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2016年10月

2016年10月31日 (月)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編③> 「米子城跡」と「湊山公園」

「名和・淀江道路」「米子道路」と名前を変えた自動車専用道の米子JCT(米子自動車道との分岐点)を通過し、米子南ICから国道181号に出て、国道9号の久米町交差点を右折して午前10時20分ころ「湊山(みなとやま)公園の駐車場に到着。鳥取市(鳥取砂丘)から約100km(2時間)のドライブでした。ここ米子に立ち寄った目的は園内の湊山の山頂にある「米子城跡」を訪ねるためです。雨は傘を必要とするほどになっていました。
 
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駐車場の入口付近にある「城山の池
   
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池の左手にある「米子城の沿革」の案内看板
 
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西伯耆の拠点的な城として吉川広家(元春の三男)によって築城された米子城(別名:久米城、湊山城)は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭で、国の史跡に指定されています。江戸時代初期には関ヶ原の戦いで東軍に付いた中村一氏が得た論功行賞によって伯耆(ほうき)国を支配することになった嫡子・中村一忠による米子藩の藩庁となりましたが、その後廃藩され鳥取藩の所領となったことで、一国一城令の例外として鳥取藩の支城となりました。
 
 

天守があった標高90mの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝(ようしょう)を擁(よう)する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。(出典:米子市のhp
 

その脇に「城山登山口」がありました。
 
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湊山の頂上には、総石垣の本丸があり、中村一忠が建設した四層五重の天守閣と吉川広家による四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていたそうです。また北側の尾根に「内膳丸(ないぜんまる)」、「内膳丸」の東麓に「御殿」があった「二の丸」、「二の丸」の南東に大型の枡形(ますがた)を配し、三の丸には掘りが巡っていたと説明されています。
 
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標高90mの山頂まで徒歩で約15分と表示されていますが、雨足が強くなっていますので、山登りを断念することにしました。「米子城跡」については「お城散歩」のサイトに詳しく紹介されていますのでそちらを参照してください。
 
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日本海に開いた湾の入り口が砂州によって塞(ふさ)がれてできた潟湖(せきこ)の「中海(なかうみ)」に面した遊歩道に出ました。
 
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南北に長く(約500m)続く「湊山公園」(遊歩道)の右手には鳥取大学病院の施設があります。
 
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反対側(南方面)には2人乗と4人乗りの競技用ボート(ダブルスカル/ペア、クォドルプル/フォア)が「中海」に点在しています。
 
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突端に「出山水泳場」の碑がありました。この「中海」には終戦後、遠泳のための水泳場があったそうです。
 
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「湊山」方面(左手)には競技用ボート(シェル艇)が並んでいました。後で確認すると、「県立米子艇庫(ていこ)」(手前)と「鳥取大学医学部漕艇(そうていぶ)部艇庫」(奥)です。注、漕艇はボート競技の意
 
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桟橋の先に続く「中海」の南端部
 
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右手の沖合にも2人乗りのボートが見えました。
 
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遊歩道から見た「県立米子艇庫」の正面
 
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駐車場を出てJR西日本・山陰本線の米子駅へ向かいました。
 
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米子駅前にある米という字をモチーフとしたカーブガラスのオブジェ「米(こめ)っ子合掌(がっしょう)像」
 
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境港駅へ向かう「境(さかい)線」と岡山県の倉石駅に至る「伯備(はくび)線」の列車も乗り入れているそうです。垂れ幕には「祝日本遺産認定 地蔵信仰が育んだ日本最大の牛馬市」の文字があります。「日本遺産」とは文化庁が地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを認定する制度です。
 
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ちなみに、「境線」の終点「境港駅」がある境港市は「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である漫画家・水木しげる氏の出身地で、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するキャラクターの銅像(153体)がならぶ「水木しげるロード」や「水木しげる記念館」、「妖怪神社」などがあります。また、境港市には自動車のCMで一躍有名になった「ベタ踏み坂」と呼ばれるようになった「江島大橋」もあり、いずれも欲張った当初計画に入っていましたが、時間の制約がありますから断腸の思いで立ち寄りを断念しました。

 

名城巡りが3か所となったところで投稿を小休止したいと思います。(続く)

2016年10月30日 (日)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編③> 「白兎海岸」から米子市へ(後編)

「淤岐ノ島(おきのしま)」を展望すると、島から左手にある「気多前(けたのさき)」(白兎の上陸地)に向かって小さな岩の頭が海面上に列を作っているのが分かります。ちなみに、初秋は観光客が少なくて寂しげですが、夏場には海水浴客とサーファーで賑(にぎ)わうそうです。
 

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ところで、「因幡の白うさぎ」はどうして草木がほとんど生えていないこの島に居たのでしょうか? この疑問に対する答えは案内看板に用意されていました。『洪水のとき、竹の切り株に乗って林(陸地)から「淤岐ノ島」に流されてしまったため、もとの林に戻ろうとする状況にあった』 のだそうです。注、「因幡の白うさぎ」が大国主命に助けられた場所については諸説あり
 
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そして、「白うさぎ」が上陸したとされる「気多前」(右端)
 
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右手方向にも「房島」(岩礁)があり、さらに遠方には鳥取砂丘の東にある「駟馳山(しちやま)」(標高314m)と「立岩山(たていわやま)」(標高394m)と思われる山々も望むことができます。
 
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「白兎海岸」にはまだ見どころがありますが・・
 
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浜村海岸付近から国道9号は自動車専用道路に変わりました。
 
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青谷羽合道路(自動車専用道路)の吉川(よしかわ)トンネル(長さ433m)
 
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左手から靄(もや)が流れて来ます。フロントガラスには水滴も・・。
 
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湯梨浜町に入って泊東郷(とまりとうごう)ICを通過
 
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そして、道の駅「はわい」も通過します。ちなみに、旧羽合(はわい)町は合併により湯梨浜(ゆりはま)町はわい温泉とはわい長瀬になっています。その「はわい温泉」は鳥取県下で皆生(かいけ)温泉と三朝(みささ)温泉についで観光客が多い人気がある温泉地とのこと。また、名前が似ていることからハワイ州ハワイ郡と姉妹都市提携しているそうです。
 
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日本海側には羽合砂丘があり、内陸部には羽合温泉と中国庭園「燕趙園(えんちょうえん)」がある東郷湖を持つ観光地です。ちなみに、10月21日に発生した鳥取地震の震源地に近く、西側にある倉吉市・北栄町とともに被害が大きかったエリアです。
 
 

「青谷羽合(あおやはわい)道路」(無料区間)の終点が近づきました。
 
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北栄町との境界を流れる天神川に架かる新天神橋を通過して国道9号は「北条バイパス」に入ります。写真はその河口方面です。反対の上流、約5kmの距離には「白壁土蔵群」で知られる倉吉(くらよし)市があります。
 
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多くの地方自治体が風力発電所を設置する鳥取県のほぼ中央部で平成17年(2005年)11月に稼働した北栄町立「北条砂丘風力発電所」(1500kWの発電機x1-9号機)は市町村直営では日本最大規模を誇るそうです。ちなみに、ローターまでの高さは77m、ブレード(羽根)の最高点は地上103.5mもあるそうです。そして、風力発電所の手前にある小高い堤防のようなものは建設中の北条道路(山陰自動車道の一部区間)の用地。
 
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琴浦町との町境にある大栄東泊(だいえいとうはく)ICが近づくと、小雨が降り始めました。
 
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琴浦の浦安地区を大きく山側へ迂回(うかい)する東伯・中山道(自動車専用道)の琴浦東ICを通過します。左手には中国地方の最高峰である「大山(だいせん)」(標高1729m、別名:伯耆富士)があるはずですが、曇天のためまったく見えません。ちなみに、火山の大山は日本百名山と日本百景に指定されています。
 
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大山の山麓に広がる大山町(だいせんちょう)を通り抜け、まもなく米子市へ入るようです。
 
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(続く)

2016年10月29日 (土)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編③> 「白兎海岸」から米子市へ(前編)

千代川(せんだいがわ)に架かる鳥取大橋を渡った空港入口交差点を右折して「鳥取砂丘コナン空港」へ向かいます。空港は海の港ととともに私が旅先で立ち寄ることにしている施設です。空港名の部分が貼り替えられているのは、知名度をアップさせる目的で、昨年3月1日にそれまでの「鳥取空港」から名称が変更になったためです。
 
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鳥取を代表する観光地の「鳥取砂丘」と鳥取県北栄町出身の漫画家・青山剛昌氏の人気作品「名探偵コナン」が持つ全国的な知名度を生かして命名されたそうです。

 

管制塔があった施設ですが、現在はリモーと空港となったため管制塔としての機能はありません。ちなみにリモート空港とは、交通量が少ないため航空管制官ならびに航空管制運航情報官(注、管制通信官と管制情報官が統合され職種)を配置する代わりに、飛行援助センター(注、全国に8か所ある)によって飛行場援助業務が提供される空港です。

 

左側が「鳥取砂丘コナン空港」の国内線用ターミナルビルで、右側が国際線ターミナルの機能と国際交流の場としての機能とを兼ねる「鳥取空港国際会館」
 
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国内線用ターミナルビル側に回り込みました。
 
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エプロンに全日空機のボーイングB737-800が駐機しています。ちなみに、現在は全日空が東京・羽田空港とのフライトを1日5往復運航しているようです。
 
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左手の少し高くなった場所にあるオレンジ色の施設は航行中の航空機に飛行場までの距離と方向を示す電波を発射する無線設備で、超短波式全方向式無線標識(VOR)と距離測定装置(MDE)の2つから構成されています。その他にも、景気着陸装置(ILSInstrument Landing Systemローカライザーグライドスロープ)また、この写真ではよく分かりませんが、主滑走路(長さ2000mx1本)は左手の海岸線まで伸びているはずです。
 
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第2・第3駐車場の先にある「世界夢広場」は世界地図と展望台などが設置された子供用の広場です。
 
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空港西入口交差点から片側2車線の国道9号に出ました。この交差点を直進して山陰本線に行き当たった先には日本で最大級の天然池である「湖山池」(こやまいけ、周囲16km、面6.8平米)があるようです。
 
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鳥取砂丘に近い覚寺交差点から続いていた片側2車線の国道9号(鳥取バイパス)は旧道である山陰道の県道318号と合流する溝川交差点で片側1車線の対面通行になりました。その1kmほど先にある「神話の地 白兎(はくと)海岸まで1km」の案内標識を過ぎると、右手前方に岩礁が現れました。
 
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そして、道の駅「神話の里白うさぎ」に到着して駐車場(無料)に車を停めました。
 
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ここは山陰海岸ジオパークに加盟している「白兎(はくと)海岸」です。『712年に作られた古事記に記される「因幡(いなば)の白うさぎ」の伝説でよく知られている海岸で、伝説に登場する白うさぎがいたとされる淤岐ノ島(おきのしま)があります。島の周囲には海面に見え隠れする波食棚(はしょくだな)が発達し、白兎海岸との間に飛び石状に連なっていることから、伝説では白うさぎが渡った和邇(わに)[ワニザメ]の背になぞえられています』 と説明されています。
 
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「白兎海岸コース」の観光案内には「ハマナス自生南限地帯」(国の天然記念物)と「白兎神社」などが表示されています。
 
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「大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡の白うさぎ」のオブジェ
 
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童話唱歌にもなっていることでよく知られた話ですが、登場するワニをめぐって、「(ワニ」サメ」とする説と東南アジアや中国南部から伝わった話として水生動物の「ワニ(鰐)」であるとする説、あるいはアイヌ語であるとする説などがあるようです。旅の途中の話(挿話)についての論議は置くとして、神話の主題は「大国主の国取り(嫁取り物語」で、異母兄弟の八十神(やそがみ、各地の豪族)・大和朝廷が成立したころに最有力の豪族で天皇家と婚姻関係を結んだ「和邇(和珥、わに)氏」、海人(渡来系)であった「宇佐氏」(宇佐神宮)、美しい八上姫(因幡国八上の郷)を象徴しているとの穿(うが)った見方もできます。やがて子供をもうけた二人は出雲に行きますが、そこには正妻の須世理姫(すせりひめ)がいて、気性が激しく嫉妬深い制裁とは折り合わず、八上姫は子供を残して因幡へ帰ってしまったとされます。ちなみに、大国主の嫁とり物語については「奴奈川姫の記事」でも紹介しています。

 

「白兎神社」の大きな鳥居がありました。階段を上がったところに二の鳥居がみえます。ちなみに、主祭神の「白兔神」は神話に登場する「因幡の白うさぎ」のことです。
 
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国道9号に架かる歩道橋へ上がってみましたが、「白兎神社の社殿を見ることはできません。(鳥取県観光連盟のhpを参照)
 
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(続く)

2016年10月28日 (金)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 「鳥取城跡」の続編 「鳥取砂丘」

この日は長いドライブが待っていますから、いつもより少し早目の午前7時30分ころにホテルを出発し、県道26号(鳥取環状道路)で千代川(せんだいがわ)の河口方面を目指しました。そして、鳥取大橋の袂(たもと)にあるICで国道9号(鳥取バイパス)に入りました。右手には鳥取城跡がある久松山と鳥取城の出城であった雁金山(かりかねやま)城があった雁金山(左手前、標高140m)が見えました。
 
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秀吉による鳥取城攻め(第二次)の時、毛利方の重要な補給ルートであったこの出城を秀吉方が攻め落としたため、鳥取城は孤立して長期にわたる籠城に耐えられなかったのです。

 

覚寺IC(かくじ)で県道265号にそれて、この日最初の目的地である鳥取砂丘へ向かいました。
 
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「砂丘展望台」へ行く予定を変更して、県道319号へ折れて「鳥取砂丘」に直接行くことにしました。
 
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「鳥取砂丘」は中国山地の花崗岩質の岩石が風化し、千代川(せんだいがわ)によって日本海へ流されたあと、海岸に集まったものが砂丘のとなっているそうです。砂丘ができるプロセスは、海岸に積もった砂は海岸線に押し寄せる潮流に押され、さらには海岸線に堆積した砂を内陸へ吹き飛ばす卓越風の働きで形成されるとのこと。ちなみに、南北2.4km、東西16kmにおよぶ「鳥取砂丘」は山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されており、、昭和30年(1955年)に「国の天然記念物」に、平成19年(2007年)には「日本の地質百選」に選定されました。(出典:Wikipedia

 

千代川の東西に広がる「鳥取砂丘」は、東から福部砂丘、浜坂砂丘、湖山砂丘、末恒砂丘の4つの砂丘で構成されていますが、通常は千代川の東側にあって545ha(東京ドームX 116個分)の広さを持つ「浜坂砂丘」のことを指します。ちなみに、観光砂丘となっているところ(146ha、同31個分)は「浜坂砂丘」の一部です。注、"ha"(ヘクタール)は1万平米、皇居=115ha、伊勢神宮(内宮・外宮、神宮の森を除く)=180ha

 

「鳥取砂丘}の市営駐車場に到着。料金は1日1回500円です。さっそく、砂丘へ向かいました。その入口となる階段の下に総合案内板が立っていました。海側から順に、第一砂丘列(左上)、第二砂丘列(馬の背)、第三砂丘列が並び、第二砂丘列(馬の背)の手前に「長者ヶ庭」「火山灰露出地」「オアシス」があることが図解されています。
 
