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2015年12月

2015年12月31日 (木)

東山ドライブウェイと将軍塚(その2)

標識にしたがって右手奥に進むと展望台がありました。
 
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かなり古びた案内図には左手の伏見・西山・嵐山から愛宕山と北山までが見渡せることが描かれていますが、雨上がりのため湿度が高く、京都の市街地が霞(かす)んでいることは残念です。
 
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それでも京都駅前の京都タワーは容易に見つけることができました。
 
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その左手には鴨川を越える阪神高速道路8号京都線、それと交差する名神高速道路が確認できます。2つの高速道路が立体交差する辺りに伏見稲荷大社があり、その先には伏見桃山城があるはずです。
 
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右手方向に視線を移すと、東山の稜線に隠れて円山公園・八坂神社・平安神宮・京都御所などは見えませんが、船岡山と思われる小山が確認できます。
 
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山頂公園の100mほど先に山門が現れました。東山粟田口にある天台宗青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の飛地境内である将軍塚大日堂(青龍殿)です。山門の右手前にある無料駐車場(10台ほどのスペースがある)に車を停めました。
 
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山門と駐車場から伸びる参道の先にある大日如来を祀(まつ)る大日堂の受付で拝観料500円を払いました。
 
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門を抜けて大護摩堂「青龍殿」へ向かいました。
 
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清龍殿の奥にはガラスの茶屋「光庵」があるようです。
 
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この建物は大正天皇の即位を記念して、大正2年に「大日本武徳会京都支部武徳殿」として北野天満宮前に建立された価値ある木造大建築物で、戦後は京都府警の柔道剣道の道場「平安道場」(平成10年閉鎖)となり、平成26年(2014年)に青蓮院が継承・移設したものだそうです。
 
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「青龍殿」の先に「将軍塚」と思われる大きな塚が見えますが、まず「青龍殿」に入ることにしました。
 
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堂内は広い板敷きの空間があります。
 
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組入れ天井も見事です。
 
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正面の祭壇には国宝の青不動明王のレプリカ(礼拝画像:絹本着色青不動明王二童子像)が飾られています。二人の童子を従えた青不動明王は烈火のような迫力で参拝者に迫ります。ちなみに、不動明王は大日如来の生まれ変わりであり、青不動は五色(青・黄・赤・白・黒)不動の中心(最上位)といわれます。そして、最近になって『国宝青不動明王御開帳』が開かれたそうです。
 
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清龍殿の脇を抜けて清水寺の舞台の約4.6倍の面積があるといわれる大舞台(北の展望台)に出ました。
 
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(続く)

2015年12月30日 (水)

東山ドライブウェイと将軍塚(その1)

早朝に自宅を出発し、東名高速道路の足柄SAで早めの朝食を摂り、御殿場JCTで新東名高速道路に入りました。足柄SAでは冠雪した富士山が夜明け前の薄暗い空を背景に薄っすらと見えましたが、新東名高速道路に入るころには朝日に照らしだされるようになりました。
 
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新名神高速道路の鈴鹿トンネル付近では鈴鹿山脈の峰々が白く冠雪しています。
 
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京都市の近郊で所用をすべて済ませた数日後、前から訪れたいと思っていた東山ドライブウェイをドライブして将軍塚を訪れることにしました。同行者は今年9月に産まれたオチビちゃんとコチビちゃんの妹を世話したいと言いますから、この日は私一人のドライブです。京都市街地から国道1号(五条バイパス)を大津方面に走り、東山五条交差点の先に続く切り通しにある案内標識にしたがって清閑寺前交差点を左折、東山ドライブウェイに入ります。京都市東山区の国道1号線清閑寺交差点と三条通り(旧国道1号)の山科区九条山を結ぶ山岳道路で、1959年(昭和34年)に当時の道路公団が開通させた有料道路でしたが、1979年に無料開放されています。
 
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最初のS字カーブを抜けた場所に六条天皇陵(正面の石段上)・高倉天皇陵(その右奥)と右手の坂道を上がった高みにある清閑寺(せいかんじ)を見つけました。道路脇の駐車場は月極駐車場になっていますので、路肩に車を停めて、駐車場越しに写真を撮るだけにしました。
 
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宮内庁の案内看板には六条天皇と高倉天皇の名があります。
 
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六条天皇は第79代天皇です。後白河天皇の子である二条天皇の第二皇子(一説には第一皇子)。数え歳の2歳で歴代最年少即位。しかし、在位2年余りで退位して歴代最年少の上皇となりました。短期間の在位は祖父である後白河院の政治的な意向(二条天皇との勢力争い)があったとされます。数え13歳(満11歳)になった時に病気で逝去(せいきょ)。「消えた六条大路」の記事で紹介したように、六条御息所(みやすんどころ)とともに薄幸な生涯だったと言えそうです。

 

高倉天皇は六条天皇の叔父(後白河天皇の第七皇子)にあたり、譲位されて第80代天皇となりました。平清盛の甥(清盛の妻の妹が母)であり、後白河院の院政下、清盛の娘(後の建礼門院)を妻にしましたが、後白河院と清盛が対立して後白河院が幽閉されると、自らの皇子を即位させて第81代安徳天皇としました。しかし、院政を敷く間もなく病に倒れます。六条天皇と高倉天皇の関係を知ると、二つの天皇陵が並んでいることの意味を考えてしまいました。

 

清閑寺は802年(延暦21年)に紹継法師(しょうけいほうし)が開創。高倉天皇の寵愛(ちょうあい)を受けた小督局(こごうのつぼね)がここで尼となったと伝え、山門を入ったところに、その供養塔があるそうです。境内の要(かなめ)石から眺めると、視界が扇形に広がる紅葉の名所とのこと。
 
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石段を上がった高みにある山門を撮影しましたが、逆光で見にくくなってしまいました。
 
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美貌と音楽の才能で名高かった小督が高倉天皇の寵愛を受けたことで、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子の父である平清盛の怒りに触れ、清閑寺で出家させられた。小督の哀話は『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『小督』にも取り上げられています。
 
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清閑寺の山門から清水寺子安までの山路は「歌の中山」と呼ばれているようです。いつまでも路肩に車を停めておくことはできませんので、清閑寺に参拝することは諦めることにしました。
 
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その先に立派な門を見つけましたが、東山本願寺の霊園「東山浄苑」の入口でした。右手には京都市中央斎場がその先にあることを示す標識があります。
 
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三差路を直進して急な坂道をさらに上がります。東山ドライブウェイの急坂を自転車で上るライダーが前方に見えました。
 
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北花山下稚児が池脇と阿含宗(あごんしゅう)本山(総本殿)の入口を通過すると三差路がありました。
 
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三差路を左手に入ると東山ドライブウェイの最高地点である東山山頂公園の無料駐車場に到着。
 
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駐車場の左手にある広場の脇に続く石畳の先に展望台があるだろうと思って歩きました。

 
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伏見稲荷大社のある稲荷山で見かけた「京都一周トレイル」が東山の山頂を通っていました。
 
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左へ進めば清閑寺がある清水山、反対に右へ進むと蹴上に近い粟田口(京の七口のひとつ、東の東海・東山・北陸街道の出口)へ至ることと、展望台が反対側にあることも表示されています。
 
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それを承知してさらに進むと石柱がありました。左手が清水寺、右手は高台寺へ下りることができるようです。
 
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(続く)

2015年12月27日 (日)

「モコもじオリーナ」が欲しい!

大阪に住むオチビちゃんとコチビちゃんの家に滞在していた先週のことです。コチビちゃんの希望するクリスマスプレゼントがクリスマスイヴの前日になってやっと決まりました。オチビちゃんとコチビちゃんの二人は両親に勧められてサンタさん宛に希望するクリスマスプレゼントを伝える手紙をその夜に書きました。オチビちゃんは任天堂3DS「ポケモン超不思議のダンジョン」(ゲームソフト)で、コチビちゃんは文字を織り込むことができる機織り機の「モコもじオリーナ」です。

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24日の午前中、二人のお母さんに同行して近くの量販店を開店と同時に訪れると、オチビちゃんが希望したゲームソフトはすぐ見つかりました。しかし、1031日に発売されて爆発的な人気を集めているという「モコもじオリーナ」は売り切れていて在庫がありません。そこで、それを探して他の量販店をハシゴしましたが、いずれも売り切れで在庫がないのです。さらに、思いつく限りの玩具店や雑貨店などに電話で確認しましたが、どの店舗でもやはり売り切れていました。

 

それでは最後の手段だと主な通販サイトをチェックすると、在庫があるサイトがいくつか見つかりました。しかし、定価の7.980円(消費税8%込み8.618円)で販売している発売元のサイトには在庫がなく、一方在庫がある他のサイトは次のようにかなりのプレミア価格を提示していました。

タカラトミーモール 8,618円(売り切れ)

アマゾン 11,500円~(122512,300円~)

楽天市場 13,500円~(122514,280円~)

 

安値を提示するショップが多いアマゾンのなかでも最安値(33.4%のプレミア付き)を提示するショップでの購入を二人のお母さんは決めました。上記したように翌25日の午前中には1,000円前後も高くなっていましたから、結果的には良い判断だったようです。

 

「お急ぎ便」で翌25日午前中の配達を確保できましたが、問題はクリスマスの朝目覚めた時にクリスマスプレゼントがコチビちゃんの枕元に置かれていないことです。

 

コチビちゃんの両親が相談した結果、クリスマスプレゼントが少し遅れることを伝えるサンタさんの手紙をコチビちゃん宛に書くことになりました。アメリカでの学生生活が長いお母さんが書いた英文原稿にしたがい、私が男性的な文字で手紙を清書しました。両親からではなく、サンタさんからの手紙であることを演出するためです。

翌朝、クリスマスプレゼントの代わりにサンタさんからの手紙を見つけたコチビちゃんは、お母さんに英文の意味を教えてもらいました。そして、お願いした「モコもじオリーナ」が女の子たちに人気があるため、サンタさんが配達するタイミングが遅れることを知りました。期待したようにコチビちゃんは、ガッカリするのではなく、とても満足そう。
 
Dscf6699そして、午前10時過ぎに自室を片付けるように言われたコチビちゃんは膨(ふく)らんだ布団の中にクリスマスプレゼントの「モコもじオリーナ」を見つけて大喜び。 
 



Dscf6701『サンタさんが家の中に入って来なかったのに変だね!』と呟(つぶや)いていましたが、関心がクリスマスプレゼントに集中しているため、その疑問はすぐに忘れてしまったようです。
 




Dscf6706コチビちゃんはさっそく大きなプレゼント袋から箱に入った「モコもじオリーナ」を取り出し、お母さんに言われたことで、取扱い説明書を読み始めました。大人でも楽しめそうな本格的は手織機のようです。読み終えた後、縦糸を機織り機に取り付け、2つのシャトルにピンク色て水色の横糸をそれぞれ8の字に巻きつけ、機織り機にアルファベットを織り込むために必要な型紙(穴が開けられたシート)をセット。これで準備は完了。
 

Dscf6887機織り機の中ほどにある型紙を送るドラムを回します。 
 
 
 



Dscf6889その横にある左右2つのレバーを押すと縦糸が型紙に開けられた穴に応じて上下に分かれます。 
 
 



Dscf6886上下に分かれ縦糸の間に横糸が巻きつけられたシャトルを通します。 
 
 
 



Dscf6885横糸が縦糸の幅に合うように調節した上で、櫛(くし)のような部品を使ってその横糸を一段下の横糸に押し付けるのが1セットの第一手順です。 
 
 



Dscf6888次は別の色の横糸を使って、同様のことを第二手順として行います。 
 
 

 




