光客が多かったため、写真撮影は限られた範囲しかできませんでした。各階の雰囲気は国宝松本城のhp(各階のパノラマ画像)を参照してください。
 
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「松本城天守の構造」のパネルには、壁は鉄砲の攻撃に備え20~30cmの厚さがあるここと、土台指示柱は天守台石垣の中に16本のツガ材の丸太を立て1000トンの重みを支えているること、軟弱な地盤に基礎を設けるため濠に面した石垣の下に長財を直角に並べ筏(いかだ)を組んだ筏地形にする工夫があることが説明されています。
 
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乾小天守の階段を上がります。
 
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「松本城の全景絵図」には松本城とそれを取り囲む武家屋敷が整然と配置されている様子が描かれています。
 
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太い梁(はり)の組み方
 
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大天守と乾(いぬい)小天守を結ぶ渡櫓(わたりやぐら)を抜けて大天守の1階へ出ました。太い柱が林立しています。
 
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石落(いしおとし)は、攻め寄る敵兵から大天守を効果的に守るため、石垣のすぐ上に設置されています。
 
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大天守につけられていた鯱瓦(しゃちがわら)が展示されていました。
 
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蕪懸魚(かぶらげぎょ)は大天守の三角形をした破風と呼ばれる部分についていた火災除けです。昭和の修理で取り替えられたものでした、ちなみに、中国では魚の形をしていますが、日本では蕪(かぶら)の形を持市手いるそうです。
 
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大天守の2階へ上がります。
 
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火縄銃の展示
 
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「からくり」(火縄銃の機関部)には写真左側の上から、伝来当時のものを改良した一番多く作られた「平カラクリ」・江戸幕府鉄砲方の井上外記正継によって考案されたもので「無双カラクリ」(外記カラクリとも呼ばれる)・江戸時代中期に開発された「蟹ノ目なき内カラクリ」(だぶるゼンマイカラクリとも呼ばれる)の3種類があることと、写真右側には火縄銃の打ち方(5ステップ)および「戦いの火蓋(ひぶた)が切られる」の言葉は「口薬(起爆薬)を入れるため火縄銃の火皿を覆う蓋(ふた)を開ける」ことから生まれたことが説明されていました。
 
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「大阪の陣」と「島原の合戦」の絵図の前にも火縄銃(大筒と小筒)が展示してあります。半月状の突起がある不思議な形をしたものは「火矢」と呼ばれた小型のロケット弾で、その手前にある小さな筒状のものは火縄銃に火薬と弾丸をすばやく装填(そうてん)するための道具「早合(はやごう)」のようです。
 
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当世具足(とうせいぐそく)は室町時代後期から安土桃山時代に生じた新しい鎧の形式です。甲冑(かっちゅう)、腰には玉入れ、方からは瓢箪(ひょうたん)のような口薬入れ(点火薬)を下げています。ちなみに、火縄銃を創部すると20キログラム弱の重量になるそうです。
 
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織田信長・徳川家康連合軍は三河国の設楽原(しだらがはら)で、3000梃(ちょう)の鉄砲隊の活躍によって、1万5000の武田騎馬軍団を打ち破った「長篠の合戦」の展示です。愛知県新城市(しんしろし)市にある設楽原歴史資料館でも詳しい展示を見ています。
 
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オランダ製の船載砲(城塞砲)です。口径33mmの大砲は500mまで弾を飛ばすことができたとのこと
 
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(続く)

2015年7月 9日 (木)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 国宝松本城(その1)

国道148号で青木湖と木崎湖の脇を通り抜けて、大町市と安曇野市を通過して、さらに南下して松本市へ向かいました。
 
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新橋(しんばし)交差点で県道295にそれて、城山公園脇を抜けて、松本城の北西にある市営開智(かいち)駐車場に到着しました。ちなみに、松本城の南側には大手門駐車場があるようです。
 
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松本城の北側にそって伸びる市道を横切って濠端(ほりばた)の遊歩道を歩きました。花壇に植えられたスミレが美しく咲いています。
 
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内堀に架かる埋橋(うずみばし)越しに松本城の大天守と乾(いぬい)小天守が見えました。
 
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現在地は右上(城の西北角)
 
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埋橋(うずみばし)は通行禁止
 
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内堀を泳ぐコブハクチョウ
 
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少し先から見た大天守の右後方に辰巳附櫓(たつみつけやぐら)が少しだけ覗(のぞ)いています。
 
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南側から見た大天守と辰巳附櫓、そしてその右隣は赤い欄干(らんかん)が印象的な月見櫓です。
 
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内堀を渡って二の門(高麗門)から城内に入ります。門の左右に続くのは狭間(はざま)がある控塀(ひかえべい)です。門の奥に見える建物は券売所で、松本城(本丸庭園天守)と松本市立博物館の共通拝観券は大人が610円でした。
 
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券売所がある枡形を抜けると黒門がありました。もらったパンフレットには、『黒門は本丸に入る正門で、櫓門(やぐらもん)と枡形(ますがた)からなり、本丸防衛の要(かなめ)です。櫓門(一の門)は昭和35年(1960年)に復興し、二の門と袖塀(そでべい、写真右端)は平成2年(1990年)に復元された』と説明されています。
 
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「松本城と城下町」の説明看板には、『松本城は深志(ふかし)城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。そのころ今の二の丸東側には市町(いちまち)が形成されていたが、西方一帯は湿地であった。本格的な近世城づくりが始まったのは1580年代で、城郭(じょうかく)と城下町一体の都市計画を推進したのは、豊臣(とよとみ)大名としてこの地に入った石川氏である。天守を建てたのは2代目康長の時で1593年~95年と推定される』とありました。
 
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松本城保存の功労者として、大阪出身で松本天守閣保存会を設立した初代松本中学校長の小林有成(うなり)氏(右)と競売に付された天守閣の買戻しに尽力した松本生まれの市川量造(りょうぞう)氏(左)が紹介されていました。
 
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本丸庭園と大天守の全景
 
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文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守としては日本最古です。明治の大改修後の昭和11年、国宝に指定されました(昭和27年再指定)。別名深志(ふかし)城とも呼ばれています。姫路城、彦根城、犬山城とともに四つの国宝城郭のひとつです。
 
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大天守へ向かいました。
 
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(続く)

2015年7月 7日 (火)

古代ギリシャ文明とヨーロッパ文明

7月5日にギリシャにて行われた国民投票で、EU(ヨーロッパ連合)が求める財政緊縮策の受け入れに反対する票が全体の60%を越え、40%弱の賛成票を20ポイント以上も上回りました。EUの要求に反対する立場で今年1月に政権の座についいたチプラス首相は、EUとの交渉を有利に進めるため国民に反対票を投じるよう呼びかけて、財政緊縮策の緩和と負債の減免について交渉しようとする目論見(もくろみ)の第一歩は成功しました。しかし、EUのギリシャに対する姿勢は以前よりも厳しくなっており、事態が進展するかどうかはまったく予断を許しません。

