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2015年11月

2015年11月28日 (土)

晩秋の都心散策と早めの忘年会 (銀座編)

東京メトロ・銀座線銀座駅で下車、A8出入り口から地上に出ました。
 
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銀座4丁目交差点を挟(はさ)んで総ガラス張りで円筒形をした三愛ビル(正式名称:三愛ドリームセンター、1963年オープン)と、
 
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存在感のある銀座三越(地上12階、地下4階)が向かい合っていました。
 
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今秋、5年ぶりの大規模改装(各階を順次リモデリング)した銀座三越の一階ロビーには年末を演出した飾り付けがありました。
 
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円形の吹き出しタグに表記された”JENKKA brings Happiness”とは三越伊勢丹グループのキャッチフレーズのようです。ちなみに、“JENKKA“(ジェンカ)は私が半世紀前の大学時代に覚えたフィンランドのフォークダンスで、坂本九さんが「レットキス(Letkiss」を歌って日本でもヒットしました。
 
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ネットで探すと、YouTubeで三越伊勢丹グループクリスマスキャンペーン2015 コンセプトムービー「JENKKA(ジェンカ)でクリスマス」とドイツ語のTanzen mit dem Ehepaar Fern - Letkiss 1965を見つけました。後者を直訳すると「遠くのカップルと踊るダンス」になると思いますが、「列になって踊るダンス」を意味するようです。

 

時間を見計らって中央通り(国道15号)に出て、銀座三越の脇を銀座3丁目交差点方面に歩きました。銀座三越の大きな建物の陰に寄り添うように雑居ビルが並んでいます。銀座シルクビル、銀座アクトビル、銀座三和ビルです。目的地は真ん中の銀座アクトビル9階(最上階)にある「デザイナーズ和ダイニング HANARE 離」。
 
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明るくかつ落ち着いたインテリアと提供される創作料理は女子会、宴会、歓送迎会など気軽に利用できる店です。また、細長い店内はレイアウトが自在(個室可)で、20名以上(最大:着席62名、立食80名とのこと)ではディナー帯はもちろん、ランチ帯の貸切もできますから、幹事さんには嬉(うれ)しいレストランと言えそうです。
   
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今流行するオープンキッチンは、楽しさだけでなく、広々とした印象も与えてくれます。店内の様子とメニューは関連のグルメサイトを参照してください。
 
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ランチ帯の忘年会(一次会)は、料理と飲み物を楽しみお互いに近況を披露しながら、午後3時まで3時間あまり続きました。エレベーターで下まで降りると中央通りでは歩行者天国が始まっていました。
 
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この後は恒例となった神田エリアにあるスナックでの二次会です。直線距離で2km強ですから、歩行者天国が開催されている銀座エリアの中央通りを北上し、京橋と日本橋を経由して神田まで歩いても良いのですが、まったく同じルートを走っている東京メトロ・銀座線を利用することにしました。

 

スナックでの二次会も大いに盛り上がって午後6時過ぎまで続きました。
 
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そして、近くの居酒屋での三次会は午後8時半ころに終わりました。8時間以上にも及んだ忘年会の梯子(はしご)を愉しんだ後、やっと帰路につくことになりました。気がつけば同居者から安否を問うショートメールがいつの間にか私のスマホ(iPhone)に入っていました。(終)

2015年11月27日 (金)

晩秋の都心散策と早めの忘年会 (日本橋編)

11月になると様々な行事が予定されて慌ただしくなりますが、その主なものにひとつが忘年会でしょう。以前は師走(12月)に開かれことが普通でしたが、最近は混雑を避けるため、11月へ前倒しされることが多いようです。私についても今年は3つの忘年会が11月中旬に集中してしまいました。最初の忘年会は勤務していた会社のOBによる集まりですから旧職場近くの会場でしたが、残りの2つは都心の日本橋と銀座が選ばれました。

 

東京メトロ・半蔵門線三越前駅を下車して日本橋三越本店(新館)の前に出ました。2004年にリニューアルオープンした重厚感に溢(あふ)れる建物(地上10階、地下2階)です。
 
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三越は、以前のブログ記事に書きましたように、創業者三井高利(たかとし)の姓と創業時の屋号である越後屋を組み合わせた命名です。また、終戦直後まで存在した三井財閥(現三井グループ)はこの三井越後屋が分かれた三越(現在は三越伊勢丹ホールディングス傘下の株式会社三越伊勢丹)と三井銀行(現三井住友銀行)が源流となった持ち株会社三井合名が支配した企業グループでした。ちなみに、日本橋三越本店と旧三井銀行本店(三井本館)は道路を挟んで隣接し、また日本銀行もこれらの西隣に立地しています。

 

日本橋北詰交差点の横断歩道を渡って日本国道路元標がある日本橋(国指定重要文化財)の袂(たもと)に出ました。
 
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日本橋の親柱には「獅子の像」が飾られており、その獅子(しし)は前足で東京市の紋章(現東京都の紋章)を押さえています。この紋章は太陽を中心に六方に光が放たれている様を表しているそうです。また、獅子像の下にある橋名板には漢字で「日本橋」と書かれていますが、これは最後の将軍であった徳川慶喜の筆によるものだそうです。
 
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日本橋に覆(おお)いかぶさるように存在するのは首都高速道路の高架です。少し前(2005年ころ)には、日本橋の景観を取り戻すため、日本橋近辺の首都高を地下化(あるいは移設)しようとする運動がありましたが、巨額な費用が必要であるため、まだ実現する兆(きざ)しはありません。そのためか、高架下に明るい照明が取り付けられたことで夜の景観はそれなりに美しくなりました。
 
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橋中央部の欄干には、別のブログ「これって何?」と「浜町緑道」で紹介した羽根のある龍の像が何体も飾られています。
 
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日本橋を渡りきったところにも同じ親柱がありますが、こちらの「橋名板」は平仮名で書かれています。これも徳川慶喜が書いたものだそうです。写真では読み取りづらいのですが、「にほんはし」の「は」(慣習で濁らない)が通常の「は」ではなく、変体仮名が使われています。変体仮名の「は」は「者」を崩したもので、現代人が読むことは困難です。
 
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ちなみに、「橋名板」は4つある親柱のうち、道路(街道)の起点側左手に漢字表記があり、道路の終点寄り左手には平仮名表記のものが設置されることがデファクトスタンダード(事実上の標準、具体的には地方自治体が各々定めるルール)ですが、主要道路(五街道)の起点である日本橋は特異点であり興味深いのですが、東海道(国道1号)を優先させたのか、上記の配置になっています。後になって知ったことですが、日本橋の残る2つの親柱の脇(下側)には橋にまつわる来歴を表示した橋歴板が取り付けられているそうです。

 

中央通り(国道1)を南へ歩きます。最初の交差点角(左手)には寝具の老舗「東京西川」(日本橋西川ビル)、右手はニホンバシビルと黒江屋国分ビルが並んでいます。その右隣には榮太郎飴で知られる「榮太郎総本舗」(榮太郎ビルディング)があるはずです。ちなみに、東京西川には同じ源流(1566年に近江商人の西川仁右衛門が創業した西川産業)をもつ京都西川と西川リビング(旧大阪西川)があるようです。
 
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次の日本橋交差点(北東角)にはひと際高く聳(そび)えるコレド日本橋(正式名称:日本橋一丁目三井ビルディング)があります。日本橋で三越と高島屋と並ぶ百貨店であった白木屋本店および白木屋を買収した東急百貨店の日本橋店(1999年閉店)跡地の再開発事業として三井不動産と東急不動産により2004年に竣工した超高層ビルです。
 
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日本橋交差点を通過して日本橋高島屋方面へ歩きました。写真左手の建物が日本橋高島屋です。その手前に巨大なクレーンが見えますから、ビルの建て替え工事が行われているようです。その向かい側(右手)には日本橋南郵便局があるはずです。
 
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中央通りの東側にある東京日本橋タワーは高さ180mの住友不動産が中心になって建てられた超高層の複合ビルで、地上3階から地下1階まで店舗が入店し、地下2階がイベントホール、地上4-5階がコンファレンスセンター、7階がスカイロビー、8-35階がオフィスとなっているようです。
 
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高島屋日本橋店が近づきました。その手前のエリアは再開発のため工事用の塀で囲まれていました。高島屋日本橋店の外壁が東側でむき出しになっているのが見えます。ちなみに、高島屋の屋号は創業者飯田新七の義父が近江国高島郡の出身であったことによります。
 
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調べると、髙島屋日本橋店を核とした「日本橋二丁目地区第一種市街地再開発事業」が昨年末から進められていました。国指定重要文化財の髙島屋日本橋店(地上8階/地下3階)はほぼそのままですが屋上には緑あふれるオープンテラス(約6000平米)が整備され、北隣の高島屋北別館とおよび他ビルの跡地には超高層ビル(高さ180m、地上31階/地下5階)、東隣の高島屋新館の跡地にも超高層ビル(高さ145m、地上26階/地下5階)が建設(竣工;2018年度)され、渡り通路が設置される予定とのこと。

 

高島屋の向かい側には日本橋丸善東急ビルはがあります。2004年に建て替え工事が始まった時、丸善のブックストアは「丸善・丸の内本店」として2004年にオープンしましたが、2006年に工事が完了した後は元の日本橋店(正式な本店)として復活しています。
 
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その手前にある日本橋南郵便局の角を右折しました。郵便局のショーウインドーに珍しいものを見つけました。明治初期(明治4年、1871年)から使われた郵便ポスト「書状集め箱 都市用」です。木箱前面の右上には「毎日八時開函」と表示されています。ちなみに、左下に書かれた駅逓司(えきていし)とは慶応4年(明治元年、1868年)に設置された交通通信担当官司(かんし、官庁のこと)で、後に逓信省(ていしんしょう)の元になった組織です。「逓」は次々と伝え送ることを意味する漢字で、「信」は手紙や通信を意味しますが、戦後(1949年)になって電気通信省(後の日本電信電話公社、現NTTグループ)と郵政省(現総務省の郵政事業庁、後に日本郵政公社)に分割されました。
 
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日本橋南郵便局の大きなビルにもたれ掛るような細長い雑居ビル(日本橋テイトビル)が見つかりました。1階はドトールコーヒー店ですが、目的の店は地下1階にあるカキ酒場「北海道厚岸 日本橋本店」です。厚岸(あっけし)産の牡蠣(かき)を使った料理を堪能(たんのう)できる店です。地下にある店舗は狭いのですが、人気店であるため、予約する必要がありそうです。
 
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忘年会を兼ねた飲み会で食べた料理はブログ「竹輪会」を店内の様子とメニューの詳細は関連のグルメサイトを参照してください。(銀座編へ続く)

2015年11月23日 (月)

”Windows 10”について今思うこと

”Windows 10”が7月29日にリリースされて約4ヶ月が経過しました。”Windows 7”や”Windows 8/8.1”を使用している場合は1年間限定ですが無償で”Windows 10にアップグレードできますから、すでにアップグレードした方も多いかもしれません。10月時点の調査では”Windows 10”のシェアが約8%になったようで、爆発的な人気とは言えませんが、まずまずの普及速度ということができるかもしれません。

 

しかし、”Windows 7”のシェアはまだ50%を超えており、”Windows 8/8.1”は約15%ですから、1年後(2016年7月)までにどれだけの”Windows 7”と”Windows 8/8.1”を”Windows 10”へ移行させることができるかは未知数です。というのは、評判が芳(かんば)しくない”Windows 8/8.1”のユーザーは積極的に(喜んでor止むに止まれず)”Windows 10”へ移行すると思われますが、”Windows 7”のユーザーの方は現状におおむね満足している(企業ユーザーはOSの移行にともなって発生するアプリケーションや周辺機器のコストを重視している)ようで、しばらくは「様子見」(ようすみ)をする状況にあると思われます。事実、”Windows 7”を使っている私も「様子見」をしているのです。

 

何を「様子見」しているかと言えば、まずOSとしての「”Windows 10”の安定性」が担保されるのを待つことですが、もう一つはアップグレードした際に従来の資産との互換性がどこまで保証されるかです。つまり、アプリケーション・ソフトウエアとその関連データが”Windows 10”の環境下でも正常に利用できるかどうかとことです。もっとも、このリスクは時間とともに減少すると期待されます。そして、もう一つ重要な判断基準があります。これは、「様子見」というよりも、私のパソコンとそれに接続されている周辺機器(プリンターとスキャナー)の制約条件です。

 

”Windows 7”が発売された直後に購入した私のパソコンは”Windows 10”を利用するには性能が十分かどうかは微妙なのです。公式に発表されている”Windows 7”と”Windows 10”のシステム要件はまったく同じなのですが、同等のレスポンスが得られると保障されているわけではありません。"PC のチェック" 機能を使って事前にチェックする手段があるようですが、実際にアップグレードしてみないと問題の有無は分からないと思います。それよりも私にとって重要なことは既存の端末装置が”Windows 10”で使えるかということです。つまり、周辺機器のメーカーが”Windows 10”用の ドライバーをサポートしているかどうかなのです。

 

私が使っているプリンターとスキャナーは”Windows 7"の2つ前の”Windows XP”の時代に購入した年代ものであり、”Windows 7”パソコンではドライバーを変更しましたが、残念ながら今回の”Windows 10”ではサポート対象外なのです。つまり、”Windows 10”へ無償でアップグレードできてもプリンターとスキャナーを買い換えなければならなくなるのです。何ら不具合のない完動品をOS変更のために買い換えることは、”Windows 7”から”Windows 10”へアップグレードした時のメリット(セキュリティー向上、新機能、将来の無償アップグレード)を考慮しても、とても割に合わないのです。

 

