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2016年8月

2016年8月31日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(その37) 「レインボーライン」

日向湖を後にしました。魚料理の宿「錦波とろばこ亭」にすぐ近くには崖崩れの対策として法枠(のりわく)工法で巨大な格子状のコンクリート斜面上に造成してありますが、さらに崖崩れが進行したようで、鉄パイプの足場が組まれています。
 
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手前の日向漁港では漁協が運営する「ひるが海上釣堀」(写真右下)に人が集まっています。ちなみに、多様な楽しみ方ができるように、岸壁釣り、いかだ釣堀、小物釣り筏(いかだ)がりよう利用できるそうです。
 
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右手の防波堤の手前には養殖筏(いかだ)、防波堤の先には岩礁(がんしょう)と若狭湾が見えます。
 
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左手の防波堤にも人影があります。
 
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「九々子湖」との中間地点まで戻り、日本百名道のひとつに選ばれている「三方五湖レインボーライン」に入ることにしました。
 
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「三方五湖レインボーライン」(福井県道路公社が管理する長さ11.24kmの有料道路)の日向料金ゲート(美浜町側)に到着。通行料金は普通自動車が1040円。
 
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私の車のナンバープレートを見た料金徴収担当の方は、『遠くからですね。今日はあいにくガスが出ていて視界が良くありませんが、それでもいいですか?』 と声を掛けてくれました。といわれても、引き返すわけにもゆきませんから、『それはご親切に。分かりました』 と返してゲートを通過しました。

 

緩やかにカーブしながら「三方五湖レインボーライン」続きます。
 
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突然、視界が広がり、右手に「日向湖」が見えましたので、駐車スペースに車を停めました。「日向湖」内を航行する船と点在する養殖筏(いかだ)が確認できます。
 
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反対側(左手)には「水月湖」が、木立にかなり遮(さえぎ)られていますが、何とか見ることができます。
 
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ズーム撮影をすると、隣の「三方湖」とつながる部分(水路)を確認でき、その右脇に道路が通っているようです。やはり、「三方五胡スカイライン」を走って良かったのです。
 
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横にある看板に「日向湖」と「水月湖」を結ぶ「嵯峨隧道」の由来が詳しく説明されていました。『宝永6年(1703年)に工事が始まり、多くの人たちの尽力(じんりょく)により1790年ころに完成した。「水月湖」の水位が下がったことで湖辺一帯に約100ヘクタールの新田が開拓された』 とあります。
 
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さらに2-3分先に進むと靄(もや)が立ち込めて急に視界が悪くなってきました。
 
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路肩の駐車スペースに車を停めて北方向を撮影しました。靄(もや)が晴れれば若狭湾が広がっているはずですが・・。
 
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最高地点を目指しました。
 
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路傍(ろぼう)で見かけた小さな地蔵堂
 
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さらに視界が悪くなりましたので、前方の路肩と対向車線を注視しながらの運転になりました。
 
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梅丈岳(ばいじょうだけ)展望台の入口に差し掛かりました。
 
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梅丈岳第一駐車場にはわずか数台しか停まっていません。レストハウスにある特産品販売所(左)と軽食・喫茶処(右)は霞(かす)んでいて、その外観がよく見えません。展望台と山頂公園については関連のhpを参照してください。
 
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駐車場にあった案内地図によると、標高400mの頂上までリフトまたはケーブルで行けるようです。
 
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「三方五胡の案内」には、『南から若狭湾にのびる三方断層に当たる古生代の山脈が沈降して形成された陥没湖(かんぼつこ)であるとされる』 との概要と5つの湖の各について説明(内容は省略)されていました。注、「九々子湖」だけは潟湖、つまり耳川によって運ばれた砂が入江に堆積(たいせき)して入口付近(現在の早瀬地区)が塞(ふさ)がれたことによりできた湖
 
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この日の望遠鏡は無用の長物です。
 
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(続く)

2016年8月30日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その36) 美浜町の「三方五湖」

若狭湾沿いの県道225号を進んで美浜町の坂尻海水浴場の脇を通過します。前方の山はその名も天王山(てんのうやま、標高331m)。
 
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結局、国道27号に戻り、郷市交差点で県道214号へ右折し、道なりに三方五湖方面へ進みました。ちなみに、歌手の五木ひろしさんは美浜町の出身(京都府生まれ)のようです。
 
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早瀬海岸沿いに走って早瀬川を渡り、「三方五湖(みかたごこ)」のひとつ、汽水湖(きすいこ、海水と真水が混じった湖)である「九々子湖(くぐしこ)の北端にある遊覧船乗り場に出ました。若狭湾国定公園の名勝地として名高い「三方五湖」は敦賀市から約15kmの距離にあります。面積が1.4平方キロメートル、周囲7.1km「九々子湖」越しに見える山は若狭町と美浜町の境界にある「矢筈山(やはずやま)」と「雲谷山(くもたにやま)」でしょう。ちなみに、「三方五湖」のうち、この「九々子湖」と西隣の「日向(ひがた)湖」の2つは美浜町にあります。
 
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遊覧船が係留(けいりゅう)されています。
 
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「三方五湖」は「ラムサール条約登録湿地」(2005年登録)で、リアス式海岸で有名な若狭湾の中でも特に沈降の著しいところだそうです。
 
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若狭湾とつながっている隣の海水湖「日向湖(ひるがこ)」の入口に到着
 
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右手には若狭湾への出口に設けられた日向漁港の防波堤が伸びています。
 
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 防波堤灯台をズーム撮影
 
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「日向湖」も「三方五湖」のひとつで、高倉健さんが主演した映画「夜叉(やしゃ)」(1985年公開)の舞台になりました。田中裕子さん、田中邦衛さん、大滝秀治さん、小林稔侍さん、ビートたけしさん、など演技派が多数出演した映画で、高倉健さんの魅力を最大限に感じられた記憶に残る映画です。

 

道の先にあるのは映画にもシンボルとして登場した、若狭湾との出入り口として人口開削された日向水道に架かる、「日向橋(ひるがばし)」です。
 
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現在は架け替えられて平凡な印象になってしまいました。上記の映画「夜叉」をクリックすると予告編がYouTubeで観られますから見比べてみてください。日向橋の袂(たもと)に「へしこの里」と彫られた石柱がありました。「へしこ」とは鯖(さば)に塩を振って塩づけにし、さらに糠漬(かすづ)けにした若狭と丹後半島の郷土料理です。ちなみに、秋田では「ハタハタ(鰰)のへしこ」が名物です。
 
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日向橋の遠景
 
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日向橋の袂から見る日向湖北岸の風景です。昔は京都・丹後半島の伊根と同様、舟屋が多かったそうですが、今は岸壁になっていて、その姿はほとんど見ることができません。
 
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日向橋を渡って北岸の道に入りました。岸壁に係留(けいりゅう)されているのはイカ釣り船のようです。左前方に見える山は三方富士とも呼ばれる梅丈岳(ばいじょうだけ)でしょう。美浜町と若狭町の境界である山の尾根に続く三方五湖レインボーラインが梅丈岳の山頂付近を通っているはずです。
 
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面積0.92平方キロメートル、周囲4kmの日向湖はかなりの大きさで、中心よりやや右寄りに養殖筏(いかだ)のようなものが見えますが、海水湖の日向湖ではハマチやタイの養殖が盛んであるようです。また、対岸の山が低くなっている方向に汽水湖(きすいこ)である水月湖(すいげつこ)があり、隧道(ずいどう)の嵯峨(さが)水道で日向湖と結ばれているそうです。
 
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南側から見た日向湖の東岸。山が切れている場所に日向橋があり、広い建物は魚料理の宿「錦波とろばこ亭」のようです。
 
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南西岸には先ほど北岸から見た養殖筏(いかだ)の良く見えました。
 
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南岸から見た北岸の遠景
 
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日向橋近くまで戻りました。その袂(たもと)近くに映画の主要な舞台である居酒屋「蛍(ほたる)」のセットがあったはずです。
 
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(続く)

2016年8月29日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その35) 敦賀市の「敦賀港」「気比の松原」から美浜町へ

敦賀港の川崎・松栄地区に到着。朱塗りの松栄防砂堤灯台(左手)と防波堤の右手にある外航RORO船岸壁が見えました。写真には写っていませんが、その岸壁の先には多目的国際ターミナル(コンテナ岸壁)があるはずです。
 
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左前方には釣り船はプレジャー・ボートが確認できます。
 
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右手には釣りをする人たちが
 
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海岸沿いの市道を西進して「気比の松原」へ向かいました。
 
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気比の松原」(長さ約1.5km)には平均樹齢200年ほどとされるアカマツやクロマツが約17,000本並んでいました。「万葉集」や「日本書紀」にもその名があるほどの歴史があり、日本の白砂青松100選に選ばれており、静岡県の「三保の松原」、佐賀県の「虹の松原」とならんで「日本三大松原」の一つとしても知られます。芭蕉は敦賀に到着した翌日に「気比松原」で月見をすることを楽しみにしていたところ、あいにくの雨になったため、前回の記事で紹介した句 『名月や 北国日和 定めなき』 を残しています。
 
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右手には敦賀港が見えます。外航RORO船岸壁(右端)の左手には多目的国際ターミナル(コンテナ岸壁)とそこから伸びる防波堤と防波堤灯台が確認できました。そして、さらに後方にフェリー岸壁から伸びる鞠山(まるやま)北地区の防波堤(長さ1330m)も薄っすらと見えます。
 
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左手を見ると、夏期には海水浴場となる砂浜が続いています。海の家らしき建物は、早朝のためか、クローズされているようです。砂浜の先にある山の麓に伸びる道路は県道33号で、景勝の地「色ヶ浜(いろがはま)」へ至る道路です。
 
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陸路が整備されていなかった江戸時代に、芭蕉は敦賀の港から舟に乗って「色ヶ浜(いろがはま)」(奥の細道の本文では種(いろ)ヶ浜と記述)まで出かけ、『寂(さび)しさや 須磨(すま)にかちたる 濱(はま)の秋』(源氏物語の須磨より優れているとの思いを表現)、『波の間や 小貝にまじる 萩の塵(ちり)』、『小萩(こはぎ)ちれ ますほの小貝 小盃(こさかづき)』 、 『衣着て 小貝拾わん いろの月』 の句を残しています。ちなみに、「色ヶ浜」からは今でも砂の小島2つからなる水島(みずしま)を眺(なが)めることができるそうです。

 

古い町並みが残る一方通行の市道を引き返します。雪が多い北国らしく、道路の中央に融雪用設備(消雪パイプ)が埋め込まれていました。
 
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釣り船が多数停泊しています。その先には先ほど通過した港大橋が見えます。
 
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敦賀港の東にある「赤レンガ倉庫」に立ち寄りました。1905年にアメリカの石油会社が建てたもので、国の有形文化財に灯篭くされています。横浜港小樽運河の赤レンガ倉庫よりも小ぶりですが、現在は内部は娯楽施設(午前9:30開館、入館料大人400円)になっており、明治後期から昭和初期までの敦賀の街並みがジオラマで再現されているそうです。
 
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金ケ崎城址の下にあるトンネルを通過して新日本海フェリーの敦賀フェリーターミナルに到着。このターミナルから新潟港と秋田港を経由して北海道の苫小牧(とまこまい)東港まで行くフェリーが出ているようです。
 
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横から見たフェリーターミナルとボーディングブリッジ(搭乗橋)
 
 
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プチ薀蓄(うんちく)です。搭乗橋は船の左側に架けられますが、これは操舵手(そうだしゅ)が左側(左舷、さげん)にいるため、操舵手が見やすい左舷を岸壁に接岸させることが慣習となったからです。これに倣(ならって)って飛行機も胴体の左側にブリッジやタラップを設置するようになったそうです。このため機長は左側の操縦席(そうじゅうせき)に着座しています。
 

フェリー岸壁の近くまで進むと、左手の内貿RORO船岸壁(手前)とバルク岸壁(奥)に貨物船が2隻停泊しているのが確認できました。いずれも「ばら積み貨物船」(バルクキャリア)のようで、積載する石炭などの荷下ろしをしていると思われます。左手の施設(2つの立方体と丘の上の煙突)は北陸電力の敦賀火力発電所です。
 
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火力発電所の脇を戻ります。奇妙な形をしたものは石炭の積み下ろし用の巨大なアームで、石炭はその下にあるベルトコンベアを使って道路の反対(左)側へ運ばれるのでしょう。
 
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国道476号を経由して国道8号(敦賀バイパス)に入りました。国道27号との分岐点の手前で「原子力の科学館 あっとほうむ」の看板が目に入りました。原子力発電の啓蒙と子供と女性向けのアトラクションを兼ねた福井原子力センターの施設です。敦賀半島の北部、「色の浜」の先に日本原子力発電の敦賀原子力発電所があることで、この地に施設が設置されたのでしょう。
 
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ちなみに、敦賀原子力発電所は東海原子力発電所に次いで日本で2番目に古い原子力発電所であり、昨年廃炉が正式に決定されています。

 

「奥の細道」によれば芭蕉は塩津街道(現在の国道8号)で木之本宿(長浜市木之本町)を経て北国往還(国道365号)で春照(すいじょう)宿(米原市春照)へ向かいましたが、出発前に予定を急遽(きゅうきょ)変更して、以前から訪れたいと思っていた美浜と若狭へ寄り道をすることにしていました。国道27号(金山バイパス)に入って直進すると美浜町との境界にある旗護山(はたごやま)トンネルに差し掛かりました。
 
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トンネルを抜けたところに美浜町の案内標識と関西電力の美浜原子力発電所・水晶浜海水浴場の案内標識があります。
 
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美浜東バイパスと名を変えた国道27号を少し先へ進んだ舞鶴若狭自動車道の若狭美浜IC付近で「若狭梅街道」「レインボーライン」「三方五胡」方面(県道225号)へそれました。もう少し先でも良かったのですが・・。
 
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(続く)

2016年8月28日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その34) 敦賀市の「気比神社」と「清明神社」

午前7時半過ぎにホテルをチェックアウトして、前日通った国道8号の旧道(北陸道)を戻り、敦賀港方面(北方向)へ走りました。気比(けひ)神宮交差点から「気比神宮」の大きな鳥居が確認でき、交差点の先に表参道駐車場を見つけました。ちなみに、敦賀駅前から気比神宮交差点までは「シンボルロード」と呼ばれて、松本零士(れいじ)氏の「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」にまつわるブロンズ像が多数(計約30体)設置されているようです。敦賀が日本でも有数の鉄道と港の町であったことで設置されたとのこと。

