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2016年9月

2016年9月30日 (金)

超高速名城巡り<近畿編②> 「福知山城」(前編)

舞鶴若狭自動車道の綾部JCTまで戻り、同自動車道をそのまま南西方向へ進み、
 
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綾(あやべ)部ICの先にある私市(きさいち)トンネル(長さ770m)を通過しました。
 
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「私市」は難読名称ですが、大阪府交野(かたの)市にも私市の地名があります。大阪府のhpには、『「日本書紀」によると、天皇の后(キサキ)の用事をする役所を私府(キサフ)と言い、また后のための農耕をした人などを私部(キサベ)と称していた。推古天皇時代から皇室領であった交野の村々は皇后の部民(ベノタミ)であり、私市(キサイチ)という変わった地名の由来は、その中心となった村であることからも「私部内」(キサベノウチ)から訛(なま)って私市となったものである。』 と説明されています。

 

福知山ICから道幅が広く緩(ゆる)やかに下る国道9号(山陰道)を走行して福知山の市街地を目指しました。
 
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土師川に架かる新土師川橋を渡った自衛隊下交差点を標識にしたがって右折し、さらに福知山市役所の角を右折し、県道24号と県道55号(お城通り)を東へ進むと、右手に福知山城の大天守と小天守が見えて来ました。
 
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掘にかかる太鼓橋が見えます。その右手にあるのは隅櫓(すみやぐら)風の福知山市佐藤太清記念美術館のようです。
 
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堀沿いの道へと右折して、午前11時25分ころに福知山城公園観光駐車場(60台、無料)に車を停めました。隣には「ゆらのガーデン」があります。

 

福知山城の前身は「横山城」と呼ばれ、在地豪族横山氏の砦(とりで)でしたが、天正8年(1580年) のころ、丹波の平定に成功した明智光秀がその拠点としてこの砦あとに城を築いたのが始まりとされます。それ以来、 戦乱の時代に城主が交代する中、整備が順次進められ、慶長5年(1600年)ころに完成したそうです。

 

横山丘陵先端の地形を利用して築かれた福知山城には、3層4階の天守閣や広大な二の丸御殿など、多くの建物がありましたが、明治4年(1871年)の廃藩後次々に取り壊され、天守台から本丸にかけての石垣や「豊磐の井」と呼ばれる井戸、銅門番所などが残るだけになりました。現在の城は昭和61年(1986年)に再建されたもので、内部は「福知山市郷土資料館」として利用されています。

 

駐車場を出て道路を横断し、福知山城公園に入りました。太鼓橋の「昇龍橋」を渡ります。
 
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掘(法川)は県道55号の下を抜けて北へ続いているようです。
 
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南方向にも堀が伸びています。
 
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公園の一角にある福知山市佐藤太清記念美術館の近くを抜けました。日本画の巨匠「故佐藤太清画伯」の作品を中心に展示している美術館です。
 
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福知山城美術館(福知山市佐藤太清記念美術館)の看板脇にある「福知山歩民コース・周辺観光案内 福知山城散策コース」には福知山城・一宮神社・稲葉山古墳・醍醐寺・御霊神社が示されており、また福知山の市街地は由良川と弘法川に囲まれた天然の要害(ようがい)であることが分かります。
 
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美術館では秋季特別展として「いわさきちひろ ピエゾグラフ展」が開催されていました。
 
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その脇には県道55号を跨(また)ぐ太鼓橋風の横断歩道橋があります。
 
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その先にある下り坂を下りてUターンすると、前方に福知山城の天守閣へ向かう急な坂道「登城路」がありました。
 
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坂道は本丸の外周を進むようで、右へとカーブしています。
 
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本丸下の石垣に沿って登城ルートが続きました。福知山市の指定文化財である石垣は築城当初の面影を残す野面積(のづらづ)み・乱石積(らんせきづ)み・穴太積(あのうづ)みなどと呼ばれる自然石をそのまま用いた豪放(ごうほう)なもづのです。
 
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本丸跡に出ました。昭和60年(1985年)に小天守と続櫓が、翌年に3層4階の大天守が、松平時代の絵図や天守平面図をもとにして復元されました。左手の平屋の建物はその時に二の丸から天守台へ移築されていた銅門(あかがねもん)番所が現在の場所に再移築されたもので、その脇に転用石展示場があります。
 
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丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二の丸、更に西に伯耆丸(ほうきまる)、内記丸(ないきまる、西の丸)と続く四つの連郭式城郭を形成していたそうです。全体として東西約600m、南北約150-300mの規模で、本来は本丸と二の丸は繋(つな)がっていましたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまいました。また、伯耆丸と内記丸の間も繋(つな)がっていましたが、福知山線の建設にともないそれぞれ独立丘陵となってしまったそうです。

 

天守閣(大天守)は三層四階建ですが、最上階だけが異なる形をしていることは安土城と似ています。昭和61年(1986年)の11月に再建されました。こちら(西側)が大天守の正面のようです。
 
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坂を上りきると天守閣(大天守)の前出ました。「福知山城」の説明看板には、『明智光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、街に地子銭(じしせん、税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられ、城下町の鎮守である御霊(ごりょう)神社に祀られています。(中略)今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊師の時代と推定されます。』 とあります。
 
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「福知山城天守閣復元鯱瓦(しゃちがわら)」は高さ150cm、基部たて80cm、よこ45cm
 
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(続く)

2016年9月29日 (木)

超高速名城巡り<近畿編①> 「舞鶴城」(田辺城)の続編 「舞鶴東港」

舞鶴は江戸時代から北前船の寄港地として発展を遂げた古くからの港町です。特に市街地の西側(西舞鶴)を流れる高野川河口に位置する竹屋町(国道175号沿い)は、大商人が多く居住し、田辺(舞鶴)藩内の商品流通を全国の市場へと結びつける拠点だったそうです。

 

国道27号を大手交差点で右折し、丹後街道(敦賀-宮津を結ぶ街道、現在の国道27号・国道175号・国道178号)に入って東舞鶴方面へ向かいました。東舞鶴はかつて軍港によって栄えた地域です。ちなみに、現在、舞鶴港といえばこちらの舞鶴東港を指し、舞鶴西港と区別されています。

 

中舞鶴歩道橋交差点を右折

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海上自衛隊の基地(舞鶴造修補給所、最初の3枚)と舞鶴赤レンガパーク(4枚目)の脇を通過
 
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舞鶴市役所の角を左折して新日本海フェリーの乗り場(舞鶴港前島埠頭)へ向かいました。残念ながら、停泊するフェリーはありませんでした。
 
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舞鶴港からは、北海道の小樽(おたる)、ロシアのナホトカとポスト―チヌイ、中国の大連・青島(チンタオ)・上海、韓国の釜山(プサン)・浦項(ホコウ)への航路があるようです。
 
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近くの岩壁には水産庁の漁業取締船「はやま」(499トン)が停泊しています。
 
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山陰沖海域を担当する漁業取締船の一隻(せき)ですが、なぜか船尾には三浦市と表示されています。調べてみると、三浦市に船籍がある船を水産庁(境港漁業調整事務所)が傭船(ようせん、チャーター契約)して業務に当たっているようです。
 
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その周辺では多数の釣り客が釣り糸を垂(た)れています。
 
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北東方向の舞鶴平(たいら)湾を横断する舞鶴クレインブリッジ(1999年開通)が見えます。全長735m(橋長672.2m)の斜張橋は、最大支間長が350m、主塔の高さが92mです。ちなみに、日本海側では富山の新湊大橋に次ぐ規模の橋とのこと。
 
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海上自衛隊の基地(左手)と造船会社であるジャパンマリンユナイテッドの舞鶴事業所(右手)を望むことができました。
 
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舞鶴東港の北方、舞鶴クレインブリッジの袂(たもと)には「舞鶴引上記念館」がありますが、時間の制約があるため、立ち寄りを断念しました。第二次世界大戦が終わったことで、600万人以上の在外邦人を日本へ輸送する引き上げ船が入港した18港のひとつで、13年間で満州・朝鮮半島・シベリアから約66万人を受け入れたそうです。舞鶴東港の平(たいら)桟橋はヒットした流行歌「岩壁の母」(昭和29年/1954年発売)の舞台です。 

 

午前10時半ころに舞鶴東港を出発して国道27号で舞鶴西ICまで戻りました。
 
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舞鶴若狭自動車道で次の目的地へ向かいます。(続く)

2016年9月28日 (水)

超高速名城巡り<近畿編①> 「舞鶴城」(田辺城)

京都縦貫自動車道を北へ走りました。何度も利用していますから、途中の説明は簡単にします。この日もすぐれない天気になるようです。
 
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舞鶴若狭自動車道と交差する綾部JCTが近づきました。
 
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高速道路と一般道の交差に用いられることが多いTボーン型を2つ組み合わせた綾部JCTは珍しいインターチェンジで、一時的に方向感覚が失われそうになり、案内標識で行き先を確認しながら通過しました。注、航空写真で確認したルートは、まず北方向(下から上)へ伸びる京都縦貫自動車道からそれて右旋回(Uターン)して南下、そのあとは左旋回して舞鶴若狭自動車道に合流して右(東)方向へ

 

舞鶴若狭自動車道の綾部PAを過ぎた舞鶴西ICから県道27号に出て、行き当った国道27号を北進しました。

 

午前10時ころに到着した最初の目的地は、西舞鶴ICから約10分、駅の北方・舞鶴警察署の前にある舞鶴(まいづる)公園です。50mほど北に市立南田辺駐車場(71台) がありました。利用料金は1時間まで100円(以降30分ごとに50円)

 

舞鶴城(正式名称:田辺城)は、戦国大名の細川藤孝(細川幽斎)が天正7年(1579年)、鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所の跡とされる場所に築城した輪郭式平城です。藤孝は足利将軍家・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた人物で、細川忠興(ただおき)の父に当たります。信長の命により一色氏を滅ぼして丹後を征圧して12万石の領主になって宮津城を居城としましたが、交通の要衝(ようしょう)であった八田に城を築いて田辺城としました。ちなみに、地名の舞鶴市は田辺城の雅号「舞鶴城(ぶかくじょう)」に因(よ)ります。

 

関ヶ原の戦いの2か月前、細川家の跡を継いでいた忠興が東軍側として家康に従って東北へ出陣中、西軍側の軍勢1万5千の攻撃を受け、留守を預かる兵500だけで約2ヶ月(50余日)と長期にわたって籠城しましたが、後陽成天皇の勅令にしたがって講和(開城)しました。田辺城が長期間の籠城に耐えられた最大の理由は、東に伊佐津川、西には高野川が流れ、南は湿地、北は海となっているため、守りが固く敵を防ぎやすい城であったことによります。(出典:田辺城資料館の説明など)

 

江戸時代に入ると京極氏や牧野氏の居城となり、明治初頭の廃城まで存続。堀は埋め立てられて、建物はすべて取り壊されたそうですが、平成9年(1997年)に城門(大手門)が復興されました。その他には天守台石塁などの石垣と昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館(しょうこかん)などがあるようです。

 

土師川を渡った大手千日前交差点を案内標識にしたがって右折し、最初の交差点を左折すると、田辺城址の正門(大手門)の前に出ました。本来の外堀上に復興された大手門は思った以上に大きく、城郭の大きさとのバランスを欠くように見えました。
 
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舞鶴城址は現在、舞鶴公園となっています。正門の左手にあるのは二層櫓(やぐら)です。
 
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舞鶴公園案内図
 
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大手門をくぐると左手に二層櫓の「彰古館」がありました。
 
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正面には二層櫓から伸びる石垣が続いています。
 
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右手の高台に上がると、天守台跡がありました。
 
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天守台跡の上からは公園内(本丸跡)を展望することができました。大手門よりかなり狭いスペースです。公園内には約100本の桜が植えられて、桜の名所になっているそうです。
 
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本丸井戸跡(復元)
 
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大手門の脇にある「田辺城資料館」の案内標識にしたがって大手門脇の石段を上がりました。右手は二重櫓の彰古館です。
 
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大手門から二層櫓へと続く塀に設けられた狭間(さま、はざま)
 
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大手門の2階には田辺城資料館(無料)の入口がありました。
 
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受付前のスペースにはある細川藤孝(幽斉)の肖像画
 
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ドアを開けて中へ入ると細川幽斉の像が出迎えてくれました。
 