 
ちなみに、財政破綻(はたん)の主要因は、公務員が全労働人口の25%と高率を占める、手厚すぎる年金制度(支給開始年齢が55歳・現役時代と大差がない支給額)、金持ちの脱税と資産隠し(海外流出)に加えて一般市民による脱税も横行、2009年に発覚した政府による天文学的数字の粉飾決算の4つが挙げられます。ギリシャ政府は公務員の削減と年金のカットを行って来ましたが、失業率が上昇したことで、これ以上の財政緊縮策に拒否反応が出ているようです。また、脱税についてが改善が見られないそうです。

 

いずれにしても、ギリシャ経済の短期的な混乱は避けられず、ヨーロッパ経済だけではなく、世界経済にも大きな影響がでることは不可避のようです。経済の門外漢である私にはギリシャ危機が日本経済へどれほどの悪影響を及ぼすかを予測することができませんが、自分の環境に生じるかも知れないリスクを考慮した対策を取っておくことは極めて重要であると考えています。ギリシャの負債問題だけではなく、6月の中旬から3週間で中国・上海市場の株価が30%も暴落したことも大きな懸念材料です。値動きの荒い株や通貨で一儲けしようなどという無謀な考えには賛成できません。台風の襲来時と同様に、事前の防災準備を怠らず、暴風雨の過ぎ去るのを待つのが賢明だと考えています。君子ではなくとも危険に近寄るべきではないでしょう。

 

閑話休題(かんわきゅうだい)。経済危機に見舞われたギリシャに対してEUが2010年から約32兆円もの経済支援を行ってきた理由として、加盟国の脱落によってEUが弱体化することを防ぎたいとの考えがドイツを中心とするEU主要国にあると考えられますが、もう一つの理由はヨーロッパ文明の源流が古代ギリシャ文明にあるとするヨーロッパ人に共通する意識が根底にあるとも言われています。学生時代から西洋史に関心がある私は、後者の意見に刺激されて、古代ギリシャ文明とヨーロッパ文明の関係を再吟味することにしました。

 

                        ☆

1.古代ギリシャ文明とは

 

紀元前3000年頃、ギリシャ人は今のギリシャを中心とする東地中海世界に北方から登場し、紀元前2000年ころに生まれた「エーゲ海文明」(B.C.2000ころB.C.1400年ころのクレタ文明、B.C.1600ころB.C.1200年ころのミケーネ文明など)の名で呼ばれる文明を誕生させましたが、その後の数世紀に亘(わた)っては暗黒時代が続いて国内は混乱しました。やがて、ポリスとよばれる小都市国家が分立して相互に争うようになります。このポリスでは当初、王や貴族を中心とする政治でしたが、地中海各地に植民市を作るようになると貿易に従事する一般の人々も豊かになり、高価であった武器・防具を所有して国防に従事し、政治への参画を求めるようになります。ちなみに、一年半前に訪れたクロアチアの港町であるスプリットトロギールなどもこの植民市の例です。

 

このため、次第に一般市民(平民)による政治が確立しますが、相変わらずポリス間の戦争が続きましたが、オリンピックの原型であるオリンポスの祭典やギリシャ神話などを共有し、異民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す者)と差別し、自分たちの祖は伝説上の英雄ヘレンであるとして自分たちをヘレネスと呼んでいました。マケドニア出身のアレキサンドロス(アレキサンダー大王)が紀元前338年にギリシャ全土を掌握したあとは、東方遠征(紀元前334年~)で大国ペルシャ王国を滅ぼしてマケドニア帝国を樹立します。しかし、アレキサンダー大王が紀元前323年にバビロンで客死すると、その継承を巡って諸将の間で争いが起こり、帝国は「ヘレニズム三国」と呼ばれる3か国(マケドニア、メソポタミア、エジプト)に分裂しました。ちなみに、その一つであるエジプトの「プトレマイオス朝」の女王クレオパトラがギリシャ人であったことはこの経緯によります。

 

2.ローマ帝国・フランク王国・神聖ローマ帝国が引き継ぐ

 

しかし、「ヘレニズム三国」のマケドニア王国(ギリシャを含む)は紀元前148年に、メソポタミアのセレウコス朝は紀元前83年に、エジプトのプトレマイオス王朝は紀元前30年に古代ローマ((ローマ共和国末期)に滅ぼされて、いずれもローマの属州になります。「ヘレニズム三国」の支配地域を含む地中海沿岸をすべて支配した古代ローマ(後のローマ帝国)は古代ギリシャの文明に強いあこがれを持っており、392年には国教に指定されたキリスト教とともに、後のヨーロッパ文明に大きな影響を与えることになります。しかし、話はそれほど単純ではありません。長い説明になりますが、ローマ帝国以降のヨーロッパ史を説明します。(以下は1975年11月に撮影した写真で、上からローマ教皇の住居であるヴァチカン宮殿とローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが作らせたトレヴィの泉)
 
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ローマ帝国が395年に東西のローマ帝国に分裂しましたが、西ローマ帝国がゲルマン人の侵入で衰退し、5世紀末には新興のフランク王国などゲルマン系の王国によって滅ぼされてしまい、後に神聖ローマ帝国に統一されました。神聖ローマ帝国にはローマの名称がついていますが、ドイツとオーストリアを中心として北イタリアとフランス東部を含むゲルマン系の国家でした。ローマ教皇からカロリン朝ローマ帝国(フランク王国)の継承者と認められたことが国名の由来です。

 

権威づけのためにローマ帝国の名を利用しただけで、古代ギリシャ文明と古代ローマ文明がそのまま引き継がれたわけではありません。例えば、古代ギリシャと古代ローマでは市民による民主制(多数の奴隷階級が存在)を基礎として政治が成り立っていましたが、中世ヨーロッパ社会にとって古代ギリシャ文明と古代ローマ文明の思想は危険思想と考えられていたのです。それに、アリストテレスやソクラテスに代表されるギリシャ哲学(物理学・数学を含む)も忘れられていたようです。

 

フランク王国から987年に分離・独立したフランス王国とともに、オスマン帝国の脅威を受けた神聖ローマ帝国領内では新興勢力のハプスブルグ家とプロイセン王国(北ドイツ)がその地位をヨーロッパで固めました。1789年にフランス革命が勃発して、ナポレオン軍に攻め込まれたオーストリアが敗北したことが引き金となり、神聖ローマ帝国は1806年に崩壊しました。