 

気比神宮交差点の角まで戻りました。表参道口から見ると気比神宮(正式名:氣比神宮)の大鳥居が大きな迫力で迫ります。この大鳥居は正保2年(1645年)に建立された木造両部型本朱漆(しゅうるし)の鳥居(高さ10.9m)で、国の重要文化財に指定されており、春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つです。
 
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気比神宮は大宝2年(702年)の建立と伝えられており、主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)    は食物を司り、海上安全・農漁業・交通安全を護る神様とされます。その他、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、 玉姫命(たまひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を含む7柱のご祭神を祀(まつ)る北陸道の総鎮守・越前国一宮です。ちなみに、「気比(けひ)」は「御食津(みけつ)」(食物神)に由来するとの説があるようです。
 
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ちなみに、この場合の「北陸道」は、街道ではなく、行政区画である「五畿七道(ごきしちどう)」(五畿:大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国、七道:官道に沿った国々である東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西街道)のひとつを指します。古くからあった「越国」が大化の改新(皇極4年/645年)の後に「越前国」「越中国」「越後国」の3つに分かれ、養老2年(718年)に越前国から加賀国と能登国が分割されました。つまり、現在の福井県・石川県・富山県・新潟県を含みます。
 

敦賀(つるが)という珍しい地名に興味を持って調べてみました。古代から北九州や対馬を経由する朝鮮半島との交流が頻繁(ひんぱん)であった敦賀には朝鮮半島からの渡来人も多く、その中には日本書紀にもその名がある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という意富加羅国(別名:任那加羅、韓国の南端にあった国)の王子が敦賀の地名の由来の人物とされることを知りました。また、気比神功宮は渡来人の神を祀っているとの説があるようです。

 

石橋を渡って境内に入りました。参道の左手には境内社(末社)の猿田彦神社がありました。気比大神を案内する御先神(みさきしん)だそうです。
 
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参道が折れ曲がる場所にある「旗揚(はたあげ)の松」(2代目)は延元元年(1336年)に気比神宮の大宮司で鎌倉・南北朝時代の武将であった気比氏治(うじはる)が後醍醐(ごだいご)天皇を奉(ほう)じ、つまり命令に従って旗揚げし、金ケ崎城に籠城(ろうじょう)して足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦ったことが名の由来のようです。
 
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左手の幹がほぼ朽ちている松が「旧松根」と表示されていますから初代でしょう。
   
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後方に少し見える樹木は敦賀市指定天然記念物「ユーカリ」
   
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参道を曲がった中鳥居の正面に社殿が見えます。
 
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外拝殿で参拝
 
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その奥に中拝殿と本殿があり、その両側に四社の宮があるそうです。昭和20年に焼失した本殿(国宝)は、屋根両流造の代表的建造物であったそうで、主祭神の伊奢沙別命と仲哀天皇・神功皇后が祀られています。また、四社の宮には他の4柱のご祭神が祀られているとのこと。また、それらの左手には気比大神の御子神などを祀る摂社(せっしゃ)の「九社の宮」と伊勢神宮の天照大神と豊受大神を祀る末社の神明社がありました。

 

外拝殿を退出した時、迂闊(うかつ)にも旗揚松の近く(中鳥居の反対側)にあった芭蕉像と句碑を見過ごしてしまいました。芭蕉はこの神社で、『月清し 遊行(ゆぎょう)の持てる 砂の上』 の句を、その翌日には気比の松原で、『名月や 北国日和 定めなき』 の句も詠んでいます。ちなみに、「遊行」とは僧が各地をめぐり歩いて修行または教化すること、つまり行脚(あんぎゃ)することを意味し、芭蕉は那須湯泉神社(上の宮)参道脇にある「遊行柳(ゆぎょうのやなぎ)」で、『田一枚 植(うえ)て立去る 柳かな』 の句を詠んでいます。
 

駐車場へ戻る途中、敦賀市中心部の地域案内を見かけました。
 
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この地図でも確認できますが、芭蕉は気比神社に参拝したあと、北方にある金ケ崎(かながさき)の金前寺(こんぜんじ)へ足を伸ばしています。金ケ崎は古くから大きな戦の場に何度もなっています。「旗揚の松」の由来で触れたように、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して天皇による政治を始めた「建武の新政」(中学校の日本史では「建武の中興」として学んだ)に離反した足利尊氏(あしかがたかうじ)の討伐(とうばつ)を新田義貞(にったよしさだ)に命じました。義貞は箱根・竹之下合戦大阪府島本町・港川の合戦で尊氏軍に敗北し、越前国でも両軍は再び衝突します。

 

金前寺に参詣した芭蕉は、『月いずく 鐘は沈る 海のそこ』 の句を詠(よ)んでいます。この句は建武4年(1337年)足利軍に敗れた新田義貞が金ヶ崎の海に沈めた陣鐘(じんがね、陣中で合図をするための鐘)を詠んだ句と言われています。ちなみに、新田義貞は4か月後に福井市の北方にある燈明寺畷(とうみょうじなわて)にて戦死しました。

 

それから約250年後(戦国時代)の元亀元年(1570年)には信長と朝倉義景(よしかげ)が戦った「金ヶ崎の戦い」の舞台になりました。信長は義景の「金ヶ崎城」を落としましたが、信長の義弟である浅井長政の裏切りを知り撤退することを決断。羽柴秀吉や明智光秀らが事実上の殿(しんがり)軍となって奮戦したことで、少数の兵に守られた信長は鯖街道の朽木を越えて京まで無事に帰還しています。世に「金ヶ崎崩れ」とよばれる撤退戦です。

 

気比神宮から敦賀港方面へ移動する途中、気になった「清明(せいめい)神社」に立ち寄ることにしました。目印の市立博物館は昭和2年(1927年)に竣工した旧大和田銀行本店の大理石を多用した建物(敦賀市指定文化財)を活用した歴史博物館です。
 
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敦賀の長い歴史を伝える資料や絵画・陶磁器などが展示されているようですが、午前8時を回ったところで、午前10時の開館時間までは2時間近くありますからスルーしました。
 
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その隣は「みなとつるが山車(やま)会館」で、気比神宮例大祭のときに巡行する山車6基を収納し、その内3基を常時展示しているそうです。
 
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山車会館前の広場にある二代大和田荘七氏の石像が目に留(と)まりました。
 
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敦賀商業会議所の初代会頭で、明治時代末期から大正時代にかけて敦賀港の整備や対外貿易の促進などにより、敦賀経済の発展に尽力した人物だと説明されています。
 
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目的地の「清明神社」は市立博物館から50mほど南の住宅地内にありました。
 
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御由緒には、『安倍晴明(あべのせいめい、921-1005年)は正暦年間(990-994年)に敦賀で天文学と地文学を研究していた』 とありました。大陸との交易が盛んな港町であったからかもしれません。社殿内、祭壇の下にあるご神体は「祈念石(きねんせき)」で、晴明が陰陽道の研究に使った石と伝えられているそうです。
 
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(続く)

2016年8月27日 (土)

洋食店「つばめグリル」(玉川高島屋SC店)

午前11時半過ぎに田園都市線二子玉川駅前の玉川高島屋SC(西館)の駐車場(国道246号の高架が上を跨ぐ)に車を入れました。隣の本館を抜けて左手にあるミストシャワーの回廊を抜けた先に目的地の「つばめグリル」(玉川高島屋SC店)がありました。
 
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急に思い立って出かけた理由は、前日夜(8月25日午後10時~)のテレビ番組「カンブリア宮殿」(テレビ東京系列)で1930年に銀座/新橋で創業した洋食店チェーン「つばめグリル」が取り上げられ、私と一緒に観ていた同居者が、『このレストランへ行きたい!』 と言うのです。ちなみに、店名の「つばめ」は東海道新幹線が開通するまで東海道本線を走っていた「特急つばめ」にちなんで名付けられたとのこと。
 
注、「カンブリア」とは古生代前期の区分の1つである「カンブリア紀」(5億4千万年前~4億9千万年前)を指し、進化により一斉に多種多様な海中生物が登場した時期。この「カンブリア爆発」に擬(なぞら)えてを現代の経済人を紹介する場が「カンブリア宮殿」である。番組のキャラクターにはカンブリア紀最大の動物であるアノマロカリス(奇妙なエビの意)が使われている。

 

話がさらに戻りますが、今年3月、チビエちゃんを2時間余り預かった日のことです。所用が終わったお父さんと3人でマロニエコート(東館の北隣)の3階にある「Bills 二子玉川」で早めの昼食をしたあと、玉川高島屋SCの本館を抜けて西館にある駐車場へ戻る時、交差点の筋向かいにある「つばめグリル」(二子玉川店)を見かけたことがありました。場所は良くわかっていますから、同居者の希望にしたがって、さっそく訪れることにしたのです。

 

入口を入ったところには、昔の洋食店のようにショーケース内に料理サンプルが並べられでおり、その前に順番待ちの列が出来ていました。
 
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持ち帰り(Take out)ができるようです。
 
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壁際には「生産者の案内」として牛肉・豚肉の生産者名が表示されています。
   

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レジ横にあるタッチパネルを操作すると、13番と印字された紙が出てきました。そのあと、店員さんが最初に呼んだのは8番でしたから、あと5組待つ必要があるようです。しかし、午前11時の開店と同時に入店した客が次々と会計を済ませて店を出て行ったため、10分足らずで13番が呼ばれ、レジに近い窓際の席に案内されました。
 
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同行者はこの店が「自慢の味」とする「つばめ風ハンブルグステーキ」(1490円)を迷わずに選択しました。それではと、私は別のジャンルでボリュムが少ないと思われる「シーフードグラタン」(1242円)にしました。いずれのランチメニューにも「トマトのファルシーサラダ」と、パンまたはご飯が付いています。
 
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最初に、皮を湯剥(ゆむ)きしたホールトマトの「ファルシーサラダ」が配膳されました。ソースがたっぷりかけられた冷たいトマトは果物のように甘く、その下部(ヘタをくり抜いた窪み)にだけキャベツ・ニンジン・鶏肉のクリーミードレッシングサラダが少しだけスタッフしてありました。ちなみに、「ファルシー」とは詰め物料理を意味するフランス語ですが・・。それはさて置き、メイン料理が期待できそうです。
 
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次いで配膳された「シーフードグラタン」は具の海老や帆立貝がマカロニのたっぷり入ったホワイトソースと一体になっています。私好みの薄い(塩を控えた)味付けであり、このメニューを選んで良かったと思いました。また、ほど良い大きさに切り分けられたフランスパン(バゲット)は、外皮の硬さと中身の柔らかさ(フワフワ感)が歯触りにコントラストを与えて、名脇役としての存在感があります。
 
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その後すぐ配膳された「つばめ風ハンブルグステーキ」は、アルミホイルに包まれ、大きな焼きジャガイモが添えられています。
 
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同行者がそのアルミホイルにナイフを入れると、湯気に包まれたハンブルグステーキが現れました。
 
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ちなみに、ハンブルグステーキはドイツ・ハンブルグで18世紀から食べられていたというタルタルステーキという生肉料理(ハンバーグの起源)を焼いて味付けしたものだそうです。

 

同行者の勧(すす)めで味見をさせてもらうと、濃厚な味のデミグラスソース(実はビーフシチュー)を纏(まと)うふっくらした肉が口の中でほどけて溶けました。つい二口三口と食べ進みましたが、肉の食感とあと味の深みはまったく変わりません。さすが、「つばめグリル」が自慢するだけのことはあると思います。

 

「ハンブルグステーキ」を味見したあと「シーフードグラタン」に戻ると、ビーフシチューに刺激された舌(味覚)のせいか、グラタンの味が平板なものに変わっていました。やはり、「和風ハンブルグステーキ」(1361円)にして、同行者の選んだメニューと味比べをすれば良かったと、ちょっとだけ後悔しました。

 

席に案内されて会計をするまでの約40分間に予約受付番号は30数番まで進んでいました。客席の数(96席)は意外に多く、しかもランチの時間帯ですから、客の回転はファストフード店のように早いようです。
 
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ちなみに、「つばめグリル」は本館と東館を結ぶ高架通路の下にありますが、玉川高島屋SC(本館)の一部ですから、利用料金に応じて駐車料金の無料サービス(2000円以上で2時間まで)を受けることができます。
 
<同行者のコメント> 珍しいことに旦那様が私の願いをすぐ叶えてくれました。なんでも言ってみるものですね! ハンブルグステーキは期待通りに美味しくて食べきってしまいました。順番を待っている時に聞こえたお子さんとその親御さんの会話からみて
常連客が多い店のようです。ところで、ラーメン・蕎麦・スパゲッティなどの麺類にしか興味がないと思っていた旦那様が「つばめグルメ」を知っていたのは意外です。もっとも、友人との飲み会と称して、あちこちの海外料理店や郷土料理店などを食べ歩くという隠れグルメの顔を持っていますから、飲み会をする場所の候補に「つばめグルメ」を考えていたのかもしれません。

2016年8月25日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その33) 敦賀市の地魚料理店「まるさん屋」

「ホテルルートイン敦賀駅前」にチェックインしました。自室からはJR西日本の北陸本線/小浜線/湖西線の列車が発着する敦賀駅を見下ろすことができますが、そのプラットフォームに人影はほとんどありません。
 
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近い将来(7年後の2023年、3年前倒しの案があり)には北陸新幹線が敦賀駅まで延伸されることが決まっていますが、その駅前エリアは昨年9月に再開発事業が終わり、10月にオープンしたばかりです。ヘアピンカーブがある公共交通ゾーン(写真左端)には路線バスとコミバスの乗降所、およびタクシーの乗降場とタクシープールがあり、右手には市民交通ゾーン(写真中央)が広がり、公共交通ゾーンの左手には広場ゾーン(イベント広場)があるようです。
 
公共交通ゾーンの奥には一昨年に完成した敦賀市の交流施設「オルパーク」(駅の待合室を兼ねる)、その左隣には同じ色調に改修された敦賀駅の駅舎が見えます。ちなみに、市民交通ゾーンの右隣には、写真には写っていませんが、福井大学国際原子力研究所もありました。ただし、全体として空きスペースが目立つのは、東電福島第一原子力発電所の事故が影響して財源の確保(原子力発電所関連の税収など)が不確実になったため、当初案が見直されて縮小したことによるようです。
 