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入口の階段を上がります。
 
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防砂柵の先には横長の写真を使った案内パネル(先ほどの案内板の図を俯瞰図にしたもの)があり、左側の作には「鳥取砂丘スマホ・ゲーム解放区宣言」の張り紙がありました。もちろん、「ポケモンGO」のメッカであることを宣言しているのです。
 
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柵を通り抜けると広大な「鳥取砂丘」が眼前に広がりました。右手方向には、「すりばち」と第二砂丘列(馬の背)、さらにはその先の日本海を展望することができます。
 
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最大高低差は90m以上にもなり、すり鉢に似た形に大きく窪んだ「すりばち」と呼ばれる地形が作られており、「すりばち」の斜面には、流れるように砂が崩れ落ちた形が簾を連想させる砂簾(されん)などの模様や、風速数mの風によって形作られる風紋(ふうもん)と呼ばれる筋状の模様が見られます。
 
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少し左手を観ると、団体客用が集合写真を撮影する台があり、その先にある「すりばち」の最深部には緑がかった低地が続いています。「オアシス」と呼ばれる地下水が湧出している場所だそうです。
 
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防砂林が途切れている辺りは第一砂丘列のようです。
 
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ズームアップすると第一砂丘列の先に鳥取港が確認できました。
 
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さらに左手を見ると、防砂林が鳥取砂丘を取り囲んでいることがわかりました。なお、さらに左手(南東方向),

県道265号の内陸側には丘によって海から切り離されて出来た「多鯰(たね)ヶ池」があるようです。
 
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「鳥取砂丘」には50年前(学生時代)に訪れたことを思い出しました。当時は旅行先にカメラを携行しませんでしたから記憶だけが頼りですが、かなり雰囲気が変わったように思われます。土産物店が立派になったのは確かですが、砂丘の様子も違うようで、50年前の状況を調べてみました。

 

鳥取砂丘の土産物店や食堂は、観光客が増加したことで、昭和40年代の中頃以降に大型化して現在のようになったそうです。逆に、砂丘は当時より規模が縮小しているというのです。その原因(理由)は防砂林が整備されたためでした。その目的は砂丘から飛ばされる砂から近隣住民を守るためでしたが、砂丘の成長を止める結果になってしまったそうです。その結果、最近は観光資源の保護と環境保全を両立させるため、防砂林の増強は手控えられているそうです。

 

同行者は"iPhone 6S"を取り出して、さっそく「ポケモンGO」を始め、のポケモン「イーブイ」をゲットしました。
 
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そして、「サイホーン」も
 
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私も負けていられませんから、iPhone5でゲームスタート
 
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まず、「イ-ブイを捕まえました。
 
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次いで「コイキング」
 
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さらに「コラッタ」を捕まえます。
 
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さらに、同行者と同様、「サイホーン」も
 
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「ポケモンGO」に夢中になっている同行者を促して「鳥取砂丘」を後にすることにしました。
 
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土産物を買うと言う同行者を車内で待っていると、「鳥取大砂」の標柱が写る「鳥取砂丘前の時計台」のポケスポットが表示されました。
 
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同行者は朝食で食べて気に入った「豆腐ちくわ」と鳥取土産らしい「梨ケーキ」「梨ゴーフレット」が買えたと大喜びです。

 

蛇足かも知れませんが、参考までに国内における主な砂丘(砂浜)を列挙して概説します。
 

 吹上浜: 鹿児島県の薩摩半島の西側(東シナ海側)に幅2-5kmで長さ47kmも続く日本最長の大砂丘   

 中田島砂丘: 遠州灘に面した長さ115kmにおよぶ海岸線にある浜松市南区の砂丘のうちのひとつで、東西4km、陸地に向かって南北600mの幅がある砂丘

 

 内灘(うちなだ)砂丘: 石川県金沢市からかほく市にかけて位置する砂丘(長さ10km、幅約1km)で、日本海を内灘砂丘でせき止めているため内灘砂丘の内側には「河北潟」が存在している

 

 猿ヶ森砂丘: 青森県東通村の太平洋沿岸に位置する砂丘(長さ約17km、幅は最大で2km)で、「下北砂丘」とも呼ばれ、「鳴き砂」などでも有名。内陸部を含めると鳥取砂丘よりも広い面積を持っている。

 

 千里浜(ちりはま) : 石川県羽咋(はくい)市にある長さ約8kmの砂浜で、自動車でも走行することができる「なぎさドライブウェイ」として知られます。昭和45年(1970年)ころ、買ったばかりの愛車で走ったことがあります。

 

「鳥取砂丘」の入り口近くにある「砂の美術館」は世界で唯一「砂」を素材にした彫刻作品を展示した屋内施設の美術館(2012年月グランドオープン)で、当初の立ち寄り候補にいれていましたが、午前9時にオープンするまで1時間近くありますから、今回はスルーすることにしました。(続く)

2016年10月27日 (木)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 「鳥取城跡」の続編 鳥取市に宿泊する(下)

鳥取駅北口の正面にあるタクシー乗り場
 
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駅前には茶色い外壁の「鳥取大丸」があり、隣接するより高い建物は「ホテルニューオータニ鳥取」です。ちなみに、2つの建物は黒川紀章事務所の設計によるもので、外壁を同じ茶色のレンガで統一することによって一体感を持たせています。その手前の市道駅前太平線には2013年に完成した「バード・ハット」(大屋根)があります。
 
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鳥取駅前から伸びる県道25号は、その先に続く国道53号とともに、鳥取市のメインストリートです。遠方には鳥取城跡がある久松山(きゅうしょざん)が見えます。
 
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しかし、久松山の山頂にある「山上の丸跡」の石垣は木立に囲まれているようで確認できませんでした。ちなみに、大阪万博が開催された1970年の前年(1969年)に西側山麓と山頂を結ぶロープウェイが完成しましたが、1976年に廃止されたそうです。
 
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ガードをくぐって戻ったところにある鳥取県全域と岡山県但馬地区・島根県東部地区をカバーする「日本海新聞の本社ビル」
 
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鳥取市役所駅南庁舎
 
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「アパホテル鳥取駅前」(東側)
 
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沢井手橋の下流(南側)にある「扇橋」
 
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その次は「富安橋」
 
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県道26号に出ました。
 
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制水弁の蓋(ふた)には傘が3つ描かれていました。
 
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汚水(下水)用マンホールの蓋(ふた)にはモノクロのデザインもありました。
 
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こちらは鳥取市役所駅南庁舎の東側にあるのは鳥取県東部・中部をカバーする「日本海ケーブルネットワーク(NCN)」
 
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ホテルの自室へ戻り、朝食がサービスされる午前7時に1階の「京都銀ゆば」に下りました。珍しいことに朝食バイキングのメニューが掲示されています。「京都銀ゆば」は各地のアパホテルと提携しているようです。
 
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同行者が選んだ朝食
 
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そして、これが私の選択
 
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同行者は白い竹輪のようなものが気に入ったようで店の人に尋ねると、『鳥取県産の大豆を使用した木綿豆腐と白身魚で造られた鳥取名産の「豆腐ちくわ」.で、スーパーなどで購入できる』 と教えられたそうです。調べると、鳥取県中東部で見られる独特の加工食品で、通常の竹輪のように焼いたものや、ネギあるいは生姜(しょうが)が入ったものもあるようです。

 

ロビーへ出たところで、ラクダの人形を見つけました。「鳥取砂丘」をイメージさせる趣向(しゅこう)でしょう。
 
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(続く)

2016年10月26日 (水)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 「鳥取城跡」の続編 鳥取市に宿泊する(上)

この日、宿泊する先は鳥取駅南口に近い「アパホテル鳥取駅前」です。鳥取城跡からは国道53号で鳥取県庁の脇を抜け、JR西日本の鳥取駅前を左折してガードをくぐった鳥取駅の南口近くです。25台分のスペースがある駐車場は左脇にありました。予定した午後5時ちょうどにチェックイン。3階にある自室からは鳥取城の外堀である袋川へと続く山白川の河川敷に造られた緑道を見下ろすことができました。
 
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前回の北陸旅行では同行者からホテルの部屋が狭いとの苦情が出ましたから、今回は3階と4階にあるゴールドフロアのツインルームを予約してありました。『部屋が広すぎて落ち着かない』 と同行者の言い分が変わりました。確かに、洗面所と浴室もビジネスホテルとしては異例な広さがあります。
 
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もう一つ大事なことはチェックイン時に午後6時からと指定したホテル内での夕食(料理)です。会場は1階にある創作料理の「京都銀ゆば」です。
 
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予約した日替わりメニューは、カサゴの煮付け、刺身、鶏の唐揚げ・野菜サラダ、茶わん蒸し、味噌汁、香の物と、少食の私にとってはほど良いボリュームで、何とか完食することができました。
 
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翌朝は午前5時半ころに起床して午前6時ころ朝の散歩に出かけました。写真は山白川に架かる沢井手橋から見上げた「アパホテル鳥取駅前」(14階建)です。
 
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ちなみに、茶色い部分(2階)には地元のTSK山陰中央テレビ(鳥取支社)が入居しています。そして、右隣から左後方までL字型に続くのは鳥取市役所駅南庁舎です。
 
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山白川の眺(なが)め(下流方向)
 
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橋の欄干(らんかん)には鳥取らしい大国主命と因幡の白兎(しろうさぎ)のレリーフ飾りが
 
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JR西日本・山陰本線の鳥取駅南口方面を見ると、山白川は暗渠(あんきょ)になっていました。ちなみに、鳥取駅には同じJR西日本の因美(いんび)線(鳥取駅-岡山県の東津山駅間)も乗り入れています。
 
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鳥取駅南口付近はまだ人影がまばら
 
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雨天だった昨日とは打って変わり、雲間から青空が覗(のぞ)いています。駅舎の横にあるのは鳥取ワシントンホテルプラザです。
 
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ガードをくぐって鳥取駅北口に出ました。
 
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駅前の「風紋広場」にあるオブジェは「おしどりアーチ」(日本宝くじ協会寄贈)
 
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その斜め向かい側には「夢時計21」も
 
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(続く)

2016年10月25日 (火)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 「鳥取城跡」(その3)

「表御門(鉄御門)跡」に出ましたが、「天球丸跡」へ向かう通路(直進して左に折れる)は通り抜けられないようですから、別のルートを探すことにして「二の丸」を戻りました。ちなみに、右手へ下る道は「二の丸」と「三の丸」の間に続く石段を下りて「太鼓御門」と「大手御門(中ノ御門)」を抜ける大手登城路(下城ルート)です。
 
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通路脇で見かけた「天球丸三層櫓跡」の説明看板には、『天球丸の東南隅に三層(三階)の細長い櫓があったことが古い絵図に描かれ偉容を誇っている。享保5年(1720年)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されなかったという』 とあります。

 

斜面に大きな石が乱雑に積まれていました。崩れた石垣の石置き場のようです。
 
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「天球丸巻石垣展望所」の案内看板を発見
 
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順路にしたがうと小さな社(やしろ)前に出ました。
 
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鳥居をくぐり、右手へ続く石段を上がります。
 
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「表御門跡」へ2段になって続く「走り櫓跡」と思われる突き出た石垣の脇を通過
 
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「二の丸」「山上ノ丸(山頂)」と「天球丸」の分岐点に出ました。その左手は天球丸の一段低い場所にある小廓は物見御殿跡のようです。
 
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「天球丸跡」の石垣が目の前に近づきました。
 
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「天球丸跡」に到着
 
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『鳥取城主・池田長吉の姉、天球院のために建てられた居館であることから「天球丸」と名付けられた』 ことが説明されています。ちなみに、天球院の夫で摂津国三田城主の山崎家盛は関ヶ原の戦いで西軍に与(くみ)し、細川幽斉(東軍側)の丹後国田辺城(舞鶴城)を攻めたことで改易されそうになりましたが、義兄・池田輝政(姫路藩初代藩主)の働きもあり、逆に因幡若桜3万石に加増転封されたそうです。
 
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広い「天球丸跡」に立てられた「天球丸巻石垣展望所」の看板
 
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雨でぬかるんだ
「天球丸跡」の足元の悪さに気をとられ、しかも「山上(さんじょう)の丸」のことを考えていたため、迂闊(うかつ)にも「巻石垣」を上から撮影することを失念してしまいました。その外観はこちらのサイトを参照してください。

 

久松山の山頂にあるという「山上の丸」へ向かうことにしました。天守があった場所です。
 

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「八幡宮跡」を通過
 
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谷筋から「天球丸跡」へ流れ落ちる水
 
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登山道が急に険(けわ)しくなり、しかも雨足が強くなったため、足元がおぼつかなくなりました。
 
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その先にも急な上り坂が待っているようで、軽装備では雨の中の登山が無理であると判断して引き返すことにしました。それに時間がすでに午後4時半で(日没が近づいています。晴れた日でも約25分もかかるそうですから、適切な判断だったと思います。ちなみに、山頂にある「山上の丸」には「本丸」に「天守」「月見櫓」「多門櫓」と「二の丸」「三の丸」があるようです。
 
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「二の丸跡」に戻り、「三階櫓(御三階)跡」の脇にある「二の丸裏御門跡」の石段を下りました。
 
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下城路のルートにしたがって左折した「三階櫓(御三階)跡」の下に「お左近(さご)の手水鉢(ちょうずばち)」の案内看板があります。石垣の左上に手水鉢らしき円形の石が埋め込まれていました。撮影している間に同行者の姿が消えていました。 注、その写真はこちらのサイト
 
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ヘアピン状に折り返す長い石段を急いで下りると、登城する時に上がった石段に合流していました。やっとのことで追いついた同行者と一緒に「中仕切門(西坂下門)」を抜けた「北ノ御門跡」付近でカラフルなデザインが施された汚(雨)水管マンホールの蓋(ふた)を見かけました。調べると、鳥取に伝わる伝統芸能「因幡(いなば)の傘踊り」に使われる傘を描いたものでした。「しゃんしゃん祭り」では100個の小鈴をつけた傘を歌に合わせて廻しながら踊るそうです。
 
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この日、午後5時にチェックインする予定の宿泊先へ向かいました。(続く)

2016年10月24日 (月)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 「鳥取城跡」(その2)

その奥にある2つ目の石段を上がって小さな橋を渡ります。
 
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二の丸」に出ました。「右膳の丸跡」よりも視界が広がり、県立博物館の建物も見えました。
 
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左手に視線を移すと、「三階櫓(御三階)跡」の石垣の先に鳥取県庁舎(白っぽい建物)とその右後方に県立県民文化会館(愛称:とりぎん文化会館)などが確認できます。右下、木立の間に「仁風閣」も。
 
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「二ノ丸跡」(史跡)の説明には、『江戸時代前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。鳥取池田家三代・吉泰(義康)の時代に御殿が「三ノ丸」に移され、享保(きょうほう)5年(1720年)の石黒大火で全体が消失しました。「三階櫓」などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化(こうか)3年(1846年)になるまで再建されませんでした』 とあります。

 