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館内には細川藤孝(幽斎)と江戸時代に田辺藩を明治までの約200年間納めた牧野氏にゆかりの品々が展示されていました。ちなみに、牧野氏の祖先は、東三河の土豪牧野氏の一族で、旗本から大名に昇進し、幕府の要職に就く藩主が多かったと説明されています。

 

「田辺城籠城」についての解説(前述)
 
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「黒漆塗(くろうるしぬり) 銀覆輪(ぎんふくりん) 紺絲威(こんいとおどし) 六枚胴具足」
 
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この難しい名称を解説すると、全体を黒い漆(うるし)を塗った、6枚に分かれる(持ち運びと収納が便利な)胴・太腿(ふともも)を守る草摺(くさずり)を紺の糸で繋(つな)いである鎧・周囲を銀で覆った兜(かぶと)を組み合わせた具足(ぐそく、甲冑)を意味します。

 

「牧野家ゆかりの甲冑(かっちゅう)である「黒漆塗 縦矧(たてはぎ) 五枚胴具足」も同様です。縦矧は鉄板の繋(つな)ぎ目が縦方向になっていることを意味します。
 
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田辺城とその城下の縮尺模型
 
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「竹屋町、田辺大橋周辺のにぎわい」
 
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「田辺城資料館」を出ました。彰古館の先に続く本丸の石垣にある石段を上がってみましたが・・・。
 
 

田辺城の大手門を出た右手(北西)にある明倫小学校は、藩校「明倫館」の敷地を受け継いでおり、明倫館の門が小学校の正門として移築・保存されていました。
   
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(続く)

2016年9月27日 (火)

新東名高速道路の延伸区間を走る(後編)

岡崎東ICを通過
 
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秦梨(はだなし)トンネル(長さ1130m)
 
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岩中岩戸トンネル(長さ770m)
 
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岡崎SAにも立ち寄ります。
 
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上下線集約型のSAですが、建物のデザインは下り線が積み木をモチーフとした洋風で、上り線が岡崎宿をイメージさせる和風と対照的なものになっているそうです。
 
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片側3車線になった新東名を走りはじめると豊田東JCTが近づきました。
 
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突然、開けた場所に出ました。美濃三河高原を抜けて西三河平野に入ったたようです。
 
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ほどなく伊勢湾岸自動車道と東海環状自動車道との分岐点である豊田東JCTを直進して伊勢湾岸自動車道に入ります。新東名の延伸区間についての説明はここまでですが、走りなれた伊勢湾岸自動車道についても少し触れます。
 
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豊田JCTが近づきました。
 
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矢作川(やはぎがわ)に架かる「矢作橋」(愛称:豊田アローズブリッジ)は4径間連続PC・鋼複合斜張橋で、写真で確認できるように現在は片側4車線化されています。
 
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豊田JCTを直進します。
 
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東名高速道路から合流する車が加わったことで伊勢湾岸自動車道の交通量が増えました。
 
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午前8時少し前に刈谷ハイウェイオアシスに到着した。例によって、セントラルプラザ(1階)にある「ごはんや」で朝食ですが、今回は「サバ煮」「海老フライ」「豚味噌串カツ」「山芋」「温泉たまご」などの朝定食(二人前計1320円)と格安でした。
 
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伊勢湾岸自動車道で名古屋市内(名古屋港)を通過し、伊勢湾岸自動車道が東名阪自動車道と交差する四日市ICTに差しかかると、東海環状が東員(とういん)出口までの7kまでが開通していました。東名阪自動車道に行き当たる四日市JCTの先に新名神高速道路が新四日市JCTまでの4kmがしていました。ちなみに、東海環状道は、新四日市JCTと東員IC間6.1kmが今年8月に開通したことで、予定路線延長(152.5km)の半分強(81.6km)に当たる豊田東JCT-関広美IC間と大垣西IC - 養老JCT間、そして東員IC-新四日市JCT間が開通したことになるようです。
 
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東名阪自動車道・新名神高速道路・名神高速道路などを経て到着した大阪のオチビちゃん・コチビちゃん宅までの距離は453.8km、そして平均燃費が25.9kmと良好でした。
 
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次回からは城巡(めぐ)りのドライブ旅を紹介します。(終)

2016年9月26日 (月)

新東名高速道路の延伸区間を走る(前編)

7月初旬、伊勢神宮参拝の帰路に新東名高速道路(正式名称:第二東名高速道路)の延伸区間(約55.2km)、トヨタJCT-浜松いなせJCT(上り線)を初めて走行しましたが、夜間であったため、この区間の様子を知ることはできませんでした。今回は下り線になりますが、例によって当該(とうがい)区間である「浜松いなせJCT-「豊田東JCT」・「トヨタJCT」間を細かく確認しました。ちなみに、「豊田東JCT-「豊田JCT」間は伊勢湾岸自動車道に属しています。

 

現状は片側2車線・最高速度100kmですが、当該区間の以東のように、将来の片側3車線化(設計最高速度120km)が予定されているようです。ただし、この区間のトンネル幅はいずれも片側2車線ですが・・。この区間における最大の特徴はトンネルと橋の多さでしょう。下り線・上り線とも17のトンネルと38の橋が連続します。橋の数は他の区間と大差はありませんが、トンネルは平均すると3kmに1つと他の区間の倍以上であることが目立ちます。この理由は当該区間が美濃三河高原の南端を通過しているからなのです。また、ICは「新城(しんしろ)」と「岡崎東」の2か所、SA/PAも「長篠設楽原PA」と「岡崎SA」の2か所です。

 

浜松いなせJCT」を直進します。従来(今年の3月まで)は接続道路に入って東名高速道路を利用する必要がありました。
 
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「雨 走行注意」の表示が出されています。
 
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切通しを通過
 
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愛知県新城市に入ります。
 
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再び切通しに差し掛かると、雨天の注意報が出ているように、靄(もや)が立ち込めていました。
 
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愛知県では最長とされる「鳳来(ほうらい)トンネル」(長さ2470m、注、上り線は2542m)を通過します。8kmほど北方には2年前に訪れた「鳳来寺山」があります。
 
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新城ICに差しかかるころにはフロントガラスに雨粒が・・。
 
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長篠設楽原(ながしのしだらがはら)PA」に立ち寄ります。
 
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下り線には「長篠設楽(ながしのしだら)が原の戦い」をモチーフとした織田・徳川連合軍の物見櫓(やぐら)があました。ちなみに、上り線は武田軍の朱塗り本陣をイメージさせるものだそうです。
 
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雁峰(がんぼ)第一トンネル(長さ590m)は9本も連続するトンネルの1番目です。ちなみに、従来の新東名では5本連続が最多でした。
 
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4本目の稲木(いなぎ)トンネル(長さ730m)
 
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5本目の東上(とうじょう)トンネル(長さ820m)
 
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8本目の千両トンネル(長さ320m)
 
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最後(9本目)の観音山トンネル(長さ1190m)
 
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額堂山(がくどうやま)トンネル(長さ970m)
 
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額田(ぬかた)トンネル(長さ1810m)に入ります。
 
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ちなみに、『額田」の地名は三河の地に移り住んだ古代氏族の「額田部(ぬかたべ)氏」に由来するともいわれますが、後年になってからこの表記になったようで、真偽のほどは定かでないようです。「額田部氏」といえば、継体天皇を支えた部族のひとつともされれます。また、天武天皇の妃(きさき)であった「額田王(ぬかたのきみ)」は皇族の額田鏡王(かがみのおおきみ)の娘といわれ、また初の女性天皇となった「推古天皇(すいこてんのう)」の諱(いみな)が「額田部皇女」(ぬかたべのひめみこ)であることから大和国の豪族「額田部氏」に養育されたのかもしれません。(続く)

2016年9月17日 (土)

続々・奥の細道擬紀行 帰路

車の通行量が多い国道23号を走り、伊勢市の隣の明和町を抜け、伊勢市を出発してから一時間後には松坂市に入りました。国道42号が合流する地点で渋滞が始まったようです。左手へと分岐する「中勢(ちゅうせい)バイパス」に入ることにしました。国道23号の渋滞を解消するために、鈴鹿市を起点とし、津市を経由して、松坂市を結ぶ国道23号のバイパス(長さ33.8km)です。今年2月に津市野田と同久居間が開通したことで、松坂市小津町-津市野町間(23.95km)および鈴鹿市の区間(4.1km)が開通し、開通率は約83%に達しているそうです。 

「中勢バイパス」を20kmほど走った津市河芸町(かわげちょう)に今年4月にでオープンした道の駅「津かわげ」に立ち寄ることにしました。国道23号中勢バイパスと国道306号の交差点付近に位置し、津の地場産品をはじめ多数の物産を販売している大きな「道の駅」です。
 
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中勢バイパスに面した小高い場所にあり、「中勢バイパス」を見下ろすことができます。
 
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鈴鹿市との市境に近い安芸町で県道651号に行き当たりました。その先はまだ未開通(開通は平成30年の予定)ですから、県道651号へと右折し、上野北交差点から国道23号へ出ました。国道23号をしばらく走ることにして、鈴鹿市を抜け四日市市に入り、背の高い防音壁に囲まれている区間を通過します。午後6時を過ぎると日没が近いことが感じられます。
 
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四日市らしい石油コンビナート・
エリアを通過
 
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国道23号(名四国道)で四日市市の東端に近い富洲原橋を渡ります。
 
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みえ川越IC」(三重郡朝日町)に差し掛かりましたので、国道23号のドライブはここで打ち切り、伊勢湾岸自動車道に入りました。
 
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「湾岸長島IC」が近づくと「ナガシマスパーランド」が右前方に見えてきました。
 
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刈谷ハイウェイオアシス」で休憩を兼ねた夕食にすることにしました。伊勢湾岸道路を通行する時にはいつも立ち寄る場所です。ちなみに、写真は上り線のパーキングエリアにある「名古屋めし三昧」(名鉄レストハウス)で、名古屋めしの「こはんや 於大処(おだいどころ)」などがあるようです。
 
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少し歩いた「セントラルプラザ」の1階にある馴染(なじ)みの「ザ・めしや」に入りました。昨年12月に京都へ出掛けた時にも立ち寄りましたが、テーブルの数がかなり増えて、その配置も変わっていました。
 
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和食メニューから同行者と私で選んだ二人前の料理です。ファストフードの握り寿司とB級グルメの組み合わせは〆(しめ)て1570円と格安なのがうれしい。
 
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食事を終えた
て午後7時半ころ、外に出ると観覧車のイルミネーションが点灯されていました。ちなみに、一般道側の駐車場からも利用できる「刈谷ハイウェイオアシス」(入場無料)は年間の入場者数(来訪者数)は年間800万人以上で、テーマパークの入場者数ランキングでは上位にランクされているそうです。ちなみに、2009年度は東京ディズニー・リゾートに次いで第2位、2013年度は大阪・USJに次ぐ第3位とのレポートを見たことがあります。
 
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10分ほどで豊田JCTが近づきました。ここを直行すれば新東名の豊田東JCT-浜松いなさJCT区間に入ります。今年3月に延伸開通したこの区間をドライブすることを楽しみにしていたのです。
 
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例によって、新東名のSA/PAで頻繁(ひんぱん)に休憩をとって時間調整しながら、予定通りに午前零時を過ぎて帰宅しました。ちなみに、今回のドライブ旅の総走行距離は1700km、平均燃費は24.0kmとまずますの結果です。
 
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50回を超える連載記事「続々・奥の細道擬紀行」に最後までお付き合いをいただきましてありがとうございます。
 

<同行者のコメント> 日数は正味5日間でしたが、あちこちに立ち寄ったことで、ずいぶん長い旅行になりました。運転者さんは下調べしたメモを確認しながら迷わずに走りきったのはさすがだと思います。お疲れ様でした。訪れた先々で、そのメモに書き込んだり、削除したりしていましたから、計画通りにいかないこともあったようです。 

 

ところで、旦那様は晴れ男を自称していますが、2か所のドライブウェイを走った時、いずれも頂上から何も見えなかったのは、神通力が衰えたのでしょうか。伊勢神宮をはじめ、多くの神社・寺院に参拝しましたから、そのご利益によって復活するかもしれませんね。そして、北陸各地でおしい食べ物を食べられたことは良かったのですが、ホテルの部屋が狭くて窮屈でした。今度は広い部屋をお願いします。