ホテル内にもレストランがありますが、今回の旅行では私の手違いから同行者が気に入る夕食に出会っていませんから、港町である敦賀らしく海鮮料理の店へ出かけることにしました。ホテルから1-2分の距離にある地魚料理店「まるさん屋」です。敦賀駅前通り面した建物の2階にありますが、大きな看板と提灯がある入り口はよく目立ちました。
 
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2階に上がりました。ファミレスのように記帳するシステムです。魚の装飾がある店内と思っていましたが、反対側の部屋に案内されました。
 
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メニューは居酒屋風
 
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生ビール(小)(486円)で一日の疲れを癒(いや)します。塩辛・玉子白身・ジャガイモが入った付け出し/前菜小鉢(300円)が肴(さかな)です。
 
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同行者の希望にしたがって、まずは「刺身の盛り合わせ(8点)(2160円)
 
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次いで「岩がきの刺身」(1058円)を注文。魚津市の記事に書きましたように、9月から5月が旬である「真牡蠣(まがき)」と異なり、「岩牡蠣(いわがき)」のシーズンは夏場(7‐9月)なのです。
 
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私は「焼さば寿し膳(2種4かん膳)」(1404円)を選びました。名物の「へしこ焼き」(540円)にも興味があったのですが・・。
 
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同行者は海鮮料理に満足してくれたようで一安心です。ホテルに戻って1階にある大浴場「旅人の湯」へ向かいました。
 
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脱衣籠が6つだけのやや小ぶりの脱衣所に入ります。
 
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説明書によるとラジウムにより軟水化された、水当たりが軟らかく肌に潤いを与える人工温泉とのこと。大浴場にある横長の浴槽は、窓越しに見える植込みが落ち着いた雰囲気を与え、駅前のホテルであることを忘れさせました。
 
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洗い場はビジネスホテルらしくカランが6つ並んでいます。
 
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早めに就寝したことで、翌朝はいつも通りに午前5時過ぎに起床。窓の外を見ると小雨が降っているようですから、朝の散歩は中止することにしました。午前6時になるのを待って1階のレストラン「花々亭」へ向かいました。

 

同行者がバイキング朝食で選んだのは控えめの内容です。
 
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私はあれこれ欲張った和洋折衷(せっちゅう)ですが、前夜飲み過ぎたこともあり、ご飯ではなく、お粥(かゆ)にしました。
 
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3日目に入ったところで、また投稿を小休止します。(続く)

2016年8月24日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(その32) 福井市の「福井城址」から敦賀市へ

福井駅前を通過して福井城前に到着。「歴史のみち」(内堀の南東角)から見た「福井城の内堀」(南面)と「御本城橋(ごほんじょうばし)」です。右側の屏風石垣の手前角(南東隅)には巽櫓(たつみやぐら)があったそうです。
 
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内堀の北側へ移動しました。「福井城下の歴史」によると、『江戸時代有数の年であった福井は多くの人材を輩出している。結城秀康の家老である本多富正(とみまさ)は芝原上水を開き、彼の屋敷周辺は1万石以上の家臣の屋敷が並び「大名町」の名が残る』 とあります。内堀の対岸は県庁舎(左)と天守台跡(右)です。
 
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福井城の北不明門につながる土塁石垣(写真左)と内堀越しに見る福井県庁舎
 
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天守台跡と内堀の北西角
 
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「福井城」は約2km四方の平城で、足羽川とその支流である荒川を外堀として利用したことで三重の水掘りが囲んでいたそうです。本丸には四重五階の望楼型天守(高さは天守台を含んで約37m)が建てられましたが、寛文9年(1669年)に消失し、再建されなかったようです。築城当初は、柴田勝家の「北ノ庄城」の名前を引き継いでいましたが、第3代藩主松平忠昌によって「福井(福居)城」に改名されました。注、天守台の下にある「福の井」と呼ばれる井戸跡が地名の由来とする説もある

 

明治になって廃城されると外堀は埋められたため、現在は内堀とその石垣および天守台だけが残っているようです。天守と同時に消失した御廊下橋(ごろうかばし、西側の内堀に架かる)が平成20年(2008年)に復元されたことに続き、天守閣に至る山里口御門(やまざとぐちごもん)の復元工事が行われているようです。

 

内堀の南西角、福井市役所とJA福井県農業会館本館前へ移動しました。内堀の向こう側には中央公園、ホテルフジタ福井、三津井生命ビル7が見えます。
 
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「福井城旧景」には「福井城天守閣復元模型図」「本丸西側」「鉄(くろがね)御門」「片町より東望」「下馬御門前」「三の丸御門」「御本城櫓」が解説されています。
 
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「藩祖結城秀康公と福井城」の案内看板には、『結城秀康は、天正2年(1574年)徳川家康の次男として生まれた。天正12年(1584年)羽柴秀吉の養子となり、秀康を名乗る。これは、秀吉と家康から閣1時をとったものである。天正18年(1590年)結城家の養子となり、下総(しもうさ、現茨城県)結城で10万石余石を相続した。秀康は、慶長5年(1600年)越前68万石を拝領、翌年入国と同時に築城にとりかかり、6年の歳月を要して、慶長11年(1606年)に福井城を完成した。福井城は、広大な平城で本丸を中心にして、二の丸。三の丸、と幾重にも堀に囲まれていた。ことに、東側では旧吉野川を百間掘に改修している。(以下略)』 とあります。
 
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内堀の外周を巡って「御本城橋(ごほんじょうばし)」の袂(たもと)に出ました。福井県庁が正面に見えます。
 
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橋を渡った場所は大手門(瓦御門)跡
 
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福井城をあとにして、国道8号(敦賀街道)に入って敦賀(つるが)を目指しました。メガネフレームの産地である鯖江(さばえ)市とその隣の越前市武生(たけふ)を通過すると北陸道の今庄宿があった南越前町に入りました。芭蕉は敦賀へ向かう途中に国道8号より内陸にある北陸道(国道365号)の今庄で宿泊し、北陸道(国道476号)で木ノ芽峠(南越前町と敦賀市の境界)を越えています。当初の計画では福井市に宿泊することにしていましたが、それを敦賀市に変更したため、福井市と敦賀市の間(約50km)はスルーすることになりました。
 
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大谷第4トンネル(長さ196m)を通過します。
 
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切り立った崖下を通過
 
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敦賀トンネルを抜けて敦賀市の海岸沿いに出ました。洞門をいくつも通過しました。
 
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敦賀バイパスには入らず国道8号の旧道敦賀駅前に到着
 
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ホテルルートイン敦賀駅前」の無料駐車場(裏手、約90台)に入ります。
 
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同ホテルの入口付近
 
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(続く)

2016年8月23日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その31) 福井市の「北の庄城址」と「柴田神社」

国道364号を先に進み、福井から約10km南東に位置する「一乗谷城址」へ立ち寄る予定でしたが、時間の制約で断念することにしました。「一乗谷城」は戦国大名越前朝倉氏の居城で、遺跡全体が国の特別史跡に指定されています。ちなみに、流浪中であった明智光秀は鉄砲指南役として朝倉義景に仕えたのではないかと伝えられる場所です。

 

越前高田駅の近くで国道158号(美濃街道)に入って西進しました。名前の通り福井市から岐阜県高山市を経由して長野県松本市まで続く国道です。

 

国道8号と交差すると国道158号は県道5号に変わりましたが、そのまま直進して北陸本線を潜り、右手の脇道に入りました。コインパーキングに車を停めて徒歩で「柴田神社」に到着。
 
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L字型に折れ曲がった参道の先に小さな社(やしろ)がありました。境内社の稲荷神社です。その左後方は同じく境内社の「三姉妹神社」。
 
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「北の庄・柴田神社」は、『天正3年(1575年)、柴田勝家公が築城。9層の天守閣を持つ日本最大級の城だったとの記録が残っている。同11年(1583年)、賤ヶ岳(しずかたけ)の戦いに敗れた勝家公は、自ら城に火を放ち、妻お市の方とともに最期を遂げた。現在は勝家公を主祭神とし、お市の方を配祀する柴田神社や茶々・初・江を祀る三姉妹神社が建立されている』 と説明されています。地図の左上にある足羽根山には福井出身ともいわれる「継体天皇像」があるようです。
 
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「お市の方像」
 
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「三姉妹の像」に並ぶのは左から、茶々(豊臣秀吉側室)、江(ごう、徳川秀忠継室)、初(京極高次正室)です。
 
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三姉妹神社(境内社)の左手にある拝殿に参拝しました。後方に本殿があります。
 
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「越前北ノ庄城址」の石碑の後方には柴田神社本殿(左)と「稲荷神社」(右)が見えます。
 
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『柴田神社周辺は、柴田勝家の築いた北庄城(きたのしょうじょう)(1575~1583年)天守閣跡と伝えられている場所です。ここに展示している石は、勝家築城の北庄城の石垣遺構と考えられます。(以下略)』
 
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「北の庄城址・柴田公園」の案内図
 
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「柴田勝家・お市の方と三人の娘」「北ノ庄城(想像図)」
 
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発掘・修復された石垣
 
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「日向門」
 
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「土居」
 
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「瓶割(かめわ)り柴田」の異名について、『信長によって奪われた長光寺城(近江八幡市、安土城の約5km南)を奪還しようとする南近江の守護大名六角義賢(よしかた)の大軍に柴田勝家は籠城しましたが、水路を建たれ絶体絶命の窮地に追い込まれた勝家は、味方に瓶の中の水を飲ませた後、瓶を割って背水の陣で皆を奮起させ、これにより敵軍を打ち破った』説明されています。
 
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長槍を持つ「柴田勝家公像」
 
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後先になりましたが、柴田勝家の略歴を紹介します。勝家は若いころから織田信秀に家臣として仕え、その子信長が家督を継いだころには織田家の重臣で、信秀の死後はその子織田信行(信勝)に家老として仕え、信行を信秀の後継者にしようと信長と戦いましたが敗れてしまいました。その後は勝家を重用しなくった信行よりも信長に肩入れするようになり、後に信長の家臣となりました。そして、畿内平定戦・南伊勢北畠氏との戦い・近江六角義賢との戦い・長島一向一揆の鎮圧・将軍足利義昭との戦いなどで武功を上げました。
 

信長との一乗谷城の戦い(天正元年/1573年)により朝倉氏が滅亡したあと、信長は一向宗が支配する加賀国を攻めて平定し、越前国(49万石)と加賀国を勝家に与えました。その後も続いた一向一揆勢力や加賀国に侵入した上杉謙信との戦いを制した勝家は、能登国と越中国にも進出し、織田家の筆頭家老格になりました。ちなみに、浅井家に嫁いでいたお市の方とその3人の娘(浅井三姉妹)は織田の浅井攻め(天正元年/1573年)の最中に救出されました。

 

本能寺の変で信長が倒れた時は越中国(魚津)に攻め入った上杉勢との戦いで動けず、「中国大返し」を敢行(かんこう)した羽柴秀吉が明智光秀を打つことになりました。織田家の後継者を決める清州会議のあと(天正10年/1582年)、勝家は望んでお市の方を妻にします。その後、織田家内で対立した勝家と秀吉は「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で戦いましたが、臣下の前田利家が戦線を離脱したこともあって勝家は秀吉に敗れ、退却した北の庄上でお市の方とともに自害しました。北の庄城にも火が掛けられて、建物はほぼ焼失したとされます。この戦いにより秀吉は織田家において突出した存在となります。

 

「九十九橋の由来」には、『北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋です。九十九橋の記録は朝倉時代にもありましたが、柴田勝家公が半石半木の橋としたと伝えられています。(以下略)』 と説明されています。注、半石半木とは、橋の南側が石で、北半分が木で造られていることを意味する
 
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柴田公園に隣接する「北の庄城址資料館」には立ち寄らず、福井城址へ向かいました。(続く)

2016年8月22日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その30) 「永平寺」

鳴鹿橋(なるかばし)の先で国道416号を横切りました。左折して国道416号を15kmほど東進すれば「恐竜博物館」がある勝山市に至ります。「ヨコハマ2012恐竜展」では福井県で出土した恐竜の骨格モデルを見たことを思い出しました。

国道364号をそのまま走って永平寺(えいへい)の門前町に到着。永平寺の門前にあり、駐車場が提供されることで、そば処「てらぐち」を選びました。お土産処とは別棟になっています。
 
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ファサード(建物の正面)と同様、インテリアも真新しく、白と木を組み合わせた和モダンです。テーブル席のほか、小上がりもありました。
 
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同行者は「天おろしそば(冷)」(950円)を、
 
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私は大好物の「にしんそば(温)」(950円)を選びました。
 
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いよいよ永平寺に参拝することにして、
 
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参道に入りました。
 
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参道の入り口にある正門(龍門ともいわれる)には、「汲流千億人」(ながれをくむせんおくにん) と「杓底一残水」(しゃくていのいちざんすい) と刻まれています。調べると、『一杓の水でも元の川へながれることによって多くの人が恩恵にあずかるという禅的表現』 のようです。不思議なことに、芭蕉は永平寺では俳句をまったく詠んでいません。焦(こが)れていた松島を訪れた時と同様、よほど深い感銘を得たのでしょうか。注、芭蕉が松島について詠んだとされる 『松島や ああ松島や 松島や』 は「奥の細道」に記述されておらず、芭蕉の作ではないとの説が有力

 

「永平寺」は鎌倉時代初期の寛元2年(1244年)に道元禅師(どうげんぜんじ)によって開かれた座禅道場で、横浜の総持寺と並ぶ日本曹洞宗の大本山です。道元禅師は京都の公家・久我(こが)家に生まれ、南宋(中国)に渡って曹洞宗禅師の天童如浄より印可(お墨付き)を受けて帰国。旧仏教である比叡山から迫害を受けたため、越前国の波多野氏の招きで越前に移りました。日本における曹洞宗の開祖です。

 

右手に「天地観世音菩薩」が祀られています。
 
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参道の先には「唐門」(勅使門)がありますが、柵があって入ることができません。一般の参拝者は左手にある「通用門」を抜けます。
 
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吉祥閣(きちじょうかく)の総受所で拝観料(500円)を納めました。
 
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隣の「傘松閣(さんしょうかく)」へ進むと、156畳敷の大広間の天井には230枚の天井絵がはめこまれていて見事でした。

 