以上の状況を考えると、私が”Windows 10”へアップグレードする良いタイミングは、”Windows 7”のサポートが打ち切られる約4年後(*)、現有パソコンが故障した時、あるいはプリンターとスキャナーが故障した時、の中で一番早いものでしょう。パソコンそのものが故障すれば、躊躇(ちゅうちょ)するまでもなく”Windows 10”を搭載した新しいパソコンを購入せざるを得ません。それ以外の場合にあっても難しい判断は必要ありません。

*注; 発売後最低5年間サポートされるメインストリームサポートは2015年1月13日に終了済、現在行われているセキュリティアップデートに限定する延長サポートは2020年1月14日に終了予定

 

枝葉ですが、”Windows 7”のメインストリームサポートが終了する数が月前に”Windows XP”パソコンから”Windows 7”パソコンへデータを移行させた時に経験したことです。その際、必要・不可欠であったメールアカウントの設定やブラウザの設定などの操作はかなり煩雑(はんざつ)でした。ですから、よほどのことがない限り最新OSへの変更は気が進みません。

 

いずれにせよ、私の場合は慌(あわ)てて”Windows 10”へアップグレードする必要はなく、『何かトラブルが発生した時になってから対応すれば良い』というのが現状における私の結論です。

2015年11月19日 (木)

池井戸潤著「下町ロケット」を読む

池井戸潤氏の小説をほぼ時系列(発行順)に読み進みながらその都度当ブログで紹介してきましたが、今回は8作品目として「下町ロケット」を取り上げます。2010年に小学館から刊行されたハードカバー本(全407頁、1700円+税)で池井戸潤氏の代表作品と言えます。本作品は2011年に第145回直木三十五(なおきさんじゅうご)賞を受賞しました。ちなみに、2013年には小学館文庫版(720円+税)も出版されています。本の表紙には町工場の構内とその後方に打ち上げられたロケットが描かれています。無縁と思われる2つの言葉を組み合わせてインパクトがあるタイトル「下町ロケット」を持つ本書はどんな話が展開されるのかと期待を持って表紙を捲(めく)りました。

 

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プロローグ

 

佃航平(つくだこうへい)は種子島宇宙センターの発射管制塔内でモニター画面に表示される射点の様子と画面右端に出ている風速表示で相変わらず強い風が吹いていることを確認した。カウントダウンが進み、新型エンジン「セイレーン」は『メイン・エンジン・スタート』のアナウンスとともに轟音(ごうおん)と炎を吹き出すとロケットは発射台を飛び出し、上空へと小さくなっていくが、追尾レーダーが送ってくる飛翔経路図に表示される「セイレーン」の軌道が、予定軌道からズレはじめた。第二エンジンが点火されるとロケットはほとんど水平飛行をはじめた。ミッションマネージャーが『シークエンス緊急停止せよ』と命じると、モニター画面のカウントが止まった。

 

第一章 カウントダウン

 

亡くなった父親の跡を継いで精密機械製造業を営む町工場、佃製作所の社長となって7年、佃航平は以前の研究部門とはまったく異なる世界で経営者として奮闘している。この日も呼び出しを受けた一部上場企業で主要取引先の京浜マシナリーからエンジン部品の納入を来月末で打ち切りたいと通告された。来月末から内製化する方針に変更したのが理由だという。年間10億円を下らない京浜マシナリー向けの取引は佃製作所の年間売上高の10%以上を占めている。もし、これを失うと赤字に陥(おちい)ることは明らかである。メインバンクの白水銀行池上支店に運転資金3億円の融資を申し入れるが、研究開発投資が多すぎることと、それが売り上げに繋(つな)がっていないとして方針の変更を迫られてしまう。

 

帰社した佃を待っていたのはナカシマ工業が特許侵害で訴えたという東京地方裁判所からの書状である。佃製作所の製品の中で稼ぎ頭(かせぎがしら)とも言える小型エンジン「ステラ」はライバル企業のナカシマ工業にとっては目の上のタンコブといった存在である。「ステラ」を真似た製品を持つ大手企業のナカシマ工業は特許侵害訴訟で佃製作所の評判を落とし、かつ裁判の長期化で兵糧攻(ひょうろうぜ)めにしようとしていることは明らかであった。この話をナカシマ工業の新聞発表で知った白水銀行が融資話を断ったため、佃は定期預金を崩(くず)して当面を凌(しの)ぐことにした。

 

第一回口頭弁論は特許に詳しいナカシマ工業の弁護士のペースで進んだ。これに危機感を覚えた佃はこの分野に詳しい弁護士に依頼することを決断する。その折、ナカシマ工業から訴えられたことを知った別れた妻から特許関係に詳しい弁護士を紹介してもいいと言われたことは渡しに舟であった。新しい弁護士は佃の期待以上の切れ者でナカシマ工業の真の目的を見抜いていた。そして、佃製作所の特許に穴があるため勝訴は容易ではないので、ナカシマ工業を別の特許侵害で逆提訴することを提案した。そして、既存の保有特許を補強(優先権主張出願)することと、銀行以外の金融機関を探すように助言した。

 

第ニ章 迷走スターダスト計画

 

東京、大手町にある帝国重工の本社で宇宙航空部の財前部長は自社が出願した大型水素エンジンの新技術が、すでに同じ内容の特許が存在するため、出願が認められなかったことを知らされた。特許を3ヶ月前に取得した会社は株式会社佃製作所で、帝国重工からすれば吹けば飛ぶような規模の会社である。帝国重工では社長肝(きも)いりで進行中の「スターダスト計画」において新型エンジン開発はその目玉であり、大型ロケットの打ち上げで国際競争をリードするための絶対条件であった。プロジェクトのスケジュール変更は絶対に認められないため、財前は佃製作所からその特許を買うことを決断する。佃製作所は訴訟に巻き込まれて窮地(きゅうち)にあるため、安く買い叩(たた)けるとの思惑(おもわく、しわく)もある。

 

佃製作所に帝国重工の財前部長が訪れた。佃製作所の特許を譲(ゆず)って欲しいと申し出た財前に向かって佃は特許を売るつもりはなく、特許の使用料を払ってくれればいいと応じた。突然、財前は『20億円で、いかがでしょう』といった。20億円あれば、重工が欲しいという水素エンジンのバブルシステムの特許を含め、佃製作所の研究部門が作ってきた借金をすべて返済して余りあるのだ。新しい技術への強いこだわりを持つ佃に向かって財前は『おいくらでしたら売っていただけますか』というが、佃は『金額の多少ではない』と断る。財前は社内で揉(も)んで欲しいと言い残して引き上げた。

 

佃製作所では部課長以上の30余名が出席して緊急会議が開かれた。そこではさまざまな意見が出されて収拾(しゅうしゅう)がつかない。佃は社員に向かって『いま帝国重工の提案を飲んだらウチの負けだ』と言い切った。返事をしたいという佃のもとに駆(か)けつけてきた財前は、佃が発した『社内で検討した結果、売却は見送ることにしました』との思い掛けない回答に驚く。食いさがる財前に佃は『ウチの資金繰りのことを随分と心配されていますが、本当に心配しなきゃならないのは、御社のプロジェクトのほうじゃないんですか』と取り付く島がない。しかし、財前は、佃製作所が早晩行き詰まって民事再生になるから、その時に出番が来ると踏んでいる。

 

佃製作所が逆提訴した裁判が始まると予想外の展開になった。ナカシマ工業による審議引き伸ばしに悪い心象を持った裁判官が和解を勧告、しかも佃製作所の言い分をほぼ全面的に認めた内容(ナカシマ工業による56億円の支払い)であった。ナカシマ工業の弁護士も和解を受けることを勧める。そして、ナカシマ工業にはさらに思いもよらない事態が発生する。東京経済新聞の連載特集記事だ。「仁義なき企業戦略」としてナカシマ工業の法廷戦略が槍玉(やり)に挙がっている。これを受けてさらなる信用の失墜を恐れたナカシマ工業の役員会は和解の受け入れと最初の訴訟を中止することを決めた。

 

このため、財前は佃製作所から特許を買い取ることを断念し、佃の主張する特許使用契約を締結(ていけつ)することにした。しかし、たとえ佃と合意しても、キーテクノロジー内製化にこだわる帝国重工の藤間社長の方針と真っ向からぶつかることは避けられない。

 

第三章 下町ドリーム

 

佃製作所が勝訴したことを新聞発表で知った白水銀行の支店長が佃製作所を訪ねてきた。和解金の56億円が目当てである。しかし、佃は和解金が支払われた後は白水銀行との取引を解消すると通告した。そして、帝国重工の財前も佃を訪ねてきた。前回の無礼を詫(わ)びて、佃製作所の特許を使用したいと申し出た。佃製作所側の反発に対して財前は『御社の技術でウチのロケットを飛ばさせてください』との決め言葉で話を締(し)めくくった。しかし、佃製作所の社内はさまざまな意見が飛び出して佃の胸は複雑な思いで一杯になる。

 

佃は帝国重工の提案を断ってエンジン部品を自社で製作する方針を決めた。『仕事というのはカネじゃないと思う』と部下たちに言った佃は財前に電話をかけて帝国重工に部品供給を提案する。佃の提案に戸惑った財前は持てる忍耐力を総動員して、『お申し出は検討させていただきますが、いま一度、弊社からの提案も再検討していただけませんか』とつなぐが、佃は『バブルシステム関連のユニットを外注できるかどうか、御社内で検討してみてくれないか』と譲(ゆず)らない。

 

3日後に財前は佃にアポを入れた。訪れた財前に佃は『社内、見ますか』と意外なことを言う。相手に対する礼儀だと申し出を受け入れた財前は佃製作所の社内を隈(くま)なく案内されるが、社内に良い雰囲気を感じるとともに、過剰ともいえるクリーンルームや若い工員の手作業を見てその技術水準の高さに感銘(かんめい)する。研究部門では研究開発に情熱を傾ける佃の信念を感じさせられた。結局、財前は佃の部品供給を断ることができなかった。帰社した財前は上司の水原本部長に部品の受け入れを検討したいと報告する。部品の内製化を推進する藤間社長のスタンスをよく知る水原は慎重な態度を変えない。

 

そんな折、企業投資や買収案件などを手掛けるアメリカ資本のマトリックス・パートナーズから佃製作所を買収したい大手企業があることを佃は知らされた。

 

第四章 揺れる心

 

かつての同僚である三上(現在は大学教授)から久しぶりに飲まないかとの誘いがあって神宮外苑近くのイタリアンに佃はいた。最近の佃製作所に関する出来事に触れた三上は改まった口調で『大学に戻らないか』と佃に言う。来年退官するロケット分野の権威である教授の後任に佃を推薦するというのだ。マトリックスに佃製作所を紹介したのは三上であった。『少し時間をくれ』と佃は唸(うな)るようにいった。

 

帝国重工では水原本部長から佃製作所の部品をテストする指示が出された。合格させるのが目的というよりも落とすことにより「特許使用」を実現しようとする思惑(おもわく)があるのだ。その責任者には、財前ではなく、その部下の富山が指名された。財前の考えに反発を感じて水原の意向に沿った行動を取ろうとしているエンジン開発の責任者である。そして、富山は必要以上とも思われる詳細なテスト計画書を作成した。これには技術面はもちろん、財務内容の審査も含まれている。

 

第五章 佃プライド

 

帝国重工の評価チームが佃製作所に来社する日がやってきた。大工場にしかあてはまらない工程管理の理想論を振りかざす帝国重工の評価者は佃製作所の試作工場において次々と指摘事項を連発する。財務内容の審査も同様に厳しいものであった。帝国重工の評価者たちが意気揚々(いきようよう)と引き上げた後、佃製作所の社内は不満と愚痴(ぐち)に溢(あふ)れたが、白水銀行からの出向者である経理部長の殿村は『ここで真価が問われているのは帝国重工も同じだと思います』と意外なことを言う。『数字は嘘をつきません。帝国重工にだってきちんと数字を読む人間はいるはずです』と力説したことで、社員たちの雰囲気が一気に明るくなった。帝国重工の評価者たちの態度に憤(いきどお)った社員たちにやる気を起こさせたのだ。

 

2日目の評価では「攻守所を変える」の状態になってしまう。自信を取り戻した佃製作所の社員たちの対応に帝国重工業の評価責任者たちはタジタジとなる。しかし、一部の若手評価者は真摯(しんし)に佃製作所の製品の精緻(せいち)さに感銘(かんめい)を受けたようである。そして、帝国重工のテスト第一段階は無事に終わり、佃は三上へ断りの電話を入れた。マトリックスについても同様である。

 

第六章 品質の砦

 

予期しない事態が発生した。佃製作所が帝国重工に提出した評価用バルブ についての簡単な動作テストのデータに異常値が出たことが筑波にある帝国重工の研究所から同本社へ報告されたのである。その頃、佃製作所内でも出荷されたはずのバルブが工場の倉庫に残っていることが発見された。出荷手続きにミスが発生したと思われた・・・。そして、佃製作所の担当者は筑波まで車を飛ばして正規の評価用バルブを持参するが、帝国重工側評価責任者の富山はこれを拒絶する。(以下略)

 

第七章 リフト・オフ(省略)

 

エピローグ(省略)
 
                              ☆

 

<読後感> 導入部から展開部、そして終盤のクライマックスへと息注ぐ暇(いきつぐひま)も与えないドラマチックな展開は池井戸潤氏ならではのものであり、読みやすい文体で書かれた本書を一気に読み終えました。終盤では、「はたして佃製作所はバルブシステムを納入することができるのか?」、「ロケットは打ち上がるのか?」、との厳(きび)しい状況設定が続きます。先に紹介した「ルーズヴェルト・ゲーム」と同様、次々と迫り来る危機を佃航社長の困難を乗り越えようとする強いリーダーシップに加えて、不平不満を言いながら必死で努力する社員たちの描写は読む人の心を片時も離しません。また、「因果応報」(いんがおうほう)の結末も読者に安心感を与えます。ちなみに、本作品は2011年に三上博史主演でテレビドラマ化されてWOWOWで放送されましたが、今年はリメイク版(主演:安部寛)がTBS系列で10月期の日曜劇場(10月18日~11月15日、全5話)として放送されました。また、11月22日からはその続編「ガウディ計画編」(原作:11月5日に発売されたばかりの「下町ロケット2 ガウディ計画」)が放送されるそうです。

2015年11月15日 (日)

プリウスはやはり燃費が良い!