P.S. 都合により、1-2週間ほど投稿を休止します。

2016年9月16日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 「伊勢志摩スカイライン」

国道23号を伊勢浦田交差点まで戻り、県道32号(いせどうろ)へ右折し、五十鈴川を渡ると「伊勢志摩スカイライン」の料金所(伊勢側入口)がありました。ちなみに、通行料金は1250円。
 
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急な上り坂をを上がります。
 
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駐車スペースがある最初の展望所「鹿が原」から見た東方向(鳥羽方面)の景色です。地震雲とも呼ばれる葉巻型の雲が浮かんでいます。モーニング・グローリーにも似て巨大です。
 
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絶景を堪能(たんのう)して先へ進みました。
 

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一宇田(いちうだ)展望台」に到着しました。ちなみに、写真の中央に写る多数の植栽は「イセシマスカイライン」の植栽文字を描いています。
 
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駐車場の左前方にある砂利の広場へ徒歩で進むと、セントレア(中部国際空港)から伊勢市まで三重県最大の大パノラマ夜景を眺めることができるそうです。
 
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「イセシマスカイライン」の最高地点を目指しましたが、葉巻雲の影響でしょうか、急にガスが出て視界が悪くなりました。伊勢神宮の鬼門を守る名刹(めいさつ)「金剛證寺」の脇を通過して朝熊山(あさまやま)頂上展望台(標高506m)の駐車場に到着。
 
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『お伊勢参らば 朝熊をかけよ 朝熊かけねば 片参り』 と伊勢音頭で唄われているように、参宮を終えた人々は朝熊山に参詣するのが一般的だったそうです。
 

朝熊山(最高峰の朝熊ヶ岳:標高555m)は、伊勢志摩国立公園の中に位置し、日の出が美しいことでよく知られ、日本百景に選定されています。また、富士山が見える場所(距離約200km)として昔から知られます。注、現在の最遠地は、熊野那智大社がある那智勝浦町の妙法山富士見台(322.6km)、同じく色川富士見峠(旧色川小麦峠、距離322.9km)。

 

階段を上がると、レストランの跡地に赤いポストと「恋人の聖地」の標識がありました。
 
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そして、「山頂広場」が続きます。
 
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小高い場所に「御木本駕籠立場碑」が建っています。真珠王御木本幸吉(みきもとこうきち)氏が駕籠で朝熊山に登り、ここから見た美しい景色に感動したことを記念するものだそうです。ちなみに、御木本幸吉氏は明治中期に世界で先駆けてアコヤ貝を使った真珠の養殖の産業化に成功した人物です。
 
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その前方に「展望足湯」がありました。利用料は大人100円と格安です。
 
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若い女性客たちが楽しんでいますが、富士山が見えないことに落胆した私は足湯をスルーすることに・・。
 
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次いで向かったのは「朝熊山展望台」です。
 
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伊勢湾の島々(答志島・神島など)はもちろんのこと、富士山と南アルプスまでが見えることが図解されています。晴れている時の景色は「伊勢市観光協会のhp」「三重県観光連盟のhp」「天空のドライブウエイ」を参照してください。
 
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「朝熊山自然歩道」は近畿自然歩道のひとつで、「朝熊山展望台」から「朝熊ヶ岳」を周遊するハイキングコースのようです。
 
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食事処「朝熊茶屋」には「伊勢うどん」の幟(のぼり)があります。
 
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料金所(鳥羽側入口)を通過
 
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行き当たった国道42号へ左折しました。
 
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芭蕉が海路で伊勢を訪れたときに上陸した二見浦(ふたみがうら)の二見輿玉(おきたま)神社に芭蕉の句碑があるようです。立ち寄りたいところですが、すでに午後4時近くになっていますから、先を急ぐことにしました。通町(とおりちょう)ICで国道23号(南伊勢バイパス)に入り津市を目指します。(続く)

2016年9月15日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 「おはらい町」と「おかげ横丁」

宇治橋から右手へ歩いて内宮門前町の「おはらい町」へ入りました。右手にある食事処「岩戸屋」(売店)は土産物と伊勢海老コロッケ・串ものなどを売る大きな店です。伊勢神宮(内宮)に一番近く、郷土料理「参宮コンビ」(伊勢うどんとてこね寿司)に人気があるようです。写真では見にくいのですが、左前方にお多福の大きな面がシンボルとなっている「岩戸屋 本店」(明治43年創業)があります。
 
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「岩戸屋 本店」に置かれた「お多福像」です。ちなみに、お多福(別称:おかめ)は、日本神話の「岩戸隠れ」に登場して岩戸の前で舞を舞った女性(日本最古の踊り子)であるアメノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)であるとされます。店名の「岩戸屋」もアメノウズメに因(ちな)むのでしょう。
 
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同行者はとみれば、「岩戸屋」(売店)の反対側、茶房「山中」の隣にある「汸臼庵(ほうきゅうあん)参宮亭別所」で何かを見つけたようです。ちなみに、「汸臼庵」は京都の老舗(しにせ)練(ね)りもの店のようです。
 
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電線が地中化された石畳の「おはらい町通り」を北へ歩きます。両側には切妻造りと入母屋造りの商店が並んでいます。
 
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「皇大神宮御鎮座二千年 奉祝記念之碑」には平成8年12月吉日とあります。
 
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おかげ横丁」に到着、常夜灯と招き猫が客を出迎えてくれました。第61回神宮式年遷宮の年である平成5年(1993年)7月に、伊勢神「おはらい町」の中ほどに、お伊勢さんの「おかげ」という感謝の気持を持って「赤福」が中心になって約40店舗で開業したそうです。前回(10数年前)、伊勢神宮に参拝した時にも立ち寄っています。
 
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入口の右脇には「赤福」の別店舗があります。
 
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「おかげ横丁」に入ってすぐ、左手にある伊勢うどんの「ふくすけ」に入りました。
 
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前回(11年前)、伊勢神宮に参拝した時もこの店だったように記憶しています。日差しが強いので屋内の席にしました。
 
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遅い昼食として私はシンプルな「とろろ伊勢うどん」(730円)を、

 
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同行者は具と薬味がたっぷり入った「ひやし伊勢うどん」(730円)を選びました。
 
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「伊勢うどん」は柔らかい餅(もち)のような独特の食感があります。5年前、亀山宿で食べて以来の「伊勢うどん」を楽しみました。食べ終わった同行者がやおら取り出したのは先ほど汸臼庵(ほうしゅうあん)で買った棒天ぷらの「たこしそ」(400円)です。白口(しろぐち)イトヨリ(スズキの仲間)のみを主原料に使用して、石臼(いしうす)ですりあげた手作りの練り製品とのこと。味見をさせてもらうと、タコの食感と紫蘇(しそ)の風味が感じられて気に入りました。
 
 
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赤福本店」の看板には宝永四年(1707年)創業とあります。宝永地震が発生して富士山の宝永大噴火が起こった年です。つまり、宝永山(ほうえいざん)が生まれた年なのです。
 
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『「つばめ」の子育てにご協力下さい』の立て看板がありますので、上を見上げると軒先(のきさき)に巣があり、雛(ひな)の頭がひとつだけ確認できました。
 
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店内は製造直売所の雰囲気があります。
 
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お土産用にと「赤福」をたくさん買った同行者は、「おかげ横丁」へ向かう途中に見つけたのか、豆腐専門店の「豆腐庵山中」で「おとうふソフト」(レギュラー、270円)を求めて嬉(うれ)しそうにしています。やさしい甘さで、豆腐の風味はあるものの、すっきりしたソフトクリームでした。
 
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午後3時の少し前、内宮A2駐車場に戻りました。車を停めてから2時間弱が経過していますから、駐車料金500円を支払って、今回のドライブ旅における最終目的地へ向かいました。(続く)

2016年9月14日 (水)

アボカドを育てる

わが家の台所で何やら見慣れないものを発見しました。花を育てることに興味がないはずの同居者が何と水耕栽培を始めたようです。よく見るとアボカドの種が、爪楊枝(つまようじ)を3方から刺した状態で、水が入った小さなプラスチック容器の上部に固定してありました。手作り感があふれているうえ、同居者らしく雑な作りなのです。聞けば、オチビちゃんとコチビちゃんのお母さんに教えてもらったとのこと。そういえば、大阪にある二人の家へ遊びに行った時、人の身長以上の高さにまで成長したアボカドの大きな鉢植えを見たことがあります。

 

アボカドは20度前後の室温でよく発根・発芽するようです。果肉を水洗いしてから土に埋めても良いのですが、水中で発根させれば、根が伸びる様子を観察して楽しむことができます。そして、水を切らす心配もありません。ただし、こまめに水を取り替えないと水が腐ってしまうこともあるようです。1-2週間で種の下が割れて発根し、その後に発芽したそうです。

 

ちなみに、アボカドはメキシコと中央アメリカ原産のクスノキ科ワニナシ属の常緑高木(樹高が10-30mにも達する)です。主に熱帯・亜熱帯で生育しますから、低温に弱いのですが、関東以西であれば露地栽培も可能のようです。また、日当たりの良い室内でも育ちますから、観葉植物としても楽しめます。ただし、実を収穫するまでには4-6年もかかるようですから、それまで辛抱(しんぼう)強く待つ必要があります。

 

次の写真は、アボカドの種の下側が割れて、根が一本だけ伸び始めている様子を撮影したものです。ちなみに、左手に控えるカエルは同居者が井の頭公園(吉祥寺)で5年前に購入したものです。
 
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一方、こちらはほぼ同時期に水耕栽培を始めていますが、水中に落ちたのを見過ごしたことで種が腐りはじめたのか、根が出る気配はなさそうです。実は、種の下側を1/3だけ水中に入れると種がよく呼吸できて発根・発芽しやすいようです。残念ながら失敗作かもしれません。
 
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そして、こちらは最初に水耕栽培を始めたアボカドの種で、根が数本に増えたところで私が小さな鉢に植えました。
 
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茶色をした芽(幹)は、鉢植えにしてから1.5倍ほどの長さに伸びて、先端に葉になると思われる緑色の部分が確認できます。
 
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台所にあるスポット照明へ向かって幹(みき)が斜めに伸びたため、植木鉢を真下に置くようにしたところ、真っ直ぐに戻ったとのこと。これは大成功のようです。

 

私がベランダで長年楽しんでいるプチ・ガーデニングにまったく興味を示すことがなかった同居者が植物を育てる楽しさをやっと知ったようです。ぜひ、このまま続けて欲しいものです。

2016年9月13日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 伊勢神宮内宮(後編)

「正宮」に参拝したあと、「荒祭宮(あらまつりのみや)」方面へ向かいました。途中、内宮の所管社「御稲御倉(みしねのみくら)」があります。神宮神田で収穫した御稲が奉納され、三節祭である神嘗祭(かんなめさい)と6月/12月の月次祭で供(そな)えられます。ちなみに、建物は正宮と同様に神明造(しんめいづくり)です。
 
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正宮の裏手は立ち入りが禁止されていました。奥にわずかだけ見えるのは「古殿地」のようです。
 
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古神宝(こしんぽう、古くから伝わる宝物)類が収納される「外幣殿(げへいでん)の脇を抜け、右手に伸びる長い石段を下ります。
 
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「荒祭宮(あらまつりのみや)」に到着
 
 
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「荒祭宮は、内宮に所属する十別宮のうち第一位であり、殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。ご祭神は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)。ちなみに、神様の御魂のおだやかな働きを「和御魂(にぎみたま)」と呼ぶのに対して、荒々しく格別に顕著な神威(かむい)をあらわす御魂の働きを「荒御魂」と讃(たた)えるそうです。

 

建物は外宮の「風の宮」や「多賀宮」に似ています。
 
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「荒祭宮」の「古殿地」へ上がる石段
 
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石段を戻ると、参道がカーブしながら続きます。
 
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掘川の水源になっている池には不思議な雰囲気が感じられます。
 
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広い参道に出て、掘川に架かるもうひとつの「火除橋」を渡ります。
 
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少し先(宮域外)にある「御厩〈みうまや〉」
 
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休憩所の「参集殿(さんしゅうでん)」に入りました。写真パネルを使って「日別朝夕大御饌殿祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」が説明されていました。
 