Dscf6884以上、1セットの手順を何度も繰り返して最初の文字完成させます。その後は2番目の文字用の型紙と交換して、同様の手順を繰り返します。文字を入れない場合は型紙を使わ(機織り機にセットし)ないで、織れば良いのです。2色を使い分ける時は、横糸を一旦切って繋(つな)ぎ変える必要があります。
   

 

コチビちゃんの両親を悩ませたクリスマスプレゼント事件は、このように楽しい結末で、一件落着となりました。

2015年12月17日 (木)

アルコール依存症的な私の人生

若年層を中心にお酒離れが進んでいるそうです。大学や会社のOB会(飲み会)では若い世代の参加が少ないと嘆(なげ)くシニア層の声を良く聞きます。幹事役を務(つと)めることが多い私は対案を考えるようしばしば求められますが、それは簡単なことではありません。まず、世代間に付き合いの考え方に大きなギャップがあることと話題にする関心事の違いが挙げられます。そして、若い世代にアルコールが敬遠されていることも影響しているのかもしれません。

 

大学へ入った時に私とアルコールとの付き合いが始まりました。とはいっても、同級生の集まりや大学祭などが酒を飲む主な機会でしたから、それほど頻繁な飲酒ではありません。アルコールと深く付き合うようになったのは就職してからで、それ以来50年間近くの長きにわたります。医者から飲酒を止められた20歳代の1年間を除けば絶えることなく飲酒しており、皆勤賞と言っても良いでしょう。

 

そのため50歳代になってからは肝機能の異常を示す数値が高止まりする状態が続きました。退職後は仕事によるストレスが無くなったことから飲酒量はかなり減りました。しかし、飲酒の習慣は続いたことで肝機能検査の数値は、若干の改善が見られただけで、正常な領域に戻ることはありませんでした。

 

そんな私に転機が訪れました。今春から胃が凭(もた)れるようになったのです。軽い胸焼けと喉(のど)の違和感から始まって、しだいに空咳(からぜき)が出るように。昨秋受けた定期健診でも異常が見つからなかったのですが。近くの開業医の診断は「逆流性食道炎」でした。

 

胃液を含む胃の内容物が耐酸性のない食道に逆流して炎症を引き起こす病気です。その原因は老化により胃の入り口である噴門(ふんもん)、つまり下部食道括約筋(かぶしょくどうかつやくきん)、が弱ることで発症することを知りました。日本人では10数%、欧米では20%と、かなり一般的な病気であることも。

 

処方された薬を飲み続けていると症状は改善されましたが、時々悪化することもありました。4-5か月が経過した時の問診でこのことを告げると、医者から戻ってきた言葉は、『お酒を飲み過ぎてはいませんか?』でした。噴門の働きが悪くなることと胃や食道の粘膜が荒れて症状を悪化させるようです。悪くすると食道の潰瘍(かいよう)や癌(がん)につながることもあるとのこと。

 

また、医師である友人からはピロリ菌を除菌することを勧められました。だだし、除菌すると胃酸の分泌が増える傾向があるため、医師とよく相談しながら治療法を選ぶことが必要であるとの指摘もありました。

 

不快な症状から脱したいとの思いから、清水の舞台から飛び降りるつもりで飲酒を止めてみると、2週間後には症状がかなり改善されました。やはり飲酒が原因だったのです。これに安心した私が飲酒を再開するとやはり食道炎の症状が再発。そして、現在はこのサイクル(酒量の調整)を定期的に繰り返しながら、相変わらず「アルコール依存症的な毎日」を送っています。 

 

40年あまり前の20歳代後半に、それまで8年近く続けていた喫煙習慣を2回の失敗を経て完全に止めることができた「意志の強い!?」私ですが、酒についてはからきし駄目(だめ)なのはなぜでしょうか? そして、私が断酒できる日はいつのことでしょうか?

 

                           ☆

 

私の酒浸(さけびた)り人生の話だけでは興(きょう)に乗らない、つまり面白くないと思いますので、ここで酒(アルコール)に関する薀蓄(うんちく)を披露(ひろう)しましょう。  

 

人が酒をやめられない主な理由は体内に入ったアルコールが脳にドーパミンを分泌(ぶんぴ)させるためです。ドーパミンは「快楽物質」、あるいは「生きる意欲を作るホルモン」と呼ばれるように、人を積極的にさせる働きがあります。つまり、「快感や多幸感を得る」や「意欲を作ったり感じたりする」という機能を担(にな)う脳内ホルモンのひとつなのです。そして、快感を得ているときにはストレスホルモンである「コルチゾル」が分泌されないのです。このため、飲酒が習慣的な行動となりやすく、やがてアルコール依存症への道を歩(あゆ)むことになります。

 

これは飲酒に限りません。人間はドーパミンを分泌させることを目的として生きているとも言えるのです。快感や幸福感をつかさどるドーパミンを増やすには、飲酒の他に、「新しい刺激」「はじめての感動」といった「新鮮さ」を感じることも有効とされます。また、マイナス思考ではなく、プラス思考であるほうが、ドーパミンの分泌量は多いようです。 

 

このため、新しい課題や問題に取り組むと脳が活性化されて脳は快感を得るのです。先の記事「どうして自分だけは?」に書いた「私の我侭(わがまま)」もこの快感を求めるものだった思います。しかし、いつもと違う方法で対応しようとするといつも通りに成功できないのではないかという不安(マイナス要素)が発生します。そこで、人はこれまで成功してきた方法で新しい課題にも取り組もうとするのです。これが「成功のジレンマ」と呼ばれる望ましくない状態で、残念なことに私もこのジレンマに陥ったのです。 

 

このジレンマから脱するためには、まず精神的および時間的なゆとりを確保する必要があります。追い込まれてからでは遅いのです。そして、「マイナス要素」から「プラス要素」を見出す「不断の努力」も不可欠なのです。その「労が多い努力」は「新鮮さ」という快感によって脳を満足させてくれるのです。50歳近くなった時にビジネス環境が急激に悪化しましたが、新しい考えで問題を解決してドーパミンを発生させるのではなく、成功確率が高い堅実な(つまり消極的な)対策に甘んじながら飲酒量を増やすことによって私はドーパミンを得ていたのです。今になって気づいても手遅れですが・・。 

 

閑話休題。アルコールを摂取(せっしゅ)すると上記のような効用に加えて副作用も生じます。それは脳で創造性を担う最高中枢である前頭前野(ぜんとうぜんや)がアルコールによって麻痺(まひ)することによって人の理性が働かなくなり、「異常な行動」となって現れます。その行動は人によって様々であり、 「泣き上戸(じょうご)」、「自分自身における、あるいは他人に対する破廉恥(はれんち)な行為」、「無口な人の多弁症」、「記憶喪失(きおくそうしつ)症状」(実際は記憶していない)など。

 

酩酊(めいてい)状態に至らないる酒量は人によって異なるようです。アルコールを分解する酵素がある人は酒の影響が軽度ですが、その酵素が少ない人は酔いやすいのです。通常の日本人は西洋人に比べてこの酵素が先天的に少ないといわれていますから、西洋人とのパーティでは自分の許容量を超えないよう十分気を付ける必要があります。というのは、西洋人は飲酒の仕方に人格が現れる(酒は皆で楽しむために飲む)と考えるため、日本人のように「酒の上の失態」と大目にみてくれません。老婆心ながら書き添えます。

 

                             ☆ 

 

年末が近づきました。2か月前から予定していた関西旅行へ明日出かけますので、ブログ記事の投稿は年末まで休止します。

2015年12月16日 (水)

和田竜著「村上海賊の娘」を読む(後編)

≪下巻≫ 上巻のダイナミックなストーリー展開のあと、村上武吉(たけよし)の娘、景(りょう)の活躍を期待しながら下巻の頁をめくりました。見開きには、『オレならできる。この木津川を通りたいちゅうんやったら、束になって掛かって来んかい。死んでも通さへんど! それぞれに迫られる決断、そして自分はどうありたいか、という問い』とあります。

 

第三章(承前)>

 

門徒の大軍は二手に分かれて、それぞれに大坂本願寺と木津砦にかけ戻ろうとしていた。大坂本願寺へ向かう門徒たちは織田方の兵三千に追いかけられながら逃げ続けた。天王寺砦を突出した七五三兵衛(しめのひょうえ)は馬を激走させていた。雑賀党は城戸口(きどぐち、城門)に近づくと孫市の指図で反転した。そして、種子島を放ったあと各自落ちのびて本願寺の南西30kmに位置する貝塚御坊に集(つど)い、そこで再起を図ると配下の門徒たちに指図(さしず)した。

 

孫市の合図で一千発の弾丸が敵の喉元(のどもと)に襲い掛かった。配下の兵に散れと命じた孫市は敵の側面に向けてかけ続けた。敵の総大将をなんとか見出した孫市は二町(約220m)ほど離れた信長に狙いを定めて引鉄(ひきがね)を引いた。その瞬間、騎馬で疾駆(しっく)してきた何者かが信長に飛び掛って、ともに地に転がった。倒れこんだ信長に声を掛けたのは七五三兵衛であった。仕損じた孫市は戦場から離脱にかかった。

 

自らが連れてきた門徒たちを連れ帰ろうとする景の声は門徒たちに拒絶されてしまったことで、景は大きな衝撃を受け、景親とともに能島に帰ることを決心する。砂堆(さたい)の葦(あし)原を掛ける孫市は同じく葦原を歩く景と景親を見つけて二人を種子島で脅した。関所を抜けるために二人を利用しようと考えたのだ。そこへ孫市を追う七五三兵衛が現れるが、葦の陰から種子島で狙われている二人は孫市のことは知らないと偽(いつわ)る。孫市が懸念(けねん)した通り三人の前に関所が現れた。村上海賊の景だと名乗ると関所の兵は三人の通行を許した。

 

天王寺砦へ戻った七五三兵衛は息子の次郎と父道夢斎とともに信長に御目見得(おめみえ)を許され、主だった泉州侍も同席することになった。信長は道夢斎のことをよく知っていた。御目見得は無事に済んだと思われたが、信長には別の魂胆(こんたん)があったのだ。毛利家より大坂に兵糧入れをする噂があるため、泉州の侍衆は住吉の浜に砦を築き、木津川河口より入ろうとする船をことごとく沈めよと指示した。加えて、泉州侍は海上にて眞鍋七五三兵衛が支配することも言い渡したことで、泉州侍たちは衝撃を受ける。七五三兵衛も同様であった。強大な村上海賊と戦うことになると考えたからである。

 

住吉浜に着いた景と景親は二艘の巨大な安宅と百艘はあろうかという小早を見た。天王寺砦に入る時に七五三兵衛が廻送させたのである。景の顔を覚えていた兵は能島の者がいることを告げた。景に命じられて能島へ帰ろうとしたが、景の身を案じて戻ってきたのだ。景親に言われて景は関船で能島に帰ることを決めた。真鍋の兵を従えた七五三兵衛も住吉浜に姿を現した。兵から景のことを聞いても何の思いもなかった。天王寺砦での景の振る舞いに呆(あき)れた七五三兵衛は軽蔑(けいべつ)の色しかない。

 

七五三兵衛は安宅と小早を展開して木津川の河口を封鎖した。この様子は上町台地の大坂本願寺からも目にすることができ、雑賀の孫市が案じた通りのことが起こったことで、門主の顕如(けんよ)は言葉を失った。景親は難波海が塞(ふさ)がれると景に訴えるが、景は関心なさげに目を逸(そ)らした。安宅の舳先(へさき)では七五三兵衛と道夢斎が屹立(きつりつ)して明石の瀬戸のかなたに消えようとする景の関船と二艘の小早が夕日に呑()まれて姿を消すのを見ている。『おどれら、瀬戸内の海賊どもに泉州海賊の戦ちゅうもん見せちゃらんかい。小舟一艘通したあかんど』と七五三兵衛は叫(さけ)んだ。

