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2015年7月 7日 (火)

古代ギリシャ文明とヨーロッパ文明

7月5日にギリシャにて行われた国民投票で、EU(ヨーロッパ連合)が求める財政緊縮策の受け入れに反対する票が全体の60%を越え、40%弱の賛成票を20ポイント以上も上回りました。EUの要求に反対する立場で今年1月に政権の座についいたチプラス首相は、EUとの交渉を有利に進めるため国民に反対票を投じるよう呼びかけて、財政緊縮策の緩和と負債の減免について交渉しようとする目論見(もくろみ)の第一歩は成功しました。しかし、EUのギリシャに対する姿勢は以前よりも厳しくなっており、事態が進展するかどうかはまったく予断を許しません。

 
ちなみに、財政破綻(はたん)の主要因は、公務員が全労働人口の25%と高率を占める、手厚すぎる年金制度(支給開始年齢が55歳・現役時代と大差がない支給額)、金持ちの脱税と資産隠し(海外流出)に加えて一般市民による脱税も横行、2009年に発覚した政府による天文学的数字の粉飾決算の4つが挙げられます。ギリシャ政府は公務員の削減と年金のカットを行って来ましたが、失業率が上昇したことで、これ以上の財政緊縮策に拒否反応が出ているようです。また、脱税についてが改善が見られないそうです。

 

いずれにしても、ギリシャ経済の短期的な混乱は避けられず、ヨーロッパ経済だけではなく、世界経済にも大きな影響がでることは不可避のようです。経済の門外漢である私にはギリシャ危機が日本経済へどれほどの悪影響を及ぼすかを予測することができませんが、自分の環境に生じるかも知れないリスクを考慮した対策を取っておくことは極めて重要であると考えています。ギリシャの負債問題だけではなく、6月の中旬から3週間で中国・上海市場の株価が30%も暴落したことも大きな懸念材料です。値動きの荒い株や通貨で一儲けしようなどという無謀な考えには賛成できません。台風の襲来時と同様に、事前の防災準備を怠らず、暴風雨の過ぎ去るのを待つのが賢明だと考えています。君子ではなくとも危険に近寄るべきではないでしょう。

 

閑話休題(かんわきゅうだい)。経済危機に見舞われたギリシャに対してEUが2010年から約32兆円もの経済支援を行ってきた理由として、加盟国の脱落によってEUが弱体化することを防ぎたいとの考えがドイツを中心とするEU主要国にあると考えられますが、もう一つの理由はヨーロッパ文明の源流が古代ギリシャ文明にあるとするヨーロッパ人に共通する意識が根底にあるとも言われています。学生時代から西洋史に関心がある私は、後者の意見に刺激されて、古代ギリシャ文明とヨーロッパ文明の関係を再吟味することにしました。

 

                        ☆

1.古代ギリシャ文明とは

 

紀元前3000年頃、ギリシャ人は今のギリシャを中心とする東地中海世界に北方から登場し、紀元前2000年ころに生まれた「エーゲ海文明」(B.C.2000ころB.C.1400年ころのクレタ文明、B.C.1600ころB.C.1200年ころのミケーネ文明など)の名で呼ばれる文明を誕生させましたが、その後の数世紀に亘(わた)っては暗黒時代が続いて国内は混乱しました。やがて、ポリスとよばれる小都市国家が分立して相互に争うようになります。このポリスでは当初、王や貴族を中心とする政治でしたが、地中海各地に植民市を作るようになると貿易に従事する一般の人々も豊かになり、高価であった武器・防具を所有して国防に従事し、政治への参画を求めるようになります。ちなみに、一年半前に訪れたクロアチアの港町であるスプリットトロギールなどもこの植民市の例です。

 