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式年遷宮(しきねんせんぐう)」のパネルには、『神宮式年遷宮は、天武天皇の御発意があり、続く持統天皇4年に第一回が行われてから、20年に一度の頻度(ひんど)で永々と継続され、今回(平成25年)で62回を数えます。(以下略)』 と詳しく説明されています。
 
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「正宮」の写真パネルです。ここで、伊勢神宮内宮(前編)の冒頭に続く神宮の沿革を次に概説します。『今からおよそ2000年前、皇大御神が宇治の五十鈴の川上に到られ、皇大御神のお教えのままに「祠(やしろ)」をたてて、お祀り申し上げることになりました。祠は社(やしろ)とも書き、家(や)や屋(や)の代(しろ)という意味で、大きなお祀りに際してその度新たにたてられる建物のことです。心霊が依(よ)り憑(つ)く神籬(ひもろぎ)や祠のように臨時に建てられる建物が、「神の宮」、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統(じとう)天皇の御代にかけてのことと考えられています。』(出典:神宮司庁のhp
 
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宇治橋まで戻りました。
 
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五十鈴川の下流方向
 
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触れると御利益(ごりやく)があるという擬宝珠(ぎぼし)はこちら(写真右手前)です。
 
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さて、伊勢神宮の参拝を終えた所で小休止を入れます。(続く)

2016年9月12日 (月)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 伊勢神宮内宮(中編)

「内宮神楽殿」の反対側に伸びる参道に入って別宮(べつぐう)「風日祈宮(かざひのみのみや)」へ向かいます。
 
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五十鈴川の支流に架かる「風日祈宮橋」を渡るようです。橋へ向かうと、突然スコールのような強い雨に変わりましたので、雨足が弱まるまで大きな樹木の下で雨宿りすることに。
 
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1分ほど待つと、小雨になり日差しが戻ってきました。強い陽光に照らされた橋の床板が美しく光っています。
 
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橋の上から眺(なが)める清流
 
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「風日祈宮」の祭神は、外宮の別宮(べつぐう)「風の宮」にも祀られている、風雨を司る神「級長津彦命(しなつひこのみこと)」と「級長戸辺命(しなとべのみこと)」です。
 
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その「古殿地」
 
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橋を戻ります。
 
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ここにも木除杭(きよけぐい)がありました。
 
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「御饌殿(みけどの)」は外宮の記事で触れた神饌(しんせん)を調理する建物です。注、饌は餌の旧字
 
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「内宮神楽殿(かぐらでん)」
 
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参道上へ傾いた大木
 
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神饌(しんせん)の調理を行う「神様の台所」である「忌火屋殿(いみびやでん)」の前庭である「祓所(はらえどころ)」は祭典の前に神饌と神職を祓い清める場所です。ちなみに、「忌火」は古来(弥生時代)から用いられてきた火鑽(ひきり)でおこした「清浄な火」という意味。
 
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幹が二股に分かれた巨木
 
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「正宮」へ参拝してから「荒祭宮」にも参拝することにしました。
 
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参道の真ん中にある数本の巨木。右奥に見える建物は、神饌(しんせん)の代表として鰒(あわび)を調理する儀式が行われる、「御贄調舎(みにえちょうしゃ)」のようです。
 
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正宮前に到着しました。右手に『撮影は石段の下で』と書かれた立札が・・。
 
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「古殿地」方面には立ち入ることができません。
 
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巨木の根元(ねもと)
 
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石段を上がって「正宮」に参拝します。
 
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(続く)

2016年9月11日 (日)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 伊勢神宮内宮(前編)

御木本(みきもと)道路(県道32号)の宇治浦田西交差点には内宮駐車場の案内表示が出ています。
 
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すぐ先の宇治浦田交差点を右折して国道23号(伊勢街道)に入り、約600m進んだ内宮(ないくう)前交差点の先に駐車場がありましたが、A1駐車場(53台)は混雑しているようで奥のA2駐車場(207台)に案内されました。ちなみに、料金は1時間まで無料ですが、2時間になると500円、以降30分ごとに100円加算されます。ちょうど午後1時になりました。
 
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広い駐車場内にある歩行者用通路を歩いてロータリーの先にある内宮(皇大神宮)の大鳥居(高さ7.44m)を潜(くぐ)って五十鈴川(いすずがわ)に架かる宇治橋を渡ります。
 
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皇大神宮(内宮)の案内看板には、『皇室の御祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)は約2000年前(水神天皇の御代)に皇居を出て、各地を巡(めぐ)ったのち、この五十鈴川のほとりに静まった』 と説明されています。注、「天照大御神」の正式名は天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ)
 
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神宮司庁のhpによると、三輪の御諸(みむろ)の宮(奈良県桜井市)、つまり現在の大神神社(おおみわじんじゃ)に祀(まつ)られた三種の神器のひとつである天照大御神(八咫鏡、やたのかがみ)を、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)と皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)は天照大御神に仕える斎王(さいおう)となり、天照大御神を祀る(鎮座する)より良い場所を求めて諸国を巡行(じゅんこう)しました。

 

その移動中に一時鎮座(ちんざ)した場所は元伊勢(もといせ)と呼ばれる、宇太(うだ)の阿貴(あき)の宮(奈良県宇陀市)、佐佐波多(ささはた)の宮(同上)、 伊賀の穴穂(あなほ)の宮(三重県伊賀市)、阿閇拓殖(あへつみえ)の宮(宇陀市)、淡海(おうみ)の坂田の宮(滋賀県米原市)、美濃の伊久良賀波(いくらがわ)の宮(大垣市の北方に位置する瑞穂市)、伊勢の桑名の野代(のしろ)の宮(三重県桑名市)、鈴鹿の小山(おやま)の宮(同亀山市)、壹志(いちし)の藤方(ふじかた)の方樋(かたひ)の宮(亀山市)、飯野(いいの)の高宮(たかみや)(三重県松坂市)、多気佐々牟江迤(たけささむえ)の宮(三重県多気郡明和町)、玉岐波流磯(たまきはるいそ)の宮(伊勢市磯町)、佐古久志呂(さこくしろ)宇治の家田(やた)の田上(たがみ)の宮(伊勢市楠部町)の14か所(三輪の御諸の宮を含む)です。そして、現在の地・宇治(うじ)に鎮座(ちんざ)することになりました。注、外宮に祀られる豊受大御神についても元伊勢が何か所かある

 

俗界と聖域を隔(へだ)てる橋と言われる宇治橋(長さ101.8m、幅8.4m)を渡ります。床板と欄干(らんかん)は檜(ひのき)で造られていますが、橋脚(きょうきゃく)は水に強い欅(けやき)が使われているそうです。ちなみに、内宮は右側通行と決められています。注、手水舎までは緩衝(かんしょう)地帯
 
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流木から橋脚(きょうきゃく)を護(まも)る木除杭(きよけぐい)が上流側(右手)にあります。
 
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西詰北側の2本目の擬宝珠(ぎぼし)は撫(な)でるとご利益(りやく)があるとされます。橋の安全を祈って宇治橋と対面する位置にある饗土橋姫(あえどはしひめ)神社の萬度麻(まんどぬさ)が収められているそうです。ちなみに、宇治橋は式年遷宮と時期を4年前にずらして(20年毎に)架け替えられますが、この擬宝珠だけは古いものが使い続けられていて、約400年の歴史があるとのこと。注、写真は勘違いで撮影した反対側(東詰南側)の擬宝珠
 
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この大鳥居は内宮の旧正殿の棟持柱(むなもちばしら)が使われ、外側の大鳥居は外宮の棟持柱が用いられているそうです。同行者は私のあやふやな知識を鵜呑(うの)みにして一番端の擬宝珠にさわっています。
 
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宇治橋を渡り終えると右手の神苑(しんえん)に参道が続いていました。
 
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「皇大神宮(内宮)宮城図」には、「手水舎」「御手洗場」を経て、L字型に折れ曲がる参道の先に正宮があることが示されています。
 
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境内の池から五十鈴川に流れる掘川に架かる「火除橋(ひよけばし)」を渡ります。この川が結界でもあるのでしょう。ちなみに、掘川は防火用に設けられた水路です。
 
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右手にある「手水舎(てみずしゃ)」に寄りました。
 
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「一の鳥居」を潜(くぐ)ります。
 
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五十鈴川縁の「御手洗場(みたらし)」
 
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その先、木立の中にある皇大神宮所管社「瀧祭神(たきまつりのかみ)」は五十鈴川の水神「瀧祭大神(たきまつりのおおかみ)」を祀(まつ)る社殿を持たない神社で、板垣の内側には神体の石が祀られているそうです。ここは、参拝する人がほとんどなく、静かな空間でした。
 
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参道に戻ると、「二の鳥居」の先に「内宮神楽殿」が見えて来ました。
 
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小雨が降り始めたため、「内宮神楽殿」には雨宿りする姿があります。
 
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(続く)

2016年9月10日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 伊勢神宮外宮(後編)

正宮(しょうぐう)前から続く横長い池にそって歩きました。大きな樹木に囲まれているため、陽光が水面に複雑な模様を創り出しています。
 
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正宮の分け宮である別宮(べつぐう)に参拝するため右に折れて別の参道に入りました。池の先には正宮の板垣が見えます。
 
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隣の池との間にある水路に架かる石橋の「亀石」を渡ります。ちなみに、右側が亀の頭です。
 
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前方に石段が見えます。
 
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参道の右手にある大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀(まつ)る別宮「土宮(つちみや)」に参拝しました。その左隣には「古殿地」があります。
 
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次いで、参道の左手にある別宮「風の宮」にも参拝しました。祭神は風雨を司る「級長津彦命(しなつひこのみこと)」と「級長戸辺命(しなとべのみこと)です。
 
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その「古殿地」
 
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2つの別宮の間に続く長い石段を上がって「多賀宮」へ向かいます。
 
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「多賀宮(たかのみや)」は豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)を祀る第一別宮です。
 
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表参道まで戻りました。左手の五丈殿と九丈殿は、雨天の日に、神饌(しんせん)など祓い清められる場所です。ちなみに、神饌とは、主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の野菜など、神様へお供えされる食事です。その先には「外宮神楽殿(かぐらでん)」(写真中央)と裏参道(左へ入る道)が見えます。
 
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「外宮神楽殿」の正面にでました。左手のお神札授与所(ふだじゅよじょ)ではお神札・お守りを始め神棚などの授与を、同じくご祈祷受付では御神楽(おかぐら)、御饌(みけ)などのご祈祷が行われるようです。
 
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表参道の二の鳥居
 
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同じく一の鳥居(振り返って撮影)
 
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「遷宮(せんぐう)館」に立ち寄ることにしました。
 
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「勾玉(まがたま)池」は菖蒲(しょうぶ)の名所ですが、その盛り(5-6月)を過ぎています。ちなみに、勾玉池は防火用水路の「堀川」とつながっており、正宮前の池などとともに、「正宮」「神楽殿」「五丈殿・九丈殿」のあるエリアを囲んでいるようです。
 
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池に設けられた「奉納舞台」
 
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「遷宮館」には外宮正殿の原寸大模型の展示などがあるようですが、歩き疲れたため、その横にある休憩所にはいりました。
 
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表参道の「火除橋」を渡りました。振り返って見る右手には、平清盛が勅使(ちょくし)として参向した時、冠(かんむり)に触れた枝を切らせたという「清盛楠」があるようです。
 
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駐車場へ戻り途中に見かけた案内看板には、『内宮への道筋は2ルートある』 ことが示されています。近道と思われる御木本道路を戻ることにしました。
 
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(続く)

2016年9月 9日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 伊勢神宮外宮(前編)

伊賀市から伊勢市へ向かうルートには次の4つが考えられます。南寄りの順に、「国道368号(名張街道)を南下した名張市経由で勢和多気ICから伊勢自動車道に入る伊勢本街道ルート」、距離が比較的に短い津市を経由するルートでは「国道422号と国道165号(初瀬街道)を経由して伊勢自動車道に入る初瀬(はつせ)街道ルート」と「国道163号(伊賀街道)から伊勢自動車道に入る伊賀街道ルート」、そして遠回りになりますが「国道25号のバイパスである名阪国道で亀山市に入り、伊勢関ICから伊勢自動車道に入る前述したせき道ルート」です。いずれも興味深いドライブルートですが、時間の制約がありますから、道路の整備状況が良い4つ目のルートを選びました。