街中を普通に走る状況においてプリウスはリッター当たり20km前後の燃費を確保することは容易です。逆に、15km/ℓを下回る低燃費で運転することはかなり難しいといえます。もしあるとすれば、頻繁(ひんぱん)に信号待ち(アイドリングストップ機能がある)後の急発進(多くの燃料を消費)やノロノロ運転時にアクセルを断続的に踏む操作など、特殊な(限られた)状況においてでしょう。

 

県道や国道などの幹線道路では燃料消費を気にしない気ままな運転でも22-23km/ℓを達成することは容易だと思います。これは、プリウスのハイブリッド制御システムがエンジンと電気モーターの使用比率を絶えず最適な状態に維持してくれるからです。信号待ちに遭遇した場合にはスタート時のアクセル操作を滑らかにすれば(信号グランプリに参加しなければ)燃費を大幅に悪化させることはありません。つまり、プリウスに代表されるハイブリッド車は燃費に関しては他車の追随(ついずい)を許さないのです。ただし、最近の軽自動車のなかにはハイブリッド車と同水準の良好な燃費を実現するものが登場したようですが。

 

プリウスの燃費を礼賛する効能書きで記事を書き始めましたが、ここからが本題です。良好な燃費と運転のしやすさ(私はこちらを重視)で人気が高いプリウスですが、批判的な意見も散見されます。まず、運転のしやすさと表裏一体(ひょうりいったい)ですが、キビキビとした走りを楽しめないという意見です。これはプリウスという車の位置付け(万人向け)からやむを得ないことかもしれません。ハンドル、足回り、エンジン、変速機構(電気式無段変速機)などの性格・機能を変えれば歯切れの良さを実現できるのでしょうが、燃費とコストを犠牲にするものであっては本末転倒だと思います。

 

しかし、9月13日に嬉しいニュースが飛び込んできました。第三世代(現状の最新版)の燃費性能を大きく上回る第四世代のプリウスが発表されたのです。まず、エンジンとパワートレイン(トランスミッションとドライブシャフト)を改良したことで従来の燃費(32.km/ℓ)を約20%上回る最大40km/ℓを達成、運転の快適性では剛性を高めたボディと改良したサスペンションに加え、車高と運転ポジションを低くしたことで走りの楽しさ・安全性・快適性が向上したというのです。

 

2つ目は『高速走行時の燃費が悪い』とする批判です。プリウス歴が4年を超えた私もこの批判を半分は信じていました。もちろん高速走行(80-100km/h)時の燃費は通常の車より良いのですが、日本では許されない140km/h以上の超高速走行にはターボチャージャーを搭載した欧州車に比べると燃費が伸びないと思っていました。事実、これまでの燃費トライアル(平均速度80-100km/h)では、いずれも25-26km/ℓと幹線道路を走行する時の燃費とほとんど差がない結果でした。ただし、ハイブリッド車は高速走行時の追い越しには電気モーターがターボチャージャーのように馬力アップ(1.エンジン➡2.相当)してくれますから、安全走行に大いに役立ちますが・・。

 

ここからが本題です。9月に発覚したフォルクスワーゲン製ディーゼル車の排ガス不正事件(先に投稿済み)に触発されて、プリウスの高速燃費について再考し、これまでの燃費トライアルではいくつかの条件を試してきました。まず、速度については、空力抵抗(空気抵抗)があまり増加せず、エンジンの回転数にも余裕がある60-80km/h前後で定速走行するのが最適であることは確かなようです。そして、路面のアップダウンで走行速度を調整することです。上り勾配(こうばい)ではやや低めの速度(ただし速度が下がり過ぎない状態)を維持し、下り勾配ではポテンシャル(位置の)エネルギーを最大限に活用することです。つまり、回生(かいせい)ブレーキ(発電機の機能を持つ)でバッテリーをたっぷり充電することです。急な下り勾配(こうばい)ではシフトレバーをDボジションからBポジションに切り替えることでエンジンブレーキを併用する(フットブレーキは極力使用しない)ことにしています。

 

プリウスのハイブリッド・システムについて、まだ何か理解していないことがあるかもしれないと思い調べてみました。中低速で燃費を改善する仕組みはほぼ理解していますが、高速走行時については、先に述べたように追い越し時の電気モーターによるパワーアシスト機能しか知らなかったからなのです。

 

調べた結果、ハイブリッド・システムは高速走行時にも機能することを知りました。すなわち、高速走行時にあってもエンジン出力は、電気式無段変速機を経由して駆動車輪に伝えられるとともに、電気モーターの出力もハイブリッド・システムに制御されながら電気式無段変速機に供給されるのです。これを理解した上で、電気モーターをできるだけ活用するように(ハイブリッド・システムの制御を邪魔しないように)アクセルを操作すれば、高速走行時の燃費は改善されそうです。

 

もう一つはDポジションにおける回生ブレーキです。エンジンブレーキに似た機能としてこれまでも多用してきましたが、今回は回生ブレーキによる充電を最大化し、たっぷり充電した電気を上り勾配における走行アシスト、および平坦路面での走行アシストに活用することにしました。ちなみに、プリウスの場合はBポジション(注;Bはブレーキの略)でも回生ブレーキが作動しますし、フットブレーキを軽く踏んでもやはり回生ブレーキが作動するよう制御されます。つまり、何らかの方法で減速した時には、量的な違いはありますが、複雑な制御によって回生ブレーキによる発電(つまりバッテリーへの充電)が行われる仕組みになっているのです。

 

しかし、Bポジションを使用すると速度が急に落ちて後続車に追突される危険性があるためフットブレーキを使用するべきであるとの意見があります。ですが、ブレーキランプを点灯させても追突されるリスク(あるいは後続車も急ブレーキを踏んでリスクがそのまた後続車に連鎖する可能性)はやはり残りますから、その考えには全面的には賛成できません。

 

高速道路の走行レーンでは余裕ある車間距離(少なくても50m以上)を必ず維持し、減速する必要が生じた時はまずDポジションの回生ブレーキを使うことで緩(ゆる)やかに減速させるべきです。この時、一つ前の車の動向を見るだけではなく、数台前までの車列総体の流れに合わせて走行するとともに、流れが遅くなった時には速(すみ)やか、かつ滑らかに減速するように心掛けでいます。

 

一方、長い下り坂では、Dポジションの回生ブレーキを使用しても、さらに加速してしまうことがあります。その時、私は迷わずBポジションにシフトします。アクセルを戻した時、走行速度が35km/h以上であれば燃料はカットされますから、Bポジションンでも燃費を悪化させることはありません。

 

私は急な割り込みなどの緊急事態が生じた時とSA/PAで停止する時だけにフットブレーキは使用するようにしています。というのは、フットブレーキを多用すると燃料を無駄遣いする(一部は回生ブレーキで回収されますが)だけではなく、ブレーキパッドを消耗(しょうもう)させます。また、フットブレーキを使い過ぎるとベーパーロック現象を起こして、ブレーキそのものが効(き)かなくなる可能性もあります。ましてや、フットブレーキをタイミング良く使って車間距離を最短にするスリップストリーム走行(カーレースで多用される)は極めて危険ですから高速道路では厳禁です。

 

以上の事項を予習した私はこれまでの経験則と新たに気づいた高速走行時における「電気モーターの活用法」を高速道路が比較的空いている夜間に試してみることにしました。走行するルートは京滋バイパス、名神高速道路、東名阪自動車道、伊勢湾岸自動車道、東名高速道路、新東名高速道路、そして東名高速道路を通過する約450kmです。何十回も往復して走り慣れたルートですから、燃費トライアル運転に集中するには最的なコースです。特に留意したことは、平坦な区間では80km/h以上を維持し、上り勾配(こうばい)では車列の流れより走行速度が落ちないようにすることです。と言うのは、トラフィックの流れを下回る速度で走行すると他車に迷惑をかけることになり、高速道路における燃費トライアルとしては意味がないと考えました。
 

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宿泊地を午後5時ころに出発して国道1号から京滋バイパスの久御山(くみやま)ICに入りました。京滋バイパスから新東名高速道路の区間は法定速度に合わせて80km/h前後の速度を維持(アップダウンでアクセルを踏み込み過ぎないように微調整)、東名阪自動車道・伊勢湾岸自動車道・東名高速道路ではトラフィックの流れに合わせてできるだけ80km/h前後の速度で走行(渋滞が発生した四日市IC前後を除く)し、新東名高速道路は80km/hの速度とアクセルの踏込量をほぼ一定に維持し、東名高速道路の御殿場から先の下り勾配は100km/h前後にスピードアップして一気に自宅最寄りのICまで走り、そのICからはもちろん一般道を利用して帰宅しました。

 

総走行距離は456.km、平均速度は71km/h、そして平均燃費は28.km/ℓと、このルートでは最高の数値を達成することができました。従来の記録である24-25km/ℓを大幅に更新(約15%アップ)したことは今さらながらですが私には大きな驚きです。
 
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ちなみに、平均燃費を区間別にみると、京滋バイパスの久御山ICに近い出発地点から新東名高速道路の入り口(浜松SA)までの237.kmは27.km/ℓ、同じく新東名高速道路の駿河湾沼津SAまでの累計354.kmは比較的平坦な路面に助けられて28.kmと燃費が1km/ℓ改善しました。
 
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下り勾配が続く御殿場JCTから先の東名高速道路ではこれまでの実績から、さらに数値が上がると期待しましたが、駿河湾沼津SAから最高地点(御殿場IC付近、標高454m)までの緩やかな上り坂で平均燃費が低下して浜松SA地点のレベルまで戻ってしまったことと、大型トラックに囲まれて走行する状況に対応するためBポジションを多用(速度をアクセル操作で調整)したこと、最寄りのICから自宅までの一般道でも平均燃費を少し下げたことが重なり合って、駿河湾沼津SA地点の数値からわずか(0.km/ℓ)ですが悪化させる結果になってしまいました。この点は少し心残りでしたが、目標とした26-27km/ ℓを大幅に上回る28.km/ℓという良好な平均燃費には十分満足しました。
 
 

                          ☆

 

堅い話になりましたので、最後に燃費トライアル中のグルメ情報にも触れます。私は深夜に帰宅する場合、高速道路のSA/PAで夕食を摂ることにしています。よく立ち寄るのは刈谷ハイウェイオアシス(SA)ですが、印象に残っているのは大津SAの叶匠寿庵です。5年前に立ち寄って私が「近江牛の牛丼」を、同行者は「トンカツ定食」を食べた時に、同行者が『今度は絶対に「おばんざい」を食べたい』と言ったことを思いだしたからです。しかし、確認すると「おばんざい」は叶匠寿庵(かのうしょうじゅあん)のメニューから消えていました。そこで、代案として、新名神高速道路で唯一のサービスエリアである土山SAの「近江三昧 土山」(おうみざんまいつちやま)で提供する近江ブランドの牛・豚・鶏を盛り込んだメニューから選ぶことにしました。
 
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あまり広くないフードコートを横切った場所に「近江三昧 土山」がありました。店先はメニューを確認する人たちで混雑していますから、土山SAの人気店のようです。立ち止まって待っていると、メニュー(さまざまなPOP)を見ていた人たちは店に入らずにフードコートの方へ戻って行きましたので、同行者と私は店内に入りました。落ち着いた雰囲気の店内は意外なことに客の数はまばらで、空き席を探す必要はありません。右半分がカウンター席、左半分がテーブル席に分かれています。我われはテーブル席にしました。我われが入店したことに店員が気付かなかったようですから、テーブルの上にある呼び鈴(今はワイヤレス)を押すことに。すると、店員が現れましたので、同行者は「近江牛ビーフシチュー(単品)」(1650円)を、私は「近江牛スタミナ丼」(1500円)を注文。
 
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しばらくして2つのお盆に載せられた料理が配膳されました。「ビーフシチュー」は見た通りに牛肉は濃(こ)くがあって期待通りに美味しい(付け合せの野菜はいただけない)のですが、「スタミナ丼」は近江牛がばら薄く切りであり、半熟卵がトッピングされていますがピリ辛の味は私の好みではありませんでした。フードコートと比較してかなり高額ですが、料理とサービスはやや期待外れ。「近江牛」の販売を促進する目的で出来たこの店(観光事業会社が経営)の売りは最高価格の「特選近江牛ステーキ(セット)」(5500円)かもしれませんが、「近江牛」と銘打った他のメニュー(我々が注文したもの)がこのままでは中途半端であり、「近江牛」の名が泣くのではないかと老婆心(ろうばしん)ながら心配になりました。

 

<同行者のコメント> 今回の旅行は思い掛けない出来事があって長期間の滞在になりました。久しぶりの長い旅行と言っても、訪れた先は例によってお寺と神社だけでしたが、それでもいろいろ美味しいものを食べることができたことはよかったと思います。近いうちにまた関西へ行くことになりそうですから、今からその時を楽しみにしています。(終)

2015年11月14日 (土)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> 京都縦貫自動車道とスーパームーン(後編)

櫓門(やぐらもん)を入ったところから見た巽櫓(たつみやぐら)
 
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南側(学校の南門の外)から見た巽櫓です。右手にあるのはテニスコートのフェンスです。
 
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テニスコート(南東側)から巽櫓と櫓門をまとめて撮影すると、城郭(じょうかく)らしい雰囲気が出ました。
 