このため、次第に一般市民(平民)による政治が確立しますが、相変わらずポリス間の戦争が続きましたが、オリンピックの原型であるオリンポスの祭典やギリシャ神話などを共有し、異民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す者)と差別し、自分たちの祖は伝説上の英雄ヘレンであるとして自分たちをヘレネスと呼んでいました。マケドニア出身のアレキサンドロス(アレキサンダー大王)が紀元前338年にギリシャ全土を掌握したあとは、東方遠征(紀元前334年~)で大国ペルシャ王国を滅ぼしてマケドニア帝国を樹立します。しかし、アレキサンダー大王が紀元前323年にバビロンで客死すると、その継承を巡って諸将の間で争いが起こり、帝国は「ヘレニズム三国」と呼ばれる3か国(マケドニア、メソポタミア、エジプト)に分裂しました。ちなみに、その一つであるエジプトの「プトレマイオス朝」の女王クレオパトラがギリシャ人であったことはこの経緯によります。

 

2.ローマ帝国・フランク王国・神聖ローマ帝国が引き継ぐ

 

しかし、「ヘレニズム三国」のマケドニア王国(ギリシャを含む)は紀元前148年に、メソポタミアのセレウコス朝は紀元前83年に、エジプトのプトレマイオス王朝は紀元前30年に古代ローマ((ローマ共和国末期)に滅ぼされて、いずれもローマの属州になります。「ヘレニズム三国」の支配地域を含む地中海沿岸をすべて支配した古代ローマ(後のローマ帝国)は古代ギリシャの文明に強いあこがれを持っており、392年には国教に指定されたキリスト教とともに、後のヨーロッパ文明に大きな影響を与えることになります。しかし、話はそれほど単純ではありません。長い説明になりますが、ローマ帝国以降のヨーロッパ史を説明します。(以下は1975年11月に撮影した写真で、上からローマ教皇の住居であるヴァチカン宮殿とローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが作らせたトレヴィの泉)
 
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ローマ帝国が395年に東西のローマ帝国に分裂しましたが、西ローマ帝国がゲルマン人の侵入で衰退し、5世紀末には新興のフランク王国などゲルマン系の王国によって滅ぼされてしまい、後に神聖ローマ帝国に統一されました。神聖ローマ帝国にはローマの名称がついていますが、ドイツとオーストリアを中心として北イタリアとフランス東部を含むゲルマン系の国家でした。ローマ教皇からカロリン朝ローマ帝国(フランク王国)の継承者と認められたことが国名の由来です。

 

権威づけのためにローマ帝国の名を利用しただけで、古代ギリシャ文明と古代ローマ文明がそのまま引き継がれたわけではありません。例えば、古代ギリシャと古代ローマでは市民による民主制(多数の奴隷階級が存在)を基礎として政治が成り立っていましたが、中世ヨーロッパ社会にとって古代ギリシャ文明と古代ローマ文明の思想は危険思想と考えられていたのです。それに、アリストテレスやソクラテスに代表されるギリシャ哲学(物理学・数学を含む)も忘れられていたようです。

 

フランク王国から987年に分離・独立したフランス王国とともに、オスマン帝国の脅威を受けた神聖ローマ帝国領内では新興勢力のハプスブルグ家とプロイセン王国(北ドイツ)がその地位をヨーロッパで固めました。1789年にフランス革命が勃発して、ナポレオン軍に攻め込まれたオーストリアが敗北したことが引き金となり、神聖ローマ帝国は1806年に崩壊しました。

 

しかし、その後ナポレオンが敗北したことにより、オーストリア、プロイセンを含むドイツ諸州によって構成されるドイツ連邦が1815年に成立します。ドイツ統一を巡るオーストリア(ハプスブルグ家)とプロイセ王国の対立は19世紀後半まで続きましたが、1866年にプロイセン王国の勝利によってドイツ連邦は解体され、オーストリアと南ドイツ諸州を除いた北ドイツ連邦が成立しました。そして、プロイセン王国と南北ドイツ諸州の連合軍がフランス帝国に勝利したことでオーストリアを除く南北ドイツが統一されて1871年にドイツ帝国が成立しました。

 