 

伊勢関JCTから入った伊勢自動車道(下り線)の嬉野(うれしの)PAに立ち寄ります。「嬉野」といえば九州・佐賀県の有名な嬉野温泉が思い浮かびますが、ネット検索すると、松阪市にある「嬉野」の地名の由来は、約2000年前に倭姫命(やまとひめのみこと)が阿坂(現在の松阪市阿坂地区、嬉野PAの数km南東)の賊を平定した時に「うれし」と喜んだという伝承に依(よ)るそうです。
 
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同行者は大内山ソフトクリーム(300円)を舐(な)めはじめました。三重県大紀町(たいきちょう)の大内山酪農の牛乳を使った地元の商品とのこと。
 
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そして、米沢で食べた米沢牛のメンチカツを思い出したのか、松坂牛コロッケ(210円)を追加購入。
 
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勢和多気(せいわたき)出口と勢和多気JCTが近付きました。
 
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伊勢本線料金所を通過した伊勢西ICで県道32号(御木本道路)へ出て、伊勢神宮(外宮)へ向かいました。
 
 
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今から約1500年前(内宮が創建された約500年後)、内宮に祀(まつ)られる天照大御神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る御饌都神(みけつかみ)として丹波国(たんばのくに)から豊受大御神(とようけのおおみかみ)が現在の地に遷宮されたと伝えられます。現在は、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。注、本記事の記述は神宮司庁のhpを参考にしました。 
 
ちなみに、「伊勢」の地名は、初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)が天日別命(あまひわけのみこと)に命じ、この国の伊勢津彦命(いせつひこのみこと、出雲系統に属する)を征服された時、国津神の名をとって国の名前を伊勢と名づけたとされます。(出典:伊勢国風土記)

 

外宮の表参道付近にはバスの駐車場しかありませんから、少し先へ進んだ第1駐車場(50台、無料、ただし2時間まで)に車を入れました。ちょうど正午でした。
 
ちなみに、伊勢神宮(正式名:神宮)ではまず外宮を参拝してから内腔へ向かうことが習わしとなっています。ちなみに、芭蕉が伊勢に到着した前日には内宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)が終わっており、翌日に外宮の式年遷宮を見た芭蕉は、『尊さに みな押しあひぬ 御遷宮』 と詠んでいます。

 

外宮(豊受大神宮)の北御門(きたみかど)から裏参道に入る手前(左手)に手水舎がありました。つまり、外宮は左側通行と決められています。
 
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堀川に架かる「火除橋(ひよけばし)」を渡って境内(けいだい)に入ります。ちなみに、堀川は外部からの延焼を防ぐ防火用の水路です。
 
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橋の袂(たもと)にある「外宮域内案内図」
 
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裏参道を歩いて正宮(しょうぐう)へ向かいます。
 
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右手には神様の乗り物とされる神馬(しんめ、しんば)がいる「御厩(みうまや)」があります。ただし、この日は神馬の姿はありません。
 
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鳥居を潜(くぐ)ります。
 
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裏参道が表参道に行き当たりましたので、この先は表参道を歩いて正宮へ向かいます。
 
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3年前の2013年に行われた神宮式年遷宮(せんぐう)で移された正宮の跡である「古殿地」です。奥の方に見える小屋のようなものは、正殿の中心床下の「心のみ柱」跡地に設けられた「覆(おお)い屋」でした。
 
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その左手には檜(ひのき)造りの板垣が続きます。
 
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板垣御門の手前には、目隠し用あるいは邪気(じゃき)を防ぐため)ともいわれる、「蕃塀(ばんぺい)」があります。
 
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板垣御門内を入って正宮に参拝します。ちなみに、門内は撮影禁止です。
 
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正宮に参拝したあとは、別宮(べつぐう)にも参拝することにしました。「古殿地」の前にある「三ツ石」は御装束神宝(正殿の内外をお飾りする品々など)や奉仕員を祓い清める式年遷宮の河原大祓いが行われる場所だそうです。
 
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(続く)

2016年9月 8日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 芭蕉の生地「伊賀上野」(後編)

こちらは有名な「変わり兜(かぶと)」の1つであり、藤堂高虎が秀吉より拝領したという「黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)」です。ちなみに、唐冠とは中国の官僚がかぶっていた冠を模(かたど)ったものという意味。
 
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掘と石垣の写真
 
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東大手御門・西大手御門・多数あった櫓(やぐら)の図面
 
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2階には天守閣を復興者で政治家川崎克市の書画や伊賀焼・藩主藤堂家の調度品などが展示されていました。
 
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3階には横山大観をはじめとする有名人の書画の大色紙が格天井に飾られています。
 
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左のガラスケースには、藤堂高虎公の肖像掛軸、藤堂高虎公座像(右下)、藤堂蔦門入脇差鞘(わきざしさや)、同じく袱紗(ふくさ)があり、右のケースには伊賀焼が展示されています。
 
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市街地を見下ろしました。こちらは南方向です。丘が括(くび)れている辺りには、木津川の支流である久米川が東西に流れ、名張街道(国道368号)と名阪国道(行動25号)は交差する上野ICがあるはずです。遠くの山は奈良県(宇陀市)と三重県(名張市)の県境になっている山並みで、名張市には赤目四十八滝があります。
 
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そして北方向、市街地の先には同じく木津川の支流である服部川と拓殖川が流れています。西を流れる木津川本流にも囲まれた天然の要害の地にあることが分かります。ちなみに、その先の山並みは滋賀県(甲賀市)との県境になっています。
 
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付櫓内/小天守の展示室にある「忍び井戸」
 
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昭和期復興天守閣(左)と慶長期五層天守閣(右)を比較する縮小モデル
 
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筒井古城の高石垣を巡って南へ向かう石段を下ります。かなり下まで降りた時に、迂闊(うかつ)にも天守閣の西側にある高石垣のことを失念して気づきました。天守閣の周りを回れば見られたのです。天守閣の1階で見た高石垣と内堀の写真は見応(みごた)えがありましたから残念で・・。
 
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池の脇を抜けたところに「史跡 上野城跡」の石柱がありますから、ここが伊賀上野城の正面入口のようです。伊賀鉄道(近鉄の子会社)の伊賀線上野市駅を利用する人はこちらから入るのでしょう。
 
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国道163号に入って向かった上野赤坂町(伊賀上野城の東方約3lm、「芭蕉翁生家」の裏手)で「左 東海道せき道」と刻まれた道標を見つけました。「せき道」とは東海道五十三次の47番目関宿(亀山市)へ向かう街道で、奈良と四日市を結ぶ大和道の一部です。ちなみに、壬申(じんしん)の乱(壬申の年である672年)において大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)が大津京から奈良を経て尾張へと東進(脱出)した街道です。
 
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「芭蕉翁生家」
 
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次いで城の南方約1km、上野西日南町にある「蓑虫庵(みのむしあん、きちゅうあん)」へ向かいました。裏手の駐車場に面しているこちらが正門のようです。
 
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表道路側から見た「蓑虫庵」
 
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その説明看板には、伊賀の芭蕉翁五庵のうち現存する唯一の草庵であることと、名前の由来となった句、『蓑虫の音を聞きに来よ草の庵』 が説明されています。
 
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「いがうえの またきてだーこ」(また来てください)の看板と忍者の人形が見送ってくれました。
 
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伊賀市は、およそ400万年前には古琵琶湖(大山田湖)があった伊賀盆地(上野盆地)にあり、伊賀上野城・城下町・芭蕉の生地・伊賀忍者など多彩な魅力に溢(あふ)れた町でした。注、とても信じられないことですが、断層運動によって生まれた大山田湖は阿山湖(甲賀市辺り)・甲賀湖(阿山湖の少し北)・蒲生湖を経て北上して約40万年前に現在の琵琶湖になったそうです。(続く)

2016年9月 7日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 芭蕉の生地「伊賀上野」(前編)

芭蕉は「奥の細道」の終着地である大垣で、『蛤(はまぐり)の ふたみに別(わかれ) 行く秋ぞ』 の句を残しています。伊勢神宮の式年遷宮(元禄2年9月)を見に行こうとして詠(よ)んだ句です。そして、曽良(そら)と路通(ろつう)を伴(ともな)って海路で伊勢の二見が浦へ向かいました。それに倣(なら)って、私も大阪にしばらく滞在したあと、11年ぶりに伊勢神宮に参拝することにしました。

 

伊勢神宮への向かう途中、国道163号で木津川市(きづがわし)に入り、その東隣の和束(わづか)町・笠置(かさぎ)町・南山城村を経由して、芭蕉の生地である三重県伊賀市(旧上野市)に立ち寄ることにしました。
 
 

木津川市の市街地を抜けた加茂地区では「史跡恭仁宮(くにきょう)跡」と「山城国分寺跡」へ入る交差点を通過します。6年前に紹介した史跡です。
 
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海住山寺(かいじゅうせんじ)口交差点を通過します。海住山寺は、恭仁京を見下ろす三上山の中腹に位置する奈良時代に創建された真言宗智山派の寺で、国宝の五重塔で知られます。
 
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南山城村の月ヶ瀬(月ヶ瀬湖高山ダムがある)を通過して三重県に入りました。さらに、木津川を渡った伊賀市の市街地ではクランク型に折れ曲がる国道163号を通って伊賀上野城(地元では上野城と呼ばれる)を目指しました。案内標識に従って脇道に入り、県立上野高校の横を通過すると、前方に城が見えて来ました。
 
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係員に誘導されて駐車場(料金500円)に車を停めました。上野公園の案内図には「芭蕉翁記念館」「忍者屋敷(忍者博物館)」「忍者伝承館」「俳聖殿」「上野城天守閣」などが描かれています。
 
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まず、駐車場に近い芭蕉翁記念館へ向かいます。
 
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何ということか、『7月4日(月)~8日(金) 芭蕉記念館は燻蒸(くんじょう)・展示替えのため休館日とさせていただきます』 との張り紙がありました。ちなみに、この日は7月5日です。
 
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次いで向かったのは「忍者博物館」。
 
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実演ショーが30分後の11時30分から開催されることが派手に表示されています。「芭蕉翁記念館」は休館であったことに気落ちした私は、1時間も待つ気持ちにはなれませんでしたので、スルーすることにしました。後で訊(き)くと、同行者は『忍者の実演ショーを観たかったのに!』 と残念がっていました。
 
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すぐ隣にある「俳聖殿」の前に大きな藤棚がありました。
 
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「五色米シール(俳聖殿の藤棚で発見)」と書かれたポスターがありました。意味がよく分かりませんが、イベントのPR用のようです。
 
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「俳聖殿」の案内看板には、『芭蕉の生誕300年を記念して昭和17年に立てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺(ひわぶき)である。上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑(みの)と衣を着た姿で、堂は脚部に、回廊の柱は杖と脚を表現する。堂内には、芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている』 ことが説明されていました。
 
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内堀跡に続く土橋(どばし、つちはし)の緩(ゆる)やかな石段を上がると、
 
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目の前に石垣が現れました。「筒井古城跡」です。天正13年(1584年)、筒井順慶(つついじゅんけい)の養嗣子(ようしし)である大和郡山城主・筒井定次(つついさだつぐ、)が伊賀守(いがのかみ)に任じられて伊賀国に移封となりました。伊賀に移ると、定次はさっそく築城することにしたそうです。城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二の丸、北の山下に三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口としたとのこと。関ヶ原の戦いのあと、この地に移封された藤堂高虎(とうどうたかとら)は慶長16年(1611年)に上野城の大改修に着手、大坂方に備えるため西面には特に力を注(そそ)ぎ、南を大手とし、本丸を西に拡大して広大で日本一高いといわれる高石垣をめぐらしたそうです。
 
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ちなみに、伊賀国は飛鳥時代(680年ころ)に伊勢国から分かれましたが、その名の由来はこの地を治めていた伊賀津姫(いがつひめ)に依(よ)るそうです。
 