「二の丸跡」のほぼ中央に、下へ降りる「二の丸裏御門跡」の石段があり、その東隣りには小高い「三階櫓(御三階)跡」の櫓台(石垣)がありました。
 
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案内看板の説明には、『享保13年銘 鳥取城二の丸三階櫓石垣 天端(てんぱ)角石は昭和40年の修復工事に際して発見された、北東面の天端角石(上面の角の石)で、銘文には普請奉行・下奉行と職人の統領の名前が刻まれています。享保5年(1720年)の石黒舵で焼失した三階櫓が同13年に再建されたとき、建物だけなく石垣も修復を受けていたことがわかります』 とありました。
 
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東側に回り込むと石垣に上がる石段がありました。『この櫓台には、1階八間四方、2階六間四方の櫓が建てられていた。元禄5年(1692年)に山上ノ丸の天守櫓が消失したのちは、この櫓が鳥取城を象徴するものとなる。明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた』 解説されています。
 
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「三階櫓(御三階)跡」から見た「仁風閣」、「鳥取地方法務局」(右後方)、「久松小学校」(左後方)
 
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同じく西方の展望

 

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反対側の崖に「石切場」がありました。案内看板には、「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平(たいこうがなる)」とは第二次鳥取城攻めにおいて羽柴秀吉が鳥取城本丸の1.4km東に位置する帝釈山(現本陣山)の山頂に置いた本陣です。
 
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「二の丸」をさらに進んだ南東角にある「二の丸走り櫓跡」から「三の丸跡」(現鳥取西高校)を眼下(左)に見ることができます。
 
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すぐ脇にある「菱櫓(ひしやぐら)跡」(史跡)の前に立つ看板には「石垣修復工事見学展望所」の文字が
 
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『菱櫓は平面形が菱形に構築された菱台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。櫓台には二層の櫓が建ち1階は四間四方であった。二の丸の西南隅と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を表しており、明治維新までその偉容を誇っていた』 と説明されていました。
 
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「菱櫓跡」に上がってみました。左手に山の起伏を利用した「三の丸庭園跡」があることも説明されています。他には、金沢城玉泉院丸庭園、和歌山城西の丸庭園、松山城二の丸庭園など数えるほど希少な庭園跡だそうです。
 
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盾蔵跡」(中央右)と平山城部の最高所にある「天球丸跡」(左上)の大きな石垣が見えます。「天球丸跡」の石垣から球体の「巻石垣」がわずかに覗(のぞ)いています。ちなみに、「巻石垣」は、「天球丸」の石垣崩落を防止することを目的に、江戸時代の終わり頃に築かれた球面の石垣で、国内唯一の大変珍しいものだそうです。
 
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走り櫓跡」に移って「天球丸跡」の石垣をもう一枚撮影
 
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「天球丸跡」の石垣が目の前に・・
 
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「表門(表御門)跡」(左下の白い標柱がある場所)
 
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「走り櫓」から「菱櫓跡」を振り返りました。
 
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「二の丸」内に仮設された石垣修復用の石材置き場
 
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(続く)

2016年10月23日 (日)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 「鳥取城跡」(その1)

鳥取駅の西側を通過したところで国道53号から県道192号へ左折すると、前方に小山が現れ、「鳥取城跡」の交差点名表示がありました。今年3月、観光客に分かりやすいよう、「鳥取森林管理署」から変更されたようです。
 
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堀に架かる「宝珠橋(ほうじゅばし)」を渡って鳥取城の駐車場へ向かおうとしましたが、鳥取城跡(実際は県立博物館)の専用駐車場(19台)が満車であるとして、交通整理をする人の指示で、内堀沿いの道路脇に白線で指定された駐車スペース(お堀端駐車場、24台)に車を停めました。対岸に鳥取城跡の全景が見えます。ただし久松山(きゅうしょざん、標高263m)の頂にある「山上ノ丸(天守)跡」は雲に覆(おお)われていて見えません。ちなみに、外堀(惣掘)は江戸時代初期に開削された人工河川の袋川です。
 
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ひときわ高い石垣は「御三階(三重櫓)跡」でしょう。
 
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「鳥取城」は、但馬(たじま)の山名氏と同族の因幡(いなば)山名氏によって、天文14年(1545年)に久松山(きゅうしょうざん、標高263m)に築かれた山城で、後に近世的な山の下に城郭(じょうかく)が築かれました。

 

その鳥取城は織田信長配下の羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)となり、戦国史でも類を見ない悲劇の場となりました。同じく秀吉が行った播磨の三木城に対する兵糧攻めを上回る徹底したもので、毛利方は飢餓者(きがしゃ)が続出したため城主であった吉川経家(きっかわつねいえ)は切腹して開城することになりました。
 
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江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入って近世城郭が整備されました。1943年(昭和18年)の鳥取大地震で天守台の石垣などが崩壊しましたが、その後、石垣を中心とした復元整備が行われていて、天守台・復元城門・石垣・堀・井戸などを見ることができるそうです。
 
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左手の「宝珠橋」へ戻ると、橋の袂(たもと)に童謡「ふるさと(故郷)」の歌碑がありました。長野県出身の国文学者・高野辰之(たかのたつゆき)作詞、鳥取県出身で東京音楽学校(現東京芸大)教授の岡野貞一作曲による文部省唱歌です。ちなみに、2人が作った曲には、「春が来た」「春の小川」「朧(おぼろ)月夜」「紅葉(もみじ)」などがあります。
 
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「宝珠橋」を渡って緩(ゆる)やかな上り坂(登城路)を進みます。
 
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左手の掘
 
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内堀の右手に架かるのは「大手橋
 
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北ノ御門」は慶長の大改築前は大手門でしたが、改築後には搦手(からめて、裏)門とされました。
 
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その先、右手に「仁風閣(じんぷうかく)」(国重要文化財)がありました「仁風閣」は鳥取藩主であった池田仲博侯爵によって鳥取城跡の扇御殿跡に建てた別荘で、フレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺の2階建ての建物です。2階からは、徳川末期に11代藩主・池田慶栄(よしたか)の未亡人・宝隆院のために造られた「扇御殿」の池泉回遊式日本庭園の「宝隆院庭園」(昭和46年/1971年に整備)と唯一残された建物「化粧の間(現宝扇庵)」が一望できるそうです。
 
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「仁風閣」の先には「鳥取城」の案内看板と、
 
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突風で倒壊したため昭和50年(1975年)に復元された「中仕切門(西坂下門)」がありました。気がつけば、雨足がカメラに写るほどに強まって・・。
 
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門の先には長い石段が続いています。
 
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2つ続く石段を上がると広場に出ました。この「右膳(ぜん)の丸跡」は城代・高木右膳の屋敷があったことから名付けられたそうです。
 
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眼下には「仁風閣」の庭と「第4号久松緑地」と鳥取市の街並みが続いています。ちなみに、右端に写るのは「仁風閣」と向かい合う「県立博物館」の前庭です。
 
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後方の立派な野面積(のづらづ)みの高石垣は走櫓(はしりやぐら)と土塀があったという「二の丸」のものでしょう。昭和18年(1943年)の鳥取大地震(M7.2)で大きな被害を受けましたが、地元の努力により修復されたそうです。
 
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石垣が張り出している辺りは「二の丸裏御門」(手前)と「御三階(三重櫓)跡」(その奥)のようです。
 
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同行者が左手の「登り石垣」脇にある石段を見つけました。
 
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(続く)

2016年10月22日 (土)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 姫路から鳥取へのドライブ

鳥取地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 
                          ☆
 
国道372号を東進し、花田ICから播但連絡有料道路に入りました。山陽姫路東ICを通過。しばらく高速道路の紹介写真が続きますので、興味がない方はスキップしてください。
 
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豊富ランプ(ハーフICを通過
 
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鳥取まで103kmの地点を通過
 
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福崎IC(福崎料金所)から中国自動車道(下り)に入って夢前(ゆめさき)スマートインターチェンジを通過
 
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前方には車線規制区間があるようです。
 
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道路の改修工事が中央の2車線(追い越し車線)で行われているのか、片側一車線に規制されていました。
 
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今度は下り車線が封鎖され、上り車線を使った片側1車線(対面通行)に変わりました。
 
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車線規制はまだ続いています。
 
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佐用(さよう)JCTが近づきました。
 
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鳥取自動車道(略称:鳥取道、無料)に入ります。
 
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佐用本線料金所を通過して鳥取道をを北上しました。
 
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塩谷(しおたに)トンネル(長さ310m)
 
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フロントガラスに小さな雨粒が・・
 
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鳥取県に入りました。中国山地の沖ノ山に源流を発する千代川に沿って北上する鳥取道の智頭(ちず)南ICを通過します。雨足が強くなりましたが、車の通行量が少ないため、運転に支障はありません。ちなみに、鳥取県との県境に近い岡山県の西粟倉ICから鳥取県の智頭(ちづ)ICまでの区間は鳥取道の代替区間である自動車専用の志戸坂(しとざか)峠道路です。
 
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篠坂(しのさか)トンネル(長さ1362m)
 
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用瀬(もちがせ)第3トンネル(長さ1402m)
 
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千代川に八東(はっとう)川が合流すると鳥取南ICが近づき、左手に狭隘(きょうあい)な地を流れる千代川(せんだいがわ)が見えます。ちなみに、千代川の沖積(ちゅうせき)平野である鳥取平野の扇状地はこの先から始まっているようです。
 
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下味野(しもあじの)トンネル(長さ814m)のすぐ先にある鳥取ICを出て国道29号へ向かいます。前方に鳥取平野が広がりました。
 
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鳥取IC入口交差点を右折
 
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千代川の支流と本流を渡り、国道29号を左折して国道53号に入りました。
 
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(続く)

2016年10月21日 (金)

山陽と山陰についての考察

山陽と山陰の名称はそれぞれ「山の南」と「山の北」を意味し、地理的に見れば中国山地の南側と北側ということができます。(注、中国の陰陽説に基づく考え) 行政区でいえば、律令時代の「五畿七道(ごきしちどう)」の「山陽道」と「山陰道」で、江戸期と明治以降では、国境(兵庫県南部の播磨・丹波と北部の但馬、山口県南部の周防と北部の長門)および岡山・広島と鳥取・島根の県境に受け継がれました。

 

近畿に属する兵庫県を除く山陰と山陰を総称して「中つ国」(中国)と呼んだのは平安時代に成立した延喜式(えんぎしき)による分類(近国・中国・遠国)です。つまり、天皇の在所であった京都市の御所に近い律令制度における山城国・大和国・摂津国・河内国・和泉国(現在の京都府南部・大阪府・奈良県・兵庫県の一部)を畿内、その周辺部(丹波国・近江国・伊賀国・伊勢国・紀伊国・播磨国)を含めて近畿地方と呼ぶのに対して、それ以遠の地方を中国・遠国としたことによるようです。
 
ちなみに、現在は失われた呼称ですが、近畿地方の東にある地方(関東地方より西の静岡県・山梨県・長野県・富山県)も中国に分類されていたそうです。また、「近淡海」(ちかつおうみ)と呼ばれた琵琶湖と「遠淡海」(とおつおうみ)の浜名湖を呼び分けたのと同じ発想です。同様に「近つ飛鳥」(大阪府羽曳野市)と「遠つ飛鳥」(奈良県明日香村)の呼称例もあります。

 
                                 ☆

 

ついでに中国地方における戦国時代の主な武将を概観(がいかん)しましょう。(出典: 戦国武将ゆかりの地を巡る

 

中国地方で最大の戦国大名となった毛利氏は、鎌倉幕府草創(そうそう)の名臣である大江広元の四男季光(すえみつ)を祖とする一族で、戦国時代に安芸国(あきのくに)に土着して国人領主として勢力を拡大しました。そして、毛利元就(もとなり)の時代に領地を最大化させ、中国地方のほぼすべてを支配にすることなります。

 

毛利元就が家督(かとく)を継(つ)いだころ、周防国(すおうのくに、現山口県南東部)の守護大名大内義隆に仕えながら、小早川(こばやかわ)家と吉川(きっかわ)氏に実子を養子に出したことで安芸(あき)一国の支配権を獲得。義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)に討たれると、元就は晴賢を討ち、また尼子氏(あまごし)を滅ぼすと、嫡男隆元に家督を譲って隠居しました。

 

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、戦国武将で備前国岡山城主。豊臣秀吉の正室高台院(ねね)の兄である木下家定の五男として誕生し、4歳のとき秀吉の養子となった後、13歳のときに、秀吉の命で、嗣子(しし)のなかった小早川隆景の養子となりました。

 

尼子義久(あまごよしひさ)は、出雲地方(現島根県)を領した戦国大名で月山富田城主(現島根県安来市)。尼子氏は、宇多源氏(うだげんじ)である京極氏(きょうごくし)の分家で、出雲守護だった京極氏の関係で出雲へ下り守護代となり、出雲地方に勢力を伸ばした一族です。家督を継いだころ、尼子氏は毛利氏と石見(いわみ)大森銀山(現島根県大田市)の覇権(はけん)を巡って先代が争っていましたが、毛利氏に攻められて次々と城が落ちるなか主城月山富田城も包囲されたため、義久は開城を決意し、毛利氏の客分となり大名としての尼子氏は滅亡しました。

 

宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前国(現岡山県東南部)の戦国武将で、岡山城主(現岡山県岡山市)。秀吉の鍾愛(しょうあい)の養女豪姫(前田利家四女)を正室に迎え、秀吉の一門衆として遇されることになりました。秀吉の死後、秀家は関ヶ原の戦いにおいて西軍の副大将として西軍の主戦力となりますが、西軍が敗退したため薩摩国(現鹿児島県)の島津氏を頼りましが、家康のもとに送られ、流された八丈島で死去しています。

 

源氏の一門である守護大名(室町時代に任国を支配した軍事指揮官・行政官である守護)の山名氏は但馬と因幡の2家に分裂して弱小戦国大名となり毛利の支配を受けるなか、因幡(いなば、鳥取県東部)の鳥取城は信長の命をうけた秀吉による第一次鳥取城の戦いでは1か月の籠城の後に降伏し、秀吉に臣従しました。毛利方が鳥取城を奪還して第二次鳥取城の戦いが起こり、悲劇的な結末が待ち受けることになります。但馬の山名氏も秀吉に攻められ、有子山城が落城して滅びました。

 

戦国時代の山名氏の祖先である山名宗全(そうぜん)は、応仁の乱における西軍の大将で、山陰道の但馬・因幡・伯耆・石見と山陽道の備後・安芸・播磨・美作における守護として絶大な勢力を誇りました。その他の有力守護大名には、東海・北陸の斬波(しば)氏、近畿の畠山氏と細川氏、静岡の今川氏、近江の六角氏などがあります。ちなみに、兵庫県の竹田城は源氏の一門(新田庶流)で室町時代の但馬守護大名山名宗全(そうぜん)の命(あるいは自身)によって築城されました。
 
                                ☆

 

最期に、地名の由来をいくつか紹介します。奈良時代の鳥取は久松山付近に湖や沼が多く、そこで鳥(オオハクチョウ)を捕獲する鳥取部(ととりべ)が住んでいた鳥取郷が江戸時代に鳥取藩の名に採用されたことによるようです。

 

