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2016年9月 2日 (金)

続々・奥の細道擬紀行(その39) 長浜市高月町の「渡岸寺観音堂」

国道303号をこのまま東進すれば滋賀県の高島市を経由して長浜市木之本町(北国街道の旧木之元宿)へ行くことができますが、「奥の細道」のルートをできるだけ正しく辿(たど)るため、国道27号(丹後街道)で敦賀市へ戻ることにしました。この交差点を左折して約10km走れば鯖街道の始点である小浜市へ行けますが・・。
 
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迷いを吹っ切って国道27号を北進し、敦賀市で国道8号(西近江路)にそれ、疋田(ひきだ)から塩津街道と名を変えた国道8号をさらに南下して滋賀県(長浜市)に入りました。芭蕉が旅したころには敦賀から滋賀県の木之本へ抜ける上での難所であったことを現在の国道8号はまったく感じさせません。ただし、芭蕉は県境手前の曽々木から刀根道(とねみち)で北国街道(現在の国道365号)へ出たのかもしれません。
   
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というのは、「奥の細道」には敦賀から終着地である美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)までの詳細ルート(大垣から来た門人の路通が案内した約80km、2-3日間の旅程)を示す紀行文がほとんどなく、俳句も残していないためです。また、関ヶ原の手前にある春照(すいじょう)宿に宿泊したことは確かなようですが、手前の木之元宿にも泊まったのかもしれません。そこで、ここから先は私の推定に基づいて、関心がある史跡を中心に紹介したいと思います。

 

国道303号との合流する西浅井町塩津中に入りました。塩津浜には平安時代から琵琶湖最北端の塩津湊(みなと)があり、塩津街道の要地(ようち)であったそうです。この湊から北陸と法あるいは大陸から集められた物資が敦賀から塩津街道で塩津湊に運ばれ、さらに琵琶湖の水運で京都へ輸送されていましたが、明治中期以降は鉄道の開通により塩津湊は徐々に衰退し、昭和に入ると使われなくなったようです。
 
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昼食のための立ち寄りを予定していた塩津浜にある道の駅「塩津海道あぢかまの里」は右手に位置して入りづらいため通過しました。ちなみに、「塩津海道」は「塩津街道」の別称。
 
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塩津浜で琵琶湖畔に出ました。この辺りに塩津湊があったのでしょう。
 
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藤ヶ崎トンネル(長さ980m)を通過すると、
 
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琵琶湖が右手に広がりました。遠くに見える小さな島は国の名勝・史跡に指定されている竹生島(ちくぶしま)でしょう。琵琶湖では沖島について大きな島である竹生島には西国三十三所札所巡り第三十番札所「宝厳寺」があり、今津港と長浜港から定期船が出ています。ちなみに、大正時代の学生歌「琵琶湖周航の歌」(4番の歌詞)や読売テレビの番組「鳥人間コンテスト」にも登場します。
 
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賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本に入りました。ここでも、予定に入っていた余呉湖(よごこ)は、かなり回り道なるため、立ち寄りを中止しました。

 

余呉湖は滋賀県長浜市にある湖で日本最古とされる羽衣伝説の地として知られます。面積が1.8平方km、周囲長6.45kmです。琵琶湖の北端近くに位置し、元々は断層湖である古琵琶湖に包含されていたものが約3万年前に独立したといわれ、琵琶湖とは羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで知られる賤ヶ岳(しずがたけ、標高422m)によって隔(へだ)てられています。

 

木之本町で国道8号から国道365号(北国往還)に入ってJR西日本・北陸本線高月駅近くの渡岸寺(どがんじ)に立ち寄りました。

 

国道365号の脇にある「国宝 観世音菩薩」の大きな石柱が目に入りました。
 
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右折して参道に入り「高月観音の里 歴史民俗資料館」の駐車場に車を停めました。
 