「東司(とうす)」を抜けて「僧堂」へ向かう廊下(左前方)と東西を結ぶ回廊の角にある「大すりこぎ棒」

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「僧堂」から「大庫院」が見えます。「回廊」を進むことにしました。『大庫院(だいくいん)は昭和5年に改築、地下1階地上4階の木造建築で、主に仏膳と修行僧および雷本の食事を調える場所。施用面井は護法韋駄天などを安置し、上階には雷本の接待室および150畳敷の大広間がある』 と説明されています。

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「大庫院」から見た「仏殿(ぶつでん)」
 
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『七堂伽藍の中心にあり、本尊を祀っています。明治35年(1902年)の改築で、覚皇宝殿(かくおうほうでん)ともいいます。須弥壇中央に「釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)」、左右に「阿弥陀仏(あみだぶつ)」と「弥勒仏(みろくぶつ)」を安置します。右奥壇には伽藍の守護神である「大現修理菩薩(だいげんしゅりぼさつ)」と「土地護伽藍神(どじごがらんじん)」、左側にはインドから中国に禅を伝えた 「達磨大師(だるまだいし)」と道元禅師様の師匠である「如浄禅師(にょじょうぜんじ)」が祀られています。欄間には12枚の禅の公案を基にした彫刻が施されています』(禅の里まちづくり実行委員会のhp)
 
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「仏殿」と「大庫院」を結ぶ回廊から伸びる長い階段廊下を上がります。
 
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「法堂(はっとう)」は『天保9年(1843年)の改築で間口18間、奥行14間、約420畳敷で、七堂伽藍中最大の建築物である。正面中央には聖観世音菩薩が祀られている。本来は説法の道場であるが、今では、朝課(朝のお勤め)や、各種の法要儀式が行われている』 と説明されています。
 
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黄金の天蓋(てんがい)が見事です。
 
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「承陽殿(じょうようでん)」(道元禅師の御真廟)は、『明治14年の改築で、正面檀上奥には御開山道元禅師(承陽大師)、本山第2世懐(え)じょう禅師の御尊像と御霊骨が奉安され、さらに本山3世、4世、5世、並びに蛍山禅師の御尊像をお祀りしている。(中略)正面上「承陽」の額は、明治天皇より道元禅師へおくられたものである』 と説明されています。
 
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「承陽殿」と「仏殿」の間にある門
 
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「僧堂」を経由し、「東司」と「傘松閣」を戻って、「吉祥閣」から参道に出ました。午後3時を回りましたから先を急ぐことにして、福井市を目指しました。(続く)

2016年8月21日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その29) 「山城温泉」

県道39号で山代(やましろ)温泉へ向かい、温泉街の入り口にある無料駐車場に到着。一層強くなった日差しにめげず徒歩でクランク型に折れ曲がった道を中心部へ向かうと服部(はとり)神社前に出ました。名前の通り、機織(はたお)りの神「「天羽槌雄神(あめのはづちをのかみ)を祀っています。
 
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その右手前には魯山人(ろさんじん)寓居址の「いろは草庵」があります。
 
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左手へ進むと雲方山薬王院温泉寺があり、来し方を振り返って撮影しました。ちなみに、温泉寺は神尾2年(725年)、僧行基が白山登山の折りに温泉を発見し、薬師如来などを彫って守護としたのがはじまりとのこと。
 
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1300年の歴史を誇る山城温泉には2つの総湯(共同浴場)があります。そのひとつである「総湯」が建つ場所は魯山人ゆかりの旧吉野屋旅館の跡地だそうです。
 
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その左前方には星野リゾートの「界 加賀
 
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「湯の曲輪(かわ)周辺案内図」 注、曲輪は街並みのこと
 
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温泉街の中心にあるもうひとつの共同浴場である「古総湯」は、明治時代(明治19年築)の総湯を2010年に復元し、外観や内装だけでなく入浴方法も当時の雰囲気のまま味わうことができます。券売機で入浴券を購入するシステムです。大人は500円。
 
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入浴券を購入する時に、脱衣所と浴室が一緒であることと、洗い場や打たせ湯などの設備はないとの説明を受けました。「伊香保温泉露天風呂」のようなものを連想しました。ちなみに、総湯には洗い場があるそうです。

 

「古総湯」の説明パネル
 
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「古総湯」の浴室内は撮影が禁止されていました。(浴室の写真はこちら) ステンドグラスや壁・床の九谷焼のタイルなども忠実に再現しているそうです。貸切状態で源泉かけ流し湯をのんびり楽しみました。ちなみに、泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物温泉(低張性・弱アルカリ性・63.4度の高温泉)。

 

2階には休憩用の和室があり、湯上りに涼むことができるようになっています。浴室と同様、壁には九谷焼のタイルが貼らせていました。
 
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周囲の様子
 
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芭蕉は、山中温泉に比べて華やかだった山城温泉には足跡を残さず、大聖寺郊外の全昌寺(前述)を訪れたあと、西行の歌「潮越(しおごえ)の松」で知られる北潟湖を経て、丸岡の天龍寺に投宿しました。そして松岡から道元禅師が開いた「永平寺」に参拝します。ちなみに、明智光秀は朝倉氏に仕えていた時に戦の傷を癒(いや)すために山城温泉で湯治(とうじ)したとも伝えられているようです。注、朝倉氏に仕えたこととともに史実であるかどうかは不明

 

このルートを辿りたいところですが、時間の制約がありますから、国道8号で丸岡市を通過して、県道17号から国道364号で九頭竜川に架かる鳴鹿橋(なるかばし)を渡ります。
 
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(続く)

2016年8月20日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(その28) 山中温泉の「芭蕉の館」

奥の細道の旅の道中、芭蕉は山中温泉で八泊九日間の長逗留(とうりゅう)をし、多くの句を詠みました。温泉が好きではないと伝わる芭蕉はこの地がよほど気に入ったのでしょう。また、山中温泉は芭蕉と体調を崩した曽良との別れ(出発して4か月)の地であり、『今日よりや 書き付消さん 笠の露』 の句を詠み、曽良への餞別(せんべつ)として巻かれた『山中三両吟』の歌仙が知られています。
 

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芭蕉と伊勢・長島へ向かう曽良の別れのシーンを再現した像
 
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アプローチから玄関(写真左手)を入ったところに受付(同中央)があり、入館料(大人200円)を支払いました。
 
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右手の吹き抜け土間には「奥の細道」に縁(ゆかり)の資料が展示してあります。最初に目に付いたのは何と手動電話交換台でした。交換手が所定の方法で電話線のジャックを「ひも回線」と呼ばれるケーブルで接続する構造で、一人の交換手が操作する座式。電話サービスが開始された明治中期(1890年)から戦後の昭和20年代まで使われた歴史的な設備です。「芭蕉の館」になぜ手洞電話交換台があるのでしょうか。
 
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余談になりますが、日本で電話サービスが東京と横浜で始まったのは上述したように1890年(明治23年)で、36年後の1926年(大正15年/昭和元年)には3年前に発生した関東大震災の復旧策の一環で最初の自動交換機が東京・京橋電話局に導入されました。学生時代に通信工学の教授から聞いた話ですが、自動交換機を考案したのはアメリカの葬儀屋だったそうです。電気通信に縁のない葬儀屋のストロージャーは仕事の量が急減したことを不思議に思って調べると、交換手が他の葬儀社へ優先的に葬儀の電話を接続していたことが判明。これで発奮した葬儀屋のストロージャーは1880年代末にストロージャー式自動交換機を発明しました。

 

「山中温泉 俳諧句碑めぐり」
 
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靴を脱いであがると、「人間元国宝 河北良造作品展示室」(山中漆器)と濡れ縁が二面を囲む「広間」「茶室」交流室」が並んでいました。
 
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与謝野蕪村筆 複製「奥の細道図屏風」(重要文化財)
 
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八木芹舎筆「芭蕉翁像」には、私には読めませんが、深川の芭蕉庵で詠んだと思われる、『花の雲 かねハ上野か 浅草か』、『木かくれて 茶摘みもおくや 時鳥(ほととぎす)』、『名月や 池をめぐりて 夜もすがら』、『いさゝらハ 雪見にころふ 所まで』、『朝よさを 誰まつしまそ 片こころ』(松島に恋い焦がれる心)、と書かれているそうです。
 
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掛軸の下にある芭蕉像
 
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展示廻廊を抜けて階段を上がった2階には「奥の細道 芭蕉 展示室」と「古俳書展示室」がありました。写真は2階から見た庭です。
 
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芭蕉が書き残した『やまなかや 菊は手折らじ 湯(ゆ)のにほひ』の真蹟(しんせき)掛軸のほかに、「おくのほそ道」の「枡型(ますがた)寛政版A」(左)と「素龍(そりゅう)清書本(西村本)」(複製)も
 
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「山中温泉」のあとに参拝した「那谷寺(なたでら)」で芭蕉は 『石山の 石より白し 秋の風』 の句を詠みました。「石山」は、「那谷寺」のものであるとともに、近江の「石山寺」も指すそうです。ちなみに、「那谷寺」は小松市那谷町にある高野山真言宗別格本山。
 
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前日宿泊した曽良に続いて「全昌寺」(加賀市大聖寺神明町)に泊まった芭蕉は、『終宵(よもすがら) 秋風聞くや 裏の山』 と『庭掃きて 出でばや寺に 散(ちる)柳』 の句を詠んでいます。
 
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芭蕉自画賛 『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』(複製)は金沢で詠んだ句が書かれています。右側は「加賀の国千代女」の句、『朝顔に つるべとられて もらひ水』です。推敲(すいこう)前は、『朝顔や つるべとられて もらひ水』 だったと伝えられます。
 
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「滞在中の行動」が「曽良旅日記」からリストアップされています。
 
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「奥の細道」全ルート図
 
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「小松から山中温泉・大聖寺」の地図には芭蕉の足跡が描かれています。ここにも「安宅の関」に立ち寄ったとは示されていません。
 
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山中温泉にはほかに 『山中や 菊はたをらぬ 湯の匂』 の句を詠んでいます。また、共同浴場の「菊の湯」と呼ばれる共同浴場があるようですが、ここは我慢(がまん)することにしました。
 

芭蕉に倣(なら)って、次は山城温泉へ向かいます。(続く)

2016年8月19日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その27) 「金沢港」から「安宅関」を経て「加賀温泉郷」へ(後編)

神社の方に促(うなが)されて社殿に上がらせていただきました。安宅の関について詳しく説明をしていただきました。安宅の関は義経を捉えるために臨時に設置された関であったことを知りました。オチビちゃんとコチビちゃんにお守りをいただきました。

 

「安宅の関址」(石川県指定史跡)へ向かいました。
 
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安宅住吉神社に隣接する安宅公園には「安宅の関址」と刻まれた石柱がありました。
 
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「関の宮」の右の社殿には義経、左の社殿には富樫左衛門が奉斎さ(祀ら)れていました。
 
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富樫・弁慶・義経像「勇仁智」は歌舞伎の舞台をイメージして作られたのでしょう。案内板によると、「智は弁慶の知恵、仁は富樫氏の情け、勇は義経の勇気である」とのこと。
 
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安宅の海に出ました。海水浴場になっているようで、沖合に波留が設置されています。
 
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右手の梯川沿いに安宅港口(あたかこうぐち)灯台(高さ16m、水面からの高さは22m))が見えます。北前船の寄港で栄えた安宅港(灯台の対岸)の入口が分かりにくいため、昭和55年(1980年)にこの灯台が建てられたそうです。写真で分かるようにソーラーパネルが脊小されており、灯器は2009年に白熱電球からLEDに切り替えられています。ちなみに、石川県の灯台のうち、7割近くが二酸化炭素排出量を削減するためLED化されているそうです。
 
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安宅住吉神社へ引き返す途中、与謝野晶子の歌碑を見つけました。『松たてる 安宅の沙(砂)丘その中に 清きは文治 三年の関』 と刻まれています。
 
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安宅住吉神社の社殿左手にある金毘羅社
 
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社殿の左手前(弁慶像の向かい側)に「神亀石」があったことに気づきました。解説によれば、『亀の背を左右左と3度撫(な)でて、神前にお参りすると延命長寿と末広がりの幸福を招く』 とのこと。手順が逆になってしまいました・・・。
 
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国道360号に入って「安宅の関址」からは目と鼻の距離にある小松空港(正式名称:小松飛行場、防衛相が管轄する共用飛行場)にも立ち寄りました。北陸新幹線が金沢まで延伸するまでは首都圏から金沢へ行くビジネス客には金沢の玄関だった空港です。民間と自衛隊が共用する滑走路(長さ2700m)を挟んだ反対(南)側に航空自衛隊小松基地の施設があります。小基地には約50機のF-15戦闘機が常時配備されているそうです。
 
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ちなみに、共用飛行場は小松のほかに、札幌・新千歳・三沢・茨城・米子・岩国・徳島にあります。このうち、米空軍が管理し、米空軍・航空自衛隊・民間航空会社が使用する三沢飛行場(空港)を10数年前に利用したことがあります。エプロンと誘導路・滑走路の間に大きな電動ゲートがあることが印象に残っています。

 

片山津温泉にも立ち寄ることになりました。
 
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前述したように、「篠原の戦い」があった「篠原古戦場」と斉藤別当実盛の「首洗い池」に近いことが理由です。県道20号から県道39号に入り、源平橋を渡る時にこの辺りだと思ったのですが、そのまま通過して片山津の温泉街に入ってしまったのです。柴山潟の辺(西岸)に位置します。
 
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気を取り直して予定のコースに戻り、加賀温泉駅の近くを通過し、県道147号で芭蕉に縁の温泉へ向かいました。ここ加賀市は有名な加賀温泉郷(片山津・山中・山城)がある温泉天国なのです。片山津温泉は明治時代に入ってから発展した比較的新しい温泉地ですが、山中温泉は奈良時代の行基による開湯から1300年との説もありますが、平安時代の開湯とする説が有力のようです。また、山城温泉は行基による開湯伝説があり、北陸で最大の規模を誇る温泉地です。
 
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山中温泉街に入りました。
 
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芭蕉の館(やかた)」に到着。向かい側にある専用駐車場に車を停めました。『芭蕉が山中温泉を訪れ逗留した泉屋に隣接していた「扇屋」の別荘(明治38年の建築)を平成16年に再整備したもので、広い庭園や庭園を望む雁行型の濡れ縁など、和風情緒豊かな憩いの空間が親しまれてきました。芭蕉ゆかりの品や400余年の歴史を有する伝統工芸「山中漆器」の秀品の数々をごらん頂けます』 と説明されています。
 