隣の島根県は隠岐(おき)の島を近くに見られる場所である島根郡(現在の松江市)が県名に採用されたものです。島根半島の地形が島状の嶺みね、ね)、つまり高くなった場所であったことによるとする説と、ともに岩礁(がんしょう)を意味する島と根を重ねて海岸線が凸凹した場所を指すという説などがあります。

 

領地の拡大したのにともない1590年に宇喜多秀家が建設した新城の本丸と天守閣を築いた場所が岡山と呼ばれる小さな丘であったことから、新城は岡山城と名付けられました。それにより地名も「岡山」となりました。

 

「姫路」の名は、播磨国(はりまのくに)風土記(ふどき)が記(しる)す神話で、蚕子(ひめこ、ひめじ)が流れ着いた「日女道丘」(ひめじおか)、つまり姫路城のある姫山、であるとされます。地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築いたことから、城下町が姫路と呼ばれたそうです。

 

米子の名の由来ははっきりしませんが、米子市のhpには昔話が引用されています。『長者夫婦には跡継ぎがないことで、賀茂神社に子を授かりたいと願ったところ、奥さんが88歳の時に子ができ、「伯耆(ほうき)」と名付けたそうです。八十八の子、つまり米子と賀茂の里を呼ぶようになった』 とのこと。88歳を米寿と呼ぶことと同じです。

 

松江の地名の由来についても諸説があるそうです。その主なものは、『松江城を築いた堀尾吉晴が、松江の風景が湖面に美しく映えるところと鱸(すずき)や蓴菜(じゅんさい)を産するところが似ている中国浙江省(せっこうしょう)の淞江府(ずんこうふ)から命名した』、別の説では堀尾義晴の家臣である小瀬甫庵(おぜほあん)、または円成寺開山春龍和尚の命名とするようです。

2016年10月19日 (水)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」の続編 TKG専門店「たまごや」と「好古館」(後編)

「やくしまはぎ(屋久島萩)」はマメ科ハギ属の落葉小低木で、7月から10月にかけて小ぶりの濃い紅紫色をした蝶形の花をたくさんつけます。
 
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「やまぼうし」(みずき科)の赤い果実は食用になるそうです。
 
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「だんぎく(段菊)」はクマツヅラ科の多年草
 
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「はまなす(浜茄子)」(ばら科)の果実(ローズヒップ)は食用または食用油として利用されるようです。
 
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「御屋敷の庭」を巡り終えても大天守閣の姿は確認できません。作業をしていたスタッフに尋(たず)ねると、木の葉が生い茂っているシーズンには見えないことと、他に2-3の日本庭園からも姫路城がみえることを教えてくださいました。

 

次いで向かったのは「苗の庭」を通り抜けた「茶の庭」です。黒田官兵衛ゆかりの「築城用播磨釜」が「双樹庵」(茶席)にて展示されている旨が立て看板に説明されています。
 
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「御屋敷の庭」脇から続く広い道に出て、左手に折れたところには「流れの平庭」が
 
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おだやかな水の流れがある庭園で、流れの岸辺に四阿「流翠亭(りゅうすいてい)」がありました。注、四阿(しあ)の阿は棟の意味で、寄棟構造の屋根、つまり東屋(あずまや)のこと
 

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「夏木の庭」へ移ります。夏木(落葉樹)を配し、新緑から紅葉まで季節感にあふれた庭園です。四阿「鷺望亭(ろぼうてい)」から「姫路城天守閣」を望むことができるそうですが・・。
 
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隣の「松の庭」は赤松林をイメージした庭でした。南隣にある「花の庭」はスルーして、立派な長屋門を出ます。
 
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長屋門の斜め向かいにある「築山池泉(つきやまちせん)の庭」の入口
 
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門をくぐると、黒松とモミジを配した日本庭園から西の丸の櫓を望むことができました。
 
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順路は「竹の庭」に続いていました。名前の通り竹を植栽した庭園で、漆喰(しっくい)の築地塀(ついじべい)の対比が山水画のようです。
 
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中央にある八角の和傘をイメージした四阿「聞竹亭(もんちくてい)」を取り囲んで植えてある竹は、「モウソウチク(孟宗竹)」「シホウチク(四方竹)」「ホテイチク(布袋竹)」「キッコウチク(亀甲竹)」「クロチク(黒竹)」「カンチク(寒竹)」です。ほとんど中国原産の竹ですが、「寒竹」だけは日本原産のようです。注、亀甲竹は孟宗竹の突然変異種
 
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「黒竹」の細い桿(かん、木の幹にあたる)は、はじめ緑色で、夏を過ぎるとだんだん黒くなり、2年ほどで真っ黒になるそうです。
 
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「御屋敷の庭」脇にある順路を姫路城三の丸の石垣へ向かって進みました。
 
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大天守閣を望むことができなかったことは残念ですが、多様な庭園を楽しんだあと、大手門駐車場の前まで戻りました。
 
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「内堀」越しに見る「三の丸」「西の丸」と「好古園」(左手)
 
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同じく「大手門」と「桜門橋」
 
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駐車場の利用時間が3時間(料金600円)を少し超えたため、利用料金は一日当たりの上限である900円でした。駐車場を出て気づきました。英語表記の案内標識は外国人観光客が多い姫路城ならではです。ちなみに、少し先にある白い塔はNTT西日本兵庫支店(姫路4号館)のマイクロ波用電波塔。
 
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次の目的地へ向かいますが、小休止に続いて、関連する参考記事を投稿する予定です。(続く)

2016年10月18日 (火)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」の続編 TKG専門店「たまごや」と「好古館」(前編)

昼食は姫路城の北約2。5km(姫路競馬場の先)にある「一徹らーめん」の名物「野菜ラーメン」(1日10食限定)あるいは具たくさんの「一徹ラーメン」にしたかったのですが、定休日が月火水であるため諦(あきら)めました。その代案として選んだのが、桜門橋の向かい側、家老屋敷公園内の「はの屋敷)にある玉子かけご飯専門店「たまごや」(大正4年創業)です。同行者が予約のために記帳中。
   
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10分ほど待って店内に案内されました厨房が半分ほどを占めるため、客席にはカウンター4席と4名掛けテーブル4卓が細長く配置されています。同行者は店一番のお勧めメニュー「玉子かけめし」(580円)を、私は「寅(とら)巻玉子の穴子めし」(1380円)を注文。ちなみに、前者はご飯と玉子のお代わりが自由です。注文を取ってくれたホール担当スタッフと厨房で料理を作るスタッフは皆女性のようで、切れ目のない客の注文に追われて忙しそう。5分ほど待ちました。
 
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醤油漬いくら・博多めんたい・牛肉しぐれ煮・カマンベールCHEESEなど7種類あるトッピング・メニューから選んで追加することもできる「玉子かけめし」には予備の生玉子が5個もついていました。健啖家(けんたんか)であれば、ご飯を2-3杯お替りすればちょうど良いのかもしれませんが、少食家の同行者には・・。ちなみに、玉子と米は自社農場から直送されるとメニューに記載されていました。一口味見させてもらった「玉子かけめし」はバランスの良い味で、トッピングしない方が私好みです。
 
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「寅巻玉子の穴子めし」はご飯の上に玉子焼きと穴子2層になっています。ちなみに、「寅巻」の名は玉子焼きの切り口(焦げ目)をイメージして付けられたそうです。穴子はやや小ぶり。海苔(のり)がたっぷり入った赤味噌の味噌汁とお新香がついています。いずれもあっさりした薄味であり、ついご飯まで食べきってしまい、私にはボリュームたっぷりの昼食になりました。
 
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内堀に沿って西方へ300mほど歩いた「姫路城西御屋敷跡庭園(好古館)」にも立ち寄りました。1618年に造園された西御屋敷(武家屋敷)跡をベースに往時の白壁塀と主たる植栽の名を冠した9つの日本庭園が復元され、姫路城を望むことができる場所として知られます。入園料は大人300円ですが、姫路城の共通券はわずか40円アップですから、時間の余裕と日本庭園に興味がある方にはお徳用です。ちなみに、明治に入ると陸軍が管理するようになったそうです。
 
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受付を過ぎると木立に囲まれた散策路がありました。
 
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「シュウメイギク(秋明菊)」が一輪だけ咲いていました。ちなみに、花言葉は、儚(はかな)げな印象のまま、「薄れゆく愛」「忍耐」です。
 
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最初の日本庭園は一番大きな「御屋敷の庭」、姫路藩主の下屋敷があった場所
 
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白壁塀に沿う水路に清水が流れています。
 
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門をくぐったところには庭を眺めながら食事ができるレストラン「活水軒」がありました。
 
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建物のなかを抜けると静けさが漂う日本庭園へ
 
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渡り廊下は中秋の名月を眺めるベストスポットである「潮音斉」の「観庭台」へ続いています。
 
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大名屋敷らしい池泉回遊式庭園
 
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「観庭台」からは木立越しに「西の丸」の櫓がかろうじて見えます。
 
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振り返ると、池に面した「活水軒」が
 
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「こむらさき(小紫)」(別名:小式部)は、クマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木で、初夏に花が終わって紫色の小さな果実を結んでいました。ちなみに、音は一緒ですが、母親が好きだった島倉豊子さんのヒット曲「りんどう峠」で「姉サの小袖も濃紫(こむらさき)」と歌われている「濃紫」は、この「小紫」でも竜胆(りんどう)の花の色(青紫)でもなく、ムラサキ(紫草)の根(紫根)を用いて作った濃紫色の草木染液ことです。注、7年前の「秋の草花」の記事でも紹介
 
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(続く)

2016年10月17日 (月)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(最終回)

右手に立つ「帯の櫓 腹切丸」の案内標識に気づきました。
 
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左側のこの建物を指しているようですが、立ち入りはできないようです。
 
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前方に「りノ門」が見えます。小さな高麗門ですが、隣接する「太鼓櫓」と一体となって守りを固めているようです。この門は解体修理中に軒天井板の裏面から「慶長四年」の墨書きが見つかったことから、池田輝政時代以前に建てられたことが判明した建物です。つまり、前述した木下家定が建てた門と思われるそうです。
 
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「上の山里丸(二の丸)」にある「お菊井」へ出ました。
 
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怪談話で知られる「播州(ばんしゅう)皿屋敷」に登場するお菊さんゆかりの井戸です。江戸・番町を舞台とする有名な「番町皿屋敷」は江戸中期の歌舞伎・浄瑠璃(じょうるり)「播州皿屋敷」をベースに、その後、講談「番町皿屋敷」となり、大正5年(1916年)には岡本綺堂(きどう)によって戯曲化されています。
 
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元となった「播州皿屋敷」のシナリオは、『戦国時代の姫路城主であった小寺則職(こでらのりもと、藤兵衛)の家老であった青山鉄山がお家乗っ取りを企てていることをお菊が知ったことで、お菊は家老の恨(うら)みをかうことになる。一計を案じた家老の手下が家宝の皿の一枚を隠し、これをお菊の責任としてお菊を責め殺してこの井戸に投げ込んでしまう。以来、夜になるとお菊の亡霊が現れ、皿を数える声が聞こえた』 というものです。注、小寺則職が御着城(ごちゃくじょう)へ移ったあと、小寺氏に仕える黒田官兵衛(孝高)の祖父・黒田重隆は姫路城代となり、父・職隆(兵庫助)は一番家老(姫路城代)となり、官兵衛も後(あと)を継(つ)いでいます。

 

ちなみに、この「上の山里丸」に建物や庭などが造られた記録は残っておらず、その目的ははっきりしないそうです。

 

「備前丸」の石垣
 
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保存修理工事中の「りの一渡櫓」と「りの二渡櫓」は「上の里山曲輪」の西端にあり、「チの櫓」と「ぬの門」を接続する渡り櫓で、「備前丸(本丸)」南西の重要な固めとして配置された建造物の一画を担うと説明されています。工事予定チャートには来年2月ころまでの工程(解体工事・木工事・屋根工事・左官工事など)が表示されていました。
 
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「大天守閣」の保存修理ほど大規模ではありませんが、その時と同様に見学用ブリッジから工事中の様子を間近に見ることができます。ちなみに、工事が始まる前の櫓には、「官兵衛歴史館」(無料)として、官兵衛にまつわる資料や太刀・甲冑(かっちゅう)などが展示されていたようです。
   
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展示されている明治時代・昭和時代・平成時代における「大天守の鯱瓦(しゃちがわら)」はなぜか鰭(ひれ)のデザインが微妙に異なります。全部で11個もある「大天守の鯱瓦」は時代を反映して徐々に繊細に、つまり荒々しさが無くなっているようです。これらは昭和の大修理に際して、もっとも古い貞享4年(1687年)製鯱瓦(一種類)をコピーした新しい鯱瓦と交換されたそうです。本来は、神社の狛犬と同様、「鯱瓦」は「阿吽の形(あうんのぎょう)」(雌雄)で一対とされていたのですが・・。
 
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「にノ門」と同様、柱、冠木などはすべて鉄板で覆われている強固な「ぬノ門」を出ます。しかも、櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっており、上から2段構えの攻撃ができるように工夫されています。また、門の外に石垣が見えるように、折れ曲がった簡単な枡形になっていました。ちなみに、左手の石垣にあるという「鏡石」は、工事用シートに覆(おお)われているため、見ることができません。
 
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先を行く人たちが撮影していたのは、「備前丸」の二段石垣だったようです。下段は秀吉時代の自然石をそのまま使う野面(のづら)積みで、上段は算木(さんぎ)積みで積み上げられており、角部分が「扇の勾配(こうばい)」と呼ばれる美しい曲線を描いています。
 
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「ぬノ門」の外にある「扇の勾配」
 
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「をの門跡」(左の石垣)を抜けます。左後方へ折れた場所にひっそりと存在する「るの門」(埋門)は国宝「姫路城」(その2)で触れた天守へ至る最短コースなのです。つまり、敵兵が「菱の門」を突破して「いの門」へ向かうところを、横合いや後ろから急襲するための通路であり、逆に敵が「るの門」の存在に気づいた場合には内側に狭い階段があるトンネル状の「るの門」を容易に石で埋められる構造になっているそうです。
 
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「二の丸」へ出ました。右前方に「ろの門」が見えます。 
 
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井戸の脇を左に折れ、「いノ門」を経由して「菱の門」を出たところで見かけた「黒田官兵衛ゆかりの石垣」の案内表示にしたがって左手の坂道を上がると、「上の山里丸」の下へ出ました。
 
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案内看板には、『秀吉は築城に当たって、もっとも頼りとする重臣であり、地元の事情に精通している黒田官兵衛に普請(ふしん)を命じたことから、現存する羽柴期の石垣は黒田官兵衛ゆかりの石垣と考えられます』 と説明されています。
 
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正面からは判別しにくのですが、左手の「チの櫓」方面を見ると、二段石垣であることがよく分かります。その特徴は、『自然石(野面石)を使った「布積み崩(ぬのづみくず)し」で、隅角部稜線が不揃(ふぞろ)い・低い石垣を二段石垣で補い、間詰石は主に川原石を使用、転用材を多用している』 だそうです。注、「布積み崩し」は自然石を横積みし、横目地が長く通らない石垣の様式
 
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登城口で待っていた同行者と合流すると、同行者は知人に姫路城の土産を買いたいと脇にある土産物店へ入るといいます。店内には「姫路城」の名がある菓子や小物類が多数ありましたが、すぐあきらめてしまいました。少し先にある「西の丸茶屋」も覗(のぞ)きましたが・・。

