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2016年7月

2016年7月31日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その15) 富山新港の「海王丸」 (後編)

ロープの結び方には多種多様ですが、独特な結び目はいずれも解(ほど)けにくく、推理小説などにも犯人の手掛かりとしてよく登場します。
 
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一段低くなっている機関室にある2基のエンジン
 
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「マスト頂上体験」ができる3Dパノラマ展示
 
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上甲板に上がると「士官サロン」がありました。同じフロアには船長室、通信長室、調理室などが並んでいます。
 
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最上甲板の船尾側に出ました。巨大な操舵輪小型の羅針盤が手前に2つ並んでいます。帆船は帆の様子を見ながら操舵するため、船尾に設置されているのです。帆走時に使用する操舵輪は前後に2つ取り付けられており、指揮官(左端)の指示のもと、2人で(時化の時には4人がかり)で廻すそうです。ちなみに、一回転で舵(かじ)が一度動くとのこと。
 
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船尾から見る「新湊大橋」
 
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船尾に掲揚されている日章旗は入出港時における「あいさつの意(敬礼)」を表しています。
 
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船尾から見た海王丸のマスト群です。奥からフォアマスト、メインマスト、ミズンマスト、そして左上にわずかだけ写るジガーマストの4本です。
 
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最後に、時を告げるタイムベル(時鐘)を見つけました。ちなみに、連打すると警報になるそうです。
 
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後方にあるスロープを下りて下船します。
 
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「イベント広場」に置かれた長いベンチは海王丸のマストを利用したものとのこと。
 
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駐車場へ戻る途中、「日本海交流センター」に立ち寄ることにしました。
 
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「戦艦大和(やまと)」の縮小模型が目立つ場所に展示されています。
 
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新湊地区の整備計画図
 
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「世界の帆船」(縮小模型)の展示
   
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駐車場を出て次の目的地へ向かいます。最初に目にしたものは「海王丸パーク」の西隣にある「新湊きっときと市場」で、富山湾で取れた海産物を販売する海鮮市場です。ちなみに、「きっときと」は富山弁で「新鮮な」「活き活きした」、つまり「食べたくなる美味しさ」を意味するようです。
 
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(続く)

2016年7月30日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(その14) 富山新港の「海王丸」(中編) 

最上甲板に設置されたキャプスタン(巻揚機)
 
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キャプスタンバー
 
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マストと結ばれた数えきれない本数のロープ(ギア)
 
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前部航海船橋に向かいます。その先にはフォアマストと船首楼甲板が見えます。
 
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前部航海船橋の内部
 
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一際目立つの中央の「操舵スタンド」(スクリューで航行する時に使用)と左手の「レーダー」です。そして、「操舵スタンド」には「マグネットコンパス(注、左右にある大きな鉄球は周辺の磁気の影響を軽減するため)があり、船ならではの「伝声管」もありました。
 
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左手後方にあるのは「無線方位探知機」
 
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「国際信号旗」の説明324
 
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右手後方には「国際VHF無線電話」
 
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左手のドアを出たデッキには羅針盤も
 
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「新湊大橋」が間近に見えます。
 
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船首楼甲板には社会見学に訪れた小学生のグループがスタッフの説明を熱心に聞いていました。先ほどボートに乗っていたグループのようです。
 
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前部航海船橋と船首楼甲板をつなぐ「フライイング ギャングウェイ」
 
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間近で見たバウスプリット(斜めマスト)
 
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最上部甲板に戻りました。海王丸桟橋(乗船口)越しに「イベント広場」と「緑のパーゴラ(日陰棚)」を一望できます。
 
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最上部甲板の反対側にはアンカークレーンがあります。
 
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大型の主錨(しゅびょう)である大錨(だいびょう、バウアー・アンカー)
 
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第二甲板に下りました。通路にそって船室が配置されています。これは訓練生宿泊室です。
 
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航海に不可欠な文書が展示されています。下段に「航海日誌」「灯台表」「潮汐(ちょうせき)表」、上段には「天測暦」と「水路誌(国内)」
 
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(続く)

2016年7月29日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その13) 富山新港の「海王丸」(前編)

「海王パーク」は富山新港北側を埋め立てた広い公園です。駐車場から岸壁へ出ると、テント越しに「新湊大橋」が見えました。
 
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それと向かい合うように停泊しているのは帆船の「海王丸」です。残念なことに、この日は帆を張っていません。後で知りましたが、年に10回程度の頻度で「総帆展帆(そうはんてんぱん)」が行われるそうです。注、横浜にある姉妹船の「日本丸」は年12回前後 実は後輩の「海王丸(Ⅱ世)」をハワイのホノルル港で見たことがあります。
   
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新湊大橋の手前、富山新港内でボートに乗ってオールを漕(こ)ぐ練習が行われています。
 
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「海王丸」へ向かって歩きはじめると、透明なパネルが立っていることに気づきました。”The most Beautiful Bay in the World”(世界でもっとも美しい湾 富山湾)と表示されています。「世界でくしい湾クラブ」に加盟している湾で、日本では他に宮城県の松島湾があります。海外では、フランスのモンサンミシェル湾、アメリカのサンフランシスコ湾、ベトナムのハロン湾など、40近い湾が正式にメンバーのようです。ボートは「海王丸」に接舷(せつげん)するようで、オールの動きが止まっています。ちなみに、左端に写るスカーフで頭を覆った女性は同行者。
   
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海王丸の大型機材が屋外展示されています。
 
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ストックレスアンカーは頭部にさお状の棒であるストック(桿、横棒)がない無桿錨(むかんびょう)で、収納する時に有桿錨のようにかさ張らない特長があります。
 
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海王丸は帆船ですが、プロペラを2つ装備している二軸船(双暗車船)でもあることが説明されています。
 
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キャプスタン(巻揚機)は重量物を引き上げるロープを巻く時に使用するものです。頭の穴に太い棒(キャプスタンバー)を指し込んで人力で回転させます。
 
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「海王丸」の舳先(へさき)から伸びるバウスプリットでは作業が行われているようです。バウスプリットセイル(三角帆)を点検しているのかもしれません。
 
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海王丸桟橋(乗船口)に到着
 
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「帆船海王丸」の保存係留経緯には、『海の貴婦人 帆船 海王丸  昭和5年2月 公立商船学校11校のための練習船として姉妹船の日本丸とともに進水し、日本の海の王者“の期待をこめて海王丸と命名される。その後、運輸省(現 国土交通省)航海訓練所の練習船として活躍し、平成元年9月の引退までに、世界を約50週し、11,190名の海の若者を育てた。4本マスト、バーク型帆船の優美な姿から、海の貴婦人”と称されている。全長97.05m、型巾12.95m、総トン数2,238.4トン』とあります。
 
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乗船口
 
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急なスロープを上がって、
 
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最上甲板に出ました。
 
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巨大なメインマストを見上げました。中ほどにトップ台(踊り場)があり、左右からシュラウド(縄梯子)が伸びています。ちなみに、海王丸は横帆型です。
 
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救命艇
 
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汽笛・エアーホーン
 
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(続く)

2016年7月28日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その12) 滑川市から富山市の「浜黒崎」へ

海岸沿いに伸びる県道1号(旧浜街道・旧北陸道)を西進したため、「なめりかわ宿場回廊めぐり図」の周回ルートからはだいぶ反(そ)れましたが、そのまま西進することにしました。
 
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交差点の角にある加茂神社
 
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水橋町にある金刀比羅神社は県道1号から白岩川右岸を下った海寄りにありました。
 

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その脇に庚申璽(こうしんじ)を見つけました。
 
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白岩川越しに水橋漁港が見えました。白岩川とその西側を流れる常願寺川に挟まれた港で、防波堤が白岩川左岸から伸びていおり、先端近くに灯台を確認することができます。運河のような支流が合流する角に見えるのは「艀場(はしけば)跡」の常夜灯です
 
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江戸時代の水橋には藩蔵などがあり、水運でコメなどが運ばれてくる水橋湊があったそうです。しかし、河口付近の水深が浅いため、海上を航海する北前船は入港することができす、沖に停泊する北前船との荷物運搬には艀(はしけ)が使われていたそうです。
 
県道1号に戻って今川橋を渡りました。次の目的地は「浜黒崎」です。
 
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「県指定天然記念物 浜黒崎の松並木」の説明看板には、『この松並木は慶長年間(1596~1614年)に、加賀藩前田利長が参府の折に、街路の美観と冬季積雪時の往来の便を考えて、北陸道に植樹したのが始まりと伝えられています。この松は多幹性の黒松で、かつては東岩瀬~浜黒崎に至る約8Kmの道の両側に建ち並び、江戸時代の浜街道の景観を留めていました。昭和40年の指定当時には29本ありましたが、その後枯死等により現在9本となっています』 とありました。

現在は東側のエリアがキャンプ場となっています。
 
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松林を抜けて海岸へ向かいました。この松原は富山県の天然記念物に指定され、「日本の白砂青松100選」に選ばれているそうです。
 
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「浜黒崎」の海岸に出ました。滑川市から魚津市にかけての海岸線が続いていました。
 
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こちら(西方)には浜黒崎海水浴場があるようです。その先にある富山市岩瀬まで2里(約8km)も続く松並木を総称して「古志(こし)の松原」(あるいは須磨明石の海岸になぞらえて越中舞子)と呼ばれているそうです。慶長6年(1601年)に加賀藩主前田利長(としなが)が植樹を命じたとされます。ちなみに、越後へ流される親鸞と都から奥州へ落ちる源義経もここで休憩したと伝えられるそうです。

 
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常願寺川沿いの道路(市道と県道338号)を経由して国道8号(滑川富山バイパス)に入り、雄峰大橋(長さ704m)で常願寺川を渡りました。
 
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神通川に架かる中島大橋で交通渋滞が発生していたため下流の萩浦橋へ迂回したあと、国道8号の鏡宮交差点で国道472号にそれ、県立公園「新港の森」の脇を通過しました。
 
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富山新港の到着。前方に新湊(しんみなと)大橋が見えてきました。

 
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第三セクターが経営する「万葉線(新湊港線)」の海王丸駅脇を通過して「海王丸パーク」の駐車場に車を停めました。ちなみに、「万葉線」の名称は万葉集に多くの歌を残した大伴家持(おおとものやかもち)が越中国の国司であったことに由来するようです。
 