筒井古城の二の丸の先(西側)にある伊賀上野城の天守閣と小天守/付櫓(つけやぐら)は昭和10年(1935年)に再建されたものです。
 
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天守閣へ上がる石段
 
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天守閣へ入る薬医門の先、天守閣(右手)と小天守/付櫓(左手)の間に受付窓口がありました。ちなみに、登閣料金は大人500円。
 
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薬医門の鬼瓦には藤堂家の家紋「藤堂蔦(ふじどうつた)」があります。
 
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緑色の鯱(しゃちほこ)が展示してある横の看板には藩祖藤堂高虎について説明されています。『筒井定次が築いた上野城(筒井古城)の本丸を豊臣方に備えて西に拡張し、高さ約30mの高石垣をめぐらした。五層の天守閣は建設中の慶長17年(1612年)に当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。その後、大阪冬の陣と夏の陣で徳川方が勝利し、幕府は諸大名の城普請(ふしん)を禁じたため、この城では天守閣が幕末まで再建されることはなかった。現在の天守閣は、当地出身の政治家・川崎克(かつ、こく)氏が資材を投じて昭和10年(1935年)に落成した』 とあります。ちなみに、「俳聖殿」も同氏が建設したものです。
 
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藩祖藤堂高虎公とユルキャラの「たいが(た伊賀)ーくん」が出迎える天守閣の一階には甲冑(かっちゅう)・武具・伊賀焼が展示されています。
 
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(続く)

2016年9月 6日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その41) 「姉川の合戦場」と長浜市の「豊公園(長浜城址)」

国道365号に出て姉川方面へ少し戻り、に走って姉川古戦場へ向かいました。ネット検索で詳細の場所を調べたところ、旧国道の姉川に架かる野村橋付近であることを知ったのです。(写真は国道365号の野村橋、小谷城がある北西方向)
 
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同じく南東方向は織田・徳川連合軍が陣を布いた竜(龍)ヶ鼻があるはずです。
 
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旧道の野村橋と草深い姉川あの河川敷を望みました。その右後方には姉川が北側を流れる七尾山(標高690.7m)です。ちなみに、姉川は伊吹山系の北部に源流があり、七尾山沿いに南下し、伊吹山の麓で南方向から西方向に流れを変えて野村橋を通過したのち、草野川と高時川を合流して琵琶湖に注いでいる淀川水系の一級河川です。
 
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姉川沿いの道を上流方向へ約100m進んだ旧道の野村橋の袂(たもと)に「姉川の合戦場」と書かれた看板がありました。
 
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野村橋を渡ったところに石碑や幟(のぼり)が見えます。
 
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「姉川の合戦」(姉川の戦いともいう)の説明看板には、『元亀元年(1570年)に朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍が姉川河原で壮絶(そうぜつ)な戦いを行ったこと』 が書かれています。先に触れた「金ヶ崎崩れ(または金ケ崎の退き口)」と同じ年です。右下に図解された両連合軍の陣形には、野村に布陣した浅井軍(8千人)と三田村に布陣した朝倉軍(1万人)、それらに対する織田軍(2万三千人)と徳川軍(6千人)であったことが示されています。
 
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早朝(午前5時)に戦いが始まり激戦となりましたが、徳川軍が朝倉軍の側面を攻めたことで均衡が崩れ、朝倉軍が敗走し、ついで浅井軍も敗走することになり、午後2時には織田・徳川軍の勝利で戦は終わりました。最近、姉川の合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられていることが付記されています。そして、浅井長政が滅びるのは3年後に一乗谷城の戦いで朝倉氏が滅亡した直後のことです。

 

姉川合戦の開戦直前まで信長が本陣を置いた砦跡である「龍ヶ鼻陣所」(三)や浅井長政の家臣である遠藤直経(なおつね)の墓(二)などが地図上に表示されています。直常は浅井軍が総崩れとなって敗色が濃厚になると、織田陣へ入って信長を暗殺しようとしますが、顔見知りの竹中重治(半兵衛)の弟に見つかって捕えられ、首を切られたと伝えられています。
 
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「姉川戦死者之碑」と「元亀庚年古戦場」の石柱
 
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芭蕉の門人「直江木導(なおえもくどう)の句碑」には、『春風や 麦の中行く 水の音』 と刻(きざ)まれています。
 
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このまま国道365号を進めば芭蕉が宿泊した北国脇往還の春照(すいじょう)宿跡を経て関ヶ原へ出ますが、続々・奥の細道擬紀行(その1)で書きましたように、関ヶ原から大垣までの道中は「旧中山道の旅」(関ヶ原町垂井町大垣市)ですでに訪ねていますから、ここが今回の終着地です。

 

道草を食った「三方五湖」と同様、琵琶湖畔の長浜城に立ち寄ることにして、国道東上坂交差点で県道37号に入って7kmほど南西に位置する長浜市の中心部を目指しました。祇園町交差点を左折して県道44号を進み、港町交差点を右折すると大きな無料駐車場がありました。

 

長浜城址は豊臣秀吉に因(ちな)んで豊(ほう)公園と名づけられています。
 
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大きな円形噴水池の先に天守閣を模(も)した「長浜城歴史博物館」
 
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長浜城歴史博物館のhpによると、『天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、木下藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と改名し、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。その後は何度も城主が変わりましたが、豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。』 と説明されています。
 
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園内にあるブロンズ像「洋」(中川清氏作)
 
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琵琶湖畔に続く県道2号を南下しました。左手遠方に見えるのは安土城址に近い愛知川(えちがわ)の河口付近と琵琶湖で最大の島である沖島のようです。右遠方に見えるのは比良山地かもしれません。
 
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米原市に入ると県道2号は一直線に伸びていました。
 
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ついで県道2号は彦根市へ入りました。「鳥人間コンテスト」が毎年開催される松原水泳場の脇を通る時に見た立ち並ぶビニールハウス越しに見た彦根城の遠景です。9年前に訪れています。
 
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ちなみに、9月1日に放送された「鳥人間コンテスト」(人力プロペラ機ディスタンス部門)の結果は、南の琵琶湖大橋方面を選んだ日本大学が20kmの折り返し点を無事に通過したのに対して、北の竹生島方面に向かった強豪の東北大学は向かい風に悩まされて20kmの折り返し地点の直前(19.6km)で無念の着水。日本大学が東北大学の3連覇(通算7回目の優勝)を阻止して11年ぶりに優勝(通算5回目の優勝)しました。

 

松原橋交差点を左折して県道517号で彦根城の外堀に沿って進んだため彦根市の中心部に入って渋滞に巻き込まれてしまいました。外堀の角は直進して県道518号に入れば容易に国道8号へ出られたのですが・・。彦根駅に近い旭町交差点を経由し、県道25号と国道306号を走って彦根ICから名神高速道路に入って大阪府にあるオチビちゃんとコチビちゃんの家を目指しました。

 

「奥の細道」における芭蕉の徒歩旅(一部区間の海路を含む)は、全行程150日、旅程600里(約2400km)でしたが、私の場合(3回に分けたドライブ旅)の全行程は計12日でした。
 
次回からは、「奥の細道」を終えた芭蕉に倣(なら)い、当初から予定していた「お伊勢参りのドライブ旅」を投稿します。(続く)

2016年9月 5日 (月)

黴(かび)と戦う

カビ(黴)は人間にとって身近な存在です。私が子供の頃、お餅に生える青カビを餅の表面と一緒に削り取って食べた記憶があります。当時、長期保存には切り餅を水槽に入れて水餅(みずもち)にしていました。今なら冷凍保存ですが・・。そのように昔の人たちは今よりもカビに無頓着(むとんちゃく)だった(青カビは無害と信じられていた)と思います。実は、カビは5-20万年前に誕生した新人(ホモ・サピエンス)よりもはるかな大昔(魚類が誕生した約5億年前)から地球上に存在していたと考えられ、人類は誕生するとともに気が遠くなるほど長きにわたってカビと共存関係を続けてきました。

 

多くの種類があるカビは、菌糸(きんし)と呼ばれる糸状の細胞からなり、胞子(ほうし)によって増殖します。湿気の多い時期に食物・衣類・浴槽の壁などの表面にカビ発生することが多いようです。人の肌で増殖する白癬菌(はくせんきん)は手足の水虫や頭皮のシラクモの原因になり、カビの胞子がアレルギーを引き起こす気管支ぜんそくや鼻炎などの疾病(しっぺい)があります。

 

逆に人間の役に立っているカビもあります。麹(こうじ)カビのように味噌・醤油・日本酒を作るために用いられているものや、青カビはチーズを作るために使われ、青カビの一種から世界最初の抗生物質であるペニシリンが発見されています。つまり、カビは人間の友達(共存共栄者)でもあるのです。

 

住宅内では高温多湿な浴室や台所がカビにとっての最高の住処(すみか)でしょう。 浴室にカビを生えさせないようにするには、お風呂から出たあとに換気扇を回して、湿気を強制的に追い出すことが効果的です。ちなみに、カビは湿気(水分)が残りやすいタイルの目地に取り付き、剥離(はくり)した皮膚(垢、あか)や石鹸(せっけん)のカスを栄養源にして発育します。

 

カビ退治には薬品の次亜塩素酸ソーダ(カセイソーダの水溶液に塩素ガスを通したもの)と消毒用エタノールが効果的で、特に天井付近はエタノールを含ませたタオルで拭(ふ)くのが良いと思います。ちなみに、エタノールはカビだけではなく多くの細菌、真菌、ウイルスに有効のようです。

 

薬品ではありませんが、シリカゲルは、多孔質で表面積があり湿気をとってくれるので、カビの防止には威力抜群ですが、高価であることが難点です。

 

                           ☆

 

カビの講釈(こうしゃく)はこの辺(へん)にして、私のカビとの戦いを紹介します。その舞台はエアコンです。数年前からエアコン用洗浄スプレーを適宜使用してきましたが、気休めのようで効果はなく、いつの間にか室内機の内部は黒カビの巣窟(そうくつ)になってしまいました。ラジエター部は比較的に良好なのですが、シロッコファン(円筒形をした多翼送風機)の部分に黒カビがビッシリと付着してしまいました。

 

それではと、「カビキラー」のスプレーを何度も使用しましたが、作業が大変な割に効果は限定的で、やはり専門業者に清掃を依頼する必要があると思い始めた2年ほど前のこと、ネットで偶然に見つけたものが、素人(しろうと)でもエアコンの室内機を清掃できるという「工進 乾電池式噴霧器 ガーデンマスターGT2 [2L]」「アルミフィンクリーナー(エアコン洗浄剤)」「壁掛用エアコン洗浄カバー」の3点セットです。

 

価格は7000円強とかなり高価ですが思い切って購入しました。「ガーデンマスター」は名前から想像できるようにガーデニングでの消毒や殺菌に使う電池式携帯噴霧器です。また、室内機を覆(おお)い薬剤が飛散するのを防ぎ、薬剤で溶けたカビ混じりの汚水を流す機能を持ったロート状の形をした洗浄カバーは洗浄作業に不可欠であることがあとで再確認できました。

 

簡単な説明書を読んで、早速試してみました。携帯噴霧器には単三乾電池を4本入れる必要があり、手持ちの充電用乾電池「エネループ」を使用しました。注意することはアルカリ度が高い(PH13以上)薬剤原液と水の混合比率で、説明書に記載された割合を忠実に守ることです。次いでカバーをエアコンの室内機に被(かぶ)せる作業は、ビニールカバーの端に長いゴム輪が取り付けられていますから、コツを掴(つか)めば思いのほか簡単でした。また、トラブルを避けるため、エアコンの電源コード(プラグ)をコンセントから抜いておくことも必須です。

 

逸(はや)る気持ちを抑えられず、練習をかねて室内機のラジエター部から清掃を始めました。噴霧器本体のスイッチを押したあとは噴霧機からホースで接続されたノズル部を適当な距離に保持してラジエター部に向けるだけです。やがて室外機の排水パイプから汚水が出始めました。大成功です。後で知ったことですが、薬剤は水で10-20倍に希釈(きしゃく)していますが、強いアルカリ性の液体ですから、皮膚や衣服に付着すると痒(かゆ)くなったり脱色したりすることがあります。作業時にはビニール製手袋・前掛け・メガネを着用すると良いでしょう。

 

