« 「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」の続編 TKG専門店「たまごや」と「好古館」(後編) | トップページ | 「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 姫路から鳥取へのドライブ »

2016年10月21日 (金)

山陽と山陰についての考察

山陽と山陰の名称はそれぞれ「山の南」と「山の北」を意味し、地理的に見れば中国山地の南側と北側ということができます。(注、中国の陰陽説に基づく考え) 行政区でいえば、律令時代の「五畿七道(ごきしちどう)」の「山陽道」と「山陰道」で、江戸期と明治以降では、国境(兵庫県南部の播磨・丹波と北部の但馬、山口県南部の周防と北部の長門)および岡山・広島と鳥取・島根の県境に受け継がれました。

 

近畿に属する兵庫県を除く山陰と山陰を総称して「中つ国」(中国)と呼んだのは平安時代に成立した延喜式(えんぎしき)による分類(近国・中国・遠国)です。つまり、天皇の在所であった京都市の御所に近い律令制度における山城国・大和国・摂津国・河内国・和泉国(現在の京都府南部・大阪府・奈良県・兵庫県の一部)を畿内、その周辺部(丹波国・近江国・伊賀国・伊勢国・紀伊国・播磨国)を含めて近畿地方と呼ぶのに対して、それ以遠の地方を中国・遠国としたことによるようです。
 
ちなみに、現在は失われた呼称ですが、近畿地方の東にある地方(関東地方より西の静岡県・山梨県・長野県・富山県)も中国に分類されていたそうです。また、「近淡海」(ちかつおうみ)と呼ばれた琵琶湖と「遠淡海」(とおつおうみ)の浜名湖を呼び分けたのと同じ発想です。同様に「近つ飛鳥」(大阪府羽曳野市)と「遠つ飛鳥」(奈良県明日香村)の呼称例もあります。

 
                                 ☆

 

ついでに中国地方における戦国時代の主な武将を概観(がいかん)しましょう。(出典: 戦国武将ゆかりの地を巡る

 

中国地方で最大の戦国大名となった毛利氏は、鎌倉幕府草創(そうそう)の名臣である大江広元の四男季光(すえみつ)を祖とする一族で、戦国時代に安芸国(あきのくに)に土着して国人領主として勢力を拡大しました。そして、毛利元就(もとなり)の時代に領地を最大化させ、中国地方のほぼすべてを支配にすることなります。

 

毛利元就が家督(かとく)を継(つ)いだころ、周防国(すおうのくに、現山口県南東部)の守護大名大内義隆に仕えながら、小早川(こばやかわ)家と吉川(きっかわ)氏に実子を養子に出したことで安芸(あき)一国の支配権を獲得。義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)に討たれると、元就は晴賢を討ち、また尼子氏(あまごし)を滅ぼすと、嫡男隆元に家督を譲って隠居しました。

 

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、戦国武将で備前国岡山城主。豊臣秀吉の正室高台院(ねね)の兄である木下家定の五男として誕生し、4歳のとき秀吉の養子となった後、13歳のときに、秀吉の命で、嗣子(しし)のなかった小早川隆景の養子となりました。

 

尼子義久(あまごよしひさ)は、出雲地方(現島根県)を領した戦国大名で月山富田城主(現島根県安来市)。尼子氏は、宇多源氏(うだげんじ)である京極氏(きょうごくし)の分家で、出雲守護だった京極氏の関係で出雲へ下り守護代となり、出雲地方に勢力を伸ばした一族です。家督を継いだころ、尼子氏は毛利氏と石見(いわみ)大森銀山(現島根県大田市)の覇権(はけん)を巡って先代が争っていましたが、毛利氏に攻められて次々と城が落ちるなか主城月山富田城も包囲されたため、義久は開城を決意し、毛利氏の客分となり大名としての尼子氏は滅亡しました。

 

宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前国(現岡山県東南部)の戦国武将で、岡山城主(現岡山県岡山市)。秀吉の鍾愛(しょうあい)の養女豪姫(前田利家四女)を正室に迎え、秀吉の一門衆として遇されることになりました。秀吉の死後、秀家は関ヶ原の戦いにおいて西軍の副大将として西軍の主戦力となりますが、西軍が敗退したため薩摩国(現鹿児島県)の島津氏を頼りましが、家康のもとに送られ、流された八丈島で死去しています。