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「海王パーク」の案内図には含まれていませんが、西隣(左手)には芭蕉も立ち寄って『早稲の香や 分け入る右は 有磯海(注、越中の海)
』の句を詠んだ奈呉ノ浦(なごのうら)」があります。ここで大伴家持が詠(よ)んだ歌は、『あゆの風 いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人(あま)の 釣する小舟(をぶね) 漕(こ)ぎ隠(かく)る見ゆ』(現代語訳: 東の風が激しく吹いているらしい。奈呉の海人の釣りする小舟が、波の間に漕いでいるのが見え隠れしている)です。注、「あゆの風」は春に吹く強い季節風を指す地元の言葉
 

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地盤が沈下したため、昔の景観はほとんど残っていないようです。次回は「海王丸」の船体と「新湊大橋」の外観を紹介します。(続く)

2016年7月27日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(その11) 滑川市の「なめりかわ宿場回廊めぐり」

魚津市の隣町である滑川(なめりかわ)市の中心部(滑川駅)に到着
 
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駅前ロータリーのバス停近くにある「滑川宿の案内看板」には、『古代から中世にかけて、滑川市域には「堀江荘(ほりえのしょう)」という京都の八坂(祇園)社の墾田地(こんでんち、荘園)があった。早月川扇状地の湧水帯に位置する「梅沢・小泉・滑河」などはいずれも「水」に縁のある地名で、とくに「滑」は、低湿地や沢沼地を意味し、早月川の廃川地帯に成立した村であることを表していると考えられる。(以下略)』 と説明されています。
 
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地図に「なめりかわ宿場回廊めぐり図」と番号が振られたスポットが表示されていますので、それに従って宿場跡を巡ることにしました。この案内看板が①の「北国街道 滑川宿みちしるべ」でした。

 

②は「和田の浜古戦場」。滑川市の常磐町から中川原地区にかけての海岸線は和田の浜と呼ばれる戦国時代の古戦場です。その近くには「ホタルイカ群遊海綿」(下の写真)と「蜃気楼」の二大奇観(きかん)をみることができる場所です。
 
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近くにある「ほたるいかミュージアム」に興味を持ちました。受付で尋ねると、このシーズンはビデオによる説明だけだとのことで、残念ですがパスすることに。
 
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③「常磐(ときわ)町と町域の拡大」 滑川宿の東端は櫟原(いちはら)神社のある新明町であったが、周辺農村部からの流入人口で町域が肥大化して新屋敷と呼ばれたそうです。

 

④延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の櫟原(いちはら)神社
 
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境内には芭蕉句碑「しばらくは花のうへなる月夜かな」と「常夜灯」があるそうです。後者はは船舶の航行の安全を祈願するとともに道しるべをかねた献灯施設のようです。

 

鍛冶屋橋(新明町と中町の境界辺り)

 

芭蕉「奥の細道」と川瀬屋 元禄2年(1689年)の7月13日(新暦では8月27日)の夕方、芭蕉と同行の曾良(そら)は滑川に着き、川瀬屋に宿泊したという説が有力とのこと。ここで詠(よ)まれたという句は、『早稲(わせ)の香や 分け入る右は 有磯海(ありそうみ)』。注、有磯海は富山湾のことで、北陸自動車道には有磯海SA(上り:滑川市、下り:魚津市)がある

 

桐沢本陣と大町 注、大町は滑川発祥の町

 

橋場 注、大町と瀬羽町の境を流れる中川に架かる雪島橋付近を指す

 

海岸方向へ進んた河口付近には防潮堤と波消しブロックがありました。
 
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瀬羽町(旧狭町)と信仰の道
 
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沖田川放水路の工事現場近くで「大岩道」の古い道標を見つけました。
 
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北陸道と大岩道との分岐点に立てられていた道標は、文化8年(1811)に立てられたもので、滑川市指定文化財となっています。「史跡 立山、大岩道しるべ」の案内看板には、『山岳信仰は、奈良・平安時代には僧侶や修験者たちのものであったが、江戸時代には一般庶民の信仰登山も認められ、立山・大岩への登拝者は、地元はもとより、陸奥・出羽・越後をはじめ全国より集まったが、この「道しるべ」はそのための道案内であった。もとは、この近くにあった旧北陸道からの分岐点にたっていたものである』 とあります。
 
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巨大な防潮壁
 
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加積(かづみ)雪嶋神社
 
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海岸沿いに伸びる県道1号を西進し過ぎたため、「なめりかわ宿場回廊めぐり図」のルートから反(そ)れましたが、かまわず西進することにしました。(続く)

2016年7月26日 (火)

iPhoneにまつわる近況二題 : 純正充電用コードのトラブルと「ポケモンGO」デビュー

予定外の投稿ですが、昨秋、機種変更で手に入れた”iPhone 6s”が気にいっている同居者からの頼みごとについての顛末(てんまつ)を二題紹介します。

 

                          ☆

 

一つ目の課題は充電時間が長くなったというものでした。lightning コネクタの差し込み(接続)が甘いのではないかと思いながら確認すると、同コネクタに接続されているコードが伸びて、コネクタに近い部分で断線に近い状態にあるようです。充電しながらiPhone 6sを使用することが多い同居者はコネクタ付近のコードにダメージを常に与えていたと思われます。
 
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事実、同居者が以前使用していた”iPhone 4s”のコードでも似たトラブルが発生しています。iPhoneの純正充電コードは1年間の保証を受けられますが、無償で交換してもらうためには次の条件を満たす必要があるようです。

 

Phoneが製品保証期間内である ⇒ OK

・ 壊れた純正充電ケーブルが手元にある ⇒ OK

・ その充電ケーブルに外傷がなく、中の配線がちぎれていない ⇒ NG

 

同居者の場合は3つ目の条件を満たしていない可能性が高く、無償で交換してもらうことは難しそうです。

 

前回のトラブル時には断線まで至りませんでした、外皮のビニールの端が見えるほどずれていました。初期のころから、iPhoneの純正充電コードは細くてスマートでしたが、接続したままでiPhoneを使用するとコネクタに近い部分のコードに強いストレスがかかり、ついには断線にいたる脆弱性(ぜいじゃくせい)を有していることは、今回が2回目のトラブルであることからも分かります。

 

そこで、充電用に購入しておいた非純正のコードに取り替えることにしました。こちらは見るからに丈夫にできているようです。コードの外皮径が大きい(太い)ことと、lightning コネクタの挿抜時(そうばつじ)に持つ部分(プラスチック製)のサイズがかなり大きいのです。iPhone用ケースを使用している場合は、その穴が純正用コネクターに合わせて設計されているようですから、製品によってはコネクタの接続が十分ではないこともあるかもしれません。
 
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今後も同じトラブルに遭遇しないとも限りませんから、純正充電コードの補強法を調べてみました。前回のトラブルではiPhone 4s用純正コードに粘着テープを巻きつける方法をとりましたが、継時変化でテープの粘着力が弱まる問題がありました。見栄えと強度を考えると、熱収縮チューブである「スミチューブ」が最適と思われます。それ以外にもネット上に対応策がいくつか紹介されていました。

 

その一つがボールペンの芯(しん)を保持する小さなバネを使う方法です。バネの内径が純正コードとほぼ同じ(わずかに大きい)ことで容易にはめられるはずです。そこで、ものは試しとやってみましたが、意外に難しいのです。バネが思ったよりも硬(かた)いことと、コネクタに近い部分は保護用チューブが被(かぶ)せられていて太くなっていますから、コードに巻きつけるにはコツが必要でした。あれこれ試した結果、なんとか思った通りに仕上げることができました。
 
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機会があれば「スミチューブ」も試してみたいと思います。

 

余談ですが、旅行先にデジカメとiPhone 5を持ち歩く私は車の中でも充電する手段を確保しています。センターコンソールボックス内にあるシガライター用コネクタに自動車用バッテリー(12V)をUSB(5V)に変換するシガライターソケットを装着し、巻き取り型(リール付き)コードを接続しています。コードのもう一方の端にはマイクロUSBコネクタがついています。これはデジカメと接続するためです。
 
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一方、iPhoneについては、専用の充電用コードを別に用意するのではなく、マイクロUSBコネクタをlightning connectorに変換するアダプタで対応しています。すべてがコンパクトであり(かさばらず)、コードの取り回しが運転の邪魔になることはありません。以前、アマチュア無線の機器を車内に設置していた時は車内に引き回した各種コードを配線止め金具を使って固定し、運転の邪魔にならないよう細心の注意を払いました。けっして見栄えは良くなく、あくまでも機能と安全を重視したものでした。

 

                          ☆

 

二つ目の課題は今ブームとなっているスマホ用ゲーム「ポケモンGO 」です。7月22日午前10時ころ、日本でも同アプリがリリースされ、午前中からテレビのワイドショー/ニュースショー番組は「ポケモンGO 」の話題で持ちきりでした。翌23日の夜になって同居者が突然、『「ポケモンGO」をやりたいから”iPhone 6s”にダウンロードしてよ!』 と言い出したのです。古典的なゲーム「ソリテリア」が大好きであることは知っていましたが・・・。

 

アプリをダウンロードして”iPhone 6s”に不都合が生じるといけませんので、私の”iPhone 5”で試してみることにしました。"App store"のランキング(無料)1位にランクされていますから、"App store"内を探す必要はありませんでした。そして、他のアプリと同様、ダウンロードは簡単でした。「ポケモンGO 」を使うためには利用者を登録する必要がありました。グーグルのアカウントまたはポケモンのアカウントのいずれかを選ぶことができます。私はグーグルのG-mailを利用つもりはありませんから、後者を取得することにしました。

 

しかし、ここで問題が発生しました。多くの利用希望者によるアクセスが集中したため、登録を受け付けるサーバーにアクセスできないのです。何度試みても、『待機するように』 とのメッセージが表示される状況は変わりません。翌朝になるのを待って(満を持して)アクセスするとすぐ受け付けてくれました。国籍と生年月日およびメールアドレスなどの情報を入力すると、利用者を認証するために電子メールが送られてきました。

 

認証(メールの所定場所をクリック)が完了すると「ポケモンGO 」アプリへのアクセスが可能になりました。先に入力した情報を再入力すると「ポケモンGO」をスタートすることができました。まず、利用者のニックネーム(英数字のみ)を決めるように求められました。利用者が多いうえ、重複が許されないため、自分の希望する複数の案はいずれも受け付けてくれません。珍しいニックネームを選んだことでなんとか受付けてくれました。
 