 

しかし、その後ナポレオンが敗北したことにより、オーストリア、プロイセンを含むドイツ諸州によって構成されるドイツ連邦が1815年に成立します。ドイツ統一を巡るオーストリア(ハプスブルグ家)とプロイセ王国の対立は19世紀後半まで続きましたが、1866年にプロイセン王国の勝利によってドイツ連邦は解体され、オーストリアと南ドイツ諸州を除いた北ドイツ連邦が成立しました。そして、プロイセン王国と南北ドイツ諸州の連合軍がフランス帝国に勝利したことでオーストリアを除く南北ドイツが統一されて1871年にドイツ帝国が成立しました。

 

しかし、第一次世界大戦の敗北により1918年にドイツ革命が起きて帝政は倒され、ドイツは共和制(ヴァイマル共和国)へと移行して現在のドイツ連邦共和国の基礎ができあがり、ヒットラー政権(ナチス体制)が崩壊した第二次世界大戦後の東西ドイツ時代を経て現在に至っています。

 

3.古代ギリシャ文明と古代ローマ文明の継承と再認識

 

その後、暗く長いヨーロッパの中世(1000年から1500年ころまでの暗黒時代)が続きましたが、古代ギリシャと古代ローマの文化を復興しようとする文化運動の「ルネッサンス」(再生を意味、ルネサンスとも表記)が14世紀に北イタリアで始まり、やがて16世紀までに西欧各国に広まりました。サスペンス小説「インフェルノ」に登場する建物や美術品はこの時代に建築あるいは製作されたものです。それとほぼ同時期にマルティン・ルターが1517年に発表した「95ケ条の論題」が発端となった宗教改革運動も広がりを見せました。

 

この背景には、中世キリスト社会が行き詰まりを見せて、ペストの大流行(14世紀ころ)やカトリック教会による異端審問などで人心が荒廃したため、他の文化(古代ギリシャ、古代ローマ)を取り入れて問題を解決しようとした意図があったようです。特に、古代ギリシャ文明(神話、演劇、芸術、哲学など)と古代ローマ文明の両方とも、ギリシャを含む東ローマ帝国の後継者となったイスラムの強国「オスマン帝国」が引き継ぎ、それをアラビア語で記述してヨーロッパ諸国に紹介したといっても過言ではありません。すなわち、イスラム文明は古代ギリシャの哲学・自然科学の知識を消化・吸収し、化学などでは独自の発展を見せ、ルネッサンスに大きな影響を与えたのです。

 

4.古代ギリシャ文明の源流は?

 

古代ギリシャ文明は他の文明から独立して生まれたと考える方が多いかもしれませんが、実はそうではありません。例えば、鉄は古代オリエントのヒッタイト(現在のトルコのアナトリア半島の一部)から由来し、ギリシャ文字がオリエントのフェニキア(地中海東岸)の文字をもとに作られたものであり、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス川流域)で発生した麦栽培が西進してギリシャとローマ、さらにアルプス以北にも伝播したことから分かるように、エジプト文明(紀元前5世紀~)とチグリス・ユーフラテス文明(紀元前4世紀~)の影響を強く受けています。

 

古代ギリシャ文明が始まる紀元前7世紀以前のギリシャは「暗黒時代」と呼ばれる不毛の時代であり、ギリシャ人は傭兵としてエジプトとメソポタミアに出稼ぎをしていたと伝えられ、ギリシャ人はそこで両文明に触発されたと考えられます。ちなみに、ラテン文字(ローマ字)はギリシャ文字をもとに作られたものです。ヨーロッパ社会はこの事実を好ましく思わなかったため、古代ギリシャ文明を欧州文明の元祖と見なし、ヨーロッパ人の優越の証(あかし)とする考え方が広まったのです。

 

5.現在のギリシャはヨーロッパ人の憧れの国か?

 

ここまで読み進んだ方は私が述べようとしていることを理解されたと思います。素晴らしい古代ギリシャ文明を生んだギリシャ人とギリシャという国はその後どのような時代を送ったのでしょうか。ローマ共和国(後のローマ帝国)に占領されたギリシャはローマ帝国の分裂後、引き続き1000年以上も続いた東ローマ帝国の支配下にあり、1453年に東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされてイスラムの強国「オスマン帝国」の支配下に入ったことは先に紹介しました。

 

ちなみに、オスマン帝国の領土は最盛期に、ローマ帝国が地中海沿岸とメソポタミアで得た最大の領土とほぼ同じ(イタリア、クロアチア、フランスを除く)地中海沿岸からメソポタミア全域まで広がりました。第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国は連合国によって600年以上続いた帝政が廃止され、1923年にトルコ共和国になります。

 

一方、約400年間(1453-1830年)オスマン帝異国に支配下にあったギリシャは独立戦争によって1830年にオスマン帝国からの独立し、1935年に王制に移行、第二次世界大戦ではドイツとイタリアなどの枢軸国に占領されたものの、第二次世界大戦後にギリシャ王国が復活し、1974年の軍事クーデターで共和制に移行して現在に至っています。

 

オスマン帝国時代のギリシャ人は支配される立場でしたが、ギリシャ正教徒としての信仰の自由は認められており、ギリシャ人の一部(正教会の幹部など)は支配階級に組み入れられていたそうです。独立の機運が高まった1821年に始まった独立戦争ではオスマン帝国軍によって圧倒されましたが、それまで冷淡であったイギリス、フランス、ロシアなどのヨーロッパ列強が介入し始めたことで風向きは変わり、オスマン帝国がギリシャの独立を認めたのです。第二次世界大戦後は共産党などによる内戦で王政による政治が混乱したため軍事クーデターで軍事独裁性が採(と)られましたが、1974年に民主的な共和制に移行して現在に至っています。

 

以上を要約すると、ギリシャは約2000年にわたる被支配の歴史があり、第二次世界大戦後の70年間は政治的な混乱が続いたのです。この長期にわたる歴史が、現在から2100年-4000年前の古代ギリシャ文明の精神を忘れさせ、現在のギリシャ人に国よりも個人を重視する気質(きしつ)を植え付けたと考えられます。ギリシャが「個人主義者の国」「自己中心者の国」と呼ばれることにはこのような歴史的な背景があるのです。「ナ ドゥーメ」(様子を見ましょう)がギリシャ人の口癖だと聞いたことがあります。有史以来、わずか7年間(1945-1952年)しか他国に占領されたことがない日本人とは明らかに違いがあると思われます。

 