 

もと来た道を戻って、桜門橋から城外へ出ました。
 
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(続く)

2016年10月16日 (日)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その7)

いよいよ大天守閣の最上階(6階)へ上がります。
 
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多数の観光客が滞留しているため大変な混雑です。望楼型天守の特徴である回縁は室内に取り込まれていいますが、開放的な連窓から眺望が楽しめました。1階で見た西方の景色は一階で見た時よりも立体的な(俯瞰し)ものに変わり、「西の丸」(中央から左手にかけて)がまるで縮尺模型のようです。そして、「西の小天守」(右下)、「にノ門」(その左上)や「はノ門」(その左手)の複雑な配置を俯瞰(ふかん)することができます。
 
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南方向も同様です。「備前丸」の下(先)にある「二の丸・上の山里」に石柱で円形に囲まれた井戸のようなものが確認できます。「お菊の井戸」でしょう。ちなみに、右手前は保存修理工事が行われている「りの一渡櫓(いちわたりやぐら)」と「りの二渡櫓」で、左手前は「りノ門」でしょう。左端には内掘も。
 
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視線を少し右手へ転じると、「りの一渡櫓」の右手に「菱の門、その右手に「西の丸」、その手前に「三国掘」が少しだけ見えます。
 
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目の前にある鬼瓦には意外にも「五七の桐」の家紋がありました。(その5)の「水二門」で紹介したように、豊臣秀吉の正室「寧々(ねね)」の兄、木下家定の家紋です。その下に少しだけ写っているのは池田家の家紋「揚羽蝶(あげはちょう)」のようですから、この鬼瓦は意図的に置かれたと思われます。
 
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調べてみると、姫路城の大天守には複数の家紋が描かれた鬼瓦が使われていることが分かりました。五重屋根隅棟部と四重屋根隅棟部には「揚羽蝶」、五重屋根降棟部には「五七の桐」、四重屋根唐破風降棟部には「三七の桐」、などです。これまでの私の知識では、『織田信長は「五つ木瓜(いつつもっこう)」を正式な家紋としたが、揚羽蝶(平氏の紋)や足利義昭から拝領した「五三の桐」なども使っており、その「五三の桐」を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に与えた』 というものでしたが、何と池田家では「桐の家紋」も使われていたそうです。ちなみに、「桐の紋」は天皇家の家紋(菊に次ぐもの)でしたが、足利尊氏が譲り受けてからは武士の社会で名誉ある家紋として広まったそうです。

 

最上階の中央北寄りに祀(まつ)られる長壁(おさかべ、刑部)神社は、姫路城が姫山に築かれる以前より、姫山にあった「小刑部(おさかべ)宮」という地主神を姫路城の守護神として祀(まつ)ったものといわれているそうです。姫路市では有名な神社とのこと。
 
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6階の平面図には長壁神社とともに、「幻の窓」の説明があります。『壁面すべてに窓が開けられる予定でしたが、途中で設計が変更され、四隅の壁を塞(ふさ)いだことがわかりました』 と説明されています。平面図にあるQRコードを使って調べると、『360度解放された窓の四隅を塞いで壁にした理由はわかっていません。(中略)また、姫路城築城当時、伊賀上野城の天守を倒壊させるほどの大風雨が西日本を襲ったことに対処したのかもしれません』 と補足説明されていました。
 
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最上階だけは書院風に造られていました。回廊の天井と埋木をされた左右の長押(なげし)にある釘の頭を隠す「六葉釘隠し」を撮影。
 
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内堀の先に見える建物は、市立美術館(左手前)、姫路東校と姫路北高(左)、姫路医療センター(中央)、カトリック淳心会本部とミッションスクール(右)です。
 
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美しく修復された屋根瓦
 
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鯱瓦を撮影していませんが、混雑する最上階から1階まで下りました。これは下り(降閣)ルートにある「1階の平面図」です。「石落とし」「六葉釘隠し」「筋交(すじかい)の説明があります。
 
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暗い地下1階の順路脇にある「西大柱」 注、フラッシュ撮影を控えたため「西大柱」と表示された照明パネルは露出オーバーで黒い文字が白飛びしている
 
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同じく「流し」
 
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「水六門」から大天守閣を出て、「水四門」を抜けます。
 
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「水三門」を出ると、順路は登城ルートとは慣れ、左手へ折れました。階段を下りて「備前丸」に出ます。ちなみに、左端に見えるのは「はノ門」から「にノ門」へ向かう途中に行き当たった天守を守る「ほノ門」から続く石垣です。
 
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その石垣の先(右下)に「菱の門」と「西の丸」が見えます。池田時代には石垣に櫓と長局が建っており、強固な防備策が施されていたそうです。
 
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巨大な石垣の上に「大天守閣」と「西小天守」が堂々と聳(そび)えている絶景を「備前丸」(本丸)の中央から楽しみました。なお、「水三門」からの下閣ルートは「西小天守」の石垣脇(左下)にほんの少しだけ写っています。
 
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ちなみに、「備前丸」は池田輝政が姫路城を築城した時、藩主自身とその家族のための居館を立てた場所です。ちなみに、備前丸の名前は次の本多家の時代になって付けられたもので、それ以降は「三の丸」に居館が設けられたため、「備前丸」の居館は取り壊されたようです。

 

「備前丸」の西端にある巨大な榎(えのき)の脇には池田輝政の居館跡の標柱があり、その先には井戸があります。
 
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「備前丸」を横切り、その東端にある「備前門」を出ると、石垣に縦長の四角い石がはめ込まれていることに気づきました。これは古墳に埋葬されていた石棺(せっかん)の身で、築城の際に石垣に転用されたものです。
 
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「備前門」の左側、本丸の石垣にも横長の「石棺」はありました。その石垣に沿って直線的に長く伸びる下城道が続きます。
 
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(続く)

2016年10月15日 (土)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その6)

「西小天守」「乾(いぬい)小天守」と「大天守」の位置関係を示す図には、「大天守」と「西小天守」が「水五門」の上にある「二ノ渡櫓」で、「西小天守」は「ハの渡櫓」で「乾小天守」につながっていることが示されています。また、小天守と渡櫓の解体作業により、羽柴秀吉が築いた三重天守の旧材がこれらに転用されていることが判明したそうです。
 
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城下町の復元模型
 
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大天守閣の東にある狭くて
急な階段を経由して「搦手(からめ)口」へ出られる「とノ一門」(櫓門)は、漆喰(しっくい)の塗り壁ではなく、姫路城では珍しい素木(しらき)造りの門です。秀吉が姫路城を造営する時、姫山の北約4kmのところにあった赤松氏の置塩城(おきしおじょう、おじおじょう)から移築したものではないかといわれているそうです。ちなみに、左手に伸びるのは「腰曲輪」にある防御用の「多門櫓」です。
 
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順路にしたがい、大天守の大廊下(武者走り)を左回りに進みます。
 
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靴が入ったビニール袋を提(さ)げて2階へ上がりました。写真では分かりにくいのですが、開き戸タイプの蓋(ふた)がついています。
 
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順路を進みます。右側の高い場所に用具掛けが設置されています。
 
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出格子窓からは眼下に、本丸の一郭(いっかく)である「備前(びぜん)丸」と「二の丸・上の山里丸」「三の丸広場」が見え、その先には「家老屋敷跡公園」から山陽本線の姫路駅までの街並みを確認することができます。
 
   
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 「大天守閣」の2階中央にある「武具庫」
 
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2階の平面図
 
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3階へ上がります。
 
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内陣(大広間)は天井が高い広い板の間で、奥に「内室(うちむろ)」があります。また、右端の階段は石打棚(用具を掛ける台)へ上がるためのもののようです。
 
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「東大柱」は地階から5階の天井まで通されているそうです。
 
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3階の平面図には、「武者隠し」の内部が2階建てになっていることと、収納場所である「内室)」のことが説明されています。
 
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「西大柱」の周囲をU字型に折り返す階段の踊り場から見た「東大柱」。ちなみに、「西大柱」は途中で接(つ)ないであるそうです。
 
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4階の平面図
 
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4階は、内陣と武者走りの区別がなく、石打棚(用具を掛ける台)が設置された窓は高い位置にあるため、外を見ることは困難です。
 
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千鳥破風内には2階の千鳥破風と同様、屋根へ出られる開き窓があります。
 
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5階へ
 
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5階の平面図
 
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(続く)

2016年10月14日 (金)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その5)

「にノ門」(櫓門)を潜って「二の丸乾曲輪」へ向かいます。狭い通路の先にある「にも門」は門柱・冠木(かぶき、横木)・大戸・くぐり戸まで一面鉄板で覆(おお)われており、中の通路が右に折れ曲がった鉄壁の防御を誇っています。中に入ると天井が低く、階上の床板を外せば、櫓の上階から侵入する敵を攻撃できる構造になっているそうです。
 
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生垣に沿う順路は姫路城の中核部へ向かいます。前方には「乾小天守」「ロの渡櫓」「東小天守」が並んでいました。
 
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その先にある「ほノ門」は石垣上の土塀の一部を切り欠いた埋門(うずみもん)であり、「にノ門」と同様に門柱・冠木・大戸が総鉄板張りになっており、しかもは冠木が極端に低く、上り階段になっていおり、多数の敵兵が速やかに侵入することを難しくする備えがあります。ちなみに、右上にあるのは「油壁」と呼ばれる高さ2.8mの漆喰土塀(しっくいどべい)より硬(かた)い防御用の壁とのこと。ちなみに、軒瓦は松平家の「三つ巴」。
 
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石段を上がった「腰曲輪」から見上げた「乾(いぬい)小天守」(右)と「ロの渡櫓」(左)です。ちなみに、「腰曲輪」は天守の腰の部分にあたることから付けられた名前です。注、乾は北西の方角を指す
 
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その脇、天守の石垣(左)と「油壁」の間(少し奥まった場所)に「水一門」がありました。両側の鏡柱に冠木(かぶき)を渡して切妻屋根をかけただけの簡単な棟門です。籠城した時に、「ほノ門」を入った北側にある「ロの渡櫓(多門櫓)」内にある井戸から水を運ぶことになるため、天守の入口までに続く6つの門に水の名が付けられたそうです。また、このエリアは「水曲輪」とも呼ばれるそうです。
 
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「水一門」を入って左に折れました。写真は振り返って見た「水一門」と「油壁」です。
 
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天守の石垣が一部だけ金網で保護されています。案内看板には、『「姥ヶ石」(うばがいし)は石垣の間詰(まづ)め石として積まれたもので、羽柴秀吉にまつわる伝説がありますが、実際は池田輝政(てるまさ)が築いた石垣です』 と説明されています。
 
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水二門」(胸門)は天守の石垣と「二の櫓」(本来は三の櫓)の間にある幅が約3mと狭い門です。奥に「水三門」が見えます。ちなみに、「水一門」からは緩(ゆる)やかな下り坂になっていました。
 
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その軒瓦(のきがわら)の装飾は「水一門」と同様、池田家の家紋「揚羽蝶(あげはちょう)」ですが、秀吉の時代に姫路城主であった木下家定(豊臣秀吉の正室「寧々(ねね)」の兄)の家紋「七五の桐(きり)」に似た「三七の桐」も混在しています。
 
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「乾小天守」(左)と「ハの渡櫓」(右)
 
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「水三門」はさらに小さな門で、扉の横幅は1.5mほどしかありません。これも石垣の一部を切り抜いた埋門です。
 
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「西小天守」脇の上り坂と石段の先(右手)に天守閣の入口があるようです。
 
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「水四門」の先には左手へ向かう石段が控(ひか)えています。
 
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さらに左に折れた「水五門」の手前には仮設通路が設けられていました。上部が鉄パイプと金網で覆われていて見にくいのですが、「水五門」の上部(櫓の部分)は大天守と西小天守をつなぐ2階建ての「二の渡櫓(わたりやぐら)」になっているそうです。
 
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左に折れた場所にある「水六門」から西小天守の地階を経由して天守閣に入ります。ここで履物はビニール袋に入れて携行する必要がありました。このように登閣ルートは複雑ですが、簡略化すると「乾小天守の脇を抜けたあと「西小天守」をほぼ周回する「数字の9」に似た形をしているのです。
 
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「西小天守」と繋(つな)がる「ハの渡櫓」にある幅が狭くて急な階段で1階へ上がります。
 
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「小天守」(1階)の窓から見た西方向の景色です。「水二門と「水三門」の間の順路」(手前)、「にノ門」(右端)、そして「化粧櫓」「ろノ門」「はノ門」(中央)、「百間廊下」(左)を一望することができます。さらに、「百閒廊下」の先には「姫路城十景」のビュースポットに登録されている「景福寺公園」の木立が見えます。
 
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「二の渡櫓」を経て大天守の地階から1階へ上がりました。北方向には「腰曲輪」の「多門櫓」の先に「シロトピア記念公園」(ふるさとの森、1989年シロトピア博跡地)の緑地は広がっています。こちらも「姫路城十景」のひとつです。
 
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「平成の大天守閣保存修理」の案内看板には、『昭和の大修理から約半世紀が過ぎ、屋根や壁面の破損劣化が進行したため、平成21年(2009年)から約6か年計画で本格的な保存修理工事を開始した』 ことが修理工事の経緯とともに説明されています。

 
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大天守閣の縮尺骨格模型(展示)
 
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(続く)

2016年10月13日 (木)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その4)

化粧櫓(けしょうやぐら)の張り出した石垣の上、三方を土塀で囲まれた場所は「武者溜(だま)り」です。千姫のために建てられた化粧櫓には無粋な備えですが、「西の丸」にはかつて本多忠刻(ただとき)の居館があったため、北門に取りつく敵兵を射撃できる構造となったとされます。
 
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「はノ門」(左下)と「にノ門」に続く櫓(その奥)の右後方には「大天守」と「小天守」(乾・西とも三重三階)を望むこともできます。ちなみに、「西の丸」の「北入口門跡」から直接「はノ門」へ行く道はありますが、通行が制限されていました。
 
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狭間(さま)がある「西の丸の土塀に沿って歩きます。
 
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「菱の門」越しに見る「大天守」と「小天守」
 
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「西の丸」を出て「三国掘」に「天守閣」への順路を進みます。
 
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「菱の門」の中にある門は櫓と同様、「いろは順」に名前が付けられています。これは最初の「いノ門」(高麗門)です。ちなみに、軒瓦の家紋は池田家の「揚羽蝶(あげはちょう)」です。
 
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井戸は城内の安全な水源として必須で、姫路城には内曲輪(うちくるわ)だけで33か所の井戸があったそうです。注、現在は11か所が残っている
 
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直進して「ろノ門」(高麗門)へ向かいます。右手の「お菊井戸」方面から多数の観光客が出てきますから、下城コースが井戸の脇で合流するようです。
 
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「ろノ門」の右手には「二の丸」の石垣が高く聳(そび)えています。
 
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「ろノ門」を入ると、石段の順路は二手に分かれます。左へ進むと「西の丸」へ向かうルートですが、向かうのはもちろん右手の「天守閣」方面です。
   