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巽櫓には「郷土館」の額が架かっています。
 
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校庭の北側に移動しました。駐車場の先にあるのは先ほど城型の屋根が見えた南丹市国際交流会館の一部で、右隣は市立文化博物館です。京都府観光ガイドには、『市の情報発信基地。園部城をイメージした外観堀の役割を兼ねたプール、伝統的な茅葺民家を再現した展示ホールなど、城下町の雰囲気をかもし出すつくり。イベントホールや展望談話室、全国有数のCATVスタジオなど近代的設備も完備している』と消化されています。
 
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校庭の内側から見た櫓門(やぐらもん)
 
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城門の右手にある番所であった櫓庵(やぐらあん)
   
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最後に園部城の紹介文を「攻城団」のサイトから引用します。『園部城は日本の城郭史で最後の建築物として知られています。当初、小出吉親(こいでよしちか)が築いた城は徳川幕府の制度上では陣屋という扱いになったため、園部陣屋として呼ばれていました。幕末になって京の治安が悪化したことに備えるため改修が認められ、1868年(慶応4年)から普請(ふしん)がはじまり、翌1869年(明治2年)に完成した際にようやく園部城と呼ばれるようになりました。現在は京都府立園部高等学校の敷地となり、巽櫓、城門の櫓門(高校の校門)、番所、太鼓櫓(八木町の安楽寺に移築)など一部の建物が現存しています。なお近隣にある園部国際交流会館が天守閣風の建築物(模擬天守)になっている』

 

国道9号と府道19号で園部ICに戻って京都縦貫自動車道に入り、往路と同じルートを引き返しました。
 
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大井IC
 
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亀岡盆地を南東へ走ります。
 
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亀岡ICを通過
 
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山間(やまあい)に入ります。
 
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天岡山トンネル(長さ600m)
 
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天岡山トンネルを抜けると太陽はすでに山の端(は)に隠れており、篠本線料金所とICを通過したころには美しい満月が東の空に現(あらわ)れました。この日(9月27日)は「中秋の名月」(十五夜の月)、翌28日は「スーパームーン」です。昨年はスーパームーンと「中秋の名月」が同じ日でしたが、月が地球の周りを回る軌道が楕円でであるため、年により最大で2日ほどのズレが生じることがあります。ちなみに、今年はわずか1日違いですから、「中秋の名月」と「スーパームーン」(月が地球に最も近づいて約15%も大きく見える現象)も一緒に楽しむことができるのです。
 
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ちなみに、「中秋の名月」は(旧暦8月15日)に出る満月を意味し、稲または芋類の豊作を願う行事「お月見」が行われます。そのお供え物である「月見だんご」は十五夜にちなんで1寸5分(約4.5cm)の大きさのものを15個(簡略化して5個)、あるいは1年の満月の数に合わせて12個を供えます。その形は月と同じ丸い(少しだけ平たい)ものが一般的ですが、京都など関西地方では丸形ではなく、長めの歪(いびつ)な形のだんごに帯のように餡(あん)を付けて里芋(さといも)に見立てたものもあるそうです。これは「中秋の名月」が「芋名月」(いもめいげつ)とも呼ばれるように、里芋を供(そな)えたことに起因しているようです。

 

次の写真は翌28日に宿泊地の近くで撮影したスーパームーン
 
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(終)

2015年11月13日 (金)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> 京都縦貫自動車道とスーパームーン(中編)

本郷トンネル(長さ480m)
 
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八木東IC
 
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京都縦貫自動車道に3カ所あるPAのうちで一番京都市に近い南丹PAに差し掛かりました。
 
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ここ、南丹PAで一時休憩
 
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「南丹路の案内図」
 
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EV(電気自動車)の急速充電設備が設置してあります。”TAKAOKA TOKO”と表示してありますが、電機メーカーの高岳製作所と関係があるのかと思い調べると、高岳製作所と東光電気が設立した持ち株会社「株式会社東光高岳」(売上高約900億円)の製品でした。
 
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八木西ICの東側に設置された八木本線料金所
 
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南丹市園部地区にあるフルインターチェンジの園部ICの案内標識が見えて来ました。
 
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園部ICで一般道(国道9号方面)に出ます。
 
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府道19号と市道を走って山陰本線園部駅(西口)に到着しました。右手の建物が園部駅西口ステーションビルです。ちなみに、山陰本線の京都駅からこの園部駅までの区間は嵯峨野線(さがのせん)の愛称がつけられています。
 
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ここでプチ薀蓄(うんちく)を二題。古代には亀岡盆地が湖であったことが地質学的に確認されているそうです。丹波の地名も「美しい丹色(にいろ、赤土色)の波」が由来であるとの説があるようです。奈良にかかる枕詞(まくらことば)てわある「青丹(あおに)よし」の青丹は緑がかった土の色を意味しますが、春を表す青色と夏を象徴する赤()色を対比させたとする異説があるようです。

 

南丹市園部は2006年1月1日に合併するまで園部町と呼ばれ、江戸時代には園部城(小出氏3万石)の城下町でしたが、園部城には天守閣はなく、平城としての陣屋と小麦山山頂に三層の小麦山櫓(砦)が建っていたそうです。

 

園部駅(東口駅舎側)にも回ってみることにしました。いつのまにか青空が広がっています。
 
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園部駅前交差点から見た京都縦貫自動車道の法面(のりめん)に植栽(しょくさい)で描かれた「そのべ」の文字
   
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国道9号で園部城がある園部公園へ向かうと、南丹市国際交流会館の奥に城のような屋根が覗(のぞ)いています。
 
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園部公園の駐車場に入りました。
 
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写真は駐車場の奥にあった園部公園の案内図です。砦(とりで)があったという小麦山(こむぎやま)も公園の左手(北西)に位置していることが分かりました。
 
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史跡「園部城址」の碑
 
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櫓門(やぐらもん)は園部高校と付属中学校の正門になっていました。
 
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(続く)

2015年11月12日 (木)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> 京都縦貫自動車道とスーパームーン(前編)

一部区間が未開通であった京都縦貫自動車道が今年(2015年)の7月18日に京丹波わちIC-丹波IC間が開通したことをもって全面開通しました。

 

京都府宮津市から同じく乙訓郡大山崎町を結ぶ京都縦貫自動車道(93.5.5km)は、まず1988年に沓掛(くつかけ)IC-千代川IC間が完成して無料で開放されたのを皮切りに、1993年に千代川IC-亀岡IC間が有料道路に、そして1996年には丹波IC-千代川IC間が開通、1988年に 舞鶴大江IC-綾部JCT間が開通、2003に宮津天橋立IC-舞鶴大江IC間と綾部JCT-綾部安国寺IC間が開通、2008年に綾部安国寺IC-京丹波わちIC間が開通、2013年に沓掛IC-大山崎JCT/IC間が開通、そして今年7月に京丹波わちIC-丹波IC間が開通した経緯があります。つまり、工事に着工して35年、最初の区間が開通してから都合27年の歳月を要したことになりますが、新瑞穂(みずほ)トンネルなどのトンネル区間が難工事であったことなどがその原因だったそうです。片側2車線化が順次行われていますが、現状では園部IC-京丹波みずほIC間が片側一車線の対面通行区間となっています。

 

今回は8年前に丹後半島を訪れた時に完成していなかった沓掛IC-大山崎(おおやまざき)JCT/IC間と京滋バイパスと共用区間になっている大山崎JCT/IC-久御山(くみやま)IC間を含んだ久御山ICJCTから園部IC(南丹市)までをドライブすることにしました。未体験の丹波IC(船井郡丹波町)-綾部安国寺IC(綾部市)間はまたの機会にすることにしました。

 

京滋バイパスの久御山ICから京都縦貫自動車道との共用区間に入りました。最初のICは名神高速道路と接続する大山崎JCTに併設されている大山崎ICです。
 
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次いで長岡京IC西山トンネル(長さ2270m)
 
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南春日トンネル(長さ230m)と北春日トンネル(長さ470m)を抜け大原野ICはハーフインターチェンジで、下り線では京都市内への出口になっている)です。
 
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そして、すぐ先の沓掛ICも大原野ICと同様、天橋立IC方面から(へ)のアクセスだけが可能なハーフインターチェンジです。このようなハーフインターチェンジは第二京阪自動車道に多く見られる簡易型(小型)ICで、慣れないとまごつくことは請(う)け合いです。首都圏でも中央自動車道・東京外環自動車道・東関東自動車道などに何ヶ所もハーフインターチェンジが設置されています。

 

京都縦貫道は山間に入りました。
 
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新老ノ坂(おいのさか)トンネル(長さ1070m)を抜けます。
 
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山を越えて亀岡盆地(亀岡市)に入りました。先ほどまでの晴天が嘘のように空一面が雲(くも)に覆われています。
 
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亀岡市にあるIC・亀岡IC・大井IC・千代川IC、同じ亀岡盆地にある隣りの南丹市八木地区にある八木東IC・八木中IC・八木西ICもハーフインターチェンジです。
 
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篠(しの)ICの西側に隣接する篠本線料金所
 
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明智光秀のまち亀岡』の横断幕
 
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天岡山(あまおかやま)トンネル(長さ640m)
 
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亀岡IC
 
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眼前に亀岡盆地が広がりました。
 
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大井IC
 
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千代川IC
 
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拝田(はいだ)トンネル(長さ420m)
 
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(続く)

2015年11月11日 (水)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> パティスリー「JOKER」と京都麺屋「たけ井」

「百済寺跡」と「百済王神社」を後にして、府道144号で東へ走りました。国道1号の出屋敷交差点に行き当たる直前の出屋敷西交差点を左折して府道18号を京阪・樟葉(くずは)駅方面へ2km弱北上すると、 “JOKERとだけ表示された奇抜な看板を見つけました。よく見ると小さな文字で”PATISSERIE”(パティスリー)とありますから、何とか洋菓子屋であることが分かります。そして午前10時に開店した、店先には「とろーり とろバウム」の垂れ幕が掲げられています。
 
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駐車場は店先のスペースの他、隣接地にある駐車場にも4台ほどの専用スペースがありました。大きなショーウィンドウには「不思議の国のアリス」を連想させるイメージで、ウサギ、リスなどのフィギュアが配置され、外観からは何屋さんか分からない不思議な店構えです。右手に何やら奇妙なオブジェが門のようになっているガラス戸の入口がありました。

 

中に一歩足を踏み入れると、そこは別世界「ワンダーランド」でした。入口脇には仮想パーティに着て行けそうな派手な衣装と大きな姿見が置かれています。
 
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バベルの塔のような飾り付けには象やシマウマなどの動物が
 
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そして、テーマパークのようなトンネルを抜けると現れる「お菓子の世界」を演出した店内です。
 
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外から見えたショーケースが内側からも見えました。
 
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季節柄(この日は9月下旬)なのかバレンタイン用パッケージに入ったお菓子が並んでいます。
 
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こちらは飛び出す絵本のパッケージ
 
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動く絵(見る角度により絵が変わる)のシュールなパッケージも
 
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同行者は日本テレビ系で9月に放送された朝の番組「スッキリ」(スイーツ真壁の「うまいッス」のコーナー)で取り上げられたこの店のことを覚えていたのです。バレンタインにはまだ早すぎますから、同行者は一番人気のバームクーヘン「とろバウム」(1,490円)を買いました。バウムクーヘン、クレームブリュレ、チーズスフレが三層構造になった洋菓子です。オチビちゃん・コチビちゃんと一緒に食べるためのようです。チビスケくんとチビエちゃんたちには日持ちするバームクーヘンとサブレなどを詰め合わせた焼き菓子セット「マジックブック」(Sサイズ、2,160円)のケーキBOXです。上の写真に写る「飛び出す絵本」のような仕掛けが付いたプレゼント用に適した洋菓子です。
 

お土産を買ったあとは、府道17号の招提(しょうだい)交差点で出た国道1号をさらに北上しました。余談ですが、変わった地名の「招提」は元々仏教寺院を意味する言葉ですが、枚方市の招提は浄土真宗の中興の祖である蓮如上人にまつわる招提道場が由来のようです。

 

実は、「百済寺跡」へ向かう途中、洞ヶ峠を越えて八幡市に入ったところに気になるラーメン店を見かけたことを思いだしました。洞ヶ峠を探訪した時に立ち寄った「とんこつラーメン 一蘭(いちらん)」(京都八幡店)の200mほど北隣にある京都麺屋「たけ井」(R1号店)です。
 
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意外なことに京都のラーメンといえば濃厚な豚骨魚介スープが有名ですが、まだ食べたことがありません。京都で私が食べたラーメンと言えば隣の滋賀県発祥の「来来亭」(長岡京店)に限られます。調べると、京都で人気のあるラーメン店は、一乗寺にある「麺屋 極鶏」や「らーめんや亜喜英」、河原町の「猪一」、全国展開する「天下一品」(本店;一乗寺)などのようですが、かなり濃厚な味のようですから、初心者向けの店から始めることにします。

 

「たけ井」の駐車場(20台弱)に車を停めました。ちょうど開店時間の午前11時になったばかりですが、店内には食券を買う人の列が券売機から伸びていました。入口の脇に置かれたメニューには、「清湯(ちんたん)らーめん」の「うすくち」(並750円・大800円)と「こいくち」(並750円・大800円)、魚介つけ麺(並880円・小830円・大980円)が並び、水戸わら納豆、自家製のチャーハン・自家製唐揚げ・ギョーザ、各種ドリンなどもサンプルとして置かれていました。(写真はテーブル席に貼られたメニュー)
 
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同行者は「つけ麺(小)」と「生玉子」、私は「清湯ラーメン(並)」を選びました。
 