長文になりましたが、私が述べたかったポイントは次の3点です。

○古代ギリシャの形式的(歴史的・国家的)な継承者は皮肉なことにドイツ連邦共和国とトルコ共和国である

○現在のギリシャ人は、古代ギリシャの遺跡・奴隷を使った古代ギリシャの市民意識・衆愚(しゅうぐう)政治が現存することを除けば、格調高い古代ギリシャ文明(ギリシャ哲学・建築・芸術など)をほとんど継承していない

○そして、古代ギリシャ文明がヨーロッパ文明の源流と考えるのはヨーロッパ人の自己満足(優越感の表れ)である
 
 

<付録> イスラム帝国の系譜
 

本題から外れますが、上記の記事を書いていて、オスマン帝国が登場する以前のイスラム世界のことを知りたくなりました。ヨーロッパの一部を占領したサラセン帝国とオスマン帝国については西洋史を通してある程度の知識を持っていましたが、それ以外のイスラム勢力についての私の知識は白紙状態だったのです。そこで、イスラム教の開祖ムハンマド(570年頃~632年)が登場して以降のイスラム帝国を時代順に調べて、以下の通り整理してみました。 

 

アラビア半島の南西部にある商業都市マッカ(メッカ)で生まれたムハンマドは洞窟で瞑想(めいそう)に耽(ふけ)って唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、預言者としての自覚に目覚めたとされる。しかし、彼が説くイスラム教はマッカで迫害されたため、彼はヤスリブ(後のメディナ)へ脱出し、入信者たちで構成するイスラム共同体の基礎を築いた。長年にわたるマッカとの抗争の末、ムハンマドはマッカ軍を破ってその地をイスラム教の聖地とした。そして、アラビア半島を統一して最初のイスラム帝国の礎(いしずえ)を築いた。 

 

最初に登場したイスラム帝国はイスラム教の開祖ムハンマド(モハメッド)と同じ部族出身のウマイア家が661年に建国した世襲王朝である「ウマイア朝」(別名サラセン帝国)である。ムハンマドの死後も拡張を続けたイスラム共同体はアラビア半島からエジプト・シリア・ペルシャへと領土を拡大していたが、さらに西は北アフリカのアルジェリア・モロッコとイベリア半島、東はパキスタン・アフガニスタンなども領土として併合して巨大な国土を支配。ウマイア朝は革命で倒される750年まで100年近く続いた。 

 

次いで誕生したのが、革命で750年にウマイア朝を倒し、ムハンマドの叔父の子孫を指導者とするイスラム帝国第2の世襲王朝「アッバース朝」である。いわゆるアッバース革命(747-750年)で誕生した「アッバース朝」はウマイア朝の領土をそのまま引き継ぎ、東方のシルクロードを領土に加えた。しかし、イベリア半島に後ウマイア朝が建国され、北アフリカではアルジェリアにルスタム朝・モロッコにイドリース朝、チュニジアにアグラブ朝などが起ったことで、領土が縮小して衰退しはじめる。それでも、1258年にモンゴル帝国に滅ぼされるまで約500年間も続いた。
 

イベリア半島に756年に建国された「後ウマイア朝」は、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、710年代末にはピレネー山脈まで勢力を拡大した。しかし、内部の権力抗争が原因となって1031年に滅びてしまう。これによりイスラム勢力が弱体化したため、後にレコンキスタと呼ばれるキリスト教徒によるイベリア半島の奪還闘争が本格化し、1492年にグラナダのナスル朝(アルハンブラ宮殿で有名)が陥落するまで続いた。これにより、イスラム教勢力は700年余り支配したイベリア半島から駆逐され、イベリア半島はキリスト教国(スペイン王国とポルトガル王国)の領土に復帰した。

 
以下の写真は2003年10月に撮影したアルハンブラ宮殿で、上からアラヤネスのパティオ(天人花の中庭)・ライオンのパティオ・それに面した部屋の天井付近です。
 
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セルジューク帝国(セルジューク朝あるいはセルジュクトルコとも呼ばれる)は11世紀から12世紀にかけて現在のトルコからイラン・イラク・トルメキスタンを支配したトルコ系(テュルク系遊牧民)イスラム王朝である。中央アジアから南下してイランに入り、1038年にセルジューク朝を建国、その後イランの大部分を支配下に置いた。1071年にはマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)で東ローマ帝国に勝利。最盛期には、西はアナトリア(現在のトルコ)、シリア、ヒジャーズ(アラビア半島の紅海側)におよび、東はトランスオクシアナ(中央アジアのウズベキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン・タジキスタン)まで支配下に収め、中央アジアから地中海におよぶ大帝国へと発展した。アナトリアの奪還を目指す東ローマ帝国の要請により、1096年には第1回十字軍が編成された。内紛による弱体化と1099年には十字軍によってエルサレムを占領されたことでセルジューク帝国に陰りが見えはじめ、1157年に滅亡する。

 

ルーム・セルジューク朝は1077年にセルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として誕生し、アナトリア地方(現在のトルコの半島部)を中心に支配したテュルク人の王朝。1243年にモンゴル帝国と戦いに敗北して属国化するが、国内が分裂状態になり、1308年に滅亡した。 

 

オスマン帝国はルーム・セルジューク朝が弱体化した小アジア(現在のトルコの半島部)で1299年に建国されたテュルク(中央アジアの遊牧民)系のオスマン家出身者を皇帝とするイスラム王朝である。東ローマ帝国や西アジア(シリア・イラクなど)のイスラム教諸国を征服して、東ヨーロッパ南部のバルカン半島(クロアチアを除く)・同じく中部のルーマニア・ハンガリー・ウクライナなど・北アフリカ(エジプトからアルジェリアまで)・紅海沿岸にも進出して、地中海沿岸の大半を支配する大帝国へと発展した。第1次世界大戦には同盟国側で参戦、1818年に連合国に降伏したことで1922年に帝政が廃止され、オスマン帝国は滅亡した。

2015年7月 6日 (月)

ダン・ブラウン著「インフェルノ」を読む

久しぶりにダン・ブラウンの著作を読みました。「天使と悪魔」(2000年)、「ディセプション・ポイント」(2001年)、「ダ・ヴィンチ・コード」(2003年)に続く長編サスペンス小説「インフェルノ」(2013年11月28日角川書店刊、上下巻各1800円+税、全660頁)は「天使と悪魔」「ダ・ヴィンチ・コード」と同様にハーヴァード大学宗教象徴学教授・ラングドンが主人公ですが、異なる点はそれら2作がそれぞれフランス司法警察中央局警部補ジェローム・コレとスイスにあるセルン(CERN、欧州原子核機構科学研究所)の所長・マクシミリアン・コーラーの依頼によって謎を解く舞台設定であったのに対して、今回はラングドン自身がトラブルに巻き込まれたことが発端です。ちなみに、アメリカの大統領選を舞台にした「ディセプション・ポイント」にはラングドンが登場しません。