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(続く)

2016年8月18日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その26) 「金沢港」から「安宅関」を経て「加賀温泉郷」へ(前編)

金沢駅から県道60号を約4km走って金沢港に到着しました。県道8号に行き当たった金沢港交差点付近は立ち入ることができませんから、T字路を左折して、「金沢みなと会館」(宿泊・飲食施設)の脇にある広い駐車場に車を停めました。
 
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左手の無量寺埠頭(むりょうじふとう)へ向かうと、この日はクルーズ船や海上保安庁の巡視船が停泊していませんでしたが、魚釣りをする人たちがいました。北陸を代表する釣り場のひとつだそうです。港の出口付近にある中州ではアジ・クロダイ・ヒラメ・スズキ・アオリイカ・ヒラメなどが釣れるようですが、この桟橋は交通の便が良い上に、「金沢みなと会館」と「いきいき魚市」の施設を利用できることで人気があるようです。
 
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対岸には石油岸壁が確認でしました。
 
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左手の無量寺突堤にある「いきいき魚市」と石川県漁協の「金沢総合市場」(右奥)が見えます。
   
 
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右手には大型船が接岸する戸水岸壁がありました。
 
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右手へ進むと、金網フェンスの先に引船(タグボート)の「いぬわし丸」が停泊していました。
 
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金沢港は大野川の河口にある港湾で、江戸時代には大野湊の名で北前船で栄え、昭和45年(1970年)に国際貿易港として開港以来、中国や韓国との貨物輸送で発展しました。最近は国際フェリーと大型クルーズ船の入出港が増えているそうです。
 
日差しが強くなってきましたので、ここで切り上げることにしました。金沢港交差点まで戻ると、右手角に金沢港湾事務所がありました。
 
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県道60号を南下した環状鞍月交差点で、往(ゆ)きにはうまく撮影できなかったモニュメント「ムーンゲート」を捉(とら)えることができました。夜はレーザーでライトアップされるようです。
 
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西念交差点を右折して国道8号に入り、日本三名山のひとつである白山(はくさん、標高2702m)がある白山市を通過して、次の目的地の小松市へ向かいました。
 
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白山山系を源流とする手取川の扇状地が白山市から隣の能美市(のみし)にかけて広がっています。
   
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能美市と小松市の市境にある
小杉ICで国道8号から県道54号へ出ます。
 
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倶利伽羅峠兼六園の記事で紹介した、芭蕉が金沢の源意庵で詠んだと伝えられる、『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』 の句碑がある小松天満宮と木曽義仲に縁の多田神社を当初の計画では立ち寄り先の候補に挙げていましたが、時間の制約でスルーすることにしました。
 
倶利伽羅峠の戦に大勝した木曽義仲は敗走する平家軍を追撃し、小松市と加賀市の境界辺り、片山津温泉に近い篠原で再び平家軍と戦いました。実質的に両軍の最後の戦(いくさ)となった「篠原の戦い」です。このとき、陣を立て直した平家軍にあって武運なく討死をした斉藤別当実盛(さねもり)は当時73歳、しかも幼少の義仲が源氏一族の争いで殺されかけた時に、その命を救い木曽へ逃してくれた恩人でした。平家軍はここでも敗れてしまいます。

 

謡曲「実盛」に「あなむざんやな」の一節があり、多田神社に参拝した芭蕉は『あなむざん 甲(かぶと)の下のきりぎりす』の句を奉納しました。あとで芭蕉は「あなむざん」を「むざんやな」に変えたため、現在は『むざんやな 甲のしたの きりぎりす』 として伝えられています。そして、もう一句、『しほらしき 名や小松ふく 萩すすき』 も詠んでいます。
 

県道54号が行き当たった長崎中交差点のT字路を左折し、県道25号の城南町西交差点を右折し、前川に架かる浮柳新橋の袂(たもと)で義経の銅像を見かけました。ちなみに、橋の反対側には弁慶の像もありました。
 
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梯川(かけはしがわ)の河口に近い「安宅(あたか)の関址」に到着。
 
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現在は安宅住吉神社になっています。ちなみに、主祭神は住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)。天応2年(782年)創建の古社で、現在の地に遷座されたのは天保4年(1647年)とされます。したがって、「安宅の関址」を見るために芭蕉もこの神社を訪れたのでしょうか。
 
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参道の鳥居には「茅の輪くぐり」があります。
 
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参道脇には『住吉の 神はあらたか 月参り』 と刻まれた神徳碑
 
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「弁慶逆植之松」は、安宅の関を通り抜けた弁慶が、無事を喜んで松を逆さまに植えたということから名づけられたそうです。
 
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塩田紅果(しおたこうか)句碑に刻まれた 『落ちてゆく 主従を偲(しの)ぶ 松しぐれ』 は義経と弁慶を偲んで詠まれた句です。ちなみに、塩田紅果は昭和初期の人物。
 
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弁慶の像がありました。白紙の勧進帳を堂々と読み上げています。その右手にあるのは稲荷社です。
 
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「勧進帳」とは寺社の建立(こんりゅう)や修理への寄付を募(つの)る口上書(こうじょうがき)きです。弁慶が即興(そっきょう)で読んだとされる勧進の口上は、平重衡(しげひら、清盛の五男)によって焼き討ちされた奈良・東大寺の大仏(盧舎那仏)を再建するための寄付を募(つの)る内容でした。このシーンは能の作品「安宅」と歌舞伎の十八番「勧進帳」で広く知られます。ちなみに現代では、即興で作った台詞(せりふ)を語ることを「勧進帳」といいます。
 
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平家を滅ぼす最大の功労者であった義経は、その独断的な行動により異母兄である頼朝の怒りを買って朝敵とされた(後白河方法が義経追討を命じた)ため、京都から北陸を経由して少年時代を過ごした奥州・平泉(奥州藤原氏)へ逃げようとしました。その途中、山伏の装束で「安宅の関」で通り抜けるとき、これを見咎(とが)めた関守の富樫左衛門(とがしさえもん)に命じられて勧進帳を朗々(ろうろう)と読み上げたことで通行を許されますが、富樫の部下が一行の強力(ごうりき、荷物運び)が義経に似ていると怪(あや)しんだため、弁慶は金剛杖(こんごうづえ)で主君の義経を叩(たた)いて疑いを晴らしました。 

 

これは史実そのものではないようで、義経ファンの芭蕉は、元禄2年(1689年)、奥の細道紀行の途中、小松には2度も立ち寄っていますが、「安宅関址」立ち寄っていないようです。また、室町時代に成立した能の「安宅」が参考にしたという室町時代初期の軍記物語「義経記(ぎけいき)」によると、関所役人と問答して通過するのは「越前の三(みつ)の口関」(金沢市三口町)であり、義経を打ちのめしたのは越中の「如意の渡し」(高岡市伏木、小矢部川河口)のようです。ちなみに、「勧進帳」こに登場する富樫氏とは平安時代の藤原氏を祖とする名門の室町時代から加賀の守護大名となった富樫氏の祖先を想定しているようです。
 
そして、元禄15年(1702年)に初演された歌舞伎の「星合十二段」(義経・弁慶・
富樫が登場する)は能の「安宅」を真似(まね)たもので、天保11年(1840年)にはこれが「勧進帳」へと発展したそうです。また、少し前の鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鑑(あづまかがみ)」には伊勢と美濃を経て奥州に逃れたとあり、北陸の越前国を通ったかどうかは示されていません。ちなみに、当ブログでは、浜黒崎倶利伽羅峠角田灯台鼠ヶ関最上川岩出山仙人堂平泉鞍馬寺徳島大阪峠、などの記事で義経の足跡に触れています。(続く)

2016年8月17日 (水)

今年後半の経済状況を考える

一年の折り返し点を過ぎた7月に参議院選挙と東京都知事選挙がありましたが、その結果と、それらが日本経済に与える影響に注目しました。7月10日に行われた参議院選挙では与党(自公)が過半数を大幅に超える議席を獲得したことを市場は歓迎して、日経平均株価が15,500円の水準から1,000円以上急上昇して16,500円を上回る水準まで回復しました。これと同時に「円」も円高傾向に歯止めがかかり、107円前後まで円安方向へ反転しました。

 

次いで行われた都知事選では「先出しじゃんけん」と「個人対政党の構図」を強烈に押し出した小池百合子氏が、与党(自公)推薦候補者と野党4党が統一して推薦した候補者を圧倒的な票差で破り、予想以上に圧勝しました。市場はこれにも反応して、日経平均株価は約250円急落して16,000円前後まで下落。10年物の国債の入札も低い落札価格(長期金利の急上昇、実際はマイナス金利幅の縮小)となり、それに嫌気をさした外国人投資家の資金は「円」に流れて対米ドルで101円前後まで上昇して円高が進み、8月16日には一時100円を切って99円台に突入。

 

安倍首相は2つの選挙後に、経済政策が最優先課題であるとして、景気にテコ入れするため4.5兆円(事業規模28.1兆円)の補正予算を組むと発表しました。経済専門家によるとGDPを押し上げる効果があるとしていますが、低所得者(2200万人)への現金(1.5万円)の支給と所得の低い年金受給者(1250万人)への臨時給付金(3万円)を除けば公共投資(新規建設国債による港の整備やリニア新幹線の大阪延伸など)がほとんどで、これまでの実績を見れば分かるように継続的な経済成長は期待できません。そして、非正規雇用者の増大(雇用者全体の4割)は低年金者をさらに増やすことにつながることは明らかです。選挙を意識した現金のバラマキや公共投資ではなく、長期的な経済成長戦略と抜本的な低年金者への対策が喫緊(きっきん)の課題になっています。

 

これまで金融緩和策(黒田バズーカ)でアベノミクスを牽引(けんいん)してきた日銀は、今年初めにマイナス金利を導入したにもかかわらず、狙いとは逆に円高と株安に弾みがつき、2014年の消費税アップ以来、消費支出の不振は継続中で、つまり失われた20年に戻ったようであり、日銀が目標とする物価上昇率2%を達成するどころか、消費者物価指数はマイナスの伸び(つまり落ち込む状態)が続いています。今月に入って日銀の黒田総裁は9月に金融政策(マイナス金利付き量的・質的金融緩和)の検証を行うと発言していますが、具体的なコメントはないままマイナス金利は0.1%に据え置かれ、日銀が手詰まり状態であることを海外の投資家に印象付けました。

 

すなわち、黒田総裁の楽観的な(金融緩和の縮小を否定する)発言とは裏腹に、上記したように株価・円・国債はネガティブな状況に陥っているだけではなく、マイナス金利の影響で活況となることが期待された不動産市場(ETFを含む)も雲行きが怪しくなって来ました。マイナス金利の導入時に黒田総裁は住宅購入(または住宅関連投資)に積極的な人が増えると語ったことがあります。確かに住宅ローンの借り換えは目立ちましたが、不動産投資は弱含みのままです。相続税対策としてアパート経営を勧めた金融機関もありましたが、賃貸住宅は供給過剰の状態にあり、この分野に投資した人はいち早くバブル崩壊(借り手不足の状態)に直面しているようです。

 

9月に行われる日銀による政策検証で、政策の過ち(つまり失敗)を認めることはないでしょうから、政策の綻(ほころ)びを手直しするだけに終わる可能性が高いと思われます。また、米国のFRBは史上最高水準に象徴されるように経済と労働市場が堅調であるとの認識は強いようですが、年内(9月あるいは12月)に金利の引き上げに動く可能性は五分五分(あるいはそれ以下)でしょう。それはアメリカにおける消費者物価は安定しており、金利を引き上げる緊急性はないからです。つまり、円高が円安へと転換して日本の株価が上昇する可能性は低いと考えられます。

 

このままの無策が続くようであれば、いよいよ「苦肉(くにく)の策」しか残されていません。それは最悪のシナリオですが、政府が10年を超える50年債(あるいは無期限債)など超長期の無利子国債(ヘリコプターマネー)を大量に発行して、日銀がそれを買い取るというものです。一見すると誰も困らない素晴らしいアイディアのように思われるかもしれませんが、この悪手は国債の格下げや円の暴落による「日本経済崩壊」への道につながっています。いうまでもなく、錬金術(れんじんじゅつ)や無制限に金を引き出せる金庫(ドラえもんのポケット)は存在しないのです。

 

経済成長率は今年前半(1月から6月まで)がマイナス成長で推移し、東証一部に上場する企業の経常利益も4-6月期は前年同期比でマイナス16.2%と急激に減少(特に、鉄鋼・造船・海運・自動車・銀行など)し、3四半期連続しての悪化となりました。このように悲観的な環境条件しか思い浮かばない現状においては、今年の後半の日本経済は残念ながら、昨年後半と比較にならないほど、不安定(不確実)な状況に陥(おちい)ると考えざるをえません。今回記事の結論は、『恣意的(しいてき)あるいは意図的(いとてき)に流される楽観的な意見や強気な意見に振り回されるのではなく、自己判断と自己防衛に徹するべきである』 です。参考になれば幸いです。

2016年8月15日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その25) 金沢市の「望湖台」と「金沢駅」

ホテルをチェックアウトして卯辰山(うたつやま)へ向かいました。金沢城の東(卯辰)の方向にあり、観光スポットになっているようです。県道10号で金沢城と兼六園の間を通過して国道159号に入り、その大手町交差点を右折し、浅野川を渡ったところから折れ曲がった坂道を一気に上がったところに「望湖台」の入口がありました。すぐ先にある専用駐車場(20台ほど)に駐車。
 
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坂道を上がったところにある展望台(標高141.2m)
 
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右手(南東方向)に見える山並みが写真パネルで説明されています。
 
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展望台からは木立越しに山々を望むことができました。右手前が戸室山(標高547.8m)、その左手には奥医王山(標高939.1m)、夕霧峠(標高845m)と白元山(標高899m)でしょう。注、白元山の元は上の横棒なし ちなみに、望湖台の名前の由来になった河北潟は木立に遮(さえぎ)られて見えませんでした。
 
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少し右手には高尾山(標高841m)・吉次山(800.1m)・成ヶ峯(標高1055.8m)があり、それらの後方には三方山(標高1142m)、猿ヶ山(標高1447.8m)、大門山(1571.6m)、奥三方山(標高1603m)などの山々が連なっています。
 
