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2016年7月16日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(その7) 糸魚川市の「たら汁」と「市振の関跡」・朝日町の「境関跡」

「フォッサマグナミュージアム」と「糸魚川市陸上競技場」の外周を巡るコースで糸魚川市の市街地に入り、国道148号線(糸魚川街道)に出て明星セメントの大きな工場前を通過、国道8号方面へ北上しました。この道を南下すると、フォッサマグナ(糸魚川・静岡構造線)に沿って信州松本に達しますが、歴史的には「塩の道」とも千国(ちくに)街道とも呼ばれます。ちなみに、昨年6月に白馬と松本まで長野県中西部をドライブしたときに栂池(つがいけ)高原でこの「塩の道」を見かけたことがあります。

 

国道8号(日本海ひすいライン)に入って姫川を渡り、海岸沿いのコースで親不知(おやしらず)・子不知(こしらず)を経て市振へ向かいました。「子不知」(勝山-歌)と「親不知」(歌-市振)では崖が海岸に迫っているため、国道8号は約15kmの距離にそれぞれ、5つの洞門(どうもん、ロックシェッド)と駒返トンネル(長さ538m)、7つの洞門と天険トンネル(長さ734m)がありました。洞門を通過するときは、まるで額縁に入ったような日本海を横目で見ながらの運転になり、天険「親不知」の景観を見る機会はありませんでした。しかも、緩(ゆる)やかにカーブする洞門内は薄暗いため、対面通行ですれ違う大型トラックの隊列(コンボイ)には神経を使いました。
 
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糸魚川市の美山公園に長時間(2時間半以上)滞在したため、当初予定していた富山県朝日町(たら汁街道の栄食堂)ではなく、その手前の新潟県糸魚川市大字市振(いちぶり)にある道の駅「市振の関」で遅い昼食にすることにしました。日本一うまい「たら汁」の看板を見かけたことと、予定からかなり遅れてすでに午後2時を過ぎていたことによります。ちなみに、地名の「市振」は京都からみて、越後国の第一番の振り出し(宿場)であったことに由来するそうです。
 
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コンビニのような建物は、右半分が売店で、左半分が食堂になっていました。
 
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同行者は珍しいことに「カレーライス」(600円)と「ゆで玉子」(50円)を選び、
 
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私はもちろん心積もりしていた市振名物の「たら汁定食」(980円)を選択しました。
 
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もとは漁師のための「浜汁」(漁を終えたあとの朝食)だったそうで、素朴でありながら期待通りの美味しさでした。ぶつ切りされた鱈(たら、スケトウタラ)がそのまま味噌汁に入れられているためでしょう。ただし、鯛(たい)を食べる時と同様、太い骨(本数はそれほど多くありません)を注意深く外しました。ちなみに、スーパーで売られている鱈の切り身(3枚下ろし・5枚下ろし)には、当然のことですが、太い骨はありません。また、鱈のシーズンは降雪と寒さで旅行しにくい12月上旬から2月下旬とされるようです。
 
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昼食を終えて立ち寄りを予定していた「市振りの関跡」を探していると、道の駅「越後市振の関」の看板を見つけました。そこには『天下の険(けん)として全国的に有名な「親不知・子不知」の富山県側に位置していること』 と『新潟県の最西端に位置する糸魚川市は地質的条件に恵まれも、平成21年に「糸魚川ジオパーク」として日本初の世界ジオパークに認定されたこと』 が説明されています。
 
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しかし、「市振りの関跡」の遺構はおろか、その説明看板(記述)などはまったく見当たりません。自分の山勘(やまかん)のナビにしたがい、国道8号を少し戻って旧道と思われる脇道に入って探すことに。そして、「勘ナビ」の通り、小学校の校庭内に見つけました。上越国の高田藩が設置した「市振り関所跡」を示す石柱です。
 
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案内看板には、『陸路を旅する人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所からなっていたこと』 が説明されています。このあたりの陸路は難所が多く、船を利用する旅人が多かったためでしょう。
 
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糸魚川市指定文化財・天然記念物「関所榎(えのき)」(樹齢250年以上、樹高17.5m)
 
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ちなみに、市振宿の旅籠(はたご)に泊まった芭蕉は『一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月』 の句を残しています。遊女と自(みずか)らを萩(はぎ)と月に例えながら宿の情景を見事に表現した名句とされます。

 

境川を渡って富山県朝日町に入って「境関跡」へ向かいましたが、ここでも旧道県道374号)へ入る必要がありました。旧道を少し進んだ空き地(境郵便局の手前)に境関所跡の標識があり、近くに「御関所大門」の説明看板が立っていた。ちなみに、こちらは加賀藩(越中国)側の関所です。
 
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「境関跡」の石碑脇にある説明看板には、『境地区は、越中(富山県)と越後(新潟県)との国境に位置するため、中世ころから国境警備のために関所が設けられていましたが、近世に入ると加賀藩が慶長19年(1614年)に国境の治安維持と通行管理のための「関所」が設けられた。「境関所」には「岡番所」と「浜番所」があり、陸上と海上の警備を行った』 ことなどが書かれています。
 
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明治時代に入って廃藩置県が行われると境関所跡は小学校となりましたが、その小学校が閉校になったそうです。現在はその跡地を利用して、境関所をイメージした屋根や門構えの「関の館」が建てられていました。
 
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(続く)

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