 

第四章>

 

住吉浜を出航してから十一日後、景(きょう)と景親(かげちか)は能島の西の浜に戻った。そこで景はおびただしい数の軍船が停泊しているのを見て驚いた。三百艘くらいだろうか。兄元吉の前に出た景は、いつもとは違う神妙な顔で、これまでの至らない振る舞いを詫(わ)びた。肩透(かたす)かしを食らった元吉は景親に軍船のことを問われて、能島村上は毛利家に味方することになったという。そして、就英(なりひで)が景をもらうことを承知したことも告げた。景親は織田家が難波海を封鎖したことを伝える。やはり、戦になることは明らかである。

 

武吉はというと、大三島にある三島神社で戦勝祈願のため連歌の興行を十日も続け、毛利家の指図があるにもかかわらず、軍船を一艘たりとも動かそうとしない。そこへ来島の吉継と因島の吉充がやって来た。二人とも軍船をすべて毛利方乃美宗勝のみむねかつ)の賀儀城かぎじょう)へ移していた。武吉は「上杉謙信立つ」の報()らせを待っているのだ。小早川隆景こばやかわたかかげ)の考えを妥当(だとう)だと思っている。これが吉継には分からない。しかし、吉継が案じた通りの連歌興行は実に二カ月半も続き、七月下旬にようやく終わりを迎えることになる。

 

吉継が武吉を咎(とが)めているところへ能島の家臣が馳(は)せ参じて景姫が帰還したことを報告したことで、武吉は鳥居に向かって歩を進めた。景に会うため能島に戻るのだ。武吉は戦をもう見たくないという景を慰(なぐさ)める。それ以来、景は吹っ切れたように元の明るさを取り戻す。武吉は相変わらず能島と大三島を往復している。景が帰還してひと月近くも経(た)ったころ、武吉の元に越後の上杉謙信が門徒と和議に至り、織田方の分国に攻め入るとの噂(うわさ)があるとの報(し)らせをもたらした。

 

武吉(たけよし)は元吉(もとよし)に、賀儀城へ行き、毛利家と合流せよと命じた。元吉と景親は三百艘の軍船を率いて出航していった。そして、その日のうちには毛利家の船団と合流した。これにより、毛利家の船団は一千艘(そう)に膨(ふく)れあがった。乃美宗勝(のみむねかつ)は本願寺から依頼された兵糧十万石のうち、積み残した分を能島村上家の船に入れさせ、翌日、積み込みが終わると、ただちに岩屋へ向け出航を命じた。

 

先鋒の児玉就英の船団は淡路島北端にある岩屋城の西側に着岸したが、続く村上元吉はあえて東側(難波海側)に向かった。織田方に軍容を見せつける狙(ねら)いがあるのだ。他の村上海賊もこれに倣(なら)ったことで、木津川河口を封鎖する七五三兵衛だけではなく本願寺の門主、顕如(けんにょ)からも大船団が確認できた。しかし、元吉も七五三兵衛の船団三百を前に瞠目(どうもく)していた。毛利方の船団は七百艘が戦力のない兵糧船で、兵船は三百艘と織田方と同数である。また兵船に乗り組む兵は水夫の半数なのだ。

 

同数だという就英(なりひで)に対して吉充(よしみつ)は目算違(もくさんちが)いだという。毛利家と織田家を天秤(てんびん)にかける淡路国を領有する安宅(あたか)家の来襲に備えるとすれば二百艘でしかないのだ。吉継(よしつぐ)もうなずく。気勢が上がらないのに業を煮やした就英は宗勝に意見を求めた。軍議が始まってからずっと機会を窺(うかが)っていた宗勝は頃合いと見て、主人の小早川隆景から託された密命を披露(ひろう)した。

 

それは上杉謙信が出陣するまで岩屋城で待つというものである。期限は本願寺が包囲されてから三か月(残り二週間ほど)とし、その期限が来れば引き返すという。毛利家直臣(じきさん)の就英は反発するが、吉充、元吉、吉継はいずれも宗勝に従うとしたことで、軍議の結論が出た。

 

織田方も軍議を開いていたが、毛利方の実戦力がつかめない。その上、三百艘の兵船のうち百五十艘は伊丹の有岡城に滞陣する荒木村重に信長が命じて用意させたものであり、操船と戦闘を即席で教えたばかりの泉州侍に百五十艘を任せ切るほかなかった。このため、どちらからも攻めかかることはなかった。

 

能島では景が船団の凱旋(がいせん)を待ち焦(こ)がれている。その様子を見て安心した武吉はつい本当のことを景に明かしてしまった。息子たちに決して明かさなかった腹の中を我が知恵を誇るように披露(ひろう)する。武吉の判断は間違いであった。顔色を変えた景は武吉を問い詰めた。そして、自分が待っていたのは門徒たちが助かったとの報らであることを知る。呆気(あっけ)にとられる武吉をあとに、裸になった景は、荒海に飛び込んで化粧を落とすと、そのまま西の浜へと泳いだ。

 

兵の小袖(こそで)を取り上げて着ると、景は関船に向かった。訳を聞く武吉に向かって門徒たちを助ける理由を景は涙ながらに話す。泉州侍との戦いが待っていることと、児玉就英との婚儀の話はなくなることも景は承知している。『景よ、行け』と武吉は励(はげ)ますと、兵どもも我先にと関船へ殺到(さっとう)した。岩屋城では期限を翌日に控えていた。そこへ能島から景きょう)が到着したとの報(しら)せが入った。吉継はたちまち青ざめた。思ったのは「鬼手(きしゅ)」である。

 

宗勝と元吉をはじめとする村上海賊が明日帰ると聞いた景が眞鍋七五三兵衛に掛け合いに行くと言って浜に向かうと、浜の狂乱は一層激しさを増した。続々と小早(こはや)を押し出して、今にも対岸の敵に打ちかからんばかりの勢いである。それを一喝(いっかつ)した景は元吉が止めるのを聞き入れない。すると就英が自分も行くと言い出した。さらに、宗勝までが景に頼りたいので行くのを許してやってほしいと元吉にいう。景は就英を乗せた小早の櫓()を漕()ぎ始めた。

 

先頭の安宅にいた道夢斎の取り次ぎで景と就英は七五三兵衛がいる後陣の安宅へ向かった。泉州侍と就英が見守る中、景と七五三兵衛(しめのしょうえ)の掛け合いが始まった。泉州侍たちの多くは景から毛利方には一千艘の兵船があること聞くと、織田家は兵船の増強に応じないこともあり、毛利方と和議を結び、さらには毛利方につくことまでを期待していることは明らかだ。和議に賛同する泉州侍の声を聞いた景は和議が成ると思った。しかし、七五三兵衛は『負けると分かっていても戦う』と答える。景は嘘(うそ)や「はったり」をもって対した自分を恥(は)じた。

 

岩屋城へ戻った景は毛利方の考えが変わらないことを確かめると、再び小早を一艘目立たない場所へ移動させ、今一度難波海を渡ることにした。そこへ現れた景親は景が愛用する太刀と手甲(てこう)を手渡しながら、『貝塚へ行くつもりじゃな』と景の考えを言い当てた。景はうなずいた。この姉弟しか知らないことだ。一向宗の拠点の一つ、貝塚御坊にいる雑賀(さいが)党の鈴木孫市に加勢を頼むつもりだ。織田方の関所を抜けたとき、『役に立てることがあれば、力を貸そう』と言った孫市の言葉を思い出したのだ。

 

第五章>

 

毛利家の船団は隊列を組んで淡路島を離れて西方へ向かう様子が眞鍋方の船団と大阪本願寺からも確認できた。門主の顕如(けんにょ)は愕然(がくぜん)とし、眞鍋七五三兵衛は何かの軍略かと思った。毛利家の船団が去り始めて程なくすると陽が沈み、月が見え始めた。七五三兵衛は淡路島を睨(にら)み続けている。最後に島の東側からも殿軍(しんがり)である三百艘ほどの船団も明石の瀬戸過ぎて闇(やみ)に掻(か)き消された。

 

七五三兵衛は一杯喰(いっぱいく)わされてと思った。兵たちが溜息(ためいき)を洩(も)らして、ぼやいていると、淡路島の南から明かりを点けた船団が近づいて来るのが見えた。船団は余りにも寡兵(かへい、少数の兵力)で五十艘ほどである。七五三兵衛は兵に陣貝を吹かせた。先頭を七五三兵衛と道夢斎の安宅が二艘並んで、その後に小早が続く「長列の陣」の隊列を組んだ総計百五十艘の船団は南方の敵に向かって直進した。

 

正体不明の敵は、見る間に眞鍋家の船団に迫った。両者の距離が一町(約110m)を切ると、その軍容が明らかになった。五十艘はすべて小早で、しかも通常の半分程度の大きさに過ぎない。先頭を切る小早に視線を落とした七五三兵衛は舳先(へさき)で仁王立ちしている武者を見た。『あいつが、なんでいてんや』とつぶやき、次いで『景姫、よう来た!』と満面に笑みを湛(たた)えて吠(ほ)え上げた。(以下略)

 

終章

 

織田家と毛利家が初めて干戈(かんか、武力)を交えた木津川の合戦は毛利方の勝利で終わった。この合戦に参加した泉州兵の戦死者は一千五百人余りとされる。織田方の兵船が三百艘とすると、合戦に参加した泉州の兵と水夫を合わせた総数の四分の一から五分の一が討ち死にしたことになる。小早川隆景があれほど待ち望んだ上杉謙信は動かなかった。

 

木津川合戦が勃発(ぼっぱつ)したとの報せを居城の安土城で聞いた信長は再び出陣する。また、本願寺攻めの総大将となった佐久間信盛が天王寺砦から木津砦を目指して突出したが、門徒が迎え討ったため天王寺砦に引き返してしまう。海陸ともに敗北したこと、および海戦で毛利方が火薬を詰めた大玉を使い大船を焼き沈めたことを知らされた信長は「鉄の船」が必要だと考える。

 

門主の顕如は村上海賊と毛利の将たちを大阪本願寺に招(まね)き入れ、丁重(ていちょう)に礼を言ったという。景(きょう)と孫市は大阪本願寺へは行かない。景は能島に戻り、孫市は本拠の紀州に退去した。信長は伊勢国の海賊衆、九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて鉄張船(てつばりぶね)を建造、難波海に就航させたことで、難波海の制海権を奪い返した。これにより木津川合戦の四年後、大阪本願寺は織田信長にその地を明け渡す。その他、登場人物たちについての後日談が続くが、景(きょう)については来島の侍に輿入(こしい)れしたことだけが記(しる)された。

 

                             ☆

 

読後感> 和田竜氏らしくダイナミックなストーリーが展開される歴史小説でした。特筆されることは、和田氏の卓越した描写力で、「登場人物の人となり」「泉州弁での会話の面白さ」「戦闘シーン」などにおいて読者の想像力を強烈に刺激します。私同様、読者は映画を観る以上のリアリティを感じることでしょう。また、歴史に興味がある私は、古文書から引用された記述や難解な言葉の解説がスパイスのように働いたことで、1000頁近い長編小説を一気に読破してしまいました。しかし、歴史や歴史小説に興味が薄い方にとって難行苦行かもしれません。□

2015年12月15日 (火)

和田竜著「村上海賊の娘」を読む(中編)

第三章>

 

