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2016年8月18日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その26) 「金沢港」から「安宅関」を経て「加賀温泉郷」へ(前編)

金沢駅から県道60号を約4km走って金沢港に到着しました。県道8号に行き当たった金沢港交差点付近は立ち入ることができませんから、T字路を左折して、「金沢みなと会館」(宿泊・飲食施設)の脇にある広い駐車場に車を停めました。
 
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左手の無量寺埠頭(むりょうじふとう)へ向かうと、この日はクルーズ船や海上保安庁の巡視船が停泊していませんでしたが、魚釣りをする人たちがいました。北陸を代表する釣り場のひとつだそうです。港の出口付近にある中州ではアジ・クロダイ・ヒラメ・スズキ・アオリイカ・ヒラメなどが釣れるようですが、この桟橋は交通の便が良い上に、「金沢みなと会館」と「いきいき魚市」の施設を利用できることで人気があるようです。
 
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対岸には石油岸壁が確認でしました。
 
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左手の無量寺突堤にある「いきいき魚市」と石川県漁協の「金沢総合市場」(右奥)が見えます。
   
 
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右手には大型船が接岸する戸水岸壁がありました。
 
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右手へ進むと、金網フェンスの先に引船(タグボート)の「いぬわし丸」が停泊していました。
 
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金沢港は大野川の河口にある港湾で、江戸時代には大野湊の名で北前船で栄え、昭和45年(1970年)に国際貿易港として開港以来、中国や韓国との貨物輸送で発展しました。最近は国際フェリーと大型クルーズ船の入出港が増えているそうです。
 
日差しが強くなってきましたので、ここで切り上げることにしました。金沢港交差点まで戻ると、右手角に金沢港湾事務所がありました。
 
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県道60号を南下した環状鞍月交差点で、往(ゆ)きにはうまく撮影できなかったモニュメント「ムーンゲート」を捉(とら)えることができました。夜はレーザーでライトアップされるようです。
 
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西念交差点を右折して国道8号に入り、日本三名山のひとつである白山(はくさん、標高2702m)がある白山市を通過して、次の目的地の小松市へ向かいました。
 
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白山山系を源流とする手取川の扇状地が白山市から隣の能美市(のみし)にかけて広がっています。
   
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能美市と小松市の市境にある
小杉ICで国道8号から県道54号へ出ます。
 
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倶利伽羅峠兼六園の記事で紹介した、芭蕉が金沢の源意庵で詠んだと伝えられる、『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』 の句碑がある小松天満宮と木曽義仲に縁の多田神社を当初の計画では立ち寄り先の候補に挙げていましたが、時間の制約でスルーすることにしました。
 
倶利伽羅峠の戦に大勝した木曽義仲は敗走する平家軍を追撃し、小松市と加賀市の境界辺り、片山津温泉に近い篠原で再び平家軍と戦いました。実質的に両軍の最後の戦(いくさ)となった「篠原の戦い」です。このとき、陣を立て直した平家軍にあって武運なく討死をした斉藤別当実盛(さねもり)は当時73歳、しかも幼少の義仲が源氏一族の争いで殺されかけた時に、その命を救い木曽へ逃してくれた恩人でした。平家軍はここでも敗れてしまいます。

 

謡曲「実盛」に「あなむざんやな」の一節があり、多田神社に参拝した芭蕉は『あなむざん 甲(かぶと)の下のきりぎりす』の句を奉納しました。あとで芭蕉は「あなむざん」を「むざんやな」に変えたため、現在は『むざんやな 甲のしたの きりぎりす』 として伝えられています。そして、もう一句、『しほらしき 名や小松ふく 萩すすき』 も詠んでいます。
 

県道54号が行き当たった長崎中交差点のT字路を左折し、県道25号の城南町西交差点を右折し、前川に架かる浮柳新橋の袂(たもと)で義経の銅像を見かけました。ちなみに、橋の反対側には弁慶の像もありました。
 