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反対方向には金沢の市街地が広がっていました。
 
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左手の一際高いビル(金沢駅前)は北陸3県で一番高い「ホテル日航金沢(ポルテ金沢)」(地上30階、高さ130.5m)、その左手前はフィオーレ金沢のオフィス棟(地上18階、高さ84.81m)、右手の2本の鉄塔(赤白に塗り分けられている)は金沢観音堂テレビジョン放送所で、テレビ金沢送信塔(左側)と石川テレビ送信塔(右側)のようです。
 
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中央には石川県庁行政庁舎(地上19階、高さ98.8m)が小さく見えます。
 
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右端は金沢港のようです。
 
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駐車場への近道である石段を下りました。
 
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卯辰山を反対側に下りて、山の上交差点で国道359号を横切り、武蔵交差点を右折しました。1kmほど先に印象深い意匠の建物が現れました。昨年3月、北陸新幹線が延伸開業したJR西日本の金沢駅です。
 
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駅前ロータリーに入ります。
 
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駐車場に車を停めて写真撮影です。東広場の正面には伝統芸能である能楽・加賀宝生(かがほうしょう)に使われる鼓(つづみ)をイメージした木製の巨大な門は「鼓門(つづみもん)」(2005年完成)が聳(そび)えています。高さ13.7mの太い2本の柱(米松をらせん状にに組み上げたもの)と、ゆるくカーブを描く面格子の屋根が一際美しく、風格と繊細さを兼ね備えています。ちなみに、屋根に降った雨水(あるいは雪)は2本の柱の中にある送水管を流れて貯水槽に送られるそうです。
 
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2011年にアメリカの旅行雑誌「トラベル&レジャー」のWeb版にて、世界で最も美しい駅14選の6位に選出されました。ちなみに、1位はベルギーのアントワープ中央駅(ネオバロック様式の豪華な駅舎)、2位はイギリスのセント・パンクラス駅(高い時計塔が象徴的な由緒ある宮殿のような駅舎)、3位はモザンピークのCFMマプト中央駅(ドーム状の屋根とエメラルドグリーンの外壁が美しい駅舎)とのこと。

 

後方には、金沢を訪れる人に差し出す雨傘をイメージし、「おもてなしの心」を表わしたガラスのドーム「もてなしドーム」があります。中では七夕飾りがあり、その奥に金沢駅の新幹線ホームに近い兼六園口(旧東口)が見えました。
 
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強化ガラス(3019枚)とアルミ合金のフレーム(6000本)の組み合わせはアートのように素晴らしく、太陽の光や夜のライトアップによって様々な表情をみせるそうです。

 

東広場の反対側には小さな噴水で構成された時計、つまり現代の水時計がありました。デジタル表示で歓迎の言葉と時刻が交互に表示されます。
 
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金沢港口(旧西口)にも回ってみました。不思議な形をしたモニュメントは「金沢市制百周年記念事業モニュメント」(蓮田修吾郎作)で、活力、魅力、潤いのある新しい金沢をイメージして未来に向かって悠然と伸びゆくことを願っているそうです。
 
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金沢駅の金沢港口から直線的に伸びる県道60号(通称:50m道路)を北西方向へ走りました。環状鞍月交差点の手前で、道路の両側から円弧が伸びるモニュメントの下を通過。
 
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ここで投稿を小休止します。(続く)

2016年8月14日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(その24) 金沢市の「長町武家屋敷跡」(後編)

見事な土塀が続きます。
 
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先ほどとは別の川縁(かわべり)に出ました。
 
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石柱には「大野庄用水」の名前とともに、『藩政前からある用水で、犀川から取水し、旧石川郡大野庄の灌漑・仏師運搬・市街地の防火・防御(ぼうぎょ)・融雪などのための多目的用水で、御荷川・鬼川・オホノヒ川の別名があり、下流は木洩川という。今も庭に「やり水」するなど城下町に景趣をそえている』 とあります。用水に面した住宅は橋を利用して出入りするようです。
 
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「武家屋敷跡 加賀藩千二百石野村家」の大きな看板がありました。
 
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こちらがその「野村家」で、案内看板には午前8時30分に開館すると表示されています。また、説明看板には、『藩祖前田利家が金沢城に入場した際、直臣として従った野村伝兵衛信貞家は禄高千石千二百国と累進し、十一代にわたって御馬廻組組頭各奉行職を歴任、千有余坪の屋敷を拝して連綿と明治四年廃藩まで続いた由緒ある家柄である』 と説明されています。開館する午前8時30分にはまだ2時間近くも!
 
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左手に回り込んだところに正門がありました。
 
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すぐ近くに「金沢flat BUS」(長町ルート)の「長町武家屋敷跡」停留所があります。金沢城を取り囲むように4つの循環ルート(大人料金100円)があるようですから、住民はもちろん、観光客にも便利な交通機関です。名称は「ふらっと乗れる気軽さ」「段差のないフラットなバス」にちなんで付けられたそうです。同種のサービスを都心部と仙台市、そしてハワイのオアフ島(こちらは乗り放題のトロリーバス)などで利用したことがあります。
 
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こちらにも土塀が続いています。
 
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加賀友禅「千紅(ちこう)
 
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箔座長町」のショーウインドーには『箔とともにある、暮らし』 のキャッチコピーで金箔(きんぱく)製品が展示されていました。
 
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長町(ながまち)の石柱には、『藩政時代はすべて藩士の邸地で、香林坊下から図書橋(ずしばし)あたりまでの長い町筋であったところから、この長ついたという。なた、藩の老臣(大老)長氏や山崎長門の指名に由来するとも言う』 と刻まれています。
 
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金沢市中央公民館長町館
 
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金沢市老舗記念館
 
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その近くにある「長町一の橋」は大野庄用水に架かる橋のうち、犀川に一番近い橋です。ちなみに、「八の橋」までありますが、武家屋敷跡はこの「一の橋」から高田家がある「四の橋」あたりまでのようです。
 
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下水用マンホールの蓋(ふた)には伝統工芸の加賀水引と金沢金箔をイメージしたデザインが施されています。
 
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片町一丁目に入ってホテルへ戻りました。
 
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午前7時を少し過ぎていましたので1階のシアトルズベストコーヒーで和洋バイキング朝食を摂ることにしました。これは同行者が選んだメニューです。
 
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そして、私は和朝食にしました。ご飯の代わりに好きなお稲荷さんを加えました。験担(げんかつ)ぎでもあるのです。これまでも多くの記事(大阪高松武蔵小杉名古屋など)のなかにお稲荷さんを登場させています。金沢のお稲荷さんには、酢飯に入れるのではなく、外側に胡麻(ごま)が振りかけられているのは珍しいと思いました。
 
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この日も安穏(あんのん)なドライブ旅が続くことでしょう。(続く)

2016年8月13日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(その23) 金沢市の「長町武家屋敷跡」(前編)

夕食のあと、最上階にある温泉「サウナ片町」へ向かいました。宿泊者は無料で利用できます。
 
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大浴場には細長い浴槽があり、天然温泉の泉質はナトリウム-塩化物泉(弱アルカリ性低張性高温泉)で、加水・加温・循環ろ過されていますが疲れを癒(いや)すことができました。
 
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露店風呂「「壮健の湯」からは白山連峰から日本海まで一望できるとのことですが、薄い雲で遠くを見ることができません。注、最初から3枚の写真は利用者がまだいない翌朝6時に撮影
 
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翌朝は午前5時過ぎに起床。朝食までの時間を利用して、旅先の習慣である朝の散歩に出かけることにしました。香林坊方面に向かい、東急スクエアの角を左折し、
 
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鞍月(くらつき)用水沿いの散策路を歩きます。『名前の由来は、鎌倉から室町時代に存在した鞍月庄にもとづいてます。水力を利用して灌漑(かんがい)や菜種油を採ることを目的に造られたそうです』(出典:せせらぎ通り商店街のhp)
 
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「せせらぎ通り」の名が付いています。
 
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「長町武家屋敷跡」の案内看板に従います。
 
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細長い露地が続いています。
 
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武家屋敷の雰囲気に代わりました。
 
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金沢らしい「職人大学校 長松検収塾」の看板を見つけました。
 
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家紋が入った鬼瓦
 
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落ち着いた雰囲気の食器店
 
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「金沢市伝統環境保存区域」は小さな公園のような佇(たたず)まいです。
 
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カラフルな消火栓の蓋(ふた)には日本庭園の意匠があります。
 
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露地の先には一般住宅が続いています。
 
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立派な長屋門がありました。『この「新家邸長屋門」(金沢市指定保存建造物)はもと、加賀藩士の桑嶋氏住宅長屋門で、亀甲積みとした基礎、礎石、礎盤などの役石をすべて戸室石とし、門を構成する柱は根具金具打ちとするなど、加賀藩中級武士住宅の風格を見せている。また出窓の形をとる武者窓を叉首(さす、合掌)、出桁の木口を銅板巻とするなど、木部の洗練された意匠とともに、しっかりとした工匠の意気がうかがえる』 と説明されています。
 
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クランク状に折れ曲がった道の角で何かに見入る同行者
 
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それは鈴木商舗(創業文政5年/1822年)の店先にある九谷焼(加賀市の発祥で加賀藩の名産、佐賀の有田焼から技術を導入)の絵柄が彫り込まれた灯籠(とうろう)でした。
 
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(続く)

2016年8月12日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その22) 金沢市の「兼六園」と「金沢城公園」(後編)

石垣巡(めぐ)りの1番は「石川門石垣
 
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石垣の造り方(石の積み方)が左右で異なります。右側が「切り込みハギ」、左側は「打ち込みハギ」と呼ばれる技法で、近年(昭和2年)の修理で違いが生じたと考えられるそうです。
 
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三の丸広場」に出ました。後方には、「内堀石垣」(左)、「橋爪(はしづめ)門」と「橋爪門続櫓」(中央)、「五十間長屋」(右)があります。「内堀石垣」の後方にあるのは「戌亥櫓石垣」でしょう。ちなみに、「橋爪門」は二の丸の正門です。
 
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アングルを変えてみた見た(左から)、「内堀石垣」「橋爪門」「橋爪門続櫓」「五十間長屋」
 
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それらの右手にある約130年ぶりに再現された「河北門」は、金沢城の大手から入って河北坂を上がったところに位置する、実質的な正門で、「石川門」「橋爪門」とともに「金沢城三御門」と呼ばれているそうです。写真では三の丸に面した櫓門の「二の門」だけのように見えますが、その後方(大手側、つまり外側)に「枡形土塀」(少しだけ覗いている)、「ニラミ櫓台」、および高麗門である「一の門」があるようです。
 
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「河北門」を抜けると、大手を経由して、近江町市場と金沢駅へも行けるようです。しかし、「石川門」「三の丸」「河北門」を見ただけで城から退出するのは心残りですから、
 
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「五十間長屋」とつながる「菱櫓(ひしやぐら)」の脇(内堀の外周)を歩くことにしました。
 
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「菱櫓」とつながる「二の丸北面石垣」
 
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反対側から見た「河北門」です。左手に「ニラミ櫓台」、中央に「一の門」のものと思われる屋根が確認できます。
 
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大手門に近い新丸広場はもともと藩の重臣の屋敷があった場所でしたが、手狭になったため城外に移され、その跡地は甲冑、大小刀、弓矢等の修理や製造を行う細工所だそうです。
 
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手前には掘をイメージしたという湿生園
 
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内堀沿いの遊歩道を速足で歩く同行者は遥(はる)か彼方に・・。
 
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旧第六旅団司令部は金沢大学の教育解放センターとして利用されていたそうです。半世紀前の学生時代に訪れた時には、金沢大学は一部の学部を除いて金沢城址(二の丸、三の丸、東の丸、新丸広場)にあり、石垣に囲まれたキャンパスが印象的でした。手狭になったため、1990年前後にすべての学部が角間キャンアパス(金沢市南東部)などに移転したそうです。ちなみに、金沢大学は、旧制金沢医科大学、旧制第四高等学校、金沢高等師範学校、金沢高等工業学校を主な母体として設立されました。
 
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お宮広場の手前にある階段を下り、黒門を抜けて近江町市場へ向かうつもりでしたが、同行者の姿はありません。携帯電話で連絡を取ると玉泉院丸庭園へ向かっているとのこと。そこで、二の丸広場へ向かうと、小さな切手門(きってもん)がありました。藩主の側室たちの住いがあった数寄屋(すきや)へ通じる門で金沢城公園に残る江戸時代に造られた建造物のひとつで、ここを通るためには切手(通行手形) が必要だったことが名前の由来のようです。うかつにも、立て看板しか撮影しませんでした。
 
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二の丸から見た(左から)「菱櫓」「五十間長屋」「橋爪門続櫓」
 
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同行者は玉泉院丸庭園まで行ってしまったのか、二の丸広場にもその姿が見えません。前方にある木製の橋は「極楽橋」で、二の丸から三十間長屋のある本丸へ渡る橋です。
 
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極楽橋三十間長屋を撮っていると同行者が戻ってきました。
 
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近江町市場への近道である黒門へ向かう遊歩道は、先ほどまで通行できたのですが、午後6時少し前になるとロープが張られて通行止めになっていました。(注、金沢城公園の退園時間は午後6時) そこで、予定を変更して玉泉院丸庭園側の出口へ向かうことにしました。写真は二の丸と本丸の間にある掘で、そこに架かる極楽橋も見えます。
 
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坂道を下りると玉泉院丸庭園が見えて来ました。金沢城の案内には、『二代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構えたこがその名の由来とされ、三代目藩主利常が寛永11年(1634年)に庭作を始め、その後も歴代藩主によって手を加えられながら廃藩時まで存在していた庭園です。平成27年3月、江戸時代末期の姿をもとに再現されました』 と説明されています。ちなみに、左後方の建物は金沢広坂合同庁舎(金沢国税局などが入る)のようです。
 
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いしかわ四校記念公園」を抜けました。容易に想像できますが、公園の名称はかつて公園内に開設されていた旧制第四高等学校に由来します。
 
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近江町市場にある近江町食堂で海鮮料理を食べるつもりでしたが、ホテルがある片町界隈(かいわい)で夕食をすることにしました。香林坊交差点付近、片町一丁目から二丁目のスクランブル交差点までを歩きましたが、ほとんどは居酒屋ばかりで、適当な店を見つけられません。これから2km近く離れた近江町市場へ行くのも大変ですから、ホテルで軽い夕食を摂ることになりました。(続く)

2016年8月11日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その21) 金沢市の「兼六園」と「金沢城公園」(中編)