景(きょう)が天王寺砦に入った翌日、2kmしか離れていない大坂本願寺の木津砦(きづとりで)とその北方1kmほどにある三津寺砦(みつでらとりで)への織田方による攻撃が始まった。三千八百の軍勢の先陣を担う泉州(せんしゅう)侍、三好(みよし)勢、根来(ねごろ)衆の最前線に立つのが武勇を誇(ほこ)る泉州侍、その先鋒(せんぽう)は触頭(ふれがしら)である沼間義清(ぬまよしはる)である。次いでもう一つの触頭である松浦安太夫、三番が眞鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)である。馬上の沼間義清はなぜか上町(うえまち)台地を大坂本願寺へ向かって駆(か)け続けている。大坂本願寺を襲(おそ)うと見せかけて木津砦の兵(ほとんどが百姓)をたちを油断させる作戦であった。

 

頃合いを計った義清は突然左手に進路を変えて木津砦の正面(東側)に出た。これに驚いた木津砦の百姓たちは戦意を失いかけるが、木津砦を預かる坊官の下間頼龍(しもつまらいりゅう)は鍛(きた)え抜かれた舌三寸で門徒たちを動揺から立ち直らせた。義清が逆茂木(さかもぎ)に達し、両軍から矢が放たれた。木津砦の兵力二千は砦で防戦するには十分の兵力である。砦から放たれた矢の数は予想外の多さであるが、勢いが足りないため沼間家の軍勢にほとんど届かない。

 

逆茂木を抜き終わった義清(よしはる)は砦目指して駆けた。砦に迫る敵を見下ろした頼龍は距離を見定めて門徒たちに二の矢を命じた。義清の読み違いであった。一向宗門徒たちの性根(しょうね)を甘くみたのだ。さらに義清を驚かしたのは葦原(あしはら)の先にある大きな水堀だ。幅は十間(約18m)、深さは三間(約5.4m)もあり、底はぬかるんでいる。南側の三好勢は堀越しに、北側の根来衆は木津川の支流越しに矢と鉄砲を射かけるだけで一向に土塁(どるい)にとり付かない。

 

膠着(こうちゃく)状態に業を煮やした義清は馬を降りて水堀に入った。一番馳(は)せである。だが、義清に続くものは誰一人としていない。義清は大音声(だいおんじょう)に名乗りを上げた。これを見た七五三兵衛は槍のような一間半(約2.77m)もある長い銛(もり)を掴(つか)むと最前線まで駆(か)けた。カジキを仕留める銛(もり)を砦に向けて渾身(こんしん)の力を込めて投げた。義清に銃口を向けて狙う門徒たちに放てと命じようとした頼龍をかすめて銛が後方の壁に突き刺さった。銛は5人の体を貫(つらぬ)いている。義清は砦の中で何が起こったのかは分からないが、七五三兵衛の姿を見てそれを察した。義清が上げた大声に従って沼間家の軍勢五百が堀へ飛び降りた。

 

これを見た大坂本願寺からは雑賀党(さいかとう)が突出してきた。雑賀党の鈴木孫市は上町台地際の一団(約一千の兵)に照準を合わせた。木津砦を攻めるために難波砂堆(なにわさたい)へ下った軍勢の後方に敵の総大将がいるはずだと考えたのだ。しかし、部下には天王寺砦に向け駆け続けるように命じた。一方の原田長政も雑賀党の来襲に気づいて、自ら雑賀党を殲滅(せんめつ)しようと考えた。6年前の信長がその射撃の術にさんざん苦しめられたことを知っているからだ。

 

先陣として木津砦を攻めるように直政から命じられた七五三兵衛は、直政の意図に気づいて、直政を守るために崖(がけ)の上を目指して馬を駆(か)った。しかし、七五三兵衛が五町(約550m)の距離まで追いついた時に直政の軍は雑賀党軍とすでに一町(約110m)に迫ろうとした。直政が三百人の鉄砲衆に射撃を命じた。最前列が百人、その後ろに二百人が二列になって控える信長の考案した三段撃ちであった。雑賀党はどういうわけか無言のまま整然と寄せて続けている。

 

直政にはそれが一年前の長篠(ながしのの)合戦で敵対した武田の騎馬武者たちのように見えた。その時、直政は三段撃ちを成功させた体験があるのだ。直政は勝利を確信して采(さい)を振った(采;指揮すること)。孫市はわずかに左手を動かすと、軍勢はたちまち陣形を変えた。そして、雑賀党の一千の銃口は轟然(ごうぜん)と火を吹いた。これに合わせて直政方の百の鉄砲も撃発(げきはつ)。凄(すさ)まじい白煙が薄れる中、直政が見たものは自らの鉄砲隊が全滅している光景であった。雑賀党はといえば、見慣れぬ三段構え(腹射、折敷、立射)での一斉射撃を終えて、次なる射撃に備えていた。しかも、直政の軍勢(最前列になった槍衆)をじっと見据(みす)えつつ、槊杖(さくじょう)で弾を銃口に押し込んでいるのだ。

 

直政は裏崩(うらくずれ、後方部隊の混乱)した自軍を押しとどめようとするが、騎馬武者までもが敗走する状況は止まらない。討ち死にを覚悟(かくご)している直政は采(さい)を振り続けたことが仇(あだ)になった。雑賀党軍から密かに離脱した孫市は、敵の軍勢から一町(約110m)ほど離れた草むらに身を伏(ふ)せて、采を振る敵の総大将に照準を合わせた。七五三兵衛が直正の姿を見出すと同時に銃声がして直政が馬上から吹っ飛んだ。七五三兵衛が飛びついたのだ。七五三兵衛はその特徴から狙撃手が孫市であると確信する。すぐさま直政の安否を確かめると、直政は見開いた目と目の間を撃ち抜かれていた。

 

七五三兵衛は総崩(そうくず)れにつながる退却(たいきゃく)をするのではなく、迫り来る雑賀衆へと駆け向かって行くとその兵も続いた。隊伍(たいご)を組んでひと塊(かたまり)になった雑賀衆軍に対して鶴翼(かくよく)の陣のように両側に広がった。七五三兵衛が軍旗を上げさせると驚いたのは孫市であった。眞鍋海賊は漁民が多い雑賀衆にとって恐ろしい相手である。臆病風(おくびょうかぜ)に吹かれた雑賀衆は勝手に鉄砲を撃ち始めた。距離を詰めた七五三兵衛は得意の銛(もり)を敵兵目掛けて投げると、銛は多くの兵を串刺(くしざ)しにしたまま孫市の足元までたどり着いた。

 

七五三兵衛が兵とともに切り込むと、狙撃(そげき)を主たる戦術とする雑賀衆はその弱みを露呈(ろてい)し、なす術(すべ)もない。孫市は遁走(とんそう)する兵とともに大坂本願寺に向けて奔(はし)りながら陣貝(じんがい)を吹かせた。七五三兵衛はこれを強がりと誤解して、大坂本願寺へ突入する勢いで追ったが、本願寺の土塁の裾(すそ)がゆっくりと動くと眞鍋の軍勢を目指して押し寄せた。本願寺内の一万二千といわれた軍勢がすべて突出(とっしゅつ)したのである。

 

雑賀衆軍を取り込んだ一万三千の大軍が「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の名号(みょうごう)を唱えながら怒涛(どとう)の反撃に出たのだ。七五三兵衛はわずか三百の兵で挑むことを即断した。これを見た義清は一番馳(いちばんはせ)を諦(あきら)めて、七五三兵衛の軍を救援に行くことにしたのだ。門徒たちは呆(あき)れるほど弱いことで七五三兵衛は侮(あなど)ってしまったが、死への恐怖心を持たない門徒たちの怖(こわ)さにやっと気づいた七五三兵衛は我知らず退(しりぞ)いていた。しかし、七五三兵衛は勇気を堅持し続けている。

 

そこへ義清の軍が参戦してきた。孫市は自軍の門徒衆に囲まれているため鉄砲が使えない。一方、触頭(ふれがしら)の義清に退却を強く求められたことと、他家を巻き添えにすることを避けたいと考えた七五三兵衛は止むを得ず退却することにした。自軍の兵が退却するのを確認した七五三兵衛は踵(きびす)を返し、義清も馬首を天王寺砦に向けた。孫市は織田方の軍を追う。あわよくば天王寺砦を落とそうと考えたのだ。七五三兵衛と義清の軍は敵の大軍から抜け出て脱兎(だっと)のごとく天王寺砦へと逃げた。

 

義清は上町台地上に埋伏(ふくまい、隠れること)させておいた二百の兵と退却する三百の兵を使い、交互に敵軍を矢と鉄砲で銃撃する「繰り引き」(注;二つに分けた軍団を順繰りに退却させること)を繰(く)り返した。これが奏功(そうこう)して、義清と七五三兵衛の両軍と木津砦を攻めていた軍のすべては本願寺軍が押し寄せる直前に天王寺砦に入ることができた。

 

七五三兵衛は義清が触頭に相応(ふさわ)しい人物だと思った。また、義清も七五三兵衛の泉州侍らしい大度(たいど、心の広いこと)に比べて自らの器(うつわ)の小ささを省(かえり)みて、泉州の触頭に相応しいかもしれないと思った。それは父の任世(ときよ)が危惧(きぐ)したことである。

 

孫市は一気に天王寺砦を落とせなかったことで深刻になった。一万余の大軍でも抑(おさ)えの人数を含めて天王寺砦にいる五千の兵を対抗するのは不足であったからだ。そして早晩織田信長がここに来襲することは確かである。信長と戦って一度は勝利を収めた孫市だが、その時は敵の背後を脅(おびや)かす味方がいた。今は本願寺だけが戦っている状態である。兵をまとめて本願寺と木津砦に戻って毛利家からの兵糧入れを待つしかないと考えた孫市は包囲を解いて撤退することを決断した。しかし、頼龍は猛反対する。

 

頼龍は秘策として「進まば往生極楽、退かば無限地獄」と書かれた軍旗をあちこちで揚(あ)げさせた。孫市はもはやどうすることもできない。土塁の上にいる景は頼龍の秘策に怒り、木津砦まで連れてきた門徒たちを連れ帰ろうと決意する。一方、京から駆けつけた信長は三千の兵を集めると天王寺砦へ向かった。二日後に轟音(ごうおん)が天王寺砦の中まで聞こえた。天王寺砦の東にあった若江城を出た信長は南下して砦の南西一里(約4km)にある住吉口から難波砂堆を北上したのだ。上町台地の坂を駆け上がって砦の南門を攻める門徒たちの背後からどっと襲い掛かった。

 

総大将の信長自身が先方の足軽たちとともに攻め込んだため、門徒たちは本願寺がある北を目指して逃げ出した。あと数日は来ないと考えていた頼龍は戦意を喪失。信長は踏み止まっている門徒の中軍へと突入しようとしていた。大将の着る陣羽織を身にまとった騎馬武者が発する猛気は砦にいる泉州侍にも分かった。土塁の上で見守る景は戦慄(せんりつ)している。信長はやおら腕を上げて北を指差した。指の先には大坂本願寺がある。孫市は頼龍をその兵たちに木津砦へ運ばせるとともに、中軍の門徒たちを大坂本願寺へ送り届けるため、雑賀党が殿軍しんがり)を務めることにした。大坂本願寺の城戸口まで退いて、敵に乾坤一擲けんこんいってき)の痛打を与えようとしたのだ。(続く)

2015年12月14日 (月)

和田竜著「村上海賊の娘」を読む(前編)

2013年に新潮社から出版された和田竜(りょう)氏の著作「村上海賊の娘」(上巻474頁、下巻499頁)を紹介します。同氏は1969年に大阪で生まれ、広島育ち、早稲田大学政治経済学部を卒業。2007年に「のぼうの城」で小説家デビュー、同書は単行本と文庫本で累計200万部を超えるベストセラーとなりました。本書は小説第4作となります。

 

