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2016年9月 7日 (水)

続々・奥の細道擬紀行(続編) 芭蕉の生地「伊賀上野」(前編)

芭蕉は「奥の細道」の終着地である大垣で、『蛤(はまぐり)の ふたみに別(わかれ) 行く秋ぞ』 の句を残しています。伊勢神宮の式年遷宮(元禄2年9月)を見に行こうとして詠(よ)んだ句です。そして、曽良(そら)と路通(ろつう)を伴(ともな)って海路で伊勢の二見が浦へ向かいました。それに倣(なら)って、私も大阪にしばらく滞在したあと、11年ぶりに伊勢神宮に参拝することにしました。

 

伊勢神宮への向かう途中、国道163号で木津川市(きづがわし)に入り、その東隣の和束(わづか)町・笠置(かさぎ)町・南山城村を経由して、芭蕉の生地である三重県伊賀市(旧上野市)に立ち寄ることにしました。
 
 

木津川市の市街地を抜けた加茂地区では「史跡恭仁宮(くにきょう)跡」と「山城国分寺跡」へ入る交差点を通過します。6年前に紹介した史跡です。
 
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海住山寺(かいじゅうせんじ)口交差点を通過します。海住山寺は、恭仁京を見下ろす三上山の中腹に位置する奈良時代に創建された真言宗智山派の寺で、国宝の五重塔で知られます。
 
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南山城村の月ヶ瀬(月ヶ瀬湖高山ダムがある)を通過して三重県に入りました。さらに、木津川を渡った伊賀市の市街地ではクランク型に折れ曲がる国道163号を通って伊賀上野城(地元では上野城と呼ばれる)を目指しました。案内標識に従って脇道に入り、県立上野高校の横を通過すると、前方に城が見えて来ました。
 
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係員に誘導されて駐車場(料金500円)に車を停めました。上野公園の案内図には「芭蕉翁記念館」「忍者屋敷(忍者博物館)」「忍者伝承館」「俳聖殿」「上野城天守閣」などが描かれています。
 
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まず、駐車場に近い芭蕉翁記念館へ向かいます。
 
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何ということか、『7月4日(月)~8日(金) 芭蕉記念館は燻蒸(くんじょう)・展示替えのため休館日とさせていただきます』 との張り紙がありました。ちなみに、この日は7月5日です。
 
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次いで向かったのは「忍者博物館」。
 
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実演ショーが30分後の11時30分から開催されることが派手に表示されています。「芭蕉翁記念館」は休館であったことに気落ちした私は、1時間も待つ気持ちにはなれませんでしたので、スルーすることにしました。後で訊(き)くと、同行者は『忍者の実演ショーを観たかったのに!』 と残念がっていました。
 
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すぐ隣にある「俳聖殿」の前に大きな藤棚がありました。
 
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「五色米シール(俳聖殿の藤棚で発見)」と書かれたポスターがありました。意味がよく分かりませんが、イベントのPR用のようです。
 
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「俳聖殿」の案内看板には、『芭蕉の生誕300年を記念して昭和17年に立てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺(ひわぶき)である。上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑(みの)と衣を着た姿で、堂は脚部に、回廊の柱は杖と脚を表現する。堂内には、芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている』 ことが説明されていました。
 
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内堀跡に続く土橋(どばし、つちはし)の緩(ゆる)やかな石段を上がると、
 
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目の前に石垣が現れました。「筒井古城跡」です。天正13年(1584年)、筒井順慶(つついじゅんけい)の養嗣子(ようしし)である大和郡山城主・筒井定次(つついさだつぐ、)が伊賀守(いがのかみ)に任じられて伊賀国に移封となりました。伊賀に移ると、定次はさっそく築城することにしたそうです。城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二の丸、北の山下に三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口としたとのこと。関ヶ原の戦いのあと、この地に移封された藤堂高虎(とうどうたかとら)は慶長16年(1611年)に上野城の大改修に着手、大坂方に備えるため西面には特に力を注(そそ)ぎ、南を大手とし、本丸を西に拡大して広大で日本一高いといわれる高石垣をめぐらしたそうです。
 
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ちなみに、伊賀国は飛鳥時代(680年ころ)に伊勢国から分かれましたが、その名の由来はこの地を治めていた伊賀津姫(いがつひめ)に依(よ)るそうです。
 

筒井古城の二の丸の先(西側)にある伊賀上野城の天守閣と小天守/付櫓(つけやぐら)は昭和10年(1935年)に再建されたものです。
 
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天守閣へ上がる石段
 
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天守閣へ入る薬医門の先、天守閣(右手)と小天守/付櫓(左手)の間に受付窓口がありました。ちなみに、登閣料金は大人500円。
 
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薬医門の鬼瓦には藤堂家の家紋「藤堂蔦(ふじどうつた)」があります。
 
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緑色の鯱(しゃちほこ)が展示してある横の看板には藩祖藤堂高虎について説明されています。『筒井定次が築いた上野城(筒井古城)の本丸を豊臣方に備えて西に拡張し、高さ約30mの高石垣をめぐらした。五層の天守閣は建設中の慶長17年(1612年)に当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。その後、大阪冬の陣と夏の陣で徳川方が勝利し、幕府は諸大名の城普請(ふしん)を禁じたため、この城では天守閣が幕末まで再建されることはなかった。現在の天守閣は、当地出身の政治家・川崎克(かつ、こく)氏が資材を投じて昭和10年(1935年)に落成した』 とあります。ちなみに、「俳聖殿」も同氏が建設したものです。
 
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藩祖藤堂高虎公とユルキャラの「たいが(た伊賀)ーくん」が出迎える天守閣の一階には甲冑(かっちゅう)・武具・伊賀焼が展示されています。
 
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(続く)

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