次いで、シロッコファンの部分にも噴射してみました。三角形をしたビニールカバーから伸びた排水用の長い筒状の部分(つまりロート状の先の部分)を通して汚水がバケツに溜(た)まり始めました。と思った矢先、室内機から出たと思われる水が壁をつたって垂(た)れ始めたのです。作業を中止して点検しました。室内機の背面にはビニール製カバーが届かない隙間(すきま)があり、そこから噴霧した薬剤入りの水が漏れ出していたのです。説明書を確認すると確かに注意書きがありました。ガムテープを使ってビニール製カバーを壁に固定して対処しました。

 

これで水漏れは無くなりました。あとはシロッコファンを手で(実際は割り箸を使って)回転させながら、シロッコファンに向けて丁寧(ていねい)に噴霧し続けました。噴霧が完了した後、真水を使った洗浄に次いで乾燥させれば作業は完了。シロッコファンはかなりきれいになったはずでしたが・・。しかし、長年に亘(わた)って積もった(こびり付いた)カビは噴霧が届きにくい場所にまだ残っているようですから、エアコンを止められる時期を選んで上記の洗浄作業を3度行ったことでカビはほぼ除去できたようです。これからも季節の変わり目にこの洗浄作業を継続して行いたいと思います。

 

後先になりましたが、エアコンの室内機にカビが生える原因は、冷房・除湿時に室内機内の湿度が上昇して結露し(湿気を保ち)、室内に浮遊する埃(ほこり)が餌(えさ)になることのようです。わが家のエアコンには、結露を解消するため、停止時ボタンを押すと一定時間送風モードになって内部を乾燥する機能が自動的に働きますが、夏場は連続運転することが多く、結露によって発生するカビを防ぎ切れないようです。

 

オマケとしてカビ退治の体験談をもう一つ紹介します。それは電動歯ブラシです。昔からからブラウン製の電動シェーバーを愛用する私は数年前にブラウン製の電動歯ブラシを購入しました。ちなみに、歯磨きオタクである私は、手磨き用歯ブラシ・先の尖った小さな歯ブラシ(プラウト)・歯間ブラシ・糸フロスを適宜使い分けています。

 

閑話休題。2ヶ月ほど前のことですが、毎日使う電動歯ブラシの本体に黒いシミが発生していることに気付きました。装飾と持ちやすさ(滑りにくさ)を目的とするゴム状のプラスチック部分に黒カビが生えていたのです。とりあえず石鹸で洗いましたがまったく効果がありません。それではと、「カビキラー」の泡を吹きかけて1時間ほど待ちましたが、黒いシミは少し小さくなったものの・・。

 

それを見た同居者が助言してくれました。まず、「カビキラー」を染み込ませたティシュペーパーを巻きつけ、その上をサランラップで覆(おお)って薬剤の乾燥を防止し、翌朝まで待つと良いとのこと。翌朝になるとカビはみごとに消えていました。念のため消毒用エタノールで殺菌すれば完璧です。それ以来、防水型の電動歯ブラシを使ったあとはタオルで水分をていねいに拭(ぬぐ)い去(さ)ることにしています。
 

カビとの戦いで痛感したことは、『常に空気中を漂(ただよ)うカビ菌の胞子は、水分(湿気)に招(まね)かれて付着し、さまざまな栄養分を摂取してカビを繁殖させるため、このプロセスを常に絶つことが不可欠である。いったん生えたカビを除去することは大変である』 との教訓です。みなさんもカビを増殖させないように十分ご注意ください。

2016年9月 3日 (土)

続々・奥の細道擬紀行(その40) 長浜市湖北町の「小谷城址」

国道365号で南東約4kmにある「小谷(おだに)城址」へ向かいました。郡上南(ぐじょうみなみ)交差点に差し掛かると前方に高い山が見えて来ました。方向からみて伊吹山(いぶきやま/いぶきさん、標高1377m)でしょう。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路に山の神に襲われた場所とされます。
 
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郡上南交差点を左折して400mほど進むと、「史跡小谷城跡」の看板が左手の小高い所に立てられていました。
 
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同じ意味に使われている「城址(じょうし)」と「城跡(しろあと)」についてのプチ薀蓄(うんちく)です。もともとは「城址」と表記されていましたが、戦後になって建物の土台を指す「址」が国の指定する当用漢字に入らなかったため、足跡(あしあと)や痕跡(こんせき)を意味する「跡」を代用して「城跡(しろあと、じょうせき」と表記されるようになりました。訓読みは意味を理解しやすいこともあったのかもしれません。しかし、最近は当用漢字の規制(縛り)が緩(ゆる)くなったことで、本来の「城址」と表記することが増えたようです。

 

行き当ったY字路の先には駐車場がありますが、「小谷城戦国歴史資料館」は右奥のようですから、右手に進みます。
 
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左前方に砦(とりで)の門をイメージした装飾があります。突然、フロントガラスに雨粒が・・。
 
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「小谷城戦国歴史資料館」に近い駐車場に到着しました。「小谷城戦国歴史資料館」は2007年に造られたものですが、浅井三姉妹がNHKの大河ドラマにしばしば登場したこともあって、根強い人気があるようです。
 
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車が通行できる道は沢に沿って600mほど先の行き止まりまで続いているようですが、ここに車を停めて散策することにしました。
 
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標高約495mの小谷山(おだにさん)から馬蹄形(ばていけい)の尾根筋に築かれた梯郭式(ていかくしき、本丸を中心に段下がりの郭がある)山城の「小谷城」は、浅井長政の祖父で浅井家当主の浅井亮政(すけまさ)が築城したと伝えられます。現在、国の史跡に指定されるとともに、日本五大山城の一つに数えられていますが、一般には長政と「お市の方」との悲劇の舞台として知られています。

 

先にも触れたように、元亀・天正年間の4年間にわたって織田信長に攻められた小谷城は落城。その後、秀吉が浅井氏の所領を継承(けいしょう)して今浜(現在の長浜)に居城を移すと廃城となりました。その上、長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったため、現在は土塁・曲輪(くるわ)・石垣などの遺構だけが残っているそうです。
 

車道を少し戻ったところに「小谷山登山道(追手道)歩行者ルート」と書かれた立て看板がありました。
 
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追手道(おうてみち、城の正門である追手門/大手門へ向かう道)の左手は原っぱになっていて、小谷山を望むことができます。
 
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その小谷山へ尾根伝いに向かう追手道
 
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「磯屋敷跡」の石碑には、『磯野氏は磯野山城(賤ヶ岳の近く)を本拠とする浅井氏の重臣で、六角氏や信長との戦いで活躍したが、浅井氏が滅亡したあとは信長に仕え、高島郡一群を与えられた』 と説明されています。
 
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小さな木橋を渡ると山の中へ入るようです。
 
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「登山道入口」の立て看板の先は上り坂になっています。
 
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坂が急になって階段に変わりました。登山道は反時計回りに尾根筋にある多くの郭(くるわ)、つまり丸(まる)を巡(めぐる)るコースになっているようですが、かなり険(けわ)しい山道)を1時間半から2時間もかけて本丸まで登るためには軽装すぎますから、ここで引き返しました。後で調べると、郡上南交差点の先から入る山道を使えば車でも中腹にある番所跡近くまで上れたのです。ちなみに、番所跡から本丸までは徒歩で約30分とのこと。(参考:小谷城跡の紹介サイト
   
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近くに「お市の里」があるようですから、立ち寄ることにしました。国道365号を4-5km走った草野川橋北詰交差点を左折。神社の前に立つ「姉川の合戦とその周辺の歴史」の案内看板には、浅井長政・お市の方・三姉妹の茶々・初・小督 (おごう、江)について簡単に説明してありました。
 
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浅井文化スポーツ公園の施設の間を抜けて浅井歴史民俗資料館「お市の里」に到着しましたが、館内を見て回るとかなり時間が掛かりそうですから、入館することを思いとどまりました。ネット検索すると、 「お市の里」を紹介しているサイトがありましたので、参考までにリンクさせていただきます。
 
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草野川を渡って約1.5km先の野村町で脇道にそれて「姉川の戦さ」の戦場跡を探している間に東隣の佐野町(七尾地区)に出てしまいました。そこで偶然見つけた「北国脇往還の道標」には「左 江戸 谷汲 右 北国街道」と刻(きざ)まれています。「北国脇往還(わきおうかん)」は滋賀県北東部の「北国街道」と関ヶ原を通る「中山道」を連絡する脇街道であり、「谷汲(たにぐみ)は西国三十三番満願霊場の谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳住)を指します。
 
 
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ちなみに当ブログでは、西国三十三所札所(西国観音霊場)である、第一番青岸渡寺、第九番興福寺(南円堂)、第十番三室戸寺、第十一番上醍醐寺、第十三番石山寺、第十五番今熊野観音寺、第十六番清水寺、第二十番善峯寺、第二十一番穴多寺、第二十三番勝尾寺、第三十三番(結願所)華厳寺、を紹介しています。注、青岸渡寺と華厳寺は説明のみですが、それ以外はドライブ旅の途中に参拝した札所です。

 

「奥の細道」を辿(たど)る旅がいよいよ終着地に近づいたことを実感したところで、投稿を小休止します。(続く)

2016年9月 2日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その39) 長浜市高月町の「渡岸寺観音堂」

国道303号をこのまま東進すれば滋賀県の高島市を経由して長浜市木之本町(北国街道の旧木之元宿)へ行くことができますが、「奥の細道」のルートをできるだけ正しく辿(たど)るため、国道27号(丹後街道)で敦賀市へ戻ることにしました。この交差点を左折して約10km走れば鯖街道の始点である小浜市へ行けますが・・。
 
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迷いを吹っ切って国道27号を北進し、敦賀市で国道8号(西近江路)にそれ、疋田(ひきだ)から塩津街道と名を変えた国道8号をさらに南下して滋賀県(長浜市)に入りました。芭蕉が旅したころには敦賀から滋賀県の木之本へ抜ける上での難所であったことを現在の国道8号はまったく感じさせません。ただし、芭蕉は県境手前の曽々木から刀根道(とねみち)で北国街道(現在の国道365号)へ出たのかもしれません。
   
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というのは、「奥の細道」には敦賀から終着地である美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)までの詳細ルート(大垣から来た門人の路通が案内した約80km、2-3日間の旅程)を示す紀行文がほとんどなく、俳句も残していないためです。また、関ヶ原の手前にある春照(すいじょう)宿に宿泊したことは確かなようですが、手前の木之元宿にも泊まったのかもしれません。そこで、ここから先は私の推定に基づいて、関心がある史跡を中心に紹介したいと思います。

 

国道303号との合流する西浅井町塩津中に入りました。塩津浜には平安時代から琵琶湖最北端の塩津湊(みなと)があり、塩津街道の要地(ようち)であったそうです。この湊から北陸と法あるいは大陸から集められた物資が敦賀から塩津街道で塩津湊に運ばれ、さらに琵琶湖の水運で京都へ輸送されていましたが、明治中期以降は鉄道の開通により塩津湊は徐々に衰退し、昭和に入ると使われなくなったようです。
 
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昼食のための立ち寄りを予定していた塩津浜にある道の駅「塩津海道あぢかまの里」は右手に位置して入りづらいため通過しました。ちなみに、「塩津海道」は「塩津街道」の別称。
 
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塩津浜で琵琶湖畔に出ました。この辺りに塩津湊があったのでしょう。
 
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藤ヶ崎トンネル(長さ980m)を通過すると、
 
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琵琶湖が右手に広がりました。遠くに見える小さな島は国の名勝・史跡に指定されている竹生島(ちくぶしま)でしょう。琵琶湖では沖島について大きな島である竹生島には西国三十三所札所巡り第三十番札所「宝厳寺」があり、今津港と長浜港から定期船が出ています。ちなみに、大正時代の学生歌「琵琶湖周航の歌」(4番の歌詞)や読売テレビの番組「鳥人間コンテスト」にも登場します。
 
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賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本に入りました。ここでも、予定に入っていた余呉湖(よごこ)は、かなり回り道なるため、立ち寄りを中止しました。

 

余呉湖は滋賀県長浜市にある湖で日本最古とされる羽衣伝説の地として知られます。面積が1.8平方km、周囲長6.45kmです。琵琶湖の北端近くに位置し、元々は断層湖である古琵琶湖に包含されていたものが約3万年前に独立したといわれ、琵琶湖とは羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで知られる賤ヶ岳(しずがたけ、標高422m)によって隔(へだ)てられています。