上巻の見開きには次のキャッチコピーがあります。『ならば海しかない。頼るのさ、天下一の海賊に』『こんな面白いこと、他の奴にやらせてたまるか』『動揺する難波と瀬戸内海、景はむかう、波濤の先に何が待ち構えていようとも』

 

中表紙の裏には『村上海賊の娘』の舞台を示す全体図があり、大阪本願寺と難波、淡路国の岩屋城、伊予国(現在の愛媛県)に近い芸予諸島の因島(青木城)・能島(能島城)・来島などが描かれています。

 

その次のページには登場人物として、村上家では悍婦(かんぷ、気の荒い女)にして醜女(しこめ、容姿のみにくい女性)の村上家景(むらかみきょう)と景の父で能島(のしま)村上家の当主である村上武吉(たけよし)など、毛利家では小早川景勝(こばやかわかげかつ)など、織田方の眞鍋七五三兵衛(まなべしめのひょうえ)など、大阪本願寺では門主の顕如(けんよ)など。

 

                             ☆

 

≪上巻≫

 

序章>

 

江戸時代になって現在のように「大阪」と表記されるようになった「大坂」(一般に難波と呼ばれていた)が戦国時代に指し示す場所は一向宗本願寺派の本山、大坂本願寺(別名石山本願寺、石山本願寺城)しかなかったとの解説から本編が始まった。

 

戦国時代、天正4年(1576年)4月半ばの未明、紀州(和歌山県)雑賀(さいか)の鉄砲傭兵(ようへい)集団、雑賀党の首領(しゅりょう)、鈴木孫市(まごいち)は、大阪本願寺の城壁を思わせる塀から外を見渡し、眉間(みけん)の皺(しわ)を深くした。大坂本願寺11世門主、顕如(けんにょ)に会わなければならないと思ったのだ。門跡(もんせき)に列(れっ)せられた大坂本願寺は信長と足掛け7年も戦を続けていた。「石山合戦」と呼ばれる戦は、大坂本願寺の立地が西国の押さえとする城に最適であることから、詳細は明らかではないが信長が寄進せよと命じた、あるいは事実上そうせざるを得ない状況に追い込んだとされる。

 

孫市が顕如に合わなければならないと考えた理由は、信長が大坂本願寺とは目と鼻の先である天王寺に砦を築いていることを伝えるためだった。信長は野田(本願寺西方4km)・森口(同北東約5kmの守口市土居町)・森河内(同東約3kmの東大阪市森河内西)に続く砦の建設である。その状況にあって大坂本願寺が頼ったのがつい先日孫市が率いて大坂本願寺に入った雑賀衆一千である。

 

大坂本願寺側にも砦がいくつも築かれていた。そのほとんどは大坂本願寺がある上町(うえまち)台地と並行する難波砂堆(なにわさたい)上に南北に連なる村々の中に築かれている穢多崎(えたがざき)砦・難波砦・三津寺(みつてら)砦・木津砦である。門徒を合わせれば一万五千の大軍勢が大坂本願寺を護(まも)っているのだ。である。天王寺砦は木津砦の東方2kmの上町台地上(西の端)に勃然(ぼつぜん)と現れたのだ。

 

孫市は門跡である顕如に意外なことを言い放った。『門跡、この大坂の地を捨てよ。信長へと譲ってやるのじゃ』と。天王寺砦を一気に攻め落とすことを進言する顕如の補佐役である下間頼龍(しもづまらいりゅう)に向かって孫市は、その一万五千が我らを殺すのだ。いや女子供を勘定に入れれば五万の門徒が我らを殺す。戦は必ず長引く。すでにして信長は兵糧(ひょうろう)攻めに出ておるのだ』と理由を説明した。

 

しかし、大坂本願寺を護(まも)ろうとする顕如を翻意させることができないと知った孫市は『ならば海しかない』と言う。孫市は、兵糧を確保するためには兵糧と船を確保するために、将軍足利義昭が信長に敵対するよう求めているはずの毛利家と船を所有する村上海賊を味方につける策を顕如に説明し、『直ちに毛利家へと使者を発し、村上海賊を味方に付けられよ』と吠(ほ)えるように言った。

 

第一章>

 

毛利家の当主、毛利輝元(てるもと)がいる郡山城(こうりやまじょう)の本丸屋敷へ向かう毛利家の重臣で小早川家の当主、小早川隆景(こばやかわたかかげ)は頭を抱えていた。『本願寺を救うべきか、否か』についてである。本丸の広間では上段の間にいる輝元と大坂本願寺の使者吉兵衛が対面した。下の広間では上座にいる小早川隆景とその兄である吉川元春(きっかわもとはる)が吉兵衛を見据(みす)えていた。

 

万が一織田方に知られた場合のことを考えて兵糧(ひょうろう)の量を書状に書かず、大坂本願寺の使者であり吉兵衛が毛利輝元へ直接伝えることにしたのだ。隆景に急かされた吉兵衛が十万石であると伝えると元春以下の重臣たちはどよめきの声を上げた。信長から敵視されることが確実な量の兵糧であるからだ。返答を求める吉兵衛を無理やり下がらせた後、重臣たちによる評定(ひょうじょう)が始まった。

 

大坂本願寺に味方するには上杉謙信(けんしん)も味方することが必要であると主張する隆景に対し、他の重臣が反論したため膠着(こうちゃく)状況に陥(おちい)った時、元春が積極策を主張したことで流れが変わった。輝元が裁可(さいか)したことで、十万石を運ぶ手筈(てはず)に移った。毛利家直属の水軍の長、児玉就英(こだまなりひで)と隆景に無理矢理同行してきた小早川家水軍の乃美宗勝(のみむねかつ)の論争となった。

 

眉目秀麗(びもくしゅうれい)で武辺も備わっている就英は毛利家と乃美家の両水軍が協力すれば可能だと主張したのだ。宗勝は『この策では不可能だ』と一蹴(いっしゅう)する。気色(けしき)ばむ就英に気を留めず宗勝は続ける。『例え十万石が積めたとしても警護の船なしで運べるわけはない。村上水軍に頼ればできる』と思いもよらないことを言い出した。万座には一種異様な空気が流れる。

 

重臣たちも村上水軍のことはよく知っている。毛利家と因縁深い海賊なのだ。毛利家に便宜(べんぎ)を図っていた村上武吉はにわかに九州北部に勢力範囲を持つ大名の大友宗麟(そうりん)へと鞍替(くらが)えしたことを咎(とが)めた毛利家が武吉の居城、能島(のしま)城を5年前に攻め寄せてたが、毛利家は和議に持ち込んだものの多大な犠牲を払ったことがあるのだ。宗勝は武吉を口説けると自信を示した。景勝は武吉が毛利家の依頼を断ってくれることを願うしかない。

 

宗勝は就英とともに船団を率いて能島(のしま)に向かう。村上武吉と戦った厳島(いつくしま)合戦を懐(なつ)かしく話す宗勝に就英はそっけない態度である。武吉の人となりや後継者たるべき人材が息子たちの中にいないという話になってもさしたる関心を示さない。しかし、武吉の海賊らしい剛勇と荒々しさを引き継いだのは女子であったと聞くと急に興味を持ったようだ。

 

因島(いんのしま)の関を破った廻船(かいせん、貨客船)追ってきた因島村上家の当主、村上吉充(よしみつ)がそれ以上追うのを止めて宗勝と就英に声をかけた。能島村上の領分に入ったのだ。就英が廻船を刮目(かつもく)する傍ら(かたわ)らで、吉充は『我ら因島村上に捕らえられた方がどれだけましか』とつぶやいた。その言葉通りの事態が廻船を待ち構えていた。

 

能島村上家当主、村上武吉(たけよし)の娘、景(きょう)姫が関船に乗って現れた。長身と長い首に乗った小さな頭もさることながら、その容貌(ようぼう)はさらに異様である。廻船の頭領は関を通っていないとことと病人を運んでいると偽(いつわ)るが、景(きょう)はそれを見破る。統領の手下たちは景に襲いかかっるが、あっという間に切り捨てられたため、頭領は平伏した。そして、頭領とその手下たちは景の指示により全員の額に焼印を押されてしまう。船倉に押し込められていた数多くの農民たちは解放された。(中略)

 

村上武吉は本丸屋形の広間で毛利家の正使一行を迎えた。乃美宗勝は武吉に向かって親しげに挨拶(あいさつ)の言葉を掛けながら下座の中央に胡座(あぐら)をかいた。一方の就英は『先触(さきぶれ)の者に持たせた書状は読んだか』と激しい調子で詰問(きつもん)するが、武吉は子供を諭(さと)すかのように柔らかな笑みを浮かべている。そして、宗勝の言葉には諾(だく)とも否(いな)とも返答せず、表情を変えずに宗勝の言葉をなぞるだけである。

 

宗勝の言葉が尽(つ)きた時、武吉は『上杉謙信が味方しないときはどうするのか』と問い返した。『毛利家は兵糧入れを断行する』と宗勝が返答すると、『隆景もその意向か』と隆景の考えを見抜いていることをほのめかす。そして、唐突(とうとつ)に就英に向かって独身であることを確かめた上、嫁を軍船に乗せないとの言質(げんち)をとると、『決めました。御味方しよう。だが、条件がある。我が娘、景を、児玉就英殿に輿入(こしい)れさせたい』という。しかし、就英は『断る』 との言葉とともに憤然(ふんぜん)と席を立った。

 

これを廊下で立ち聞きしていた景は慌(あわ)てた。就英と鉢合(はちあ)わせすることになるからだ。廊下を駆ける景は就英に追いつかれた。就英は、断った理由は美醜(びしゅう)による判断ではない、条件の出し方が気に入らなかったからだと告げる。就英の大声は近くの部屋にいた景が連れてきた農民たちにも聞こえてしまった。兵糧をいれるために大坂本願寺へ行こうとしていた一向宗(いっこうしゅう)の門徒(もんと)たちである。一人になりたいと思って入った部屋で景はその農民たちから大坂まで上乗り(うわのり、同行すること)を頼まれ、ついには引き受けてしまう。

 

郡山城へ戻った宗勝と就英は武吉が出した条件を重臣たちに報告した。就英が断ったと聞いた隆景は内心安堵(あんど)する。先の会議と同じような論議が続くなか、元春は就英に向かって『おのれは嫁を貰(もら)うに美醜を問うか』と挑(いど)むような目で睨(にら)んだ。元春の正室は思わず見返してしまうほどの醜女(しこめ)であることを知る隆景はとっさに身構えた。元春が醜女を妻に選んだ理由については就英も子供のころから繰り返し聞かされた話である。景に美醜は問わぬと言ったことにはこの背景があった。元春の作戦勝ちである。重臣たちが視線を就英に集中するなかで就英は『毛利家の安泰のため景姫をもらう』と叫んだ。当主の毛利輝元は「重畳」(ちょうじょう、大変喜ばしいの意 )の一言で評議をしめくくった。兄元春の豪胆さにやられた隆景は「ならば最後の手段に出るほかない」と密かに意を決した。

 

第ニ章>

 

景(きょう)たちが乗る廻船(かいせん)は瀬戸内海を東へ航行して塩飽(しわく)諸島の本島で給水したあと小豆島(しょうどしま)と淡路島(あわじしま)に挟まれた播磨灘(はりまなだ)に入った。能島(のしま)を発ってから6日後のことである。さらに淡路島と明石平野の陸地が接近する明石の瀬戸を抜ける。淡路島の最後北端にある岩屋城は毛利家直属の水軍、すなわち児玉就英配下の武将たちがすでに接収していたが、能島村上家の船と知り通行を認めたたことで、明石の瀬戸を通り過ぎた関船は難波海(なにわのうみ)、現在の大阪湾に入った。

 