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登録手順と操作方法を理解しましたので、次は同行者の”iPhone 6s”にも問題なくダ利用者登録ができました。可愛いニックネームにこだわる同居者の場合は、数種類試しましたが、いずれも拒否されました。私の場合よりもユニークなニックネームを申し込んで受け入れられました。「ポケモンGO」の画面に地図が表示されると、室内でもターゲットのポケモンが見つかりました。導入部で利用者がまごつかないための配慮かもしれません。
   
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自宅近くを出歩いてモンスターをいくつも捕まえ、モンスターボールをゲットしていると、あっという間にトレーナーレベルが「2」にアップ。翌日(25日)にはさらに行動範囲を広げてポケモンを捕まえ、ポケストップにも立ち寄ってフォトディスクを回転させることでポケモンの玉子を入手しているとトレーナーレベルが「5」に達しました。
 
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一方、同居者は、行動範囲が狭いにもかかわらず、トレーニングレベル「4」を獲得してがんばっています。
 
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私は
「ピカチュウ」をまだ捕獲できていませんが、これで「ポケモンジム」でバトルすることができるようになりました。次ぎの2枚の写真はトレーニングレベル「1」の段階で「ポケモンジム」へアクセスして拒絶されたシーンです。ちなみに、「ポケモンGO」は電気を大量に消費しますから、iPhoneの本体があつくなるとともに、バッテリーの消費が甚大ですから、バックアップ(充電)用バッテリーの携行が不可決でしょう。  また、アプリがフリーズした時には、アプリをいったん削除し、再インストールすれば解決できます。もちろん、最新のデータはサーバに保存されていますから、それまでのデータを引き継いでプレイすることができます。
 
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バトルゲームに移行するようですから、私は2日間で「ポケモンGO 」を卒業することにしました。一方、同居者はその日のうちに
トレーニングレベル「5」に達し、さらなる高みを目指してやる気満々のようです。「ポケモンGO」 恐るべし!!
 
[追記] (2016/7/31) 夏休みを利用して大阪からオチビちゃんとコチビちゃんが遊びに来てくれました。二人もポケモンGOで遊んでいましたが、京浜地区ではポケモンが多いと喜んでいます。二人につられて一時復学した私はレベル「9」に、同居者はレベル「8」へとレベルアップ。レベルはどこまで上げられるのでしょうか? ちなみに、最高レベルは「40」との噂があるようです。
(2016/8/9) コツコツとポケモンを捕獲したことで、レベル「11」になんとか到達しました。

2016年7月25日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その10) 魚津市(後編)

こちらは前回の記事(その8)で触れた「清水(しょうず)の里」と「共同洗い場」がある黒部市生地(いくじ)方面の蜃気楼の説明です。8kmほど離れたYKKの黒部事業所と思われる施設が写真に写っています。
 
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盛り土された場所から見た鐘
 
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「風と地平線-蜃気楼」のモニュメント
 
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駐車場の先にある奇抜なデザインの「魚津埋没林博物館
 
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同行者は駐車場の北東角にある海の家「蜃気楼」がオープンするのを待っています。
 
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「うおづ散歩」の案内看板には魚津市街地(海岸線とあいの風とやま鉄道線に挟まれたエリア)の名所旧跡が地図付きで説明されています。
 
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「魚津市観光案内図」(広域)
 
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「富山県の観光案内」
 
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海の駅「蜃気楼」は午前8時にオープしました。入口のガラス戸には『この日に蜃気楼が発生する確率は10%』 との張り紙がありました。
 
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海の駅「蜃気楼」の店内に入ると「忠 鮮魚店」が営業していました。
 
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そして、その左手には食事処「幻魚房(げんげんぼう)」とめん処「はまちょう」が並んでいました。
 
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右手の土産物ショップはまだシャッターが下りています。気がつくと、同行者は「忠 鮮魚店」であれこれ買い込んでいました。「ホタテガイ」「ホタルイカの生姜煮とゆずこしょう」「しじみ」など。海の家を出たあとも同行者は牡蠣(かき)が大きかったと興奮し、旅先であるためそれが買えないことを嘆いています。ちなみに、牡蠣がおいしいシーズンは英語でRがつく月(9月から5月)の諺(ことわざ)があります。ただし、これは真牡蠣(まがき)についてであり、岩牡蠣(いわがき)の旬は7月から9月とされるようです。
 
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「魚津埋没林博物館」(入館料は一般が520円)の入口は半地下のようになっていて、ユニークな形をした建物(写真の左手)につながっているようです。窓口には40分後の午前9時に開館すると表示されていますのでスキップすることにしました。
 
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同博物館の前で見かけた「岡本眸(ひtみ)蜃気楼句碑」には『しばらくは 恋めくこころ 蜃気楼』 と詠(よ)まれています。
 
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漁船が停泊するエリアの脇を抜けて県道1号で次の目的地「滑川(なめがわ)」へと出発しました。近くには「米騒動発祥の地・米倉」の石柱と魚津港最初の塔台である「万灯台」があったようです。
 
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(続く)

2016年7月24日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その9) 魚津市(前編)

魚津市での宿泊先として選んだのは、「あいの風とやま鉄道」の「魚津駅」脇にある「アパホテル魚津駅前」です。(写真は翌朝撮影)
 
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5階の自室からは、手前の低い山が見えますが、北アルプスから立山にかけての高い山並みは立ち込める雲に遮(さえぎ)られていました。
 
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夕食は、おなじく魚津駅前にある日本料理「海風亭」(ホテル美浪館1階)で海鮮料理、あるいは「旬菜あかり家」(魚津サンプラザ店)のどちらかを選ぶつもりでしたが、早朝に自宅を出立したため億劫(おっくう)になり、ついにはコンビニの弁当を食べることになりました。もちろん、私のエネルギー源であるアルコール燃料の補給は忘れません。

 

翌朝は午前5時30分に起床。外を見ると、前日とは打って変わった晴天で、遠くの高い山も良く確認することができます。方向から見て宇奈月(うなづき)温泉の西側にある立山連邦北端の僧ヶ岳(標高1855m)と越中駒ヶ岳(標高2002m)かもしれません。
 
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魚津駅の駅舎とそのホームが間近に見えます。右上に写るのは「富山地方鉄道」の「新魚津駅」で、その右手遠方には魚津港があるはずですが・・。
 
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その右手には日本海が広がっています。遠くに薄っすらと見える影は対岸(能登半島)の氷見(ひみ)市から七尾市にかけてのエリアでしょう。魚津港は確認できませんが、正面にある高いタワーはホテルから約600m離れたスポーツ施設「ありそドーム」の展望塔(高さ46m)のようです。ちなみに、有磯(ありそ)は富山湾の別称とのこと。
      
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 午前6時半になるのを待って1階のカフェテリアへ向かいました。朝食は和洋食のビュッフェです。同行者はヨーグルト・ゆで卵・コーヒーを忘れません。
      
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私は和食風にしました。
 
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午前7時半ころにホテルを出発
 
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魚津駅前広場を通過
 
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まず、魚津駅の南西約1kmの地点にある魚津港へ向かいました。
 
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防波堤の端に立つ赤と白の灯台は港の入口を表しており、港に入るとき、右側が赤、左が側が白とすることが法律で決まっているそうです。対岸(能登半島)の山並みを先ほどよりはっきりと確認することができます。
 
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照明器具のようなものが取り付けられたパイプが甲板上に多数並んでいますから、イカ釣り船かと思いましたが、実際は北洋で操業するサケ・マス・サンマ漁船で、照明器具は夜間にサンマの群れを大光量の集魚灯で、クレーンのような棒で吊られた大きな網の中へサンマを誘い込むためのものでした。
 
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魚津市で有名なものといえば「蜃気楼(しんきろう)」でしょう。ほぼ真西(約25km)に位置する射水(いみず)市の富山新港に架かる「新湊大橋」の実景と蜃気楼の写真が比較されています。『4-5月、気温が18~25度程度、北北東の穏やかな風が吹く晴れた日によく現れ、年に10~15階観測される。海面上の冷たい空気層の上に温かい空気層が重なり、その境界で光線が屈折することによって起こるげんしょうである』 と解説されています。
 
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この日は何事も起きそうにない穏やかな朝です。
 
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魚津港の駐車場から見る立山連峰
   
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観光地に定番の鐘ですが、「スイングベル」であることが珍しいと思います。
 
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(続く)

2016年7月21日 (木)

モーガン・フリーマン 時空を超えて「"私"は何者なのか?」を観る

NHK Eテレ(教育テレビ)で4月から毎週放送されている科学番組「モーガン・フリーマン 時空を超えて」を観ました。今回紹介する7月8日(午後10時~10時45分)の放送分は、「自分を作り上げているものとは何なのか?」がテーマであり、思考・記憶・夢など、脳の活動を科学的に見つめることで、アイデンティティー(自己同一性)の深淵(しんえん)なる謎の解明を試みるものでした。その答えをもとめるため、脳や記憶のメカニズムを科学研究の成果を使って多角的に分析しました。なお、プロデューサーと案内人(ナレーター)を務めるのはアメリカの演技派俳優モーガン・フリーマンです。注、ディスカバリー・チャンネルの番組からNHKが選択・翻訳

 

『自分を自分だと認識するのは、生来備わった能力ではなく、鏡を見るなどの学習を通して身につけるものであること。また、脳の電気的パターンを解析することでコンピュータ上に夢を再現することも可能ではないかと考えられていること。さらには、人工脳の研究が行われていること』 などを丁寧(ていねい)に紹介しました。つまり、『""は何者なのか?』 、および 『自分を作り上げているものとは何なのか?』 という自我(じが)と魂(たましい)に関わる深遠な質問に答えようとする意欲的な内容でした。

 

まず、一人ひとりのアイデンティティーや自我はどのように創られるのかを脳と心理学の研究から理解しようとします。もちろん、科学者ではない視聴者にも子供がさまざまな経験をすることによるであろうことは容易に想像できますが・・。この推論を確認するために、『1歳3ヶ月の子供は鏡に映る人物が自分であることを認識できませんが、数ヶ月年長の子供はそれができること』 を実験で示しました。人が一生続けることになる自己発展が始まったのです。

 

ついで、3歳の子供はクッキーが描かれた箱を見せられると、中にクッキーが入っていると思いますが、その予想と結果が異なると、予想したことは忘れて結果の方だけを認識し、最初からそれ(クッキーでないもの)が入っていたと認識そのものを変えるのです。しかし、4歳になると、異なった事実を客観的に理解できるようになることを実験で確認し、この成長段階で子供が自分というものを客観的に認識し始めたことを示しました。