 

木之本町で国道8号から国道365号(北国往還)に入ってJR西日本・北陸本線高月駅近くの渡岸寺(どがんじ)に立ち寄りました。

 

国道365号の脇にある「国宝 観世音菩薩」の大きな石柱が目に入りました。
 
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右折して参道に入り「高月観音の里 歴史民俗資料館」の駐車場に車を停めました。
 
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「観音の里」(高月エリア)の案内地図がありました。「観音の里」のhpには、『長浜市は、仏教文化財の宝庫で、特に観音菩薩像が濃密に分布し、集落の数に匹敵するほど多くの観音像が今もなお村人たちによって大切に守られている。琵琶湖北岸の西浅井エリア余呉エリア・木之本エリア・湖北エリア、やや南(北東岸)に位置する高月エリア・長浜エリア・米原エリアに広く分布し、高月エリアの「向源寺」(渡岸寺観音堂)には「国宝十一面観音立像」がある』 と説明されています。
 
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「向源寺」(渡岸寺観音堂)へ向かう途中に見かけた滔滔(とうとう)と水が流れる水路
 
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参道の先に「向源寺」がありますが、その少し手前(右手)に仁王門がありました。この仁王門には県指定有形文化財「木造金剛力士立像」が置かれています。
 
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「埋伏地由来」の立て看板には、『元亀元年(1570年)浅井・朝倉氏と織田信長が姉川で戦った時、近隣の堂宇民家はことごとく兵火によって焼き払われた。当寺も兵焚に罹(かか)り 焼かれようとするとき住僧巧円は門信徒とともに命がけで観音像をはじめ多くの仏像をこの地に埋めて災禍を逃(のが)れたと伝えられる』 と書かれています。
 
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浄土真宗「渡岸寺(どうがんじ)観音堂」の境内
 
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渡岸寺観音堂(拝観料500円)は大正末期に再建されたものだそうです。名称がややこしいのですが、渡岸寺は地名で、「渡岸寺観音堂」が属する寺の名前が「向源寺」です。
 
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本尊の「阿弥陀如来坐像」(県指定有形文化財)は平安時代後期の作とされます。
 
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「国宝十一面観音立像」の写真パネル(左)とレプリカ(中央と右)
 
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「国宝十一面観音立像」の実物は観音堂の左手、廊下でつながる窓がなく空調された収蔵庫(2006年改築)の慈雲閣に安置(厳重に保管)されており、解説者の説明を聞きながら、周囲を巡って拝観することができました。肉感的で腰を軽く左に捻った躍動的なお姿、耳璫と呼ばれる耳飾り、大きく作られた頭上面など数々の特徴を持っており、頭上面のサイズが大きく、耳璫(じとう)と呼ばれる耳飾りをしているのが特徴的とのこと。寺伝では天平時代の作とされますが、実際は平安初期(9世紀)の作とみられるようです。注、収蔵庫内は撮影禁止ですが、寺社巡り.Comで観音堂で販売されているポストカードのコピーが見られます。

 

もう一つの十一面観音像は像高39.1cmと小さな「十一面観音檀像(だんぞう)」で以前は国宝像のお前立ちであったそうです。 ちなみに、「檀像」は白檀(びゃくだん)や栴檀(せんだん))などの香木を彫刻した仏像。着衣に立涌・七宝繋ぎ・菱繋ぎ・霞散らしなどの切金文様を施され、伏し目がちの穏やかな表情や両頬の豊かな丸い相好、細身でなで肩の穏やかなスタイルなどに平安時代末期・十二世紀の特徴がよく表れています。

 

そして、法界定印を結ぶ胎蔵界の「大日如来像」(重要文化財)は、ふくよかな丸い顔と肩、蓮(はす)ような衣文(えもん)に包まれた両膝など、藤原仏の典型的な様式をよく示しています。注、以上は、解説者の説明と観音堂のhpを参考にしました。

 

静寂に包まれた古刹(こさつ)で「国宝十一面観音立像」(像高194cm、檜材の一本彫り)をゆっくり拝観し、心を充足されて渡岸寺観音堂を退出する時、我々と入れ違いに学生のグループが渡岸寺観音堂に入ってきました。

 

参道脇にある井上靖(やすし)氏の文学碑(1982年建立)には、『慈眼 秋風 湖北の寺』 と自筆の文字が刻まれています。日本一美しく日本彫刻史における最高傑作といわれる「十一面観音立像」を詠んだものです。
 
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旧本堂跡の石柱
 
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かなり古くなった「たかつきイラストマップ」には、『ここは、「洗心の郷」渡岸寺』 と表示されています。
 
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(続く)

2016年9月 1日 (木)

続々・奥の細道擬紀行(その38) 若狭町の「三方五湖」と「若狭食堂かみなか亭」

若狭町側の海山料金所を出ます。
 
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急坂の先には「水月湖」が前方に見えて来ました。
 
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県道216号に合流すると「水月湖(すいげつこ)」の畔(ほとり)に出て、湖沿いの道に変わりました。なみに、「水月湖」は面積が4.16平方km・周囲10.86kmと三方五湖中最大の面積を誇ります。
 
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県道216号を約1.5km走ると、「三方五湖スカイライン」に入って最初の展望所から見た「水月湖」と「三方湖」を結ぶ水路(天然の瀬戸口)のすぐ脇を通過しました。車を停めて写真を撮影したかったのですが、急カーブの先にあった駐車スペースを通過してしまったのです。ちなみに、先に紹介した「日向湖」と「水月湖」とを結んでいる嵯峨隧道の他にも、「水月湖」と「久々子湖」をつなぐ浦見川(浦見運河)と「菅湖」と「三方湖」をつなぐ堀切の計3つの人工水路があるそうです。

 

「三方湖」の畔、海山集落に古代人の建物を再現したような急勾配(きゅうこうばい)の屋根を持つ合掌造(がっしょうづくり)の舟小屋(ふなこや)がありました。
 
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「三方湖」は面積が9.6平方km、周囲4.2kmの横長の淡水湖です。汽水湖の水月湖とつながっていますが、水は流出するだけで、流入することはないのでしょう。
 
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「花回廊サイクリングロード」には水月湖と三方湖の外周を巡る「湖コース」(約20km)と2つの湖の東岸エリアを周回する「歴史探索コース」(約15km)に2コースがあることが説明されています。ちなみに、この他にも「三方五湖サイクリングコース」もあり、五湖全周コース(約25km)と「五湖半周コース」(約18km)があり、サイクリング好きな人には「三方五湖」は天国のような場所です。
 
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国道162号に合流して三方湖畔を3kmあまり走ると、前方に道の駅「三方五胡」の案内表示が見えました。
 
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休憩をかねて立ち寄ることにしました。道の駅{三方五湖」は昨年3月にオープンしたばかりの新しい施設です。道の駅の駐車場に車を停めようとした時、すぐ近くに奇抜な施設があることに気づいて、車でそちらへ向かうと、「若狭三方縄文博物館」の看板が目に入りました。
 
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博物館の入口は階段を上がった場所にあるようです。
 
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駐車場に車を停めて、左手にある「福井県三方青年の家」の右脇を抜けてしばらく歩くと、「鳥浜貝塚」の竪穴式住居が何棟も再現されていました。
 
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来し方を振り帰りました。国際的な環境芸術・彫刻家の八木マリヨさん作のモニュメントは、右は貝塚を、左は縄文の縄をイメージしているそうです。その先には博物館「DOKIDOKI館」の全景と入口付近を見ることができます。ちなみに、建物は土偶のお腹をイメージした形だそうです。
 
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この博物館(入館料500円)は鳥浜貝塚からの出土品と1991年に水月湖から発見された7万年間におよぶ年縞(ねんこう)が展示されているそうです。ちなみに、年縞とは春先に大発生するプランクトンの死骸(しがい)の白い縞(しま)と秋から冬にかけて積もる粘土の黒い縞とが織りなす縞模様で、過去の気候変動や植生変化などに関わる重要な情報が含まれているとのこと。

 

すぐ脇には「はす川」が流れています。敦賀若狭自動車道の高架があることを除けば、三方湖畔に住んでいた縄文人たちも同じ景色(山と川)を見ていたのでしょう。
 
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「はす川」はすぐ先で「三方湖」へ注(そそ)いでいます。
 
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博物館に入りたかったのですが、寄り道の途中ですから、諦(あきら)めて、もう一つの汽水湖「菅湖(すがこ)」には立ち寄らず、「三方五湖」の南方約15kmの距離にある次の目的地へ向かうことにしました。

 

国道162号を約1.5km東へ走ると三方交差点で国道27号に行き当たりました。 当初の予定では左折して敦賀市に戻り、「奥の細道」のルートに復帰することにしていましたが、「若狭三方縄文博物館」と「鳥浜貝塚」のエリアを散策している間に気が変わったのです。国道27号(丹波街道)を約12km南下した三宅交差点で国道303号(若狭街道)へと左折すると、200mあまり先に「若狭食堂かみなか亭」がありました。広い駐車場があってドライブインの雰囲気です。午前11時半近くに到着。
 
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国道脇にある看板には「鯖(さば)街道」と表示された電光掲示板と「ソースカツ丼」の幟(のぼり)があります。ちなみに、かみなか(上中)は地名です。
 
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国道303号は、京都から小浜市を結ぶ3つの鯖街道のひとつであるとともに、始点の岐阜県岐阜市から滋賀県を経由して終点の福井県若狭町を結ぶ主道路用(総延長133km)でもあります。本ブログでは京都から滋賀県高島市までの鯖街道のドライブ旅を紹介していますが、その先にある若狭町の鯖街道にも立ち寄りたくなったのです。(写真は鯖街道の滋賀県方面と県境の山並み)
 
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店内には、観光客は意外にも少なく、地元の住民が大半と思われます。と念のために行った出発前の下調べでは、名物の「焼き鯖寿司」(1000円)、「トロ箱定食」(1500円)、「ソースかつ丼」(980円)に人気があるようです。また、県境近くの若狭町熊川には「サバカフェ」もあり、「サバサンド」(サラダ・ポテト付、920円)、「サバサンド丼」(1000円+税)がお勧めとのこと。
 
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私はこの店の名物である「トロ箱定食」(牛焼き肉)を選びました。通常価格は1620円ですが、ランチサービスとして午前11時から午後2時まで先着20名まで1050円に割り引かれるはずです。注文を訊(き)きに来た店員さんに確認すると先着20名に入っていました。「若狭三方縄文博物館」を慌(あわ)ただしく出発した理由はこの名物料理だったのです。
 
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トロール船(底引き網漁船)で獲(と)った魚を入れるトロ箱をお盆代わりにした「トロ箱定食」は、刺身・天ぷら・牛肉の鉄板焼き・漬物・うどんなどと品数が多いのですが、各々のボリュームが少なく、私にはちょうど良い量で、小型コンロで焼いた熱々の牛肉鉄板焼き・刺身・うどんが美味しかったことが印象に残りました。
 

 
一方、海鮮料理を考えていると思われる同行者には、私の刺身と天ぷらを提供し、かつシェアすることを条件で「ソースカツ丼」を勧(すす)めました。表に幟(のぼり)が立っていたことから分かるように福井県では「ソースカツ丼」に人気がある県のひとつであり、今回の旅行中にどこかで食べたいと思っていたからです。この店の秘伝ソースをかけて食べると、肉厚の豚肉とサクサク感がある衣(ころも)のが期待した通りの美味しさでした。
 
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前夜、敦賀で食べたばかりですが、鯖街道名物「焼鯖寿司」(1350円)をこのあと訪れる大阪のオチビちゃんとコチビちゃんへのお土産にすることにしました。売店に並べられた巻き簀(す)に入る「焼鯖寿司」を手に取ってレジへ向かうと、それはサンプル(中には割り箸が入っている)で、作るには10分ほどかかるとのこと。もちろん、鯖が大好きな私に異存はありません。
 
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ドライブイン風の食堂らしく、さまざまな和食(うなぎ・刺身・寿司・うどん・そばなど)とともに洋食のメニュー(ステーキとハンバーグ)もあり、味の方はまずまずで庶民的な雰囲気があることから、地元住民やドライバーたちに人気が高いと思われました。(続く)

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