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2016年8月23日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その31) 福井市の「北の庄城址」と「柴田神社」

国道364号を先に進み、福井から約10km南東に位置する「一乗谷城址」へ立ち寄る予定でしたが、時間の制約で断念することにしました。「一乗谷城」は戦国大名越前朝倉氏の居城で、遺跡全体が国の特別史跡に指定されています。ちなみに、流浪中であった明智光秀は鉄砲指南役として朝倉義景に仕えたのではないかと伝えられる場所です。

 

越前高田駅の近くで国道158号(美濃街道)に入って西進しました。名前の通り福井市から岐阜県高山市を経由して長野県松本市まで続く国道です。

 

国道8号と交差すると国道158号は県道5号に変わりましたが、そのまま直進して北陸本線を潜り、右手の脇道に入りました。コインパーキングに車を停めて徒歩で「柴田神社」に到着。
 
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L字型に折れ曲がった参道の先に小さな社(やしろ)がありました。境内社の稲荷神社です。その左後方は同じく境内社の「三姉妹神社」。
 
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「北の庄・柴田神社」は、『天正3年(1575年)、柴田勝家公が築城。9層の天守閣を持つ日本最大級の城だったとの記録が残っている。同11年(1583年)、賤ヶ岳(しずかたけ)の戦いに敗れた勝家公は、自ら城に火を放ち、妻お市の方とともに最期を遂げた。現在は勝家公を主祭神とし、お市の方を配祀する柴田神社や茶々・初・江を祀る三姉妹神社が建立されている』 と説明されています。地図の左上にある足羽根山には福井出身ともいわれる「継体天皇像」があるようです。
 
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「お市の方像」
 
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「三姉妹の像」に並ぶのは左から、茶々(豊臣秀吉側室)、江(ごう、徳川秀忠継室)、初(京極高次正室)です。
 
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三姉妹神社(境内社)の左手にある拝殿に参拝しました。後方に本殿があります。
 
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「越前北ノ庄城址」の石碑の後方には柴田神社本殿(左)と「稲荷神社」(右)が見えます。
 
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『柴田神社周辺は、柴田勝家の築いた北庄城(きたのしょうじょう)(1575~1583年)天守閣跡と伝えられている場所です。ここに展示している石は、勝家築城の北庄城の石垣遺構と考えられます。(以下略)』
 
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「北の庄城址・柴田公園」の案内図
 
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「柴田勝家・お市の方と三人の娘」「北ノ庄城(想像図)」
 
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発掘・修復された石垣
 
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「日向門」
 
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「土居」
 
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「瓶割(かめわ)り柴田」の異名について、『信長によって奪われた長光寺城(近江八幡市、安土城の約5km南)を奪還しようとする南近江の守護大名六角義賢(よしかた)の大軍に柴田勝家は籠城しましたが、水路を建たれ絶体絶命の窮地に追い込まれた勝家は、味方に瓶の中の水を飲ませた後、瓶を割って背水の陣で皆を奮起させ、これにより敵軍を打ち破った』説明されています。
 
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長槍を持つ「柴田勝家公像」
 
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後先になりましたが、柴田勝家の略歴を紹介します。勝家は若いころから織田信秀に家臣として仕え、その子信長が家督を継いだころには織田家の重臣で、信秀の死後はその子織田信行(信勝)に家老として仕え、信行を信秀の後継者にしようと信長と戦いましたが敗れてしまいました。その後は勝家を重用しなくった信行よりも信長に肩入れするようになり、後に信長の家臣となりました。そして、畿内平定戦・南伊勢北畠氏との戦い・近江六角義賢との戦い・長島一向一揆の鎮圧・将軍足利義昭との戦いなどで武功を上げました。
 

信長との一乗谷城の戦い(天正元年/1573年)により朝倉氏が滅亡したあと、信長は一向宗が支配する加賀国を攻めて平定し、越前国(49万石)と加賀国を勝家に与えました。その後も続いた一向一揆勢力や加賀国に侵入した上杉謙信との戦いを制した勝家は、能登国と越中国にも進出し、織田家の筆頭家老格になりました。ちなみに、浅井家に嫁いでいたお市の方とその3人の娘(浅井三姉妹)は織田の浅井攻め(天正元年/1573年)の最中に救出されました。

 

本能寺の変で信長が倒れた時は越中国(魚津)に攻め入った上杉勢との戦いで動けず、「中国大返し」を敢行(かんこう)した羽柴秀吉が明智光秀を打つことになりました。織田家の後継者を決める清州会議のあと(天正10年/1582年)、勝家は望んでお市の方を妻にします。その後、織田家内で対立した勝家と秀吉は「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で戦いましたが、臣下の前田利家が戦線を離脱したこともあって勝家は秀吉に敗れ、退却した北の庄上でお市の方とともに自害しました。北の庄城にも火が掛けられて、建物はほぼ焼失したとされます。この戦いにより秀吉は織田家において突出した存在となります。

 

「九十九橋の由来」には、『北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋です。九十九橋の記録は朝倉時代にもありましたが、柴田勝家公が半石半木の橋としたと伝えられています。(以下略)』 と説明されています。注、半石半木とは、橋の南側が石で、北半分が木で造られていることを意味する
 
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柴田公園に隣接する「北の庄城址資料館」には立ち寄らず、福井城址へ向かいました。(続く)

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