 

例によって、『この小説に登場する芸術作品、文学、科学、歴史に関する記述は、すべて現実のものである』の断り書きと、『インフェルノ(地獄)とは、ダンテ・アリギエーリの叙事詩「神曲」に述べられた地下世界であり、「神曲」ではそこを""-生と死の狭間にとらわれた肉体なき魂-が集まる複雑な構造の世界として描いている』との注釈付きで物語が始まります。このことから推測して「神曲」にまつわる話だと容易にと推測されました。

 

この小説の粗筋を手短にまとめると、『マルサスの「人口論」に触発された著名な生化学者でありながらイタリア有数の金持ちでもあるベルトラン・ゾブリストが計画して実行に移した壮大な破壊工作を、彼が雇った武装組織「大機構」に妨害されながら、ハーヴァード大学教授で宗教象徴学者であるロバート・ラングドンがダンテの神曲とそれを描いたボッティチェリの「地獄の見取り図」を手掛かりに解決する物語』となるでしょう。本著作も他の2作品と同様に、著者ダン・ブラウンが得意とするルネッサンス時代の宗教・文化・芸術・建築などが満載された難解なサスペンス長編小説です。

 

読後感としては、舞台設定とサスペンスに満ちたストーリー展開はダン・ブラウンならではですが、「天使と悪魔」と「ダ・ヴィンチ・コード」を越えようとして書かれた気負いがあるためか、技巧に走りすぎた感があり、前2作のように強烈な昂揚感(こうようかん、わくわく感)を感じさせないまま気が遠くなるほど延々と続く実質3日間の物語を読み進むと、やや食傷気味になりました。

 

それでも、救いはエンディングを迎える場所が意外なことにトルコのイスタンブール。30年前に訪れたことがある私の大好きな都市です。最後の約120頁を割いてイスタンブールの街並みとモスクが詳説されました。隣国シリアの政情不安のために昨年は諦めたトルコ旅行でしたが、本書を読んでイスタンブールへの憧(あこが)れが再び蘇(よみがえ)ってしまったようです。(以下の写真は上からイスタンブールの旧市街・オスマン帝国君主が居住したトプカピ宮殿・ヨーロッパとアジアを隔てるボスポラス海峡)
 
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それでもストーリーを知りたいとお考えになった方のために、ネタバレになりますが、本著作の詳しいストーリーを以下に記述します。

 

                           ☆

 

<プロローグ> 追っ手から逃げる""がバディア・フィオレンティーナ教会の尖塔に入り、その頂上まで駆け上がるが、追いつめられた""に向かって追っ手は『隠し場所を教えろ!』と叫ぶ。そして、""は最後の一歩を奈落へと踏み出す。 

 

 

ロバート・ラングドンは暗示的な幻想から目覚めると、そこは明るいが誰もいない、薬用アルコールの刺激臭が漂い、どこかにある機械が心拍に合わせて単調な電子音を静かに鳴らしている部屋だった。ラングドンは右腕に点滴の管があり、後頭部がうずいて痛みがおさまらない理由を知ろうと自由な方の手を後頭部に伸ばして、そこに十針ほどの縫い跡を見つけた。

 

心電図モニターの音が速まったことに気づいて部屋に入ってきた手術着姿の男に向かって 『何が・・・あったんです』 とラングドンは尋ねるが、その男は答えようとしない。病室には一人用のベッドが一床だけで、そばのカウンターに、たたんで透明なビニール袋に入れられた自分の服が血まみれであることに気づいた。

 

間もなく先ほどの医師の男が連れてきた金髪の女性が 『ドクター・シエナ・ブルックスです。今日はドクター・マルコー二と二人で担当しますね』 と言うと、英語が苦手な男の医師に代わって入院書類の記入するために名前・職業などを質問し始めた。ラングドンがアメリカ人であることと目覚める前に悪夢を見たことを告げると、ブルックス医師は今日の曜日や現在の場所などに質問内容を変えた。そして、不安そうなラングドンを見て、鎮静剤を点滴に加えて、男の医師とともに病室を出て行った。

 

薬が効いてきたことで悪夢に引き戻されそうになるラングドンは明かりが消えた黒い窓ガラス越しに見える建物の壮麗なファサードに見覚えがあった。それは世界にひとつしかない。しかし困ったことに、それは最後に覚えているマサチューセッツから4000マイル離れたフィレンツェにある。その窓の外で、筋肉質の女がBMWのオートバイから軽々とおり立った。サイレンサーつきの銃を確認し、明かりが消えたばかりのロバート・ラングドンの病室の窓を見上げた。今夜、一羽の鳩の鳴き声で本来の任務は大失敗に終わった。ここへ来たのは、それを正すためだ。

 

イタリアの5マイル沖合、アドリア海を進む豪華クルーザー「メンダギウム」に装備された軍用級の電子司令部で、部下から総監として知られている男が現地隊員・ヴァエンサから任務完了の連絡を待っていた。依頼人からの求めに応じていかなる野心や欲求であってもそれを実現する機会を提供する闇の組織「大機構」のトップである。東の空にいつしか曙(あけぼの)のほのかな光がさしたころ、執務室の電話がけたたましくなった。ヴァネッサからである。現地隊員が総監と直接話すのは稀(まれ)であったが、『続報があります。ラングドンが逃げました。例の品を持って』 と言うヴァネッサに総監かなり長いあいだ黙したあと、『わかった。おそらく、ラングドンは早急に当局と連絡をとろうとするはずだ』 とようやく言った。

 

サイレンサーつきの拳銃を持ったヴァネッサがラングドンの病室へ一直線に向かってくるのに気づいたマルコー二医師は開いた戸口へためらいなく進み出て、『止まれ!』 と警官のように手のひらを突き出して制止すると、ヴァネッサはマルコー二医師の胸にまっすぐ狙いを定めて撃った。マルコー二医師が胸から血をほとばしらせて、身動きせず床に倒れている。ヴァネッサは戸口の近くまで来ると、ラングドンを見据えてすばやく銃を構えて顔に狙いを定めた。

 

耳をつんざく音が狭い病室にとどろいた。ブルックス医師が体当たりして金属の重いドアを閉めた音で、つづけてドアの鍵もおろしていた。部屋の外で、銃弾が続けざまに金属のドアを激しく叩いた。ブルックス医師はマルコー二医師の脈を調べたあと、ラングドンの腕をとって、部屋の反対側に引っ張っていき、せまいバスルームを突っ切ってもうひとつのドアから隣の回復室を抜け、廊下を横切って階段の吹き抜けに出た。階段を下りたラングドンはブルックス医師に急き立てられ、病院から離れて薄暗い路地から大通りへ出てタクシーに乗り込み、ヴァネッサの銃撃を受けながらも間一髪で逃れたが、ラングドンはすべてが真っ暗になっていた。