しかし、第一次世界大戦の敗北により1918年にドイツ革命が起きて帝政は倒され、ドイツは共和制(ヴァイマル共和国)へと移行して現在のドイツ連邦共和国の基礎ができあがり、ヒットラー政権(ナチス体制)が崩壊した第二次世界大戦後の東西ドイツ時代を経て現在に至っています。

 

3.古代ギリシャ文明と古代ローマ文明の継承と再認識

 

その後、暗く長いヨーロッパの中世(1000年から1500年ころまでの暗黒時代)が続きましたが、古代ギリシャと古代ローマの文化を復興しようとする文化運動の「ルネッサンス」(再生を意味、ルネサンスとも表記)が14世紀に北イタリアで始まり、やがて16世紀までに西欧各国に広まりました。サスペンス小説「インフェルノ」に登場する建物や美術品はこの時代に建築あるいは製作されたものです。それとほぼ同時期にマルティン・ルターが1517年に発表した「95ケ条の論題」が発端となった宗教改革運動も広がりを見せました。

 

この背景には、中世キリスト社会が行き詰まりを見せて、ペストの大流行(14世紀ころ)やカトリック教会による異端審問などで人心が荒廃したため、他の文化(古代ギリシャ、古代ローマ)を取り入れて問題を解決しようとした意図があったようです。特に、古代ギリシャ文明(神話、演劇、芸術、哲学など)と古代ローマ文明の両方とも、ギリシャを含む東ローマ帝国の後継者となったイスラムの強国「オスマン帝国」が引き継ぎ、それをアラビア語で記述してヨーロッパ諸国に紹介したといっても過言ではありません。すなわち、イスラム文明は古代ギリシャの哲学・自然科学の知識を消化・吸収し、化学などでは独自の発展を見せ、ルネッサンスに大きな影響を与えたのです。

 

4.古代ギリシャ文明の源流は?

 

古代ギリシャ文明は他の文明から独立して生まれたと考える方が多いかもしれませんが、実はそうではありません。例えば、鉄は古代オリエントのヒッタイト(現在のトルコのアナトリア半島の一部)から由来し、ギリシャ文字がオリエントのフェニキア(地中海東岸)の文字をもとに作られたものであり、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス川流域)で発生した麦栽培が西進してギリシャとローマ、さらにアルプス以北にも伝播したことから分かるように、エジプト文明(紀元前5世紀~)とチグリス・ユーフラテス文明(紀元前4世紀~)の影響を強く受けています。

 

古代ギリシャ文明が始まる紀元前7世紀以前のギリシャは「暗黒時代」と呼ばれる不毛の時代であり、ギリシャ人は傭兵としてエジプトとメソポタミアに出稼ぎをしていたと伝えられ、ギリシャ人はそこで両文明に触発されたと考えられます。ちなみに、ラテン文字(ローマ字)はギリシャ文字をもとに作られたものです。ヨーロッパ社会はこの事実を好ましく思わなかったため、古代ギリシャ文明を欧州文明の元祖と見なし、ヨーロッパ人の優越の証(あかし)とする考え方が広まったのです。

 

5.現在のギリシャはヨーロッパ人の憧れの国か?

 

ここまで読み進んだ方は私が述べようとしていることを理解されたと思います。素晴らしい古代ギリシャ文明を生んだギリシャ人とギリシャという国はその後どのような時代を送ったのでしょうか。ローマ共和国(後のローマ帝国)に占領されたギリシャはローマ帝国の分裂後、引き続き1000年以上も続いた東ローマ帝国の支配下にあり、1453年に東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされてイスラムの強国「オスマン帝国」の支配下に入ったことは先に紹介しました。

 

ちなみに、オスマン帝国の領土は最盛期に、ローマ帝国が地中海沿岸とメソポタミアで得た最大の領土とほぼ同じ(イタリア、クロアチア、フランスを除く)地中海沿岸からメソポタミア全域まで広がりました。第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国は連合国によって600年以上続いた帝政が廃止され、1923年にトルコ共和国になります。