土地が一段高くなったところに大坂本願寺が見え、その右手には堺の湊(みなと)も見える場所に差し掛かった時、二艘(そう)の巨大な船が現れた。安宅(あたか)と呼ばれる最大(長さ約50m)であった。海賊の船に違いないと考えた景がそのまま関船を進めたため、廻船は二艘の安宅に挟(はさ)まれる形になった。大坂本願寺を攻める織田軍に従う泉州の海賊、眞鍋家の家中であった。乗り合わせた織田家の侍に言われて景は安宅に乗り込むが、その侍は不意打(ふいうち)ちで景に斬りかかった。しかし、景(きょう)に首をはねられてしまう。侍が海賊の定法を蔑(ないがし)ろにしたから討ち取ったという景に、眞鍋の兵はどっと歓声を上げた。

 

織田家の侍の首をはねたことで眞鍋家の当主、眞鍋七五三兵衛(しめえもん)は難しい状況に置かれたことに気がついた景は、門徒たちを大坂本願寺へ送り届けたあと、織田方の総大将原田直政がいる天王寺とりでに出向いて事の顛末(てんまつ)を説明するという。そこへ弟の景親が乗る関船が追いついてきた。景は経緯(いきさつ)を知らない弟を人質に残して景は大坂本願寺へ向かう。

 

天王寺砦(てんのうじとりで)に到着した眞鍋七五三兵衛は総大将原田直政による評定(ひょうじょう)に参加する。大広間には36人の泉州侍(豪族)を始め織田信長に従う五畿内(近畿地方)の大名や豪族が集まっていた。評定が始まってほどなく、眞鍋七五三兵衛は原田直政に向かって馴れ馴れしく言葉を発した。評定のあとに伝えたいことがあるのだ。何事かと思った直政に問われて難波海での出来事を洗いざらい吐(は)き出した。

 

姉の到着を待つ景親は気が気ではなかったが、やっと景が天王寺砦に到着。景は申し開きの場に向かうが意外なことに、原田直政の館ではなく眞鍋家の大広間に案内された。そこでは何と泉州侍が全員集まって酒盛りをしている。実は、七五三兵衛から話を聞いた長政は京にいる信長の元へ使者を出して報告し、景を見逃がすことで一件落着とすることの許しを得ていた。村上武吉を味方に引き入れようと考えていた信長は家臣一人のことで村上海賊とことを構えることを避けたのだ。信長が総大将を任せたほどの男である直政は景に無礼を詫(わ)び、門徒の通行を許した七五三兵衛もお構(かま)いなしとされた。(続く)

2015年12月12日 (土)

靴を自ら修理する!

同居者がデパートの靴修理店で直(なお)してもらったばかりの靴を2足差し出しながら、『これ、直(なお)るかしら』、と聞くのです。そして、修理してもらった3足はいずれも踵(かかと)を交換してもらっただけと状況を細く説明しました。『あれこれ頼むと高くつくから、店員さんには言わなかったのよ。でも、踵が直ると気になるのよね』ともいう。以前、私が自分の靴を何度も直したことと最近同居者のスニーカーを直したことを覚えていたのです。

                             ☆

 

数年前に購入した靴が気に入った私はフォーマルな場所以外ではその靴を履(は)き続けてきました。街歩(まちある)きはもちろん、ハイキングにも十分使えるしっかりした靴なのです。そのブランドは"CAT "、製造したメーカーは建設重機などで世界一の米・キャタピラー(CATERPILLAR)社であることを購入した後に気づきました。 

 

長年愛用したことと私の歩き方に癖があるため踵(かかと)が不均一にすり減ってしまいました。普段履きですから料金が結構高い靴修理には出さないで自分で直してみたくなり、ネット検索で調べるとアマゾンが販売する修理キットがあることが分かります。その名も「かかとタフ」。早速、購入を申し込みました。数日後に届いたパッケージには半月形をした合成ゴム片が2枚と専用接着剤、および取扱説明書が含まれています。

 

A3サイズで作業用のシートにもなる説明書を広げました。そこに記載された簡単な手順にしたがい、まず靴の踵を水洗いして乾燥させ、「かかとタフ」の接着面に専用接着剤を均一に塗り、すり減った踵の部分に強く押し当てて1分ほど待つだけです。あっという間に作業が終わりました。位置合わせを十分行ったつもりでしたが、修理後の外見(仕上がり)はイマイチ、実用性に徹した修理キットでした。

 

それから1年ほどが経過するころには修理した踵のすり減りが再び気になり始めました。見栄えも良くし上がる修理キットを探すことにしました。そして、見つけたのが靴底補修剤「セメダイン シューズドクターN ブラック HC-003」です。効能書きには、「かかとのすり減りだけでなくはがれたときの接着剤としても使用できます。シンナーを全く含まないので室内でも、いやなにおいがありません。ブラック・ホワイト・ブラウンの3色のラインナップ。硬化後は塗装ができ、微妙な色あわせも可能です」とあり、中級者以上を対象とする修理キットのようです。物は試しとばかりに購入しました。

 

指定された修理方法をしっかり読んで、その指示に従いました。歯磨きのようなチューブからペースト状の黒い物質を押し出して、付属するプラスチック製のヘラで靴の踵に塗り広げました。注意書きには1回当りに塗る厚さは2mm以下とし、固化するまで24時間待つよう指示されています。また、踵からはみ出さないように付属するポリ板(ポリエチレン製の補助シート)を使うと修理後の踵の形がきれいに仕上がるとのこと。慣れるとそれほど難しい作業ではありませんが、手などに付着すると取れにくいため毛染めなどで使うプラスチック製の手袋を使用すると良いでしょう。そして、シンナーを含まないと言っても、固化するまでは独特の匂いが残ります。 

 

修理結果に十分満足してしばらく履いていると別の部位に不都合が生じました。今春、旅行先で踵の部分とつま先部の靴底が一部はがれてしまい、歩くたびに靴底が音を立てるのです。旅行中はどうすることもできません。帰宅してからシューズドクターNを使ってはがれた部分をしっかりと接着しました。念のため24時間放置するとしっかり接着できたようです。外見からは修理したことはまったく分からない上々の仕上がりになりました。

 

                              ☆

 

同居者がデパートの靴修理店で直した靴について指摘したポイントは2つ。一つはウエッジソール(靴底が平らなハイヒール)のサイドに貼り付けられたコルク状の表面処理部を階段にぶつけたため、一部が剥()がれかけていることです。これは木工ボンドを使えば簡単に修理できるはずです。ポイントは少し変形して凹凸ができたコルクのシート片を元どおりに整形することです。そこで思いついたアイディアは、セロファンテープで固定した上で、テープの上から表面がスムーズになるように抑えて形を整える方法です。狙い通りにきれいに仕上がりました。

 

もう1つはかなり難しい修理になりそうです。エナメル仕上げのハイヒールはつま先部分にすり傷がついて下地がのぞいているのです。どうしたのかと訊(たず)ねると、ドライブに出かけた時に予定にない山登りをさせられて生じた傷跡だというのです。つまり、責任の所在は私であると言うのです。これでは直すしかありません。作戦を立てました。色が黒いエナメルと同じ黒色の万能の靴修理剤「シューズドクターN」を使ってつま先部の傷を埋めるとともに防水処理を行うことにしました。一石二鳥の妙案です。その上から透明マニュキアを塗れば艶出しの効果があるはずです。

 

しかし、ここで予期しない事態が発生しました。「シューズドクターN」がチューブ内でほとんど固化していたのです。1か月前に同居者のスニーカーの靴底を修理する際に「シューズドクターN」を使用した時は、キャップ(取り出し口)付近が固化していたため、チューブの下部からペースト状のものを絞り出しました。その後、しっかり封をしたつもりでしたが・・・。万事休すですが、諦(あきら)めないで次善策を考えるのが私の性癖(せいへき)です。つま先の傷ついた部分は下地が健在ですから、「シューズドクターN」の代案である木工ボンドで傷跡を埋めることにしました。爪楊枝(つまようじ)を使い木工ボンドを慎重に何度も塗り込んで表面がほぼ平らに整形し、十分固化した後、マジックインキで黒く塗り、さらに透明マニュキアを重ね塗りしてすべての作業が終わりました。

 

仔細(しさい)に見れば修理したことは分かりますが、履()いていれば誰にも気づかれることはなさそうです。同居者も仕上がり具合(ぐあい)に満足してくれたようです。これをもって私は十分罪滅ぼしをしたと考えることにしました。同居者もそう思ってくれるかは疑問ですが・・。少なくとも私の靴修理技術はまたステップアップしたことは間違いありません。
 
<同居者のコメント> 私の靴をきれいに直してくれてありがとう。気に入ってる靴ですから、もうしばらく履き続けたかったのです。もちろん、旦那様の古い靴もずっと気になっていましたが、今年の秋になってやっと新しい街歩き用の靴を買うことを承知してもらいました。旦那様が興味を示したのはヨネックス製のウォーキングシューズです。衝撃吸収材にパワーショックを使ったとても軽い靴で、普通の靴ひものほかにロック式のファスナーが目立たない場所(内側)についていますから、歩くときはもちろん、履くときにもとても便利だと思います。それにくわえて撥水(はっすい)性もあります。これで当分は安心です。

2015年12月 8日 (火)

「どうして自分だけは?」

昨日(12月7日)、12時55分からワイドFMの本放送が始まりました。試験放送の最終曲として流れたクラッシク音楽(AM放送では社長の挨拶とカウントダウン)に続いて、本放送の冒頭を飾ったのは在京民放ラジオ局(3局)が協力した同時生番組「FMでもキキマス!ゴールデンたまむずび」(13:00-15:30)でした。もちろん、AM放送とのサイマル(同時)放送。
 
2015_12070009先の記事で紹介しましたように、試験放送が始まってからしばらくは時間限定で音楽とステーションコールだけが流されていましたが、11月下旬から古いスペシャル番組の再放送に変わりました。
 
そして、本放送ではAM放送とまったく同じ番組がサイマル放送として流され始めています。ちなみに、ワイドFMはアナログ技術を利用していますから、インターネット経由で配信される「ラジコ」のように遅延(時間的な遅れ)はありません。しかも、FM放送と同等レベルの高音質(雑音がなく低音から高音まで忠実に再現するHiFi、かつ番組によってはステレオ)で楽しむことができるのはうれしいことです。そして、ラジコとは違い、時報も流れるのです。

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前回は触れませんでしたが、わが家に地デジ放送を配信しているケーブル会社は他のFM放送のように「ワイドFM」を再送信していません。やむを得ず自作の簡易アンテナを窓際に設置してFM電波を直接受信しています。見栄えはともかく(一応、レースのカーテンで目立たないようにしてある)、強電界エリアですから簡易アンテナであっても受信電波の強度は十分のようです。ちなみに、私が自作した簡易アンテナは75オームの同軸ケーブルの一端にF型コネクターを接続し、他の端には長さ90cmのコード(2本)を中心導体および外部導体のそれぞれに半田付けしてT字型(竹とんぼのよう)に広げただけのものです。
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私の作業部屋の窓は「ワイドFM」の送信所がある東京スカイツリー方向とは少しずれていますが、簡易アンテナの緩やかな指向性がカバーしてくれそうです。右側の三枚の写真は上からTBSラジオ(90.5MHz)、文化放送(91.6MHz)、ニッポン放送(93.0MHz)の受信状況で、いずれもステレオ・モード(周波数表示の左隣にある赤い表示)になっています。ちなみに、スピーカー出力は疑似サラウンドに設定してあります。


これからはAM放送をTPOに合わせて「クラッシク型ラジオ受信機」「オーディオセット」「カーラジオ」そして「ラジコ」のいずれかで楽しみたいと思います。
 
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「ワイドFM」の受信体制整備が一段落したところで、年末の恒例である私の仕事場の大掃除(おおそうじ)と毎日使用してゴミが溜(た)まったパソコンについてもファイルを整理することにしました。そして、数年前のメモ書きを見つけました。さしたる意味はありませんが、箸休(はしやす)めの記事としてそのメモの抜粋(ばっすい)を投稿することにしました。唐突(とうとつ)なテーマですが、最近投稿した「人生の目的を考える」で書いた記事と重なる点がある内容です。そちらの記事も併せてお読みください。

 

                            ☆

 

人は折に触れて思うようです。「どうして自分だけが上手く行かないのか?」と。

何故(なぜ)でしょう。上手く行く方法を知ることはそれほど難しくはないのですが、逆に上手く行かない理由は案外分かりにくいと思います。それはあなた自身がその主にとなっていることが多いからです。あなた自身が自分のやりたいことを実現させる邪魔(じゃま)をしているのです。

 

「運が悪かった」あるいは「誰かが邪魔をした」などの理由付けはいくらでもできます。

しかし、そんな理由づけをしても何の役にも立ちません。

あなたは本当に上手く行かせたいのですか?

