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2016年9月 6日 (火)

続々・奥の細道擬紀行(その41) 「姉川の合戦場」と長浜市の「豊公園(長浜城址)」

国道365号に出て姉川方面へ少し戻り、に走って姉川古戦場へ向かいました。ネット検索で詳細の場所を調べたところ、旧国道の姉川に架かる野村橋付近であることを知ったのです。(写真は国道365号の野村橋、小谷城がある北西方向)
 
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同じく南東方向は織田・徳川連合軍が陣を布いた竜(龍)ヶ鼻があるはずです。
 
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旧道の野村橋と草深い姉川あの河川敷を望みました。その右後方には姉川が北側を流れる七尾山(標高690.7m)です。ちなみに、姉川は伊吹山系の北部に源流があり、七尾山沿いに南下し、伊吹山の麓で南方向から西方向に流れを変えて野村橋を通過したのち、草野川と高時川を合流して琵琶湖に注いでいる淀川水系の一級河川です。
 
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姉川沿いの道を上流方向へ約100m進んだ旧道の野村橋の袂(たもと)に「姉川の合戦場」と書かれた看板がありました。
 
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野村橋を渡ったところに石碑や幟(のぼり)が見えます。
 
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「姉川の合戦」(姉川の戦いともいう)の説明看板には、『元亀元年(1570年)に朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍が姉川河原で壮絶(そうぜつ)な戦いを行ったこと』 が書かれています。先に触れた「金ヶ崎崩れ(または金ケ崎の退き口)」と同じ年です。右下に図解された両連合軍の陣形には、野村に布陣した浅井軍(8千人)と三田村に布陣した朝倉軍(1万人)、それらに対する織田軍(2万三千人)と徳川軍(6千人)であったことが示されています。
 
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早朝(午前5時)に戦いが始まり激戦となりましたが、徳川軍が朝倉軍の側面を攻めたことで均衡が崩れ、朝倉軍が敗走し、ついで浅井軍も敗走することになり、午後2時には織田・徳川軍の勝利で戦は終わりました。最近、姉川の合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられていることが付記されています。そして、浅井長政が滅びるのは3年後に一乗谷城の戦いで朝倉氏が滅亡した直後のことです。

 

姉川合戦の開戦直前まで信長が本陣を置いた砦跡である「龍ヶ鼻陣所」(三)や浅井長政の家臣である遠藤直経(なおつね)の墓(二)などが地図上に表示されています。直常は浅井軍が総崩れとなって敗色が濃厚になると、織田陣へ入って信長を暗殺しようとしますが、顔見知りの竹中重治(半兵衛)の弟に見つかって捕えられ、首を切られたと伝えられています。
 
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「姉川戦死者之碑」と「元亀庚年古戦場」の石柱
 
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芭蕉の門人「直江木導(なおえもくどう)の句碑」には、『春風や 麦の中行く 水の音』 と刻(きざ)まれています。
 
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このまま国道365号を進めば芭蕉が宿泊した北国脇往還の春照(すいじょう)宿跡を経て関ヶ原へ出ますが、続々・奥の細道擬紀行(その1)で書きましたように、関ヶ原から大垣までの道中は「旧中山道の旅」(関ヶ原町垂井町大垣市)ですでに訪ねていますから、ここが今回の終着地です。

 

道草を食った「三方五湖」と同様、琵琶湖畔の長浜城に立ち寄ることにして、国道東上坂交差点で県道37号に入って7kmほど南西に位置する長浜市の中心部を目指しました。祇園町交差点を左折して県道44号を進み、港町交差点を右折すると大きな無料駐車場がありました。

 

長浜城址は豊臣秀吉に因(ちな)んで豊(ほう)公園と名づけられています。
 
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大きな円形噴水池の先に天守閣を模(も)した「長浜城歴史博物館」
 
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長浜城歴史博物館のhpによると、『天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、木下藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と改名し、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。その後は何度も城主が変わりましたが、豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。』 と説明されています。
 
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園内にあるブロンズ像「洋」(中川清氏作)
 
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琵琶湖畔に続く県道2号を南下しました。左手遠方に見えるのは安土城址に近い愛知川(えちがわ)の河口付近と琵琶湖で最大の島である沖島のようです。右遠方に見えるのは比良山地かもしれません。
 
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米原市に入ると県道2号は一直線に伸びていました。
 
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ついで県道2号は彦根市へ入りました。「鳥人間コンテスト」が毎年開催される松原水泳場の脇を通る時に見た立ち並ぶビニールハウス越しに見た彦根城の遠景です。9年前に訪れています。
 
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ちなみに、9月1日に放送された「鳥人間コンテスト」(人力プロペラ機ディスタンス部門)の結果は、南の琵琶湖大橋方面を選んだ日本大学が20kmの折り返し点を無事に通過したのに対して、北の竹生島方面に向かった強豪の東北大学は向かい風に悩まされて20kmの折り返し地点の直前(19.6km)で無念の着水。日本大学が東北大学の3連覇(通算7回目の優勝)を阻止して11年ぶりに優勝(通算5回目の優勝)しました。

 

松原橋交差点を左折して県道517号で彦根城の外堀に沿って進んだため彦根市の中心部に入って渋滞に巻き込まれてしまいました。外堀の角は直進して県道518号に入れば容易に国道8号へ出られたのですが・・。彦根駅に近い旭町交差点を経由し、県道25号と国道306号を走って彦根ICから名神高速道路に入って大阪府にあるオチビちゃんとコチビちゃんの家を目指しました。

 

「奥の細道」における芭蕉の徒歩旅(一部区間の海路を含む)は、全行程150日、旅程600里(約2400km)でしたが、私の場合(3回に分けたドライブ旅)の全行程は計12日でした。
 
次回からは、「奥の細道」を終えた芭蕉に倣(なら)い、当初から予定していた「お伊勢参りのドライブ旅」を投稿します。(続く)

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