 

一方、約400年間(1453-1830年)オスマン帝異国に支配下にあったギリシャは独立戦争によって1830年にオスマン帝国からの独立し、1935年に王制に移行、第二次世界大戦ではドイツとイタリアなどの枢軸国に占領されたものの、第二次世界大戦後にギリシャ王国が復活し、1974年の軍事クーデターで共和制に移行して現在に至っています。

 

オスマン帝国時代のギリシャ人は支配される立場でしたが、ギリシャ正教徒としての信仰の自由は認められており、ギリシャ人の一部(正教会の幹部など)は支配階級に組み入れられていたそうです。独立の機運が高まった1821年に始まった独立戦争ではオスマン帝国軍によって圧倒されましたが、それまで冷淡であったイギリス、フランス、ロシアなどのヨーロッパ列強が介入し始めたことで風向きは変わり、オスマン帝国がギリシャの独立を認めたのです。第二次世界大戦後は共産党などによる内戦で王政による政治が混乱したため軍事クーデターで軍事独裁性が採(と)られましたが、1974年に民主的な共和制に移行して現在に至っています。

 

以上を要約すると、ギリシャは約2000年にわたる被支配の歴史があり、第二次世界大戦後の70年間は政治的な混乱が続いたのです。この長期にわたる歴史が、現在から2100年-4000年前の古代ギリシャ文明の精神を忘れさせ、現在のギリシャ人に国よりも個人を重視する気質(きしつ)を植え付けたと考えられます。ギリシャが「個人主義者の国」「自己中心者の国」と呼ばれることにはこのような歴史的な背景があるのです。「ナ ドゥーメ」(様子を見ましょう)がギリシャ人の口癖だと聞いたことがあります。有史以来、わずか7年間(1945-1952年)しか他国に占領されたことがない日本人とは明らかに違いがあると思われます。

 

長文になりましたが、私が述べたかったポイントは次の3点です。

○古代ギリシャの形式的(歴史的・国家的)な継承者は皮肉なことにドイツ連邦共和国とトルコ共和国である

○現在のギリシャ人は、古代ギリシャの遺跡・奴隷を使った古代ギリシャの市民意識・衆愚(しゅうぐう)政治が現存することを除けば、格調高い古代ギリシャ文明(ギリシャ哲学・建築・芸術など)をほとんど継承していない

○そして、古代ギリシャ文明がヨーロッパ文明の源流と考えるのはヨーロッパ人の自己満足(優越感の表れ)である
 
 

<付録> イスラム帝国の系譜
 

本題から外れますが、上記の記事を書いていて、オスマン帝国が登場する以前のイスラム世界のことを知りたくなりました。ヨーロッパの一部を占領したサラセン帝国とオスマン帝国については西洋史を通してある程度の知識を持っていましたが、それ以外のイスラム勢力についての私の知識は白紙状態だったのです。そこで、イスラム教の開祖ムハンマド(570年頃~632年)が登場して以降のイスラム帝国を時代順に調べて、以下の通り整理してみました。 

 

アラビア半島の南西部にある商業都市マッカ(メッカ)で生まれたムハンマドは洞窟で瞑想(めいそう)に耽(ふけ)って唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、預言者としての自覚に目覚めたとされる。しかし、彼が説くイスラム教はマッカで迫害されたため、彼はヤスリブ(後のメディナ)へ脱出し、入信者たちで構成するイスラム共同体の基礎を築いた。長年にわたるマッカとの抗争の末、ムハンマドはマッカ軍を破ってその地をイスラム教の聖地とした。そして、アラビア半島を統一して最初のイスラム帝国の礎(いしずえ)を築いた。 

 