上手く行かないことが腹立たしいのですか?

上手く行かない理由をどこまで突き詰めて考えましたか?

 

ほとんどの場合は、あなたの考え方そのものが上手く行くことを妨(さまた)げているのです。

『そんな馬鹿(ばか)なことは!』と思う人が多いでしょう。

自分は全力を傾けて努力しているに。

あらゆる可能性を考えているのに。

 

しかし、実際のあなたは自分自身のことをほとんど考えていないのかも知れません。

それでは自分のことを考えないとはどういうことでしょうか。

人は自分に都合の悪いことは考えないようにしている、あるいは考えたくないと思っているのです。

(注)2-3か月前に投稿した「人生の目的」を考える記事で触れた「幼児期万能感」もあるのかもしれません。

 

もっと自分と対話してみましょう。

もっと自分にとって不利益なことを思い描いてみて下さい。

これは決して悲観主義ではありません。

むしろ積極的な考え方なのです。

そうすれば、自分のことがこれまでよりも理解できるようになるでしょう。

 

                            ☆
 

抽象的(ちゅうしょうてきな)な説明では理解できないという方があるでしょう。そこで、私の考え方を少しでも理解していただくため、その背景となった私の半生をあえて披露します。これまでの記事では断片的にしか紹介してこなかったことです。
 
今になって思うと、私はずいぶん「我侭(わがまま)な人生」を送って来たと思います。しかし、それと同時に自分を客観的に、あるいは第三者の視点から、眺(なが)めていたと思います。これは、少年時代に音楽や演劇に打ち込んでいたことが影響しているかもしれません。つまり、私にとっての「我侭」とは自分との徹底的な対話によって自分の「心」と論争することで方向を見出すことだったと思うのです。
 

 

自分の欲求を実現したいとの想いだけでは真の「我侭」(他人に迷惑を与えることを気にしないこと)とはいえません。それは単なる「気まま」(他人に気兼ねしない自由な振る舞いのこと)でしかありません。そして「我侭」を通すに値することは人生において滅多にないのです。多くても数年に1回くらい、たぶん人生の重要な決断をする機会(2-3度)だけでしょう。人生には進学、就職、結婚、仕事上のキャリア選択などいくつものターニングポイントがあります。 

 

その時にどのように考えるかが大事だったと思います。進学と就職では不思議なくらいに私の希望が叶(かな)いました。高校と大学は自らの学力レベルに応じた学校だけを受験して順当に(幸運なことに?)一発合格、しかも7年間にわたって奨学金の支給を受けることができました。受験においては設定した目標水準に向けて必要・十分な努力をしただけですから、あえて「我侭」というには当らないと思います。

 

就職では私の我侭(わがまま)が前面に出ました。それは、教授から推薦された関西で最大の家電メーカーではなく、会社見学で訪れて興味を持った関東の情報通信機器メーカーを選んだことです。当時としては、掟破(おきてやぶり)の行為でした。入社した会社では入社前に期待した通りに開発技術者として充実した数年間を過ごしました。しかし、連日深夜におよぶ無茶な勤務態度が祟(たた)ったのか、4年目には内臓疾患(しっかん)で緊急手術を受けることになりました。しかも、再発した5年目に受けた2度目の大手術では不運なことに輸血による血清肝炎に罹(かか)ってしまい、半年近く田舎(いなか)で療養生活を送ることを余儀(よぎ)なくされたのです。

 

順風満帆(まんぱん)と思われた私の社会人生活の序盤(22-27歳)に都合8か月も長期療養休暇をとったことは、同輩たちに1年近い後れをとったことを意味すると思われ、ずいぶん落ち込みました。ただ安静にしているだけの無為(むい)な日々を過ごすことは私にとって初めての挫折(ざせつ)体験でした。しかし、私の体調を心配してくれた上司が私に別の機会を与えてくれたのです。マイペースで仕事ができる社外の研究機関への出向です。当初は落伍(らくご)者としての人生が始まったと曲解(きょっかい)した私でしたが、その研究機関で新しい世界の存在を知ることになったのです。2年間の研究活動はもちろんのこと、他社出身の優秀な人たちと交流することで様々なことを学びながら見聞を広めることができたことは望外(ぼうがい)のことでした。 

 

研究活動の2年目はさらに研究に没頭(ぼっとう)しました。しかも、その年には海外研修も予定されており、私の期待は膨(ふく)らむばかりでした。しかし、「好事魔多し」の諺(ことわざ)通り、前年秋に発生した第1次オイルショックによる経費節減の煽(あお)りを受け、その研究機関が毎年2年目の出向者を対象として行っていた海外研修を突然中止したのです。諦(あきら)めきれない私はなけなしの預金を叩(はた)いて自費で出掛けることにしました。幸いなことに、出向先の研究機関と出向元(所属会社)の人事部門から3週間の長期休暇を取得する許可を得ることができました。それは「不良社員」と紙一重の行動だったと思いますが・・。そして、その欧州旅行は私の視野を世界へと広げるきっかっけになったのです。まさに、『人間(じんかん、にんげん)万事塞翁(ばんじさいおう)が馬』(人生における幸不幸は判断しにくいの意)でした。 

 

復社時の私はふたたび我侭(わがまま)さをいかんなく発揮しました。人事面接の場で私は国内向け開発担当から海外向けのビジネス部門(SE的な仕事)への移籍(異動)を希望したのです。そして、理解と温情に溢(あふ)れた幹部と上司の計(はか)らいでその異動が叶(かな)えられました。私が望んで移った新しい職場では、開発担当とは別の種類の遣り甲斐(やりがい)と充実感がありましたが、同時に数え切れない困難やトラブルに遭遇(そうぐう)し、時には大失敗をしでかしてしました。それらの原因と発生場所はさまざまで、日常茶飯事(さはんじごと)なことは数多くのライバル企業との熾烈(しれつ)な技術競争と情報戦、市場環境の激変によるビジネス構造の変質、予期しない製品開発の遅れや計画変更、また現地でのシステム障害および顧客が所有する既存システムとの不整合など多種多様。 

 

中には違約金として天文学的な(あるいは巨額な)金額を要求された大型プロジェクトが何件もあり、顧客対応策を考えて眠れない夜もしばしばでした。しかし、「その一つひとつに正面から取り組んだこと」「社内の上司・同僚から支援があったこと」「顧客と真摯(しんし)話し合い、協力することで解決策を見出したこと」でいずれも乗りきることができました。それらの具体的な内容をここで明らかにすることはできませんが、池井戸潤氏の「半沢直樹シリーズ」「ルーズベルト・ゲーム」「下町ロケット」などに登場する困難やトラブルにも似たスリリングなものでした。そして、困難な問題の解決を見届けることができたことも幸運であり、充足された30年にわたる海外ビジネス体験だったと思います。
 

今振り返ると、私は多くの人たちから支援・応援されてきたことがよく分かります。深く感謝しています。中には、私が今も気づいていない形で私を支えてくれた人たちがいらしたかもしれません。当ブログで3年前に紹介した百田尚樹氏の時代長編小説「影法師」の主人公名倉彰蔵(なくらしょうぞう)と自分の体験とが多くの点で重なり合うことに驚いたことがありました。
 

そして、私の「我侭(わがまま)」をあえて比喩(ひゆ)で表現すると、『觔斗雲(きんとうん、筋斗雲)で飛び回っても釈迦如来(しゃかにょらい)の手の平から飛び出せなかった孫悟空の慢心(まんしん)』と似た行為だったのかもしれません。

 

教訓めいて恐縮ですが、私が学んだことを順不同で列記します。

 

 自分自身が真に納得できたことであれば相手もいつかはそれを理解してくれる

 

 自分の思い込みや思惑(おもわく)に基づいて言い張ってはいけない

 

 苦し紛(まぎ)れで言い逃(のが)れする策は事態を悪化させる

 

 虚心坦懐(きょしんたんかい*)で相手とトコトン(徹底的に・最後まで)話し合うことが最善策

   *何のわだかまりもないすなおな心

 

 そうすれば、所属部門や企業あるいは国籍(言葉)の違いによる壁を乗り越えられる

 

 実は、あなたが色々考えているように(あるいはそれ以上に)相手も考えていることが多い

 

 その時、相手を言い負かそうとすれば、相手に言い負かされることになる

 

 自分は自らの力だけで生きているのではなく、多くの人たちのお蔭(かげ)によって在(あ)る

 

                            ☆

 

閑話休題(かんわきゅうだい)。私は、ひとつの企業において過ごした40年近い期間に重(かさ)ねた失敗体験を通して多くのことを学ぶことができましたが、その帰結(きけつ)が最初に述べた考え方なのです。そして、私の「我侭(わがまま)な人生」は多くの人たちに生かされてきた時間でもありました。今はとても感謝しています。自分を知ることは「言うは易(やす)く行なうは難(がた)し」ですが、自分の目標を目指して日々努力する間に、本当の自分が徐々に見えてきたことは確かだと思います。
 
しかし、もっと厳(きび)しい目で自分の半生を振り返ると、成功体験を重ねるにつれて「失敗を恐れる気持ち」が徐々に醸成(じょうせい)され、50歳が近づくころには「我侭」(新しいことへのチャレンジ)がなくなっていました。そして、「ガラスの天井」(それ以上には昇進できない障壁)に似たものを自らの中に創(つく)り出してしまったようです。まさに、これは私の限界を生じさせた「成功体験のジレンマ」を如実(にょじつ)に示すものでした。
 
もし、私の考えに興味をお持ちになった方は身近なところから実行してみてください。そうすればその効用を少しずつ実感していただけると思います。万一失敗したとしても、その経験のフィードバックがあなたをより良い方向に導いてくれると私は確信しています。
 

そうはいっても、『そんな曖昧(あいまい)なことは信じられない』 と思った方には何の役に立たないアドバイスだったかも知れません。本稿は、読まなかったことにして、すべてお忘れになってください。

 

                            ☆

 

<コメント> 本稿の大半は長年勤務した会社を定年退職して1-2年後に書いたメモ集から引用したものです。旅行三昧(ざんんまい)で暮らしていた私に別の会社から社員教育の臨時講師の仕事が舞い込んだ時、自分の半生(はんせい)を振り返って、若い世代への餞(はなむけ)の言葉を考えようとした時に書きつけた忘備メモでした。残念なことに、このテーマで新入社員あるいは若手・中堅社員たちに話す機会はありませんでしたが、講義の中や提出されたレポートへのコメントの形でそのポイントだけを適宜(てきぎ)伝えてきました。今になって読み返すと、人生の終盤が近づいたとの認識が生まれ始めたためか、感傷的な考え方と文章表現が目立ちます。

2015年12月 3日 (木)

今コメダ珈琲店が注目される理由!