 

この機能は頭脳の海馬(かいば)による働きであることが科学的に確認されていることであるとして、癲癇(てんかん)の治療のため海馬の一部を削除する手術を受けた患者は癲癇による発作が軽減するとともに、アイデンティティーが失われることも確認されました。つまり、海馬が、記憶の創造だけではなく、アイデンティティーの機能も担っているのです。その傍証(ぼうしょう)として、未来の自分を考えるときにも、記憶が大きく影響することが記憶の実験から分かっていることと、アルツハイマー患者は記憶の一部を失うことでアイデンティティーに変化が生じるという事例を挙(あ)げました。

 

『もし、記憶が書き換えた場合はアイデンティティーも変わるのでしょうか?』 の問いにも答えました。自分の記憶と隣人たちの言うことに矛盾(むじゅん)がある状況を準備した心理実験では、社会的な(人間関係による)プレッシャーの有無にかかわらず、自分の考えを変えてしまうことを確認。その時は、大脳皮質側頭葉の奥深くにある大脳古皮質の一領域である海馬だけではなく、同じく側頭葉内側の奥にある感情的な反応処理と記憶を司る扁桃体(へんとうたい)も活発に活動していることが計測されたというのです。つまり、記憶が書き換えられたのです。

 

『それでは、自らのアイデンティティーを再構築できるのでしょうか?』 驚くことに、その技術が実現されつつあるというのです。人は他人の気分に合わせる(影響される)傾向がありますが、そのような影響を受けない夢を見ていたときはどうでしょう。目覚めたあとの「夢の記憶」は多くの感情的な断片の連続であり、夢を見ているときには脳の視覚野が活発に活動しているのです。この事実から、コンピュータを利用して視覚に蓄積されるイメージを記録する手法が開発されました。注、事前にさまざまなパターンを被験者に見せながら脳の活動パターンを計測する手法で簡単なイメージを記録することが可能となる技術

 

脳にはさまざまな記憶があって、人のアイデンティティーを作り出していますが、成人してからのちも新たな経験をすると脳内に新しい神経回路(ニューロン)が追加されて新しい長期記憶となることが分かったそうです。また、特殊な薬で記憶が消去されることも確認されたのです。特定の記憶だけを選別して消去することはまだできませんが・・。ただし、つらい記憶により発症する一種の記憶障害(PTSD)は神経回路が形成されて長期間続きますが、その記憶を思い出したときに薬物投与と精神治療を行うことによって記憶が書き換えるられる(PTSDの症状が軽くなる)事例を紹介しました。

 

最後に、『"自分"は何者か?』 の問に答えるかもしれない新しい取り組みとして、コンピュータで人間のアイデンティティーを創る研究が進められていることが紹介されました。大脳新皮質に注目した手法で、小さなデータを処理して統合する並列コンピュータチップを使用して実現する技術です。現状はまだまだ小規模ですが、可能性を秘めた研究であるとの言葉で番組を締(し)めくくりました。

2016年7月17日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その8) 朝日町の「境鉱泉」と「宮崎ヒスイ海岸」

旧道沿いにある境関跡から国道8号に戻り、境交差点を通過すると、左手に「境鉱泉」の大きな看板がありました。国道沿いにあるこの看板だけが目印ですから、旅行者の多くは「境鉱泉」の存在に気づかず通過してしまうことでしょう。
 
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その看板を目印に左折して50mほど進むと正面に建物がありました。その前には自動車が数台並んでいますが、駐車スペースは意外に広く、20台以上は十分駐車できそうです。建物の右手奥に煙突を確認することができます。
 
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まだ新しいと思われる建物の入口には看板などがいっさいありません。旅館あるいは料理屋といった方がふさわしい佇(たたず)まいです。
 
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上り框(かまち)の左手に小さな受付窓口がありました。入浴料は大人500円と表示されています。旅行カバンからタオルを出し忘れたため、フロント係の男性に『タオルを借用したい』 と申し出ると、意外にも無料(レンタル料金は不要)でした。私のようにタオルを忘れた利用者のために準備しているようです。
 
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受付けの右手(廊下の先)にある脱衣所の入口はシンプルです。その左手(手前)に貴重品用コインロッカー(100円返還式)が設置されていました。
 
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脱衣所はシンプルで清潔感があります。
 
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浴室の入口は床が茶系統のタイル、壁には白色のタイルが貼られており、奥の浴室も同じ配色になっているようです。
 
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それほど広くない浴室にあるL字型の内湯浴槽(写真に写るL字の短辺は浅くなっており、半身浴に向いている)には赤茶色をした湯が張られていました。「境鉱泉」の名前があるように、天然温泉ではなく、低温の鉱泉(重炭酸鉄泉)を加温していました。赤茶色の湯は柔らかい感触で、しかも炭酸を含むため、しだいに体がポッカポカになりました。右手にある洗い場にはシャンプーやボディーソープなどは置かれておらず、温泉地によくある共同浴場の風情(ふぜい)です。ちなみに、「境鉱泉」は90年もの長い歴史があるようです。
 
男湯には2名の先客がありましたが、会話の様子から地元の人と思われました。半身浴と全身浴の両方を交互に楽しみました。この結果、鉱泉の強い効能を感じましたから、長湯することを避け、脱衣所の入口脇にある休憩所(和室)へ移動しました。後で知りましたが、以前は旅館(湯治場)を営業していたそうです。廊下を反対方向へ進んだところに現在も営業している食事処や以前客室として使われていた部屋があるのでしょう。

 

ちなみに、「境鉱泉」の少し手前には「たから温泉」(泉質:ナトリウム・カルシウム-塩化物泉、昨年末休業)があったようです。

 

国道8号をさらに西へ1kmほど走りました。えちごトキめき鉄道(日本海ひすいライン)「越中宮崎駅」の先にあるY字路の交差点を右の脇道に入り、踏切を渡りました。

 

富山県下新川郡朝日町にある「宮崎ヒスイ海岸」(別名:朝日ヒスイ海岸)は険(けわ)しい山々が間近に迫る美しい海岸です。ちなみに、宮崎の地名は神社のある突き出た土地(崎)かと思いましたが、藤原氏の流れを汲む昔の豪族の名前が由来のようです。また、朝日町の名称も戦後の町村合併にともなって付けられた新しいものでした。
 
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東西約4kmも続く玉砂利が美しい海岸で、ヒスイが拾えることとサンセット(日の入り)が美しいビーチとしても知られるようです。注、下の写真はヒスイ海岸(東方向)と同じく(西端)
 
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「北陸東海自然歩道」の案内看板には越中宮崎駅と「ひすい海岸」を通過し、宮崎鼻灯台(灯高108m)を経て城山へ向かうコースが描かれています。
 
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『枯山を 揺るがす海鳴り 親不知』 の句碑
 
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この句は芭蕉研究科である松倉悟童氏がこの地から眺める天険親不知を詠んだ句であり、書家で文化功労者の大平山濤(さんとう)氏の揮毫(きごう)であることが説明されています。
 
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左前方には宮崎漁港(地元の漁船用である第一種漁港)があるようです。航空写真で確認すると、砂の漂着を避けるために海岸線と並行する長い防波堤がある、珍しい形ををした(横に細長い)漁港です。
 
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「天下無敵の晴れ男」の神通力なのか雨の気配はすっかりなくなり、海鳥が港の上空を旋回するのが見えます。
 
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黒部川の四十八ヶ瀬大橋(長さ590m)を渡って黒部市に入りました。黒部川の上流(黒部渓谷)には有名な黒部ダムがあり、その下流は黒部川扇状地を形成しています。時間に余裕があれば、内陸部の宇奈月温泉(湖畔の湯「とちの湯」やその少し下流にある愛本橋付近から黒部市から旭町まで広がる黒部川扇状地の海岸線近くにある湧水群(昭和の名水百選、入善町の「杉沢の沢スギ」・黒部市の「清水(しょうず)の里」・同じく「生地(いくじ)の共同洗い場」)などに立ち寄りたいと考えていましたが、午後5時が近づきましたので先を急ぐことにしました。
 
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黒部市の市域は内陸方向に長くて国道8号付近では6kmほどの幅しかありませんので、あっという間に(10分ほどで)通過し、この日の宿泊地である魚津市の「あいの風とやま鉄道線魚津駅前」へほぼ予定通り(午後5時10分)に到着しました。私の「勘ナビ」は、前回の記事(その7)にも書きましたように、意外に正確なのです。
 
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例によって、 一区切りとなるここで投稿を小休止を入れます。(続く)

2016年7月16日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(その7) 糸魚川市の「たら汁」と「市振の関跡」・朝日町の「境関跡」

「フォッサマグナミュージアム」と「糸魚川市陸上競技場」の外周を巡るコースで糸魚川市の市街地に入り、国道148号線(糸魚川街道)に出て明星セメントの大きな工場前を通過、国道8号方面へ北上しました。この道を南下すると、フォッサマグナ(糸魚川・静岡構造線)に沿って信州松本に達しますが、歴史的には「塩の道」とも千国(ちくに)街道とも呼ばれます。ちなみに、昨年6月に白馬と松本まで長野県中西部をドライブしたときに栂池(つがいけ)高原でこの「塩の道」を見かけたことがあります。

 

国道8号(日本海ひすいライン)に入って姫川を渡り、海岸沿いのコースで親不知(おやしらず)・子不知(こしらず)を経て市振へ向かいました。「子不知」(勝山-歌)と「親不知」(歌-市振)では崖が海岸に迫っているため、国道8号は約15kmの距離にそれぞれ、5つの洞門(どうもん、ロックシェッド)と駒返トンネル(長さ538m)、7つの洞門と天険トンネル(長さ734m)がありました。洞門を通過するときは、まるで額縁に入ったような日本海を横目で見ながらの運転になり、天険「親不知」の景観を見る機会はありませんでした。しかも、緩(ゆる)やかにカーブする洞門内は薄暗いため、対面通行ですれ違う大型トラックの隊列(コンボイ)には神経を使いました。
 
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糸魚川市の美山公園に長時間(2時間半以上)滞在したため、当初予定していた富山県朝日町(たら汁街道の栄食堂)ではなく、その手前の新潟県糸魚川市大字市振(いちぶり)にある道の駅「市振の関」で遅い昼食にすることにしました。日本一うまい「たら汁」の看板を見かけたことと、予定からかなり遅れてすでに午後2時を過ぎていたことによります。ちなみに、地名の「市振」は京都からみて、越後国の第一番の振り出し(宿場)であったことに由来するそうです。
 