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「観音の里」(高月エリア)の案内地図がありました。「観音の里」のhpには、『長浜市は、仏教文化財の宝庫で、特に観音菩薩像が濃密に分布し、集落の数に匹敵するほど多くの観音像が今もなお村人たちによって大切に守られている。琵琶湖北岸の西浅井エリア余呉エリア・木之本エリア・湖北エリア、やや南(北東岸)に位置する高月エリア・長浜エリア・米原エリアに広く分布し、高月エリアの「向源寺」(渡岸寺観音堂)には「国宝十一面観音立像」がある』 と説明されています。
 
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「向源寺」(渡岸寺観音堂)へ向かう途中に見かけた滔滔(とうとう)と水が流れる水路
 
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参道の先に「向源寺」がありますが、その少し手前(右手)に仁王門がありました。この仁王門には県指定有形文化財「木造金剛力士立像」が置かれています。
 
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「埋伏地由来」の立て看板には、『元亀元年(1570年)浅井・朝倉氏と織田信長が姉川で戦った時、近隣の堂宇民家はことごとく兵火によって焼き払われた。当寺も兵焚に罹(かか)り 焼かれようとするとき住僧巧円は門信徒とともに命がけで観音像をはじめ多くの仏像をこの地に埋めて災禍を逃(のが)れたと伝えられる』 と書かれています。
 
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浄土真宗「渡岸寺(どうがんじ)観音堂」の境内
 
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渡岸寺観音堂(拝観料500円)は大正末期に再建されたものだそうです。名称がややこしいのですが、渡岸寺は地名で、「渡岸寺観音堂」が属する寺の名前が「向源寺」です。
 
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本尊の「阿弥陀如来坐像」(県指定有形文化財)は平安時代後期の作とされます。
 
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「国宝十一面観音立像」の写真パネル(左)とレプリカ(中央と右)
 
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「国宝十一面観音立像」の実物は観音堂の左手、廊下でつながる窓がなく空調された収蔵庫(2006年改築)の慈雲閣に安置(厳重に保管)されており、解説者の説明を聞きながら、周囲を巡って拝観することができました。肉感的で腰を軽く左に捻った躍動的なお姿、耳璫と呼ばれる耳飾り、大きく作られた頭上面など数々の特徴を持っており、頭上面のサイズが大きく、耳璫(じとう)と呼ばれる耳飾りをしているのが特徴的とのこと。寺伝では天平時代の作とされますが、実際は平安初期(9世紀)の作とみられるようです。注、収蔵庫内は撮影禁止ですが、寺社巡り.Comで観音堂で販売されているポストカードのコピーが見られます。

 

もう一つの十一面観音像は像高39.1cmと小さな「十一面観音檀像(だんぞう)」で以前は国宝像のお前立ちであったそうです。 ちなみに、「檀像」は白檀(びゃくだん)や栴檀(せんだん))などの香木を彫刻した仏像。着衣に立涌・七宝繋ぎ・菱繋ぎ・霞散らしなどの切金文様を施され、伏し目がちの穏やかな表情や両頬の豊かな丸い相好、細身でなで肩の穏やかなスタイルなどに平安時代末期・十二世紀の特徴がよく表れています。

 

そして、法界定印を結ぶ胎蔵界の「大日如来像」(重要文化財)は、ふくよかな丸い顔と肩、蓮(はす)ような衣文(えもん)に包まれた両膝など、藤原仏の典型的な様式をよく示しています。注、以上は、解説者の説明と観音堂のhpを参考にしました。

 

静寂に包まれた古刹(こさつ)で「国宝十一面観音立像」(像高194cm、檜材の一本彫り)をゆっくり拝観し、心を充足されて渡岸寺観音堂を退出する時、我々と入れ違いに学生のグループが渡岸寺観音堂に入ってきました。

 

参道脇にある井上靖(やすし)氏の文学碑(1982年建立)には、『慈眼 秋風 湖北の寺』 と自筆の文字が刻まれています。日本一美しく日本彫刻史における最高傑作といわれる「十一面観音立像」を詠んだものです。
 
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旧本堂跡の石柱
 
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かなり古くなった「たかつきイラストマップ」には、『ここは、「洗心の郷」渡岸寺』 と表示されています。
 
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(続く)

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