 

ダン・ブラウンの小説らしくサスペンスに満ちた導入部に続いて、予想もできない展開が息をも吐かせず繰り出される。まず、ラングドンの暗殺を依頼した人物は数日前にフィレンツェで投身自殺をしているが、「大機構」は通常通り疑問を挟むことなくそれを完遂する予定であることが読者にほのめかされた。次いで、ラングドンの命を救ったブルックスの自宅で彼女が並外れた頭脳と才能の持ち主であることと、それとは対極的な影の部(不法就労者であることなど)を知る。一方、ラングドンが自分の状況を把握しようと、不用意にインターネットにアクセスして自分の名前を検索したため、「メンダギウム」の船上では女性分析官の一人がハーヴァードのEメールアカウントにアクセスしたラングドンの現在の居場所を突き止めたことを総監に報告していた。

 

さらに、ラングドンが着ていた上着にラングドン自身も知らない隠しポケットがあり、しかもその中に光沢のある重い金属の物体(長さが6cmほどの円筒)が入っていることを入院時に脱がせたブルックスが気がついたことと、それが命を狙われる原因であることを教えられる。それはバイオチューブ(危険物運搬容器)だとも言う。

 

事実、その容器には指紋認証装置があり、ラングドンが親指を押し当てると反応があったため、ラングドンは当局に引き渡すことにした。アメリカ領事館に電話して状況を話すと迎えをよこすとの返事が返ってきた。どこにいるかと聞かれたラングドンはシエナから教わったばかりの近くのホテルにいると伝える。その20分後にシエナは窓の外に黒いBMWのオートバイが止まるのを見つけ、見覚えのある女がそのホテルの中へ消えるのを2人は驚きながら確認する。シエナは 『アメリカ合衆国政府があなたのもとへ殺し屋を差し向けたのよ』 と恐怖に張りつめた声でささやいた。

 

追いつめられたラングドンとシエナは容器を開けることを決断する。中から出てきたものは骨のようなものでできた円筒印象であった。シュメール人が紀元前3500年ごろに発明した円筒印象は粘土の上で転がせば帯状になった象徴や絵画や文字を刻印することができる。ラングドンが手に持つ円形印象に施された彫刻は、角をはやして3つの顔をもつ悪魔が、3人の男を3つの口で同時に食らっているという陰惨なものであった。そして、黒死病を表わす図像である悪魔の下には"SALIGIA"(サリギア、7つの大罪)の文字も彫られていた。しかし、円筒印象の芯にあるはずの空洞がなく、ガラスがはめ込まれている。

 

容器を揺らすと中に入っている小さな物体が動くのがわかり、次第にガラスが光を放ち始めた。そこで、ラングドンにあることがひらめいた。ファラディの法則を利用したポインターである。さらに激しく筒を振ると、ポインターの先端が強い光を放ち、壁面に恐ろしい画像(苦悶する人間たちを描いた陰惨な絵であるボッティチェルリの地獄の見取り図)が投影された。ラングドンは自分がこの絵を調べていたにちがいないと考えた。ダンテの「地獄編」に影響を与えた絵だ。

 

ラングドンとシエナは投影された絵がボッティチェリの原作に疫病医の姿や"CATROVACER"の文字がデジタル加工で付け加えられていることを見つけた。その時、下の通りから出し抜けに高馬力エンジンの轟音(ごうおん)が響いた。オートマチックライフル携えた黒い制服姿の男の一団がシエナのアパートの建物の入り口に向かって駆け出すのが見えた。ホテルの屋上テラスにいたヴァエンサもこの様子を見ていた。通信端末を使って総監に連絡したが、返ってきたのは機械音声で『排除規定が適用されました』あり、端末は機能を停止した。

 

ラングドンとシエナは大人数の敵を見事に欺(あざむ)いてアパートを脱出したが、2人の逃走劇(つまり総監との戦い)の第2幕はまだ始まったばかり(上巻の1/3が経過)である。フィレンツェの旧市街に逃げ込もうとするラングドンとシエナが知略を最大限に発揮して、イタリアの軍警察をも動かす力を有してそれを阻止しようとする「大機構」の作戦の裏をかくシーンが続くが、詳細は省略して概略のルートだけを説明する。

 

イタリア軍警察が検問するロマーナ門から旧市街に入ることを断念したラングドンとシエナは、脇にあるポルタ・ロマーナ美術学校からボーボリ公園とピッティ宮殿とブオンタレンティの洞窟付近にある小さな灰色のドアを抜け、ヴァザーリ回廊(秘密の通路)を通ってシニョーリア広場の南東の角にあるヴェッキオ宮殿に到着した。その五百人広場にあるヴァザーリの巨大壁画「マルチャーノの戦い」はラングドンがポインターから映し出されたボッティチェルリの「地獄の見取り図」(改変されていたが)で見つけた最初のポイントである。

 

ヴェッキオ宮殿で追いつめられたラングドンとシエナは宮殿をかろうじて脱出し、サンタ・マルゲリータ通りにある「ダンテの家」(ダンテの家博物館)へ向かうが、安息日で閉まっていた。そこで、ラングドンはダンテ教会として知られるサンタ・マルゲリータ・デイ・チェルキ教会へ向かう。ヴェッキオ宮殿で得た暗号「天国の25」を解くためダンテの神曲を読む必要が生じたのだ。そして、それがドゥオーモ広場にあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のサン・ジョヴァンニ洗礼堂であることを知った。そして、ラングドンは探していたダンテのデスマスクをそこで見つけることができた。(以上上巻)

 

ダンテのデスマスクに隠された秘密を調べるラングドンとシエナがいる洗礼堂に見知らぬ男が現れた。2人がヴェッキオ宮殿を脱出した時から後をつけて来たのである。ラングドンの問いに答えてその男はWHOの職員であるジョナサン・フェリスと名乗った。ラングドンがゆうべ頭を撃たれて逆行性健忘の症状が出ていることをシエナが説明するとフェリスの態度が変わり、連絡を寄こさないラングドンが敵側に寝返ったのではないかと疑っていたことと、WHO事務局長のエリザベス・シンスキーがラングドンを雇ったことを明かした。そして、人知れずフィレンツェを出て直ちにヴェネツィアへ行く必要があるともいう。

 