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コンビニのような建物は、右半分が売店で、左半分が食堂になっていました。
 
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同行者は珍しいことに「カレーライス」(600円)と「ゆで玉子」(50円)を選び、
 
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私はもちろん心積もりしていた市振名物の「たら汁定食」(980円)を選択しました。
 
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もとは漁師のための「浜汁」(漁を終えたあとの朝食)だったそうで、素朴でありながら期待通りの美味しさでした。ぶつ切りされた鱈(たら、スケトウタラ)がそのまま味噌汁に入れられているためでしょう。ただし、鯛(たい)を食べる時と同様、太い骨(本数はそれほど多くありません)を注意深く外しました。ちなみに、スーパーで売られている鱈の切り身(3枚下ろし・5枚下ろし)には、当然のことですが、太い骨はありません。また、鱈のシーズンは降雪と寒さで旅行しにくい12月上旬から2月下旬とされるようです。
 
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昼食を終えて立ち寄りを予定していた「市振りの関跡」を探していると、道の駅「越後市振の関」の看板を見つけました。そこには『天下の険(けん)として全国的に有名な「親不知・子不知」の富山県側に位置していること』 と『新潟県の最西端に位置する糸魚川市は地質的条件に恵まれも、平成21年に「糸魚川ジオパーク」として日本初の世界ジオパークに認定されたこと』 が説明されています。
 
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しかし、「市振りの関跡」の遺構はおろか、その説明看板(記述)などはまったく見当たりません。自分の山勘(やまかん)のナビにしたがい、国道8号を少し戻って旧道と思われる脇道に入って探すことに。そして、「勘ナビ」の通り、小学校の校庭内に見つけました。上越国の高田藩が設置した「市振り関所跡」を示す石柱です。
 
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案内看板には、『陸路を旅する人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所からなっていたこと』 が説明されています。このあたりの陸路は難所が多く、船を利用する旅人が多かったためでしょう。
 
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糸魚川市指定文化財・天然記念物「関所榎(えのき)」(樹齢250年以上、樹高17.5m)
 
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ちなみに、市振宿の旅籠(はたご)に泊まった芭蕉は『一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月』 の句を残しています。遊女と自(みずか)らを萩(はぎ)と月に例えながら宿の情景を見事に表現した名句とされます。

 

境川を渡って富山県朝日町に入って「境関跡」へ向かいましたが、ここでも旧道県道374号)へ入る必要がありました。旧道を少し進んだ空き地(境郵便局の手前)に境関所跡の標識があり、近くに「御関所大門」の説明看板が立っていた。ちなみに、こちらは加賀藩(越中国)側の関所です。
 
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「境関跡」の石碑脇にある説明看板には、『境地区は、越中(富山県)と越後(新潟県)との国境に位置するため、中世ころから国境警備のために関所が設けられていましたが、近世に入ると加賀藩が慶長19年(1614年)に国境の治安維持と通行管理のための「関所」が設けられた。「境関所」には「岡番所」と「浜番所」があり、陸上と海上の警備を行った』 ことなどが書かれています。
 
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明治時代に入って廃藩置県が行われると境関所跡は小学校となりましたが、その小学校が閉校になったそうです。現在はその跡地を利用して、境関所をイメージした屋根や門構えの「関の館」が建てられていました。
 
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(続く)

2016年7月15日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その6) 糸魚川市美山公園の「長者ケ原遺跡」

「長者ケ原考古館」の見学を終えて、国・史跡「長者ケ原遺跡」へ向かうことにしました。
 
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案内標識にしたがって「長者ケ原考古館」の裏手にある未舗装の小道を下りました。
 
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200mほど歩くと広場の先に休憩所のような大きな建物がありました。
 
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「体験学習棟」の案内表示があります。
 
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ここにも「中部北陸自然歩道」の標柱がありました。ちなみに、「中部北陸自然歩道」は、新潟県山北町から滋賀県大津市までを複数のルートで結ぶ山岳景観と日本海景観など多様性に富んだ歩道で、北陸路だけではなく、群馬県・長野県・岐阜県の一部にも広がっています。
 
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さらに100mほど進むと、開けた場所の手前に、国・史跡「長者ケ原遺跡」の説明と概略図がありました。『縄文時代中・後期(5000~3500年前)に栄えた大きな集落跡が埋もれています。集落跡の10%ほどの発掘調査では24棟もの住居や多くの墓、貯蔵穴、建物などの痕跡が中央広場を囲むように確認されました。出土品は長者ケ原考古館に展示されています』 と表記されています。
 
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住居跡にはいくつもの穴が並んでいます。
 
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その先には縄文時代の住居が数棟再現されていました。
 
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入口に向かって見た縄文住居(竪穴式住居)は長野県の与助尾根遺跡・尖石(とがりいし)遺跡井戸尻遺跡で見たものとほとんど同じです。しかし、縄文住居がが現代まで残っている例はないでしょうから、推測で作られた他の再現住居を真似(まね)ているのでしょう。
 
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その内部には中央に囲炉裏(いろり)が設置されています。
 
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大きな穴は何のためにあるのでしょうか。炊事用の釜戸(かまど)かもしれません。
 
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屋根の下には明り取りが設(もう)けられています。
 
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奥の方にある異なる形をした建物は集会所(あるいは来訪者用客室)のようです。
 
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ここにもお呪(まじな)い用の石が再現設置されています。
 
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その入口
 
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内部の様子
 
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囲炉裏が2つ設置されています。
 
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縄文時代中期後葉(4000年前)の1号住居跡の説明
 
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踵(きびす)を返して1号住居跡の前を急ぎ足で歩く同行者
 
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長者ケ原遺跡の見学を終えて「長者ケ原考古館」の方を振り返りました。
 
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「長者ケ原遺跡公園」では予定を越えて2時間半強と長時間にわたる滞在になりました。「長者ケ原遺跡」の奥まで進んだため、「フォッサマグナミュージアム」の駐車場へ戻るにはかなりの距離(800mほど)を歩くことになってしまいました。できるだけ歩く距離を短くするためには「長者ケ原考古館」に近い駐車場を利用されるとよいでしょう。(続く)

2016年7月14日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その5) 糸魚川市美山公園の「長者ケ原考古館」

整備された道路脇に縄文土器の特徴を備えた巨大なモニュメント「太古のおもかげ」(注、出土した火炎土器を拡大したもの)がありました。そして、その近くに控えめの大きさで「長者ケ原考古館」の案内標識を見つけました。
 
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脇道へ入ると右手の河原のような場所に、『ようこそ 石の谷へ』の説明看板が立っていて、『糸魚川市内を流れる姫川や青梅川の上流域は翡翠や蛇紋岩などの変成岩の産地として知られ、そこから流れ出た石は当地の海岸に漂着します。統治の縄文人たちは、そうした石を拾い、巧みに加工して石斧(いしおの)などの道具や玉などの装身具を盛んに作り、列島各地に供給していました。この谷の意思は青梅川上流に算出したもので、石斧や玉などに用いられた翡翠(硬玉)、軟玉、きつね石、蛇紋岩などを観察することができます』 と説明されています。
 
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長者ケ原考古館」の前景です。ちなみに、入館料は大人300円。
 
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入口付近に並べられた火炎土器(炎をモチーフとした縄文土器)とその他の縄文土器 注、火炎土器はレプリカ
 
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『長者ケ原遺跡20号住居あとの入口にあった、細長い石を指し込んだ甕(かめ)と扁平(へんぺい)な石を被せた甕が伏せられていました。このような「埋甕(うめかめ)は子供の成長や新しい命の誕生を祈ったようです」 と説明されています。この日は入館者が少なかったためか、スタッフの男性が我われ二人に付っきりですべての展示品を解説してくださいました。
 
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縄文土器・前期
 
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生活の道具「縄文土器」の展示
 
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試着用の縄文服
 
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「玦(けつ)状耳飾り」と「牙状勾玉(きばじょうまがたま)」
 
 
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前者は縄文時代の装身具で、円形・楕円形または三角形に近い形のものがあり、主として滑石、蛇紋岩などで作られて、中央にあいた穴から外に一筋の切れ目が出ているのが特徴です。注、「玦(けつ)」とは古代中国の装飾用玉器(ぎょくき)で、リングの一端が切れたC字状をしたものを意味する。また、後者は
縄文時代前期(6000~5000年前)の出土品で、当時の勾玉は半分に割れた玦状耳飾りのリメイクがほとんどであるなか、非常に珍しい形状の勾玉です。
 

「指輪状石製品」は縄文時代のものとは信じられないほど高度なの細工が施(ほどこ)されています。
 
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「大珠(だいじゅ)」
 
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「翡翠(ひすい)大珠」です。以前から勾玉に小さな穴を空ける技法が疑問でしたが、説明員の方が細い筒状の道具(女子竹など)と研磨剤を使っていたことを教えてくださいました。未完成のものにその痕(あと)、中央部に突起がある円形の窪(くぼ)みが残されていたことから分かったのだそうです。ちなみに、硬(かた)いヒスイなどに穴を空けるには丸一日ほどかかったと思われるそうです。また、小さな勾玉を固定するために粘土(ねんど)が用いられたそうです。まさに、縄文人の知恵が勾玉作りに集約されていたのです。
 
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「ヒスイの分布」(縄文時代中・後期)にはフォッサマグナ(青梅川と姫川の上流)に原産地があり、その周辺に出土遺跡が広がっていることが分かります。北関東から東北地方で多く出土していることが興味深いと思いました。
 
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「持ち込まれた黒曜石(こくようせき)」はおそらく長野県の和田峠あるいは霧ヶ峰で産出されたものでしょう。
 
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展示ケース内の「大珠」に見入る同行者
 
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「縄文土器・早期」と「縄文土器・前期」
 
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「長者ケ原遺跡」と「寺地遺跡(てらじいせき)」から出土した縄文土器
 
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「寺地遺跡の木柱」には下部に括(くび)れが作られています。
 
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「玉とぬなかわ」には、『弥生・古墳時代時代も糸魚川地方(ぬなかわ)は、「玉作りの里」として栄えましたが、帆ふん時代中期(5世紀)になるとここにおけるヒスイの勾玉(まがたま)つくりは終わり、ヒスイの産出すら忘れ去られてしまったことが説明されています。大和政権が確立して中央に集中する体制が確立したことがその理由と思われます。
 