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北入口門跡の先に先ほど出てばかりの「化粧櫓」が確認できます。「西の丸」と同様、こちら側にも立入禁止(通行止)の表示があります。
 
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坂道に沿って狭間(さま)のある「はノ門南方土塀」が続いていました。「ろノ門」を突破しようとする敵兵を前方および右上方から狙撃するためでしょう。また、右端に写る土塀は「はノ門」から「はノ門南方土塀」まで続いています。
 
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ちなみに、この坂は松平健主演のテレビドラマ「暴れん坊将軍」シリーズに、江戸城内のシーンとして度々登場することでもよく知られています。
 
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はノ門」は強固な櫓門の2階部分は石垣ではなく1階部分の太い柱で支えられています。これは敵に攻められたときは事前に周囲の石垣を崩して門の内側を石で埋めてしまうためだそうです。
 
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「はノ門」の土台に使われている基礎石(案内看板の左)は六角形の石灯籠の基礎石を転用したものであると説明されています。
 
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「二の丸乾曲輪」の石垣に沿って歩きます。
 
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石垣の上に見える建物は「にノ門」のようです。
 
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ヘアピンカーブのように行って来いで折り返す順路の先に次の門が見えました。
 
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やはり、「にノ門」です。
 
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(続く)

2016年10月12日 (水)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その3)

坂道を上がって南入口門跡から西の丸庭園(中書丸御殿跡)に入りました。前方に見えるのは南東の隅櫓(すみやぐら)である「カの櫓」です、順路は右に折れています。百間廊下(西の丸長局)を経由して化粧櫓(化粧の間)へ向かうことにしました。
 
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こちらは南西の隅櫓「ワの櫓」です。その左手の土塀に設けられた柵のようなものは石落としです。
 
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振り返って見た大天守と2つの小天守
 
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ここも順路に従います。
 
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「百間廊下」の案内看板には、『百間廊下(西の丸長局)は長さが約300mもある長屋で、建物内は城外側が廊下、城内側が部屋になっています。このうち、ヨの渡櫓(わたりやぐら)には廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいました。これが長局(ながつぼね)で、西の丸御殿で働く女中の澄んだ部屋とみられます。防衛能力を強化するため、廊下には金属と漆喰(しっくい)で強化された格子窓、鉄砲で攻撃するための狭間(さま)である「銃眼」、石落としがいくつも設けられています。』 と説明してあります。
 
「ワの隅櫓」脇に「百間廊下」の観光客用の入口がありました。
 
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姫路城とその城下の変遷が説明されています。ちなみに、黒田孝高(官兵衛)が秀吉に献上した城はもともと赤松氏の一族、小寺氏が城主であった御着城(ごちゃくじょう)の支城で、小寺氏の家老であった父の後を継いで官兵衛は城代になっていました。詳しくは「播磨灘物語の記事」を参照してください。

 

こちらの説明には、『「百閒廊下」は「ワの櫓」から「化粧櫓」までの約240mと説明されています。2階建ての櫓と櫓の間は、渡櫓(わたりやぐら)と呼ばれる長屋で結ばれている、別名多門櫓(たもんやぐら)と呼ばれます。(以下略)』 とあり、外にあった案内看板とは長さが異なります。
 
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「千姫ゆかり」とは、重要文化財の化粧櫓が徳川秀忠と江(崇源院)の長女として生まれた千姫の休息所として造られ、千姫に仕えた侍女たちが居た場所を百間廊下(西の丸長局)と呼んでいることによります。

 

「トの櫓」地下から出土した巴文(ともえもん)の軒瓦(のきがわら)は黒田氏時代かそれ以前のものとみられるそうです。
 
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池田家、本多家、松平家、酒井家など徳川時代における歴代城主の説明パネル群の間に下り階段がありました。閂(かんぬき)が架けられています。
 
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上り階段がありますから渡櫓に入るようです。
 
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タの渡櫓」の窓から見た天守
 
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「播州姫路城図(大絵図)」は縄張りと建物の詳しい平面図で、左下の「西の丸御殿」、中央下の「向屋敷」の池、右下には掘に囲まれた「東曲輪(出丸)」も描かれています。
 
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「廊下の大戸」の内側は女性の住んでいたところなので、頑丈な大戸を毎夜閉ざして厳しい守りをしていたと説明されています。
 
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「廊下の大戸」を過ぎると、廊下の脇に小部屋が並んでいました。注、振り返って撮影
 
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小部屋のひとつにある「防御のしくみ」の説明看板には、『掘りや土塁で城下町全体を囲む総構(そうがまえ)を築き、内堀・中堀・外堀が螺旋状(らせんじょう)に廻(めぐ)り、堀で区画された3エリアをそれぞれ内曲輪・中曲輪・外曲輪としました。籠城戦(ろうじょうせん)のときは、兵士の数に応じて螺旋状の堀沿いに効率的に配備できるようになっています。』 と簡潔に説明されています。
 
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「伝統の技術」では、耐久性の高い屋根瓦、継手(つぎて)・仕口(しくち、しぐち)による木組、外観の美しさと防火性・保湿機能に優れた漆喰(しっくい)、野面(のづら)積み・打込み接(つ)ぎ・切り込み接ぎの三種類ある石垣がパネルで説明されています。
 
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狭間(さま)には木枠が嵌(は)められています。
 
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「カの櫓」を経て二層の化粧櫓(けしょうやぐら)に入りました。急な階段を上がると、畳を敷いた2間(15畳敷き+3畳分の床の間、18畳敷)があり、その先(窓側)の明るい部屋(6畳敷)には百人一首をして遊ぶ2人の女性(にんぎょう)がいました。千姫と女中でしょう。ちなみに、千姫が本多家に嫁ぐときに将軍家からもらった10万石の化粧料で建てられたため、この名前があるようです。
 
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「化粧櫓」を出たところで、「百閒櫓」を振り返りました。
 
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ちなみに、私は利用しませんでしたが、城内の各スポット(大手門・三の丸広場(御殿)・西の丸・にの門・はの門・大天守)ではスマホやタブレット用専用の[姫路城大発見アプリ」を使うことでAR(拡張現実)とCG(コンピューターグラフィックス)を活用した解説サービスが始まっているようです。(続く)

2016年10月11日 (火)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その2) 

大手門を抜けた三の丸広場(向屋敷跡)の先に大天守(だいてんしゅ)と2つの小天守(こてんしゅ、手前の西・奥の乾)が現れました。姫路城の場合は3重の螺旋を描くような曲輪構造の縄張(約500m四方の内曲輪は階郭式)となっています。注、大天守の右後方に東天守があり
 
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「姫路城」は1993年(平成5年)に法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録されました。「昭和の大修理」から45年が経過したことで行われた「平成の大修理」(2009年6月から2015年3月までの5年半、事業費24億円)で大天守の補修工事(白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強など)が行われて、「白鷺城」とも呼ばれる純白の美しさが甦(よみがえ)りました。
 
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左手に進んで、右の向屋敷跡と左の武蔵野御殿跡の間にある順路(登城口跡)を進むと、姫路城シルバー観光ガイドの立て看板がありました。
 
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連立式望楼型の大天守が先ほどとは違う雰囲気が感じられます。その手前は保存修理工事が行われている「りの一渡櫓(いちわたりやぐら)」(右手前)と「りの二渡櫓」(その左)です。
 
 
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広い順路を歩く観光客の後について進みます。前方に入城ゲートがあるようです。
 
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右手の小さな小屋が気になって近づくと、
 
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姫路城大天守大柱展示場でした。
 
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中には交換された天守閣の旧西大柱が
 
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国宝姫路城案内図によると、U字型の通路の先端部近くにいるようです。迂回(うかい)したのは三の丸広場でした。反対側の通路は改修工事のため通行が禁止されています。
 
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前方に入城券販売窓口が見えました。
 
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姫路城(国宝・世界文化遺産)の入城料は大人が1000円 注、好古館との共通券は1040円
 
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緩やかな坂道である枡形(ますがた)の先に櫓門(やぐらもん)である「菱(ひし)の門」が見えました。
 
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「菱の門」越しに見る大天守と2つの小天守
 
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いよいよ姫路城で最大の門である「菱の門」から姫路城の中核部に入ります。鏡柱(かがみばしら)に「国宝姫路城」と書いた看板が掛かっています。鏡柱が支える太い梁(はり)である「冠木(かぶき)」の左右に「菱の紋」が彫られていることが名前の由来だそうです。2階には装飾を施した窓があります。中央は黒漆塗りに金の飾り金具で装飾を施した三連の格子窓、その左右にはこれも黒漆に飾り金具の釣鐘型の窓があります。これは「華燈窓(かとうまど)」と呼ばれるもので小天守にもあるそうです。ちなみに、内部は「菱の門」を突破しようとする敵兵を攻撃する兵士が控えるスペースとのこと。
 
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振り返ってみた「菱の門」
 
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門の横には阿外側からも見えた防御用の狭間(さま)があります。
 
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江戸時代の姫路城の偉容が描かれています。ちなみに、現在地は中央のやや左寄り(天守の左下)にある三国掘の左手です。
 
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直進すると二の丸を経由する通常コース、右折すると「るの門」を経由する大天守への最短コースですが、左手の坂道を上がって西の丸を経由する欲張りコースを選びました。石段の一番下にある正方形の石が西の丸南門跡と説明されています。
 
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「武者溜(たま)り」へ上がる石段です。「武者溜り」は土塀(どべい)でほぼ正方形に囲まれた兵士を一時的に駐屯させる場所です。「菱の門」前の枡形にせり出した土塀の「狭間(さま)」から「菱の門」へ向かう敵兵を攻撃する兵士のための場所と説明されています。
 
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(続く)

2016年10月10日 (月)

「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」(その1)

近畿の名城巡りを終えた3日後に山陽と山陰地方(まとめて中国地方ともいう)の名城と城址を5か所訪れることにしました。当初は9月下旬の飛び石連休中の平日である20日と21日の一泊二日の予定でしたが、台風16号が20日に四国と近畿地方を直撃するとの予報が出されため、急遽1日延期して、台風16号が通過するのをひたすら待ちました。そして、台風16号は紀伊半島を横断中の午後3時ころ、大阪府に最接近したようですが、風雨は懸念したほど強いものではありませんでした。

 

台風一過の朝、名神高速道路から吹田JCTで中国自動車道に入り、西宮山口JCTを直進しました。3日前に逆方向に走ったルートです。
 
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この日は神戸JCTで山陽自動車道にそれ、
 
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三木SAを通過しました。
 
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午前10時には山陽姫路東ICを出て、
 
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播但連絡有料道路脇の幅の狭い市道を経由して花田西交差点を右折して国道372号に出ました。
 
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市川に架かる新小川橋から前方に姫路城が見えました。注、姫路市は旧播磨(はりま)国ですから山陽道に属していたが、現在は近畿に含まれる
 
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二本松交差点を左折、ついで案内標識にしたがって大善町(だいぜんちょう)交差点を右折し、
 
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姫路城公園に到着し、
 
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ほぼ満車状態の大手門駐車場に車を停めました。約100km(所要時間1時間強)の距離です。駐車料金は3時間以上(1日)が900円。ほかに姫山駐車場なども利用できるようです。
 
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駐車場の角にある横断歩道を渡って内堀へ向かいます。
 
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駐車場に隣接する家老屋敷跡公園内には「いの屋敷」「ろの屋敷」「はの屋敷」が並んでいます。
 
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内堀沿いの広い通路を歩いて大手門へ向かいました。
 
 
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手前の橋は平成19年(2007年)に再建された桜門橋です。
 
 
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内堀と三の丸の石垣を撮影。ちなみに、内堀の外側を取り巻く中堀(武家屋敷の中曲輪を囲む)と外堀(城下町を囲む)は、外堀と内堀の役割を担っていた西側の船場川と城の北側と東側の中堀、東側の外堀はかろうじて残っていますが、城の南側の中堀(現在の国道2号)と外堀(姫路駅の北側)は道路化されたようです。注、北側の外堀は未完成
 
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大手門は昭和13年(1938年)に完成した高麗門(こうらいもん)で、壱や大きさは江戸時代のもの(三重の城門)とはまったく異なっていたと説明されています。つまり、桜門の奥に枡形を構成する桐二門と桐一門があったそうですが、今は2つ門と枡形の石垣はなく桜門だけになっています。
 
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大手門を警護するボランティア団体の「門番さくら組」たちは手持無沙汰のようです。姫路城にはこのほかに戦国武将隊「姫路城甲冑隊」(市民ボランティアの播磨甲冑倶楽部)がいるそうですが・・。ちなみに、名古屋城の「おもてなし武将隊」、「大阪城甲冑隊」(2015年12月解散)に出会ったことがあります。
 
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姫路城は、当ブログの記事「播磨灘物語」で紹介したように、赤松則村が砦を築いたのが始まりで、後に山名持豊の城になりましたが、応仁の乱で姫路城を陥落した赤松政則の一族である小寺氏から、その重臣の黒田孝高が城をあずかりました。
 

 

秀吉が毛利攻めの第一歩として攻めた三木城址年前の2011年10月に訪れています。羽柴秀吉の臣下となった黒田孝高(官兵衛)は中国攻略のため姫路城を秀吉に献上し、秀吉は三層の天守閣を築きました。関が原の戦の後、秀吉の重臣であった池田輝政が姫路城主(52万石)になり、城の大改築を始めました。 

 

池田氏が鳥取城へ移ると徳川家康の重臣・本多忠政が姫路城主(15万石)になり、三の丸、西の丸、そのほかを増築。次いで、松平・本多・榊原・酒井氏が城主になり、明治維新まで酒井氏が城を治めました。

 

つまり、西国統治の重要拠点として、羽柴秀吉・池田輝政・本多忠政が戦国時代から徳川時代初頭までの期間をかけて姫路城を拡張したことで、今見られる全容が整ったのです。(続く)

2016年10月 9日 (日)

リスク管理を考える

リスクとは、ある行動に伴(とも)って、あるいは行動しないことによって、「危険に遭遇する」こと、あるいは「予想通りにいかない可能性」を指します。つまり私たちは日常生活において、好むと好まざるとに関わらず、さまざまなリスクに囲まれているのです。例えば、交通事故に遭(あ)うのが怖(こわ)いからといって、自宅に引きこもっていても、地震や火災などによって人命に関わるリスクに遭遇することがあります。

 

すなわち、人は生きている限りリスクと無縁でいることはできませんから、如何(いか)にリスクを避けるか、あるいはリスクを軽減するかは、安全な生活を確保するために必要な知恵といえます。企業などの組織ではリスクマネジメント(組織的なリスク管理)が近年の会社法や日本版SOX法の施行によって従来以上に重視されていますが、本稿では個人レベルのリスク管理について考えることにします。

 

個人にとってのリスクにはどんなことが考えられるでしょうか。危険な添加物入りの食物を食べること、突然の雨に濡(ぬ)れること、火災の火元になる/もらい火の被害に遭(あ)うこと、友人と絶縁状態になること、病気を罹患(りかん)すること、交通事故に遭うこと、勤め先である会社が倒産すること、同じく業績不振で減給されること、仕事上のミスで左遷・降格されること、投資に失敗すること、などが容易に思い浮かびます。

 