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「らーめん」の食券を店のスタッフに見せると「こいくち」か「うすくち」かを聞かれ、「うすくち」と答えると食券に赤いサインペンで「うす」にマークを付けてくれ、右手奥のテーブル席(6人掛け)に案内されました。66
 
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ちなみに、店内には厨房の周りにL字型カウンター14席、入口寄りにテーブル席(6x1+4x2席)が配置されています。決して広くはありませんが、シンプルなインテリアが手狭さを感じさせません。
 
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20分ほど経った頃に「つけ麺」と「清湯らーめん」の順に配膳されました。つけ麺は極太麺とこってりしたつけ汁の組み合わせで、「清湯らーめん」は対極のあっさり味の汁と極細麺に青菜と厚いチャーシューが3枚トッピングされています。
 
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食べはじめて気づきました。店外の待ち合わせ所に10数人が腰掛けて席に案内されるのを待っているのです。
 
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お互いに味見をしたことで、2種類の異なる豚骨魚介ラーメンを味わうことができました。豚骨魚介であるにもかかわらず、後味はさっぱりしていました。同行者によれば「つけ麺」は()でも十分なボリュームがあったそうです。
 
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近くにある豚骨ラーメンの「一蘭」とは異なる味は、いずれも甲乙がつけ難く今回も大いに満足することができました。(続く)

2015年11月10日 (火)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> 枚方市の百済寺跡と百済王神社(後編)

「百済寺跡」の西隣にある「百済王(くだらおう)神社」へ向かいました。
 
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「交野行宮(かたのあんぐう)址」(大正8年太政官)と刻んだ石碑が神社の鳥居の傍にありました。「桓武(かんむ)天皇行宮(あんぐう)跡」のようです。ちなみに、行宮は天皇が行幸された時の一時的な宮殿。桓武天皇長岡京平安京を造営した際に、百済王氏などの渡来人が経済面や技術面で大きく貢献したことで、遷都後には渡来人を母に持つ桓武天皇はしばしば交野(かたの)ヶ原を訪ねて百済王氏宅を行宮としたと伝えられているそうです。
 
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鳥居を潜(くぐ)った左手には「天皇陛下御即位50年記念」の碑が立っています。すぐ近く(4-500m先)を流れている天野川は住宅などが建て込んでいてよくは確認できませんが、創建されたころには天野川はもちろん、淀川とその先も見渡せる景勝の地であったと思われます。
 
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手水舎
 
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神馬とその後方にある参集殿(社務所)
 
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「百済王神社」にまつわる歴史的な背景の説明として、『大和朝廷の臣下となって東北地方に赴任(ふにん)した百済国宗家の子孫の集団が赴任地で金を採掘して聖武天皇の大仏建立時に黄金900りょう両を献上した。その褒美(ほうび)として河内国(現在の枚方市中宮)を与えられた。そして、この地に一族の祖霊を奉る氏寺として百済寺や廟(びょう)を建てたとされます。現在の百済王寺神社は江戸時代中期(1700年ころ)に中宮の地を新田開発した人たちが氏神を祀った際に、この地に伝承されていた土地神の「百済王神」(くだらおうがみ)と「スサノオノミコト(牛頭大王)」を奉ったことが百済王神社の基であり、百済国との関係を直接示す史実はない』(百済王神社)、と解説してあります。
 
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こちらの「百済王神社」の説明看板(枚方市教育委員会)には、『祭神は拝殿の扁額(へんがく)が示すように百済国王および牛頭天王で、当社の基は、古代朝鮮にあった百済(660年滅亡)の王家の末裔(まつえい)、百済王氏の祖霊を祀る神社であったことを今につたえているとしています。本殿は春日大社の本社本殿の遺構を移築した「春日移し」で、高欄(こうらん)の擬宝珠(ぎぼし)銘に「文化10年」と刻まれていることから、江戸時代後期の文化5年(1808年)に春日大社で造営された後、文政10年(1827年)に当社へ移築されたものと考えられます。(以下略)』、と神社側とは異なるニュアンスの内容が書かれています。
 
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境内案内図
 
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山車(だし)の保管庫と由緒
 
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その奥にある龍王山浮島神社
 
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現在の拝殿は平成13年(2001年)に新しく建立されたそうです。
 
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その拝殿の右手前に移された旧拝殿脇にあるこの本殿は春日造で、文政10年(1828年)に春日大社の本殿を移築した「春日移し」の一つと言われるようです。
 
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朱の鳥居がある境内社の稲荷社
 
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境内社「相殿社」
 
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境内社「若宮八幡神社」
 
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後先になりますが、参考までに、百済(くだら)と枚方の雑知識を以下にまとめました。

 

4世紀の前半から7世紀の終りに掛けての朝鮮半島には三国時代と言われる時代がありました。高句麗(こうくり)、百済、新羅(しらぎ)の3つの国が鼎立(ていりつ)して勢力を争った時代です。そして、660年に新羅によって百済は滅ぼされました。その後、百済の復興運動が起こって、支援を求められた日本(斉明天皇・中大兄皇子)は援軍を出しますが、663年に日本軍と百済遺民の連合軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫(きっ)して、百済は完全に滅亡してしまいました。百済が滅亡したあと、日本に滞在中であった百済の王子「扶余豊璋」(ふよほうしょう)は摂津(せっつ)国難波(なんば)に移住し、百済からの多くの亡命者とともに天王寺の辺(あた)りに百済郷を造り、百済王(くだらのこにしき)の姓(かばね)を持統(じとう)天皇から受けました。

 

難読地名のひとつである「枚方」は、アイヌ語の”Pira” は「崖」と”Kata” は「上」が由来であるとする説と、古事記の神武天皇東征の記事のなかに天皇軍は「青雲の白肩の津」に上陸したとあり、「白肩」(白砂の潟、つまり白潟)が由来であるとするなど諸説があるそうです。ちなみに、日本書記の継体天皇紀は、天皇の命令で朝鮮半島南端にあった任那(みまな)に派遣された近江毛野臣(おうみけなのおみ)が帰国途中に死亡したため、その妻が亡骸(なきがら)を迎えた時に詠(よ)んだ歌、「ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野(けな)の稚子(わくご)い 笛吹き上る」で締めくくられていますが、そこでは「ひらかた」に「比攞哿駄」という難しい漢字が当てられています。(続く)

2015年11月 9日 (月)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> 枚方市の百済寺跡と百済王神社(前編)

京都府と隣接する大阪府枚方市へ足を伸ばしました。国道1号と京阪電車が京都府南部の八幡市(やはたし)と枚方市(ひらかたし)を南北に貫いていますから、旅行者には両市の間に府境があることをほとんど意識させません。ちなみに、両市に跨る男山の山麓には私が関心を持っている継体天皇が即位したとされる「楠葉(くずは)宮跡」(樟葉とも表記)があります。

 

京都市街地から国道1号(京阪国道)を南下して久御山町(くみやまちょう、久世郡唯一の町)を通過、木津川を越えると丘陵地帯が広がる八幡市、そして洞ヶ峠(ほらがとうげ)を越えて枚方市に入りました。枚方市は北河内の北端に位置する中核都市で、奈良県とも一部で接する交通の要衝(ようしょう、宿場町)でもあります。

 

国道1号の池之宮北交差点を右折して枚方市の中心部へ向かいました。800mほど進んだ中宮西之町(なかみやにしのちょう)に「特別史跡 百済寺跡」と「百済王神社」の案内看板がありましたので、その手前を右手に入りました。「特別史跡 百済寺(くだらじ)跡」の石柱が立っていますから、ここがその入口のようです。
 
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枚方八景「百済寺跡(くだらじあと)の松風(しょうふう)」の案内看板には、『中宮(なかみや)にある特別史跡百済寺跡は、8世紀後半に百済王族の末裔(まつえい)である百済王氏(くだらのこにきしうじ)が難波(なにわ)からこの地に移り、一族の氏寺として建立した寺跡と考えられ、昭和16年に国の史跡に指定され、昭和27年3月に特別史跡となりました。整備前には、布かで大阪城とならぶ特別史跡でありながら、老松が点を覆(おお)い雑もくが繁(しげ)って立ち入る人もなく、熊笹のあいまに礎石が見られる荒廃ぶりでしたが、昭和40年から全国で初めての史跡公園として、2年かけて市民の憩いの広場に整備されました。(以下略)』とあります。
 
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敷地脇に縦一列の駐車スペースを見つけました。
 

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石柱の横には『昭和27年3月29日文化財保護法の規定により特別史跡指定』と刻まれています。ちなみに、国指定特別史跡は全国で61か所、大阪府では案内看板にあるように大阪城とこの「百済寺跡」だけなのです。
 
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こちらの石碑にはその由来などが詳しく説明されていました。
 
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あえてその全文を引用します。『興福寺官務牒跡という末寺帳に、岡寺の義淵僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基したものであることが記されている。寺跡の西隣に百済王神社があり百済寺と称したことから、百済王氏一族の氏子であると考えられる。したがってその一族が天平勝宝二年における百済王敬福(きょうふく)の宮内卿兼河内守任官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れ、ここ交野郡の土地を賜わって移住し、氏神百済王神社と氏寺百済寺を建立したものと思われる』
 

『その後一族から俊秀の人達を輩出し、また桓武天皇朝にはその外戚として繁栄し、当寺もこの氏族と盛衰をともにした。後には奈良興福寺の末寺として室町時代までその命脈をつないだように思われる。現百済王神社本殿が、興福寺と一体的なものであった春日大社関係の社殿を移建したものと認められることもこれを裏付けている。昭和四十年、当時の市長寺嶋宗一郎ほか地元有志は、それまで雑草の繁茂にゆだねられていたこの寺跡を市民の親しみうる場所とするための環境整備事業を発起し、大阪府教育委員会はその概要を知るために全面的な発掘調査を実施し、ついで枚方市が国および府の補助金を得て、わが国で初めての史跡公園を完成したものである』

 

『この調査の結果、一辺長一町半、約一六〇米を占める方形寺地の中心線上に伽藍を配し、寺地南限の南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇に取付くもので、新羅の感恩寺と同形式であることが分る。またこの伽藍成立以前の奈良時代前期にも仏舎の営まれていたことが、出土瓦から考えられるに至った。さらに寺地東南角には、東院とも呼ぶべき一郭があり、うちに一堂宇を配していたことも判明した。ともかくこの寺跡は、寺地全体とともに主要堂塔の大部分を遺存する希有なものであり、またその伽藍配置形式は、その歴史的背景とあいまって古代日韓文化交流の史実を徴証する価値高い史跡である。昭和二十七年三月二十九日 文化財保護法の規定により特別史跡の指定を受ける』 昭和六十年三月 文化庁 大阪府教育委員会 管理団体 枚方市

 

淀川東岸から生駒山系北端に広がる台地「交野ケ原」には律令時代に交野郡(かたのぐん、現在の交野市と枚方市の大部分)が設置され、そこには宮廷の別荘や貴族の狩場があったと伝えられます。交野ケ原のなかでも淀川に近い小高い丘の上にある「百済寺跡」は発掘および「百済寺跡公園」としての整備が行われていました。草に覆(おお)われている右手のエリアは公園の広場になっているようです。また、交野ケ原には渡来人が多く移り住んだことで、渡来人が伝えたと思われる「七夕伝説」にまつわる機物(はたもの)神社・星田妙見宮(北斗七星を祀る)・天野川(通称;天の川)・かささぎ橋・逢合橋(あいああいばし)・牽牛石(けんぎゅうせき)などがあるそうです。


 
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正面に石段が現れました。
 
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「東廻廊(跡)」の石柱
 
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左手(南)方向を見ると、確かに回廊があったと思われる細長い空間が南へ伸びています。
 
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前方に建物が見えます。
 
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少し先の左手に「東塔(跡)」の石柱
 
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右手には「金堂(跡)」の石柱
 
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「特別史跡百済寺跡配置図」に描かれた図で薬師寺に似た伽藍(がらん)全体を把握することができました。廻廊が中門から金堂に取りつく点は薬師寺とは異なり、新羅(しらぎ)の感恩寺と同形式であることが判明したそうです。大垣のある東門(配置図の右)から入り、「東院」の脇を抜け、東回廊を横切り、「東塔」の脇を通過、金堂が右手に見られるほぼ中央部に出たようです。
 
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こちらは「東塔」と対をなす「西塔」ですが、盛り土があるだけで、「東塔」のように基壇(きだん)の形は残されていません。奥に見える建物は「百済王(くだらおう)神社」のようです。
   

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盛り土の上に上がると巨大な石が並んでいました。これが「西塔」の礎石(そせき)のようです。
 
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左手に進んで「中門(跡)」の石柱を見つけました。
 
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左右に伸びる石畳(回廊跡)の先にある石段が南門跡のようです。
 
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「金堂」近くまで戻ると、前方に「西廻廊」の石柱が
 
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右手のエリアは公園になっていて、講堂と食堂(じきどう)のものと思われる礎石が残っていました。

 

南回廊跡を東方向に向かって辿(たど)りました。
 
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東回廊跡と東院跡を抜けて百済寺の由来が書かれた石碑がある東門跡の近くまで戻りました。
 
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草が生い茂る「百済寺跡」は、160m四方の広大な伽藍(がらん)に建物は一切ありませんが、その広さと発掘された遺構(いこう)を確認することで、往時の様子を想像することができました。そして、今回の旅行で訪れた「伏見稲荷」と「平野神社」の記事でも触れましたが、京都およびその周辺地域には渡来人の影響が様々な形で現在まで残っていることを強く印象付けられました。また、当ブログでは蘇我入鹿大和政権四天王寺河内寝屋川市伊勢原市秦野市甲府市狛氏志木市日高市(高麗神社)高松市(峰山公園の古墳群)の記事でも渡来人について言及しています。(続く)

2015年11月 7日 (土)