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「後生(ごしょう)山遺跡」の「管玉(くだたま)」と「勾玉(まがたま)」
 
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余談です。見学を終える時、気になっていた「久比岐自転車歩行車道」(国道8号沿いの各地で標識を見かけた)について説明員の方に質問しましたが、あまり詳しくはないようで曖昧(あいまい)な返事しか返って来ませんでした。その時、休憩所にいた年配の方が、『それは鉄道線路の跡に造られた道だよ』 と教えて下さいました。昔は海岸に沿っていた北陸本線がトンネルの開通により内陸に移動した際、その跡地が自伝者歩行者道として整備されたのだそうです。つまり、以前は蒸気機関車が走っていたのです。ネットで調べると、上越市の郷津交差点(五智国分寺や水族博物館の約2km西)から糸魚川市の中宿駐輪場(早川のすぐ東)まで32kmも続いているようです。ちなみに、「久比岐(くびき)」は奈良時代に上越地方を指した「頸城(くびき)」に由来するそうです。
 
閑話休題(かんわきゅうだい)。日本における縄文時代は、長期間続いただけでなく、縄文土器や石器に象徴される独自で高度な文化を生んだことで、世界的に注目されているそうです。
  
 
40分あまりの見学を終えて「長者ケ原考古館」を退出しました。(続く)

2016年7月13日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(その4) 糸魚川市の「フォッサマグナミュージアム」

国道8号を寺町交差点まで戻って右折、「日本海ひすいライン」を陸橋で渡り、北陸新幹線の高架を潜(くぐ)りました。右手には糸魚川市役所と越後国一宮の天津神社があるはずです。同神社の境内社である奴奈川神社は「奴奈川姫」を主祭神とし祀っているようです。行き当たった坂道はヘアピン状に折れ曲がって高みへと続いていました。北陸自動車道の上を通過すると、ほどなく案内看板が現れました。糸魚川駅から約10分、木立に囲まれた交差点を右手に入ると美山公園の「フォッサマグナミュージアム」に到着。標高約100mの高台です。ちなみに、美山公園の一部は「長者ケ原遺跡公園」として国の史跡に指定されています。
 
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右手にある駐車場に車を停めて建物へ向かう途中、左手に小さな蒸気機関車を見つけました。
 
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案内看板には、「蒸気機関車 くろひめ号」と題して、『1950年ごろ製造され、糸魚川市須沢でとれる「白土」を運ぶために、1956年(昭和31年)から1982年(昭和57年)まで、東洋活性白土株式会社の横町工場内野工場から糸魚川駅までの約300mの運搬用軽便鉄道で使われていたものです。須沢の城土鉱山に近い黒姫山にちなんで、「くろひめ号」という愛情が付けられました。国産最後の蒸気機関車として有名です』 とあります。

 

フォッサマグナミュージアム」の入口付近です。ちなみに、入館料は大人500円(長者ケ原考古館との共通券は600円)。
 
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展示エリアに入りました。
 
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第一展示室「魅惑のヒスイ」では大量のヒスイ原石の展示が目に入りました。
 
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「緑色ヒスイ 翠(みどり)の足」

 

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同じく緑色ヒスイ
 
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こちらは薄紫色ヒスイ
 
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第二展示室「糸魚川大陸時代」の全景
 
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光を透過するヒスイの実験
 
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重さくらべ(比重測定)
 
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第三展示室「誕生 日本列島」へ入りました。「石はどこで生まれる?」の展示は、さまざまな種類の岩石が火山の溶岩噴出と断層運動によって生み出されることを分かりやすく解説しています。
 
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「地底から来た石たち」の展示は、糸魚川における地殻変動(フォッサマグナ)によってヒスイや新鉱物が地中からもちあげられたことで、糸魚川は石の宝庫になったことを説明しています。
 
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複数の大陸プレートの衝突によって「フォッサマグナ」「糸魚川-静岡構造線」「中央構造線」生まれたことの説明
 
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「白亜紀の世界」では、「日本の恐竜化石産地」のプロットが北陸地方の手取層群に多いことを示しています。
 
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「フォッサマグナの範囲」(左側のパネル)は、西の「糸魚川-静岡構造線」と東の「柏崎-千葉構造線」に挟まれるエリアです。第四期(地質時代の一つで、約260万年前から現在までの期間)の火山が多いことが一目で確認できます。その右側には、正面のスクリーンと床に並べられたディスプレイで46億年前に地球ができるプロセスを立体感のある映像で投影していました。
 
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ちなみに、「フォッサマグナ」は「大きな溝(地溝帯)」を意味し、本州中央部にできたU字型の溝に新しい地層ができたエリアです。

 

第五展示室「魅惑の化石」にある白亜紀の化石群
 
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中生代白亜紀(約1億4500万年前~約6600万年前)のイグアノドン(上腕骨・椎骨)の化石
 
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新生代古い第三紀始新世(約6000万年前)のニシン科の魚「ナイティア」の化石
 
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出口に近い第六展示室「魅惑の鉱物」には、ヒスイをはじめ、水晶など多彩な石が展示してありました。

 

高校時代から地学が大好きだった私はいずれの展示も興味深く観ることができました。ちょど1時間の滞在のあと、「フォッサマグナミュージアム」の受付の方に教えられたルートで、隣接する別の施設まで歩くことにしました。利用した駐車場とは反対側が正面(バス停と駐車場)のようです。
 
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(続く)

2016年7月12日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その3) 糸魚川市能生と糸魚川駅の「奴奈川姫」

雲が垂(た)れ込める日本海を見ながら国道8号を走行

 
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漁港の町である筒石(つついし)を経て能生(のう)漁港に到着。「続々・奥の細道擬行(その1)」の記事で触れたように、親鸞が船に乗った港です。
 
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隣接する能生海洋公園内の「海の資料館 越山丸」と「マリンミュージアム海洋」(セット入場料 大人200円)
 
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越山丸は新潟県立海洋高等学校(旧県立能生水産高等学校)の実習船として昭和55年から平成7年まで活躍したあと、能生海洋公園内に展示されていました。「マリンミュージアム海洋」の館内には、海洋高校の100年の歩み、旧能生町の水産漁業、鯨の骨格標本などの資料が展示されているそうです。

 

道の駅「マリンドーム能生」
 
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「列車を襲った小泊地すべり」(1963年3月)の説明看板には、『白山トンネルを出たところで地すべり土砂に乗り上げた普通列車が、第2波の地すべりによって機関車と先頭の客車が海の方へ押し流され、死者4名、全壊家屋25戸の被害があった』 とあります。
 
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地すべりはこの方向(山の向こう側)で起こったようです。この事故が契機となり、能生駅を挟む区間(浦本駅~有間川駅間、約20km)はいくつかの駅を除いてすべてトンネル化されたようです。
 
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能生漁港の先にある「弁天岩」(厳島神社)
 
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雲が陸地の上に移動しました。
 
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能生の街並みに入ります。
 
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能生川を渡った寺町交差点を左折
 
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新潟県糸魚川市の市振駅と上越市の直江津駅を結ぶ「日本海ひすいライン」(えちごトキめき鉄道)の糸魚川駅に到着。ちなみに、もとはJR西日本の北陸本線の一部でしたが、北陸新幹線の開通とともに経営を分離。糸魚川駅以西は交流電化、以東は直流電化とことなるため、交直流電車とともに気動車が使用されているそうです。
 
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日本海口(北口)に面した駅前広場には「奴奈川姫」(ぬながわひめ)の銅像が立っていました。
 
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その脇に立つ説明看板には、『奴奈川姫」(ぬながわひめ)は越の国・奴奈川族の首長であった。すぐれた才知と美貌の持ち主で、その名は出雲の国まで伝わった。出雲の大国主命は、はるばる奴奈川姫と結婚するために越の国に来て、姫と歌を詠みかわした。そして二人は翌日結婚したと「古事記」にしるされている』 とあります。

 

説明看板の右手にある翡翠(ひすい)の原石
 
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左手のバス停近くにある「ようこそ ヒスイのふるさと いといがわへ」の看板」
 
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北陸新幹線が乗り入れる糸魚川駅のアルプス口(南口)
 
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駅に近い「市立糸魚川小学校」と「市立ひすいの里総合学校の校庭脇に蒸気機関車(C1288号)が展示されています。昭和9年に製造されたもので主として大糸線で昭和47年まで使用されたことが説明されていました。ちなみに、総運転距離は119万kmとのこと。
 
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糸魚川駅前から国道8号に行き当たる大町交差点の角にある海望公園にも「奴奈川姫」(ぬながわひめ)の像が立っていました。
 
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ちなみに、能生(のう)に宿泊した芭蕉はこの糸魚川を通過して、「親不知(おやしらず)」「子不知(こしらず)」などの難所を抜け、20kmほど先(能生からは約30kmの距離)にあル宿場「市振(いちぶり)」に宿泊しています。先を急ぎたかったのでしょう。(続く)

2016年7月11日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その2) 上越市直江津の「名立て崩れ」

そのまま、海岸沿いの市道を走りました。
 
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左前方に崖の上から流れ落ちる大きな滝を見つけました。
 

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鳥ヶ首の滝」です。鳥ヶ首岬の突端を過ぎた場所(名立谷浜IC入口のすぐ手前)にありました。
 
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名立(なだち)漁港に立ち寄りました。
 
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名立漁港の説明を新潟県のhpで見つけました。タイ、ホッコクアカエビ(甘エビ)、ウスメバル、ゲンギョなどの高級魚が水揚げされるそうです。
 
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その隣には「道の駅 うみてらす名立」あります。
 
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案内看板を見つけました。「名立(なだち)崩(くず)れ」の場所と、『宝暦元年(1751年)の高田大地震により発生した名立て崩れにより名立て小泊地区は9割以上の家屋が埋没、死者は400人以上を記録した』 と説明されています。前回の旅で直江津を訪れたときにその存在を知りました。
 
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案内図で確認した場所を目指して旧道と思われる道に入りました。宿場町だったころの雰囲気が残っているようです。
 
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前方の高台に灯台と電波塔が見えて来ました。
 
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さらに進むと、「久比岐(くびき)自転車歩行者道」の標識があります。注、「久比岐自転車歩行者道」については後述予定
 
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名立谷浜ICへ向かう県道87号の急な坂道を上がり、高台へ上がると思われる未舗装の脇道に入ると、もう一つの電波塔(マイクロ波中継所)を見つけました。
 
