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2015年11月 9日 (月)

秋の京都で神社仏閣巡りを楽しむ<番外編> 枚方市の百済寺跡と百済王神社(前編)

京都府と隣接する大阪府枚方市へ足を伸ばしました。国道1号と京阪電車が京都府南部の八幡市(やはたし)と枚方市(ひらかたし)を南北に貫いていますから、旅行者には両市の間に府境があることをほとんど意識させません。ちなみに、両市に跨る男山の山麓には私が関心を持っている継体天皇が即位したとされる「楠葉(くずは)宮跡」(樟葉とも表記)があります。

 

京都市街地から国道1号(京阪国道)を南下して久御山町(くみやまちょう、久世郡唯一の町)を通過、木津川を越えると丘陵地帯が広がる八幡市、そして洞ヶ峠(ほらがとうげ)を越えて枚方市に入りました。枚方市は北河内の北端に位置する中核都市で、奈良県とも一部で接する交通の要衝(ようしょう、宿場町)でもあります。

 

国道1号の池之宮北交差点を右折して枚方市の中心部へ向かいました。800mほど進んだ中宮西之町(なかみやにしのちょう)に「特別史跡 百済寺跡」と「百済王神社」の案内看板がありましたので、その手前を右手に入りました。「特別史跡 百済寺(くだらじ)跡」の石柱が立っていますから、ここがその入口のようです。
 
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枚方八景「百済寺跡(くだらじあと)の松風(しょうふう)」の案内看板には、『中宮(なかみや)にある特別史跡百済寺跡は、8世紀後半に百済王族の末裔(まつえい)である百済王氏(くだらのこにきしうじ)が難波(なにわ)からこの地に移り、一族の氏寺として建立した寺跡と考えられ、昭和16年に国の史跡に指定され、昭和27年3月に特別史跡となりました。整備前には、布かで大阪城とならぶ特別史跡でありながら、老松が点を覆(おお)い雑もくが繁(しげ)って立ち入る人もなく、熊笹のあいまに礎石が見られる荒廃ぶりでしたが、昭和40年から全国で初めての史跡公園として、2年かけて市民の憩いの広場に整備されました。(以下略)』とあります。
 
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敷地脇に縦一列の駐車スペースを見つけました。
 

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石柱の横には『昭和27年3月29日文化財保護法の規定により特別史跡指定』と刻まれています。ちなみに、国指定特別史跡は全国で61か所、大阪府では案内看板にあるように大阪城とこの「百済寺跡」だけなのです。
 
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こちらの石碑にはその由来などが詳しく説明されていました。
 
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あえてその全文を引用します。『興福寺官務牒跡という末寺帳に、岡寺の義淵僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基したものであることが記されている。寺跡の西隣に百済王神社があり百済寺と称したことから、百済王氏一族の氏子であると考えられる。したがってその一族が天平勝宝二年における百済王敬福(きょうふく)の宮内卿兼河内守任官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れ、ここ交野郡の土地を賜わって移住し、氏神百済王神社と氏寺百済寺を建立したものと思われる』
 

『その後一族から俊秀の人達を輩出し、また桓武天皇朝にはその外戚として繁栄し、当寺もこの氏族と盛衰をともにした。後には奈良興福寺の末寺として室町時代までその命脈をつないだように思われる。現百済王神社本殿が、興福寺と一体的なものであった春日大社関係の社殿を移建したものと認められることもこれを裏付けている。昭和四十年、当時の市長寺嶋宗一郎ほか地元有志は、それまで雑草の繁茂にゆだねられていたこの寺跡を市民の親しみうる場所とするための環境整備事業を発起し、大阪府教育委員会はその概要を知るために全面的な発掘調査を実施し、ついで枚方市が国および府の補助金を得て、わが国で初めての史跡公園を完成したものである』

 