シューズを修理に出したいという同居者にアッシー君として同行しました。靴修理店が入る最寄りのデパートがオープンするまでの時間を利用して近くの「コメダ珈琲店」で遅めの朝食です。これも彼女の希望でした。最近、テレビ番組で取り上げられることが多い「コメダ珈琲店」に一度行きたいと言うのです。午前8時半を過ぎて到着した「コメダ珈琲店」の駐車場はすでに3割ほど埋まっていました。

 

店内に入ると、『お好きな席へどうぞ』と案内されました。朝日が差し込む窓際を避けて、中ほどの2人掛けテーブルに着席しました。ログハウス風に天井の木材がむき出しになったカジュアルで落ち着いた雰囲気の店内には、男性の一人客や年配の夫婦がまばらに座り、それぞれの時間をのんびり楽しんでいるようです。待つことなく店員さんがコップに入った水とお絞(しぼ)りを持参し、『お決まりになりましたら席の横にある呼び出しボタンを押してください』との言葉を残して我われのテーブルを離れました。顧客を迎える手順はマニュアル化されているのでしょうが、不自然さやぎこちなさをまったく感じさせません。年齢がやや高めの女性店員が多いことがその様に感じさせるのでしょう。
 
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メニューの全体を表示する3枚に折りたたまれたグランドメニューとカテゴリー別でしかも表裏を使ったシート状のメニューがテーブルの脇に数枚立てかけてありました。これもファミレスとほぼ同様ですが、シート状のメニューは季節限定品を自在に追加変更するための工夫でしょう。メニューをあれこれ眺(なが)めた後、同行者は蜂蜜オーレウインナー(520円)とモーニングとして無料で提供される「名古屋名物おぐらあん」(トーストはバターとジャムのいずれか)に加えて「ミニサラダ」(200円)を注文し、朝食は軽めと決めている私は基本メニューのレモンティー(420円)と「定番ゆで玉子」の組み合わせを選びました。2人でこれだけ頼んでも計1140円にしかなりません。ここでプチ薀蓄(うんちく)です。玉子は調理した「たまご」を意味する時に使い、卵は調理前(あるいは調理していないもの)を指す言葉です。したがって、「ゆで玉子」と「卵かけごはん」と使い分けるべきなのです。
 
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同行者は入口のショーケースに飾られていた「コメダ珈琲店」の看板メニュー「ノワール」(フランス語で「黒」を意味する言葉ですが、コメダ珈琲店では黒っぽいデニュッシュパンにソフトクリームを載せたシロップをかけたものを指します)に興味を示しましたが、そのボリュームの大きさから朝食には無理と判断したようです。後で知ったことですが、店によってはミニサイズもあるようです。
 
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「モーニング(モーニングサービス)」とはコーヒーや紅茶などの飲み物を頼むだけで、トーストとゆで玉子などが無料で付いてくるサービス(開店時間の午前7時~午前11時)です。名古屋市を中心とする東海地方や大阪市などで見られるユニークなサービスです。「コメダ珈琲店」を紹介した最近のテレビ番組では喫茶店の利用が多い都市順位では名古屋市が断トツの1位で、同じ東海地方にある岐阜市が2位、そして大阪市が3位とのこと。一方、首都圏(あるいは関東地方)では珍しいサービスで、名古屋市発祥の「コメダ珈琲店」(チェーン店)など限られた喫茶店だけがこのサービスを提供しているようです。「朝マック」や吉野家の朝食である「朝ごはん」「朝定食」にとっては強敵と言って良いでしょう。

 

しかし、「コメダ珈琲店」に特別なメニューがあるわけではありません。名古屋人が重視すると言われるいわゆる「お得感」あるいは「お値打ち感」を重視しているようです。「お得感(おとくかん)」とは言葉の通りに「得した」という感じること、「お値打ち感」はコストの割に価値があることを意味し、期待以上の満足度が得られた状況を指すようです。各メニューにボリュームがあることと店のスタッフによるサービスを重視しているとの評判ですが、入店時の対応は十分満足するものでした。ちなみに、「コメダ」の名称は創業者の家業が「米屋の太郎」と呼ばれていたことに由来するそうで、創業は1968年と半世紀近く前です。また、直営店は10店舗ほどと少なく、650を超える店舗(都内:約40、その他南関東:約70)のほとんどは株式会社コメダから一手販売間を得た国内各地の企業(フランチャイジー)が運営しているとのこと。

 

最初に配膳されたモーニングを食べ進んだ午前9時ころには急にママ友たちと思しき客が増えたようです。飲み物とサラダもテーブルに並びました。気の早い同行者は私が写真を撮る前にミニサラダを自分用の小皿に取り分け、ハニオレ(蜂蜜オーレウインナー)を飲み始めてしまいました。私は厚切りで柔らかいトーストが気に入りました。ゆで玉子は殻に穴を開けてありませんが、意外なほど剥(む)きやすいのは、茹(ゆ)で方に何か秘訣があるのかもしれません。「へそ曲がり」の私は珈琲店に入っても紅茶を選ぶことにしています。実は、若いころにコーヒー(もちろんインスタント)を飲みすぎたため、かなり前から紅茶派へ転向したのです。
 
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配膳のスムーズさと食べ終えたメニューの食器を下げるタイミングもファミレスに比べると人数が多い店員さんたちはよく考慮しているようでした。食器を下げる時に店員さんが、『どうぞごゆっくり』の言葉を添えることを忘れないことからも、サービス精神が徹底されていることがよく分かります。

 

何人かの店員さんから見送る言葉を掛けられながら店を出るころには入り口付近のベンチシートに席待ちの客が2-3組座っていました。ちょうど名前を呼ばれた客がいましたが、これはファミレスと同じやり方です。同行者も満足したようで、『今度は「お昼のモーニング」にしたいわ』と奇異な言葉を口にしました。ちなみに、「お昼のモーニング」とはランチ帯(午前11時30分~午後2時)に提供されるメニューで、好みのドリンクに400円~560円を追加するとランチにふさわしいボリュームがあるサンドイッチが選べるようです。「モーニング」のように無料ではありませんが、こちらも「お得感」がありそうです。ただし、冷静に考えれば、ランチとしては高めの価格設定なのですが・・。
 
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デフレ時代の勝ち組であったファストフード店や居酒屋チェーン店から客足が遠のく状況が1年以上続いています。その代表格はハンバーガーチェーンのマクドナルドや居酒屋チェーンのワタミです。いずれの店舗でも「コメダ珈琲店」で感じる「お得感」「お値打ち感」が不足している(あるいはまったくない)ように思われます。贅沢(ぜいたく)な要求かもしれませんが、期待通りのサービスを提供するだけでは熾烈(しれつ)な競争に勝ち抜くことは難しいでしょう。もし、経営者が良いメニューを提供すれば客が集まると考えているとすれば、それは心許(こころもと)ない経営手法だと思われます。

 

温泉大好き、ドライブも!」、「旅行大好き、飛行機も!」(当ブログ)、および飲み会である「竹輪会」の各ブログで紹介しているように、飲み会や旅行先の様々な店で食事をとることが多い私は、メニューの魅力と同等以上に、店員の接客サービスが重要な差別化要因だと感じています。さらに言えば、提供する側の自己満足では客の心を掴(つか)むことは難しいでしょう。経営者は感動を与えるサービス水準を目標とし、最前線の人材(店舗の社員やアルバイト)の質を上げることでその高みを目指すべきではないかと思うのです。
 

<同行者のコメント> 一度行ってみたいと思っていたコメダ珈琲店をやっと訪れることができました。今度は絶対「ノワール」にしようと思います。靴の修理が終わるのを待つ間に旦那様を紳士服売り場へと連れて行って何とか冬物を一着買うことができました。一緒にベストも買うべきでしたが・・。
 
 
 
≪追記≫ 2015年12月8日付
 
所用で出かけたついでにコメダ珈琲店を再訪しました。午前11時半少し前の駐車場は満車状態、数分待ってやっと空いた奥のエリアに車を停めました。店内に入るとテーブル席はほぼ満席で、空いたばかりのテーブルを店員さんが片づける間、入口近くにある長椅子に座って待ちました。 

 

前回の席に近い場所に案内されたのはちょうど午前11時半になるころでした。時間に几帳面(きちょうめん)な私は「お昼のモーニング」サービスが始まる午前11時30分に合わせて入店したのです。 

 

同行者には「お昼のモーニング」から「たまとまレタスサンド」(470円)を勧め、私は「みそかつサンド」(820円)にしようと心積(こころづ)もりしていましたが、同行者は開口一番、『私、「みそかつサンド」と「コメ黒」(520円)にするわ!」と決め打ち。当てが外れた私は止むを得ず消去法(?)で、「たまとまレタスサンド」と「カフェオーレ」(420円)を選びました。珈琲店だからたまにはコーヒーを注文しようと思ったのです。元コーヒー党であった私はコーヒーを飲むこともあるのです。 

 

店員さんは慣(な)れたもので、『「みそかつサンド」は三つ切りですが、四つ切にしてお分けになりますか?』と訊(き)いてくれましたので、そうして欲しいと答えたあと、『もし食べきれなかった場合、持ち帰りできますか?』、と念のため尋8たず)ねると、『もちろんです。ただ、ご自身で包んでいただきますが』、と続きました。 

 

コメダ珈琲店の一押しである「コメ黒」と「カフェオーレ」がまずテーブルに載(の)りました。普通のコーヒーだなと思いながら「カフェオーレ」を飲んでいる私に向かい同行者が、『「コメ黒」を飲んでみる?』と勧(すす)めました。よく焙煎(ばいせん)されているようで、芳(こう)ばし香りがあり、適度な苦味が舌で感じられます。「そのままストレートでお飲みください」とメニューに書かれている理由が何となく分かるような気がしました。同行者は「コメ黒」が気に入ったのか、コーヒーカップについても、『ほかのカップよりも「コメ黒」のカップのデザインが好きだわ!』、と上機嫌(じょうきげん)。
 
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次いで配膳(はいぜん)された「たまとまレタスサンド」を一口食べた同行者は、『このパンはパサパサだわ!』、と誰に言うでもなく注文をつけています。『しっとりし過ぎないようにしているのかな』、と適当(いい加減)な相槌(あいづち)を打ちながら、私は玉子とスライストマトを挟(はさ)んだ食パンがやや薄目(10mm弱)であり具(ぐ)がはみ出しそうであることが気になりました。この厚さはハムサンド用ではと。メニューの写真を見る限り、他のサンドイッチ類はバランスが良さそうに見えますが・・。ちなみに、食パンのサンドイッチは挟(はさ)む具(ぐ)のボリュームに応じて10-20mmの厚さに調整するそうです。
 
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しかし、添(そ)えられた鶏のから揚げである「コメチキ」が美味しいことでは意見が一致しました。
 

 

四つ切された「みそかつサンド」を小皿に取り分けた同行者は、『こちらのパンは美味しい。先日食べた「モーニング」のトーストと同じだわ! それにしても、すごいボリュームね!』、と手放しの褒(ほ)めようです。私は『そうだね』と大人の対応を心掛けました。たしかに、「みそかつサンド」はパンの食感が良いだけではなく、パンと具である「みそかつ」との厚さバランスがほど良いのです。ちなみに、バゲットの場合は具の厚さが三分の一になるのが良いそうです。
 
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ただし、「みそかつ」の味付けが濃(こ)いこともあって半分以上をアルミホイルに包んだ上、レジ袋に入れ、「ドギーバッグ」として持ち帰る(テイクアウトする)ことになりました。ちなみに、生野菜累やタマゴペーストを使用したエッグサンドなどは持ち帰ることができないようです。一応、店員さんに確認した方がよさそうです。□

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