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2016年9月28日 (水)

超高速名城巡り<近畿編①> 「舞鶴城」(田辺城)

京都縦貫自動車道を北へ走りました。何度も利用していますから、途中の説明は簡単にします。この日もすぐれない天気になるようです。
 
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舞鶴若狭自動車道と交差する綾部JCTが近づきました。
 
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高速道路と一般道の交差に用いられることが多いTボーン型を2つ組み合わせた綾部JCTは珍しいインターチェンジで、一時的に方向感覚が失われそうになり、案内標識で行き先を確認しながら通過しました。注、航空写真で確認したルートは、まず北方向(下から上)へ伸びる京都縦貫自動車道からそれて右旋回(Uターン)して南下、そのあとは左旋回して舞鶴若狭自動車道に合流して右(東)方向へ

 

舞鶴若狭自動車道の綾部PAを過ぎた舞鶴西ICから県道27号に出て、行き当った国道27号を北進しました。

 

午前10時ころに到着した最初の目的地は、西舞鶴ICから約10分、駅の北方・舞鶴警察署の前にある舞鶴(まいづる)公園です。50mほど北に市立南田辺駐車場(71台) がありました。利用料金は1時間まで100円(以降30分ごとに50円)

 

舞鶴城(正式名称:田辺城)は、戦国大名の細川藤孝(細川幽斎)が天正7年(1579年)、鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所の跡とされる場所に築城した輪郭式平城です。藤孝は足利将軍家・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた人物で、細川忠興(ただおき)の父に当たります。信長の命により一色氏を滅ぼして丹後を征圧して12万石の領主になって宮津城を居城としましたが、交通の要衝(ようしょう)であった八田に城を築いて田辺城としました。ちなみに、地名の舞鶴市は田辺城の雅号「舞鶴城(ぶかくじょう)」に因(よ)ります。

 

関ヶ原の戦いの2か月前、細川家の跡を継いでいた忠興が東軍側として家康に従って東北へ出陣中、西軍側の軍勢1万5千の攻撃を受け、留守を預かる兵500だけで約2ヶ月(50余日)と長期にわたって籠城しましたが、後陽成天皇の勅令にしたがって講和(開城)しました。田辺城が長期間の籠城に耐えられた最大の理由は、東に伊佐津川、西には高野川が流れ、南は湿地、北は海となっているため、守りが固く敵を防ぎやすい城であったことによります。(出典:田辺城資料館の説明など)

 

江戸時代に入ると京極氏や牧野氏の居城となり、明治初頭の廃城まで存続。堀は埋め立てられて、建物はすべて取り壊されたそうですが、平成9年(1997年)に城門(大手門)が復興されました。その他には天守台石塁などの石垣と昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館(しょうこかん)などがあるようです。

 

土師川を渡った大手千日前交差点を案内標識にしたがって右折し、最初の交差点を左折すると、田辺城址の正門(大手門)の前に出ました。本来の外堀上に復興された大手門は思った以上に大きく、城郭の大きさとのバランスを欠くように見えました。
 
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舞鶴城址は現在、舞鶴公園となっています。正門の左手にあるのは二層櫓(やぐら)です。
 
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舞鶴公園案内図
 
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大手門をくぐると左手に二層櫓の「彰古館」がありました。
 
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正面には二層櫓から伸びる石垣が続いています。
 
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右手の高台に上がると、天守台跡がありました。
 
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天守台跡の上からは公園内(本丸跡)を展望することができました。大手門よりかなり狭いスペースです。公園内には約100本の桜が植えられて、桜の名所になっているそうです。
 
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本丸井戸跡(復元)
 
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大手門の脇にある「田辺城資料館」の案内標識にしたがって大手門脇の石段を上がりました。右手は二重櫓の彰古館です。
 
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大手門から二層櫓へと続く塀に設けられた狭間(さま、はざま)
 
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大手門の2階には田辺城資料館(無料)の入口がありました。
 
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受付前のスペースにはある細川藤孝(幽斉)の肖像画
 
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ドアを開けて中へ入ると細川幽斉の像が出迎えてくれました。
 
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館内には細川藤孝(幽斎)と江戸時代に田辺藩を明治までの約200年間納めた牧野氏にゆかりの品々が展示されていました。ちなみに、牧野氏の祖先は、東三河の土豪牧野氏の一族で、旗本から大名に昇進し、幕府の要職に就く藩主が多かったと説明されています。

 

「田辺城籠城」についての解説(前述)
 
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「黒漆塗(くろうるしぬり) 銀覆輪(ぎんふくりん) 紺絲威(こんいとおどし) 六枚胴具足」
 
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この難しい名称を解説すると、全体を黒い漆(うるし)を塗った、6枚に分かれる(持ち運びと収納が便利な)胴・太腿(ふともも)を守る草摺(くさずり)を紺の糸で繋(つな)いである鎧・周囲を銀で覆った兜(かぶと)を組み合わせた具足(ぐそく、甲冑)を意味します。

 

「牧野家ゆかりの甲冑(かっちゅう)である「黒漆塗 縦矧(たてはぎ) 五枚胴具足」も同様です。縦矧は鉄板の繋(つな)ぎ目が縦方向になっていることを意味します。
 
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田辺城とその城下の縮尺模型
 
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「竹屋町、田辺大橋周辺のにぎわい」
 
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「田辺城資料館」を出ました。彰古館の先に続く本丸の石垣にある石段を上がってみましたが・・・。
 
 

田辺城の大手門を出た右手(北西)にある明倫小学校は、藩校「明倫館」の敷地を受け継いでおり、明倫館の門が小学校の正門として移築・保存されていました。
   
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(続く)

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