これらのリスクを管理(制御)する手法には、「回避」「防止」「軽減」「分散・結合」があります。「回避」はリスクがともなう行為を行わないことであり、「防止」はリスクの発生確率を極力少なく(できればゼロに)すること、「軽減」はリスクが発生した場合の影響(損失)をできるだけ少なくすること(注、「防止」と同時に行われることが多い)、「分散・結合」はリスクを一か所に集中させない/逆にひとつにまとめることによって中和/集中的な対応を可能にすることです。

 

最初の3手法は自らが直面する(直面するかもしれない)リスクに対して容易に適用できるはずです。しかし、実践(じっせん)するとなると、意外にも難しいこと(後述)が多いようです。一方、4番目の手法を実践するには専門的な知識が必要ですが、金融資産を守るための「分散投資」と「一括管理」は分かりやすい例といえるかもしれません。上記した意外に難しい理由を考えると、前者は一見単純なように見えるため、自分に都合の良いように考えがちであり、後者は困難な判断を必要とすることが明らかであるため理性的な対応をしようとするためでしょう。

 

ここでは主として前者について考察します。「人は何ごとについても良い結果だけを考えてしまう(考えたいと願う)傾向」があります。このため、ものごとがうまく行かなくなると、「こんなはずではなかった」「うまくいかないのは自分以外(外的要因)のせいだ」「自分には運がない、自分にはこの仕事が向いていない」などと言い訳を考えてしまいます。つまり、天動説のように自分を中心に置いて事態(状況)を捉(とら)えて、地動説のように自分が他者(組織あるいは家族など)のために何ができるかということに考えが及ばないことが多いのです。

 

また視点を変えると、リスクを直視しないで「得られるメリット」「手短か(時間と労力の効率)」「楽しさ(誘惑)」に心を奪われる傾向があるとも言えます。例えば、「借金(ローン)で欲しいものを衝動的に買う」「金融機関に有利だと勧められて大金を投資する」「スピード運転で目的地に少しでも早く到着する」「必要な知識・技量を習得せず仕事に取り組む」「趣味に時間を奪われて夜更かしをする」「魅力的な異性に軽々しくのめり込む」「私的な行動をSNSでリアルタイムに発信する」などです。つまり、「安直に結果を得たい、快感・自己顕示欲を満たしたいという考え」がそういった行動をとらせるのです。
 
別の見方では、2日前の10月7日の午後10時からNHK Eテレで放送された「モーガン・フリーマン 時空を超えて」の最新番組「この世界は現実なのか?」で解説された科学的な検証結果、『人は自分については楽観的に考えるが、他人・社会・国に対しては悲観的に扱う傾向がある』  に私は首肯しました。都合の良いことを選別することは自分を守る術(すべ)として脳が供えた機能のひとつなのだそうです。

 

それでは、どうすれば良いのでしょうか。まず、「リスクの予兆を見逃さないこと」(予感を感じとり、それを無視しないこと)、次いで「問題が起きてしまう前に対応すること」がリスク管理手法の重要な初動対応だといえます。できれば、企業の事業活動におけるPDCAサイクル(計画・実行・評価・改善の循環行動)に準じる意識を持って、「見直し・対策行動」を絶えず行い続けるとさらに良いでしょう。

 

ただし、個人の場合は、堅苦しいPDCAサイクルではなく、「借金をしてまで買う価値があるものなのか?」「事故のリスクを取ってまで到着時間を早めたいのか?」「熱中する趣味は仕事を犠牲にして打ち込む価値があるのか?」と自問(C:評価)するだけで良いと思います。『何ごとにもリスクが存在する。それを意識してことに当たることが肝心(かんじん)である』 が今回の金言です。

2016年10月 7日 (金)

超高速名城巡り<近畿編③> 「竹田城」(最終回)

午後3時半前に「山城の郷」の駐車場を出発。国道312号を経由して和田山ICまで戻ったころで、また雨が降りはじめました。再登城を思い止まったのは良い判断だったようです。
 
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午後3時40分ころ、兵庫県丹波市と朝来市を結ぶ北近畿豊岡自動車道(国道483号、約70km、遠坂トンネルは有料)の和田山IC/JCTに入って春日方面へ向かいました。反対方向の八鹿氷ノ山(ようかひょうのせん)は養父(やぶ)市にあるIC(注、その先の豊岡市方面は工事中)です。
 
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対面通行の北近畿豊岡自動車道で兵庫県と京都府の境界に沿うように南東方向へ向かうと、前方に雨雲の塊(かたまり)が迫ってきました。
 
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遠坂トンネルは有料です。
 
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徐々に雨足が強まり、ついには土砂降りに
 
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午後4時ころ、丹波市の春日ICから舞鶴若狭自動車道(有料)に入り、大阪方面を目指します。
 
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相変わらず雨が降り続いています。
 
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前を走る車が跳ね上げる水しぶきで視界が悪いうえ、路面に溜()まった水が車体の下に当たるため、スピードを落とさざるを得ません。ついに、最高速度が50kmに制限されました。
 
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丹波篠山ICと三田西ICを通過し吉川JCTで中国自動車道に入って西宮北ICが近づくと、雨は小休止しましたが、西宮名塩SA付近から車が集中し始めました。3連休の中日であるためかもしれません。
 
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宝塚市の街並み
 
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大阪モノレールに沿って走り、その少路(しょうじ)駅脇を通過。
 
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右手に巨大な観覧車がありました。
 
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大阪府吹田市の万博記念公園「EXPOCITY 」内に今年7月にオープンした日本一の高さとなる全高123mの観覧車「REDHORSE OSAKA WHEEL」(レッドホース オオサカ ホイール)です。座席シート以外の床面に透明なガラスを採用したシースルー構造で、空中に浮かんだような雰囲気を楽しめるそうです。

 

午後5時20分ころ中国吹田ICに差し掛かるころにはまた渋滞が始まりました。吹田JCTで名神高速道路へ入るとまた強い雨が降りはじめました。
 
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日が沈む午後6時ころにおチビちゃんとコチビちゃんの家に到着することができました。自宅を出発してからの累計データは、走行距離798.5km、平均燃費25.3km/ℓですから、この日のドライブにおける数値を計算すると、走行距離344.7km、平均燃費24.6kmとなりました。
 
 
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 <同行者のコメント> 舞鶴城と福知山城は駐車場の車の中から見ただけでしたが、竹田城はテレビの旅番組で観て知っていましたから、旦那様と一所に見学しました。でも、生憎の雨のため足元が悪いうえ、天空の城ではなく、雲中の城だったことは残念です。今度は晴れた日にしてくださいね。雲海に浮かぶ竹田城を見てみたいですから。とはいっても、但馬牛バーガーはとても美味しかったです。

 
                          ☆

 

今回の「超高速名城巡り<近畿編>で紹介した舞鶴城址、福知山城、竹田城址の他にも近畿地方には名が知られる城址が多数あります。

 

当ブログではこれまでに、京都の二条城伏見城亀岡城址大阪城、滋賀県の彦根城安土城址坂本城址小谷城址長浜城址、そして兵庫県の三木城址、岡山県の高松城址、三重県の伊賀上野城城を紹介してきましたから、それ以外の6城址について概要を紹介しましょう。

 

最初は、本連載記事の初回で触れた京都府宮津市の宮津城址、細川藤孝(幽斎)の居城だった城です。太鼓門だけは移設されて現存していますが、その他の遺構はまったく残っていないようです。平成22年(2010年)に城壁復元工事が完成したそうです。

 

次いで、兵庫県篠山(ささやま)市にある篠山城は、1609年に徳川家康の命により、西国諸大名をおさえることを目的に築城されましたが、明治初期に唯一取り壊しを免(まぬが)れた大書院は、現存する木造住宅建築の中では破格の規模で、二条城の二の丸御殿に匹敵するほどの大きさであるそうです。

 

兵庫県明石市にある明石城は、1617年に徳川2代目将軍徳川秀忠より築城命令が下された明石城ですが、見どころは船上城より移築した「坤櫓(ひつじさるやぐら)」と伏見城から移築した「巽櫓(たつみやぐら)」だそうです。

 

和歌山市内中心部にそびえ立つ白亜の天主がある和歌山城は、1585年に豊臣秀吉の命により築城が開始されたといわれます。1909年に自然倒壊した大手門は再建され、石垣は改修、重要文化財の岡口門(1621年建造)などがあるようです。

 

また、「続々・奥の細道擬紀行」で触れた観音寺城は滋賀県近江八幡市安土町にあった山城で、国の史跡に指定されています。1335年に六角氏頼が築城したといわれ、残された虎口や石垣、石階段などから規模の大きさが分かるそうです。

 

最後に、兵庫県赤穂市にある赤穂城は浅野長直の指示によって慶安元年(1648年)から13年の歳月をかけて築かれた近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されています。別名は加里屋城と大鷹城。ちなみに、「忠臣蔵」の舞台の一つとして知られています。
 
次回、気分転換(箸休め)の記事を投稿したあと「超高速名城巡り」<山陽・山陰編>を連載する予定です。(終)

2016年10月 6日 (木)

超高速名城巡り<近畿編③> 「竹田城」(その5)

正門の標柱があります。北千畳に大手門(つまり城の正門)がありましたが、それは鬼門の北東にあたるため、後に南千畳側の門が正門と呼ばれるようになったのだそうです。注、南二の丸方面を振り返って撮影
 
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正門脇の石垣は大小さまざまな石を上手く組み合わせています。
 
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その中央にかなり大きな鏡石がありました。ところで、ハート形の石はどこにあるのでしょうか? ヒント: ひとつ前の写真で探してください
 
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南千畳の入口付近で、『夏草や 兵どもが 夢の跡』 と刻まれている句碑を見かけました。調べると、明治32年(1899年)に南千畳に建てられた芭蕉の句碑でした。建立者の気持ちは分からないでもないのですが・・。
 
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南千畳の中に入りました。
 
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南二の丸の石垣はライトアップされるようです。
 
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同行者は南千畳の中ほどまで進んでいます。
 
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雲間から近くの山が覗(のぞ)き始めました。
 
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南千畳内は立ち入りが制約されていて、見学順路はすぐ折り返すヘアピン状の順路になっています。
 
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南二の丸方面へ戻りました。二の丸の石垣の先に本丸と天守台の石垣がベールに包まれたように見えます。
 
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下山と帰路はいつも速い同行者は櫓跡の石垣脇にある坂道をどんどん下りて行きます。
 
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城郭を出た途端、ぬかるんだ土の階段が続いていました。
 
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どこまで続くのかと思うほど長い階段(直線距離で約80m、実長はその2倍?)をなんとか下りきり、先ほど(往路に)通過した舗装道路(料金所下のかなり下)に出ました。
 
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往きに同じ場所で撮影した竹田の街並みにはより低くなった雲が立ち込めています。
 
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下り坂はやはり楽に歩くことができます。
 
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自動車が通る道路へ出ました。右手の階段を上がり、映画のセットとして造られた山門をくぐると、第1駐車場に出るようです。
 
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天空バスを降りて竹田城跡へ向かってから約1時間が経過した午後2時40分過ぎに第2駐車場に到着。城域内の見学時間は30-60分とされますから、視界が悪く展望を楽しめなかったため、正味で30分弱と短めの城跡見学になりました。

 

午後2時45分に出発する「山城の郷」行の天空バスに循環ルートですから街中駐車場と竹田駅を経由して「山城の郷」向かいます。しかし、最初に停まった街中駐車場は降車専用ですから、停留所で待っていた数名の観光客は運転手さんから竹田駅まで歩いてから乗るように言われていました。私たちは「山城の郷」で「竹田城跡」へ向かうバスを待っている時に女性スタッフから「竹田城跡」の説明とともに天空バスの乗車停留所についても聞いていたため、ことの顛末(てんまつ)を理解できたのですが・・。

 

循環ルートを走る天空バスは次いで竹田駅に立ち寄ると、雨にもかかわらず、数名の客が乗り込んで来ました。
 
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「竹田城跡」を出発して約25分後、「山城の郷」に到着すると、1時間半前に同じ停留所を出発する時よりも「竹田城跡」(南千畳の石垣)がはっきり見えます。
 
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マーフィーの法則(注、皮肉あるいはユーモラスな経験則)そのままに、急に雲間から陽光が漏れ始め、
   
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西の空には雲の切れ間から青空が覗(のぞ)いていますから、「竹田城跡」でもう少し待てば良かったのかもしれません。マーフィーの法則的な表現をすれば、『山頂まで登った時に限って天気が悪くなる』であり、「三方五湖レインボーライン」と「伊勢志摩スカイライン」で体験したばかりです。

   
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そこで、もう一度「天空バス」に乗って竹田城跡へ戻ろうかと真剣に考え始めました。似た経験ですが、11年前に九州を横断するドライブ旅をした時、「阿蘇山頂」(火口近く)で強い雨に遭遇して止む無く下山し、同じ日の午後に再登頂して同行者の顰蹙(ひんしゅく)を買ったことがあります。今回はその二の舞を演じない(注、正しくは同じ失敗を繰り返さない)ため、その妙案の実行は断念しました。ちなみに、2年前にも小噴火中の阿蘇山に立ち寄っています。

 

そんなことを思案している私に構わず同行者は売店で土産物を選んでいました。
 
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(続く) 

2016年10月 5日 (水)

超高速名城巡り<近畿編③> 「竹田城」(その4)

本丸と天守台を目指します。
 
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到着した本丸(標高351m、高見殿跡)からもアーチ橋の「虎臥城大橋」が見えます。下を歩くのは本丸と天守台に立ち寄ったあと、南二の丸と南千畳を経由して下城する人たちです。
 
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竹田城後で最も高い天守台(標高358.7m)へ上がります。入城者が急増した3年ほど前には本丸と天守台への立ち入りが禁止されたことがあったそうですが、今春から両方とも開放されています。ちなみに、天守台の石垣は隅の部分が算木積みとなっています。
 
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天守台から見た南二の丸と南千畳
 
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近くの山が微(かす)かに見え始めましたから、天気が回復する兆(きざ)しかもしれません。左下に少しだけ見えるのは二の丸かもしれません。
 
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天守台から二の丸に下りました。
 
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本丸の端から、これまでに通過した北千畳・三の丸・二の丸を薄っすらと見ることができます。このように本丸と天守台から望むと、竹田城の縄張りは南北に長く、鶴が翼を広げたような郭(くるわ)配置であることが見て取れます。
 
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順路の指示にしたがって木製の階段を下りて二の丸へ引き換えします。
 
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そして、下城ルートに入りました。
 
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花屋敷へ向かう通路付近の石垣は傷んでいるようで、この通路を左に折れて向かう花屋敷への立ち入りは規制されています。注、花屋敷はさらに低い場所にあるため写真には写っていません
 
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本丸西側の通路から階段を下りて下り坂に入りましたが、雨はまだ降り続いています。
 
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櫓(やぐら)があったと思われる石垣は立ち入り禁止
 
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枡形(ますがた)を抜けます。
 
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南二の丸へ出ました。
 
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(続く)

2016年10月 4日 (火)

超高速名城巡り<近畿編③> 「竹田城」(その3)

観光者向けの通路は土嚢(どのう)の上にマットが敷かれ、表土が流出しないようにしてありますから、比較的に歩きやすくなっています。左手に大手門の標柱が見えますから、この先に枡形(ますがた)があるようです。右手の石垣は見附跡のようです。
 