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その左手には緩やかな傾斜地に造られた棚田が広がっています。ここが「名立て崩れ」の跡のようです。
 
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さらに進むと灯台が目の前に近づきました。
 
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「名立無線中継所」に上がる階段が見えます。
 
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いずれの施設に向かうには雨に濡れた草が生い茂っていて困難ですから別の入口を探すことにして、舗装された道路まで戻りました。「道の駅 うみてらす名立て」の案内標識の脇にコンクリートで固められた斜面と階段がありました。先ほどは逆方向に走っていたため気づかなかったのです。
 
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階段の最上部から見た「名立漁港」(左端)と防波堤越しに見る日本海
 
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階段の先は明らかに「鳥ヶ首岬灯台」へ続く道のようですが、ここも草が深いため近づくことは止めました。県道87号のヘアピンカーブ越しに名立小泊集落と名立漁港の全景を見ることができました。
 
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頂上付近に「鳥ヶ首岬灯台」があるそそり立った崖はコンクリートで表面を補強されることでかろうじて崩落を防いでいることがよく分かりました。
 
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(続く)

2016年7月10日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その1) 上越市直江津の「日本海ヒスイライン」

足を痛めていた同居者が4週間の治療とリハビリ(電気治療とマッサージ)を経てほぼ快復しました。距骨(きょこつ)にヒビが入ったため、最初のうちは簡易ギプス(ギプスシーネとギプス包帯)で足関節(そくかんせつ)を固定した状態で松葉杖を利用して歩く状況でしたが、2週間後にギブスを外してリハビリに移行しました。そして、3週間を過ぎたころにはなんとか歩けるようになり、4週間が経過するとほとんど違和感なくなったようです。

 

そこで、リハビリを継続中である5週間後、当初のスケジュールから4週間遅れになりましたが、当初プラン通りのドライブ旅に出かけることにしました。ちなみに、関東甲信地方では6月5日ころ(北陸では6月13日ころ)に梅雨入りしていましたので、気休めにしかなりませんが、旅行中の好天をひたすら祈りながらの出発です。

 

                          ☆

 

続・奥の細道擬行」の記事を投稿してから約3年が経過しました。江戸(千住)を出立して奥州(東北地方)を巡ったあと、越国(こしのくに、新潟・富山・石川・福井)を通過した芭蕉が選んだ終着地は美濃国(岐阜県)の大垣でした。「続・奥の細道擬行」のゴールにした上越市(直江津)の先は、前半の松島や山寺、中盤の象潟(きさかた)のようなスポットがないため、芭蕉の句会などが中心になって、物語としては面白味に欠けます。

 

そのため、「続続・奥の細道擬行」に出かける決断しかねていました。また、ブログを「温泉大好き、ドライブも!」から「旅行大好き、飛行機も!」に模様替えしたことで旅行先の選択基準に変化が生じたようです。

 

しかし、何事も完結しないと気がすまない性格である私は上越市以降についても芭蕉の足跡を辿(たど)ることにしました。ただし、米原から大垣までは中山道の旅で訪れていますから、今回は上越市から米原市まで北陸道を巡ります。

 

                          ☆

 

夜明け前の午前4時少し前に関越自動車道に入り、空が白み始めたころには上越自動車道にそれました。時々霧雨が降るあいにくの天気ですが、走行には何の支障もありません。午前4時45分に早い朝食をかねた休憩のため横川SAに立ち寄ることにしました。
 
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フードコートの入口付近には名物の「峠に釜めし」の立て看板がありますが、弁当の売店(萩野屋)はまだオープンしていません。
 
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軽い朝食として選んだのは「炙りチャーシューラーメン口福軒」の「あぶり麦豚ラーメンミニとろろ丼セット(950円)です。
 
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もちろん、同行者とシェアするとちょうど良いと考えました。ちぢれ麺が入った醤油ラーメンはやや醤油味が強いように感じました。そして、ミニとろろ丼はご飯が暖かいともっと美味しいと思うのですが・・。
 
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同行者は土産物がならぶショップで「スイートコッペ」(168円/個)に興味を持ったようで、味見をするために一個だけ購入しました。「群馬産こんにゃく入りスイートポテト」と説明されているように、アンパンの餡(あん)として「ジャガイモ」と「こんにゃく玉」が入っており、不思議な食感が印象に残りました。
 
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上り坂に進んだ碓井(うすい)軽井沢IC付近では霧が立ち込めていました。
 
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上田菅平ICに差し掛かるころには霧は晴れ、
 
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長野ICまで進むと霧は晴れて雲間から薄日が漏れ始めました。
 
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休憩のために午前6時40分に立ち寄った黒姫野尻湖PAにはナウマンゾウの像が飾られています。このPAの北西約3kmの野尻湖西岸から3万5千年~4万5千年前の氷河時代に棲息していたナウマンゾウの化石や旧石器人類(野尻湖人)の作った石器などが数多く発見されたことが説明されています。ちなみに、ブロンズ像は実物の5分の1の復元像だそうです。
 
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雲間から太陽光が漏れてきましたので予定になかった妙高高原PAにも立ち寄りました。
 
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4車線化工事の説明看板に説明されていた通り、現在片側1車線(対面通行)の区間(妙高高原IC~上越JCT)ではところどころで工事が行われていました。
 
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強い雨が降り始めるなか、上越JCTで北陸自動車道に入ってすぐの上越ICから午前7時半過ぎに国道18号に出ました。関越自動車道の練馬ICから287.3km、所要時間は約3時間30分です。ちなみに、このICは前回の旅「続・奥の細道擬紀行」を終えた場所です。国道18号の下源入交差点で国道8号(日本海ヒスイライン)に入って西進しました。関川を渡った石橋交差点で県道123号へと右折しました。一刻も早く日本海を見たかったのです。天下無敵の「晴れ男」である私の願いが通じたようで、幸運にも雨が小降りになりました。

 

高架橋で信越本線の上を通過するとT字路に行き当たりました。左手にあるのは市立水族博物館館でした。
 
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その前には日本海が広がっていました。
 
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この日は天候が優(すぐ)れないのにもかかわらず、海が凪(な)いでいます。
 
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海岸沿いに進むと、左手に石柱を見つけました。「親鸞聖人御上陸居多(こた)ヶ浜記念堂地」と刻まれています。
 
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もう一つの石柱には「親鸞聖人御上陸之地 居多ヶ濱」とあります。
 
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ちなみに、比叡山や興福寺など既存の仏教集団が法然の率いる新興教団を訴えたことにより、後鳥羽上皇が建永2年(1207年)に法然に土佐国への流罪、その弟子である親鸞などは越後(えちご)国の地に流罪を命じました。「承元の法難」と呼ばれる事件です。親鸞は琵琶湖(船旅)と越前(福井県)・越中(富山県)の陸路を経て、木浦(現在の糸魚川市能生)から船に乗ってこの地に上陸したと伝えられます。聖人の木像が安置される八角形の見真堂が石柱の後方(崖の上)にあるそうです。

 

斜めに続く坂道を上がると前回の旅で立ち寄った「五智国分寺」へ行けるようです。
 
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海岸では海の家の看板の横で工事が行われているようです。
 
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ちなみに、「奥の細道紀行」での芭蕉は「続・奥の細道擬紀行」で紹介した直江津高田に数日滞在したあと、五智国分寺とその近くの居多(こた)神社に立ち寄り、名立へと出立したそうです。(続く)

2016年7月 6日 (水)

映画「ビューティフル・マインド」を観る

アメリカ映画「ビューティフル・マインド」(A Beautiful Mind)を久しぶりに観ました。わが家のDVDライブラリーに収集してある一作品です。アメリカで2001年(日本では2002年)に公開された映画は、シルヴィアナサー著「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」を原作として映画化され、ノーベル経済学賞を受賞した実在の天才数学者、ジョン・ナッシュの半生(約50年間)を描いています。

 

ちなみに、アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演女優賞、脚色賞の4部門で受賞しています。またゴールデン・グローブ賞でも同様に、作品賞、主演男優賞など4部門で受賞しています。主演はニュージーランド出身(4歳でオーストラリア移住)のラッセル・クロウ、2000年に公開された「グラディエーター」でアカデミー主演男優賞を受賞しています。なお、本文はネタバレになっていますから、全文を読む方はその点にご留意ください。

 

                          ☆

 

主人公のジョン・ナッシュが1947年にカーネギー奨学生としてプリンストン大学大学院の数学科(博士課程)に入学したところから物語が始まりました。この世のすべてを支配する理論を発見したいと研究に没頭するジョンは、その奇妙な言動のため学友たちから奇異の目で見られることも気に留めません。唯一、気が合ったのはルームメイトのチャールズだけでした。授業に出る時間を惜しんで研究に没頭した結果、ジョンはついに「ゲームの理論」(集団における個人の意思決定メカニズムを定式化した考え)を発見します。

 

その才能と明晰(めいせき)な頭脳を認めた教授の推薦を得たジョンは、MIT(マサチューセッツ工科大学)のウィラー国防研究所に教授の職を得ました。そして、友人に誘われて入ったプールバー(注、ビリヤードができるバー)で出会った女性アリシア(MIT での教え子)と恋に落ちて後に結婚することになります。ジョンは国防総省の諜報担当者バーチャーに誘われてロシアの通信暗号の解読に取り組みますが、米ロの冷戦下での極秘任務によるストレスはジョンの精神を徐々に蝕(むしば)んで行きます。

 

1954年になったころ、彼の存在が敵にばれて彼が襲撃される事件が起こります。そして、日常生活でもジョンは異常な体験をするようになって行きます。実は、それらはジョンの幻覚でした。精神分析医のローゼン博士と強制的に引き合わされたジョンは精神障害の一種である「統合失調症」という難病に侵(おか)されたのです。そして、ルームメイトのチャールズも幻覚の一部だったことが明らかになり、ジョンは強制的に入院・拘束させられてしまいます。

 

ちなみに、「統合失調症」とは遺伝や、脳の変化、環境因子などいくつかの要因で発症すると考えられているそうです。陽性症状では妄想・幻覚・思考障害が、陰性症状では感情の平板化(感情鈍麻)・思考の貧困・意欲の欠如・自閉(社会的引きこもり)などがあるようです。(筆者注)

 

このように、前半はナッシュの視点からみたサスペンスドラマ(実は導入部)であり、後半は一転して観客の目で見る夫婦愛の物語になりました。妻アリシアの献身的な愛情と苦悩が丁寧(ていねい)に描かれます。薬の効果が表れストレスがなくなり、ジョンに症状が出なくなったことで、ジョンとアリシアはプリンストンに戻ることにします。そして、二人の間に男の子が生まれ、幸せな日々が訪れるかと思われましたが・・。