北側から見た霞ヶ池
 
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南側から見た霞ヶ池
 
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唐崎松(からさきのまつ)
 
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眺望台からは北東方向の市街地と卯辰山(うたつやま、標高141m)の先にある内灘(うちなだ)砂丘・日本海・能登半島を望むことができると説明されています。ここまで園内を見た同行者は、『有名なわりに魅力的じゃないわ』 と大胆なことを言います。やはり、日本三景の一つである「松島」とベトナムの世界遺産「ハロン湾」にも感動しなかった人物です。実をいうと私も、雪吊りで有名なこの兼六園を含む三大名園よりも、高松の栗林(りつりん)公園の方が好きなのです。
 
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樹齢500年の旭桜(あさひざくら)
 
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桂坂口(北口)へ向かう同行者
 
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松ヶ岡にも出入り口があるようです。
 
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「桂の木」の親木から成長した若木
 
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桂坂口を出る同行者
 
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桂坂口の先は「金沢城公園」につながっています。
 
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兼六園と金沢城の間にあった「百閒掘」は長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mの規模だったことが説明されています。
 
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「百間堀跡」に架かる石川橋
 
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石川橋から見下ろす「百間堀跡」は先ほど車で通過し県道10号になっています。
 
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「石垣めぐり」の案内看板
 
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「百間堀跡」と「石川門」から伸びる石垣
 
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「石川門」(金沢城の裏門)は国の重要文化財に指定されています。
 
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(続く)

2016年8月10日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(その20) 金沢市の「兼六園」と「金沢城公園」(前編)

ホテルにチェックインしたあと、夕食までの時間を利用して、市内の名所を散策することにしました。国道157号が通るここ片町は北陸地方で最大といわれる繁華街です。ちなmに、片町の名前の由来は、犀川(さいがわ)支流の河原を利用して掛造(かけづくり、傾斜地に建てた)商店が片側に並んだことによるとのこと。片町の地名にはこれまでも、大山街道(川崎市横浜市)、都内港区大阪市、などで出会っています。
 
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Loftのモダンな建物を左手に見ながら国道157号を北上し、香林坊交差点に出ました。右手前方には多数の専門店が入る香林坊アトリオがあり、左手には香林坊東急スクエアがありました。この辺りも金沢市における繁華街のひとつです。江戸時代から北陸街道沿いに商店が立ち並んでいたそうです。ちなみに、「香林坊」は還俗してこの地に住んだ人物の名前とのこと。
 
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交差点の角にある彫刻は郡順治(こうりじゅんじ)氏作の「走れ!」でした。
 
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交差点を右折して入った県道10号は金沢らしく「百万石通り」と呼ばれています。先ほど車で通ったばかりの道です。
 
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金沢市役所
 
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ホテルから700mほど歩いて広坂交差点に到着。左手に金沢城の辰巳櫓(たつみやぐら)跡とその手前にある鯉喉(りこう)櫓台から「いもり掘」(南西側を囲む外堀)に面した石垣が続いています。
 
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交差点から斜めに伸びる坂道の先に「兼六園」(国の特別名勝)の入口がありました。入園料は大人310円ですが、65歳以上は無料でした。ちなみに、「兼六園」の名の由来は、中国河南省・洛陽(らくよう)の名園・湖園が「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」と謳(うた)われたことに倣(なら)ったものだそうです。
 
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金沢の地名の由来を紹介します。『昔、山芋を掘って売っていた藤五郎という青年がおり、山で芋をほっていると、芋のひげに砂金がついていました。その砂金を洗った泉が「金洗沢(かなあらいざわ)」とよばれ、それが金沢の地名になったといわれています。現在の兼六園の「金城霊沢(きんじょうれいたく)」が、その泉だということです』(出典:金沢市のhp)
 
玉砂利が敷き詰められた遊歩道が伸びています。
  
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案内図(現在地は左上)
で分かるように江戸時代に造られた池泉回遊式大名庭園で、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の一つに数えられています。入口からみて一番奥(山崎山の北麓)に芭蕉の句碑があることが示されていますが、金沢城へ行く時間が無くなりそうですから、金沢城に近いエリアに限定することにしました。ネットで調べると、芭蕉の句碑には『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』 が刻まれているそうです。
 
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金沢の旅籠「宮竹屋」(片町のスクランブル交差点付近にあった)に投宿した芭蕉は、『秋涼し てごと手毎に むけや瓜茄子(うりなすび)』 と 『塚も動け 我が泣く声は 秋の風』 の句も残しています。
 

「瓢池(ひさごいけ)」は瓢箪(ひょうたん)に似た形をしていることから名付けられたそうです。
 
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その先にある翠滝(みどりたき)
 
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夕顔亭の隣にある加賀料理の三芳庵(みよしあん)
 
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せせらぎに沿って緩やかな石段を上がります。
 
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噴水に出ました。
 
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霞(かすみ)ヶ池を水源としており水面との落差で、高さ約3.5mにまで吹き上がっていると説明されています。
 
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せせらぎ
 
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霞ヶ池北岸にある徽軫灯籠(ことじとうろう)のそば(シイノキの木陰の笹薮)にある「虎石
 
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(続く)

2016年8月 9日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その19) 倶利伽羅峠(後編)

源平ラインは尾根伝いに続くようです。
 
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源平古合戦場猿ケ馬場」の石柱がありました。平家の総大将平維盛(これもり)が本陣を布(し)いた場所です。
 
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猿ヶ馬場にある芭蕉塚です。元禄2年にこの地を通過した芭蕉の句、『義仲の 寝覚(ねざ)めの山か 月かなし』 がありました。朝日将軍と謳(うた)われた義仲の末路を涙して詠(よ)んだ句であると説明されています。ちなみに、義経(よしつね)ファンであったことが知られる芭蕉は、義仲にも強い思いがあったようです。参考として、芭蕉が奥州平泉で詠んだ句を2つ紹介します。『夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡』 『五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂(ひかりどう、金色堂のこと)』
 
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風化が激しくて読みづらいのですが、上段に「芭蕉翁」、下段に芭蕉の句 『義仲の 寝覚めの山か 月かなし』が刻まれています。
 
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後白河天皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)が出した平家追討の令旨に応じた信濃国(現長野県)の源義仲は横田河原合戦で越後の平氏軍を破って越後国と北陸道を勢力下に収め、越前国に攻め入りましたが、敗退して、いったん越中国まで後退しました。そして、10万の軍勢を有する両軍が砺波山(となみやま)の倶利伽羅峠で対峙(たいじ)することになります。注、源義仲の軍勢は5万であったとする説もあり

 

木曽義仲は、行軍の疲れを癒すため倶利伽羅峠で休息する平家の軍勢を取り囲む布陣をする一方で、平家軍の後方において北陸道を押さえる優れた作戦を実行したことが、合戦の勝敗を大きく決めることになりました。明智光秀と豊臣秀吉の両軍が正面衝突した「天王山の戦」(山崎の合戦)の参考になったかもしれません。また、「火牛の計」は中国の史実をもとに脚色されたものであるとの説が有力のようです。ちなみに、源義仲の愛妾(あいしょう)であった男勝りの巴御前(ともえごぜん)もこの戦いで活躍したそうです。

 

芭蕉の句、『あかあかと 陽は難面(つれなく)も あきの風』 は越後路から越中・金沢にいたる旅の途中で得た旅情を、金沢で結晶させたものであると解説されています。
 
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源氏ヶ峰への入口(階段)がありましたがスルーすることにしました。ちなみに、平家が布(し)いた陣を源氏方が占領したことが源氏ヶ峰の名の由来だそうです。
 
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塔(とう)の橋」に出ました。平家軍の最前線だったところです。
 
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つまり、平軍の将「平行盛」が陣を布いた場所
 
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馬の背のような険(けわ)しいところで、旧北陸道を旅する人が難儀したそうです。ちなみに、この辺りに北陸道に設けられた「砺波(となみ)の関」があったそうです。
 
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「大池・埴生(はにゅう)口へ」の道標もあります。ちなみに、大池は灌漑(かんがい)用ダム池で、埴生口は小矢部市埴生にある「倶利伽羅源平の郷(さと)」のことのようです。
 
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道標には「源平ライン」「歴史国道」「倶利伽羅古戦場」「埴生大池」の名称が表示されています。
 
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一里塚跡
 
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獅子脅(ししおど)し
 
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矢止めの木(ツゲ科)
 
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旧北陸道から反(そ)れて矢立山の脇を過ぎました。この矢立山は義仲軍の最前線で、幅300mほどの谷を隔てた「塔の橋」から平家軍矢を放ち、多くの矢が立ったことから「矢立」と呼ばれるようになったそうです。矢立山を過ぎた場所にある万葉公園への入口を通過します。
 
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1200年前、大伴家持(やかもち)が越中の国司として在任中に詠んだ植物詠歌(37首)を石に刻んで万葉公園にしたことが書かれています。
 
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源平ラインは一気に高度を下げて終点である県道274号に出ました。ここを右折して北陸自動車道と並行する国道359号に入り、内山峠を越えて石川県に入りました。これが金沢市の中心部へ向かう最短の(かつ交通量が少ない)コースのようです。市街地に入って兼六園下交差点を左折し、県道10号で金沢城と兼六園の間を抜け、香林坊交差点を左折して国道157号に入れば目的地は間近です。午後4時半前、この日の宿泊地であるアパホテル金沢中央にチェックインしました。(続く)

2016年8月 8日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その18) 倶利伽羅峠(前編)

高岡市を出発したのはすでに午後2時を過ぎていますので、先を急ぐことにして、国道8号で源平合戦の「火牛)かぎゅう)の計」で有名な倶利伽羅(くりから)峠へ向かいました。富山県と石川県の県境にあります。

 

国道8号(小矢部バイパス)の安楽寺西交差点を右折して県道286号(旧北陸道)に反れるつもりでしたが、急な上り坂の先にある小矢部(おやべ)トンネル源平トンネルを抜けたところで右折の態勢に入らず、国道8号(倶利伽羅バイパス)を直進して倶利伽羅トンネルに入ってしまいました。予定外のことでしたが、トンネルの反対側からも倶利伽羅峠へ向かう道があることを事前に調べていましたから、助手席にいる同行者には何食わぬ顔でそのまま進みました。

 

県道286号の急坂を上って(戻る形で)天田峠に到着。写真の前方が富山県(小矢部市)側で、倶利伽羅峠は右手に入るようです。
 
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来し方(石川県津播町方面)を振り返ると、「日本三不動尊 倶利伽羅不動寺」の大きな看板が立っていました。日本三大不動尊といえば、東京の目黒不動尊、千葉の成田不動尊の2つに加えて、さまざまな候補があり、倶利伽羅不動尊もその一つとされているようです。
 
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アップダウンのある尾根沿いの道を進む絵の看板と「倶利伽羅県定公園観光案内図」が立っていました。倶利伽羅不動寺は左手に入るようです。
 
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100mほど先に倶利伽羅不動寺があり、予定外でしたが、参拝することに。整備された駐車場はなく、道路脇の空きスペースに10台ほどの車が停められていました。長い石段を上がります。
 
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『奈良時代初期の養老2年(718 年)に、中国から渡来したインドの高僧、善無畏(ぜんむい)三蔵が北陸路巡錫(じゅんしゃく)した際、砺波山(となみやま)山中に棲(す)み村人や旅人に災いをかける魔物を倶利迦羅竜王を勧請して退治し、その不動明王を祀(まつ)った。このことからこの地を倶利伽羅と呼ぶようになったという』(出典:小矢部市歴史散策マップ)

 

折れ曲がった石段の先に倶利伽羅不動寺の山頂本堂がありました。
 
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弘法大師が奉安したとされる倶利伽羅不動明王、阿弥陀如来、聖観音菩薩、毘沙門天などの仏像が祀られている高野山真言宗の寺です。度重なる火災のため明治以降は本堂と呼べるものはなく、昭和35年(1960年)に境内が現在の形に整備されたそうです。ちなみに、奥之院(おくのいん)には今から約1300年前に、善無畏三蔵法師が敬刻された倶利迦羅不動明王が奉安されているそうです。
 
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本堂の前で振り返って見た小矢部市の景色です。眼下に見えるのは埴生(はにゅう)大池のようです。
 
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本堂の右手にあるのは施無畏堂(せむいどう)です。「畏(おそ)れ無きことを施(な)す」という言葉は、観音経などに出てくる言葉で、仏さまの慈悲(じひ)を表しているとのこと。
 
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竹橋地区にはかつての倶利伽羅不動寺の七堂伽藍と十二ヶ寺の塔頭寺院を復興すする事業の一環として西之坊鳳凰殿が平成10年(1998年)完成したそうです。長い石段を下りました。
 
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500mほど先に展望台がありました。
 
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その脇にある「倶利伽羅合戦」の案内看板
 
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その説明文として、『平安示談末期の寿永2年(1183年)、平家打倒のために挙兵した木曽(源)義仲の軍が平維盛(これもり)を総大将とする平家の軍勢とこの倶利伽羅峠(砺波山)で激突しました。倶利伽羅峠を挟んで両軍は東西に布陣しましたが、木曽義仲は群を7つに分けて、平家軍に夜襲を仕掛けました。義仲軍は鬨(とき)の声をあげ、法螺(ほら)貝を付記、タイコを打ち鳴らして平家に一斉突撃』

 

『この時義仲は角に松明(たいまつ)をつけた4-500頭の牛を平家軍へ向かわせ、平家の将兵が大混乱に陥ったと伝えられます。義仲軍の猛攻により、逃げ場を失った平家軍は深い谷底へと落ちました。これにより、その谷は後に「地獄谷」と呼ばれています。倶利伽羅合戦に勝利した木曽義仲は、平家を都から追いやり、源氏一族の中でいち早く入京し、後白河法皇より「朝日将軍」の称号を賜(たまわ)りました』 とありました。

 

「倶利伽羅県指定公園 展望図」
 
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展望台から見た地獄谷方面と源氏ヶ峰(左手の山)
 
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展望台の右手にある源平供養塔
 
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左手の詩碑には、江戸中期の儒学者で木下順庵の弟子で、加賀藩(金沢藩)ついで新井白石の推薦で江戸幕府に仕えた室鳩巣(むろきゅうそう)の漢詩「暁陟倶利伽羅山」が刻まれています。
 
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駐車場の脇にあった「倶利伽羅山のはなさかじいさん」の案内看板(説明を省略)
 