ニューヨークの編集者に電話をかけたラングドンは彼の出版社が利用するチャーター便でスイスのジュネーブへ飛びたいと強硬に頼み込んだ。しぶしぶ引き受けた編集者は運行管理センターへチャーター便の手配を依頼するがラングドンのパスポート情報を情報端末に入力すると赤い警告画面が表示された。あわてたセンターの担当者はすぐさま当局に電話をかける。その頃、ラングドン、シエナ、フェリスの3人が乗車するイタリアの高速列車フレッチャアルジェントでトスカーナの田園地帯を北へ疾走(しっそう)していた。ヴェネツィアまで2時間の旅である。ラングドンは相変わらずダンテのデスマスクの裏側に螺旋状(らせんじょう)に刻まれた詩の解読を続けている。

 

「大機構」の総監は自らの組織だけではなく世界全体が危機に瀕していることを思い知らされ、ゾブリストを依頼人として大機構に紹介したコードネーム"FS-2080"に接触することを決断した。そして、総監がかけた電話をうけたのは意外な人物であった。ここで、物語は大きく展開することになった。敵と味方の構図が根底から覆(くつがえ)ったのである。サンマルコ教会に入ったラングドンはその教会で「サンマルコの馬」を見て、最終目的地がヴェネツィアから遠く離れた異国の町であることに気付く。しかし、武装したグループに包囲され、もともと体調が優れなかったフェリスは急に床に倒れ、ラングドンとシエナは地下墓所へ逃れる。明り取りをこじ開けてシエナはなんとか脱出するが、ラングドンは武装グループに拘束されてしまう。

 

目覚めたラングドンは信じがたい事実を聞かされて反発するが、次第にその事実を受け止めざるを得なくなった。ヴェネツィアのマルコ・ポーロ国際空港から飛び立ったWHOの巨大なC130輸送機はラングドン、総監とその部下、さらにWHO事務局長のエリザベス・シンスキーを乗せ、機首を南東に向けてアドリア海上空を飛行している。同じころ、"FS-2080"を乗せた流線型のセスナ機サイテーション・マスタング(ビジネスジェット機)もヴェネツィアに近いリド島の二チェリ空港を離陸して同じ方角へ向かっていた。著名な衣装デザイナーのジョルジョ・ヴェンチに頼み込んで借りた自家用機である。

 

C130輸送機はトルコのイスタンブールにあるアタテュルク空港へ着陸した。ラングドンが謎を読み解いて見つけた場所はヴェネツィア総督のエンリコ・ダンドロが埋葬された「聖なる英知」を意味する「アヤソフィア」である。ダンドロの墓からかすかに聞こえる水音を確認したラングドンたちは、巨大ドームから流れ落ちる雨水の行方である「イェレバタン・サラユ」(沈んだ宮殿)へ向かった。すると、その地下洞窟ではフランツ・リストの代表曲のひとつである「ダンテ交響曲」の無料演奏会が数百名の参加者を集めて開かれていた。匿名の慈善家が提供する催し物であった。

 

ラングドンたちは洞窟の最深部まで進んでメドゥーサの頭部に行き当たった。そこが探していた場所であるとラングドンは確信する。その時、暗闇から人影が飛び出して来て、出口の方向に突進して行った。黒いブルカを着た人物の目を一瞬見たラングドンはそれが誰であるかを即座に理解して、その人物の後を追うが、シンスキーの指示で入り口のドアが閉じられたため、寸前のところで取り逃がしてします。その人物は「火事だ!」と叫んで逃げたため、大勢の観衆も入口に殺到し、ラングドンは破損したドアとともに外に弾き出された。

 

その人物が市バスに乗ったことを確信したラングドンは近くにいた人に頼んで車に乗せてもらい市バスを追跡する。海峡を渡るガラダ橋の手前で渋滞が発生していたため、その人物は市バスを下りて、スパイス・バザールへ逃げ込んだ。数百軒の露店が並ぶ世界最大級の屋根付き市場である。その市場を突っ切って逃げる人物をラングドンは追うが、障害物に阻まれて距離を開けられてしまい、その人物はモーターボートを奪って金角湾(きんかくわん)の沖合へと行ってしまった。しかし、しばらくアイドリング音が続いたあとモーターボートは岸辺に戻って来た。

 

モーターボートから下りたその人物はラングドンにすべての事実を語り始めた。聞き終えたラングドンはシンスキーにその人物を引き合わせることにした。その時には「沈んだ宮殿」で起きていたことと、「インフェルノ」が意味することのすべて明らかになっていた。WHOC130輸送機に残っていた総監とその部下はトルコ警察に逮捕された。ラングドンの薦(すす)めがあり、シンスキーはその人物(シエナ)をこれからの対応に協力させることを決心する。

 

フィレンツェに戻ったラングドンはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で行われる友人のイニャツィオ・ブゾーニの葬儀に参列したあと、ヴェッキオ宮殿にも立ち寄って、古めかしい陳列ケースの留め金具にダンテのデスマスクをゆっくりと掛けた。 

 

<エピローグ> アリタリア航空のボストン行き夜間飛行便は月明かりの闇を西へ進んでいた。機内に着席しているロバート・ラングドンはペーパーバッグ版の「神曲」にすっかり心を奪われていた。そして、ラングドンは広大な空を見やり、この数日のあらゆる出来事に思いをさまよわせるとともに、ふたりの勇気ある女性に思いをはせた。

2015年7月 3日 (金)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 白馬村の「白馬ジャンプ競技場」

県道433号を南下した切久保旅館街入口交差点付近から白馬岩岳スノーフィールド越しに冠雪した八方尾から唐松岳(標高2696m)や白岳(標高2541m)などを望むことができました。
 
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岩岳入口交差点で国道148号に入り、白馬駅方面へ走ると、八方尾根から続く山々が前方により大きく見えてきました。
 
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白馬駅前交差点を右折して県道322に入ると八方尾根が近づいてきます。
 
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八方交差点で村道へと左折すると八方尾根が右手に迫ってきました。
 
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そして、ほどなく右前方に巨大なスキージャンプ代が現れました。
 
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八方尾根入口交差点を右折する時に、白馬鑓ケ岳(標高2903m)、杓子岳(標高2812m)、白馬岳(標高2932m)、小蓮華山(標高2766m)、乗鞍岳(標高2437m)の山並みが覗(のぞ)いていました。
 
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白馬八方尾根スキー場が右手に見えてきました。写真の右端に八方ゴンドラリフト「アダム」の乗り場(赤茶色の屋根)が確認できます。
 
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そのスキー場に隣接する「白馬ジャンプ競技場」の入口に到着しました。K点が90mのノーマル・ヒルとK点が120mのラージ・ヒルが並んでいる様子が図解されています。ちなみに、K点は建設基準点を意味するドイツ語の略ですが。
 