最初に登場したイスラム帝国はイスラム教の開祖ムハンマド(モハメッド)と同じ部族出身のウマイア家が661年に建国した世襲王朝である「ウマイア朝」(別名サラセン帝国)である。ムハンマドの死後も拡張を続けたイスラム共同体はアラビア半島からエジプト・シリア・ペルシャへと領土を拡大していたが、さらに西は北アフリカのアルジェリア・モロッコとイベリア半島、東はパキスタン・アフガニスタンなども領土として併合して巨大な国土を支配。ウマイア朝は革命で倒される750年まで100年近く続いた。 

 

次いで誕生したのが、革命で750年にウマイア朝を倒し、ムハンマドの叔父の子孫を指導者とするイスラム帝国第2の世襲王朝「アッバース朝」である。いわゆるアッバース革命(747-750年)で誕生した「アッバース朝」はウマイア朝の領土をそのまま引き継ぎ、東方のシルクロードを領土に加えた。しかし、イベリア半島に後ウマイア朝が建国され、北アフリカではアルジェリアにルスタム朝・モロッコにイドリース朝、チュニジアにアグラブ朝などが起ったことで、領土が縮小して衰退しはじめる。それでも、1258年にモンゴル帝国に滅ぼされるまで約500年間も続いた。
 

イベリア半島に756年に建国された「後ウマイア朝」は、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、710年代末にはピレネー山脈まで勢力を拡大した。しかし、内部の権力抗争が原因となって1031年に滅びてしまう。これによりイスラム勢力が弱体化したため、後にレコンキスタと呼ばれるキリスト教徒によるイベリア半島の奪還闘争が本格化し、1492年にグラナダのナスル朝(アルハンブラ宮殿で有名)が陥落するまで続いた。これにより、イスラム教勢力は700年余り支配したイベリア半島から駆逐され、イベリア半島はキリスト教国(スペイン王国とポルトガル王国)の領土に復帰した。

 
以下の写真は2003年10月に撮影したアルハンブラ宮殿で、上からアラヤネスのパティオ(天人花の中庭)・ライオンのパティオ・それに面した部屋の天井付近です。
 
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セルジューク帝国(セルジューク朝あるいはセルジュクトルコとも呼ばれる)は11世紀から12世紀にかけて現在のトルコからイラン・イラク・トルメキスタンを支配したトルコ系(テュルク系遊牧民)イスラム王朝である。中央アジアから南下してイランに入り、1038年にセルジューク朝を建国、その後イランの大部分を支配下に置いた。1071年にはマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)で東ローマ帝国に勝利。最盛期には、西はアナトリア(現在のトルコ)、シリア、ヒジャーズ(アラビア半島の紅海側)におよび、東はトランスオクシアナ(中央アジアのウズベキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン・タジキスタン)まで支配下に収め、中央アジアから地中海におよぶ大帝国へと発展した。アナトリアの奪還を目指す東ローマ帝国の要請により、1096年には第1回十字軍が編成された。内紛による弱体化と1099年には十字軍によってエルサレムを占領されたことでセルジューク帝国に陰りが見えはじめ、1157年に滅亡する。

 

ルーム・セルジューク朝は1077年にセルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として誕生し、アナトリア地方(現在のトルコの半島部)を中心に支配したテュルク人の王朝。1243年にモンゴル帝国と戦いに敗北して属国化するが、国内が分裂状態になり、1308年に滅亡した。 

 

オスマン帝国はルーム・セルジューク朝が弱体化した小アジア(現在のトルコの半島部)で1299年に建国されたテュルク(中央アジアの遊牧民)系のオスマン家出身者を皇帝とするイスラム王朝である。東ローマ帝国や西アジア(シリア・イラクなど)のイスラム教諸国を征服して、東ヨーロッパ南部のバルカン半島(クロアチアを除く)・同じく中部のルーマニア・ハンガリー・ウクライナなど・北アフリカ(エジプトからアルジェリアまで)・紅海沿岸にも進出して、地中海沿岸の大半を支配する大帝国へと発展した。第1次世界大戦には同盟国側で参戦、1818年に連合国に降伏したことで1922年に帝政が廃止され、オスマン帝国は滅亡した。

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