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振り帰って来し方を撮影
 
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左に折れた通路は階段となって上へ続きますから、大手門を抜けて城内に入るようです。
 
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南北約400m・東西約100mの梯郭式山城である竹田城跡の石垣が折れ曲がった場所(大手口の枡形虎口)を抜けると右手に北千畳が広がっていました。注、「大手口」「北千畳」などには「跡」を付けるべきですが、煩雑(はんざつ)ですから、これ以降においても省略します

 

見附に近づいてみましたが、雲が低く垂れ込めているため、近くの山影も見えません。
 
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北千畳の縁(ふち)を左回りに歩くと、眼下に出城の観音寺山城があった観音寺山などが見えました。
 
 
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北端の角まで行くと円山川(まるやまがわ)に沿って続く国道312号と播但連絡有料道路のユニークなアーチ橋「虎臥城大橋」を眼下に望むことができました。ちなみに。円山川の川霧が「天空の城」を演出する雲海を生み出すのだそうです。橋の後方に見える横に長い山は大倉部山(標高692)。
 
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北千畳の西側から右手方向に「山城の郷」を見下ろせるはずですが、雲に覆(おお))われていました。しかし、北千畳のすぐ先にある三の丸の石垣(左)と本丸・天守台の石垣(右奥)、そして花屋敷(右端)の石垣はかろうじて見ることができます。そして、見学通路を歩く人たちが持つ笠の列が続いていることも。
 
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ちなみに、雲海に浮かぶ竹田城跡の写真は「竹田城跡公式ページ」「ファインドトラベル」のサイトと「但馬二千年桂」のサイトの「雲海シーン」と「あなたへ」で見られます。

 

三の丸(北側)の石垣
 
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竹田城跡の石垣は、大小さまざまな石材を組み合わせる「野面(のづら)積み」という石積み技法が使われており、近江(現、滋賀県)の穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団により築かれたと言われています。(出典: 竹田城跡公式ホームページ

 

北千畳から三の丸の枡形虎口(ますがたここう)を抜けます。ちなみに、左手の石垣は櫓跡です。雨足が写真に写るほど激しくなりました。
 
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三の丸(溜殿跡)を抜けて西側(山側)を歩くと、もはや足元以外はなにも見えません。
 
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食い違い虎口(二の門跡)を抜けて二の丸へ向かいます。
 
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二の丸の石垣へ上がる階段
 
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二の丸と本丸・天守台の間は往復する順路になっていました。
 
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以前は立ち入りが禁止されていた二の丸から右手に見えるのは南千畳(左)・南二の丸(中央)、そしてすぐ近くにある本丸(右)を展望しました。
 
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二の丸に続く順路を右手に進むと、前方に一段高い石垣が見えました。本丸と天守台のようです。
 
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(続く)

2016年10月 3日 (月)

超高速名城巡り<近畿編③> 「竹田城」(その2)

天空バスは「山城の郷」の駐車場を出て「竹田城跡」を目指しました。一般車両は進入禁止です。以前は「竹田城跡」の大手門跡前まで車で行けたそうです。しかし、この数年、観光客が増えたため、現在は「山城の郷」から先は「天空バス」あるいはタクシーを利用するか、徒歩で上がる必要があるのです。
   
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この日は強雨が降っているにもかかわらず、道路に出たところで歩行者を見かけました。その脇に「竹田城跡まで2.2km」の標識があります。
 
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「天空バス」は折れ曲がった舗装道路の急坂を登り、約7分で山の中腹に造られたた第2駐車場に到着。下山する人たちが列を作って待っていました。ここからは全員が徒歩で「竹田城跡」まで上がる必要があります。
 
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いったん下った第1駐車場(業務用)付近にある「0.9kmの標識」
   
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そして「竹田城跡」の写真も立てられています。その後ろにある立て看板には、『平成2年に映画「天と地と」の竹田城跡ロケで使用された山門がこの上で再現されています』 と書かれているようです。
 
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後で調べると、海音寺潮五郎が歴史小説「武将列伝」に次いで執筆した歴史小説「天と地と」(上杉謙信の物語)を映画化した「天と地と」(上杉謙信と武田信玄の戦い)に使われた春日山城を再現した巨大なオープンセットのうち、山門が第1駐車場に保存してあることを知りました。ちなみに、オープンセットが造られる様子を記録したビデオをこちらのサイトで見ることができます。

 

「竹田城跡周辺マップ」には「竹田城跡」とJR西日本・播但(ばんたん)線竹田駅周辺の城下町などが紹介されています。
 
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「竹田城跡まで0.7km」と表示されている地点から先は歩行者専用道路です。
 
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雨足が一段と激しくなりました。
 
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道がカーブする場所には落石と思われる巨大な岩が・・。
 
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下界が霞(かす)んで見えます。国道312号と円山川(まるやまがわ)の手前に見える家並み(いえなみ、やなみ)は竹田城の城下町跡のようです。山の中へ続く道は県道277号です。
 
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「竹田城跡大手門」まで残り300m地点
 
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「史跡 竹田城跡」の説明
 
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バス停を出発して15分後(700mほど歩いた場所)に、入城ゲート(料金所)がありました。ちなみに、入城料は大人が500円。
 
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その脇に竹田駅から徒歩で登る道(最短ルート)が合流していることに気づきました。
 
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竹田城跡イメージキャラクタ「たけじぃ」は古城山(虎臥山)を捩(もじ)ったようです。
 
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舗装路はここまでで、土がぬかるむ階段を上るようです。
 
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登り口にある石柱には「竹田城址 兵庫懸」と刻(きざ)まれていますから、戦前に建てられたもののようです。ちなみに、懸は県の旧字体であり、城址(じょうし)の址(建物の土台を意味)は戦後に制定された当用漢字に含まれなかったことから、その使用が制限された時期がありました。
 
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駐車場を出発して約20分が経過したころ、やっと竹田城跡の石垣が見えてきました。
 
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「竹田中学校 800m」の案内標識はかなり古そうです。
 
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順路以外は立ち入り禁止
 
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(続く)

2016年10月 2日 (日)

超高速名城巡り<近畿編③> 「竹田城」(その1)

三番目(最後)の城は朝来(あさご)市和田山町竹田にある竹田城(日本百名城のひとつ)で、数年前から雲海に浮かぶ「天空の城」として注目されています。訪れる観光客が多いと聞いて立ち寄りを控えていましたが、福知山城を訪れたついでに立ち寄ることにしました。

 

竹田城は但馬国守護大名山名持豊によって、1430年ころ、播磨・丹波の防衛のために築城されました。信長による毛利攻めの一環として行われた「竹田城の戦い」で、毛利方の山名氏が信長の命を受けた秀吉の弟、羽柴秀長に降伏・開城したため、秀長の部下が城主となりました。最後の城主となった守護大名赤松氏の流れをくむ赤松政秀の子、広秀は西軍側に与(くみ)して丹後の田辺城(舞鶴城)を攻めました。「関ヶ原の戦い」で西軍が敗れると、東軍の亀井茲矩(かめいこれのり)に懐柔され(東軍に寝返り)、茲矩の配下で西軍に所属した宮部長房(ながふさ)の因幡(いなば)鳥取城を落城させましたが、家康から鳥取城下の大火の責めを負わされて切腹。一説では茲矩が大火の責任を広秀に押し付けたとされます。慶長5年(1600年)に江戸幕府の方針で竹田城は廃城となりました。

 

正午になる直前に出発した福知山市から国道9号西進して兵庫県朝来(あさご)市を目指しました。また雨粒がフロントグラスに斑点(はんてん)を作りはじめました。福知山市夜久野町にあるJR西日本・山陰本線の下夜久野(しもやくの)駅前を通過。ちなみに、福知山駅と朝来市の和田山駅の間は国道9号が山陰本線とほぼ並行しています。
 
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山陰本線のガードをくぐります。
 
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第二大内川橋りょう
 
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国道9号は養父(やぶ)市を経て鳥取市へ向かいます。9年前に丹後半島を一周した帰路、この一本柳交差点を通過しています。
 
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一本柳交差点を国道312号へと左折すると北近畿豊岡同と播但連絡有料道路の和田山IC前に出ました。9年前はこの和田山ICから播但連絡有料道路に入りましたが今回は直進します。
 
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500mほど先の加都(かつ)交差点に竹田城跡の案内標識(3.5km)があり、それに従って県道136号へ右折。
 
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前方にローマの水道端に似た虎臥(とらふす)城大橋が出現しました。播但連絡道路のようですが自動車の姿はありません。
 
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「竹田城跡」と「山城の郷(やまじろのさと)」の案内標識に従って左折
 
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山城の郷」に近い第一駐車場(60台)は満車のようで、手前(下)の臨時駐車場へ誘導されました。午後1時少し前の到着です。兵庫県に入ったころから降り始めた雨足がかなり強くなっていました。
 
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雨が降るなかを長い階段を上がって「山城の郷」へ向かい、「竹田城跡」へ向かう天空バスの乗り場で時刻表を確認しました。
 
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次のバスは13:45(午後1時45分)発とあります。繁忙期は1日に18便(閑散期は9便)もありますから、待たされることはほとんどなさそうです。ちなみに、「山城の郷」から「竹田城跡」までの料金は片道150円です。竹田駅から乗車する場合は260円のようです。
 
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駐車場はたしかに満車のようです。
 
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それまでの時間を利用して館内のレストランで昼食を摂(と)ることにしました。昼時で混雑していたため10分ほど待ってカウンター席に案内されました。店内は狭く見えますが座敷とテーブル席が各45席ずつあるようです。人気急上昇の観光地らしく色紙が多数貼られていました。すぐ横の仕切り壁には阪神タイガースの真弓元監督、女優の酒井和歌子さん、元宝塚歌劇団・女優の真琴つばささん、俳優の平田満さんと三田村邦彦さんなどの色紙が飾られています。
 
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ちなみに、高倉健さんが主演し、遺作となった映画「あなたへ」(2012年公開)で、北陸(富山)から九州(長崎の平戸)まで旅をする途中、竹田城跡において倉島英二(健さん)が亡くなった妻・洋子(田中裕子さん)を回想しながら、ただ一人たたずむシーンが登場します。映画の予告編には一瞬だけ竹田城跡で開催された「天空の音楽祭」のシーンが登場します。

 

お品書きには雲海に浮く竹田城とその大手門の写真がありました。
 
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私は「但馬牛(たじまぎゅう)うどん」(980円)、同行者は「但馬牛バーガー」(ポテト・ドリンク付き、1030円)を注文。前者は但馬牛と出汁の味が良く、後者は表面がカリッとしたバンズとジューシーなパテがマッチした最良の選択(DELICIOUS BURGERの表示がある)で、いいずれも美味しく食べました。メンチカツサンドも魅力的でした。
 
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ちなみに、但馬牛(たじまうし)は、兵庫県産の黒毛和種和牛のことを指しますが、そのなかで格付け基準を満たしたものだけが但馬牛(たじまぎゅう)と呼ばれます。
 
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天空バスの「山城の郷」のりば(停留所)から古城山(標高353.7m、別名:虎臥山)の山頂に築かれた山城「竹田城址」の横に長く伸びた石垣(北面)を望むことができました。ちなみに、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれています。右手前に見えるのはイメージ作りのための見張り台でしょう。と思いましたが、実は「山城の郷」の散策路に設けられた展望東屋で、全部で3カ所あるようです。天候さえよければハイキングを兼ねて散策するもとも楽しそうです。
 
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天空バスはやや早め(午後1時40分過ぎ)に出発すると、急に雨足が強くなり、窓ガラスに水滴が・・。
 
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(続く)

2016年10月 1日 (土)

超高速名城巡り<近畿編②> 「福知山城」(後編)

本丸に残る豊磐井(とよいわのい)は深さ50m(城郭本丸内の井戸としては日本一の深さ)、井戸底は由良川の川床よりも深く、海面下7メートルに達していると説明されています。
 
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朝暉神社(あさひじんじゃ)は寛文9年(1669年)に初代藩主朽木稙昌(くつきたねまさ)が父の稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀った神社です。
 
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大天守(左)の右手には続櫓(つづきやぐら)と2層2階の小天守
 
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大天守は望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現したものとなっているそうです。こちら(東側)からは最上階が良く見えません。入口は右下にあります。
 
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「福知山市郷土資料館」となっている天守閣に入って、正面にある受付けで入館料(大人320円)を支払い、左手の階段を上がりました。
 
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一階に福知山城大鬼瓦(原寸大)が展示されています。
 
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展示案内には展示コーナー(城に関する資料や福知山地方の歴史・文化財)が詳しく説明されていますが、残念ながら内部は撮影禁止でした。
 
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最上階にある窓から福知山の市街地を一望できました。東方向は鬼瓦の先に由良川と福知山河川国道事務所のマイクロ波のアンテナ塔(左)、愛宕山(正面)、由良川の支流・土師川に架かる山陰本線の鉄橋が見えます。その手前にあるのは水道橋(あるいはガス橋)かもしれません。
 
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北方向の窓へ移動すると、小天守の先には城下通り(左)、音無瀬(おとなせ)橋(中央)、掘の水を制御する水門(右)が見えました。曇っていますから視界が良くありませんが、遠方には烏ケ岳(からすがたけ、標高536.5m)があり、左隣の山との間、約18km北方には鬼伝説で有名な大江山があるはずです。
 
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西方向の展望です。伯耆(ほうき)丸跡の伯耆丸公園(左)、市役所と福知山駅(中央)、赤白に塗り分けられたNTTの電波塔(右)、その後方は姫髪山(ひめがみやま、標高406.1m)です。かつて山頂に城があったともいわれる「丹波大文字」の送り火の山です。ちなみに、伯耆丸公園・市役所と本丸の間には二の丸があったそうですが、石垣と土が削り取られて、今は京都地方裁判所やマンションなどが建っています。
 
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南方向を見ると山陰本線(手前)の福知山駅から福知山線が出ている(始発駅である)ことが分かります。また、伯耆丸跡と内記丸跡が山陰本線の開通にともなって2つの独立した丘になったことを見て取れます。遠方の山並みは南隣の丹波市との市境のようです。つまり、福知山市は四方を山に囲まれた断層盆地(福知山盆地)なのです。
 
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下城ルートは、復元された釣鐘門(高さ7・3メートル、幅4・1メートル、奥行き2・5メートルの2階建て門と塀)をくぐり、石段を下りる最短のものでした。
 
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転用石(てんようせき)は石材不足を補うために近隣から集められた石塔・石仏・石臼などです。案内表示が石垣をさしているものと早とちりしましたが、転用石置き場が右手奥にあるという意味でした。
 
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駐車場に戻る途中に見かけた「福知山市全域案内図」には、右上に①二瀬川渓流、③元伊勢(内宮・外宮)、左上に②大江山、左端に⑤玄武岩公園、中央に④天寧(てんねい)寺、⑥長安寺、⑦三段池公園、⑧由良川、⑨福知山城、右下に⑩大原(おおばら)神社などの場所が表示されています。
 
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「ゆらのガーデンの案内図」にはショップとレストラン
 
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天気が悪化しはじめたことが気になります。先を急ぐことにしました。(続く)

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