池井戸潤著「ルーズヴェルト・ゲーム」を読む

地方新聞に連載された小説「ルーズヴェルト・ゲーム」は2012年に講談社から単行本として発刊されました。昨年(2014年)にはテレビドラマ化されてTBS系列の「日曜劇場」として放送されたようです。ユニークタイトル「ルーズヴェルト・ゲーム」は『タイトルは「点を取られたら取り返し、8対7で決着する試合」を意味し、野球を愛した第32代アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが1937年1月に、ニューヨーク・タイムズの記者に宛てた野球記者協会から招待されたディナーを欠席することを詫びた手紙の末尾に記された「一番おもしろいゲームスコアは、8対7だ」という言葉に由来する』(出典;Wikipedia)そうです。 

 

中堅電子部品メーカーの青島製作所は世界的な不況とライバル企業であるミツワ電器の攻勢を受け、経営は青息吐息の状態であった。そのような青島製作所の苦境を象徴するのがかつては社会人野球の強豪チームとして名をはせたが同社の野球部である。現在はミツワ電器野球部の後塵を拝し、対外試合ではほとんど勝つことがないまでに落ちぶれている。さらに野球部監督の村野三郎が主力二選手を引き抜いて、ライバルのミツワ電器野球部に寝返るという事件まで起こり、青島製作所の役員会では野球部廃止の声まであがる始末であった。(同上) 

 

青島製作所とその野球部はこの様な絶望的な状況からいかにして脱却したかを池井戸潤氏は巧みなストーリー展開と卓越した文章力で読者を引きつけながら描きます。また、社長の細川充(みつる)と後任監督の大道雅臣(まさおみ)がそれぞれ逆転の発想とデータに基づく戦法で明るい展望が開ける結末へと導いたリーダーシップも良く描かれています。本著書は、これまでに紹介した作品(果つる底なきM1株価暴落オレたち花のバブル組空飛ぶタイヤオレたちバブル入行組ロスジェネの逆襲)と同様、期待通りの秀逸な作品でした。
 

                         ☆
 
第1章 監督人事
 
村野から監督辞表届けを受け取った総務部長で野球部長を兼務する三上文夫はかっては大学野球の名監督で現在は日本野球連盟の理事職にあり茶屋功(ちゃやいさお)を2月に訪ねた。三年前に村野を推薦した茶屋に後任監督の推薦を依頼する目的であった。茶屋から『紹介できる人物がひとりいる』と連絡があったのは一週間後であった。 

 

青島製作所の新年度計画を話し合う役員会で専務の笹井小太郎は野球部の存続について真剣に検討するべきであるとの自論を持ち出した。社長時代に野球部を創部した青島会長が心筋梗塞の治療を受けたため2年前に会長に退いてからは遠慮が無くなったのだ。笹井がこう言う背景にあるのは急激な業績不振だ。昨年暮れには700名の派遣社員のうち半数を派遣切りをしながら、野球部には年間3億円弱の経費が掛かっている。議論が笹井のペースで進んだが、三上が野球部存続を必死で訴えると、拍手とともに、『頑張れ。きたいしてるからな』、と青島会長の声がその議論に一応のピリオドを打った。 

 

後任監督に決まった大道が突然練習グランドへ現れ、変わった言動に野球部のマネージャー古賀をはじめベテラン部員たちはあきれ顔である。高校野球部の監督をしていた経歴はあるが最近は家業である電設工事を手伝っていたことしか分からない。監督に就任した大道は監督室でスコアブックを広げてパソコンにデータを入力する日々を送っている。今年40歳になる大道は大学でスポーツ科学を専攻し、その後講師として大学で10年を過ごし、それを実践する形で指導を請われた新設高校に赴任して監督業を務めたという経歴である。 

 

定例の役員会では今年に入って2ヶ月連続の赤字に陥っている上に、取引先の東京モータースから開発したばかりのレーザー判別センサーの値引きを要求されていると営業部長の豊岡が社長の細川に報告し、ミツワ電器の攻勢が強まっていると付け加えた。細川は全社的に一律7パーセント程度のコストダウン人件費を含む)を指示した。 

 

公式戦の2週間前になって大道は「組分け」(先発メンバーと控え選手)を発表した。案の定ベテラン達の不満は相当のもので、ベテラン投手の猿田がそれを代弁して大道に「組分け」の理由を問い詰める。大道はパソコンのデータを引用して先発メンバーとその打順を冷静かつ論理的に説明すると、猿田は『えらく変わった考え方だな。だけども、そういうことなら納得だ』と呟(つぶや)いた。大道が新しいチーム作りに着手したことは、いま全員の胸にはっきりと刻まれたのだ。

注; 大道のこの手法は映画化されたアメリカのノンフィクション本「マネー・ボール」に登場した定量的なデータ分析手法に近い 

 

第2章 聖域なきリストラ 

 

白水銀行府中支店の支店長、磯部が訪ねてきたのは、役員会で人員整理を正式決定して数日が経った後のことであった。所用で10分ほど遅れて細川が入室すると、専務の笹井と経理部長の中川篤(あつし)のふたりがリストラ計画を磯部に説明しているところであった。青島製作所は4月からスタートする新年度に必要な運転資金として50億円の融資を白水銀行に申し入れているが、磯部は業績の低迷が単に金融危機に端を発したものか、それとも競争力そのものにあることなのかを知りたがっていた。磯部に同行した有志課長は野球部について尋ねたため、虚をつかれた細川に代わって笹井は『廃部の方向で検討しております』と答えてしまう。細川は青島会長を説得することを考えると憂鬱になった。 

 

総務部長兼野球部部長の三上は社員数が最も多い製造部から上がってきた解雇候補者の一次リスト(約150人)を見て納得がいかないため人事課長の広野にリストの全面見直しを命じた。青島製作所本体も総合電機の雄であるジャパニクスクスから突然発注計画の大幅削減と単価の切り下げを要求される。しかも、ミツワ電器が要求を呑んだことを告げられた。 

 

第3章 ベースボールの神様 

 

期待して臨んだ公式戦初戦「JABA東京スポニチ大会」は投手陣が思いの外不調で、結果は1勝2敗でリーグ戦敗退、新オーダーで臨んだ最初の大会はほろ苦い結果に終わった。青島製作所の主要取引先で国内最大のカメラメーカーである東洋カメラから来年発売予定の新製品を7月上旬から4月下旬に変更するので、新製品に搭載するイメージセンサーを6月末までに提案するようにとの要求があった。しかし、この納期では開発中の新センサーが間に合わない。細川と営業部長の豊岡はその背景に新規参入を狙うミツワ電器の影を感じた。 

 

スコアブックを分析した大道は先発投手の萬田が肘を痛めているのではないかと考え、萬田に事情を聞くようにマネージャーの古賀に指示した。渋る萬田を説得してチームドクターの三雲保太郎(みくもやすたろう)の診察を受けさせると、上腕骨内側上顆炎(じょうわんこつないそくじょうかえん、いわゆる野球肘)と診断された。最低でも半年、万全を期すなら1年は安静する必要があると告げられる。古賀は思った。『野球の神様はなんでこんな残酷なことをするんだろう』と自分の過去と重ねた。 

 

青島製作所にも大きな課題が突きつけられた。大学の同級だというジャパニクスクスの諸田社長とミツワ電器の坂東社長からからミツワ電器との経営統合を打診されたのである。細川はもちろん答えを保留するが・・。 

 

第4章 エキシビションゲーム 

 

ある日曜日、青島製作所のグランドは社員とその家族で溢れていた。経営不振で開催が危ぶまれていたが、社員の士気を高めるため、会長の青島がポケットマネーで開催したエキシビションゲームである。青島製作所内の野球大会で優勝した製造部チームと野球部が対戦するのだ。相手を舐めてかかった野球部は製造部の選手に翻弄され、大方の予想を裏切り製造部が3点先行して、息を呑むような試合展開になった。3対1で迎えた最終回、野球部は1点を返したところで沖原がリリーフを申し出た。製造部が不足するメンバーを補充するため声を掛けた新顔である。 

 

セットポジションから投じた沖原の第1球は目の醒めるような直球だった。「ストライク!」審判のコールが青空に響き渡った。しかし、その後キャッチャーがパスボールしたため2人の走者が生還して野球部が逆転、サヨナラゲームで幕を閉じた。翌日、マネージャーの古賀は沖原に向かって「暴投じゃない! 」と言い、沖原の経歴を調べたと告げる、野球部に入るように頭を下げた。沖原の返事は素っ気ない。この話を聞いた新監督の大道は沖原と会いに出かけ、古賀が調べた情報で沖原を入部させることを決意する。大道の知略通りに沖原は自分の意思で入部することを決心した。 

 

第5章 野球部長の憂鬱 

 

総務部長の三上が従業員にリストラを通告するつらい仕事をしている時、総務部の自室に萬田が顔を出した。肘を痛めて休養を余儀なくされた人物である。逡巡した末、萬田は泣きながら兼野球部部長を兼務する退職を申し出た。そして、マネージャーの古賀と監督の大道にこのことを報告した。大道はいくつか質問した上で、「そうか」とうなずき、「いままでよく頑張った。ありがとう」と右手を差し出した。 

 

野球部から誘われた沖原は製造部副部長の村井に声を掛けられ、派遣契約を今週一杯で打ち切ると通告された。製造部からの報告を受けた三上は古賀に向かって「私を信じろ」と沖原に伝えるよう依頼する。古賀は沖原を無理やり誘って馴染みの居酒屋「ごんた」へ向かう。店内には野球部員たちで溢れていた。古賀は『いったい、野球の神様はどこまで意地が悪いんだろう』との思いに古賀は悔しくて泣けてきそうだった。 

 

そんな時にも三上は総務部の自室にいてひとり頭を抱えていた。製造部に朝比奈を訪ねて沖原の派遣契約解約を考え直すように頼むが拒絶されてしまう。オーバーワークのため総務部の残業が増えているので残業代を払うより昼間の人手を増やしたほうがいいのではないかと部下から提案された三上はあることを思いつき、古賀に電話をかけて『沖原はウチで預かる』と伝えた。 

 

第6章 六月の死闘 

 

初夏の風が吹いて都市対抗野球の一次予選が始まった。細川社長が観戦に来ていると聞いた古賀はめをまるくした。廃部の検討を命じている本人自らが球場に出向いたのである。投手の猿田はいつものことではあるが不安定な立ち上がりで、初回に4点を先行されてしまう。中継ぎの投手が踏ん張って追加点を許さないが、6回まで青島製作所チームには得点が入らない。 

 

流れが変わったのは7回裏、8番打者でキャッチャーの井坂が反撃の口火を切った。DHの荒井はピッチャーゴロに終わるが、1番打者犬彦のバットがはじき返した球は三塁線上を抜けた。二死、二、三塁となったところで・・。(以下略) 

 

第7章 ゴシップ記事(省略) 

 

第8章 株主総会 

 

ミツワ電器が青島製作所の大株主に働くかけたことで開催された臨時株主総会は議案の「ミツワ電器との合併」は意外な展開で否決された。期限を前倒した性能を大幅にアップしたイメージセンサーの開発に目処(めど)が立ったばかりの青島製作所は多くのピンチをなんとか脱しつつあった。 

 

最終章 リーズヴェルト・ゲーム 

 

青島製作所にとって最大の難関であった白水銀行からの運転資金融資と追加リストラ計画が白水銀行に認められる。そして、都市対抗野球の二次予選が始まった。初戦の相手チームは宿敵のミツワ電器。またしても3点を先取された青島製作所チームは反撃して、6回表を終わって6対5に迫ったが、7回裏にミツワ電器チームが2点を追加して7対5と突き放されてしまう。果たして、青島製作所野球部はルーズヴェルト・ゲームを実現することができるのか? 

 

エピローグ(省略)
 

                         ☆ 

 

<読後感> 池井戸潤氏の小説につきものの白水銀行が登場しますが、本編はあくまでもエレクトロニクス製品を開発・製造・販売するメーカーの競合あるいは取引関係を背景に、ライバル関係にある実業団野球チームの活躍を織布の縦糸と横糸のように描いた痛快小説です。「半沢直樹」シリーズのようなスーパーマンは登場しません。登場人物はそれぞれの立場で全力を出した結果がハッピーエンドにつながったことは読者に安心感を与えます。つまり、テレビドラマ「水戸黄門」のような「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」ではなく、むしろ「因果応報(いんがおうほう)」、すなわち悪因悪果(あくいんあっか)と善因善果(ぜんいんぜんか)を絵に描いたようなストーリーです。
 
バブル経済が崩壊した直後に書かれた本著作は、経済小説(企業経営や経済活動の視点で書かれた小説)ではありませんが、昨今のように企業による不祥事(ふしょうじ)が頻繁(ひんぱん)に起こる時代にあっては、企業人あるいは組織人にとって自らが目指す目標とそれを実現するためになにが大切であるかを考えさせる契機を与えてくれるかもしれません。

 

2015年11月 5日 (木)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ 世界遺産「宇治上神社」(後編)

「さわらびの道」に戻って、もう少し先まで歩いてみることにしました。
   
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世界遺産「宇治上神社の境内案内マップ」と「宇治十帖散策マップ」が立っていますが、なぜか宇治橋周辺地図(観光地図)は「朝霧橋」の袂(たもと)にあるものとは方位が90度ずれています。地図をよく見ると、「さわらびの道」から仏徳山(大吉山)の中腹へと続く東海自然歩道が表示されており、頂上に近い大吉山風致公園まで登ればきっとすばらしい眺めが楽しめるのでしょう。そして、「さわらびの道」の先は「かげろうの道」と名前が変わるようです。
 
