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2016年8月12日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その22) 金沢市の「兼六園」と「金沢城公園」(後編)

石垣巡(めぐ)りの1番は「石川門石垣
 
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石垣の造り方(石の積み方)が左右で異なります。右側が「切り込みハギ」、左側は「打ち込みハギ」と呼ばれる技法で、近年(昭和2年)の修理で違いが生じたと考えられるそうです。
 
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三の丸広場」に出ました。後方には、「内堀石垣」(左)、「橋爪(はしづめ)門」と「橋爪門続櫓」(中央)、「五十間長屋」(右)があります。「内堀石垣」の後方にあるのは「戌亥櫓石垣」でしょう。ちなみに、「橋爪門」は二の丸の正門です。
 
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アングルを変えてみた見た(左から)、「内堀石垣」「橋爪門」「橋爪門続櫓」「五十間長屋」
 
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それらの右手にある約130年ぶりに再現された「河北門」は、金沢城の大手から入って河北坂を上がったところに位置する、実質的な正門で、「石川門」「橋爪門」とともに「金沢城三御門」と呼ばれているそうです。写真では三の丸に面した櫓門の「二の門」だけのように見えますが、その後方(大手側、つまり外側)に「枡形土塀」(少しだけ覗いている)、「ニラミ櫓台」、および高麗門である「一の門」があるようです。
 
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「河北門」を抜けると、大手を経由して、近江町市場と金沢駅へも行けるようです。しかし、「石川門」「三の丸」「河北門」を見ただけで城から退出するのは心残りですから、
 
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「五十間長屋」とつながる「菱櫓(ひしやぐら)」の脇(内堀の外周)を歩くことにしました。
 
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「菱櫓」とつながる「二の丸北面石垣」
 
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反対側から見た「河北門」です。左手に「ニラミ櫓台」、中央に「一の門」のものと思われる屋根が確認できます。
 
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大手門に近い新丸広場はもともと藩の重臣の屋敷があった場所でしたが、手狭になったため城外に移され、その跡地は甲冑、大小刀、弓矢等の修理や製造を行う細工所だそうです。
 
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手前には掘をイメージしたという湿生園
 
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内堀沿いの遊歩道を速足で歩く同行者は遥(はる)か彼方に・・。
 
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旧第六旅団司令部は金沢大学の教育解放センターとして利用されていたそうです。半世紀前の学生時代に訪れた時には、金沢大学は一部の学部を除いて金沢城址(二の丸、三の丸、東の丸、新丸広場)にあり、石垣に囲まれたキャンパスが印象的でした。手狭になったため、1990年前後にすべての学部が角間キャンアパス(金沢市南東部)などに移転したそうです。ちなみに、金沢大学は、旧制金沢医科大学、旧制第四高等学校、金沢高等師範学校、金沢高等工業学校を主な母体として設立されました。
 
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お宮広場の手前にある階段を下り、黒門を抜けて近江町市場へ向かうつもりでしたが、同行者の姿はありません。携帯電話で連絡を取ると玉泉院丸庭園へ向かっているとのこと。そこで、二の丸広場へ向かうと、小さな切手門(きってもん)がありました。藩主の側室たちの住いがあった数寄屋(すきや)へ通じる門で金沢城公園に残る江戸時代に造られた建造物のひとつで、ここを通るためには切手(通行手形) が必要だったことが名前の由来のようです。うかつにも、立て看板しか撮影しませんでした。
 
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二の丸から見た(左から)「菱櫓」「五十間長屋」「橋爪門続櫓」
 
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同行者は玉泉院丸庭園まで行ってしまったのか、二の丸広場にもその姿が見えません。前方にある木製の橋は「極楽橋」で、二の丸から三十間長屋のある本丸へ渡る橋です。
 
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極楽橋三十間長屋を撮っていると同行者が戻ってきました。
 
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近江町市場への近道である黒門へ向かう遊歩道は、先ほどまで通行できたのですが、午後6時少し前になるとロープが張られて通行止めになっていました。(注、金沢城公園の退園時間は午後6時) そこで、予定を変更して玉泉院丸庭園側の出口へ向かうことにしました。写真は二の丸と本丸の間にある掘で、そこに架かる極楽橋も見えます。
 
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坂道を下りると玉泉院丸庭園が見えて来ました。金沢城の案内には、『二代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構えたこがその名の由来とされ、三代目藩主利常が寛永11年(1634年)に庭作を始め、その後も歴代藩主によって手を加えられながら廃藩時まで存在していた庭園です。平成27年3月、江戸時代末期の姿をもとに再現されました』 と説明されています。ちなみに、左後方の建物は金沢広坂合同庁舎(金沢国税局などが入る)のようです。
 
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いしかわ四校記念公園」を抜けました。容易に想像できますが、公園の名称はかつて公園内に開設されていた旧制第四高等学校に由来します。
 
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近江町市場にある近江町食堂で海鮮料理を食べるつもりでしたが、ホテルがある片町界隈(かいわい)で夕食をすることにしました。香林坊交差点付近、片町一丁目から二丁目のスクランブル交差点までを歩きましたが、ほとんどは居酒屋ばかりで、適当な店を見つけられません。これから2km近く離れた近江町市場へ行くのも大変ですから、ホテルで軽い夕食を摂ることになりました。(続く)

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