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梯川(かけはしがわ)の河口に近い「安宅(あたか)の関址」に到着。
 
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現在は安宅住吉神社になっています。ちなみに、主祭神は住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)。天応2年(782年)創建の古社で、現在の地に遷座されたのは天保4年(1647年)とされます。したがって、「安宅の関址」を見るために芭蕉もこの神社を訪れたのでしょうか。
 
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参道の鳥居には「茅の輪くぐり」があります。
 
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参道脇には『住吉の 神はあらたか 月参り』 と刻まれた神徳碑
 
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「弁慶逆植之松」は、安宅の関を通り抜けた弁慶が、無事を喜んで松を逆さまに植えたということから名づけられたそうです。
 
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塩田紅果(しおたこうか)句碑に刻まれた 『落ちてゆく 主従を偲(しの)ぶ 松しぐれ』 は義経と弁慶を偲んで詠まれた句です。ちなみに、塩田紅果は昭和初期の人物。
 
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弁慶の像がありました。白紙の勧進帳を堂々と読み上げています。その右手にあるのは稲荷社です。
 
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「勧進帳」とは寺社の建立(こんりゅう)や修理への寄付を募(つの)る口上書(こうじょうがき)きです。弁慶が即興(そっきょう)で読んだとされる勧進の口上は、平重衡(しげひら、清盛の五男)によって焼き討ちされた奈良・東大寺の大仏(盧舎那仏)を再建するための寄付を募(つの)る内容でした。このシーンは能の作品「安宅」と歌舞伎の十八番「勧進帳」で広く知られます。ちなみに現代では、即興で作った台詞(せりふ)を語ることを「勧進帳」といいます。
 
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平家を滅ぼす最大の功労者であった義経は、その独断的な行動により異母兄である頼朝の怒りを買って朝敵とされた(後白河方法が義経追討を命じた)ため、京都から北陸を経由して少年時代を過ごした奥州・平泉(奥州藤原氏)へ逃げようとしました。その途中、山伏の装束で「安宅の関」で通り抜けるとき、これを見咎(とが)めた関守の富樫左衛門(とがしさえもん)に命じられて勧進帳を朗々(ろうろう)と読み上げたことで通行を許されますが、富樫の部下が一行の強力(ごうりき、荷物運び)が義経に似ていると怪(あや)しんだため、弁慶は金剛杖(こんごうづえ)で主君の義経を叩(たた)いて疑いを晴らしました。 

 

これは史実そのものではないようで、義経ファンの芭蕉は、元禄2年(1689年)、奥の細道紀行の途中、小松には2度も立ち寄っていますが、「安宅関址」立ち寄っていないようです。また、室町時代に成立した能の「安宅」が参考にしたという室町時代初期の軍記物語「義経記(ぎけいき)」によると、関所役人と問答して通過するのは「越前の三(みつ)の口関」(金沢市三口町)であり、義経を打ちのめしたのは越中の「如意の渡し」(高岡市伏木、小矢部川河口)のようです。ちなみに、「勧進帳」こに登場する富樫氏とは平安時代の藤原氏を祖とする名門の室町時代から加賀の守護大名となった富樫氏の祖先を想定しているようです。
 
そして、元禄15年(1702年)に初演された歌舞伎の「星合十二段」(義経・弁慶・
富樫が登場する)は能の「安宅」を真似(まね)たもので、天保11年(1840年)にはこれが「勧進帳」へと発展したそうです。また、少し前の鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鑑(あづまかがみ)」には伊勢と美濃を経て奥州に逃れたとあり、北陸の越前国を通ったかどうかは示されていません。ちなみに、当ブログでは、浜黒崎倶利伽羅峠角田灯台鼠ヶ関最上川岩出山仙人堂平泉鞍馬寺徳島大阪峠、などの記事で義経の足跡に触れています。(続く)

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