 

妻アリシアから介護を受ける闘病生活を送りながら研究を続けるナッシュ。しかし、治療のために受けた投薬の副作用でナッシュの思考力は徐々に低下して行きます。そのため、ナッシュは妻から手渡された薬を飲んだことにして机の引き出しに隠します。そして、ジョンは国防総省のバーチャーや元ルームメイトのチャールズの姿を見かけるようになってしまいました。

 

これを知った妻アリシアは、夫婦間に距離が生じ、子供へ危険が及んだりすることを心配します。そして、慣れ親しんだ環境へ戻ることをジョンに勧めます。MITへ戻ったジョンは、幻想に悩まされながらも、学部長(元の同僚)の計らいで図書館に席を借りて研究を続けます。その合間に若い学生たちと接したジョンは統合失調症による幻覚から少しは開放されたように感じ始めました。

 

そして、何年かが経過したあと、ジョンは母校のプリンストン大学で教授として教鞭(きょうべん)をとるようになっていました。1994年にジョンはノーベル賞候補にノミネートされたことを上司から知らされますが、自らの病のことを考えてノーベル賞を受賞することを躊躇(ちゅうちょ)します。しかし、思いがないことが起こりました。同僚の教授たちが次々と自らの万年筆をジョンのテーブルに置いて祝福したのです。これに感動したジョンは無常の喜びを感じます。(注、プリンストン大学では偉大な学者に敬意を表するために自分の万年筆を捧(ささ)げる習慣があるとのこと

 

同年、ジョンは「ナッシュの均衡」(非協力ゲームの理論)の経済学への応用に関する貢献でノーベル経済学賞を受賞することになります。そして、授賞式での感動的なスピーチを終えたジョンがハーバード大学生の息子と妻アリシアと短い言葉を交わすシーンは余韻(よいん)を残しながらエンドロールへと移りました。

 

                          ☆

 

<視聴後感>

この映画の魅力は、なんといっても完璧な脚本に基づいた演出・映像・音楽が見事に融合していることでしょう。そして、主演ラッセル・クロウが学生時代から老年に差し掛かるまでの50年間を演じきったことは見事ですが、妻アリシア役を演じたジェニファー・コネリー(助演女優賞受賞)は、感情を内に抑えながらも、その心情を観客にひしひしと感じさせた迫真の演技が印象に残りました。
 
登場人物は主人公のジョンとその妻のアリシアを除くと、大学の関係者ばかりが多数登場します。国防総省のの諜報担当者もジョンの心の中だけの存在であり、夫婦の一人息子でさえその存在を示すためだけに登場するだけであり、夫婦の親兄弟などは一切登場しないのは奇妙ですが、ジョンの「統合失調症」を際立たせるための演出だと思われます。不可欠ではないものはすべて削(そ)ぎ落としているのです。

 

象徴的と思われる題名の「ビューティフル・マインド」(美しい精神)は、ジョンが病を認めてそれと戦う決心をしたこと、夫ジョンを支える妻アリシアの愛情、そして社会復帰しようとするジョンの心の強さ、のいずれをも表現していると思われます。まさに、エンディングの歌"All love can be"が、『暗闇の中、あなたを見守りましょう』で始まり、『すべての愛というものを・・』で終わることがそれを如実(にょじつ)に示しているようです。

 

蛇足です。映画のなかでは不必要(あるいは不都合)な事実がいくつか表現されていないとの指摘がありますが、映画の完成度と魅力(登場人物の描き方)には影響がないと考えて、ここでは具体的な言及を控(ひか)えたいと思います。

2016年7月 2日 (土)

「過剰反応社会」を考える

ラジオ好きの私はテレビ放送をあまり見ない方だと思います。それでも、テレビ東京系の「WBS」「モヤモヤさまぁ~ず2」および「カンブリア宮殿」、NHKテレビの「ブラタモリ」と「歴史秘話ヒストリア」は欠かさず観ることにしています。一方、同居者はテレビを見る時間が比較的長いほうでしょう。WOWOWで毎週放送されるアメリカのテレビドラマ(犯罪捜査もの)が好きなようでタイムシフトで欠かさず見ています。それ以外は、同じく衛星放送で多数放送される「海外旅行番組」や「ショップチャンネル」、そして趣味関連のビデオを購入したDVDで熱心に確認し、地デジでは「旅番組」や「ニュースショー」を見ているようです。

 

私が気になるのは最後に挙げた「ニュースショー」です。小学館のデジタル大辞泉によれば、『キャスターを中心に、さまざまなニュースを関係者とのインタビュー、現場中継、記者のリポート、あるいは解説などを多様に織り交(ま)ぜながら、一種のショー形式風に構成したテレビニュースの報道番組』と規定されています。映像とフリップを多用する方法で誰にでも分かりやすいように詳しく解説されます。技術関連など専門知識が必要な事件や事故の場合は、専門家をゲストに招(まね)いて、大学における講義のような難しい説明が行われます。すなわち、事件や事故について事細かな情報が「ニュースショー」を通じて連日提供されているのです。

 

最近に始まったことではありませんが「ニュースショー」(扱う話題が広範囲に及ぶためワイドニュースショーまたはワイドショーとも呼ばれた)の特徴は、過剰とも思われる詳細情報の提供に加えて、コメンテーターと呼ばれる複数の出演者が自分の意見や感想を述べるのです。コメンテーターは知名度の高い芸能人やタレントが中心ですが、時にはジャーナリストや評論家が加わることもあります。説明の合間にキャスターがコメンテーターを適宜(てきぎ)指名するため、どうしても思いつきの発言と感情的なコメントが多くなってしまいます。したがい、事件や事故に対する憤(いきどお)り、あるいは『誰かが何とかするべきだったのではないか』という意味のないコメントが繰り返されることになります。

 

「ニュースショー」が事件や事故を扱うことに意味がないとは言いませんが、上記した無意味なコメントや番組が覗(のぞ)き見趣味に流れてしまうことは「テレビ番組の劣化」、つまり60年近く前に社会評論家の大宅壮一氏が警鐘を鳴らした「一億総白痴化」(テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力が低下してしまう現象)が今のテレビ番組でも続いています。ちなみに、「一億総白痴化」という流行語はのちに「一億総中流」、そして最近は「一億総活躍」というイメージ(幻想)政策を生み出しています。

 

また、今年は正月早々から「政治家のスキャンダル」と「芸能人の不倫」のニュースが目白押しであるため、「ニュースショー」が同じ話題を繰り返し取り扱うことになってしまいました。これは一種のプロパガンダ(政治的意図を持つ宣伝)手法となって、スキャンダルの当事者を連日批判・非難する内容の番組が放送されているのです。そして、自ら考える時間を与えられない視聴者は垂(た)れ流されるこの「情報スコール(突風)あるいはシャワー(大雨)」(一方的な情報の垂れ流し)を無防備に連日浴びているのです。これは一種のマインドコントロール手法とも言えます。

 

コメンテーターの意見や感情的なコメントを知らずしらずに受け入れて、しかもそれを自分のものとして自らの頭脳に定着させてしまうのです。その結果として、テレビ番組の視聴者はコメンテーター気取りでネット(SNSやブログ)に受け売りの意見と非難を書き込んで、それがSNS利用者たちに拡散してゆくのです。この現象は「正帰還」(せいきかん)、つまり非安定平衡(へいこう)ですからチェック機能が働きません。もし、人が自分で情報を集めて自ら判断すれば、「負帰還」(ふきかん)が働いて安定平衡となり、疑問や別の考えが生まれるはずです

 

しかし、すべてをテレビ番組に委(ゆだ)ねる状況では、とても自分で判断することはできないでしょう。多くの研究によって、『子供が長時間テレビを見る生活を続けると、脳の発達や言語能力に悪影響を与えるとの研究結果が報告されています。もちろん、子供だけのことではなく、大人についても脳の機能に悪い影響があることは論を待たないでしょう。

 

最近、短兵急(たんぺいきゅう)に結論を求めたり、一見分かりやすいと思われる意見に賛同したりする人が増加しているように感じられます。これは脳を十分機能させていない(活用していない)ことの証左(しょうさ)ではないでしょうか。難しい課題を考えることが面倒に感じられ、誰かに結論を示してもらいたいという願望です。言いかえると、相違点も含めて相手を受け入れるということができない(認知的複雑性の低さ)でもあります。一面的な見方を生み出す「ニュースショー」や「ネット炎上」などのメカニズムは「過剰反応社会」を着実に強化させています。

 

本題からは逸(そ)れますが、「クレーマー」(これは和製英語であり、アメリカ英語では「コンプレインナー」)や「モンスターペアレント」(同上、米語では「ヘリコプター・ペアレンツ」*なども「過剰反応社会」の申し子と言えるでしょう。(*注、頭上を旋回するヘリコプターのように子供に寄り添い、トラブルが起きると直ちに介入する親を指す) そして、「クレーマー」と「モンスターペアレント」は別の精神構造(損得勘定が強い、自己中心的、精神病質/反社会性人格障害であるサイコパス)が背景にあることが多いため、ここではテレビ番組の悪影響に限定して考察することにします。

 

「ニュースショー」は事実に基づいた内容をアナウンサーが読み上げる「ニュース」と異なり、あくまでも「ニュースを題材としたショー」であると認識する必要があります。「ニュースショー」は「ニュース」に基づいて、憶測とインタビューを織り交ぜた内容で視聴者の興味を引くことが主目的であって、問題の本質を討議の中から導き出したり、ましてや問題を解決するために役立ったりすることはまずないでしょう。

 

このため、「ニュースショー」に影響を受けて(コメンテーター意見に感化されて)思い悩んだり、受け売りの意見をSNSへ投稿することは極力控(ひか)えるべきだと考えます。それは時間と感情の浪費であり、思わぬトラブルに巻き込まれるかもしれません。「ニュースショー」が好きな方は、あくまでも「ショー」(娯楽)であると認識し、コメンテーターの意見はさまざまな意見の一つである(そう言う考えをする人もいるのか)と聞き流すことをお勧めします。

 

今回のテーマについての結論は、『「過剰反応社会」(いいかえると相互監視社会)において自らの真情(実はほとんどが受け売り)を発露(はつろ)する目的でSNSなどを利用しないほうが賢明である』 ということです。

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