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源平ライン」に入ると「源平倶利伽羅合戦の地」「火牛の計」の説明看板には両軍はそれぞれ10万の大軍であったことが書かれています。その隣には「火牛」が2頭。
 
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(続く)

2016年8月 5日 (金)

デイヴィッド・J・ハンズ著「偶然の統計学」を読む

2015年8月に早川書房から発刊された「偶然の統計学」(1800円+税)を手に取りました。私には、邦題にやや違和感があり、読む前から英文の原題"The Improbability Principle"(ありそうにないことの原理、つまり「ありえなさの原理」)の方が素直なように思われました。私の直感はさて置くとして、ソフトカバー本の黄色地でシンプルな表紙をめくりました。注、著者のデイヴィッド・J・ハント氏はインペリアル・カレッジ・ロンドン数学科名誉教授

                          ☆

 

中表紙の裏側には『真に異例な日というものがあるなら、それは異例な事態が何も起こらない日のことだ』(パーシ・ダイアコニス)との意味深長な言葉が引用されています。

 

「前置き」の項は『本書のテーマは到底起こりそうにない出来事である。考えれば考えるほど起こりそうにない物事がなぜ起こるのかについて語っていく。なぜ次々起こるものなのかも解き明かす』 との言葉ではじまった。

 

1章 不可思議なこと

 

著者は不可思議なこととして、「まったくもって信じがたい」(偶然と呼ぶことは無理がありそうな)事例を世界各地からいくつか列挙したあと、『十分に起こりそうにない出来事は起こりえない』(つまり、確率が十分に低い事象は決して起こらない) とする「ボレルの法則」を引用して読者を困惑させる。著者が説明しようとする「ありえなさの原理」(確率の低い出来事は次々起こる)とは明らかに相容(あいい)れない。しかし、著者はこの矛盾を解消するというのである。

 

2章 気まぐれな宇宙

 

出来事の背後にある原因を理解したいという本能的な欲求に突き動かされ、私たち人間はパターンを、出来事の連鎖を探す。そして、迷信が生まれ、予言する能力を持つという人が出現し、神々による奇跡が信じられ、信仰としての超心理学と超常現象が語られ、これらがシンクロニシティー(共時性)・形態共鳴 などの考えにつながった。17世紀から20世紀初頭までの間に進歩した科学は「時計仕掛けの宇宙」(はっきりした道筋を時々刻々進んでいる宇宙)の自然観を生んだが、20世紀を通して長足の進歩を遂げた科学は 『ランダムさと偶然が根底にある確率の基本法則が宇宙にも当てはまる』 ことを我われに理解させるようになった。

 

3章 偶然とは何か?

 

偶然には驚きの要素が必要であり、超自然と捉(とら)えがちであるが、科学的には確率という概念が長い時代を経て受け入れられるようになった。その過程において、偶然を定量化する試みがニュートンなどの科学者やケインズなどの経済学者によって行われてきた。興味深いことに、確率論が最初に注目された領域はギャンブルである。つまり、サイコロを振った時に出る目やコイントスで表と裏が出る頻度(ひんど)についての考察である。
 
確率論の研究が進展して2つの事実、「本質的に不安定な系が存在すること」(バタフライ効果)と「何ものも完璧な精度では測定できないこと」(不確定性原理)が旧来の決定論(時計仕掛けの宇宙)の正確さに疑問を投げることとなった。注、前者は 『アマゾンのジャングルにおける蝶のはばたきが、不確かさの仕組みで増幅され、地球の裏側で暴風が起こる』 可能性があるという考えであり、後者は量子力学においてよく知られるハイゼンベルグの不確定性原理である。

 

著者が「ありえなさの原理の表れ」を解説する、4章 不可避の法則、5章 超大数の法則、6章 選択の法則、7章 確率てこの法則、8章 近いは同じの法則、9章 人間の思考(思考に癖がある)、10章 生命・宇宙・その他もろもろ、の各章についての説明は省略する。

 

11章 ありえなさの原理の活かし方

 

『到底起こりそうにないとみなす出来事が起こるのは、私たちの理解が誤っているからだ』 と著者は指摘する。つまり、『そう見えたことを疑う根拠が存在することをもって、ほかの説明を探すことが統計学的な推論の基本である』 ともいう。

 

結び

 

著者は、古代ローマの文人ペトロニウスの言葉 『偶然はそれなりに理由がある』 を引用し、ありえなさの原理はアインシュタインの特殊相対性理論の帰結 ”E=mc2” のように1つの数式ではなく、より糸の集まり(前述した多数の法則の集合体)であるとした。つまり、「不可避の法則」によると、何かが必ず起こる。「超大数の法則」によれば、機会の数が十分にたくさんあれば、どれほどとっぴな物事も起こっておかしくなくなる。「選択の法則」に言わせると、事象が起こったあとに選べば確率は好きなだけ高くできる。「確率てこの法則」によると、状況のわずかな変化が確率に大きな影響を及ぼしうる。「近いは同じの法則」によれば、十分に似ている事象は同一と見なされる。これらの法則を再確認することで、「尋常ではない」出来事にもほとんど驚かなくなるとして、数件の事例を紹介して本文を締めくくった。

2016年8月 2日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その17) 高岡市の「瑞龍寺」

県道247号に入り、県道58号で「あいの風とやま線」(旧北陸本線の一部)を陸橋で越え、高岡駅の南(約500mの距離)で東西に伸びる「八丁道」に入りました。名前からみて900m近い長さがあるのでしょう。
 
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「八丁道」を西へ進むと、「瑞龍寺」の少し手前に「前田利長公之像」がありました。
 
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加賀前田家の第2代(藩祖前田利家の嫡男)で加賀藩初代藩主です。父利家とともに織田信長に仕え、次いで豊臣秀吉の五大老となり、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に参加したことにより北陸三ヶ国(加賀・越中・能登)を支配する120万石の加賀藩を成立させた人物です。利長は、子に男子がいなかったことで、異母弟の利常を養嗣子(ようしし)として加賀前田家を継(つ)がせました。利長の死後、その利常が「瑞龍寺」を菩提寺として現在に至っています。

 

振り返ってみた「八丁道」
 
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瑞龍寺」に到着しました。立看板にある「一つやいと」は毎年6月と7月の1日にお灸(きゅう)をすえて無病息災を祈願するという行事だそうです。
 
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地図を見ると、八丁道は「瑞龍寺」と「前田利長募所」を結んでいることが分かります。
 
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総門の手前で小学生のグループが説明を聞いています。重要文化財の「総門」は正面三間の薬医門形式で正保年間の建立とされます。
 
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瑞龍寺」の伽藍(がらん)配置図には人体を使った説明がありました。中世中国の寺院建築を模しているそうです。
 
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拝観料(大人500円)を納めて「総門」をくぐりました。

 

巨大な「山門」は国宝に指定されています。
 
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「山門」は正保2年(1645年)に建立され、延享3年(1746年)に火災で消失、現在の建物は文政3年(1820年)に竣工したそうです。
 
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同じく国宝の「仏殿」が正面にあり、四周が回廊(重文)で結ばれています。棟札によって万治2年(1659年)に建立されたことが明らかであり、他に例を見ない貴重な建築であるそうです。
 
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その内部に祀られる仏像は300有余年前中国から渡来しれたもので、釈迦・文殊・普賢のいわゆる三尊が安置されています。天蓋(てんがい)も当時の作品であり、ハスの繊維と絹をもって織られたものと伝えられるそうです。
 
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左手にあるのは重要文化財の「禅堂」(座禅修行を行う建物)で、向かい側(右手)には大庫裏(おおくり、調理配膳・寺務運営を行う建物)があります。
 
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国宝の「法堂」は明暦年門(1655~1657年)の竣工で、境内第一の大建築であり、仏殿と異る総檜(ひのき)造りとなっています。
 
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「法堂」の上がり廊下
 
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「法堂」の構造は方丈の形式に書院造りを加味したものとのこと。
   
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本堂の裏手へ回ると石廟がありました。
 
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「富山県指定文化財 瑞龍寺 石廟(せきびょう)」の説明看板には、『前田利長公は、本能寺の変後、織田信長公津市の分骨を迎えてその例を慰めたと伝えられる。利長公の菩提寺「瑞龍寺」を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長公節も加えて同じ形式の五基を建造したのがこの石廟の由来である。石廟は向かって右から前田利長公、前田利家公、織田信長公(利長夫人玉泉院の父)、,織田信長公側室、織田信忠公(信長公の子息)のものである』 と説明されています。
 
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山門まで戻ると、小学生のグループが到着していました。
 
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受付けの脇で見つけた「法堂の鬼瓦」
 
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同行者が「瑞龍寺」に近い(八丁道沿い)「まちの駅たかおか」で見つけたソフトクリームは暑さのためあっと言う間に溶け始めました。
 
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ここで投稿を小休止します。(続く)

2016年8月 1日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(その16) 高岡市の「富山黒ラーメン」と「高岡城跡公園」

「海王丸パーク」を後にして、。「万葉線」にほぼ沿うルートで次の目的地、高岡市を目指します。県道350号と国道415号を西進し、新庄川橋で庄川を渡りました米島交差点で県道24号に入り、国道156号の片原町交差点を左折するとほどなく万葉線(氷見線)の始発駅高岡駅前に出ました。ちなみに、高岡駅はJR西日本の氷見(ひみ)線と城端(じょうはな)線の始発駅でもあります。
 
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駅前にある駐車場ビル(市営高岡中央駐車場、1時間まで無料)に車を停め、横断歩道を渡って道路の反対側にある「ウイング・ウイング高岡」へ向かいました。高岡市の公益施設と民間施設が入る複合商業施設です。高岡駅前地区の再開発で2004年(平成16年)に完成したビルです。
 
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広場にある「ドラえもんの散歩」にはキャラクタが飾られています。「ドラえもん」の原作者である藤子・F・不二雄氏がここ高岡市の出身出ることによるようです。ちなみに、川崎市にある「藤子・F・不二雄ミュージアム」を1年半前に紹介しています。
 
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12時を30分ほど過ぎていますが、「ウイング・ウイング高岡」1階のラーメン店「らあめん 次元」には待ち行列ができていました。幟(のぼり)や看板に表示された「富山ブラックラーメン」が有名な店です。ちなみに、駒沢オリンピック公園で開催された「東京ラーメンショー2011」で食べた麺屋いろは(射水市)の「富山ブラック」が強く印象に残り、富山県を訪れた機会に立ち寄ることにしたのです。
 
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店外での待ち時間を含めて15分後に出された「黒醤油ラーメン」(700円)と「梅塩ラーメン」(780円)を同行者とシェアすることにしました。前者は店が違うためか「東京ラーメンショー2011」の時に食べた「黒醤油ラーメン」のようにスープが黒くありませんが、醤油味は辛すぎず、さっぱりした印象です。表面をラードが覆(おお)っているようで、いつまでも温かいままで、中太の縮れ麺によく絡み合っています。
 
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一方、「梅塩ラーメン」は梅の香りがほどよく、塩ラーメンをより爽(さわ)やかにしていました。いずれのラーメンも期待通りの美味しさです。私は2年前に高松市で食べた「梅うどん」を思い出しました。
 
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高岡駅前には立ち寄りたいスポットがもう一つあります。「大伴家持(おおとものやかもち)と子供たちの銅像」です。先の記事で簡単に紹介したように、万葉集の代表的な歌人であった大伴家持は746-751年の5年間、越中国の国司(長官)として越中国府(現在の高岡市伏木古国府)に赴任している間に、223首もの和歌を詠(よ)んだそうです。注、伏木は富山湾に近い地区
 
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かつて、高岡市の伏木の地には、奈良時代に越中国(現在の富山県)の国府が置かれていました。この国府に、わが国最古の歌集『万葉集』の代表的歌人である大伴家持が国守として赴任してきたのは天平18年(74629歳の時でした。家持は越中の地に5年間滞在しました。そして美しい自然のなかで数多くの優れた歌を詠み、万葉集に残しています。

 

大仏寺の高岡大仏(銅造阿弥陀如来像、市指定有形文化財)
 
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はじめは木造金色の仏像でしたが焼失し、昭和8年に銅造で再建されました。大円輪の光背がそびえる大仏は珍しく、奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている(注、異説あり)そうです。
 
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次いで向かった高岡古城公園(国の史跡、日本桜名所100選)の大手口(高岡市立博物館近く)で「高山右近像」を見つけました。
 
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説明文には、『摂津国(大阪府)高槻城主となって織田信長に仕えましたが、豊臣秀吉により明石(12万石)に移封され、さらに秀吉のバテレン追放令を拒否して追放されましたが、加賀前田家に高禄(1万石以上)で迎えられた経緯があります。築城の名手として金沢城の修築や高岡城の縄張りを行なったと伝えられるなど、軍事・政治両面で利長を支えました』 とあります。ちなみに、高山右近と高槻城跡については「西国街道巡り」の記事の中で紹介しています。

 

高岡古城公園の案内図
 
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『高岡城は加賀藩2代藩主、前田利長によって築かれたものです。慶長14年(1609年)大火に見舞われたと山城に代わり、加賀・能登・越中の中心に位置する関野の地(現在の高岡市)に居城と城下町を移しました。縄張り(設計)を担当したのは、築城の名手と謳(うた)われた高山左近とつたえられています。元和元年(1615年)幕府の一国一城令により高岡城は廃城されましたが、歴代の藩主は、城址を高岡町奉行の管理下において、土塁や堀を残す処置をとりました。明治8年(1875年)に高岡公園としてしていされました』 と高岡城の歴史が説明されています。
 

高岡古城跡(旧二の丸)には「射水(いみず)神社」(越中国一宮)がありました。明治8年に二上の地(高岡市と氷見市の境界)よりこの高岡城本丸跡地(高岡古城公園)に遷座(せんざ)されたそうです。左手にある参拝者用駐車場(無料)に車を停めました。
 
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この第一鳥居は平成25年の行われた伊勢字神功の式年遷宮のあと、豊受大神宮(外宮)坂垣北御門(鳥居)を譲与されたものであると説明されています。
 
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茅の輪(ちのわ)くぐり
 
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拝殿で参拝する同行者
 
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樹齢400年の紅梅
 
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それよりかなり若い白梅
 
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射水神社(二の丸跡)の左手には高岡城の本丸跡がありますが、パスすることにして朱塗りの橋高岡城の掘(城址全域の1/3を占める)を渡り、
 
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次の目的地へ向かいます。(続く)

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