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宇治川河畔から山間に入る散策道「さわらびの道」に埋め込まれた真鍮(しんちゅう)板には「宇治神社・早蕨(さわらび)・東屋(あずまや)」の案内があります。「東屋」は「宇治十帖」の六番目(第五十帖)です。縁談が破談となった浮舟に匂宮が言い寄ったことを案じた母が浮舟を隠すしますが、薫がその所在を聞き出して浮舟を宇治につれてゆくまでが描かれています。ちなみに、この案内板に表示されている「東屋」は京阪宇治駅に近い場所にある「東屋の古関」(東屋観音)のことを指しているようです。
 
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少し先には「総角」(あげまき)と「早蕨」(さわらび)と刻んであります。これらは「源氏物語 宇治十帖」の第三番(四十七帖)と第四番(四十八帖)です。
 
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ここにも椿(つばき)の「ヒカルゲンジ(光源氏)」
 
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「源氏物語」を現代語に翻訳した与謝野晶子の歌碑
 
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この遊歩道は「三室戸寺」まで続いているようです。
 
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もう少し先に「宇治市源氏物語ミュージアム」があるようですが、ここで引き返すことにしました。
 
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「早蕨(さわらび)の古蹟」の説明看板には、『中君(なかのきみ、宇治八の宮の娘で浮舟の次姉)は匂宮に迎えられた。長姉(ちょうし)の大君(おおいきみ)を思いやる薫は中君を訪ねて懇(ねんご)ろに語るが、匂宮(においのみや)は二人の仲を疑い始める』とあります。この場所に「早蕨の古蹟」が移されたのは、この一帯が八の宮邸(宇治の山荘)跡と想定されたことによるようです。
 
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「宇治神社」の境内を抜けて宇治川河畔へ戻りました。写真は路面で見かけた宇治市の下水用マンホールです。京都府環境部の関連hpによると、『その昔、豊臣秀吉がここでお茶の水を汲(く)ませたと言われ、現在も行われている「宇治まつり」の場所「三の間」を中心に「宇治橋」を、市の木「イロハもみじ」を添えて写実的に表現したもの』と解説されています。
 
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駐車場を出て宇治橋東詰め交差点へ向かいました。写真は交差点の先にある京阪宇治線の終点である宇治駅と駅前ロータリーから出てきたバスが写っています。
 
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宇治橋を渡ります。
 
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宇治橋西詰交差点を直進すればJR奈良線宇治駅前を通過して往路で利用した府道15号へ出られますが、帰路は宇治橋西詰交差点を右折して宇治川沿いの府道241号に入ります

 
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京滋バイパスの下を抜けて観月橋方面へ向かいます。車の通行量と信号のある交差点がともに少なく、ショートカット・コースに選んだことは正解でした.。立体交差がある
観月橋南詰交差点を右折して国道24号の旧道に入りました。写真の右上は国道24号の高架橋。
 
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京阪宇治線の踏切を渡ります。踏切のすぐ先にある観月橋北詰交差点を直進しても良いのですが、混雑を避けて京都外環状線(府道188号)へ左折することにしました。ちなみに、この交差点を右折すると伏見の六地蔵を経て大津市へ行けます。
 
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阪神高速8号京都線との交差点を右折して油小路通りを北上しました。高速道路の下に直線的に伸びるよく整備された道路で、阪神高速8号京都線が東方(山科方面)へそれる上鳥羽入口まで一気に走破することができました。
 
余談です。今回往路に利用した国道24号は、京都市(烏丸五条交差点)と和歌山市(和歌山県庁前交差点)を結ぶ延長が200km近い幹線道路ですが、一部区間(京都府の宇治市と城陽市を結ぶ大久保バイパス、奈良県の奈良バイパス・橿原バイパス・大和高田バイパス、高速道路の京奈和自動車道)を除いて整備が遅れているようです。
 
 

予定した京都の神社仏閣(10か所)のすべてを紹介し終えたところで、3回目の小休止にしたいと思います。小休止のあとは<番外編>を3件投稿しますのでご期待ください。(続く)

2015年11月 4日 (水)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ 世界遺産「宇治上神社」(中編)

宇治神社の「中門」です。この奥にある「本殿」は、三間社流れ造り桧皮葺(ひわだぶ)きの社殿(鎌倉時代初期の建設)で、国の重要文化財に指定されています。祀(まつ)られている彩色木像「菟道稚郎子命坐像」(うじのいらつこのみこと ざぞう)は等身大の男神像、具体的には衣冠(いかん)と笏(しゃく)を持つ坐像俗体像(ぞくたいぞう、俗人の姿をした像)で、やはり重要文化財に指定されています。ちなみに、本殿前で白く見えるのは神使の「見返り兎」のようです。
 
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拝殿の前には狛犬の「阿」(あ)と、
 
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同じく「吽」(うん)
 
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「末社」(まつしゃ)は手前から廣田神社・松尾神社・高良神社・伊勢両宮社
 
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同じく、手前から  春日社・日吉神社・住吉神社

 
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「参集殿」(社務所の2階)
 
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「宇治神社」の境内を左手に抜けると、散策路の「さわらびの道」に出ました。ちなみに、この「さわらびの道」は宇治川縁(べり)から「宇治上神社」へ向かう最短コースなのです。いよいよこの日の最終目的地である世界遺産の「宇治上(うじがみ、うじかみ)神社」へ向かいます。
 
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名称が良く似た「宇治神社」と「宇治上神社」がすぐ近くにあって紛(まぎ)らわしいのですが、古来2つの神社は対をなして(二社一体で) 「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称され、前者が下社、後者が上社と呼ばれていたそうです。後に平等院ができるとこの二社はともにその鎮守社(ちんじゅしゃ)とされたそうです。ただし、現在は独立した神社になっています。
 

参道にある「宇治上神社」の鳥居と石柱には威厳が感じられます。
 
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「さわらびの道」が左にカーブしますが、正面にある石橋を渡ると「宇治上神社」の境内に入るようです。小さな池に架かる石橋の先に簡素な門が見えます。
 
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世界資産「宇治上神社」の説明看板
 
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社務所でお守りを求めるひとたち
 
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御神木の「けやき」は宇治市名木百選とのこと
 
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簡素の門とは対照的に立派な「拝殿」(国宝)は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造(しんでんづくり)の遺構(いこう)といわれるそうです。切妻造(きりづまづくり)、檜皮葺(ひわだぶ)き。桁行(けたゆき)6間、梁間(はりま)3間の主要部の左右に各1間の庇(ひさし)があります。注;「間」は幅(長さの単位)ではなく、柱と柱の間を指す。ちなみに、社紋は「三つ橘(たちばな)」ですから、橘諸兄(たちばなのもろえ)に象徴される橘氏(たちばなうじ)に縁(ゆかり)があるのでしょうか。。
 
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案内表示にしたがって「拝殿」の右手に進み、湧水「桐原水」の建屋の前を通って拝殿の奥へ進みました。

 

幅の広い石段を上がった高い場所にある国宝の「本殿」は、平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされます。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並んでいます。
 
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覆屋(おおいや)の機能を兼ねた本殿内にある3棟の内殿に祀られる祭神は、左殿(第一殿)に「菟道稚郎子命」(うじのわきいらつこのみこと)、中殿(第二殿)に「応神(おうじん)天皇」、右殿(第三殿)には「仁徳(にんとく)天皇」です。
 
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「正一位離宮大神」の扁額(へんがく)かかっています。
 
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本殿の右予期にある摂社の春日社(重要文化財)は、一間社流造の小さな社であり、藤原一族(元中臣氏、なかとみうじ)の守護神を祀っています。
 
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こちらは末社の厳島社(いつくしましゃ、水の神)、ほかに住吉社(すみよししゃ、海の神)・香椎社(かしいしゃ、仲哀天皇・神功皇后)・武本稲荷社があるようです。
 
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境内の様子です。左手に「拝殿」、その右奥に「桐原水」、中央に御神木の「けやき」、右手に祈祷受付所(授与所)、さらに右には門があります。「宇治上神社」は世界資産「古都京都の文化財」の構成要素のひとつとして登録されていますが、東寺・清水寺・延暦寺・醍醐寺などと較べると小規模で、栂ノ尾高山寺(とがのお こうざんじ)や苔寺(こけでら)の名で知られる西芳寺(さいほうじ)の両寺院と同様、あるいはそれ以上に小規模な神社でした。
 
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(続く)

2015年11月 3日 (火)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ 世界遺産「宇治上神社」(前編)

京都の中心部から河原町通り(国道24号)で伏見方面へ向かいました。鴨川を渡ると伏見区に入ります。最初に参拝した伏見稲荷と伏見桃山状のすぐ西方を南下、宇治川に架かる観月橋を渡るとほどなく宇治市に入りました。国道24号は京滋バイパスと交差する場所で右に折れ、京滋バイパスに沿って西方へ進みますが、直進した府道69号を南下しました。そして、小倉交差点を左折して入った府道249号でJR奈良線宇治駅の脇を通過すると府道15号に行き当たります。府道15号を東へ1kmほど進むと宇治橋西詰交差点が見えました。  

 

この交差点を右折すると「平等院」の正門ですが、今回は左折して宇治橋を渡ります。宇治橋東詰交差点を右折して宇治川沿いの路地に入りました。ちなみにこの交差点を直進すると三室戸寺(みむとろじ)へ行くことができます。幸運なことに、交差点から100mほど先の「タイムズ宇治橋東詰第2」(9台、300円/30分または1000円/日)に空きがありました。満車であれば平等駅周辺に何カ所かあるタイムズの駐車場(300円/60分~700円/日と割安)を利用することを覚悟していました。 

 

宇治川沿いの遊歩道を前方(上流方向)へ500mほど歩くと、対岸正面に「浮島十三重石塔」がある「宇治公園」(中洲である塔の島)が見えてきました。世界遺産の「平等院」はその右手にあるはずです。
 
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すぐ先にあったのは関西電力の宇治発電所から大量の水が宇治川へ流れ出る放水路です。手前は宇治川ではなく水の勢いを抑える調整池です。ちなみに、発電の水は大津市南郷からトンネルを通して琵琶湖(自際は宇治川の上流にあたる瀬田川)から運ばれているそうです。
 
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放水路に架かる橋から見た宇治川と歩行者用の「朝霧橋」です。平等院は歩道橋を渡った正面付近(写真左端)にあるはずですが、写真では宇治公園の木立が邪魔して確認できません。
 
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そこで「朝霧橋」に上がってみると、正面に「平等院・鳳凰堂」の屋根が確認できました。左手前の建物は福寿園の「宇治喫茶館」のようです。
 
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川の中央に釣り人が見えます。10月中旬まで解禁されている鮎を釣っているのでしょう。宇治川は琵琶湖で生まれた鮎(あゆ)の稚魚(ちぎょ)である「氷魚(ひお)」が冬季に下るところを捕獲する「網代木(あじろぎ)漁」が風物詩として知られています。ちなみに、宇治川の左岸に沿って「あじろぎの道」が中洲である宇治公園と並ぶように約600mにわたって整備されています。京都ではほかに貴船川桂川保津川も鮎の生息地として有名です。
 
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「朝霧橋」の袂(たもと)「源氏物語 宇治十帖」のモニュメントを見つけました。「匂宮」(におうのみや)が「浮舟」(うきふね)を抱いて小舟で漕(こ)ぎ出すシーンをモチーフにしているようです。
 
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「宇治十条」とは「源氏物語」五十四帖(じょう)のうち、光源氏亡きあと光源氏の次男(自際は頭中将と柏木の子)である「薫」(かおる)を軸とし、宇治を主要な舞台とした最後の十帖を指します。なかでも有名なのは薫の庇護(ひご)を受けていた光源氏の姪(めい、弟の娘)を扱った「浮舟」(第七番、五十一帖)、および「匂宮」(においのみや、今上帝の第三王子、母親は光源氏の娘)との関係を苦にした「浮舟」が失踪(しっそう)した後(後に出家)の「薫」を描いた「蜻蛉」(かげろう)、第八番、五十二帖)でしょう。ふと、6年前に訪れた近くの「三室戸寺」(みむろとじ)に「浮舟之古蹟の碑」があったことを思い出しました。
 
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箸(はし)休めの薀蓄(うんちく)です。「帖」(じょう)とは「ひとまとまり」になったものを意味する漢字で、「音楽の一曲」、「書物の一冊」、あるいは畳(たたみ)の「一畳」などを表すために用いられます。ですから「宇治十帖」とは「源氏物語」の「宇治編」(全十冊)という意味です。なお、書物を数える単位の「巻」や「冊」は、横に長い巻紙に書かれた書物を「巻物」や、それを扱いやすくするため折りたたんだ「折本」(折帖)あるいは糊(のり)や糸で綴(と)じた冊子(さくし、音が変化して草子)に由来します。紫式部が源氏物語を書いた平安時代末期には冊子の形式が一般的になっていたようです。また、同時代の清少納言が書いた随筆「枕草子」(まくらのそうし)も巻物ではなく草子(つまり冊子)の形式で製本されたことが分かります。蛇足ですが、「巻」の用法としては「一巻の終わり」(The end)という面白い表現があります。
 
モニュメントの左奥には「ヒカルゲンジ(光源氏)」と名付けられた椿(つばき)の木がありました。
 

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これは「宇治の観光地図」
 
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ここから宇治を訪れた目的地を紹介しますが、その前に参拝するのは宇治川に面した鳥居から参道が続く宇治神社です。参道の左手にある建物は社務所(2階は参集殿)です。
 
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鳥居の右脇にある「菟楽(うらく)の樹」とその由来
 
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参道を進むと右手には兎(うさぎ)がモチーフになった宇治神社の「手水舎」(桐原水)
 
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石段を上がります。その上に見えるのは拝殿の「桐原殿」
 
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1215年頃建立された「桐原殿」は入母屋造・桁行3間・梁間3間・檜皮葺(ひわだぶき)
 
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二の鳥居の先に「中門」とその奥にある「本殿」が見えます。
 