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「第18回オリンピック冬季競技大会1998年/長野」記念の碑には日本オリンピック史上100個目の金メダルがこの会場で行われたジャンプ団体の日本チームによってもたらされたことが説明され、1828年の第9回アムステルダム大会(オランダ)以来の大会ごとに金メダル受賞者の名前がリストアップされています。吹雪の中で日本チームの劇的なジャンプが続くのをテレビの生中継で見た時の感動を思い出しました。
 
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駐車場に車を停めて、幅の広い階段を上がり、ジャンプ台と観客席を見渡せる場所(ラージヒルの正面)へ向かいました。手前のモニュメントは100個目の金メダル獲得を記念したもので、古代ギリシャのオリンッピクで勝者に与えられるオリーブ冠(おりーぶかん)をモチーフとしているようです。ちなみに、オリンピックの優勝者に月桂冠(げっけいかん)が与えられるとするのは由来からみて誤りといえるでしょう。
 
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モニュメントと同行者が入らない位置でもう一枚
 
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ノーマル・ヒルの左手に見える雪山は、右から、唐松岳(標高2696m)から続く尾根、大黒岳(標高2393m)、白岳(標高2541m)でしょう。
 
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白馬八方温泉街の方角を振り返ると、白馬鑓ケ岳、杓子岳、小日向山(標高1908m)が先ほどよりも山の形を良く確認することができました。
 
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ジャンプ台の側にある雪捨場には大量の雪が積み上げられています。
 
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杓子岳と小日向山を背にして川沿いの道をさらに進みました。
 
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この道はノーマル・ヒルの脇へ向かっていましたが、その先は通行止めになっていましたので、国道148号へ戻りました。
 
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国道148号と県道33号が立体交差するJR大糸線の飯森駅付近で一時停車。写真は右から、八方尾根、唐松岳、大黒岳、白岳までの山並みです。
 
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白馬村を後に次の目的地へ向かいますが、例によって投稿を小休止します。(続く)

2015年7月 2日 (木)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 白馬村の「ホテル シェラリゾート白馬」(終)

午前7時を過ぎたころ、朝食のためレストランへ向かいました。西棟から渡り廊下を渡った本館の入口に張られた注意書き、『マイマイ蛾の幼虫が白馬村と近隣市町村で大量発生している』に目が留まりました。
 
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メインロビーから見た庭園と雪山
 
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朝食バイキングで私が選んだのは炭水化物を避けたメニューに加えて同行者が差し入れてくれたナメコ入の山芋のトロロ。私が毎朝飲むことにしてるトマトジュースがないため、ニンジンジュースで代替しました。

 
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そして、こちらは同行者のものです。あとでパンと目玉焼きを追加していました。
 
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朝食後は好天に惹(ひ)かれてレストラン脇のドアから外廊下に出てみました。
 
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花壇のチュウリップが満開を迎えようとしています。
 
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自室へ戻って手荷物を確認したあとは、この記事の下書きをしながら1時間余りをのんびり過ごしました。この日はスケジュールに少し余裕があるのです。

 

「ホテル シェラリゾート白馬」は、わずか1泊の滞在でしたが、期待した通りに快適に滞在することができました。5回にわたって書いた滞在記事ン愛用と重複しますが、自然に溢(あふ)れる広い敷地、やや古さは感じますが清潔感のある客室、施設の大きさの割に少ないスタッフたちの心遣いが随所に感じられました。そして、何よりも素晴らしいフランス料理をリーゾナフルナな宿泊料金で愉(たの)しめたことが、昨年滞在したハワイ・ラナイ島の「フォーシーズンズ・マネレ・ベイ」や今春宿泊した「リンバ ジンバラン バリ by アヤナ」の豪華さとは異なる、「ホテル シェラリゾート白馬」の最大の魅力だと思います。
 

つまり、人件費を削減する一方で宿泊者の滞在時の快適性を両立させた、合理的なローコストリゾートホテルを実現していると思います。例えば、客室では過剰なサービスやアメニティを排除して客が快適に泊まるために必要最低限の設備とし、館内の展示物に工夫することで楽しさを演出しているのです。また、広い敷地内と周辺のスポットを分かりやすく説明する手作りの地図、飲み物と軽食の無料サービスなども必要に応じて利用できることも快適性につながっています。

 

ちょうど午前9時にチェックアウトを終えて、「ホテル シェラリゾート白馬」を出発することにしました。同行者はフロントでお土産としてもらった地元産のお米が入った袋を持っています。そして、エントランスの上には14か国の国旗が掲揚されており、右手には宿泊者用の軽食コーナーが写っています。
 
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首から犬ランプを下げたラブラドール犬と来客を歓迎するラブラドールの子犬が我われを見送ってくれました。
 
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(続く)

2015年7月 1日 (水)

信州の清水と遺跡を訪ねるドライブ旅 白馬村の「ホテル シェラリゾート白馬」(その5)

午前6時を少し過ぎましたので、「古民家の湯」へ屋外のルートで向かいました。西棟と東棟を結ぶ遊庭園内の歩道から見る、レストラン(前方)、本館ロビー・とラウンジ(中央)、西棟(右)には朝日が当たり始めています。
 
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緩やかなスロープの脇にある花壇には植えられて間もない色とりどりの春の草花が咲いています。
 
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「古民家の湯殿」に入ります。ちなみに、右手のドアは東棟の入口のようです。
 
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東棟の端にある「貸切露天入口」の前を通過
 
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廊下を照らす行灯(あんどん)
 
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「古民家の湯殿」にある「古民家の湯」に到着
 
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その入り口前にある小さな鹿脅し(ししおどし、獅子脅し)はご愛嬌(あいきょう)
 
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そして、その先には東棟と渡り廊下

 
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下足所の飾り付け
 
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男女共用の休憩所
 
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休憩所のベランダから見た雪山は、前日とは異なり、青空に映(は)えています。
 
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そして、こちらは「古民家の湯殿」(男湯)の外観
 
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男湯の入口
 
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「白馬みずばしょう温泉 古民家の湯」の泉質はナトリウム-炭酸水素塩温泉、源泉の泉温は48.2℃です。浴室の様子はすでに紹介済みですから省略します。

 

ほてった身体を冷ますためにコーヒー牛乳を飲もうと思いましたが、早朝のためクーラー内には入っていませんので、次善の策として「おいしい天然水」と「アイスキャンディ」にしました。
 
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東棟と「古民家の湯殿」をつなぐ渡り廊下を戻りました。
 
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東棟内の廊下に置かれた犬の置物
 
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「古民家の湯殿」の入口から見た西棟の北端
 
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(続く)

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