 

源氏の一門である守護大名(室町時代に任国を支配した軍事指揮官・行政官である守護)の山名氏は但馬と因幡の2家に分裂して弱小戦国大名となり毛利の支配を受けるなか、因幡(いなば、鳥取県東部)の鳥取城は信長の命をうけた秀吉による第一次鳥取城の戦いでは1か月の籠城の後に降伏し、秀吉に臣従しました。毛利方が鳥取城を奪還して第二次鳥取城の戦いが起こり、悲劇的な結末が待ち受けることになります。但馬の山名氏も秀吉に攻められ、有子山城が落城して滅びました。

 

戦国時代の山名氏の祖先である山名宗全(そうぜん)は、応仁の乱における西軍の大将で、山陰道の但馬・因幡・伯耆・石見と山陽道の備後・安芸・播磨・美作における守護として絶大な勢力を誇りました。その他の有力守護大名には、東海・北陸の斬波(しば)氏、近畿の畠山氏と細川氏、静岡の今川氏、近江の六角氏などがあります。ちなみに、兵庫県の竹田城は源氏の一門(新田庶流)で室町時代の但馬守護大名山名宗全(そうぜん)の命(あるいは自身)によって築城されました。
 
                                ☆

 

最期に、地名の由来をいくつか紹介します。奈良時代の鳥取は久松山付近に湖や沼が多く、そこで鳥(オオハクチョウ)を捕獲する鳥取部(ととりべ)が住んでいた鳥取郷が江戸時代に鳥取藩の名に採用されたことによるようです。

 

隣の島根県は隠岐(おき)の島を近くに見られる場所である島根郡(現在の松江市)が県名に採用されたものです。島根半島の地形が島状の嶺みね、ね)、つまり高くなった場所であったことによるとする説と、ともに岩礁(がんしょう)を意味する島と根を重ねて海岸線が凸凹した場所を指すという説などがあります。

 

領地の拡大したのにともない1590年に宇喜多秀家が建設した新城の本丸と天守閣を築いた場所が岡山と呼ばれる小さな丘であったことから、新城は岡山城と名付けられました。それにより地名も「岡山」となりました。

 

「姫路」の名は、播磨国(はりまのくに)風土記(ふどき)が記(しる)す神話で、蚕子(ひめこ、ひめじ)が流れ着いた「日女道丘」(ひめじおか)、つまり姫路城のある姫山、であるとされます。地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築いたことから、城下町が姫路と呼ばれたそうです。

 

米子の名の由来ははっきりしませんが、米子市のhpには昔話が引用されています。『長者夫婦には跡継ぎがないことで、賀茂神社に子を授かりたいと願ったところ、奥さんが88歳の時に子ができ、「伯耆(ほうき)」と名付けたそうです。八十八の子、つまり米子と賀茂の里を呼ぶようになった』 とのこと。88歳を米寿と呼ぶことと同じです。

 

松江の地名の由来についても諸説があるそうです。その主なものは、『松江城を築いた堀尾吉晴が、松江の風景が湖面に美しく映えるところと鱸(すずき)や蓴菜(じゅんさい)を産するところが似ている中国浙江省(せっこうしょう)の淞江府(ずんこうふ)から命名した』、別の説では堀尾義晴の家臣である小瀬甫庵(おぜほあん)、または円成寺開山春龍和尚の命名とするようです。

« 「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」の続編 TKG専門店「たまごや」と「好古館」(後編) | トップページ | 「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 姫路から鳥取へのドライブ »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/146335/64365922

この記事へのトラックバック一覧です: 山陽と山陰についての考察:

« 「超高速名城巡り」<山陽・山陰編①> 国宝「姫路城」の続編 TKG専門店「たまごや」と「好古館」(後編) | トップページ | 「超高速名城巡り」<山陽・山陰編②> 姫路から鳥取へのドライブ »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