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本殿外陣にあった「木造の狛犬」(宇治市指定重要文化財)は歴史資料館に預けてあると説明されています。宇治神社のhpによると、『鎌倉時代前期の阿形、吽形の一対で、檜材の一木造、彫眼、内刳はない。矧ぎつけ、口の周辺に植毛痕がある。阿形は上体を後方に反り、胴を立て気味の姿勢をとる。現存する木造狛犬最古の例という。それぞれ80.9cm87.7cm』とのこと。
 
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宇治神社の祭神は「菟道稚郎子命」(うじのわきのいらつこのみこと)です。この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡と伝えられており、菟道稚郎子命の死後にその神霊を祀ったとつたえられているそうです。そして、この「菟道」(うじ)が転じて地名の「宇治」になったと伝えられるとのこと。
 
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こちらの写真は拝殿前に置かれた「宇治神社」の説明書き
   
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(続く)

2015年11月 2日 (月)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ 城南宮

東寺から国道1号を南下、名神高速道路の京都南ICを過ぎて伏見区へ入ると、すぐ左手に「城南宮」(じょうなんぐう)の入口が見えましたので、左折して広い駐車場に車を停めました。これまで何度も前を通過していますが、立ち寄るのは今回が初めてです。

 

駐車場脇にある西の鳥居には「城南離宮」の扁額(へんがく)が架けられています。関白九条尚忠の書です。ちなみに、東の鳥居の扁額は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王の染筆とのこと。「城南宮」と「城南離宮」については後述します。
 
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城南宮の正面(鳥居の先に見えるのは拝殿)
 
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鳥居の左脇にある後鳥羽上皇の社頭祝、『つたへくる 秋の山べの しめのうちに 祈るかいある 天の下かな』
 
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「城南宮」の説明看板(京都市)には、『794年の平安遷都に際して国常立尊(くにのとこたちのみこと)と八千矛神(やちほこのかみ)と神宮皇后(じんぐうこうごう)を祀り、都の南方に鎮(しず)まり国を守護する城南宮と仰(あお)がれている』、とあります。
 
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「鳥羽伏見の戦い跡の看板」(京都市)には明治維新を決定づける戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが詳しく説明されています。
 
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「鳥羽離宮と平清盛・佐藤義清(西行)」の説明看板には、『後鳥羽上皇に仕えた北面(ほくめん)の武士である平忠盛・清盛父子や清盛と同年齢での佐藤義清(のりきよ、後の西行)の関係、上皇が亡くなると「保元の乱」が起き、それに続いた「平治の乱」を経て兵士が勢力を伸張したこと。これと対立した後白河法皇は清盛によって離宮の北殿に約半年間幽閉され「たことと(貴族の世から武士の世へ)、その6年後には平氏が「壇の浦の戦いに敗れたこと(平氏から源氏へ)と歴史が流転した』、ことが書かれています。
 
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城南宮のhpには城南宮の創建と歴史について、『延暦13年(西暦794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建と伝え、城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められた。(中略)明治維新を決定づけた鳥羽伏見の戦いは、城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのであり、錦の御旗が翻って旧幕府軍に勝利すると薩摩の軍勢は城南宮の御加護によって勝利を得られた、と御礼参りに訪れました』、とあります。

 

「拝殿」です。ちなみに、その奥は本殿、左手は「むすび殿」(社務所)、右手は「神楽殿」。
 
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「本殿」は、本殿・前殿・向拝(こうはい)・翼廊(よくろう)からなる素木(しらき)造りの社殿です。平安時代後期の建築様式で昭和53年に造営されたそうです。ちなみに、左右に伸びるのは翼廊(よくろう)、唐破風(からはふ)屋根の降棟(くだりむね)にある鬼瓦(おにがわら)には社紋「三光の紋」(神功皇后の旗に描かれた日・月・星)。そして、左手にお椀(わん)の舟に乗る一寸法師を描いたようなパネルが置かれています。昔話にある一寸法師は、お碗の舟に乗って都を目指し、鳥羽の津に着いたと江戸時代のお伽草子(おとぎぞうし)に書かれていますが、その鳥羽の津とは城南宮の南にあった淀川水系(鴨川と桂川の合流地点)の港です。
 
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本殿の左手にあるのは手前から順に「稲荷社」、「厳島社・住吉社・兵主社」、「粟島社」の三社殿
 
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斜め後方から見た本殿(手前)と前殿(右)
 
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右手は手前から「天満宮社・妙見社・金刀比羅社」、「庚申社」、「大國主社」、「春日社」の四社殿が並んでいます。
 
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「神楽殿」は平安時代の貴族の邸宅である寝殿造りを模した御殿で平成8年に建てられたそうです。
 
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本殿側から見た拝殿
 
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神輿舎(みこししゃ)
 
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城南宮の神苑「楽水苑」(源氏物語 花の庭)の紹介看板です。拝観料は大人600円。時間の都合でスルーすることにしました。
 
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現在の「城南宮」は方位除けのほか、交通安全の神としても広く信仰されているそうです。今回は忙(せわ)しない参拝になりましたが、近いうちに花が咲き乱れる春の「楽水苑」をゆっくり拝観したいと思います。(続く)

2015年11月 1日 (日)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ 東山の南禅寺「南禅寺」

二条通りを東に進んで、行き当った白河通りを南下し南禅寺前交差点を左折すると約300m先、中門の左手前(勅使門の前)にある南禅寺の第一駐車場に到着。ちなみに、駐車料金は2時間まで1000円(以降1時間毎500円)とやや高めです。
 
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正応4年(1291年)に創建された臨済宗南禅寺派大本山の「南禅寺」は天龍寺・相国寺(しょうこくじ、金閣寺・銀閣寺は同寺の境外塔頭)・建仁寺(けんにんじ)・東福寺万寿寺(東福寺の塔頭、拝観不可)とともに「京都五山」と呼ばれます。「五山制度」は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来するそうです。北条氏が導入した「鎌倉五山」(五大官寺)に次いで室町時代初期には京都にも「京都五山」が定められましたが、3代将軍の足利義満により五山の上に南禅寺が置かれたこと(京都五山の上)により日本の禅寺のなかで最高位の格式を持ちます。また、亀山法皇が開基(創立者)である日本最初の勅願禅寺でもあります。正式名称には瑞龍山太平興国南禅禅寺(ずいりゅうさんたいへいこうこくなんぜんぜんじ)、本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ、釈迦如来)です。

 

中門を潜(くぐ)って緩(ゆる)やかな上り勾配(こうばい)の参道を東へ歩きました。右脇の水路には清らかな水が流れています。
 
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「大本山 南禅寺全景」には東山の山麓に造られた広大な伽藍(がらん)が分かりやすく描かれています。中門(中央下)、その左上の一際大きな建物は「三門」、その奥の「法堂」(はっとう)、一番奥は「方丈」「本坊」「清涼殿」、法堂の右手(南側)は「琵琶湖疏水の水路閣」が横切る「南禅院」(南禅寺の別院)です。そして、周囲を取り囲むのは塔頭(たっちゅう)群です。
 
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圧倒的な迫力で迫る「三門」は五間三戸二階二重門、つまり太い柱によって5つに間仕切りされ、中央の3か所にはそれぞれ板戸があり、それが入り口になっている。山門楼上内陣に釈迦如来坐像と十六羅漢僕などが安置されているそうです。開創当時のものは永仁3年(1295年)に創立されましたが、文安4年の火災で焼失したものを寛永5年(1628年)に再建されたそうです。入母屋造、本瓦葺、高さは約22メートルで、両側に桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺の山廊があり、明治32年(1899年)に国指定重要文化財となりました。
 
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南禅寺このの「三門」は、知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられています。ちなみに、「三門」は仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称だそうです。山門を抜けると石畳の参道が延びていました。南禅寺は社会見学のメッカのようで、ガイドさんが小学生の団体に向ってあれこれ説明していました。

 

「法堂」(はっとう)は法式行事や公式の法要が行われる場所で南禅寺の中心となる建物です。慶長11年(1606年)に完成しましたが、明治28年(1895年)に焼失した後、明治42年(1909年)に再建されたものだそうです。内部の須弥壇上中央に本尊釈迦如来、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置し、床は一面の敷瓦となっているともこと。
 
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「法堂」の右手を抜けてさらに奥へ進むと「本坊」が現れました。黒々とした用材が白壁を鮮やかに区切るデザインとすっきりとした屋根の美しい稜線が印象的な建物です。「本坊」に入った窓口で国宝「方丈」を拝観するための志納治金(大人500円)を納めました。
 
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本坊の左手には唐破風(からはふ)の大玄関がありますが、特別な行事の時にのみ使用されるものであるため入ることはできません。大玄関の左手には書院が配されて方丈へと続いているようです。

 

『本坊の左手に続く「方丈」は大方丈とその背後に接続した小方丈で構成されています。大方丈は内陣、御昼の間、鳴滝の間、麝香の間、鶴の間、西の間、柳の間、六畳、狭屋の間、広縁より成る入母屋造、杮(こけら)葺です。また小方丈は虎の間、三室(九畳、六畳、二十畳)広縁よりなり、背面切妻造、前面大方丈に接続、杮葺となっており、昭和28年国宝に指定されました。『仏間を除く各室に桃山時代、狩野派の障壁画があり、計124面(附指定4面を含む)が重要文化財に指定されている。これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、建物の移築に際して襖の配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多い』(出典;南禅寺のhp) 小方丈「虎の間」の襖に描かれた狩野探霊の「水呑みの虎」や「群虎図」などの傑作絵画(壁画・襖絵など)については南禅寺のhp朝日新聞のサイトを参照してください。
 
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枯山水庭園である「方丈庭園」は名勝に指定されています。
 
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国宝「清涼殿」の木札があるのは、この方丈が御所の建物「清涼殿」を下賜されたものであるとされていることによります。
 
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「小方丈庭園」の「如心庭」
 
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書院北の庭園
 
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苔(こけ)を活かした「六道庭」は道輪廻の戒めの庭。六道輪廻とは、天上・人間・修羅(しゅら)・畜生(ちくしょう)・餓鬼(がき)・地獄の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観のことです。写真の右下に鬼瓦が庭に置かれています。「餓鬼」を暗示しているのかもしれません。
 
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涵(豢)龍池(かんりゅういけ、龍を飼う池)と龍吟庭(りゅうぎんてい)、奥に見えるのは茶室の「不識庵」(ふしきあん)です。
 
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回廊(かいろう)
 
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華厳庭と南禅寺垣
 
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還源庭
 
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方丈の入口である本坊まで戻りました。写真は「東山三十六峰」のリストと法堂の天井画「幡龍」(ばんりゅう)の写真(左上)など。「東山三十六峰」として北端の比叡山から南端の稲荷山までが順に表示されています。
 
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本坊を出て南側へ伸びる散策路を歩きました。南禅院へ至る石段の手前にあるレンガ造りの「水路閣」(市指定遺跡、国の史跡)は全長93.17mで、現在も琵琶湖疏水の疎水橋(そすいきょう)として利用されているようです。
 
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南禅寺のhpによると、『疏水は琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1885年に始まり、1890年に竣工した。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,潅漑用水,防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され、1991年には送電を開始した。また水力発電の増強と水道用水確保のため、1908年に第2疎水の工事が、始まり、1912年に完成している。同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている』、と説明されています。

 

反対側(山側)は「水路閣」を通った「疏水分線」がトンネル区間へと移る場所のようです。
 
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同行者に教えられてトンネルのようにも見える橋脚の間を撮影しました。
 
 
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余談です。「琵琶湖疏水」については、8年前に当ブログで触れたことがありますが、ここでその概略を説明したいとおもいます。京都市内で必要とする上水道・発電・水運・灌漑(かんがい)・防火などを目的として明治時代に第一疏水と第二疏水が相次いで建設されました。滋賀県大津市で取水された2つの疏水は京都市東山区蹴上(けあげ)発電所で合流し、インクライン(傾斜鉄道、終戦直後に運転停止)の下に設置された導水管で琵琶湖疏水記念館がある南禅寺船溜へと下りて行きます。夷川ダム(水力発電所)を経たあと一部は鴨川に流入しますが、大半は鴨川運河として南下して伏見城の外堀に入り三栖閘門を経て宇治川に注(そそ)いでいます。
 

これが「琵琶湖疏水」の本流ですが、実は蹴上から分水され東山の麓にある南禅寺と・禅林寺を経て北上する「疏水分線」があるのです。先の記事で紹介したように、熊野若王子神社横から銀閣寺(正式名;慈照寺、じしょうじ)付近の白川通今出川交差点の間には疏水分線に沿って「哲学の道」が伸びています。南禅寺にある疏水閣はこの「疏水分線」のために建設された水道橋で、南禅寺境内の東側は景観に配慮してトンネル区間になっているのです。「疏水分線」は「哲学の散歩道」の先で白川と交差すると向きを西に変え、高野川・泉川・鴨川と次々に交差して堀川まで続いているようです。
 

駐車場に戻る途中、「三門」に上がる階段が見えました。調べると、料金は大人500円。中門を出ようとした時、白人女性に声を掛けられ、蹴上(けあげ)駅への行き方を聞かれました。彼女が持つ地図上でルートを説明しましたが、物はついでとばかりに彼女とそのご主人を車で送ることに。その途中の雑談で、彼らは京都に9日間滞在したあと、高野山へ行く予定だと教えてくれました。あっという間に地下鉄蹴上駅の入口前に到着。『高野山はとても美しいところですよ。旅を楽しんでください』との餞(はなむけ)言葉を車から降りた2人に投げました。『旅は道連れ、世は情け』です。 

 

これまで、洛南・洛中・洛北・東山の順位に廻ってきましたので、次回は再び洛南へと足を伸ばします。(続く)

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