『この調査の結果、一辺長一町半、約一六〇米を占める方形寺地の中心線上に伽藍を配し、寺地南限の南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇に取付くもので、新羅の感恩寺と同形式であることが分る。またこの伽藍成立以前の奈良時代前期にも仏舎の営まれていたことが、出土瓦から考えられるに至った。さらに寺地東南角には、東院とも呼ぶべき一郭があり、うちに一堂宇を配していたことも判明した。ともかくこの寺跡は、寺地全体とともに主要堂塔の大部分を遺存する希有なものであり、またその伽藍配置形式は、その歴史的背景とあいまって古代日韓文化交流の史実を徴証する価値高い史跡である。昭和二十七年三月二十九日 文化財保護法の規定により特別史跡の指定を受ける』 昭和六十年三月 文化庁 大阪府教育委員会 管理団体 枚方市

 

淀川東岸から生駒山系北端に広がる台地「交野ケ原」には律令時代に交野郡(かたのぐん、現在の交野市と枚方市の大部分)が設置され、そこには宮廷の別荘や貴族の狩場があったと伝えられます。交野ケ原のなかでも淀川に近い小高い丘の上にある「百済寺跡」は発掘および「百済寺跡公園」としての整備が行われていました。草に覆(おお)われている右手のエリアは公園の広場になっているようです。また、交野ケ原には渡来人が多く移り住んだことで、渡来人が伝えたと思われる「七夕伝説」にまつわる機物(はたもの)神社・星田妙見宮(北斗七星を祀る)・天野川(通称;天の川)・かささぎ橋・逢合橋(あいああいばし)・牽牛石(けんぎゅうせき)などがあるそうです。


 
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正面に石段が現れました。
 
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「東廻廊(跡)」の石柱
 
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左手(南)方向を見ると、確かに回廊があったと思われる細長い空間が南へ伸びています。
 
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前方に建物が見えます。
 
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少し先の左手に「東塔(跡)」の石柱
 
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右手には「金堂(跡)」の石柱
 
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「特別史跡百済寺跡配置図」に描かれた図で薬師寺に似た伽藍(がらん)全体を把握することができました。廻廊が中門から金堂に取りつく点は薬師寺とは異なり、新羅(しらぎ)の感恩寺と同形式であることが判明したそうです。大垣のある東門(配置図の右)から入り、「東院」の脇を抜け、東回廊を横切り、「東塔」の脇を通過、金堂が右手に見られるほぼ中央部に出たようです。
 
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こちらは「東塔」と対をなす「西塔」ですが、盛り土があるだけで、「東塔」のように基壇(きだん)の形は残されていません。奥に見える建物は「百済王(くだらおう)神社」のようです。
   

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盛り土の上に上がると巨大な石が並んでいました。これが「西塔」の礎石(そせき)のようです。
 
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左手に進んで「中門(跡)」の石柱を見つけました。
 
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左右に伸びる石畳(回廊跡)の先にある石段が南門跡のようです。
 
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「金堂」近くまで戻ると、前方に「西廻廊」の石柱が
 
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右手のエリアは公園になっていて、講堂と食堂(じきどう)のものと思われる礎石が残っていました。

 

南回廊跡を東方向に向かって辿(たど)りました。
 
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東回廊跡と東院跡を抜けて百済寺の由来が書かれた石碑がある東門跡の近くまで戻りました。
 
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草が生い茂る「百済寺跡」は、160m四方の広大な伽藍(がらん)に建物は一切ありませんが、その広さと発掘された遺構(いこう)を確認することで、往時の様子を想像することができました。そして、今回の旅行で訪れた「伏見稲荷」と「平野神社」の記事でも触れましたが、京都およびその周辺地域には渡来人の影響が様々な形で現在まで残っていることを強く印象付けられました。また、当ブログでは蘇我入鹿大和政権四天王寺河内寝屋川市伊勢原市秦野市甲府市狛氏志木市日高市(高麗神社)高松市(峰山公園の古墳群)の記事でも渡来人について言及しています。(続く)

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